「インテルナツィオナーレ・ミラノ」の版間の差分
編集の要約なし |
|||
13行目: | 13行目: | ||
|キャパ=85,847 |
|キャパ=85,847 |
||
|代表={{Flagicon|ITA}} [[マッシモ・モラッティ]] |
|代表={{Flagicon|ITA}} [[マッシモ・モラッティ]] |
||
|監督=不在 |
|||
|監督={{Flagicon|ITA}} [[ジャン・ピエロ・ガスペリーニ]] |
|||
|HP=http://www.inter.it |
|HP=http://www.inter.it |
||
| position = Serie A, 1st |
| position = Serie A, 1st |
2011年9月21日 (水) 13:36時点における版
インテルナツィオナーレ・ミラノ | |||
---|---|---|---|
原語表記 | Football Club Internazionale Milano | ||
愛称 | Nerazzurri, La Beneamata, Il Biscione | ||
クラブカラー | 青と黒 | ||
創設年 | 1908年 | ||
所属リーグ | セリエA | ||
所属ディビジョン | Serie A, 1st | ||
ホームタウン | ミラノ | ||
ホームスタジアム | スタディオ・ジュゼッペ・メアッツァ | ||
収容人数 | 85,847 | ||
代表者 | マッシモ・モラッティ | ||
監督 | 不在 | ||
公式サイト | 公式サイト | ||
| |||
■テンプレート(■ノート)■サッカークラブPJ |
インテルナツィオナーレ・ミラノ(Football Club Internazionale Milano)は、イタリア・ミラノを本拠地とするサッカークラブ。
概要
1908年創設。ホームスタジアムはスタディオ・ジュゼッペ・メアッツァ。略称はインテル、インテル・ミラノ、インター・ミラン。愛称はクラブカラーに由来するネラッズーロ(イタリア語で「黒(nero)と青(azzurro)」複数形はネラッズーリ(nerazzurri))。サポーターはインテリスタと呼ばれる。
ユヴェントスFC、ACミランと並びイタリアを代表するクラブであり、ヨーロッパでも屈指のビッグクラブの1つ。中でも、同じ都市・同じスタジアムをホームとするACミランとは永遠のライバル関係にある。ACミランが労働者階級から支持を集めているのに対し、インテル・ミラノは富裕層を中心に支持を集めているとされていたが、現在では階級差は特になく、お互いにミラノの一般市民の広い層から支持を集めている。
ユヴェントスFCとの対戦はイタリアダービー、ACミランとの対戦はミラノダービーと呼ばれ、国内外の関心を集めるビッグマッチとなっている。なお、イタリアダービーは「一度も降格経験がない2チームだから」というのは俗説で、本当はイタリアの有名なジャーナリストのジャンニ・ブレラがインテルが1965-1966シーズンに10回目のスクデットを獲得してラ・ステッラを付けられる2番目のチームになったときに「この常に優勝争いをしている2チームの対戦がイタリアのナショナルダービー」と言ったことから名付けられた。この当時はACミランとボローニャFCも降格経験がなく、ACミランは1979-1980シーズン、ボローニャFCは1981-1982シーズンに初の降格を経験している。また、ユヴェントスFCが2005-2006シーズン後にセリエBに降格したため、1929年のセリエA開幕以来、現在まで一度もセリエBへの降格経験がない唯一のクラブとなった。
歴史
1908年-20年代前半 -インテルの誕生~発展期-
前身はACミランと同じ「ミラン・クリケット・アンド・フットボール・クラブ(Milan Cricket and Football Club)」だが、外国人選手の加入問題を巡ってクラブ内で対立が生じ、その反主流派(外国人選手の加入に積極的な一派)は1908年3月9日にミラノのレストラン“オロロージョ”にて会合を開き、ミランからの分離・独立を決める。新クラブは国籍を問わず世界中の選手に門戸を開く、という意味を込め、「FCインテルナツィオナーレ」と命名され、チームカラーは青、黒、金に決まった。
ACミランとのダービーマッチは、ACミランの5連勝で始まり、当初インテルはACミランに歯が立たなかった。しかし、1910年に5-0でACミランから初勝利。その後、両チームのライバル関係は激化していった。
そして、設立より2年後の1909-10シーズンには当時無敵だったプロ・ヴェルチェッリを10-3で倒して初のスクデットを獲得し、1919-20シーズンにもリヴォルノを倒して2回目のスクデットを獲得する。
1920年代後半-40年代前半 -ベッピーノの登場と第一次黄金時代-
1920年代後半、ムッソリーニを党首とするファシスト党の影響はサッカー界にも及び、国粋主義を掲げるファシスト党にとってこのクラブ名と外国に対して寛容な精神は思想に反するものだった。
ムッソリーニは1928年にインテルとUSミラネーゼ(Unione Sportiva Milanese)を合併させ、更には翌年チーム名をアンブロシアーナ(Ambrosiana)に、ユニフォームをセント・ジョージ・クロスをモチーフとした赤十字デザインに変更させる。
