洞爺丸事故

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洞爺丸事故
Toya-Maru Disaster.JPG
転覆し船腹を見せる洞爺丸
日付 1954年昭和29年)9月26日
時間 22時43分ごろ(JST)
場所 津軽海峡
死者・負傷者
1155人死亡

洞爺丸事故(とうやまるじこ)は、1954年(昭和29年)9月26日に、日本国有鉄道(国鉄)の青函航路で起こった海難事故である。

目次

[編集] 経緯

1954年9月26日未明に日本に上陸していた台風15号は、12時時点で佐渡島付近にあって、日本海を時速100kmを超えるスピードで北上していた。台風はその後渡島半島を通過して、17時ごろ津軽海峡にもっとも接近すると予想されていた。

11時00分、午前中青森からの3便で運航を行っていた洞爺丸は、函館に到着。折り返し14時40分出航4便となる予定で、近藤平市船長[注 1]は台風接近前に陸奥湾に入り、青森に到着する見通しを立てていた。

12時40分頃、青森へ向かっていた渡島丸(貨物専用船)より海峡中央から「風速25メートル、波8、うねり6、動揺22度[注 2]、針路南東で難航中」との通報が入る。危険を感じた後続の第六青函丸第十一青函丸は海峡にさしかかったところで運航を中止して引き返した。このうち第十一青函丸の乗客(米軍軍人・軍属が主)・車両を洞爺丸へ移乗させることとなったが、着岸・移乗作業に時間がかかり、またこの日函館市内で断続的に発生していた停電のために船尾の可動橋(車両を載せるために船体後部にかけられる橋)が上がらず、洞爺丸も15時10分に台風接近を恐れて運航を中止した。この停電はわずか2分間のことで、停電がなく可動橋が上がっていたら無事に青森に到着していたであろうといわれている[注 3][1]

17時頃、函館では土砂降りの後に、風が収まり晴れ間ものぞき、台風の目が通過したことを思わせた[注 4]。台風の速度から見て天候の回復は早いものになるとみて、海峡の気象状況を検討した結果、自身の気象判断に絶対の自信を持っていた近藤平市船長は出航を決断した。しかし、これは台風の目ではなく実際には閉塞前線であったと考えられている[2]

18時39分、青森に向けて遅れ4便として出航。乗員乗客は合わせて1,337人。出航して間もなく、南南西からの風が著しく強くなる[注 5]

19時01分、天候が収まるのを待つために函館港外に投錨し仮泊。しかし、平均して40メートル、瞬間的には50メートルを超える南西方向からの暴風と猛烈な波浪のために走錨する。また、船尾車両搭載口より進入した海水が車輌甲板に滞留し、水密が不完全な構造だった車輌甲板からボイラー室、機関室への浸水がおこり、蒸気ボイラーへの投炭が困難になるとともに、22時過ぎまでには両舷の推進器蒸気タービンと左舷の発電機が停止した。両舷主機の停止で操船の自由を失った洞爺丸は沈没を避けるため、遠浅の砂浜である七重浜への座礁を決意する。しかし、実際のところは操船不能の洞爺丸に、もはや決意を実行に移す何れの術も残されていなかったのである。

22時26分、七重浜約700m沖で(おそらくは波浪のために海底に堆積していた漂砂に)触底。乗組員は座礁によって転覆の危険は回避されたと考え、乗客にもその旨アナウンスしたが、実際は船体が安定せず波浪によってさらに右傾斜を増していった。座礁の報告を受けて青函局は救難本部の設置を決定。補助汽船4隻(いずれも150トン程度)を現場に向わせるが波浪激しく断念。

22時39分にSOSを発信。しかし陸上の関係者は、このSOSは座礁したことによって発信されたものであると理解し、この後、沈没にまで至ることを予想することはできなかった[注 6]

22時43分ごろ、乗組員の奮闘の甲斐なく海岸まであと数百メートルの地点で唯一の生命線であった左舷錨鎖が切断。この時点で復元性を失っていたとされるが、船底の横揺れ防止フィン(ビルジキール)が乗り上げた海底の砂に刺さったためであるともいわれている。この時大波を受けて横倒しとなり、満載した客貨車の倒れる轟音とともに横転。最後には船体がほぼ裏返しで海底に煙突が刺さった状態(傾斜角度130度)になったといい、この洞爺丸だけでも乗員乗客あわせて1155人[注 7]が死亡または行方不明となった。犠牲者の中には、北海道遊説の帰途に遭難した冨吉榮二逓信大臣菊川忠雄衆議院議員や元宝塚女優佐保美代子などの著名人が含まれている。逆に、中央競馬調教師である西塚十勝は、転覆した便の切符を持ちながらもたまたま乗船せず、難を逃れている。

