鉄道公安職員

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鉄道公安職員(てつどうこうあんしょくいん)は、日本国有鉄道が存在した時代に司法警察権を持っていた国鉄職員[1] 。現在の鉄道警察隊警察官の前身にあたる特別司法警察職員である[2][3]。正式名称は「鉄道公安職員」だが、「鉄道公安官」と俗称されることも多かった。

制度発足までの経緯[編集]

当時の列車内の異常な混雑の様子(1946年7月)

戦前の鉄道省時代にも「鉄道司法警察官吏」という職員がいたが、駅長などの駅員や車掌の兼務職であり、警察業務専任の職員は存在していなかった。

戦後、駅や列車内の治安が極度に悪化し、犯罪が横行していた。

概要[編集]

1947年(昭和22年)に、鉄道内の犯罪[4]に対応する為に創設された。その後1949年(昭和24年)の日本国有鉄道発足に伴い、「鉄道公安職員の職務に関する法律」(昭和25年法律第241号)により鉄道公安制度が確立された。鉄道公安職員は、鉄道管理局及び主要に置かれた鉄道公安室に所属し、統括部署として日本国有鉄道本社の中に公安本部が置かれていた。人数はおおよそ3000人規模であった。

「鉄道公安職員の職務に関する法律」では「日本国有鉄道の施設内において公安維持の職務を掌る日本国有鉄道の役員又は職員で、法務大臣運輸大臣が協議をして定めるところに従い、日本国有鉄道総裁の推薦に基づき運輸大臣が指名した者は、これを鉄道公安職員と称し、日本国有鉄道の列車停車場その他輸送に直接必要な鉄道施設内における犯罪並びに日本国有鉄道の運輸業務に対する犯罪について捜査することができる」としていた。

当初は司法警察職員としての権限は弱かったが、1950年(昭和25年)に定められた「鉄道公安職員の職務に関する法律」施行後は司法警察職員としての権限も強化され、武器(拳銃警棒)の携帯・事件事故の捜査令状の取得・被疑者逮捕・証拠品の差し押さえが可能となった。しかし、現行犯人又は被疑者を逮捕した場合には、これを検察官又は警察職員に引致しなければならないとされ、留置できなかった(従って留置施設も存在しなかった)。
また、鉄道公安職員の捜査は、日本国有鉄道の列車、停車場その他輸送に直接必要な鉄道施設以外の場所においては、行うことができないとされ、司法警察権の行使もあくまでも国鉄の鉄道用地内に限られた(例えば、国鉄が経営するホテルの中で犯罪が発生したとしても、そこが鉄道用地外であれば、捜査を行なうことはできなかった。また、国鉄の管理権が及ばない和歌山市駅1971年営団地下鉄(現・東京メトロ)千代田線常磐緩行線直通開始以降の綾瀬駅1983年福岡市営地下鉄開業以降の姪浜駅1984年鹿児島交通枕崎線廃止までの枕崎駅の構内も同様である)。
つまり日本では他に類を見ない、一部のアメリカ合衆国の警察組織と同様の「施設内警察」だったのである。ただし特例で、1978年から1983年まで実施された成田空港燃料輸送の際に、鹿島臨海鉄道構内においては運輸大臣の許可のもと拳銃を携帯して警備にあたっていた。

身分証票は動輪紋章(蒸気機関車動輪の組み合わせ)に「鉄道公安職員手帳」の文字(全て金箔押し)入りの手帳であった。

拳銃の携帯は法律上は認められていたものの、連合軍の指導のもと導入された機種がコルト社製のオフィシャルポリスen)など日本人の手に余る大型なものであったことや、国鉄職員が拳銃を携帯することで旅客に威圧感を与える懸念があること、そもそも混雑するターミナル駅構内や列車内が活動の中心であり、発砲することで他の乗客に危険が及ぶ可能性もあることから、通常は拳銃は携帯せずに警棒または特殊警棒のみを携帯していることが多かった(これは当時の写真や映像でも確認できる)。
実際の拳銃の携帯は「第1種警備」と呼ばれていた天皇皇族の警衛、国賓の警護、日本銀行券輸送警備時(積卸時の構内警備・輸送中の専用荷物車(マニ30)への添乗)などの際に行われていた。
前述の駅構内のパトロールや列車への警乗は「第2種警備」と呼ばれており、この際には拳銃は携帯せず特殊警棒手錠無線通信機だけを携帯することとなっていた[5]

なお拳銃の訓練は委託を受けた警察学校で行われていたが、鉄道公安職員の中には国民体育大会けん銃競技に出場し、警察官よりも高い得点を取って金メダルを獲得した者も存在した。また、鉄道公安職員制度発足から廃止までの間に「実戦での発砲」は一件も記録されていない[6]

警棒についても、雑踏や車内での活動に支障がないよう、比較的早い時期から伸縮式の特殊警棒が採用されていた。これは私服警官他当時の一部の警察官も使用していたものと同型で、現在の警察官が使用しているものより短いものであった。着装する位置も、現在の警察官(帯革の左腰後側に吊る)とは異なり、帯革の左腰前側に付けた革製ホルダーに納めていた。