しかし、この決定は熱狂的なインテリスタの怒りを買った。そして、彼らの抗議により、1932年クラブ名はアンブロシアーナ・インテル(Ambrosiana-Inter)となり、ユニフォームも元に戻され、辛くも"INTER"の名と青と黒の縦縞の伝統は守られた。
その頃、インテルユースから超新星が誕生した。彼の名はジュゼッペ・メアッツァ。「ベッピーノ」という愛称で呼ばれたこの選手は、デビューシーズンの1928-29シーズンにいきなり得点王に輝く活躍をした。ドリブルが巧く、シュートも正確で、テクニックも抜群。パス能力にも優れ、更に美男子だった彼は瞬く間にクラブのアイドルとなり、また中心選手となるのに時間はかからなかった。 翌1929-30、初の全国リーグ(セリエA)が開催され、得点王に輝いたメアッツァ(35-36、37-38シーズンにも得点王になった)の活躍もあり、アンブロシアーナ・インテルは初の全国リーグのチャンピオンに輝いた。 勢いは止まらず1937-38シーズンにも彼の活躍で4回目のスクデットを獲得、翌シーズンには初のコッパ・イタリアを獲得した。 1939-40シーズンもメアッツァが病気により試合に出られなかったにも関わらず、5回目のスクデットを獲得した。翌年メアッツァは408試合、287得点という偉大な記録(歴代最多得点)を残してクラブを去り(1946-47に復帰)、アンブロシアーナ・インテルの黄金時代は終焉した。
戦争が終わり、ファシスト政権が倒れ、1945年にクラブ名は元のインテルナツィオナーレに戻った。
1940年代後半-50年代 -サン・シーロとカテナチオ-
1948年、インテルはそれまでのホームスタジアム、スタディオ・チーヴィコ・アレナ(Stadio Civico Arena)の老朽化に伴い、ホームスタジアムをミランのホームスタジアムサン・シーロに移転し、共同でスタジアムを使うことになった。
1952-53シーズン、監督のアルフレド・フォーニはそれまで弱小チームが使っていた堅い守備からのカウンター(のちにカテナチオと呼ばれる)を基本とした戦術を使い、ストライカーの"Veleno(毒)"ことロレンツィとニエルス、左ウィングの"Nacka"ことスコグルンド、GKの"Kamikaze"ことゲッツィらの活躍もあり、6回目のスクデットを獲得。 翌1953-54シーズンは前シーズンに守備的過ぎると批判されたことから、攻撃的になり、7回目のスクデットを獲得した。
そして1955年、後に伝説となる石油王アンジェロ・モラッティが会長に就任する。
1960年代 -魔術師とグランデ・インテル-
就任以来、監督の首を次々とすげ替えていったモラッティ会長だったが、1960年についに素晴しい監督に巡り会った。 彼の名はエレニオ・エレーラ。スペインのFCバルセロナに2回の優勝をもたらした、"マーゴ(魔術師)"と呼ばれるアルゼンチン人監督である。
愛弟子ルイス・スアレスを引き連れ、スペイン風の攻撃的サッカーで臨んだエレーラだったが、当初は結果が出ず1962年に一度解任された。しかしスペイン代表を率いたチリワールドカップから戻ってくると、再びインテルの監督に就任し、今度は堅い守備からのカウンターアタックを基本戦術とし、当時としては珍しいメンタルトレーニングも行い、強化に着手した。
そして1962-63シーズン、インテルはGKジュリアーノ・サルティやアルマンド・ピッキを中心としたタルチシオ・ブルニッキ、アリスティーデ・グアルネーリ、ジャチント・ファッケッティの守備陣の奮闘、司令塔スアレスのゲームメイクやコルソ、サンドロ・マッツォーラのファンタジーあふれるプレー、当時としては革新的だったSBのファケッティのオーバーラップによるカウンター攻撃で8回目のスクデットを獲得した。
翌1963-64シーズンはボローニャに同勝点によるプレーオフに負けてスクデットは逃したものの、UEFAチャンピオンズカップでは当時無敵だったスペインのレアル・マドリードを倒し、イタリア勢ではミランに次ぐ2番目のヨーロッパチャンピオンに輝いた。翌シーズンにはアルゼンチンのCAインデペンディエンテを撃破してインターコンチネンタルカップを制し、イタリア勢では初の世界チャンピオンになり、ベンフィカを倒してUEFAチャンピオンズカップも連覇、更にはスクデットも獲得した。 翌1965-66シーズンにも再びインデペンディエンテを撃破して世界チャンピオンになり、国内では10回目のスクデットを獲得してユヴェントスに次ぐラ・ステッラ(スクデット10回獲得を表す星)をユニフォームにつけることを許された。翌シーズンもUEFAチャンピオンズカップ決勝に進んだが、今度はスコットランドのセルティックに敗れた。
そして1968年、モラッティ会長はイヴァノエ・フライッツォーリに会長職を譲り、グランデ・インテル時代は終わりを告げた。
1970年代-80年代前半 -夢の終わり-
1970-71シーズン、選手と対立していたエリベルト・エレーラ監督の後を受けたジャンニ・インヴェルニッツィ監督はグランデ・インテルの遺産と得点王に輝いたロベルト・ボニンセーニャの活躍で11回目のスクデットを獲得、翌シーズンはUEFAチャンピオンズカップ決勝に進んだが、ヨハン・クライフ率いるオランダのアヤックスに完敗した。
そしてマリオ・コルソやタルチシオ・ブルニッキがクラブを去り、サンドロ・マッツォーラも引退、ジャチント・ファッケッティも1977-78シーズンに2回目のコッパ・イタリアを手土産に引退しグランデ・インテルは完全に消滅した。