なお、激しい風雨や情報の混乱などで救助活動が遅れ[注 8]、七重浜に打ち上げられた時点では生存していたものの、そこで力尽きて亡くなった者が相当数いたという話も残っている。他方では、「娘一家が乗船し遭難」との一報を受けた父親がショック死してしまった所に、娘の夫から乗船せず無事という旨の電報が届いたという悲話も残る。

事故直後「荒天での無理な出航は一等に乗船していた国鉄札幌総支配人及び旭川・釧路・青函鉄道管理局長らが国鉄本社での会議に間に合わせるために船長に出航を強要したものだ」との新聞記事が出され、後年になっても事故の一因として語られるが、これは一等から出航前に下船して事故を免れた乗客の放言によるところが大で、青函局長[注 9]や乗組員の証言によると連絡船が遅れた場合に備えた切符の手配[注 10]をしていたので、船長に出航を強要する必要はなかったと否定している[3]

なお、洞爺丸には郵便物が搭載されており、かつ、船内郵便局が設置され、船内で区分作業を行っていた。このため、北海道から本州に向けて輸送中の郵便物が多数破損した。宛名ないし送り主が判明した郵便物については、事故に遭遇し遅延した旨を説明する付箋を貼ったうえで配達あるいは返送され、その中にはクラッシュカバーとして現存している物もある。

[編集] 四隻の事故

洞爺丸のほかにも、函館港外で碇泊した僚船北見丸日高丸十勝丸大雪丸、第十一青函丸、第十二青函丸の6隻でも同じような状況が発生して、大雪丸と第十二青函丸は危機を逃れたものの、他の4隻は函館港外で相次いで転覆・沈没した(第十一青函丸は転覆しないまま船体破断で沈没)。開口部である車輌甲板に海水が浸入し滞留した場合、機関室への浸水を防ぎ切れないという、気付きそうで気付かれることのなかった連絡船の構造上の問題が浮き彫りになった[注 11]

特に第十一青函丸は、戦時標準船のため船体に使用されていた材質が脆いうえに、事故直前の6月から9月にかけて行なわれた船底補強工事が、かえって船体強度に歪みを生じさせたといわれ、大波を受けた衝撃で一気に船体が3つに破断した。

また、遭難した5隻は車輌を積載していて、遭難を逃れた船は空船だった。車輌を満載していたことによって重心が高くなっていたのに加え、車輌甲板に海水が侵入し始めた際に、車輌甲板に開口している機関室やボイラー室への換気口を閉鎖しようとしたが、車輌が邪魔をしてこれらの開口部の閉鎖が完全に行えず、機関室等への浸水を防げなかったことが沈没の遠因となっている。

当時の函館湾内の波は洞爺丸の全長(約118m)より僅かに短い波長であり、この場合車輌甲板へ流入する水の量が極端に増大し、しかも排出されにくくなることが後の調査で判明している。そのため、以後の連絡船は防水を徹底させるため車両積込口に防水扉を設置、さらに生き残った洞爺丸型3隻については遊歩甲板の角窓を水密性に優れた丸窓に交換、石炭積卸用の開口部を閉鎖するため燃料の重油転換も図られる。

