大和 (戦艦)

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世界測地系: 30°22′N, 128°04′E

宿毛湾沖標柱間にて公試中の大和
1941年10月30日撮影
艦歴
計画 第三次海軍軍備補充計画
起工 1937年11月4日
進水 1940年8月8日
就役 1941年12月16日
その後 1945年4月7日戦没
除籍 1945年8月31日
性能諸元
排水量 基準:65,000トン(完成時)
満載:72,808トン(完成時)
全長 263.0m
全幅 38.9m
吃水 10.58m
機関 ロ号艦本缶12基
艦本式タービン4基4軸
167,310馬力(公試成績)
速力 28.5ノット(公試成績)[要出典]
航続距離 16ノットで11,000(公試成績)[要出典]
乗員 竣工時:2,500名 最終時:3,300名
兵装
(新造時)
3連装45口径46cm砲塔:3基
3連装60口径15.5cm砲塔:4基
40口径12.7cm連装高角砲:6基
25mm3連装機銃:8基
13mm連装機銃:2基
兵装
(最終時)
3連装45口径46cm砲塔:3基
3連装60口径15.5cm砲:2基
40口径12.7cm連装高角砲:12基
25mm3連装機銃:52基
25mm単装機銃:6基
13mm連装機銃:2基
装甲 舷側 410mm
甲板 200mm~230mm
主砲防盾 650mm
艦橋500mm
航空機 6機(カタパルト2基)
呉海軍工廠で建造中の大和(1941年9月20日)
呉海軍工廠で建造中の大和(1941年9月20日)

大和(やまと)は、大日本帝国海軍が建造した大和型戦艦の一番艦。「戦艦大和」と呼ばれることも多い。しばしば大艦巨砲主義の象徴とされる。

目次

[編集] 概要

大和・武蔵に共通する特徴については大和型戦艦を参照のこと

太平洋戦争大東亜戦争)開戦直後の1941年12月に就役し、やがて連合艦隊旗艦となった。この任は司令部設備に改良が施された同型艦 武蔵が就役(1942年8月)するまで継続された。1945年4月7日、菊水作戦において米軍機動部隊の猛攻撃を受け、坊ノ岬沖で撃沈された。

当時の日本の最高技術が結集し、特に世界最大(当時)の46cm主砲3基9門を備えていた。なお、大和建造のための技術・効率的な生産管理は、戦後の日本工業の生産方式のもととなり重要な意味をなす(大和型戦艦を参照)。

艦名「大和」は、もともとは奈良地方(大和国)のみを指す語であったが、使用範囲は拡大し日本全体を指し示す。この巨大艦に日本を象徴する名称が付けられた事から、海軍の本艦にかける期待の度合いが見て取れる(同様の名称として扶桑がある)。正式な呼称は“軍艦大和”である。

太平洋戦争末期には海軍の主戦力は船から航空機に移っており、素早い動きをする「航空機」の攻撃には対応出来ず、戦艦としての性能を発揮する場がほとんど無いまま最期を迎えた「悲劇の軍艦」でもある。

[編集] 沿革

[編集] 建造

大和(計画名A140F5)は1937年11月4日広島県呉市呉海軍工廠の造船ドック〔造船船渠〕で起工された(※第4ドック〔第4船渠〕は整備・補修・艤装用ドックで建造用ではなかった)。その乾ドックは大和建造の為に拡張されて、長さが314m、幅45m、深さ11mとなった。米国に本型を超越する戦艦を作らせぬ為に建造は秘密裏に進められ、当初は海軍の中でも一部に知らされているだけだったと言われている。機密保持のため造船所を見下ろせる所には板塀が設けられ、ドックには艦の長さがわからないよう半分に屋根、周囲には干した和棕櫚(わじゅろ。干した物は主に「ほうき」に使われる。ちなみに、そのドックの近所の全ての民家から干した和棕櫚の葉が無くなり、大騒ぎになったという逸話が残っている)がかけられた。建造に携わる者には厳しい身上調査が行われた上、自分の担当以外の部署についての情報は少ししか知ることができないようになっていた。造船所自体が厳しい機密保持のために軍の管制下におかれ、歩哨が要所を警戒していた。建造ドッグを見下ろす山でも憲兵がパトロールにあたっていた。

