榎本武揚
榎本 武揚 えのもと たけあき | |
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幕末期の榎本 | |
生年月日 | 1836年10月5日 |
出生地 | 武蔵国江戸下谷御徒町 |
没年月日 | 1908年10月26日 |
前職 | 幕臣 |
称号 |
海軍中将 正二位 勲一等旭日桐花大綬章 子爵 |
配偶者 | 榎本たつ |
初代 逓信大臣 | |
内閣 |
第1次伊藤内閣 黒田内閣 |
在任期間 | 1885年12月22日 - 1889年3月22日 |
農商務大臣(臨時兼任) | |
内閣 | 黒田内閣 |
在任期間 | 1888年4月30日 - 同7月25日 |
第2代 文部大臣 | |
内閣 |
黒田内閣 第1次山縣内閣 |
在任期間 | 1889年3月22日 - 1890年5月17日 |
第7代 外務大臣 | |
内閣 | 第1次松方内閣 |
在任期間 | 1891年5月29日 - 1892年8月8日 |
内閣 |
第2次伊藤内閣 第2次松方内閣 |
在任期間 | 1894年1月22日 - 1897年3月22日 |
その他の職歴 | |
蝦夷共和国総裁 (1868年 - 1869年) | |
第3代 海軍卿 (1880年2月28日 - 1891年4月7日) |
榎本 武揚(えのもと たけあき、天保7年8月25日(1836年10月5日) - 明治41年(1908年)10月26日)は、江戸幕末~明治期の武士・幕臣、政治家。海軍中将正二位勲一等子爵。通称は釜次郎、号は梁川。名前は「えのもとぶよう」と有職読みされることもある。
生涯
海軍副総裁就任まで
江戸下谷御徒町(現東京都台東区御徒町)に生まれた。父は箱田良助といい、備後国安那郡箱田村(現広島県福山市神辺町箱田)出身で、榎本武兵衛武由の娘みつと結婚して、婿養子として幕臣となり、榎本円兵衛武規と改名した。
幼少の頃から昌平坂学問所で儒学・漢学、ジョン万次郎の私塾で英語を学び、19歳で箱館奉行堀利煕の従者として蝦夷地箱館(現北海道函館市)に赴き、樺太探検に参加する。安政3年(1856年)には幕府が新設した長崎海軍伝習所に入所、国際情勢や蘭学と呼ばれた西洋の学問や航海術・舎密学(化学)などを学んだ。
文久2年(1862年)から慶応3年(1867年)までオランダに留学。普墺戦争を観戦武官として経験、国際法や軍事知識、造船や船舶に関する知識を学び、幕府が発注した軍艦「開陽」で帰国、軍艦頭並を経て大政奉還後の慶応4年(1868年)1月に徳川家家職の海軍副総裁に任ぜられ、実質的に幕府海軍のトップとなった。このとき総裁であった矢田堀景蔵は、新政府側への恭順を示していた徳川慶喜の意向を受けて軽挙を慎んだが、新政府への徹底抗戦を主張する榎本派が幕府海軍を抑えた。
箱館戦争
慶応3年(1867年)、徳川慶喜が大政奉還を行い、続いて戊辰戦争が起こった。開戦直後、榎本の率いる旧幕府艦隊は大坂の天保山沖に停泊していたが、鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が敗北すると、大坂城にいた慶喜らは、主戦派の幕臣に無断で旗艦「開陽」に座乗し江戸へ引き揚げた(軍艦と輸送船を区別するため”丸”を付すのは輸送船のみとされており「開陽丸」は誤りである)。
新政府軍が江戸城を無血開城すると、徳川家に対する政府の処置を不満とし榎本は抗戦派の旧幕臣とともに開陽、回天、蟠竜、千代田形、神速丸、美賀保丸、咸臨丸、長鯨丸の8艦から成る旧幕府艦隊を率いて脱出する。途中暴風により清水沖に流された咸臨丸は新政府軍に発見され猛攻を受け拿捕された。新選組や奥羽越列藩同盟軍、桑名藩藩主松平定敬らを収容し蝦夷地(北海道)に逃走、箱館の五稜郭に拠り、1868年末にいわゆる「蝦夷共和国」を樹立して入札(選挙)の実施により総裁となった。しかし、蝦夷地の江差攻略作戦に「開陽」を投入したところ、座礁事故により喪失する打撃を被った。
