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[[ファイル:JGR-3900SL.jpg|thumb|200px|right|最初に投入されたラック式の3900形蒸気機関車]]
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[[File:Train entering the Usui Pass tunnel 1950s.jpg|thumb|200px|right|碓氷峠のトンネルに入る列車(1950年代)]]
[[File:Train entering the Usui Pass tunnel 1950s.jpg|thumb|200px|right|碓氷峠のトンネルに入る列車(1950年代)]]
[[鉄道]]においても碓氷峠を越えることは早くから重要視され、[[上野駅]] - [[横川駅 (群馬県)|横川駅]]間が[[1885年]]に、さらに[[軽井沢駅]] - [[直江津駅]]間が[[1888年]]に開通すると当区間が輸送の[[ボトルネック]]となり、東京と新潟の間の鉄道を全線開通させることが強く望まれた{{Sfn|倉田正|1979|p=68}}。なお、1888年から1893年にかけては[[碓氷馬車鉄道]]という[[馬車鉄道]]が[[国道18号]]上に敷設されていたが、輸送可能な量が少ない上に峠越えに2時間半もかかっていた{{Sfn|田島二郎|1998|p=11}}。当初の[[機関車]]の能力では[[粘着式鉄道]]にて通過困難な[[線形 (路線)#勾配|勾配]]があり、[[スイッチバック]]や[[ループ線]]などを設ける方法では対処できなかったため[[ラック式鉄道]]を模索し、視察した[[ドイツ]]の[[ハルツ山地|ハルツ山]]鉄道を参考にして[[アプト式]](アブト式)を用いることを提案した[[仙石貢]]と[[吉川三次郎]]のプランが採用された。この案では中山道沿いに線路を敷設するため資材や人員の運搬コストを低減できる一方で、最大で66.7 [[パーミル|‰]](= {{分数|1|15}}。約 3.8 度)という急な勾配になる。なお、この際に鉄道建築師長の[[ボーナル]]は[[和美峠]]や[[入山峠]]を通る{{分数|1|40}}程度の勾配の案を提示している{{Sfn|北河大次郎|2007|p=55}}。
[[鉄道]]においても碓氷峠を越えることは早くから重要視され、[[1885年]](明治18年)[[10月15日]]に[[鉄道省|官設鉄道]]横川線として[[高崎駅]] - [[横川駅 (群馬県)|横川駅]]間が、さらに[[1886年]](明治19年)[[8月15日]]か[[1888年]](明治21年)[[12月1日]]かけて[[軽井沢駅]] - [[直江津駅]]間が官設鉄道直江津線として順次開通すると当区間が輸送の[[ボトルネック]]となり、[[東京都]][[新潟県]]の間の鉄道を全線開通させることが強く望まれた{{Sfn|倉田正|1979|p=68}}。なお、1888年(明治21年)[[9月5日]]から[[1893年]](明治26年)[[4月1日]]にかけては[[碓氷馬車鉄道]]という[[馬車鉄道]]が[[国道18号]]上に敷設されていたが、輸送可能な量が少ない上に峠越えに2時間半もかかっていた{{Sfn|田島二郎|1998|p=11}}。当初の[[機関車]]の能力では[[粘着式鉄道]]にて通過困難な[[線形 (路線)#勾配|勾配]]があり、[[スイッチバック]]や[[ループ線]]などを設ける方法では対処できなかったため[[ラック式鉄道]]を模索し、視察した[[ドイツ]]の[[ハルツ山地|ハルツ山]]鉄道を参考にして[[アプト式]](アブト式)を用いることを提案した[[仙石貢]]と[[吉川三次郎]]のプランが採用された。この案では中山道沿いに線路を敷設するため資材や人員の運搬コストを低減できる一方で、最大で66.7 [[パーミル|‰]](= {{分数|1|15}}。約 3.8 度)という急な勾配になる。なお、この際に鉄道建築師長の[[ボーナル]]は[[和美峠]]や[[入山峠]]を通る{{分数|1|40}}程度の勾配の案を提示している{{Sfn|北河大次郎|2007|p=55}}。


[[1891年]][[3月24日]]に起工したが、急勾配でラック式鉄道を用いるには列車の推進力を受ける[[道床]]に十分配慮する必要があった。ボーナルはその対策として、大きなスパン<ref>建築物や橋等の構造物の柱間寸法。</ref>に従来よく使われていた[[鋼]]桁ではなく[[レンガ]]製の[[アーチ]]を用いている。また、工事中の1891年10月に[[濃尾地震]]が起きてレンガ造りの建造物が倒壊したことを受け、橋脚に石柱を組み合わせたりレンガを縦に積むなどの地震対策が採り入れられた{{Sfn|北河大次郎|2007|p=55}}。このような技術が評価され、[[碓氷第三橋梁]]などの一連の橋梁、[[トンネル|隧道]]などは[[1993年]]から年にかけて[[近代化遺産]]として国の[[重要文化財]]に指定されている<ref>{{文化遺産オンライン|191843|碓氷峠鉄道施設 第三橋梁}}など。</ref>。ただしアーチ部分の耐震性については効果は限定され、完成後の[[1894年]]6月の[[明治東京地震]]([[マグニチュード]]=7.0)ではアーチにひびが入り、同年から[[1896年]]にかけてレンガを巻き立てる補強が行なわれた{{Sfn|北河大次郎|2007|p=56}}。
[[1891年]](明治24年)[[3月24日]]に起工したが、急勾配でラック式鉄道を用いるには列車の推進力を受ける[[道床]]に十分配慮する必要があった。ボーナルはその対策として、大きなスパン<ref>建築物や橋等の構造物の柱間寸法。</ref>に従来よく使われていた[[鋼]]桁ではなく[[レンガ]]製の[[アーチ]]を用いている。また、工事中の1891年(明治24年)[[10月28日]]発生した[[濃尾地震]]レンガ造りの建造物が倒壊したことを受け、橋脚に石柱を組み合わせたりレンガを縦に積むなどの地震対策が採り入れられた{{Sfn|北河大次郎|2007|p=55}}。このような技術が評価され、[[碓氷第三橋梁]]などの一連の橋梁、[[トンネル|隧道]]などは[[1993年]]([[平成]]5年)から[[1994年]](平成6にかけて[[近代化遺産]]として国の[[重要文化財]]に指定されている<ref>{{文化遺産オンライン|191843|碓氷峠鉄道施設 第三橋梁}}など。</ref>。ただしアーチ部分の耐震性については効果は限定され、完成後の[[1894年]](明治27年)[[6月20日]]の[[明治東京地震]]([[マグニチュード]]=7.0)ではアーチにひびが入り、同年から[[1896年]](明治29年)にかけてレンガを巻き立てる補強が行なわれた{{Sfn|北河大次郎|2007|p=56}}。


=== ラック式鉄道時代 ===
このような経緯を経て、延長11.2&nbsp;kmの間に18の橋梁と26の[[トンネル]]が建設され、着工から1年9か月後の[[1892年]][[12月22日]]に工事が完了し、翌[[1893年]][[4月1日]]に官営鉄道中山道線(後の[[信越本線]])として横川 - 軽井沢間が開通した。碓氷峠を越えることから「'''碓氷線'''」、また横川軽井沢から「'''横軽'''(よこかる)」とも呼ばれる。<!--なお、当時の通常の[[蒸気機関車]]ではこの傾斜の登坂が困難であったが、その後技術の進歩により、[[京阪京津線]]は碓氷峠と同じ66.7 ‰(約3.8度)<ref>[https://web.archive.org/web/20060314225451/www.keihan-o2.com/st/k01.html 京阪電車大津線公式webサイトkeihan-o2.com 上栄町駅] (Internet Archive)</ref>、さらに[[箱根登山鉄道鉄道線|箱根登山鉄道]]は80 ‰(約4.6度)の勾配をラックレールなしで登坂している。←自分だけ登ればいい電車を、貨物や客車(勾配区間では非常に大きな負荷になる)を動かさないといけない機関車と一緒にしないでください。東武鉄道の日光軌道線なんかわざわざED40(ラック機能なし)で貨物列車(しかも登りは推進運転)運行してましたが、この路線を普通に電車は登っていましたよ?。-->

=== ラック式鉄道 ===
[[ファイル:JGR-10001-EL.jpg|thumb|200px|right|アプト方式ラック式の10000形電気機関車]]
[[ファイル:JGR-10001-EL.jpg|thumb|200px|right|アプト方式ラック式の10000形電気機関車]]
このような経緯を経て、延長11.2&nbsp;kmの間に18の橋梁と26の[[トンネル]]が建設され、着工から1年9か月後の[[1892年]](明治25年)[[12月22日]]に工事が完了し、翌[[1893年]](明治26年)[[4月1日]]に官営鉄道中山道線として横川 - 軽井沢間が開通した。当初は全区間が[[単線]]・[[非電化]]であり、中間に開設された熊ノ平給水給炭所で列車交換を行っていた。碓氷峠を越えることから「'''碓氷線'''」、また横川駅 - 軽井沢駅間を結ぶことから「'''横軽'''(よこかる)」とも呼ばれる。<!--なお、当時の通常の[[蒸気機関車]]ではこの傾斜の登坂が困難であったが、その後技術の進歩により、[[京阪京津線]]は碓氷峠と同じ66.7 ‰(約3.8度)<ref>[https://web.archive.org/web/20060314225451/www.keihan-o2.com/st/k01.html 京阪電車大津線公式webサイトkeihan-o2.com 上栄町駅] (Internet Archive)</ref>、さらに[[箱根登山鉄道鉄道線|箱根登山鉄道]]は80 ‰(約4.6度)の勾配をラックレールなしで登坂している。←自分だけ登ればいい電車を、貨物や客車(勾配区間では非常に大きな負荷になる)を動かさないといけない機関車と一緒にしないでください。東武鉄道の日光軌道線なんかわざわざED40形(ラック機能なし)で貨物列車(しかも登りは推進運転)運行してましたが、この路線を普通に電車は登っていましたよ?。-->
トンネルの連続による煤煙の問題から、乗務員の中には[[吐血]]や[[窒息]]する者も現れ{{Sfn|倉田正|1979|p=68}}、[[1911年]]に横川駅付近に[[火力発電所]]が設けら[[1912年]]には日本で最初の幹線[[鉄道の電化|電化]]が行われた。

電化により碓氷線の所要時間は80分から40分に半減し輸送力は若干増強された{{Sfn|田島二郎|1998|p=11}}が、輸送の[[ボトルネック|隘路]]であることは変わらず、「東の碓氷」は「北の[[板谷峠|板谷]]」、「西の[[瀬野八]]」などと並び、名だたる鉄道の難所として称された。