そして1940年8月8日進水、「天皇陛下進水式御臨席」の噂も飛び交う中、結局は海軍大臣代理より、それまで仮称「一号艦」と呼ばれていたこの巨艦はあえて臨席している面々に聞こえないように小声で“大和”と命名された(なお軍艦の艦名に関しては海軍省の提出した二つの候補から天皇が選定した一つをその艦に命名するのが慣例である)。もっとも、進水といっても、武蔵の様に陸の船台から文字通り進水させるのではなく、大和の場合はただドックに注水するだけであった。しかも機密保持からその進水式は公表されることもなく、世界一の戦艦の進水式としては非常に寂しいものに思われたという。1941年12月7日公試終了、同年12月16日就役。

また、大和には当時の最新技術が多数使用されていた。球状艦首(バルバス・バウ)による速度の増加、煙突などにおけるの巣状の装甲などである。その他、観測用の望遠鏡測距儀も非常に巨大なものが採用され、レーダー技術などをのぞけば日本としては最高の艦艇となるはずだったのである。

[編集] 戦歴

1942年2月12日連合艦隊旗艦となる。同5月29日、ミッドウェー作戦により柱島泊地を出航したが、主隊として後方にいたため海戦の戦闘には参加しなかった。同6月14日柱島に帰投。

機動部隊と同行しなかったのは、戦前からの艦隊決戦思想と同じく、空母は前衛部隊、戦艦は主力部隊という思想の元に兵力配備をしたからであり、艦艇の最高速度とは直接関係はなく、編成上は戦艦が主力の扱いであったためである。

米側はミッドウェー海戦の報を受け、戦艦「テネシー」、「ミシシッピ」、「アイダホ」、「ニューメキシコ」、護衛空母ロングアイランド」を中心とする第1任務部隊をサンフランシスコより出撃させている。この部隊はハワイ西北1,200浬で戦艦「コロラド」、「メリーランド」と合同し、日本艦隊の西海岸攻撃に備えており、この時点では空母部隊を前衛として戦艦を運用するという思想には両軍とも差がなかった(日本艦隊が空母喪失後もあくまでミッドウェー攻略に固執した場合、米戦艦6隻は同島防衛に動く可能性もあった)。

1942年8月17日、ソロモン方面の支援のため柱島を出航。同8月28日トラック入港。1943年2月11日、連合艦隊旗艦任務を大和の運用経験を踏まえて通信、旗艦設備が改良された大和型2番艦「武蔵」に移揚。5月8日トラック出航、柱島へ向かう。呉では対空兵器を増強し、再びトラックに向かったのは8月16日。3ヶ月前より戦局は悪化し、ソロモン諸島では激戦が行われていた。10月中旬マーシャル群島への出撃命令が下る。米機動部隊がマーシャルに向かう公算ありとの情報を得たからである。旗艦武蔵以下、大和、長門などの主力部隊は決戦の覚悟でトラックを出撃した。しかし、4日間米機動部隊を待ち伏せしても敵は来ず、10月26日にトラック島に帰港。

1943年12月25日、トラック島西方180海里で米潜水艦「スケート」より攻撃を受け、3番砲塔右舷に1本被雷する。破口はバルジのみであったにもかかわらず、爆発の衝撃で舷側鋼板の上下の継ぎ目が内側に押し込まれ、機械室と火薬庫に想定外の浸水被害を受けた。敵弾がこの部分に命中すると甚大な被害を受けるという欠陥が明らかになった。トラックで応急修理を受けた後、内地に帰還。この欠陥については修理時に補強されたが、その具体的内容は不明である。