  • 第十一青函丸(2,851トン):19時57分「停電に付き、後で交信を受ける」通信を最後に途絶。後に波浪による船体破断のため沈没。乗員90名全滅。未発見遺体は44。全員が死亡したため正確な時刻は不明だが殉職者の時計から20時頃と推定されている[4]
  • 北見丸(2,928トン):22時35分葛登支灯台沖にて転覆沈没。沈没地点が8キロも沖合だった事から乗員70名殉職、未発見遺体29。生存者6名。半数は行方不明で太平洋に流されたと見られる[注 12][5]
  • 洞爺丸(3,898トン):22時43分七重浜沖600mにて座礁。後に転覆。22:41頃、「SOS de JBEA 洞爺丸、函館港外青灯より267度8ケーブルの地点に座礁」、直ちに「JBEA de JNI RRR SOS」と函館海保局が応答。乗客・乗員1,314名中1,155名死亡、生存者159名[注 13][6]
  • 日高丸(2,932トン):23時32分SOSを打電中、23時40分防波堤灯台西方1.5kmにて転覆沈没。乗員56名殉職、未発見遺体2。生存者20名。最後の電文は「SOS de JQLY(=日高丸) 函館防波堤灯台よりW9ケーブルの位置にて遭……(以下途絶)」 [7]
  • 十勝丸(2,912トン):23時43分葛登支灯台沖8kmにて転覆沈没。乗員59名殉職[注 14]、生存者17名[8]

洞爺丸以外の4隻が函館港外での停泊を選択した背景には、台風から避難する船舶で港内が混雑していることもあったが、当時港内ブイに係船されていた貨物船エルネスト(アーネスト)号(イタリア船籍・7,341トン)が16時30分頃港内で走錨事故を起こしたことも背景にある[9]。この時函館港内にある船舶では最大だったエルネスト号は5月にメキシコから石炭を輸送中に室蘭で座礁事故を起こして船底を破損、函館に回航後スクラップ前提の状態で係留されていた。連絡船の船長達はエルネスト号が再度走錨した時に、狭い港内でかわすことに不安を感じていたといわれている。

また、沈没には至らなかったものの、LST546号(2,319トン)が座礁して難を逃れた、などの記録が残っている[10]

一夜にして遭難した5隻をあわせた犠牲者は最終的に1,430人にも上り、戦争による沈没を除けば、発生時点では1912年タイタニック号沈没、1865年サルタナ号火災に次ぐ世界第3の規模の海難事故であった。他にも大雪丸のように沈没こそしなかったものの航行不能となった船もあり、青函連絡船は終戦前後の時期に近い壊滅的打撃を受けた。まさに航路開設以来、また未曾有の大惨事であった。

台風は、予想と異なり、日本海側を進んで北海道に接近、しかも速度を大きく落としさらに発達、南西に開口した函館湾には台風の危険半円内にあったこともあって暴風と巨大な波が長時間にわたって来襲することになった。また、台風の目と思われた晴れ間は台風の前にあった閉塞前線の通過によるものであった。しかし、この時代にはまだ気象衛星はおろか、気象レーダーすらなく、また、気象観測機は米軍任せであり、このような複雑な気象現象を正しく観測し、予想することは非常に困難なことであった[注 15]。また事故後に行われた気象データの解析も困難をきわめることになった[注 16]。なお、近年の研究によると、洞爺丸台風が函館付近に達していた時には既に温帯低気圧になっていた可能性が高いと推定されている。

この特異な台風はその他にも各地に甚大な被害を残しており、後に「洞爺丸台風」と命名された。

[編集] 海難審判

1954年9月27日、函館地方海難審判理事所の理事官が、重大海難として高等海難審判理事所から応援を得て調査を開始。

10月1日、函館地方海難審判理事所所長が中間発表の記者会見で「調査の結果荒天準備が不十分で、船長の過失のにおいが濃くなった」と発表。同じ頃、最高検察庁は「平常の経験からこの程度では航行できると判断して出航したらしいので、業務上過失にはならない。また船長が死亡しているので問題にならない」との見解を発表。

11月27日、函館地方海難審判理事所は函館地方海難審判庁に洞爺丸を含む5隻の沈没事故について審理申立を行なう。

1955年2月15日、函館地方海難審判庁で第一回の審理開始。受審人は各船の所属乗組員9名(事故当時非番のものを含む)。指定海難関係人は日本国有鉄道の総裁であった長崎惣之助及び青函鉄道管理局長、中央気象台長、函館海洋気象台長を指名。この後生き残った乗客・乗組員、青函局部課長、造船技師などを証人として審理が行われた。

2月25日、東京大学加藤弘教授らによる「洞爺丸等復元性鑑定書」が提出。

  • 機関室等への漏水によるエンジン停止の原因となった車両甲板への海水の滞留は、水槽実験により波高6m、波周期9秒のときに最大量となることが判明[注 17]。この値は観測による推定値とほぼ一緒であった[11]
  • 車両甲板上の滞水量は試算により250トン以下とされ、復元力には影響を及ぼすものではないとされた[12]
  • 七重浜での転覆は水槽による座州実験の結果、漂流中に右舷ビルジキールが漂砂に引っかかったため船体が一点支持となり、そこへ大波が襲ったために転覆したと推定された[注 18][13]

