上尾事件

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上尾事件(あげおじけん)は、1973年昭和48年)3月13日国鉄労働組合(国労)と国鉄動力車労働組合(動労)の遵法闘争に反抗した利用客が日本国有鉄道高崎線上尾駅埼玉県上尾市)で起こした騒擾事件である。

目次

[編集] 概説

1970年代国鉄では、賃金引上げや労働環境の改善、合理化反対を目指しての労働闘争が頻繁に繰り返されていたが、公共企業体職員であった国鉄の労働組合員による争議行為は公共企業体等労働関係法(公労法)で禁じられていることから、組合は運行安全規範を遵守するとかえって列車の運行が遅延することを逆用し、運行安全規範を遵守することで労働闘争の手段とした。これを遵法(順法)闘争と呼んでいる。争議行為が禁止されている公務員等を除けば、争議行為自体は労働法上の正当な権利行使であり、違法ではなく、法的には何ら非難される筋合いのものではないが、それによってもたらされる利用者への不便や苦痛は多大なものであり、社会通念からして非難は免れえないものである。

一方、1970年代は第一次ベビーブームによる若年人口の激増により、通勤通学客も増大の一途を辿っており、列車は限界を超えて増発されている状態で、過密状態のダイヤの中、朝夕通勤通学時間帯の中・長距離列車は既に混雑が慢性化していた。法規を遵守していての運行は不可能な状況にまでなっており、取り扱い規則の違反は恒常化していた。

そこで、国鉄の労働者はその状態を逆手に取り、遵法(順法)闘争が大規模に展開された。列車の運転士は些細な理由で停止や徐行を繰り返し、ダイヤは崩壊状態であった。鉄道利用客、特に賃金労働者等はストライキであっても通勤せざるを得ず(学生・生徒は学校が休みとなるためストライキを歓迎したが)、遵法闘争が行われると、乗客は過剰な混雑と大幅な遅延の中に置かれることとなり、利用客の不満は高まっていった。

[編集] 事件の概要

国鉄急行形電車(165系)

1973年(昭和48年)3月13日、この日も組合員は遵法闘争を行い、籠原上野行き上り普通列車が14分遅れて7時20分に上尾駅1番線に入線した。この日はこの年の2月1日から始まった「第2次遵法闘争」に突入した翌日であった。上りホームには既に3,000人もの通勤利用客でごった返しており、列車に乗り切れない乗客が数多く発生した上に列車も発車できなくなっており、上尾駅では改札制限を行っていた。

そのような状況の中で後続の前橋発上野行き上り普通列車(急行形国鉄165系電車)も2番線に入線する。この列車も超満員で発車できない状態であり、この両列車を2駅先の大宮で運行を打ち切るという判断を行い、その旨の構内放送が行われた。その結果、一部の乗客が激怒、運転士への抗議のために運転室に詰め寄った。

また、数名が線路に下りて投をする等をし、ガラスが割れる音を聞いて、車内の乗客も暴徒に加わった。殺気立った乗客の状態から身の危険を感じた運転士は、業務を放棄し上尾駅の駅長室に逃げ込んだ。

列車は当然運行出来ず、乗客の怒りに更に油を注ぐ結果となった。乗客約10,000人は暴徒と化し駅長室に突入、中にいた駅長にハンマーなどで殴りかかって負傷させた(駅長は全治5日間の怪我を負い、救急車で搬送されている)。また暴徒は上尾駅に停車していた電車の窓ガラスやヘッドライトを割り、運転設備を破壊した。駅の各種設備も破壊された。さらには上尾駅に進入できず300m手前で停車していた上野発新潟行き下り特急とき2号」も投石され、窓ガラスが割られた。また事務室からは、何者かによって現金20万円が奪われた。駅は暴徒と化した乗客に占拠され、無法地帯は駅周辺にまで広っていった。埼玉県警察機動隊を出動させて現地に派遣したが、その数は550人と、10,000人以上いると見られる暴徒側に対し激しく劣勢であり、暴徒の排除と検挙を断念して暴徒側と睨み合って牽制するしかなかった。