翌明治2年(1869年)2月、折りしも局外中立を宣言し新政府・旧幕いずれにも加担せずとの姿勢をとっていた米国は、新政府の巧みな切り崩しにより新政府支持を表明。幕府が買い付けたものの局外中立により引渡未了だった当時最新鋭の装甲艦「ストーン・ウォール」は新政府の手中に収まり「甲鉄」と命名された。当時最新最強と謳われた「開陽」でさえ木造艦であり、砲数・トン数では勝るものの防御力の劣勢は否めず、ましてその「開陽」もすでに喪失していたため、海上の戦力バランスは一挙に新政府有利に傾いた。これを大いに憂慮した榎本は「甲鉄」を移乗攻撃(アボルダージュ)で奪取する奇策を実行に移す。奇襲を実現するため、至近距離まで第三国の国旗を掲げて接近し至近距離で自国の旗に切り替える騙し打ちを計画したが、これは当時の戦時国際法で許される奇計であった。榎本はこの作戦を「回天」、「幡竜」、「高雄」の3艦を以て当たらしめ、その長として「回天」艦長の甲賀源吾を任じた。同艦には土方歳三も座乗した。しかしまたもや暴風に見舞われ、「幡竜」は離脱、「高雄」も機関が故障し、やむを得ず「回天」1艦のみでの突入となった。接舷には成功したものの我彼の舷高に大いに開きがあり、突入を躊躇した榎本軍はガトリング砲の砲火を浴び、占拠に失敗、甲賀艦長も戦死するなど大打撃を受け敗走した(宮古湾海戦)。「開陽」を失い、新政府軍が甲鉄を手中に収めるにいたり、最大最強を誇った徳川海軍の劣勢は決定的となり、事実上、制海権を失ったのである。
明治2年5月(1869年6月)、戦費の枯渇、相次ぐ自軍兵士の逃亡、新政府軍工作員による弁天台場の火砲破壊、箱館湾海戦による全艦喪失など劣勢は決定的となり、榎本は降伏した。降伏を決意した榎本は、オランダ留学時代から肌身離さず携えていたオルトラン著「万国海律全書」(自らが書写し数多くの脚注等を挿入)を戦災から回避しようと蝦夷征討軍海陸軍総参謀黒田了介(黒田清隆)に送った。黒田は榎本の非凡な才に感服し、皇国無二の才として断然助命しようと各方面に説諭、その熱心な助命嘆願活動により一命をとりとめ、江戸辰の口の牢に投獄された。また、榎本には批判的であった福澤諭吉も助命に尽力したひとりでもある。福澤は黒田から前記「海律全書」の翻訳を依頼されたが、一瞥した福澤は、その任に当たるについては榎本の他にその資格なしとして辞退したと伝えられている。
明治時代
明治5年(1872年)1月6日、榎本は特赦出獄、その才能を買われて新政府に登用された。同年3月8日、黒田清隆が次官を務める開拓使に四等出仕として仕官、北海道鉱山検査巡回を命じられた。
明治7年(1874年)1月、駐露特命全権公使となり、樺太・千島交換条約を締結した。またマリア・ルス号事件でペルー政府が国際法廷に対し日本を提訴した件で、ロシア皇帝アレクサンドル2世が調停に乗り出したことから、サンクトペテルブルクでの裁判に臨んで勝訴を得た。駐露公使就任にあたって、榎本は海軍中将に任官されたが、これは当時の外交慣例で武官公使の方が交渉上有利と判断されたためで、伊藤博文らの建言で実現したものである。旧幕時代の経歴と直接の関係はない。
帰国後は外務省二等出仕、外務大輔、議定官、海軍卿、皇居御造営御用掛、皇居御造営事務副総裁、駐清公使、条約改正取調御用掛等を歴任し、内閣制度の成立後は能力を買われ6つの内閣で逓信大臣、文部大臣、外務大臣、農商務大臣を歴任した(文相・外相の前後に枢密顧問官就任)。特に日清戦争只中の戦時内内閣時の農相在任期間は3年余に及び、歴代農相の中で最長を記録していることからも薩長藩閥にあってその緩衝として重用された榎本の才が窺い知れる。
農商務大臣時代には、懸案であった足尾鉱毒事件について初めて予防工事命令を出し、私的ながら大臣自ら初めて現地視察を行った。また、企業と地元民の間の私的な事件であるとしてきたそれまでの政府の見解を覆し、国が対応すべき公害であるとの立場を明確にし帰郷後、大隈重信らにその重要性を説諭、鉱毒調査委員会を設置し、後の抜本的な対策に向けて先鞭をつけ、自身は引責辞任した。
明治23年(1890年)には子爵となる。また大日本帝国憲法発布式では儀典掛長を務めた。