9月5日、理事官、受審人、指定海難関係人及び海事補佐人による最終弁論。

9月22日、洞爺丸について函館地方海難審判庁の裁決言渡。主文は「船長の運航に関する職務上の過失に起因して発生したものであるが、船体構造及び連絡船の運航管理が適当でなかった事も一因である」とし、指定海難関係人十河信二 [注 19] に対して勧告した。気象台と青函鉄道管理局長については勧告を見送った。

12月21日、十勝丸・日高丸・北見丸・第十一青函丸について函館地方海難審判庁の裁決言渡。十勝丸・日高丸・北見丸については洞爺丸と同様の裁決となった。第十一青函丸については乗組員全員死亡により原因不明とされた。 これらに対し理事官・国鉄の双方から二審請求が提出される。

1956年4月6日、高等海難審判庁で第二審の審理開始。

1957年1月22日、この日の審理で気象庁から発表された「昭和二十九年台風十五号報告」に対する説明が行なわれ、国鉄側からも質疑を行う。

1959年2月9日(他四隻については1960年3月15日)、ほぼ一審裁決を踏襲した裁決を発表。ただし、国鉄に対してはすでに改善措置がとられているとして勧告はなされなかった。

国鉄は内容を不服として東京高等裁判所に裁決取り消しを求めて提訴したが、同高裁は1960年8月3日、「海難審判の裁決は意見の発表に過ぎず、行政処分ではない」として訴えを却下。8月15日に最高裁判所に上告したものの、1961年4月20日に上告を棄却して裁決が確定した。

審判進行中から殉職した船長が弁明の機会のないまま一方的に断罪されることについて疑問視する意見が出ていたが、その後、海難審判庁では海難審判制度改革の議論の中で、「海難で船長が殉職した場合、一言の弁明の機会もないまま裁決文に『職務上の過失』と明記されるのはいかがなものか」とされ、その後船長が殉職した海難事故では裁決理由の中に船長名が出たとしても『船長の職務上の過失』の語句は使用しないと申し合わされることとなった。

この事故を教訓として既存連絡船への改修が施され、船尾車両積載口への水密扉の設置、車両甲板下旅客室窓の水密丸窓への交換、蒸気機関への重油燃焼装置や自動給炭機の設置[注 20]、客戴車両渡船(第十二青函丸、石狩丸)の車両甲板上にある旅客室の撤去による重心の低下化等が行なわれ、青函連絡船の運航についても、出航判断等それまで船長の独断に任されていたものが船長と青函局指令との合議制になり、荒天時には気象台との連絡を緊密にする、台風や低気圧通過時の退避先は湾が開口していて海峡の波浪が押し寄せやすい函館ではなく、陸奥湾の奥にあり波浪の影響を受けにくい青森とする等の改善が図られた。

また、この事故以降に新造される連絡船の船体構造についても、主機関のディーゼルへの転換、車両積載口への水密扉の採用、車両甲板下の旅客区画の廃止、機関室から車両甲板への開口部の全廃、凌波性・復元性の向上、船底部水密区画及び水密扉の設置、操舵性向上のための二枚舵の採用等大きく設計変更され、それまでにも増して安全性に力が入れられた。事実、その後1988年3月13日の終航まで、青函連絡船で2度とこのような大きな事故がおきることはなかった。

なお、この事故をきっかけとして、本州と北海道を地続きにする青函トンネル構想が急速に具体化されることになっていく。

洞爺丸の船体は後日引き揚げられたが、引き揚げの遅延も災いして上部構造の損傷が著しく、現場検証後に解体された。また、第十一青函丸、北見丸も引き揚げ後解体された。一方、十勝丸と日高丸は、引き揚げ後車両甲板より上部の船体を新製(引き揚げ時、車両甲板より上はすべて失われていた)して1956年に航路に復帰。日高丸は1969年、十勝丸は最後の蒸気タービン船として1970年まで使用された。第十一青函丸から洞爺丸に積み替えられたマイネフ38は翌1955年7月の等級制変更によりマロネフ49となったものの、マロネフ49 5は現車が存在しない書類上だけの車号となった。本船の保全命令が解かれた同年10月に正式に廃車手続きが取られた。