また、鉄道公安職員で編成する集団的警備組織(警察の機動隊に相当)として、鉄道公安機動隊が全国で5隊(東京・大阪・札幌・新潟・門司)編成・配備されていた。

被疑者の逮捕時に受傷する職員も多く報告されているが、鉄道公安職員として職務中に殉職が認められたケースは、1977年に成田空港航空燃料輸送警備を上空から行っていた日本農林ヘリコプター所有のヘリコプターがエンジントラブルによって墜落し、搭乗して上空から警備していた公安職員2名だけである[7]

国鉄分割民営化と鉄道公安職員の廃止[編集]

1987年(昭和62年)4月1日国鉄分割民営化に伴い、民間企業のJR社員が司法警察権を持つのは適当ではないとされ、鉄道公安職員はJRから離れて都道府県警察組織に組み込まれた。

大部分の公安職員は鉄道公安制度の廃止に伴う特別措置として実施された警察官採用試験(このために警察官の法定定員数が増やされた)を受けてそれぞれの旧職相当の階級を持つ警察官になったが、“鉄道マンでありたい”との考えから採用試験を受けずJRの社員に転じた者や退職した者もいた。

鉄道公安職員出身の警察官は鉄道警察隊専従としてではなく、他の警察官と同等の立場で採用されたため、その後の異動により地域課での交番勤務や航空隊のパイロット、刑事など都道府県警察の他の部署にも配属されている。定年退職後交番相談員を務める者もいる。

なお、鉄道公安本部長警察官僚が出向して務めることが通例となっていた。逆に、国鉄のキャリア組職員が警察に出向し、警察本部を務めた例もある。組織の任務や権限などから鉄道公安警察の間では密接な協力が行われており、国鉄分割民営化以前から両者の関係はおおむね良好であったと記録されている[8]

鉄道公安職員の教育[編集]

国鉄の教育研修機関である鉄道教習所(後に「鉄道学園」と改称)に公安科が設けられ、新規採用された職員はここで3ヶ月間の教育を受けた。

また、中堅幹部職員の養成のために中央鉄道学園に高等部公安科の課程が設けられていた。

鉄道公安職員以外の司法警察職員[編集]

司法警察職員等指定応急措置法(昭和23年12月9日法律第234号)」により、鉄道公安職員とは別に、日本国有鉄道役員駅長、駅の助役及び車掌区の長並びに日本国有鉄道の職員で旅客公衆の秩序維持又は荷物事故防止の事務を担当するもののうちから、運輸大臣が定める運輸省の職員が検事正と協議して司法警察員を指定し、日本国有鉄道の駅又は車掌区の助役及び車掌、運転士、機関士並びに日本国有鉄道の職員で旅客公衆の秩序維持又は荷物事故防止の事務を担当するもののうちから、運輸大臣が司法巡査に指定していた。この司法警察職員には、捜査権や武器携帯の権利はなかった。この制度は駅構内や列車内等での秩序維持のために特に設けられていたものである[9]

脚注[編集]

  1. ^ 法律上の身分はあくまでも「日本国有鉄道職員」である。鉄道公安職員となるには、まず国鉄職員として採用されてから、内部の選抜試験に合格して鉄道学園公安科に入学する必要があった
  2. ^ 本項目では便宜上「特別司法警察職員」と表記するが、厳密には「職務に関して刑事訴訟法の一部準用を受ける日本国有鉄道職員」であり、「刑事訴訟法上の司法警察職員」ではない[1][2]
  3. ^ このため、身分証票である「鉄道公安職員手帳」の身分欄には「鉄道公安職員の証 司法警察員に相当する職務を行う者」と記載されていた(『鉄道公安官と呼ばれた男たち』81ページ)
  4. ^ 旅客への暴力行為やスリ置き引き無賃乗車不正乗車キセルなど
  5. ^ 『鉄道公安官と呼ばれた男たち』98-103ページ
  6. ^ 『鉄道公安官と呼ばれた男たち』98-103ページ
  7. ^ この事故では同じヘリコプターに搭乗していた千葉県警の警察官1名、同社操縦士と整備員各1名の計5名が死亡している
  8. ^ 詳細は『鉄道公安官と呼ばれた男たち』を参照
  9. ^ ただし、鉄道公安職員と異なり「正式な特別司法警察職員」であるため、少なくとも法律上は現行犯逮捕した被疑者の取り調べや送検を行う権限を持っていた[3]

関連資料[編集]

  • 日本国有鉄道百年史』各巻
  • 『鉄道公安の軌跡』(日本国有鉄道公安本部、昭和62年)
  • 『図説 鉄道のプロフェッショナル』(学研、2008年)50-61ページおよび80-87ページ
  • 濱田研吾『鉄道公安官と呼ばれた男たち』(交通新聞社新書、2011年)

関連項目[編集]

外部リンク[編集]