1979-80シーズンにエウジェニオ・ベルセッリーニ監督の下、イヴァノ・ボルドン、ガブリエレ・オリアーリ、ジャンピエロ・マリーニ、ジュゼッペ・バレージ、エヴァリスト・ベッカロッシ、アレッサンドロ・アルトベッリ等の活躍で12回目のスクデットを獲得、1981-82シーズンに3回目のコッパ・イタリアを獲得し、黄金時代の再来を期待させたが、それも長くは続かなかった。
また、1979年にジュゼッペ・メアッツァが他界、これに対しミラノ市は1980年3月2日に彼の功績を讃えてスタジアムの正式名称をスタディオ・ジュゼッペ・メアッツァ(Stadio Giuseppe Meazza)と定めた。
80年代後半 -一瞬だけの栄光-
その後フライッツォーリ会長は1984年に"フィアットの従業員"と揶揄されたエルネスト・ペッレグリーニに会長職を譲る。 そして1986年、ペッレグリーニ会長はユーヴェに黄金時代を築いたジョヴァンニ・トラパットーニ監督を招聘し、インテルの復活を託す。
最初の2年間は結果が出なかったが、1988-89シーズン、勝負弱さをドイツ人ローター・マテウスの"ゲルマン魂"を注入することにより補填し、ファケッティ引退以降不在となっていた左SBを同じドイツ人のアンドレアス・ブレーメで埋め、生え抜きのワルター・ゼンガ、ジュゼッペ・ベルゴミ、リッカールド・フェッリ、若手のニコラ・ベルティ、アルゼンチン人のラモン・ディアス、得点王に輝いたアルド・セレーナなどを擁し、スクデットを獲得した。 この時のスクデットは勝ち点が勝ち=2の制度の下では最高記録となる58(34試合26勝6分2敗。現在のシステムでは84)、アウェー最多勝ち点26(17試合11勝4分2敗。現在のシステムでは37)、アウェー最多勝利など数々の当時のリーグ記録を塗りかえるものだった。
翌シーズンドイツ人のユルゲン・クリンスマンを迎え、ドイツトリオを中心としたインテルはスーペルコッパ・イタリアーナを制し、今度こそ黄金時代の再来かと思わせたが、それも一瞬の栄光に過ぎなかった。
90年代-2000年代前半 -苦悩のネラッズーロ-
その後ドイツトリオとトラパットーニ監督は1990-91シーズンにローマを破り、インテルにUEFAカップのタイトルをもたらした。しかし、トラパットーニ監督はシーズン終了後、ファンの「つまらないサッカー」という声の下に解任され、インテルの迷走が始まる。
1992-93シーズン、監督にエラス・ヴェローナに唯一のタイトルをもたらしたオズヴァルド・バニョーリを招聘し、"ゴールの詩人"ことルベン・ソサの活躍で2位になったインテルは、翌シーズン、ACミランがオランダ人を獲得して成功したのを見てデニス・ベルカンプとヴィム・ヨンクを獲得しスクデットを狙ったが、期待されたベルカンプが全くもって活躍せず結果は13位という史上最低の成績、彼らも途中就任で選手時代にここでスクデットを獲得しているジャンピエロ・マリーニと共に2回目のUEFAカップのタイトルをもたらしただけだった。
1994-95シーズン、ナポリに最初のタイトルを持ってきたオッタビオ・ビアンキを招聘して立て直しを図ったものの、期待されたベルカンプ、パンチェフはシーズンを通して活躍せず、一時はトップとは大きく離れた2桁順位にまで低迷する。1995年2月18日、グランデ・インテルを築きあげたアンジェロ・モラッティの息子マッシモ・モラッティが、累積赤字で経営に行き詰まっていたペッレグリーニからインテルを買い戻し、インテルは再びモラッティ家のものとなった。これをきっかけにチームは巻き返して最終節で7位になり、UEFAカップ出場権を得ることに成功した。
そしてハビエル・サネッティを皮切りに、毎年のように多額の移籍金でスター選手を買い漁り、チームを強化し、何度も監督の首をすげ替えてきたが、これが実を結んだのが1997-98シーズンであった。シーズン開幕前にロナウドを獲得したチームはユヴェントスと首位争いを演じる。しかし、ユヴェントスとのイタリア・ダービーでは、ユヴェントス優位の判定が行われ、後味の悪さを残しながらチームは敗れた。これが響いてリーグ優勝を逃し、3回目のUEFAカップを獲得することしかできなかった。
1998-99シーズンは序盤で躓く。シーズン途中で監督のルイジ・シモーニが解任されるのをきっかけに、チームの規律が乱れ、更に、ロナウドの大怪我という不運もありチームは低迷した。この混乱と低迷は、2004-05シーズンにロベルト・マンチーニが監督に就任するまで続くこととなる。
1999-2000シーズンにはマルチェロ・リッピを監督に招聘し、クリスティアン・ヴィエリ、アンジェロ・ペルッツィ、ヴラディミル・ユーゴヴィッチといったリッピの教え子を次々に獲得する一方で、ジャンルカ・パリュウカとジュゼッペ・ベルゴミといったこれまでインテルの屋台骨を支えてきた両選手に戦力外通告した。これら一連のインテルのユヴェントス化は、選手とリッピとの溝を深め、インテリスタには不評であった。最終的にUEFAチャンピオンズリーグ予備予選出場を賭けたパルマとのプレーオフでは、ロベルト・バッジョの活躍のおかげでリッピの首の皮が繋がったという有り様であった。
21世紀に入り、2001-02シーズンにバレンシアCFを2年連続UEFAチャンピオンズリーグ決勝に導いたアルゼンチン人監督のエクトル・ラウル・クーペルを招聘し、最終節まで首位に立っていたが最後の試合に敗れ、またしてもスクデットを逃した。翌シーズンもスクデットを獲得できず、成績不振によりクーペルは解任される。
2000年代後半 -久しぶりの歓喜~新たな黄金時代-