[編集] 慰霊碑

洞爺丸慰霊碑(北海道北斗市七重浜)
  • 台風海難者慰霊之碑。住所は、北海道北斗市七重浜 7 丁目。事故の翌年に犠牲者を悼む慰霊碑[注 21]が建てられ、現在も海峡を行く船を静かに見守っている。
  • 青函連絡船海難者殉難碑。函館護国神社の近く、函館山登山道口付近にあり、もとは戦時中に殉職した職員の霊を慰めるために 1953 (昭和 28) 年に建立されたものだが、洞爺丸台風での殉職者も後に合祀されている。
  • 洞爺丸遭難者慰霊碑。青森市の三内霊園に青森県民の遭難者と青函トンネル事故殉職者が合祀されている。

[編集] エピソード

  • 同じ台風の被害にあった大雪丸第十二青函丸石狩丸は、運が良く沈没を逃れたものの翌日、航海不能となってしまい、その後ドッグ入りして数日後に復旧した。
  • 羊蹄丸の船長は風が弱くなったのは台風の目だと考えており羊諦丸は出航することを延期したため、羊蹄丸はその災難を逃れた。
  • この日の摩周丸はまだ浦賀船渠で定期検査のドッグ入りをしており、被害を受けることは無かった。この事故の後、摩周丸は定期検査を早めさせて事故から一ヵ月後に青函航路に復帰する。
  • たまたま洞爺丸に乗り合わせた3名の外国人キリスト教宣教師(デーン・リーパー(YMCA)[14]アルフレッド・ストーン(メソジスト)、ドナルド・オース(メソジスト))の人道的な活動が伝わっている。手品で子供を和ませたり、救命具を着せてやったりの行動が有ったという。リーパーとストーンは遭難死して、オースが奇跡的に生き残った。[15]
  • 火葬場が足りず、七重浜に仮設の火葬場が設けられた[16]
  • 国鉄職員の殉職者の遺体捜索は後に回され、乗客の居なかった4隻に潜水夫が入ったのは事故から10日を経過してからのことであった[17]
  • 遺族になりすまし補償金を詐取しようとする事件が有った[18]
  • 明らかに自殺をほのめかす遺書を携えた遺体が揚がり、投身自殺で死亡したのか、事故で死亡したのかが問題となった。最終的には事故で死亡したと判断された[19]
  • この大海難事故に対し、各国から弔電が寄せられた[20]