[[1900年]]に[[大和田建樹]]によって作成された「[[鉄道唱歌]]」第 4 集北陸編では、碓氷峠の区間は以下のように歌われている。
[[1900年]](明治33年)[[10月15日]]に[[大和田建樹]]によって作成された「[[鉄道唱歌]]」第4集北陸編では、碓氷峠の区間は以下のように歌われている。
* 19.''これより音にききいたる 碓氷峠のアブト式 歯車つけておりのぼる 仕掛は外にたぐいなし''
* 19.''これより音にききいたる 碓氷峠のアブト式 歯車つけておりのぼる 仕掛は外にたぐいなし''
* 20.''くぐるトンネル二十六 ともし火うすく昼くらし いずれは天地うちはれて 顔ふく風の心地よさ''
* 20.''くぐるトンネル二十六 ともし火うすく昼くらし いずれは天地うちはれて 顔ふく風の心地よさ''
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* ''吾妻はやとし 日本武(やまとたけ) 嘆き給いし碓氷山 穿(うが)つ隧道(トンネル)二十六 夢にもこゆる汽車の道 みち一筋に学びなば 昔の人にや劣るべき 古来山河の秀でたる 国は偉人のある習い''
* ''吾妻はやとし 日本武(やまとたけ) 嘆き給いし碓氷山 穿(うが)つ隧道(トンネル)二十六 夢にもこゆる汽車の道 みち一筋に学びなば 昔の人にや劣るべき 古来山河の秀でたる 国は偉人のある習い''


なお、「ア'''ブ(BU)'''ト」という表現は当時見られたものだが、語源はドイツ語なので現在の「アプト」の方が原語に近い。<!--アプト式はラック方式鉄道の一形式に過ぎず、ラック式鉄道をアプト式と呼ぶのは誤りである。←マーシュ式など他のラックレールを使っている路線を「アプト(アブト)式」と呼ぶなら間違いでしょうが、碓氷峠は実際アプト式のラックレールなのですから「アプト(アブト)式」でいいのでは? 別のもので例えるなら「マレー式は複式であり、ビッグボーイのような単式をマレー式と呼ぶのは誤り。」ならともかく「マレー式は関節式型の一形態に過ぎない、だから国鉄9800形蒸気機関車は関節式機関車であり、マレー式機関車と呼ぶのは誤り。」というのは変でしょう。-->
なお、「ア'''ブ(BU)'''ト」という表現は当時見られたものだが、語源はドイツ語なので現在の「アプト」の方が原語に近い。
<!--アプト式はラック方式鉄道の一形式に過ぎず、ラック式鉄道をアプト式と呼ぶのは誤りである。←マーシュ式など他のラックレールを使っている路線を「アプト(アブト)式」と呼ぶなら間違いでしょうが、碓氷峠は実際アプト式のラックレールなのですから「アプト(アブト)式」でいいのでは? 別のもので例えるなら「マレー式は複式であり、ビッグボーイのような単式をマレー式と呼ぶのは誤り。」ならともかく「マレー式は関節式型の一形態に過ぎない、だから国鉄9800形蒸気機関車は関節式機関車であり、マレー式機関車と呼ぶのは誤り。」というのは変でしょう。-->


[[1901年]](明治34年)7月には丸山信号所・矢ヶ崎信号所が開業し、横川駅 - 丸山信号所間と矢ヶ崎信号所 - 軽井沢駅間が[[複線]]化された。[[1906年]](明治39年)[[10月1日]]には熊ノ平給水給炭所が[[熊ノ平駅]]に変更。[[1909年]](明治42年)[[10月12日]]には[[国鉄・JR線路名称一覧|国有鉄道線路名称制定]]に伴い、中山道線を含む高崎駅 - [[新潟駅]]間が'''信越線'''(しんえつせん)と命名された。
=== 粘着運転化 ===

しかし、横川駅 - 軽井沢駅間はトンネルの連続による煤煙の問題から、乗務員の中には[[吐血]]や[[窒息]]する者も現れ{{Sfn|倉田正|1979|p=68}}。そこで、[[1911年]](明治44年)に横川駅付近に[[火力発電所]]が設置さ[[1912年]](明治45年)[[5月11日]]に同区間は[[直流電化]]された。これは日本の国鉄の幹線としては最初の[[鉄道の電化|電化]]が行われた区間であり、当初の電圧は直流600Vで、集電方式は[[第三軌条方式]]が採用された。

この電化により碓氷線の所要時間は80分から40分に半減し輸送力は若干増強された{{Sfn|田島二郎|1998|p=11}}が、輸送の[[ボトルネック|隘路]]であることは変わらず、「東の碓氷」は「北の[[板谷峠|板谷]]」、「西の[[瀬野八]]」などと並び、名だたる鉄道の難所として称された。

[[1914年]]([[大正]]3年)[[6月1日]]には信越線が'''[[信越本線]]'''(しんえつほんせん)に改称された。

[[1918年]](大正7年)[[3月7日]]には熊ノ平駅 - 軽井沢駅間で列車が上り勾配を退行・暴走し、熊ノ平駅構内で脱線する事故が発生した([[信越本線熊ノ平駅列車脱線事故]])。

[[1922年]](大正11年)4月1日には丸山信号所・矢ヶ崎信号所がそれぞれ[[丸山信号場]]・[[矢ヶ崎信号場]]に変更された。

[[1950年]]([[昭和]]25年)[[6月8日]]から[[6月12日]]には、熊ノ平駅構内で土砂が数度に渡り崩落。線路・宿舎などが埋没し、死者50名・重軽傷者21名を出した。その後、不通となった横川駅 - 軽井沢駅間は[[6月20日]]に開通し、[[6月23日]]に完全復旧した([[熊ノ平駅#大規模崩落事故(1950年)]]を参照)。

=== 粘着式鉄道時代 ===
[[ファイル:JRE-EF6316-JRW-EC489-Hakusan.jpg|thumb|200px|right|EF63形電気機関車を連結して碓氷峠に向かう特急「白山」]]
[[ファイル:JRE-EF6316-JRW-EC489-Hakusan.jpg|thumb|200px|right|EF63形電気機関車を連結して碓氷峠に向かう特急「白山」]]
<!--{{Sound|JNR 169 series kumoha169-4 EF63 10 EF63 20 myoko karuizawa.ogg|クモハ169-4の走行音(EF6310+EF63 20と協調運転、301M妙高、1号車)|(信越本線線横川-軽井沢間、1986年10月26日)}}-->
<!--{{Sound|JNR 169 series kumoha169-4 EF63 10 EF63 20 myoko karuizawa.ogg|クモハ169-4の走行音(EF6310+EF63 20と協調運転、301M妙高、1号車)|(信越本線線横川-軽井沢間、1986年10月26日)}}-->
[[太平洋戦争]]後は輸送隘路の解消のため最急勾配を25&nbsp;‰とする迂回ルートも検討されたが、最大66.7&nbsp;‰(約3.8度)の急勾配は回避せず一般的な車輪による[[粘着式鉄道|粘着運転]]で登降坂することになり、[[1961年]]に着工し[[1963年]][[7月15日]]に旧線のやや北側をほぼ並行するルートで新線が単線で開通した。同年[[9月30日]]にラック鉄道廃止され、さらに[[1966年]][[7月2日]]には、旧ラック一部を改修工事する形でもう1線が開通し[[線]]となった。これよって当区間の所要時間は旅客列車で40分から、勾配を上る下り列車は17分、勾配を下る上り列車は24分に短縮され{{Sfn|倉田正|1979|p=69}}
[[太平洋戦争]]後は輸送隘路の解消のため最急勾配を25&nbsp;‰とする迂回ルートも検討されたが、最大66.7&nbsp;‰(約3.8度)の急勾配は回避せず一般的な車輪による粘着式鉄道粘着運転で登降坂することになった。[[1961年]](昭和36年)に着工し[[1963年]](昭和38年)[[7月15日]]に旧線のやや北側をほぼ並行するルートで新線が単線で開通した。粘着の新線電圧・集電方を他区間と同じ直流1,500V・[[架空電車方式]]に変更した。


当初は新線(粘着式)と旧線(ラック式)が併用されていたが、同年[[9月30日]]に旧線(ラック式)は廃止。[[1966年]](昭和41年)[[2月1日]]には熊ノ平駅が熊ノ平信号場に格下げされた他、同年(昭和41年)[[7月2日]]には、旧線の一部を改修工事する形で新線がもう1線開通。これによって丸山信号場 - 矢ヶ崎信号場間が複線化されたことで、横川駅 - 軽井沢駅間は全区間が新線(粘着式)による複線となり、丸山信号場・矢ヶ崎信号場は廃止となった。当区間の所要時間は旅客列車で40分から、勾配を上る下り列車は17分、勾配を下る上り列車は24分に短縮された{{Sfn|倉田正|1979|p=69}}。
しかし[[電車]]・[[気動車]]・[[客車]]・[[貨物列車|]]を問わず単独での運転は勾配に対応できず、[[補助機関車]]として2両を1組とした[[国鉄EF63形電気機関車|EF63形]]を常に連結することとなった。勾配を登る下り列車(横川→軽井沢)を押し上げ、勾配を下る上り列車(軽井沢→横川)は発電ブレーキによる抑速ブレーキとなるという機能であった。そのため必ず勾配の麓側にあたる横川側に2両が連結された。

;客車・貨物列車の場合(EF62形単機回送も含む)
しかし、[[旅客列車]]([[電車]]・[[気動車]]・[[客車]]・[[貨物列車]]([[]]を問わず単独での運転は勾配に対応できず、[[補助機関車]]として2両を1組とした[[国鉄EF63形電気機関車|EF63形]]を常に連結することとなった。勾配を登る下り列車(横川→軽井沢)を押し上げ、勾配を下る上り列車(軽井沢→横川)は発電ブレーキによる抑速ブレーキとなるという機能であった。そのため必ず勾配の麓側にあたる横川側に2両が連結された。
:信越本線内の本務機関車としてEF63形と同時期に製造された[[国鉄EF62形電気機関車|EF62形]]が牽引する列車ではEF63形を連結して当区間を走行する際の輸送定数は客車が360&nbsp;[[トン]] (t)、貨物列車で400&nbsp;tに制限されたほか、ラック時代に一部列車で実施されていた客車と貨車を混結した状態で走る[[混合列車]]の運転が保安上禁止された。