その一方で、旧幕臣子弟への英才教育を目的に、様々な援助活動を展開した。北海道開拓に関与した経験から、農業の重要性を痛感、明治24年(1891年)に徳川育英会育英黌農業科(現在の東京農業大学)を創設し自ら黌長となった。また、明治21年(1888年)から同41年(1908年)まで電気学会初代会長を務めている。また、黒田清隆が死去したときには並み居る薩摩出身の高官をさしおいて葬儀委員長を務めている。これは一説には黒田が晩年、薩閥の中にあって疎外されていて引き受ける者がいなかったためともいわれる。
明治41年(1908年)に死去、享年73。墓所は東京都文京区の吉祥寺。
人物
- 思想は開明、外国語にも通じた。蝦夷島政府樹立の際には、国際法の知識を駆使して自分たちのことを「事実上の政権」であるという覚書を現地にいた列強の関係者から入手する(交戦団体という認定は受けていない。また、この覚書は本国や大使の了解なく作られたものである)という、当時の日本としては画期的な手法を採るなど、外交知識と手腕を発揮した。
- 明治政府官僚となってからも、その知識と探求心を遺憾なく発揮し、民衆から「明治最良の官僚」と謳われたほどであったが、藩閥政治の明治政府内においては肩身の狭い思いもしばしばであった。
- 義理・人情に厚く、涙もろいという典型的な江戸っ子で明治天皇のお気に入りだった。また海外通でありながら極端な洋化政策には批判的で、園遊会ではあえて和装で参内するなどしている。
- 福澤諭吉が評して言うには、「江戸城が無血開城された後も降参せず、必敗決死の忠勇で函館に篭もり最後まで戦った天晴れの振る舞いは大和魂の手本とすべきであり、新政府側も罪を憎んでこの人を憎まず、死罪を免じたことは一美談である。勝敗は兵家の常で先述のことから元より咎めるべきではないが、ただ一つ榎本に事故的瑕疵があるとすれば、ただただ榎本を慕って戦い榎本のために死んでいった武士たちの人情に照らせば、その榎本が生き残って敵に仕官したとなれば、もし死者たちに霊があれば必ず地下に大不平を鳴らすだろう」と「瘠我慢の説」にて述べている。
- 山田風太郎は「もし彼が五稜郭で死んでいたら、源義経や楠木正成と並んで日本史上の一大ヒーローとして末長く語り伝えられたであろう。しかし本人は『幕臣上がりにしてはよくやった』と案外満足して死んだのかもしれない」と書いている。(『人間臨終図巻』)
- 五稜郭で敗れて、獄中にいる時、兄の家計を助けようとして手紙で、孵卵器や石鹸などの作り方や、新式の養蚕法・藍の採り方等詳細に知らせている。また舎密学(化学)については日本国中で自分に及ぶものはいないと自信を持っていたフシがある。
- 晩年は、向島に居を移し毎日のように向島百花園を訪れ四季の草花を眺めていたという。植物、特に外国の花については非常に博識で、百花園の主人に教えていたこともあるという[1]。
エピソード
- 初代逓信大臣を勤めたとき、逓信省の「徽章」を決めることになった。明治20年(1887年)2月8日、「今より(T)字形を以って本省全般の徽章とす」と告示したものの、これが万国共通の料金未納・料金不足の記号「T」と紛らわしいことが判明した。そこで榎本は「Tに棒を一本加えて「〒」にしたらどうだ」と提案し、2月19日の官報で「実は〒の誤りだった」ということにして変更したといわれている。これは、あくまでも郵便マーク誕生に関する諸説のうちのひとつであるが、「テイシンショウ」の「テ」にぴたりと合致しており、彼の聡明さを象徴するようなエピソードでもある。
- 明治24年(1891年)7月14日、横浜港に投錨した清国北洋艦隊旗艦「定遠」の艦上で在朝在野の貴紳、新聞記者、各国の公使領事等を招待した懇親会が開かれた。当時外務大臣であった榎本は海軍中将の軍服で姿を現した。国民新聞は「榎本外務大臣、此日海軍中将の軍服を着けて来る、低帽短剣一箇俊敏の武人、却つて是れ子の本色」と評した[2]。
系譜・親族
父は幕臣榎本武規(円兵衛)、妻は林洞海の娘で林研海の妹でもあるたつ。家紋は丸に梅鉢。曾孫に、作家で東京農業大学客員教授の榎本隆充がいる。武揚の兄榎本武与は、武揚が釜次郎であるのに対して、鍋太郎である。ちなみに武与の子孫に俳優の石黒賢がいる。
著作
- 『渡蘭日記』
- 『北海道巡回日記』
- 『西比利亜日記』
- 『流星刀記事』
榎本武揚が登場する作品
- 文学作品
- テレビドラマ