インテルやパルマなどでプレーしたマルコ・ブランカがテクニカル・ディレクターに就任して以降、移籍市場において、無闇なスター狩りにメスを入れ、的確な補強に路線変更する。これにより、チームの強化が従来よりも円滑に進むようになった。
2004-2005シーズン、ヨーロッパのカップ戦優勝からは既に40年以上、最後のスクデットからは15年以上経っていたこの年、前ラツィオ監督のロベルト・マンチーニを招聘し、2004年冬の移籍市場ではマンチーニの意向で事前に獲得したとされるデヤン・スタンコビッチのほか、パルマにレンタル移籍していたアドリアーノを復帰させ、更に2004年夏の移籍市場ではエステバン・カンビアッソらを獲得。しかし、コッパ・イタリアでは優勝を果たしたものの、セリエAでは負けないものの勝てない試合が続き、このシーズンも3位に終わる。2005年夏の移籍市場ではルイス・フィーゴ、ワルテル・サムエル、ジュリオ・セーザルらを獲得し、2005-2006シーズンはスーペルコッパ・イタリアーナ制覇、コッパ・イタリア2連覇を果たすも、セリエAでは3位でシーズンを終えた。しかし、シーズン後に発覚したカルチョ・スキャンダルにより、1位だったユヴェントスがスクデットの剥奪、2位だったACミランも30ポイントの減点となり、最終的には3位だったインテルに17季ぶり14度目のセリエA優勝が転がり込んだ。この優勝は「机上のスクデット」として賛否両論であったが、2006年夏の移籍市場ではカルチョ・スキャンダルの影響によりセリエBに降格したユヴェントスからズラタン・イブラヒモビッチとパトリック・ヴィエラを獲得するなどの大型補強を行い、2006-2007シーズンは開幕前のスーペルコッパ・イタリアーナ制覇に加え、近年のヨーロッパの主要リーグにおける最高記録となった「17連勝」、勝ち点100にあと僅かと迫る「勝ち点97」をあげ、前評判通りの圧倒的な強さで18季ぶりとなるピッチ上でのスクデットを獲得した。
2007-2008シーズン、カルチョ・スキャンダルの処分が消化され前年の様な圧倒的な差は埋まったこの年、終盤のASローマの猛追により優勝の行方は最終節までもつれ込んだものの、僅差で振り切りセリエA3連覇を達成。しかしシーズン終了後、この3年でベスト8が最高だったUEFAチャンピオンズリーグでの結果、さらには同シーズンのUEFAチャンピオンズリーグ決勝トーナメント一回戦のリヴァプール戦敗退後の辞任発言(後に撤回)などが取り沙汰され、マンチーニは解任された。
そして2008年6月、後任監督に元チェルシー監督のジョゼ・モウリーニョが就任[1]。当時、3連覇をした監督を替える必要があるのかとイタリア国民の議論を呼んだが、チェルシーでの数年間で数多くの栄冠を掴んだモウリーニョを指揮官に置く事によって、セリエAとは対照的に結果を残せていない、UEFAチャンピオンズリーグを制するという目標の達成に期待が集まった。しかし、2008-2009シーズンはスーペルコッパ・イタリアーナ制覇と4季連続となるセリエA優勝の2冠を達成するも、UEFAチャンピオンズリーグでは前年度の王者マンチェスター・ユナイテッドに敗れ3季連続のベスト16敗退に終わった。
2009年夏の移籍市場では主力のイブラヒモビッチとマクスウェルをFCバルセロナに放出し、イブラヒモビッチとのトレードでサミュエル・エトオを獲得する。またジェノアからディエゴ・ミリートとティアゴ・モッタを、バイエルン・ミュンヘンからルシオを、レアル・マドリードからヴェスレイ・スナイデルを獲得するなど積極的な補強を行い、フリオ・クルス、エルナン・クレスポら余剰戦力の放出も行ってメンバーを大きく刷新した。更に2010年冬の移籍市場ではラツィオとの契約を解除したゴラン・パンデフの他、パルマとの共同保有でマクドナルド・マリガを獲得し、結果を残せずにいたヴィエラ、マンシーニをそれぞれレンタルで放出。2009-2010シーズンはセリエA、コッパ・イタリア、UEFAチャンピオンズリーグを全て制覇し、かつてユヴェントスとトリノFCが達成して以来史上3度目となるセリエA5連覇、また、イタリア史上初の主要タイトル3冠を達成した[2]。なお、UEFAチャンピオンズリーグ決勝戦終了後にモウリーニョは辞任を表明し、シーズン終了後の2010年5月28日に監督を退任した。
2010年代前半
2010年6月9日、前リヴァプール監督のラファエル・ベニテスが監督に就任。シーズン開幕前にはスーペルコッパ・イタリアーナを制覇し、12月にはFIFAクラブW杯に出場して決勝戦でアフリカ代表のTPマゼンベを破り初の同大会優勝を成し遂げた。しかし、同年12月24日にベニテスは成績不振で解任され[3]、後任には前ACミラン監督のレオナルドが就任[4]。2011年冬の移籍市場ではサンプドリアからジャンパオロ・パッツィーニを、ダビデ・サントンとの双方レンタル移籍によるトレードでチェゼーナから長友佑都[5][6]を、更にジェノアから共同保有権の買い取りを行使してアンドレア・ラノッキアを獲得するなど積極的な選手補強を行った。最終的にセリエAでは2位、UEFAチャンピオンズリーグではベスト8に終わったが、コッパ・イタリアでは2連覇を達成した[7]。
タイトル
国内タイトル
- スクデット:18回
- 1909-10, 1919-20, 1929-30, 1937-38, 1939-40, 1952-53, 1953-54, 1962-63, 1964-65, 1965-66,