最終的に暴徒化した人数は10,000人前後だったと言われる。この暴動は同じ高崎線の桶川駅北本駅鴻巣駅熊谷駅と、東北本線の埼玉県内各駅にも飛び火し、これら地域一帯で一時的に治安が悪化した。宮原駅では、常日頃から通勤による疲労に耐えかねた乗客らが駅助役拉致し、約4km先の大宮駅まで無理やり歩かせた(この時、大宮駅でも暴動が発生していた)。上尾駅周辺は約11時間に渡り不通となり、運行再開するも正常なダイヤでの運行は出来ず、代行バスで対応するものの終日ダイヤは混乱した。

戦後の騒擾事件としては異例なことに、この事件の逮捕者は暴徒全体の0.1%にも満たない僅か7人で、混乱に乗じて駅から金銭を奪った者、取材に来ていた新聞記者に暴行を加えた者などであった。

[編集] 事件の要因

この事件は表面上、遵法闘争によってダイヤを乱したことが原因と言われているが、普段の国鉄職員による横柄な営業態度に日頃から不満を持っていた利用客の怒りが遵法闘争によって爆発した事件と見ることもできる。

暴動を起こした利用客は、急速に宅地化の進んだ上尾市に暮らし始めた若年層が中心であった。第一次ベビーブーム世代以下が社会の第一線で活躍し、結婚などで所帯を持ち始めて全国的に住宅不足が叫ばれ、上尾市でも日本住宅公団などによって大規模な団地が建設されていた。同じく、暴動が飛び火した桶川や北本、鴻巣でも人口が大幅に増えていた。

一方で高崎線を含む各線区の輸送力増強は財政逼迫から改善が滞っていた。各線区に対する車両の投入両数(購入・維持予算増)、及び列車増発数(人件費増)を最低限に抑えざるをえなかったので、少しでも輸送力を確保するため近郊形電車を最混雑時間帯に集中的に走らせ、その前後の時間帯に2ドア・デッキ付の急行列車用車両(165系電車もしくは碓氷峠用の169系電車)を投入するなどの一時的な対策をとらざるをえなかった(事件の当該列車は2本とも、本来ならば上野駅に7:50以前に到着するはずであった)。しかし、乗降に時間のかかる急行列車用車両の使用は、結果としてこれら朝ラッシュ時前後時間帯の遅延や混雑を悪化させることになった。

また、この事件は昭和48年警察白書の第7章「公安の維持」でも、「急激な都市化の進展や国民意識の変化に伴って従来予想もされなかったような各種の事案」として取り上げられている。

[編集] 事後

事件翌日、暴動の再発を恐れた国鉄当局と警察は、早朝から事前に機動隊を上尾駅周辺に配備した。前日出動した埼玉県警の機動隊が暴徒の人数に比してあまりにも小人数であった(それでも、埼玉県警機動隊の大半である)ために無力であったことから、県警機動隊だけではなく管区機動隊及び近隣県警からも増援が派遣され警備活動に投入されたが、前日の騒乱が嘘のように終日全く何事も起こらなかった。

また、組合員に危害が加えられたことで、労働組合側も遵法闘争の中断に追い込まれた。しかし、一部の組合は具体的な根拠も示さず「上尾での騒乱は権力側が扇動したものである」との認識を示し、遵法闘争を再開した。そのため4月24日には大宮駅での混乱をきっかけに首都圏の国鉄駅で同時多発の暴動事件首都圏国電暴動)を引き起こすこととなる。

国鉄はラッシュ時に急行形電車の投入を取り止めるため、同年4月に近郊形電車である115系電車300番台42両をメーカーに緊急発注した。その後も増備を続け、上尾駅を朝のラッシュ時に発着する電車からは1975年までに急行形電車が排除された。

[編集] 関連項目

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