:下り列車の場合(軽井沢)EF62 + 客車もしくは貨車 + EF63 + EF63(横川)の編成となり、無線通信によって最前部のEF62が牽引し後部のEF63形2両で推進するプッシュプル方式での運転操作が行われた。上り列車の場合、(軽井沢)客車 + EF62 + EF63 + EF63(横川)と勾配の麓側に3両の機関車が連なり、最前部のEF63形から3両の[[総括制御]]を行う。
; 客車・貨物列車の場合(EF62形単機回送も含む)
:EF62+EF63+EF63の3重連による牽引力は[[国鉄D51形蒸気機関車|D51形蒸気機関車]]の5重連に相当する{{Sfn|久保田 (2005)|p=202}}。
: 信越本線内の本務機関車としてEF63形と同時期に製造された[[国鉄EF62形電気機関車|EF62形]]が牽引する列車ではEF63形を連結して当区間を走行する際の輸送定数は客車が360&nbsp;[[トン]] (t)、貨物列車で400&nbsp;tに制限されたほか、ラック時代に一部列車で実施されていた客車と貨車を混結した状態で走る[[混合列車]]の運転が保安上禁止された。
: 下り列車の場合(軽井沢)EF62 + 客車もしくは貨車 + EF63 + EF63形(横川)の編成となり、無線通信によって最前部のEF62が牽引し後部のEF63形2両で推進するプッシュプル方式での運転操作が行われた。上り列車の場合、(軽井沢)客車 + EF62 + EF63 + EF63形(横川)と勾配の麓側に3両の機関車が連なり、最前部のEF63形から3両の[[総括制御]]を行う。
: EF62+ EF63+ EF63の3重連による牽引力は[[国鉄D51形蒸気機関車|D51形蒸気機関車]]の5重連に相当する{{Sfn|久保田 (2005)|p=202}}。
:<!-- バグ回避のための行「Help:箇条書き#定義の箇条書き中の箇条書き」参照-->
:<!-- バグ回避のための行「Help:箇条書き#定義の箇条書き中の箇条書き」参照-->
;電車・気動車の場合
; 電車・気動車の場合
:EF62形・EF63形量産車による3重連以上を用いた試験の結果、EF63形が無動力の電車・気動車を牽引する場合は編成両数が電車が最大8両、気動車は最大7両に制限された{{Sfn|真宅正博|渡辺登|1968|p=26}}。この問題についてはさまざまな解決策が検討されたが、最終的にEF63形と当区間を通過する電車を協調運転することで、増結が求められていた4両分の荷重を電車が負担する案が採用されることになった。こうして[[1968年]]以降、EF63形との[[協調運転]]により最大 12 両編成での通過を可能とした[[国鉄165系電車#169系|169系]]・[[国鉄485系電車#489系|489系]]・[[国鉄183系電車#国鉄189系電車|189系]]の各形式電車が投入されたが、協調・非協調を問わず当区間の運転はすべてEF63形に乗務する[[運転士|機関士]]が担当し、峠を登る列車ではEF63形の機関士が後ろ向きに運転を行うため、電車・気動車による列車では先頭に乗務している運転士は[[鉄道信号機|信号]]現示と進路の確認を行ない車内電話を通してEF63形乗務の機関士へ伝達し相互喚呼していた。また協調運転時の総括制御、推進・牽引運転時に電車・気動車側の[[マスター・コントローラー]]とブレーキ弁を扱うと制御回路を破損してしまうため、電車・気動車側の[[マスター・コントローラー]]はハンドル「切」位置にして鍵を抜き取り、ブレーキ弁ハンドルも抜き取るよう規程されていた。
: EF62形・EF63形量産車による3重連以上を用いた試験の結果、EF63形が無動力の電車・気動車を牽引する場合は編成両数が電車が最大8両、気動車は最大7両に制限された{{Sfn|真宅正博|渡辺登|1968|p=26}}。この問題についてはさまざまな解決策が検討されたが、最終的にEF63形と当区間を通過する電車を協調運転することで、増結が求められていた4両分の荷重を電車が負担する案が採用されることになった。こうして[[1968年]]以降、EF63形との[[協調運転]]により最大12両編成での通過を可能とした[[国鉄165系電車#169系|169系]]・[[国鉄485系電車#489系|489系]]・[[国鉄183系電車#国鉄189系電車|189系]]の各形式電車が投入されたが、協調・非協調を問わず当区間の運転はすべてEF63形に乗務する[[運転士|機関士]]が担当し、峠を登る列車ではEF63形の機関士が後ろ向きに運転を行うため、電車・気動車による列車では先頭に乗務している運転士は[[鉄道信号機|信号]]現示と進路の確認を行ない車内電話を通してEF63形乗務の機関士へ伝達し相互喚呼していた。また協調運転時の総括制御、推進・牽引運転時に電車・気動車側の[[マスター・コントローラー]]とブレーキ弁を扱うと制御回路を破損してしまうため、電車・気動車側の[[マスター・コントローラー]]はハンドル「切」位置にして鍵を抜き取り、ブレーキ弁ハンドルも抜き取るよう規程されていた。
:[[1985年]](昭和60年)頃には余剰のサロ183形を改造した自力登坂可能な187系(第2案)も計画されたが、諸般の事情から白紙撤回されている。詳細は「[[国鉄183系電車#国鉄187系特急用直流電車開発計画|国鉄187系特急用直流電車開発計画]]」も参照のこと。
: [[1985年]](昭和60年)頃には余剰のサロ183形を改造した自力登坂可能な187系(第2案)も計画されたが、諸般の事情から白紙撤回されている。詳細は「[[国鉄183系電車#国鉄187系特急用直流電車開発計画|国鉄187系特急用直流電車開発計画]]」も参照のこと。

[[1975年]](昭和50年)[[10月28日]]には、横川駅 - 熊ノ平信号場間の上り線で機関車の単機回送列車(EF63形・EF62形4連)が暴走し脱線転落する事故が発生した(信越線軽井沢 - 横川間回送機関車脱線転落事故)。

[[1987年]](昭和62年)4月1日の[[国鉄分割民営化]]に伴い、信越本線は全区間を[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)が[[鉄道事業者|第一種鉄道事業者]]として承継したが、[[日本貨物鉄道]](JR貨物)は横川駅 - 軽井沢駅間を含む[[安中駅]] - [[田中駅]]間を第二種鉄道事業者として承継しなかったため、横川駅 - 軽井沢駅間の貨物営業は廃止となった。

1993年(平成5年)[[8月17日]]前述の通り国が信越本線の横川駅 - 軽井沢駅間の鉄道施設の一部を「碓氷峠鉄道施設」として[[重要文化財]]に指定した<ref>1993年(平成5年)8月17日文部省告示第106号「文化財を重要文化財に指定する件」</ref>。


=== 横軽対策 ===
=== 横軽対策 ===
[[ファイル:157series10tsc number.JPG|thumb|200px|right|車両番号(クロ157-1)の先頭に付された横軽対策識別マーク]]
[[ファイル:157series10tsc number.JPG|thumb|200px|right|車両番号(クロ157-1)の先頭に付された横軽対策識別マーク]]
最大66.7&nbsp;‰の急勾配という条件で峠の下側から本形式による推進・牽引運転を実施するため、非常ブレーキ動作時などに過大な自動連結器作用力(自連力)が発生し、連結器の破損や列車の[[座屈]]による車両の車体と台車の分離、浮き上がり脱線の予防、車両の逸走といった事故が発生するのを防止する目的で、当区間を通過する車両には以下の対策(通称:「'''横軽対策'''」)が必須とされた。また、指定された形式以外の車両、大物車、鋼木合造客車は通過を禁止されている。
最大66.7&nbsp;‰の急勾配という条件で峠の下側から本形式による推進・牽引運転を実施するため、非常ブレーキ動作時などに過大な自動連結器作用力(自連力)が発生し、連結器の破損や列車の[[座屈]]による車両の車体と台車の分離、浮き上がり脱線の予防、車両の逸走といった事故が発生するのを防止する目的で、当区間を通過する車両には以下の対策(通称:「'''横軽対策'''」)が必須とされた。また、指定された形式以外の車両、大物車、鋼木合造客車は通過を禁止されている。

*台枠・連結器の強化{{Sfn|真宅正博|渡辺登|1968|pp=26, 29}}
*緩衝容量増大{{Sfn|真宅正博|渡辺登|1968|p=26}}
* 台枠・連結器の強化{{Sfn|真宅正博|渡辺登|1968|pp=26, 29}}
*車掌弁(車掌用非常ブレーキ装置)への絞り追加{{Sfn|真宅正博|渡辺登|1968|p=27}}
* 緩衝器容量の増大{{Sfn|真宅正博|渡辺登|1968|p=26}}
* 車掌弁(車掌用非常ブレーキ装置)への絞り追加{{Sfn|真宅正博|渡辺登|1968|p=27}}
*台車横揺れ制限装置の追加<ref>{{Cite journal |和書 |journal = [[レイルマガジン|Rail Magazine]] |issue = No. 161 |publisher = [[ネコ・パブリッシング]] |pages = {{要ページ番号|date=2015年3月}} |date = 1997-02 }}</ref>
* 台車横揺れ制限装置の追加<ref>{{Cite journal |和書 |journal = [[レイルマガジン|Rail Magazine]] |issue = No. 161 |publisher = [[ネコ・パブリッシング]] |pages = {{要ページ番号|date=2015年3月}} |date = 1997-02 }}</ref>
*[[空気ばね]]台車装着車に対するパンク機能の付加{{Sfn|真宅正博|渡辺登|1968|p=26}}<ref>{{Cite journal |和書 |author = 菅原憲一 |title = 国鉄の急こう配線の現状と展望 |journal = [[鉄道ピクトリアル]] |issue = No. 363 |page = 48 |publisher = [[電気車研究会]] |date = 1979-07 }}</ref>
* [[空気ばね]]台車装着車に対するパンク機能の付加{{Sfn|真宅正博|渡辺登|1968|p=26}}<ref>{{Cite journal |和書 |author = 菅原憲一 |title = 国鉄の急こう配線の現状と展望 |journal = [[鉄道ピクトリアル]] |issue = No. 363 |page = 48 |publisher = [[電気車研究会]] |date = 1979-07 }}</ref>
対策施工車両には識別のため車両番号の先頭に直径40[[ミリメートル]]<!-- (mm) -->の「●(Gマーク)」を付した。
対策施工車両には識別のため車両番号の先頭に直径40[[ミリメートル]]<!-- (mm) -->の「●(Gマーク)」を付した。


これらの制約は、当区間の粘着運転への切り替え直前に実施された165系電車9両編成とEF63形による下り勾配での試験運転で、非常ブレーキを作動させたところ機関車次位のクハ165形の軽井沢方にあたる車体後部が垂直座屈で浮上し、車体と台車が分離するという現象や上り勾配での客車牽引で縦勾配の変曲点で軽井沢方の台車が脱線する現象が発生した{{Sfn|真宅正博|渡辺登|1968|p=26}}<ref>{{Cite journal |和書 |author = 黒岩源雄 |title = 横軽の思い出-アプト方式廃止の頃 |journal = 鉄道ピクトリアル |issue = No. 570| page = 20 |publisher = 電気車研究会 |date = 1993-01 }}</ref>ことに由来する。
これらの制約は、当区間の粘着運転への切り替え直前に実施された165系電車9両編成とEF63形による下り勾配での試験運転で、非常ブレーキを作動させたところ機関車次位のクハ165形の軽井沢方にあたる車体後部が垂直座屈で浮上し、車体と台車が分離するという現象や上り勾配での客車牽引で縦勾配の変曲点で軽井沢方の台車が脱線する現象が発生した{{Sfn|真宅正博|渡辺登|1968|p=26}}<ref>{{Cite journal |和書 |author = 黒岩源雄 |title = 横軽の思い出-アプト方式廃止の頃 |journal = 鉄道ピクトリアル |issue = No. 570| page = 20 |publisher = 電気車研究会 |date = 1993-01 }}</ref>ことに由来する。