1970-71, 1979-80, 1988-89, 2005-06(繰り上げ), 2006-07, 2007-08, 2008-09, 2009-10
- コッパ・イタリア:7回
- 1938-39, 1977-78, 1981-82, 2004-05, 2005-06, 2009-10, 2010-11
- 1989, 2005, 2006, 2008, 2010
国際タイトル
- 2010
- 1963-64, 1964-65, 2009-10
- 1964, 1965
- 1990-91, 1993-94, 1997-98
過去の成績
この節の加筆が望まれています。 |
※()は優勝回数
シーズン | カテゴリ | 順位 | 勝点 | 試合 | 勝利 | 引分 | 敗戦 | 得点 | 失点 | コッパ・イタリア | UEFACL註1 | UEFAカップ | CWC註2 | 監督 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2011-12 | セリエA | - | - | - | - | - | - | - | - | - | - | ─ | ─ | ジャン・ピエロ・ガスペリーニ |
2010-11 | セリエA | 2位 | 76 | 38 | 23 | 7 | 8 | 69 | 42 | 優勝(7) | ベスト8 | ─ | 優勝(3) | ラファエル・ベニテス →レオナルド |
2009-10 | セリエA | 優勝(18) | 82 | 38 | 24 | 10 | 4 | 75 | 34 | 優勝(6) | 優勝(3) | ─ | ─ | ジョゼ・モウリーニョ |
2008-09 | セリエA | 優勝(17) | 84 | 38 | 25 | 9 | 4 | 70 | 35 | ベスト4 | ベスト16 | ─ | ─ | ジョゼ・モウリーニョ |
2007-08 | セリエA | 優勝(16) | 85 | 38 | 25 | 10 | 3 | 69 | 26 | 準優勝 | ベスト16 | ─ | ─ | ロベルト・マンチーニ |
2006-07 | セリエA | 優勝(15) | 97 | 38 | 30 | 7 | 1 | 80 | 34 | 準優勝 | ベスト16 | ─ | ─ | ロベルト・マンチーニ |
2005-06 | セリエA | 優勝(14)註3 | 76 | 38 | 23 | 7 | 8 | 68 | 30 | 優勝(5) | ベスト8 | ─ | ─ | ロベルト・マンチーニ |
2004-05 | セリエA | 3位 | 72 | 38 | 18 | 18 | 2 | 65 | 37 | 優勝(4) | ベスト8 | ─ | ─ | ロベルト・マンチーニ |
2003-04 | セリエA | 4位 | 59 | 34 | 17 | 8 | 9 | 59 | 37 | ベスト8 | グループリーグ | ベスト8 | ─ | エクトル・ラウル・クーペル →コッラード・ヴェルデッリ →アルベルト・ザッケローニ |
2002-03 | セリエA | 2位 | 65 | 34 | 19 | 8 | 7 | 64 | 38 | 3回戦 | ベスト4 | ─ | ─ | エクトル・ラウル・クーペル |
2001-02 | セリエA | 3位 | 69 | 34 | 20 | 9 | 5 | 62 | 35 | 3回戦 | ─ | ベスト4 | ─ | エクトル・ラウル・クーペル |
2000-01 | セリエA | 5位 | 51 | 34 | 14 | 9 | 11 | 47 | 47 | ベスト8 | 予選3回戦 | 4回戦 | ─ | マルチェロ・リッピ →マルコ・タルデッリ |
1999-00 | セリエA | 4位 | 58 | 34 | 17 | 7 | 10 | 58 | 36 | 準優勝 | ─ | ─ | ─ | マルチェロ・リッピ |
1998-99 | セリエA | 8位 | 46 | 34 | 13 | 7 | 14 | 59 | 54 | ベスト4 | ベスト8 | ─ | ─ | ルイジ・シモーニ →ミルチェア・ルチェスク →ルシアーノ・カステリーニ →ロイ・ホジソン |
1997-98 | セリエA | 2位 | 69 | 34 | 21 | 6 | 7 | 62 | 27 | ベスト8 | ─ | 優勝(3) | ─ | ルイジ・シモーニ |
1996-97 | セリエA | 3位 | 59 | 34 | 15 | 14 | 5 | 51 | 35 | ベスト4 | ─ | 準優勝 | ─ | ロイ・ホジソン →ルシアーノ・カステリーニ |
1995-96 | セリエA | 7位 | 54 | 34 | 15 | 9 | 10 | 51 | 30 | ベスト4 | ─ | 1回戦 | ─ | オッタビオ・ビアンキ →ルイス・スアレス →ロイ・ホジソン |
1994-95 | セリエA | 6位 | 52 | 34 | 14 | 10 | 10 | 39 | 34 | ベスト8 | ─ | 1回戦 | ─ | オッタビオ・ビアンキ |
1993-94 | セリエA | 13位 | 31 | 34 | 11 | 9 | 14 | 46 | 45 | ベスト8 | ─ | 優勝(2) | ─ | オズワルド・バニョーリ →ジャンピエロ・マリーニ |
