ビリー・プレストン

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ビリー・プレストン
ホワイトハウスを訪問したビリー・プレストン (1974年)
基本情報
出生名 ウィリアム・エバレット・プレストン
生誕 1946年9月2日[1]
出身地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 テキサス州ヒューストン
死没
ジャンル
職業
担当楽器
活動期間 1962年 - 2006年
レーベル
公式サイト ビリー・プレストン公式サイト

ウィリアム・エバレット・プレストン (英語: William Everett Preston1946年9月2日 - 2006年6月6日) は、アメリカ合衆国ミュージシャン

キーボード奏者として、ビートルズローリング・ストーンズを始めとする多くのミュージシャンたちと共演した他、ソロ・シンガーとしても活動した。ビートルズのシングルクレジットされたこともあり、後に「5番目のビートルズ」としばしば呼ばれた。代表作は「ナッシング・フロム・ナッシング」など。

略歴[編集]

プレストンは1946年、テキサス州ヒューストンに生まれ、カリフォルニア州ロサンゼルスで成長した。彼は母親の膝に乗る3歳の頃からピアノを演奏し始める。

音楽家としての経歴は、10歳頃から教会でゴスペルオルガン奏者としてキャリアをスタート。1962年の16歳の頃には既にリトル・リチャードレイ・チャールズサム・クックキング・カーティスといった大物ミュージシャンのバックバンドのメンバーとして活躍。この年、リトル・リチャードがリバプール公演に来た際ビートルズと出会う。更にこの頃ヴィージェイ・レコードなどからアルバムを発表している(『ゴスペル・イン・マイ・ソウル』他) 。

1965年にはレイ・チャールズのバック・バンドに参加し1967年から1968年にかけて行なわれたワールド・ツアーにサポート・メンバーとして同行。そのロンドン・フェスティバルホールで行われたコンサートを観に来ていたジョージ・ハリスンが、演奏しているビリーに気が付き、翌日ビートルズの設立したアップル・レコードにて再会。ジョージの誘いで1969年1月に、ビートルズのゲット・バック・セッションに参加。アルバム『レット・イット・ビー』と『アビイ・ロード』のレコーディングにゲスト参加。「レット・イット・ビー」、「ゲット・バック」、「サムシング」などの曲でエレクトリックピアノを演奏した。ビートルズのメンバー間の不和が酷くなり口論も絶えなかったこのセッションで、プレストンが招かれた際にはスタジオの雰囲気は和らいだものになった[3]。この様子はビートルズ・アンソロジーなどでも確認できる。リンゴ・スターも後に「あの時ビリーが来てくれて助かったよ」と語っている。1969年にアップル・ビルの屋上で突然行われたビートルズ最後のライヴとなったルーフトップ・コンサートでは「ゲット・バック」でエレクトリックピアノを演奏した。

1969年、当時所属していたキャピトル・レコードから「アップル・レコード」への移籍に際しジョージ・ハリスンはキャピトルに移籍金を支払ってまでビリーを獲得している。同年の4月から7月にかけて、アップル・スタジオにおいて、アルバムのレコーディングを行う(ほぼ並行して「アビイ・ロード・セッション」にも参加)。アルバム『神の掟』と、同名のシングルを発表。同作品は、当時ブラインド・フェイスのメンバーだったエリック・クラプトンや、ローリング・ストーンズキース・リチャーズも参加し、ジョージ・ハリスンのプロデュースでリリース(ジョージはほぼアルバム全編にギターで参加)。同曲とビートルズの『レット・イット・ビー』は、同時期にセッションや作曲が行われており、良く関連性が取り沙汰される。アップル・レコードにおいては、2ndアルバム『エンカレッジング・ワーズ』の合計2枚とシングル合計4枚を残している。

1971年A&Mレコードへ移籍。同年発表の「アウタ・スペース」が、アメリカでチャートの2位まで上がる大ヒットを記録し、グラミー賞の「ベスト・ポップ・インストゥルメンタル」賞を受賞[4]。その後も、1970年代はA&Mにおいては、「ラウンド・イン・サークルズ」と「ナッシング・フロム・ナッシング」で全米1位を獲得した[4]ジョー・コッカーによるカヴァーが有名な「美し過ぎて」も、A&M時代に作られた曲。またローリング・ストーンズとの親交も深く、アルバム『スティッキー・フィンガーズ』や『メイン・ストリートのならず者』などのレコーディングにも参加。1973年のツアーでは前座&サポート・メンバーとして、1975年1976年のツアーではサポート・メンバーとして参加し、メインアクトのローリング・ストーンズをバックに自身の曲を2曲披露するなどしている。R&B・ソウルミュージシャン(黒人シンガー・ソングライター)ではあるが、ロック・シーンでも名前を浸透させていった。一般的には1970年代初期から中期のこの頃、A&M時代が彼の黄金期といわれる。A&Mとの契約が切れた後、1979年から1982年には、モータウンと契約。

1990年代には、薬物中毒になったり、保険金詐欺事件に見舞われたりした[5]。しかしその一方で、音楽家としてはゴスペルなどの分野で活動し、エリック・クラプトンリンゴ・スター等、多数のアーティストのライブ・ツアーに同行した。

2000年代は、多くのセッション・ワークをこなす。エリック・クラプトンのツアーに同行(来日公演には不参加)したり、エルトン・ジョン等のヴェテランのみならず、JETレッド・ホット・チリ・ペッパーズといった若手・中堅バンドの作品にもゲスト参加した。なお、エリック・クラプトンのツアーを収めた『One More Car, One More Rider』(DVD版)では、アンコールでビリー・プレストンが自身のヒット曲「Will It Go Round In Circles」を歌っており、その存在感を示している。

晩年は腎臓を患い、2002年に腎臓移植手術を受けたが改善せず、2005年11月頃から意識不明の状態に陥る[1]。2006年6月6日、アリゾナ州の病院で死去。59歳没。

ディスコグラフィ[編集]

主なサポート参加[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b Pareles, Jon (2006年6月7日). “Billy Preston, 59, Soul Musician, Is Dead; Renowned Keyboardist and Collaborator”. The New York Times. https://www.nytimes.com/2006/06/07/arts/07preston.html?_r=1&oref=slogin&pagewanted=all 2018年11月17日閲覧. "Billy Preston, the splashy gospel-rooted keyboardist whose career included No. 1 solo hits and work with the Beatles and the Rolling Stones, died yesterday in Scottsdale, Ariz. He was 59." 
  2. ^ a b c d Dahl, Bill. Billy Preston | Biography & History - オールミュージック. 2020年11月17日閲覧。
  3. ^ Harrington, Richard (2006年6月8日). “'Fifth Beatle' Billy Preston Made the Greats Even Greater”. Washington Post. https://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2006/06/07/AR2006060702166.html 2018年11月17日閲覧。 
  4. ^ a b Billy Preston - Awards : AllMusic
  5. ^ Pareles, Jon, "Obituary: Billy Preston, 59, reknowned(sic)keyboardist", The New York Times. Archived 2015-02-08 at the Wayback Machine.

外部リンク[編集]