1944年6月15日マリアナ沖海戦に出撃。機動部隊同士による決戦が繰り広げられる中、米軍攻撃隊に向けて三式弾27発を放った。大和が実戦で主砲を発射したのはこれが最初である。しかし同じ海戦において、周囲艦艇とともに日本側第一次攻撃隊をアメリカ軍機と誤認し高角砲などで射撃、数機を撃墜するという失態も犯している。

ブルネイから出港し、レイテ湾へ向かう艦隊(右から長門・武蔵・大和…1944年10月)
ブルネイから出港し、レイテ湾へ向かう艦隊
(右から長門武蔵・大和…1944年10月)
シブヤン海海戦で第一砲塔に直撃弾を受ける大和(1944年10月24日)
シブヤン海海戦で第一砲塔に直撃弾を受ける大和(1944年10月24日)

10月22日レイテ沖海戦に参加。第二艦隊第一戦隊として米軍上陸船団の撃破を目指し出撃。23日早朝に旗艦愛宕が潜水艦に撃沈されたため、大和座乗の第一戦隊司令官の宇垣纒中将が一時指揮を執った。夕方に栗田健男中将が移乗し第二艦隊旗艦となった。24日、シブヤン海で空襲を受け、僚艦武蔵を失う。25日、サマール島沖にて米護衛空母艦隊と交戦、主砲弾を104発発射したが、この時の戦果に付いては諸説ある。

有名なものに、米の護衛空母ガンビア・ベイ」に大和の主砲弾一発が命中して大火災を起こしたと証言する意見もあるが、ただこれは主に当時、乗員であった者からの言葉や日記などから世間に広まったという傾向が強い(重巡利根艦長黛大佐は、著書で戦艦部隊の主砲弾で敵空母が大火災を起こしたような事実はなかったと、強く反論している)。また、米側記録にも該当する大火災発生の事実はなく、同艦は0801に重巡の20.3センチ砲弾を受けたのが最初の被弾とされている。大和が空母を砲撃したのは0709までの間であり、大和主砲弾が命中した可能性はほとんどない。「当たって欲しい>当たったはず」という精神作用が、防御煙幕や至近弾を火災の煙と誤認させたものと思われる。本海戦において、栗田艦隊の将兵は(至近砲戦に移行してからでさえ)護衛空母と正規空母の識別すらできない精神状態にあったことは有名で、その目撃証言の信頼性はきわめて低い。

大和に突入しようとしたフレッチャー級駆逐艦ジョンストンを副砲の射撃により撃沈したともいう証言もある。米側には0725-0730頃、米駆逐艦「ホーエル」「ジョンストン」が戦艦からの主砲・副砲弾を受けたという記録が残っているが、米側が両艦を砲撃した戦艦としている金剛は、0725にスコールに入ったために射撃を中止しており、同型艦の榛名もこの時刻には射撃していないことから、0727に主砲射撃で「巡洋艦轟沈」を報じた大和の射撃が命中した可能性もある。ただし、この時期には、七戦隊の日本重巡各艦も「ホーエル」「ジョンストン」を砲撃していたため、これも確実なものとは言えない。

いずれにせよ、この砲撃で米駆逐艦が致命傷を負った形跡はないことから、命中弾があったとしても「戦艦の主砲弾で」艦橋上のMk37射撃指揮装置を吹き飛ばされた「ホーエル」ではないかと言われている。「ジョンストン」も、十戦隊の軽巡「矢矧」以下が止めを刺しているため、大和が敵艦を直接葬った可能性はない。なおこの海戦で、大和が電測射撃で重巡鳥海を味方撃ちしたという説もあるが、鳥海及び筑摩が損傷した時期には、日本戦艦がこの両艦を誤射するような射撃機会を得ていないため、これは誤解である。

レイテ沖海戦では往復の航程で米軍の爆撃により第一砲塔と前甲板に4発の爆弾が命中したが、戦闘継続に支障は無かった。特に砲塔を直撃した爆弾は、大和の装甲があまりにも厚かったため全く打撃を与えることができずに砲塔天蓋の塗装を直径1メートルほどの範囲をはがしただけに終わった(ただし、第二砲塔長であった奥田特務少佐の手記によると、爆弾が命中した衝撃で第二砲塔員の大半が脳震盪を起こし倒れたと云う)が、跳ね返された爆弾が空中で炸裂し、付近の25ミリ機関砲の操作員に死傷者が出た。また前甲板の爆弾は鋲座庫付近に水面下の破孔を生じ、約4,000トンもの浸水が発生した。