1992-93 | セリエA | 2位 | 46 | 34 | 17 | 12 | 5 | 59 | 36 | ベスト8 | ─ | ─ | ─ | オズワルド・バニョーリ |
1991-92 | セリエA | 8位 | 37 | 34 | 10 | 17 | 7 | 28 | 28 | ベスト8 | ─ | 1回戦 | ─ | コッラード・オッリーコ →ルイス・スアレス |
1990-91 | セリエA | 2位 | 46 | 34 | 18 | 10 | 6 | 56 | 31 | 3回戦 | ─ | 優勝(1) | ─ | ジョバンニ・トラパットーニ |
1989-90 | セリエA | 3位 | 44 | 34 | 17 | 10 | 7 | 55 | 32 | グループリーグ | 1回戦 | ─ | ─ | ジョバンニ・トラパットーニ |
1988-89 | セリエA | 優勝(13) | 58 | 34 | 26 | 6 | 2 | 67 | 19 | 2次リーグ | ─ | 3回戦 | ─ | ジョバンニ・トラパットーニ |
1987-88 | セリエA | 5位 | 32 | 30 | 11 | 10 | 9 | 42 | 35 | ベスト4 | ─ | 3回戦 | ─ | ジョバンニ・トラパットーニ |
1986-87 | セリエA | 3位 | 38 | 30 | 15 | 8 | 7 | 32 | 17 | ベスト8 | ─ | ベスト8 | ─ | ジョバンニ・トラパットーニ |
1985-86 | セリエA | 6位 | 32 | 30 | 12 | 8 | 10 | 36 | 33 | ベスト8 | ─ | ベスト4 | ─ | イラリオ・カスタニエル →マリオ・コルソ |
1984-85 | セリエA | 3位 | 38 | 30 | 13 | 12 | 5 | 42 | 28 | ベスト4 | ─ | ベスト4 | ─ | イラリオ・カスタニエル |
1983-84 | セリエA | 4位 | 35 | 30 | 12 | 11 | 7 | 37 | 23 | グループリーグ | ─ | 3回戦 | ─ | ルイジ・ラディス |
1982-83 | セリエA | 3位 | 38 | 30 | 12 | 14 | 4 | 40 | 23 | ベスト4 | ─ | ─ | ─ | Rino Marchesi |
1981-82 | セリエA | 5位 | 35 | 30 | 11 | 13 | 6 | 39 | 34 | 優勝(3) | ─ | 2回戦 | ─ | エウジェニオ・ベルセッリーニ |
1980-81 | セリエA | 4位 | 36 | 30 | 14 | 8 | 8 | 41 | 24 | グループリーグ | ベスト4 | ─ | ─ | エウジェニオ・ベルセッリーニ |
1979-80 | セリエA | 優勝(12) | 41 | 30 | 14 | 13 | 3 | 44 | 25 | ベスト8 | ─ | 2回戦 | ─ | エウジェニオ・ベルセッリーニ |
1978-79 | セリエA | 4位 | 36 | 30 | 10 | 16 | 4 | 38 | 24 | ベスト8 | ─ | ─ | ─ | エウジェニオ・ベルセッリーニ |
1977-78 | セリエA | 5位 | 36 | 30 | 13 | 10 | 7 | 35 | 24 | 優勝(2) | ─ | 1回戦 | ─ | エウジェニオ・ベルセッリーニ |
1976-77 | セリエA | 4位 | 33 | 30 | 10 | 13 | 7 | 34 | 27 | 準優勝 | ─ | 1回戦 | ─ | Giuseppe Chiappella |
1975-76 | セリエA | 4位 | 37 | 30 | 14 | 9 | 7 | 36 | 28 | 2次リーグ | ─ | ─ | ─ | Giuseppe Chiappella |
1974-75 | セリエA | 9位 | 30 | 30 | 10 | 10 | 10 | 26 | 26 | 2次リーグ | ─ | 2回戦 | ─ | ルイス・スアレス |
1973-74 | セリエA | 4位 | 35 | 30 | 12 | 11 | 7 | 47 | 33 | 2次リーグ | ─ | 1回戦 | ─ | エレニオ・エレーラ →エネア・マシエロ |
1972-73 | セリエA | 4位 | 37 | 30 | 15 | 7 | 8 | 32 | 23 | 2次リーグ | ─ | 3回戦 | ─ | ジャンニ・インヴェルニッツィ →エネア・マシエロ |
1971-72 | セリエA | 5位 | 36 | 30 | 13 | 10 | 7 | 49 | 28 | ベスト4 | 準優勝 | ─ | ─ | ジャンニ・インヴェルニッツィ |
1970-71 | セリエA | 優勝(11) | 46 | 30 | 19 | 8 | 3 | 50 | 26 | 1次リーグ | ─ | ─ | ─ | エリベルト・エレーラ →ジャンニ・インヴェルニッツィ |
シーズン | カテゴリ | 順位 | 勝点 | 試合 | 勝利 | 引分 | 敗戦 | 得点 | 失点 | コッパ・イタリア | UEFACL註1 | UEFAカップ | CWC註2 | 監督 |
1969-70 | セリエA | 2位 | 41 | 30 | 16 | 9 | 5 | 41 | 19 | ベスト8 | ─ | ─ | エリベルト・エレーラ | |