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- 榎本武揚が主人公のテレビドラマ
- 「五稜郭」(1988年、日本テレビ年末時代劇スペシャル、演:里見浩太朗)
- 榎本武揚が登場するテレビドラマ
- 「新選組血風録」(1965-1966年、NET/日本教育テレビ、演:成瀬昌彦)
- 「大奥」(1968年、フジテレビ、演:波多野博)
- 「燃えよ剣」(1970年、NET/日本教育テレビ、演:横森久)
- 「勝海舟」(1974年、NHK大河ドラマ、演:村井国夫)
- 「獅子の時代」(1980年、NHK大河ドラマ、演:新克利)
- 「勝海舟」(1990年、日本テレビ年末時代劇スペシャル、演:吉岡祐一)
- 「またも辞めたか亭主殿〜幕末の名奉行・小栗上野介〜」(2003年、NHK、演:大塚幸太)
- 「新選組!」(2004年、NHK大河ドラマ、演:草彅剛)
- 「新選組!! 土方歳三 最期の一日」(2006年、NHK、演:片岡愛之助)
- 「篤姫」(2008年、NHK大河ドラマ、演:鈴木綜馬)
- アニメ
- 「幕末機関説 いろはにほへと」(2006-2007年、GyaO、声:中多和宏)
脚注
参考文献
著作・資料
- 『榎本武揚 シベリア日記』、講談社学術文庫、2008年、ISBN 9784061598775
- 『現代語訳 榎本武揚 シベリア日記』 諏訪部揚子・中村喜和編訳、平凡社ライブラリー、2010年、ISBN 9784010705599
- 『榎本武揚未公開書簡集』 榎本隆充編、新人物往来社、2003年、ISBN 9784582766974、書簡126通を収録
- 『資料 榎本武揚』 加茂儀一編・解説、新人物往来社、1969年
伝記研究
- 『榎本武揚』 榎本隆充・高成田亨編、藤原書店、2008年、ISBN 9784894346239
- 『榎本武揚から世界史が見える』 臼井隆一郎著、PHP新書、2000年、ISBN 9784569638515
- 『メキシコ榎本殖民 榎本武揚の理想と現実』 上野久著、中公新書、1994年、ISBN 9784121011800
- 『行きゆきて峠あり(上・下)』 子母澤寛著、講談社文庫大衆文学館、1995年、ISBN 9784062620116&ISBN 9784062620123
- 『榎本武揚』 加茂儀一著、中央公論社、のち中公文庫、1988年、ISBN 9784122015098
- 『榎本武揚 現代視点 戦国・幕末の群像』 旺文社編、1983年
- 『東京農業大学百年史』 東京農業大学創立百周年記念事業実行委員会第二部会編、東京農業大学出版会、1993-1994年
- 『榎本武揚と横井時敬 東京農大二人の学祖』 東京農大榎本・横井研究会編、東京農業大学出版会、2008年、ISBN 9784886942012
- 『寺島宗則自叙伝/榎本武揚子(日本外交史人物叢書第11巻)』 吉村道男監修、ゆまに書房、2002年、ISBN 9784843306772
関連項目
外部リンク
公職 | ||
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先代 川村純義 |
海軍卿 第3代:1880年2月28日 - 1881年4月7日 |
次代 川村純義 |
先代 創設 |
逓信大臣 初代:1885年12月22日 - 1889年3月22日 |
次代 後藤象二郎 |
先代 黒田清隆 後藤象二郎 |
農商務大臣 1888年4月30日 - 同7月25日(臨時兼任) 第10代:1894年1月22日 - 1897年3月29日 |
次代 井上馨 大隈重信 |
先代 大山巖(臨時兼任) |
文部大臣 第2代:1889年3月22日 - 1890年5月17日 |
次代 芳川顯正 |
先代 青木周蔵 |
外務大臣 第7代:1891年5月29日 - 1892年8月8日 |
次代 陸奥宗光 |
その他の役職 | ||
先代 創設 |
電気学会会長 初代:1888年 - 1909年 |
次代 林董 |
先代 (創設) |
蝦夷共和国総裁 初代:1868年 - 1869年 |
次代 (消滅) |