この結果、機関車と他の車両との間で発生する自連力の過大がもたらす悪影響が認識され当区間での被牽引対象列車に対する最大8両(系列によっては7両)までの連結両数制限と車種を問わず心皿脱出防止のため空気ばね台車装着車に対するパンクの義務化が決定された{{Sfn|真宅正博|渡辺登|1968|p=26}}。前述の専用車両によるEF63形との協調運転システムの開発は、前者の制限を解消し輸送力不足を補う手段として開発されたものである。後者の対策は空気ばね台車の限界自連力が金属ばね台車に比べて著しく小さいため垂直座屈に弱い一方で空気ばねをパンクさせてストッパゴムだけで車体を支持する状態にすると空気ばね有効時と比較して約6倍の限界自連力を得られることから実施されたもの{{Sfn|中橋順一|2008|pp=27&ndash;28}}で、同様に貨物列車の[[車掌車]]についても推進運転時の坐屈問題から 1 段リンク式足回りをもつ[[国鉄ヨ3500形貨車|ヨ3500形]]が限定使用された<ref group="注">新線開業直後の1963年10月以降 3 回にわたり 2 段リンク式足回りを持つ緩急車の脱線事故が発生し、検証の結果大きな横圧が発生することが判明したことからヨ3500形の限定使用となった。</ref>。
この結果、機関車と他の車両との間で発生する自連力の過大がもたらす悪影響が認識され当区間での被牽引対象列車に対する最大8両(系列によっては7両)までの連結両数制限と車種を問わず心皿脱出防止のため空気ばね台車装着車に対するパンクの義務化が決定された{{Sfn|真宅正博|渡辺登|1968|p=26}}。前述の専用車両によるEF63形との協調運転システムの開発は、前者の制限を解消し輸送力不足を補う手段として開発されたものである。後者の対策は空気ばね台車の限界自連力が金属ばね台車に比べて著しく小さいため垂直座屈に弱い一方で空気ばねをパンクさせてストッパゴムだけで車体を支持する状態にすると空気ばね有効時と比較して約6倍の限界自連力を得られることから実施されたもの{{Sfn|中橋順一|2008|pp=27&ndash;28}}で、同様に貨物列車の[[車掌車]]についても推進運転時の坐屈問題から1段リンク式足回りをもつ[[国鉄ヨ3500形貨車|ヨ3500形]]が限定使用された<ref group="注">新線開業直後の1963年(昭和38年)10月以降3回にわたり2段リンク式足回りを持つ緩急車の脱線事故が発生し、検証の結果大きな横圧が発生することが判明したことからヨ3500形の限定使用となった。</ref>。


電車では協調・非協調を問わず座屈による浮き上がり脱線予防策として車両重量のある[[動力車|電動車]]ユニットを峠の下側に組成することになり、[[新前橋電車区]](現・[[高崎車両センター]])・長野運転所(後の北長野運転所→長野総合車両所→現・[[長野総合車両センター]])配置の165・169系が他車両基地配置車と逆向きの編成に組成されていたほか、後に松本運転所(現・[[松本車両センター]])配置の[[国鉄115系電車#1000番台|115系1000番台]](後に長野へ移管)・新前橋電車区配置の[[国鉄185系電車#200番台|185系200番台]]も電動車ユニットの向きが本来と逆向きにされた。
電車では協調・非協調を問わず座屈による浮き上がり脱線予防策として車両重量のある[[動力車|電動車]]ユニットを峠の下側に組成することになり、[[新前橋電車区]](現・[[高崎車両センター]])・長野運転所(後の北長野運転所→長野総合車両所→現・[[長野総合車両センター]])配置の165・169系が他車両基地配置車と逆向きの編成に組成されていたほか、後に松本運転所(現・[[松本車両センター]])配置の[[国鉄115系電車#1000番台|115系1000番台]](後に長野へ移管)・新前橋電車区配置の[[国鉄185系電車#200番台|185系200番台]]も電動車ユニットの向きが本来と逆向きにされた。


=== 新幹線開業と横軽の廃止 ===
=== 北陸新幹線開業に伴う信越本線の廃止 ===
碓氷峠の抜本的な輸送改善は、[[1997年]](平成9年)10月1日の[[北陸新幹線]]高崎 - 長野間(この区間は[[2015年]]〈平成27年〉[[3月13日]]まで[[長野新幹線]]として営業)の開通によってなされた。その際、信越本線の碓氷峠区間(横川 - 軽井沢間)は、長距離旅客が新幹線に移行する反面で、県境を越える即ち住環境を跨ぐローカル旅客数が見込めないことや、峠の上り下りに設置する設備の維持に多額の費用がかかるとして、[[第三セクター鉄道]]などに転換されることなく[[廃線|廃止]]された。
横軽廃止に先立ち、[[1993年]](平成5年)8月17日、鉄道施設の一部を「碓氷峠鉄道施設」として国が[[重要文化財]]に指定した<ref>1993年(平成5年)8月17日文部省告示第106号「文化財を重要文化財に指定する件」</ref>。

碓氷峠の抜本的な輸送改善は、[[1997年]]の[[北陸新幹線]]高崎 - 長野間(この区間は2015年3月13日まで[[長野新幹線]]として営業)の開通によってなされた。その際、信越本線の碓氷峠区間(横川 - 軽井沢間)は、長距離旅客が新幹線に移行する反面で、県境を越える即ち住環境を跨ぐローカル旅客数が見込めないことや、峠の上り下りに設置する設備の維持に多額の費用がかかるとして、[[第三セクター鉄道]]などに転換されることなく[[廃線|廃止]]された。


代替交通機関として横川駅 - 軽井沢駅間を片道34分で結ぶ[[ジェイアールバス関東]][[ジェイアールバス関東小諸支店|小諸支店]]による[[碓氷線]]1日7往復の運行に移行した<ref>『朝日新聞』1997年10月2日付 朝刊、長野地方面</ref>。北陸新幹線は碓氷峠北方にある碓氷峠トンネルを通過する。この区間は 30&ndash;‰(約1.7度)の勾配が連続しているため、[[新幹線E2系電車|E2系]]などの勾配対策を施工した車両のみが入線可能である{{Sfn|田島二郎|1998|p=11}}。新幹線開業後の1997年10月の高崎 - 軽井沢間の1日平均の乗車人員は上下方向で合計およそ30,000人・[[定員#混雑率・乗車率|乗車率]] 68&nbsp;[[パーセント|%]] と前年同期に同区間を運行していた信越線特急[[あさま#特急「あさま」の設定後|あさま]]と比べて約12,000人増加した<ref>『朝日新聞』1997年11月5日付 朝刊、社会面、30面。</ref>。廃止の方針について、[[群馬県]][[安中市]]の[[新島学園中学校・高等学校|新島学園高等学校]]に[[長野県]]から通学する生徒の[[保護者]]を中心に廃止許可の取消を求める[[行政訴訟]]([[取消訴訟]])が[[前橋地方裁判所]]に起こされたが、裁判所は「(廃止の手続きを定めた)[[鉄道事業法]]は利用者個々の利益を直接保護するものではない」として[[取消訴訟#原告適格|原告適格]]を認めず、訴訟を[[却下]]した<ref>[http://www.oft.co.jp/02-2/023911/h11-226-099.html H11.2.26 前橋地裁 平成09(行ウ)9 信越線廃止許可処分取消請求事件]{{リンク切れ|date=2015年3月}}</ref>。[[東京高等裁判所]]の[[控訴]]審、[[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]]の[[上告]]審も前橋地方裁判所の決定を支持し、却下が確定した。
代替交通機関として横川駅 - 軽井沢駅間を片道34分で結ぶ[[ジェイアールバス関東]][[ジェイアールバス関東小諸支店|小諸支店]]による[[碓氷線]]1日7往復の運行に移行した<ref>『朝日新聞』1997年10月2日付 朝刊、長野地方面</ref>。北陸新幹線は碓氷峠北方にある碓氷峠トンネルを通過する。この区間は 30&ndash;‰(約1.7度)の勾配が連続しているため、[[新幹線E2系電車|E2系]]などの勾配対策を施工した車両のみが入線可能である{{Sfn|田島二郎|1998|p=11}}。新幹線開業後の1997年(平成9年)10月の高崎 - 軽井沢間の1日平均の乗車人員は上下方向で合計およそ30,000人・[[定員#混雑率・乗車率|乗車率]] 68&nbsp;[[パーセント|%]] と前年同期に同区間を運行していた信越特急[[あさま#特急「あさま」の設定後|あさま]]と比べて約12,000人増加した<ref>『朝日新聞』1997年11月5日付 朝刊、社会面、30面。</ref>。廃止の方針について、[[群馬県]][[安中市]]の[[新島学園中学校・高等学校|新島学園高等学校]]に[[長野県]]から通学する生徒の[[保護者]]を中心に廃止許可の取消を求める[[行政訴訟]]([[取消訴訟]])が[[前橋地方裁判所]]に起こされたが、裁判所は「(廃止の手続きを定めた)[[鉄道事業法]]は利用者個々の利益を直接保護するものではない」として[[取消訴訟#原告適格|原告適格]]を認めず、訴訟を[[却下]]した<ref>[http://www.oft.co.jp/02-2/023911/h11-226-099.html H11.2.26 前橋地裁 平成09(行ウ)9 信越線廃止許可処分取消請求事件]{{リンク切れ|date=2015年3月}}</ref>。[[東京高等裁判所]]の[[控訴]]審、[[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]]の[[上告]]審も前橋地方裁判所の決定を支持し、却下が確定した。


旧碓氷線の廃線部分11.2&nbsp;kmのうち、群馬県側の約10&nbsp;kmは[[碓氷郡]][[松井田町]](現安中市)が買収しており、残り約840&nbsp;mについても[[北佐久郡]][[軽井沢町]]に買取を陳情する動きがあった<ref>『朝日新聞』2007年8月26日付 朝刊、長野東北信面、33面。</ref>。廃線跡は廃止前と変わらない状態を保つように管理されており、かつての線路跡が遊歩道「[[アプトの道]]」となっている以外にも線路部分が多く残されている(遊歩道区間は、横川駅からラック式の旧線をたどり旧熊ノ平駅までとなっている。[[#見所|後節]]も参照)。架線や通信ケーブル等も現役当時のまま残っていたが、現在では横川方の上下線で盗難されたため、現存しない<ref>[http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG0804O_Y3A500C1CC1000/ JR信越線、廃線区間11キロで架線など盗難 被害100万円超] 『日本経済新聞』2013年5月9日</ref>。[[碓氷峠鉄道文化むら]]では、横川駅側の廃線跡を利用して、かつて使われていた保守機関車500Aなどを走行させている<ref>『朝日新聞』2001年10月12日付 朝刊、群馬地方面、34面。</ref>。
旧碓氷線の廃線部分11.2&nbsp;kmのうち、群馬県側の約10&nbsp;kmは[[碓氷郡]][[松井田町]](現安中市)が買収しており、残り約840&nbsp;mについても[[北佐久郡]][[軽井沢町]]に買取を陳情する動きがあった<ref>『朝日新聞』2007年8月26日付 朝刊、長野東北信面、33面。</ref>。廃線跡は廃止前と変わらない状態を保つように管理されており、かつての線路跡が遊歩道「[[アプトの道]]」となっている以外にも線路部分が多く残されている(遊歩道区間は、横川駅からラック式の旧線をたどり旧熊ノ平駅までとなっている。[[#見所|後節]]も参照)。架線や通信ケーブル等も現役当時のまま残っていたが、現在では横川方の上下線で盗難されたため、現存しない<ref>[http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG0804O_Y3A500C1CC1000/ JR信越線、廃線区間11キロで架線など盗難 被害100万円超] 『日本経済新聞』2013年5月9日</ref>。[[碓氷峠鉄道文化むら]]では、横川駅側の廃線跡を利用して、かつて使われていた保守機関車500Aなどを走行させている<ref>『朝日新聞』2001年10月12日付 朝刊、群馬地方面、34面。</ref>。


=== 車両 ===
=== 車両 ===
==== ラック式時代 ====
==== ラック式時代 ====
* [[国鉄3900形蒸気機関車]]
* [[国鉄3900形蒸気機関車]]
* [[国鉄3920形蒸気機関車]]
* [[国鉄3920形蒸気機関車]]
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* [[国鉄キハ80系気動車]]
* [[国鉄キハ80系気動車]]