1968-69 | セリエA | 4位 | 36 | 30 | 14 | 8 | 8 | 55 | 26 | 1次リーグ | ─ | ─ | アルフレード・フォーニ | |
1967-68 | セリエA | 5位 | 33 | 30 | 13 | 7 | 10 | 46 | 34 | 3位 | ─ | ─ | ─ | エレニオ・エレーラ |
1966-67 | セリエA | 2位 | 48 | 34 | 19 | 10 | 5 | 59 | 22 | ベスト4 | 準優勝 | ─ | エレニオ・エレーラ | |
1965-66 | セリエA | 優勝(10) | 50 | 34 | 20 | 10 | 4 | 70 | 28 | ベスト4 | ベスト4 | 優勝(2) | エレニオ・エレーラ | |
1964-65 | セリエA | 優勝(9) | 54 | 34 | 22 | 10 | 2 | 68 | 29 | 準優勝 | 優勝(2) | 優勝(1) | エレニオ・エレーラ | |
1963-64 | セリエA | 2位 | 54 | 34 | 23 | 8 | 3 | 54 | 21 | ベスト8 | 優勝(1) | ─ | エレニオ・エレーラ | |
1962-63 | セリエA | 優勝(8) | 49 | 34 | 19 | 11 | 4 | 56 | 20 | ベスト16 | ─ | ─ | エレニオ・エレーラ | |
1961-62 | セリエA | 2位 | 48 | 34 | 19 | 10 | 5 | 59 | 31 | ベスト16 | ─ | ─ | エレニオ・エレーラ | |
1960-61 | セリエA | 3位 | 44 | 34 | 18 | 8 | 8 | 73 | 39 | ベスト8 | ─ | ─ | エレニオ・エレーラ | |
1959-60 | セリエA | 4位 | 40 | 34 | 14 | 12 | 8 | 55 | 43 | ベスト8 | ─ | |||
1958-59 | セリエA | 3位 | 46 | 34 | 20 | 6 | 8 | 77 | 41 | 準優勝 | ─ | |||
1957-58 | セリエA | 9位 | 32 | 34 | 10 | 12 | 12 | 36 | 36 | 1次リーグ | ─ | |||
1956-57 | セリエA | 5位 | 35 | 34 | 11 | 13 | 10 | 53 | 46 | ─ | ||||
1955-56 | セリエA | 3位 | 39 | 34 | 16 | 7 | 11 | 57 | 36 | ─ | ||||
1954-55 | セリエA | 8位 | 36 | 34 | 13 | 10 | 11 | 55 | 49 | アルフレード・フォーニ | ||||
1953-54 | セリエA | 優勝(7) | 51 | 34 | 20 | 11 | 3 | 67 | 32 | アルフレード・フォーニ | ||||
1952-53 | セリエA | 優勝(6) | 47 | 34 | 19 | 9 | 6 | 55 | 24 | アルフレード・フォーニ | ||||
1951-52 | セリエA | 3位 | 49 | 38 | 21 | 7 | 10 | 86 | 49 | |||||
1950-51 | セリエA | 2位 | 59 | 38 | 27 | 5 | 6 | 107 | 43 | |||||
1949-50 | セリエA | 3位 | 49 | 38 | 21 | 7 | 10 | 99 | 60 | |||||
1948-49 | セリエA | 2位 | 55 | 38 | 22 | 11 | 5 | 85 | 39 | |||||
1947-48 | セリエA | 12位 | 37 | 40 | 16 | 5 | 19 | 67 | 60 | ジュゼッペ・メアッツァ →カルロ・カルカノ | ||||
1946-47 | セリエA | 10位 | 36 | 38 | 13 | 10 | 15 | 59 | 54 | カルロ・カルカノ →Nino Nutrizio →ジュゼッペ・メアッツァ | ||||
1942-43 | セリエA | 4位 | 34 | 30 | 15 | 4 | 11 | 53 | 38 | ベスト16 | ||||
1941-42 | セリエA | 12位 | 26 | 30 | 7 | 12 | 11 | 31 | 47 | ベスト16 | ||||
1940-41 | セリエA | 2位 | 35 | 30 | 14 | 7 | 9 | 52 | 42 | ベスト16 | ||||
1939-40 | セリエA | 優勝(5) | 44 | 30 | 20 | 4 | 6 | 56 | 23 | ベスト32 | ||||
1938-39 | セリエA | 3位 | 37 | 30 | 14 | 9 | 7 | 55 | 37 | 優勝(1) | ||||
1937-38 | セリエA | 優勝(4) | 41 | 30 | 16 | 9 | 5 | 57 | 28 | ベスト4 | ||||
1936-37 | セリエA | 7位 | 31 | 30 | 9 | 13 | 8 | 43 | 35 | ベスト4 | ||||
1935-36 | セリエA | 4位 | 36 | 30 | 14 | 8 | 8 | 61 | 34 | ベスト16 | ||||