[編集] 本事故を題材とした作品

[編集] 脚注

[編集] 注釈

  1. ^ 三等運転士の頃から気象には関心が強く、自ら天気図を書いて船長や一等運転士に見せて回っていたことから「天気図」のあだ名があったとされる。当日は本来の洞爺丸船長が休暇を取得したため交代で乗務していた。
  2. ^ 「波」とは波浪階級のことで8は「非常に荒れている」を示し波高9 - 14mとなる。通常航海では最高ランクに当たる9(「異常な状態」)はなく、洞爺丸が沈没直前に打電したときでも8であった。動揺も20度を超すと何かに掴まっていないと立っていられない。
  3. ^ 実際に14時40分に青森を出航した十勝丸は18時50分頃函館港外に碇泊している。
  4. ^ 函館海洋気象台でも「台風の目」を観測したとして札幌管区気象台に通報している。
  5. ^ 函館港は天然の良港であり、地勢的に奥まっているため、通常、波浪は穏やかである。だが、南南西の方角のみは日本海に向けて開いており、「対岸は能登半島」とも表現される状態となっている(『洞爺丸転覆の謎』p.17)。
  6. ^ 打電された地点の水深は海図上では12mある(洞爺丸の喫水は5m)ことから座礁自体が想像できないことであり(前述のとおり、波浪のため海底に砂が堆積していたと思われる)、ましてや座礁して着底している船舶がさらに横倒しになるとは、想像できなかった。
  7. ^ これは岩波書店の岩波総合年表もしくは本記事末尾に示した参考文献『洞爺丸転覆の謎』に記載されている数字であり、他にも公的機関の発表や新聞社・年鑑などの文献において1153人、1171人、1175人など様々な数字が存在している。後述する4隻合計の犠牲者数についても同様である。
  8. ^ 七重浜駅から救難本部に遭難者漂着の報告が入ったのは23時15分頃。偶然付近を通りかかった運送会社のトラックが生存者を乗せて万代町の交番に届け出たのが23時35分頃。受け付けた警官は最初「洞爺丸ってのは青函連絡船だろう。あの船が沈むことがあるものか。いい加減なことを言うと承知しないぞ」と言ったといわれる。また、洞爺丸に隣接する形で第六真盛丸(2209トン、大阪・原商船所属)が座礁したが、暴風によるアンテナ線切断により自船のSOSの送信も洞爺丸のSOSも受信できず、洞爺丸沈没を知ったのは非常配置中の船員が最初に救助した二等機関士と乗客各一名からであった。その後暴風の中アンテナ線の張り替えに成功し、0時18分石狩丸を通じて救難本部に通報。20名を救助している。
  9. ^ 札幌総支配人一行同様国鉄本社での会議に参加予定ではあったが、都合により洞爺丸では同行せず後続便での上京を予定していた。
  10. ^ 出航見通しが不明だったため青森5時20分発急行「みちのく」特別二等と18時40分発急行1202列車(「特殊列車」)一等寝台の二段構えの手配をするとともに、千歳発の航空機も検討していた。
  11. ^ これまではどんな荒天時でも、車輌甲板入口付近を濡らす程度しか海水の侵入がなかったため、経験則として車輌甲板全体に海水が滞留する事態は考えられていなかった。
  12. ^ 後日襟裳岬沖と宮古沖で遺体が発見されている。
  13. ^ 内訳は、乗客1,151名中1,041名死亡(米軍関係者含)、未発見遺体33、生存者110名。乗員111名中73名殉職、未発見遺体3。生存者18名。
  14. ^ 未発見遺体は無し。
  15. ^ 日本初の気象レーダーが大阪管区気象台に設置されたのは、この事故の起こるわずか25日前の9月1日のことである。
  16. ^ 最終的な気象状況の解析には2年を要したという記録がある
  17. ^ つまり、洞爺丸にとってまさしく最悪の波であった。
  18. ^ 船首から船尾にかけて船底両舷設けられる鰭であるが、洞爺丸のものは長さ43m、幅60cm、厚さ16mmである。
  19. ^ 後に発生した紫雲丸事故で引責辞任した長崎惣之助の後任の日本国有鉄道総裁。
  20. ^ 大雪丸や摩周丸等の車戴客船についてはボイラー燃料の重油転換による重油燃焼装置の設置、青函丸や石狩丸といった車両渡船については自動給炭機の設置。
  21. ^ 殉職船員については空襲による戦没船員とともに函館山麓の「青函連絡船海難者殉難碑」に合祀されている。

[編集] 出典

  1. ^ 『洞爺丸転覆の謎』p.54
  2. ^ 『洞爺丸転覆の謎』p.60
  3. ^ 『洞爺丸転覆の謎』p.58
  4. ^ 『洞爺丸転覆の謎』p.64 - p.65 、p129十勝丸の乗員が沈没の瞬間を目撃していたとされる。
  5. ^ 『洞爺丸転覆の謎』p.83 -、p.129
  6. ^ 『洞爺丸転覆の謎』p.129
  7. ^ 『洞爺丸転覆の謎』p.85 -、p.129
  8. ^ 『洞爺丸転覆の謎』p.88 -、p.129
  9. ^ 『洞爺丸転覆の謎』p.62
  10. ^ 『洞爺丸転覆の謎』p.66
  11. ^ 『洞爺丸転覆の謎』p.154
  12. ^ 『洞爺丸転覆の謎』p.155
  13. ^ 『洞爺丸転覆の謎』p.156
  14. ^ 一色義子『デーン・リーパー』教会新報社、192-204ページ
  15. ^ 『洞爺丸転覆の謎』p.72、p.80
  16. ^ 『洞爺丸転覆の謎』p.106
  17. ^ 『洞爺丸転覆の謎』p.107 - 108
  18. ^ 『洞爺丸転覆の謎』p.114
  19. ^ 『洞爺丸転覆の謎』p.114
  20. ^ 『洞爺丸転覆の謎』p.119

[編集] 参考文献

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

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