==== 粘着式(非ラック方式)時代 ====
==== 粘着式時代 ====
* [[国鉄EF62形電気機関車]]
* [[国鉄EF62形電気機関車]]
* [[国鉄EF63形電気機関車]]
* [[国鉄EF63形電気機関車]]
193行目: 210行目:
** [[国鉄50系客車]](2000番台)
** [[国鉄50系客車]](2000番台)


=== 廃線の活用 ===
=== 廃線の活用 ===
2018年10月から安中市観光機構が「廃線ウォーク」を主催している<ref name="jomo-news20201005">{{Cite news|url=https://www.jomo-news.co.jp/news/gunma/culture/244974|title=《支局ルポ》標高差550メートル 踏破に達成感 廃線ウォーク|newspaper =『上毛新聞』|date=2020-10-05|accessdate=2020-10-06}}</ref>。横川 - 軽井沢間の約11&nbsp;km(標高差約550&nbsp;m)の廃線跡を歩く<ref name="jomo-news20201005" />。
[[2018年]](平成30年10月から安中市観光機構が「廃線ウォーク」を主催している<ref name="jomo-news20201005">{{Cite news|url=https://www.jomo-news.co.jp/news/gunma/culture/244974|title=《支局ルポ》標高差550メートル 踏破に達成感 廃線ウォーク|newspaper =『上毛新聞』|date=2020-10-05|accessdate=2020-10-06}}</ref>。横川 - 軽井沢間の約11&nbsp;km(標高差約550&nbsp;m)の廃線跡を歩く<ref name="jomo-news20201005" />。


== 近代以降の事故 ==
== 近代以降の事故 ==

2022年8月21日 (日) 16:42時点における版

碓氷峠
碓氷峠(国道18号)
地図
碓氷峠の位置。東側が急峻で西側がほぼ平坦のいわゆる「片峠」になっている。
所在地 群馬県安中市松井田町坂本長野県北佐久郡軽井沢町
座標
碓氷峠の位置(日本内)
碓氷峠
北緯36度20分41.6秒 東経138度39分3.8秒 / 北緯36.344889度 東経138.651056度 / 36.344889; 138.651056座標: 北緯36度20分41.6秒 東経138度39分3.8秒 / 北緯36.344889度 東経138.651056度 / 36.344889; 138.651056
標高 956[1] m
山系 関東山地
通過路 国道18号
北陸新幹線(碓氷峠トンネル)
プロジェクト 地形
テンプレートを表示

碓氷峠(うすいとうげ)は、群馬県安中市松井田町坂本長野県北佐久郡軽井沢町との境にある日本である。標高は956メートル (m) [1]信濃川水系と利根川水系とを分ける中央分水嶺である。峠の長野県側に降った雨は日本海へ、群馬県側に降った雨は太平洋へ流れる。

古代には碓氷坂(うすひのさか)、宇須比坂碓日坂などといい、中世には臼井峠臼居峠とも表記された。近世以降は碓氷峠で統一されている。「碓井峠」「碓水峠」は誤表記。

地理

1200万年ほど前には現在の碓氷峠は海中にあり、クジラサメなどが生息していた。700万 - 200万年前には碓氷川上流地域で噴火活動があり、110万 - 65万年前の溶岩噴出で碓氷峠付近は平地となった。その後、30万 - 20万年前に霧積川によって東部で侵食があり、急なが形成された。以上のような経緯から、地層は下部が第三紀中期の海生堆積岩類、上部が後期中新世から前期更新世火山岩類で構成されている[2]。下部の堆積岩層は泥岩砂岩凝灰岩などで侵食されやすい。また、上部の火山岩層の厚みは数百メートルに達する。

東部が激しく侵食された結果、現在の碓氷峠は直線距離で約 10キロメートル (km) の間に標高差が500 m以上に達する急峻な東側のみの片勾配となっていて、群馬県側の麓・横川の標高387 mに対し、長野県側の軽井沢は標高939 mと峠 (956 m) との標高差がほとんどない。特に、中仙道を例に取ると坂本宿から刎石山までの水平距離700 mの間に標高差が300 mもある[3]。そのため一般的な、山脈をトンネルで抜けることで峠越えの高低差を解消できる両勾配を持つ峠と異なり、通行には近代に至るまで数多くの困難を抱えた。

箱根峠とともに、関東地方と中日本を分かつ峠であり、気象学的にも、碓氷峠は関東地方と中部地方の境界にあたる。日中、関東地方南岸では大規模な海風(太平洋海風)が生じて、およそ5 m/sで大気が内陸に向かって進む。一方で中部地方内陸部では上空に低圧部が現れ、谷から山頂に向かう風が生まれる。午前中は碓氷峠にこれら二つの流れが両側から向かってきて、峠では風が真上に向かって平衡状態となる。午後になると地表面の温度が高くなって双方の勢いが増すが、関東地方からの流れがより強くなるため南東風が吹き、関東地方の大気が中部地方に流入する経路となる。なお夜間には海風が支配的となって南東風が続く[4]。また、山を登る空気は気圧が低くなるとともに膨張して温度が下がり、飽和した水蒸気となるため、関東平野から碓氷峠を登って流れ込む南東風が原因となって軽井沢では年間130日以上も霧が発生している[5]

自然環境

植生は付近にあって標高の近い浅間山山麓部分と似ており、ブナコナラなどの落葉樹、およびモミカラマツといった針葉樹が生えている。下草としてはゼンマイススキリンドウニッコウザサなどがある。浅間山との違いとしては、ムラサキシモツケソウモウセンゴケが多いことが挙げられる[6]

一帯には古くからニホンザルが生息しているが、1980年代から人里に降りてきて農作物などに被害が出るようになり、1984年には碓氷郡松井田町(当時)など3町で計2000万円以上もの被害があった。その原因としては

などが指摘されている[7]。上信越自動車道の開通後は交通量の減った国道18号への出没も増え[8]1990年代末以降は碓氷峠を拠点に軽井沢の中心部にも出現している[9]

刎石山付近には柱状節理風穴などがみられる。

歴史

碓氷峠の変遷
中仙道・中仙道和宮道・国道18号・信越本線・碓氷バイパス・上信越自動車道・北陸新幹線

古代

古来から坂東と信濃国をつなぐ道として使われてきたが、難所としても有名であった。この碓氷坂および駿河相模国境の足柄坂より東の地域を坂東と呼んだ。『日本書紀』景行紀には、日本武尊(ヤマトタケル)が坂東平定から帰還する際に碓氷坂(碓日坂)にて、安房沖で入水した妻の弟橘媛をしのんで「吾妻(あづま)はや」とうたったとある。なお『古事記』ではこれが足柄坂だったとされ、どちらが正しいかという論争が存在する[10]。現在でも碓氷峠を境にして、東側が関東文化圏・関東方言に、西側が中央高地文化圏・東海東山方言に分かれている。

碓氷峠の範囲は南北に広いが、その南端に当たる入山峠からは古墳時代の祭祀遺跡が発見されており(入山遺跡)、古墳時代当時の古東山道は入山峠を通ったと推定されている。7世紀後葉から8世紀前葉(飛鳥時代後期 - 奈良時代初期)にかけて、全国的な幹線道路(駅路)が整備されると、碓氷坂にも東山道駅路が建設された。入山遺跡はこの時期までに廃絶しており、碓氷坂における東山道駅路は近世の中仙道にほぼ近いルートだったとする説が有力視されている。なお、万葉集にみえるように防人たちにとっては故郷との別離の場となっていた[11]

平安時代前期から中期頃の坂東では、武装した富豪百姓層(僦馬の党)が国家支配に抵抗し、国家への進納物を横領したり略奪する動きが活発化した。これら富豪百姓層を「群盗」と見なした国家は、その取締りのため昌泰2年(899年)に碓氷坂と足柄坂へ関所を設置した。これが碓氷関の初見である。碓氷関は天慶3年(940年)に廃止され、中世に何度か復活した[12]

古代駅路は全国的に11世紀初頭頃までに廃絶しており、碓氷坂における東山道駅路も同時期に荒廃したとされている。その後、碓氷峠における主要交通路は、旧碓氷峠ルートのほか、入山峠ルート・鰐坂峠ルートなどを通過したと考えられているが、どのルートが主たるものであったかは確定に至っていない。

中世

中世には碓氷峠付近の主要道は現在の大字峠(地図中の旧碓氷峠)を通るようになった。この峠には熊野皇大神社(碓氷峠熊野神社)があり、同神社正応5年4月8日(1292年5月3日)紀の鐘銘から、この頃までには大字峠の道が開設されていたといわれる。入山峠を通る古道よりも坂本付近などが峻険で通りにくかったが、そのため防備に優れていたとされる[13]

応永30年(1423年)の国人一揆永享12年(1440年)の結城合戦では、碓氷峠は信州からの侵攻を防ぐ要衝となっていた。永禄4年(1561年)に長尾景虎小田原城後北条氏を攻めた際に武田信玄が笛吹峠に出陣し、信玄は碓氷峠からの進出をその後数回にわたって行ない、永禄9年(1566年)には箕輪城の攻略に成功して上野国へ進出した。天正18年(1590年)の小田原征伐の際、豊臣秀吉前田利家らの北国勢を碓氷峠から進軍させている[13]

旧碓氷峠(長野県北佐久郡軽井沢町大字峠町)

近世

江戸時代には中山道五街道のひとつとして整備され、旧碓氷峠ルートが本道とされた。碓氷峠は、関東信濃国北陸とを結ぶ重要な場所と位置づけられ、峠の江戸側に関所(坂本関)が置かれて厳しい取締りが行われた[14]。峠の前後には坂本宿軽井沢宿が置かれ、両宿場間の距離は2里26町(約10キロメートル〈km〉余)であったが、峠頂部の熊野神社の標高が1200 m、坂本宿の京都口が標高460 mであるから、その標高差は740 mもあり通行者の大きな負担になっている[14]。特に刎石(はねいし)はつづら折れの急坂のうえ落石も多く、峠道最大の難所である[14]。なお、坂本から熊野神社までの旧中山道ルートの現在は、旧建設省と「道の日」実行委員会により制定された日本の道100選のひとつとして1986年(昭和61年)に選定を受けている[15]

ただし、古道はその後も活用されており、たとえば難所の碓氷峠を避けることができる鰐坂峠ルートは「姫街道」「女街道」と呼ばれていた。この道は本庄で中山道本道から分かれて藤岡富岡下仁田を経由し、鰐坂峠(和美峠付近)を経て信州に入り、追分宿付近で本道と合流していた。しかし、こちらも難所であることに差はなかったといい、本道と同様に西牧関所が置かれていた。

天明3年(1783年)の浅間山噴火では3尺 (90センチメートル) 以上の砂が積り、碓氷峠往還は8日間にわたって通行不可能になっている[13]。碓氷峠は中山道有数の難所であったため、幕末の文久元年(1861年)に和宮徳川家茂に嫁ぐために中山道を通ることが決まった際に一部区間で大工事が行われ、和宮道と呼ばれる多少平易な別ルートが開拓された。なお、約3万人の和宮一行は同年11月9日(1861年12月10日)に軽井沢を発って碓氷峠を越え、翌10日(1861年12月11日)に横川に宿泊している[16]