1934-35 | セリエA | 2位 | 42 | 30 | 15 | 12 | 3 | 45 | 22 | |||||
1933-34 | セリエA | 2位 | 49 | 34 | 20 | 9 | 5 | 66 | 24 | アルパド・ワイズ | ||||
1932-33 | セリエA | 2位 | 46 | 34 | 19 | 8 | 7 | 80 | 53 | アルパド・ワイズ | ||||
1931-32 | セリエA | 6位 | 38 | 34 | 15 | 8 | 11 | 67 | 52 | イシュトヴァーン・トート | ||||
1930-31 | セリエA | 5位 | 38 | 34 | 15 | 8 | 11 | 60 | 45 | アルパド・ワイズ | ||||
1929-30 | セリエA | 優勝(3) | 50 | 34 | 22 | 6 | 6 | 85 | 38 | アルパド・ワイズ |
註1旧UEFAチャンピオンズカップを含む
註2旧インターコンチネンタルカップを含む
註3最終順位は3位だが、上位2クラブの不正による勝ち点剥奪により繰り上げ優勝
ダービーマッチ
ミラノダービー
この節の加筆が望まれています。 |
クラブ | 試合 | 勝 | 分 | 負 | 得点 | 失点 | +/- |
---|---|---|---|---|---|---|---|
セリエA | |||||||
インテル | 174 | 64 | 52 | 58 | 255 | 235 | +20 |
ACミラン | 174 | 58 | 52 | 64 | 235 | 255 | -20 |
コッパ・イタリア | |||||||
ACミラン | 23 | 9 | 7 | 7 | 32 | 22 | +10 |
インテル | 23 | 7 | 7 | 9 | 22 | 32 | -10 |
UEFAチャンピオンズリーグ | |||||||
ACミラン | 4 | 2 | 2 | 0 | 4 | 1 | +3 |
インテル | 4 | 0 | 2 | 2 | 1 | 4 | -3 |
合計 | |||||||
インテル | 201 | 71 | 61 | 69 | 278 | 271 | +7 |
ACミラン | 201 | 69 | 61 | 71 | 271 | 278 | -7 |
その他の試合 | |||||||
ACミラン | 72 | 38 | 11 | 24 | 159 | 128 | +31 |
インテル | 72 | 24 | 11 | 38 | 128 | 159 | -31 |
合計 | |||||||
ACミラン | 273 | 107 | 72 | 95 | 430 | 406 | +24 |
インテル | 273 | 95 | 72 | 107 | 406 | 430 | -24 |
※2009-10シーズン終了時点での対戦成績
イタリアダービー
この節の加筆が望まれています。 |
クラブ | 試合 | 勝 | 分 | 負 | 得点 | 失点 | +/- |
---|---|---|---|---|---|---|---|
セリエA | |||||||
ユヴェントス | 180 | 80 | 45 | 55 | 259 | 228 | +31 |
インテル | 180 | 55 | 45 | 80 | 228 | 259 | -31 |
コッパ・イタリア | |||||||
ユヴェントス | 29 | 12 | 7 | 10 | 44 | 36 | +8 |
インテル | 29 | 10 | 7 | 12 | 36 | 44 | -8 |
スーペルコッパ・イタリアーナ | |||||||
インテル | 1 | 1 | 0 | 0 | 1 | 0 | +1 |
ユヴェントス | 1 | 0 | 0 | 1 | 0 | 1 | -1 |
合計 | |||||||
ユヴェントス | 210 | 92 | 52 | 66 | 303 | 265 | +38 |
インテル | 210 | 66 | 52 | 92 | 303 | 265 | -38 |
※2009-10シーズン終了時点での対戦成績
現所属メンバー
フォーメーション
<4-3-1-2> UEFAチャンピオンズリーグ 2010-11準々決勝 スターティングメンバー
- 2011年8月31日現在[8]
注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルールに基づく。
|
|
括弧内の国旗はその他の保有国籍を示す。
レンタル移籍
- in
注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルールに基づく。
|
|
- out
注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルールに基づく。
|
|
11/12移籍
歴代監督
歴代所属選手
GK
|
|
DF
|
|
MF
|
|
FW
|
|
永久欠番
脚注
関連項目
外部リンク
- 公式
- インテル公式サイト (イタリア語)(英語)(スペイン語)(中国語)(アラビア語)(日本語)
- レガ・カルチョ - インテル (イタリア語)
- UEFA.com - インテル (日本語)
セリエA 2023-24 | |
---|---|
セリエA - セリエB - セリエC - セリエD |