道路

道路の建設

明治に入っても交通の要所としての重要性は変わらず、人々や物資の往来は続いた。1878年9月11日、明治天皇の北陸道・東海道巡幸では、天皇は徒歩にて峠を通過している。明治天皇紀によれば、「峠の険難は馬すらも通はず・・・」とあり[17]、この時期においても難所であることには変わらなかった。1882年に従来の南側に新道が作られ、1886年には馬や車での通行が可能となった。「碓氷新道」と呼ばれたこの新道は国道18号(の旧道)にあたり、坂本宿からその後碓氷湖が作られたあたりまではおおむね和宮道(正しくは、(明治天皇)御巡幸道路であり、和宮道は、熊野神社北側から子持山の南西あたりまでをいう)を踏襲し、そこから西側は中尾川に沿って全く新しいルートとされ、軽井沢宿と沓掛宿の間で旧道と合流するものであった。新道の碓氷峠は、中山道旧道の碓氷峠(新道開通後は旧碓氷峠と呼ばれている)から南に3 kmほどの場所に移動した。この結果、碓氷峠越えの道は3 km長くなったものの平均勾配が半分以下に低減された[18]。その後「旧軽井沢」と呼ばれるようになった地区は中山道旧道に沿った場所で、軽井沢駅周辺は明治時代に開発された新道沿いにあたる。

大正以降はトラックなどの往来も盛んになり、失業対策も兼ねた公共事業の一環として1932年から翌年にかけて拡幅および一部舗装工事が行なわれ、これを記念した石碑が県境に残っている[18]。なお、第二次世界大戦中には牛や馬の峠越えによる物資の輸送も行なわれた[19]。国道18号の碓氷峠の区間は、1956年(昭和31年)から拡幅や改良・舗装工事が進められていたが、カーブが184個もあることなどから限界があり、交通需要の高まりに応えるため1971年に国道18号のバイパスである有料道路碓氷バイパス(入山峠を通る、かつての古東山道のルート)が開通した。碓氷バイパスは2001年11月11日から無料化され、かつての中山道はハイキングコースとして整備された。1993年には上信越自動車道が開通したことから、1979年には交通量が2,000台/日あった明治時代の新道もその重要性は薄れつつある。なお上信越自動車道の建設に当たっては、同道路内で最長となる全長1,267メートルの碓氷橋が、碓氷川などをまたぐように架橋された。

ドライブスポット

国道18号旧道は、全長約11キロの区間に全184の大小様々なカーブがタイトに続く片峠の独特な道路であるため、ドライブツーリングスポットとして古くから知られる。ちなみに過酷なサーキットとして知られるドイツニュルブルクリンクは、全長約20キロでカーブ数は172である。

走り屋からの知名度は高く、人気漫画『頭文字D』に登場する峠道としても知られる。この道路を愛好していた人物として、土屋圭市七五三木敏幸などがいる。土屋圭市によれば、碓氷峠でメーカーのタイヤテストも行っていたという[20]

これまで数多くのラリーイベントで碓氷峠がルートとして設定されてきたが、初めて設定されたのは、1959年から開催された伝説的な日本初の山岳ラリー「日本アルペンラリー」の第1回大会である。

1971年の碓氷バイパス、1993年の上信越自動車道の開通まで、東京方面から軽井沢へ自動車で向かうためにはこの道を通るほかなかったため、ドライブ好きではない一般の別荘客や観光客には好まれるような道ではなかったという。細川護煕は、幼少期に祖父である近衛文麿の運転で軽井沢に向かうために当時の路面の悪い碓氷峠を走ったとき、吐いたりして散々な目にあったと、のちに笑って話している[21]ブリヂストン会長の石橋幹一郎は、軽井沢に向かうために愛車で碓氷峠を「ブンブン回してよく上りました」と語っている[22]

現在の交通量

2005年上信越自動車道の碓氷峠付近(群馬・長野県境)の交通量は以下の通りである[23]

碓氷峠付近の1日当たりの平均交通量(2005年)
乗用車(台/日) 貨物自動車(台/日) 合計(台/日)
平日 08,669 10,065 18,734
休日 17,538 04,177 21,715

なお、2005年の国道18号の碓氷峠付近(安中市松井田町原甲)の交通量は平日が2,016台/日、休日が4,129台/日[24]2001年碓氷バイパスの1日当たりの平均交通量は10,235台/日だった[25]1993年の予測では上信越自動車道、碓氷バイパスの交通量はそれぞれ8,000台/日、7,000台/日になると見込まれており[26]、実際の値はともにこれを上回っている。特に碓氷バイパスは1993年の交通量およそ15,000台/日からの半減が予想されたが、利用台数はそれほど減っていない。

鉄道

鉄道の建設

線路の一部だった碓氷第三橋梁。奥に見える橋梁は1997年に廃止された新線。
最初に投入されたラック式の3900形蒸気機関車
碓氷峠のトンネルに入る列車(1950年代)

鉄道においても碓氷峠を越えることは早くから重要視され、1885年(明治18年)10月15日官設鉄道横川線として高崎駅 - 横川駅間が、さらに1886年(明治19年)8月15日から1888年(明治21年)12月1日にかけて軽井沢駅 - 直江津駅間が官設鉄道直江津線として順次開通すると、当区間が輸送のボトルネックとなり、東京都新潟県の間の鉄道を全線開通させることが強く望まれた[18]。なお、1888年(明治21年)9月5日から1893年(明治26年)4月1日にかけては碓氷馬車鉄道という馬車鉄道国道18号上に敷設されていたが、輸送可能な量が少ない上に峠越えに2時間半もかかっていた[27]。当初の機関車の能力では粘着式鉄道にて通過困難な勾配があり、スイッチバックループ線などを設ける方法では対処できなかったためラック式鉄道を模索し、視察したドイツハルツ山鉄道を参考にしてアプト式(アブト式)を用いることを提案した仙石貢吉川三次郎のプランが採用された。この案では中山道沿いに線路を敷設するため資材や人員の運搬コストを低減できる一方で、最大で66.7 (= 115。約 3.8 度)という急な勾配になる。なお、この際に鉄道建築師長のボーナル和美峠入山峠を通る140程度の勾配の案を提示している[28]

1891年(明治24年)3月24日に起工したが、急勾配でラック式鉄道を用いるには列車の推進力を受ける道床に十分配慮する必要があった。ボーナルはその対策として、大きなスパン[29]に従来よく使われていた桁ではなくレンガ製のアーチを用いている。また、工事中の1891年(明治24年)10月28日に発生した濃尾地震でレンガ造りの建造物が倒壊したことを受け、橋脚に石柱を組み合わせたりレンガを縦に積むなどの地震対策が採り入れられた[28]。このような技術が評価され、碓氷第三橋梁などの一連の橋梁、隧道などは1993年平成5年)から1994年(平成6年)にかけて近代化遺産として国の重要文化財に指定されている[30]。ただしアーチ部分の耐震性については効果は限定され、完成後の1894年(明治27年)6月20日明治東京地震マグニチュード=7.0)ではアーチにひびが入り、同年から1896年(明治29年)にかけてレンガを巻き立てる補強が行なわれた[31]

ラック式鉄道時代

アプト方式ラック式の10000形電気機関車

このような経緯を経て、延長11.2 kmの間に18の橋梁と26のトンネルが建設され、着工から1年9か月後の1892年(明治25年)12月22日に工事が完了し、翌1893年(明治26年)4月1日に官営鉄道中山道線として横川駅 - 軽井沢駅間が開通した。当初は全区間が単線非電化であり、中間に開設された熊ノ平給水給炭所で列車交換を行っていた。碓氷峠を越えることから「碓氷線」、また横川駅 - 軽井沢駅間を結ぶことから「横軽(よこかる)」とも呼ばれる。

1900年(明治33年)10月15日大和田建樹によって作成された「鉄道唱歌」の第4集(北陸編)では、碓氷峠の区間は以下のように歌われている。

  • 19.これより音にききいたる 碓氷峠のアブト式 歯車つけておりのぼる 仕掛は外にたぐいなし
  • 20.くぐるトンネル二十六 ともし火うすく昼くらし いずれは天地うちはれて 顔ふく風の心地よさ

さらに『鉄道唱歌』と同じ年に作成された、現在の長野県歌である『信濃の国』も、6番において以下のように碓氷峠を歌っている。

  • 吾妻はやとし 日本武(やまとたけ) 嘆き給いし碓氷山 穿(うが)つ隧道(トンネル)二十六 夢にもこゆる汽車の道 みち一筋に学びなば 昔の人にや劣るべき 古来山河の秀でたる 国は偉人のある習い

なお、「アブ(BU)ト」という表現は当時見られたものだが、語源はドイツ語なので現在の「アプト」の方が原語に近い。

1901年(明治34年)7月には丸山信号所・矢ヶ崎信号所が開業し、横川駅 - 丸山信号所間と矢ヶ崎信号所 - 軽井沢駅間が複線化された。1906年(明治39年)10月1日には熊ノ平給水給炭所が熊ノ平駅に変更。1909年(明治42年)10月12日には国有鉄道線路名称制定に伴い、中山道線を含む高崎駅 - 新潟駅間が信越線(しんえつせん)と命名された。

しかし、横川駅 - 軽井沢駅間はトンネルの連続による煤煙の問題から、乗務員の中には吐血窒息する者も現れた[18]。そこで、1911年(明治44年)に横川駅付近に火力発電所が設置され、1912年(明治45年)5月11日に同区間は直流電化された。これは日本の国鉄の幹線としては最初の電化が行われた区間であり、当初の電圧は直流600Vで、集電方式は第三軌条方式が採用された。

この電化により碓氷線の所要時間は80分から40分に半減し、輸送力は若干増強された[27]が、輸送の隘路であることは変わらず、「東の碓氷」は「北の板谷」、「西の瀬野八」などと並び、名だたる鉄道の難所として称された。

1914年大正3年)6月1日には信越線が信越本線(しんえつほんせん)に改称された。

1918年(大正7年)3月7日には熊ノ平駅 - 軽井沢駅間で列車が上り勾配を退行・暴走し、熊ノ平駅構内で脱線する事故が発生した(信越本線熊ノ平駅列車脱線事故)。

1922年(大正11年)4月1日には丸山信号所・矢ヶ崎信号所がそれぞれ丸山信号場矢ヶ崎信号場に変更された。

1950年昭和25年)6月8日から6月12日には、熊ノ平駅構内で土砂が数度に渡り崩落。線路・宿舎などが埋没し、死者50名・重軽傷者21名を出した。その後、不通となった横川駅 - 軽井沢駅間は6月20日に開通し、6月23日に完全復旧した(熊ノ平駅#大規模崩落事故(1950年)を参照)。

粘着式鉄道時代

EF63形電気機関車を連結して碓氷峠に向かう特急「白山」

太平洋戦争後は輸送隘路の解消のため最急勾配を25 ‰とする迂回ルートも検討されたが、最大66.7 ‰(約3.8度)の急勾配は回避せず一般的な車輪による粘着式鉄道(粘着運転)で登降坂することになった。1961年(昭和36年)に着工し、1963年(昭和38年)7月15日に旧線のやや北側をほぼ並行するルートで新線が単線で開通した。粘着式の新線は電圧・集電方式を他の区間と同じ直流1,500V・架空電車線方式に変更した。

当初は新線(粘着式)と旧線(ラック式)が併用されていたが、同年9月30日に旧線(ラック式)は廃止。1966年(昭和41年)2月1日には熊ノ平駅が熊ノ平信号場に格下げされた他、同年(昭和41年)7月2日には、旧線の一部を改修工事する形で新線がもう1線開通。これによって丸山信号場 - 矢ヶ崎信号場間が複線化されたことで、横川駅 - 軽井沢駅間は全区間が新線(粘着式)による複線となり、丸山信号場・矢ヶ崎信号場は廃止となった。当区間の所要時間は旅客列車で40分から、勾配を上る下り列車は17分、勾配を下る上り列車は24分に短縮された[32]

しかし、旅客列車電車気動車客車)・貨物列車貨車)を問わず単独での運転は勾配に対応できず、補助機関車として2両を1組としたEF63形を常に連結することとなった。勾配を登る下り列車(横川駅→軽井沢駅)を押し上げ、勾配を下る上り列車(軽井沢駅→横川駅)は発電ブレーキによる抑速ブレーキとなるという機能であった。そのため、必ず勾配の麓側にあたる横川側に2両が連結された。

客車・貨物列車の場合(EF62形単機回送も含む)
信越本線内の本務機関車としてEF63形と同時期に製造されたEF62形が牽引する列車ではEF63形を連結して当区間を走行する際の輸送定数は客車が360 トン (t)、貨物列車で400 tに制限されたほか、ラック時代に一部列車で実施されていた客車と貨車を混結した状態で走る混合列車の運転が保安上禁止された。
下り列車の場合(軽井沢)EF62形 + 客車もしくは貨車 + EF63形 + EF63形(横川)の編成となり、無線通信によって最前部のEF62形が牽引し後部のEF63形2両で推進するプッシュプル方式での運転操作が行われた。上り列車の場合、(軽井沢)客車 + EF62形 + EF63形 + EF63形(横川)と勾配の麓側に3両の機関車が連なり、最前部のEF63形から3両の総括制御を行う。
EF62形 + EF63形 + EF63形の3重連による牽引力はD51形蒸気機関車の5重連に相当する[33]
電車・気動車の場合
EF62形・EF63形量産車による3重連以上を用いた試験の結果、EF63形が無動力の電車・気動車を牽引する場合は編成両数が電車が最大8両、気動車は最大7両に制限された[34]。この問題についてはさまざまな解決策が検討されたが、最終的にEF63形と当区間を通過する電車を協調運転することで、増結が求められていた4両分の荷重を電車が負担する案が採用されることになった。こうして1968年以降、EF63形との協調運転により最大12両編成での通過を可能とした169系489系189系の各形式電車が投入されたが、協調・非協調を問わず当区間の運転はすべてEF63形に乗務する機関士が担当し、峠を登る列車ではEF63形の機関士が後ろ向きに運転を行うため、電車・気動車による列車では先頭に乗務している運転士は信号現示と進路の確認を行ない車内電話を通してEF63形乗務の機関士へ伝達し相互喚呼していた。また協調運転時の総括制御、推進・牽引運転時に電車・気動車側のマスター・コントローラーとブレーキ弁を扱うと制御回路を破損してしまうため、電車・気動車側のマスター・コントローラーはハンドル「切」位置にして鍵を抜き取り、ブレーキ弁ハンドルも抜き取るよう規程されていた。
1985年(昭和60年)頃には余剰のサロ183形を改造した自力登坂可能な187系(第2案)も計画されたが、諸般の事情から白紙撤回されている。詳細は「国鉄187系特急用直流電車開発計画」も参照のこと。

1975年(昭和50年)10月28日には、横川駅 - 熊ノ平信号場間の上り線で機関車の単機回送列車(EF63形・EF62形4連)が暴走し脱線転落する事故が発生した(信越線軽井沢 - 横川間回送機関車脱線転落事故)。

1987年(昭和62年)4月1日の国鉄分割民営化に伴い、信越本線は全区間を東日本旅客鉄道(JR東日本)が第一種鉄道事業者として承継したが、日本貨物鉄道(JR貨物)は横川駅 - 軽井沢駅間を含む安中駅 - 田中駅間を第二種鉄道事業者として承継しなかったため、横川駅 - 軽井沢駅間の貨物営業は廃止となった。

1993年(平成5年)8月17日、前述の通り国が信越本線の横川駅 - 軽井沢駅間の鉄道施設の一部を「碓氷峠鉄道施設」として重要文化財に指定した[35]

横軽対策

車両番号(クロ157-1)の先頭に付された横軽対策識別マーク

最大66.7 ‰の急勾配という条件で峠の下側から本形式による推進・牽引運転を実施するため、非常ブレーキ動作時などに過大な自動連結器作用力(自連力)が発生し、連結器の破損や列車の座屈による車両の車体と台車の分離、浮き上がり脱線の予防、車両の逸走といった事故が発生するのを防止する目的で、当区間を通過する車両には以下の対策(通称:「横軽対策」)が必須とされた。また、指定された形式以外の車両、大物車、鋼木合造客車は通過を禁止されている。

  • 台枠・連結器の強化[36]
  • 緩衝器容量の増大[34]
  • 車掌弁(車掌用非常ブレーキ装置)への絞り追加[37]
  • 台車横揺れ制限装置の追加[38]
  • 空気ばね台車装着車に対するパンク機能の付加[34][39]

対策施工車両には識別のため車両番号の先頭に直径40ミリメートルの「●(Gマーク)」を付した。

これらの制約は、当区間の粘着運転への切り替え直前に実施された165系電車9両編成とEF63形による下り勾配での試験運転で、非常ブレーキを作動させたところ機関車次位のクハ165形の軽井沢方にあたる車体後部が垂直座屈で浮上し、車体と台車が分離するという現象や上り勾配での客車牽引で縦勾配の変曲点で軽井沢方の台車が脱線する現象が発生した[34][40]ことに由来する。

この結果、機関車と他の車両との間で発生する自連力の過大がもたらす悪影響が認識され当区間での被牽引対象列車に対する最大8両(系列によっては7両)までの連結両数制限と車種を問わず心皿脱出防止のため空気ばね台車装着車に対するパンクの義務化が決定された[34]。前述の専用車両によるEF63形との協調運転システムの開発は、前者の制限を解消し輸送力不足を補う手段として開発されたものである。後者の対策は空気ばね台車の限界自連力が金属ばね台車に比べて著しく小さいため垂直座屈に弱い一方で空気ばねをパンクさせてストッパゴムだけで車体を支持する状態にすると空気ばね有効時と比較して約6倍の限界自連力を得られることから実施されたもの[41]で、同様に貨物列車の車掌車についても推進運転時の坐屈問題から1段リンク式足回りをもつヨ3500形が限定使用された[注 1]

電車では協調・非協調を問わず座屈による浮き上がり脱線予防策として車両重量のある電動車ユニットを峠の下側に組成することになり、新前橋電車区(現・高崎車両センター)・長野運転所(後の北長野運転所→長野総合車両所→現・長野総合車両センター)配置の165・169系が他車両基地配置車と逆向きの編成に組成されていたほか、後に松本運転所(現・松本車両センター)配置の115系1000番台(後に長野へ移管)・新前橋電車区配置の185系200番台も電動車ユニットの向きが本来と逆向きにされた。

北陸新幹線開業に伴う信越本線の廃止

碓氷峠の抜本的な輸送改善は、1997年(平成9年)10月1日の北陸新幹線高崎駅 - 長野駅間(この区間は2015年〈平成27年〉3月13日まで長野新幹線として営業)の開通によってなされた。その際、信越本線の碓氷峠区間(横川駅 - 軽井沢駅間)は、長距離旅客が新幹線に移行する反面で、県境を越える即ち住環境を跨ぐローカル旅客数が見込めないことや、峠の上り下りに設置する設備の維持に多額の費用がかかるとして、第三セクター鉄道などに転換されることなく廃止された。

代替交通機関として横川駅 - 軽井沢駅間を片道34分で結ぶジェイアールバス関東小諸支店による碓氷線1日7往復の運行に移行した[42]。北陸新幹線は碓氷峠北方にある碓氷峠トンネルを通過する。この区間は 30–‰(約1.7度)の勾配が連続しているため、E2系などの勾配対策を施工した車両のみが入線可能である[27]。新幹線開業後の1997年(平成9年)10月の高崎 - 軽井沢間の1日平均の乗車人員は上下方向で合計およそ30,000人・乗車率 68 % と前年同期に同区間を運行していた信越本線の特急「あさま」と比べて約12,000人増加した[43]。廃止の方針について、群馬県安中市新島学園高等学校長野県から通学する生徒の保護者を中心に廃止許可の取消を求める行政訴訟取消訴訟)が前橋地方裁判所に起こされたが、裁判所は「(廃止の手続きを定めた)鉄道事業法は利用者個々の利益を直接保護するものではない」として原告適格を認めず、訴訟を却下した[44]東京高等裁判所控訴審、最高裁判所上告審も前橋地方裁判所の決定を支持し、却下が確定した。

旧碓氷線の廃線部分11.2 kmのうち、群馬県側の約10 kmは碓氷郡松井田町(現・安中市)が買収しており、残り約840 mについても北佐久郡軽井沢町に買取を陳情する動きがあった[45]。廃線跡は廃止前と変わらない状態を保つように管理されており、かつての線路跡が遊歩道「アプトの道」となっている以外にも線路部分が多く残されている(遊歩道区間は、横川駅からラック式の旧線をたどり旧・熊ノ平駅までとなっている。後節も参照)。架線や通信ケーブル等も現役当時のまま残っていたが、現在では横川方の上下線で盗難されたため、現存しない[46]碓氷峠鉄道文化むらでは、横川駅側の廃線跡を利用して、かつて使われていた保守機関車500Aなどを走行させている[47]

車両

ラック式時代

粘着式時代

廃線跡の活用

2018年(平成30年10月から安中市観光機構が「廃線ウォーク」を主催している[48]。横川 - 軽井沢間の約11 km(標高差約550 m)の廃線跡を歩く[48]

近代以降の事故

1918年(大正7年)3月7日に発生した熊ノ平駅列車脱線事故の現場

碓氷峠では明治以降だけでも多くの事故が起きている。1891年から1893年の線路の建設に当たっては、完成を急いだことなどから500名以上もの殉職者が生じている[18][注 2]。1901年には日本鉄道副社長毛利重輔が偶然巻き込まれ死亡した碓氷峠蒸気列車逆走事故が起こった[50]。また、1950年には熊ノ平駅で数回にわたる土砂崩れが起きて50名が亡くなった。勾配が極めて急なことから列車脱線事故もしばしばあり、例えば1963年10月16日にトンネル内で貨車[51]1975年10月28日には電気機関車が脱線している(信越線軽井沢 - 横川間回送機関車脱線転落事故[52]。特に1975年の事故では機関車4両が10 m下の県道斜面まで転落し、乗員3名が重傷を負った。また、被災した機関車4両も復旧不能で全機廃車となった。

夏季は豪雨国道18号が崩落することも多く、1979年8月12日には雷雨のため長さ15 m、幅2.5 mにわたって崩落して通行止めとなり[53]1992年8月29日には長さ150 m、幅6 mにわたって道路北側の土砂が崩れた上に地盤が緩み、復旧に2か月を要している[54]。この他、1969年には山火事で国道18号の3 kmの区間が通行止めとなったこともある[55]

伝承・詩歌・作品など

碓氷峠には、他の峠などと同様に豪傑の伝承などがある。古代では頼光四天王の1人、碓井貞光が有名であり、先祖が勅勘によって配流され碓氷峠に隠棲していたといわれる[56]中世から近世にかけては「灘田の左太夫」(なだたのさだゆう)の話が伝わっている。実在した土豪の佐藤氏が左太夫のモデルになったとされ、具体的な内容としては

  • 足が非常に速く、茶飲み話をしている間に信濃国まで行ってソバを刈ってきた[57]
  • 怪力の持ち主で、加賀藩主駕籠を1人でかつぎ、反対側には巨石をぶら下げたまま休まずに峠を登りきった[58]
  • 力を利用して悪事を働いたため峠を追われ、裏妙義に隠れ住んで亡くなった[58]

などがある。

近代に入ると多くの文学者が訪れ、正岡子規1891年の『かけはしの記』[59]の中で、碓氷峠を馬車鉄道で越えた時の様子を描いている。

大正時代には、北原白秋が『碓氷の春』という一連の和歌を詠んでおり、その一首を刻んだ歌碑横川駅下のドライブインに存在する[11]。また、頂上の熊野神社の境内には山口誓子杉浦翠子が碓氷峠を詠んだ俳句の句碑がある[60]西條八十・『ぼくの帽子』の冒頭には碓氷峠が登場し、森村誠一の『人間の証明』はそれを引用している。上毛かるたの「う」の札は「碓氷峠の 関所跡」である。

見所

  • 中山道 坂本宿
  • 旧碓氷線 碓氷第三橋梁(めがね橋)
  • 碓氷湖
    碓氷川に建設された坂本ダムによってできたダム湖であるが、周辺が整備され新緑や紅葉の名所である。
  • 碓氷峠鉄道文化むら:付近の観光施設
  • アプトの道遊歩道
    信越本線の横川を基点として、旧上り本線を経由し、丸山変電所、峠の湯、碓氷第三橋梁(通称めがね橋)を経て、現在は熊ノ平(旧本線の信号所)までが通行可能となっている。なお、熊ノ平から軽井沢の間は、ラック方式時代の物も残ってはいるものの、一部はトンネルがふさがれたりしており、現時点での整備計画はない。なお、横川から峠の湯までは旧上り本線をアスファルトで舗装しているが、急勾配のレールの重さによるずれにより、所々にアスファルトにひびが入っている(現在も年間に数ミリのレールのずれが起きている)。2005年(平成17年)に開通したトロッコを運転している旧下り本線は柵で分離し、立入できないようになっている。なお、トロッコは碓氷峠鉄道文化むらの遊具という扱いとなっているため、同施設の入場券が必要であり、さらに11月から3月中旬までは運休となる。運転は土曜・休日及び特定日の日中となっており、横川の鉄道文化むらから峠の湯までの2.6キロメートルを走る。
  • 丸山変電所
    ラック方式鉄道電化の際に軽井沢の矢ケ崎変電所とともに建設された施設で、蓄電池室と機械室の2棟からなる。レンガ造りで丸山にある物は用途廃止後もそのまま放置される形となり残ったが、矢ケ崎の物は解体された。信越本線廃止後に遊歩道の整備にあわせて復元工事が行われ、2002年(平成14年)に完成した。この工事にあわせ、建物内部の一部のものが撤去されている。トロッコ開通により、丸山駅として停留所が新設されたが、ラック方式時代には丸山信号場としていた場所となる。なお、廃線前から秋に咲くコスモスが絵になるとして有名ではあるが、このコスモスは付近の土地所有者が植えたもので、それが増えて現在のようになっている。
  • 熊ノ平信号場
    ラック方式時代には駅として開業したもので、1968年(昭和38年)の粘着式運転の開始により、その後駅は廃止され信号場となる。駅としての機能があるときには玉屋(現在は坂本にある玉屋ドライブイン)が、峠の力餅を販売していた。1950年(昭和25年)に発生した土砂災害によって多くの犠牲者が発生し、殉難の碑が建立され、現在も毎年慰霊祭が行われている。慰霊碑に隣接して、熊ノ平神社もある。熊ノ平は現在、遊歩道以外は立入禁止となっている。
    ラック方式時代のトンネルが 3 本、旧本線のトンネルが 4 本あるが、ラック方式時代に作られた引き上げ線となるトンネルの1本が国道18号(旧道)に続いており、業務用の出入り口として使用されていた。現在も工事車両の出入り口となっており、入口の門は施錠されている。場内には変電所も放置されたまま残っており、そこに新たに気象観測の機器も設置されている。この他アプトの碑やホーム跡も残っており、廃線当時と状態は変わっていない。
  • ラック方式時代のトンネル・橋梁
    国道18号(旧道)沿いで、至る所に見ることができる。トンネル・カルバート・橋梁に関して、熊ノ平から横川の方には案内看板が設置されているが、軽井沢に近い中尾橋やその近くのトンネルは特に案内板などは設置されていない。旧本線に関しても案内板などの設置はない。
  • ゴルフ場付近
    霧積温泉へ通じる道路で旧本線が観察できる。1975年(昭和50年)に発生した脱線転覆事故の際に出来たトンネル壁面の傷が、上り本線の第一トンネル出口に残されている。事故現場付近の植生が違っているが、旧本線から見ないとわからない状態となっている。なお、遊歩道化されていない部分の上り本線は草木が生い茂り、かなり荒れている。また、上り第一トンネル付近に出る所は吸血ヒルが生息しているため、無用な立入りは避けたい。

廃線区間の注意事項:遊歩道など開放された箇所以外の立入は禁止されており、許可がない立入は建造物侵入罪となる。特にラック方式時代のトンネルなどは経年から危険である。

脚注

注釈

  1. ^ 新線開業直後の1963年(昭和38年)10月以降3回にわたり2段リンク式足回りを持つ緩急車の脱線事故が発生し、検証の結果大きな横圧が発生することが判明したことからヨ3500形の限定使用となった。
  2. ^ 歴史作家の清水昇は、碓氷関所跡にある「招魂碑」(1892年〈明治25年〉3月建立)に刻まれている500人という犠牲者数について、「1年間に500人もの作業員が犠牲になるだろうか」と疑問を呈した上で、この招魂碑は碓氷峠の工事のみならず日本における鉄道の建設開始(1870年〈明治3年〉3月)から1891年(明治24年)までの全体的な犠牲者を弔ったのではないかと述べている[49]

出典

  1. ^ a b 出版局年鑑事典編集部 編「ネーチャー・ウオッチング 峠80選」『知恵庫 ネーチャーガイド・日本 朝日現代用語 知恵蔵 1997年版別冊朝日新聞社、1997年1月1日、189頁。ISBN 978-4023900974NCID BN15370155国立国会図書館書誌ID:000002801196。"24 碓氷峠(群馬県・長野県)"。 
  2. ^ 野村哲 1996, pp. 5–6.
  3. ^ 野村哲 1996, p. 6.
  4. ^ 鶴田治雄 1985, p. 242.
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  6. ^ 本田政次 1988, p. 266.
  7. ^ 『朝日新聞』1988年12月10日付 朝刊、群馬地方面
  8. ^ 『朝日新聞』1998年6月13日付 夕刊、娯楽面、7面。
  9. ^ 『朝日新聞』2005年1月29日付 朝刊、オピニオン面、12面。
  10. ^ 倉田正 1979, p. 65.
  11. ^ a b 市川潔 1983, p. 190.
  12. ^ 倉田正 1979, p. 66.
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  14. ^ a b c 「日本の道100選」研究会 2002, pp. 58–59.
  15. ^ 「日本の道100選」研究会 2002, pp. 6–13.
  16. ^ 倉田正 1979, p. 67.
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  18. ^ a b c d e 倉田正 1979, p. 68.
  19. ^ 『朝日新聞』1984年12月11日付 朝刊、解説面、4面。
  20. ^ ”[土屋圭市ドリキン伝説 タイヤ構造のワイヤー1本の違いがわかる男]”WEB CARTOP
  21. ^ トヨタ博物館”『企画展・トヨタ博物館開館15周年記念「国産車誕生100年 日本くるま意外史」2004年3月30日〜7月4日』”パンフレット
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  27. ^ a b c 田島二郎 1998, p. 11.
  28. ^ a b 北河大次郎 2007, p. 55.
  29. ^ 建築物や橋等の構造物の柱間寸法。
  30. ^ 碓氷峠鉄道施設 第三橋梁 - 文化遺産オンライン文化庁)など。
  31. ^ 北河大次郎 2007, p. 56.
  32. ^ 倉田正 1979, p. 69.
  33. ^ 久保田 (2005), p. 202.
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  37. ^ 真宅正博 & 渡辺登 1968, p. 27.
  38. ^ Rail Magazine』No. 161、ネコ・パブリッシング、1997年2月、[要ページ番号] 
  39. ^ 菅原憲一「国鉄の急こう配線の現状と展望」『鉄道ピクトリアル』No. 363、電気車研究会、1979年7月、48頁。 
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  42. ^ 『朝日新聞』1997年10月2日付 朝刊、長野地方面
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  47. ^ 『朝日新聞』2001年10月12日付 朝刊、群馬地方面、34面。
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参考文献

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  • 北河大次郎「文化を彩る近代の橋(9)わが国最大の煉瓦造橋梁 碓氷峠鉄道施設 第三橋梁」『橋梁と基礎』第41巻第3号、建設図書、2007年、54 - 56頁。 
  • 久保田博『日本の鉄道史セミナー』(初版)グランプリ出版、2005年5月18日。ISBN 978-4876872718 
  • 倉田正「峠物語 碓氷峠」『道路』第464号、日本道路協会、1979年、65 - 70頁。 
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  • 田島二郎「鉄路4代 - 碓氷峠を越えて」『土木学会誌』第83巻第3号、土木学会、1998年、10 - 11頁。 
  • 鶴田治雄「光化学スモッグの碓氷峠越え 内陸域における大気汚染の動態」『科学』第55巻第4号、岩波書店、1985年、239 - 243頁。 
  • 中橋順一「列車の座屈現象」(PDF)『Railway Research Review』Vol.65No.8、鉄道総合技術研究所、2008年8月、26 - 29頁。 
  • 「日本の道100選」研究会 著、国土交通省道路局(監修) 編『日本の道100選〈新版〉』ぎょうせい、2002年6月20日。ISBN 4-324-06810-0 
  • 野村哲「平成7年度 : 群馬県、碓氷川源流域にみる自然環境の形成要因 : 碓氷峠越えを困難にしている自然史的要因を探る」『群馬県の地域情報に関する総合的研究:特定研究報告書』、群馬大学社会情報学部、1996年、3 - 10頁。 
  • 本田正次『植物学のおもしろさ』朝日新聞社〈朝日選書〉、1988年、262-267頁。ISBN 4022594667 
  • 真宅正博、渡辺登「信越線横川-軽井沢間の電気機関車と電車の協調運転」『鉄道ピクトリアル』No. 213、電気車研究会、1968年8月。 
  • 日本歴史地名大系(オンライン版) 小学館 (『日本歴史地名大系』 平凡社、1979年・2002年 を基にしたデータベース)

関連項目