レイテ湾の入り口まで来たが、結局栗田長官は近隣に米機動部隊が存在するとの誤報を受けて反転を命じ、突入することなく引き返している。引き返す途中、ブルネイ付近でアメリカ陸軍機が攻撃にきた。残弾が少ないため近距離に引き付け対空攻撃をし、数機を撃墜した。

[編集] 最期

詳細は坊ノ岬沖海戦‎を参照。

呉に帰港した後の1945年3月19日、呉軍港が空襲を受けた際、敵機と交戦した。呉から徳山沖に退避したため、目立った被害はなかった。

同年3月28日、「次期作戦」に向け大和(艦長:有賀幸作大佐、副長:能村次郎大佐、砲術長:黒田吉郎中佐)を旗艦とする第二艦隊(司令長官:伊藤整一中将、参謀長:森下信衛少将)は佐世保への回航を命じられたが、米軍機の空襲が予期されたので回航を中止し、翌日未明、第二艦隊を徳山沖に回航させた。

3月30日、米軍機によって呉軍港と広島湾が1034個の機雷で埋め尽くされ、呉軍港に帰還するのが困難な状態に陥る。

4月5日、連合艦隊より沖縄海上特攻の命令を受領。「【電令作603号】(発信時刻13時59分) 8日黎明を目途として、急速出撃準備を完成せよ。部隊行動未掃海面の対潜掃蕩を実施させよ。31戦隊の駆逐艦で九州南方海面まで対潜、対空警戒に当たらせよ。海上護衛隊長官は部下航空機で九州南方、南東海面の索敵、対潜警戒を展開せよ。」「【電令作611号】(発信時刻15時)海軍部隊及び六航軍は沖縄周辺の艦船攻撃を行え。陸軍もこれに呼応し攻撃を実施す。7日黎明時豊後水道出撃。8日黎明沖縄西方海面に突入せよ。」

4月6日、「【電令作611号改】(時刻7時51分)沖縄突入を大和と二水戦、矢矧+駆逐艦8隻に改める。出撃時機は第一遊撃部隊指揮官所定を了解。」として、豊後水道出撃の時間は第二艦隊に一任される。第二艦隊は同日夕刻、天一号作戦(菊水作戦)により山口県徳山湾沖から沖縄へ向けて出撃する。この作戦は「光輝有ル帝国海軍海上部隊ノ伝統ヲ発揚スルト共ニ、其ノ栄光ヲ後昆ニ伝ヘ」る為にと神重徳大佐(終戦直後、飛行機事故で水死)の発案が唐突に実施されたものであった。一般には片道分の燃料で特攻したとされるが、燃料タンクの底にあった油や、南号作戦で必死に持ち帰った重油などをかき集めて三往復半分の燃料を積んでいたともされている(下記も参照)。

第二艦隊は大和以下、第二水雷戦隊(司令官:古村啓蔵少将、旗艦軽巡洋艦矢矧、第四十一駆逐隊(冬月涼月(防空駆逐艦))、第十七駆逐隊(磯風浜風雪風)、第二十一駆逐隊(朝霜初霜))で編成されていた。先導した対潜掃討隊の第三十一戦隊(花月榧(カヤ)、槙(マキ))の3隻は練度未熟とみて、豊後水道で呉に引き返させた。

なお、米軍偵察機 (F-13) により上空から撮影された出撃直後の大和の写真が2006年7月米国にて発見された。当時の大和の兵装状態は未だ確定的な証拠のある資料はなく、この写真が大和最終時兵装状態の確定に繋がると期待されている。

菊水作戦(坊ノ岬沖海戦も参照のこと)の概要は、アメリカ軍に上陸された沖縄防衛の支援、つまり、その航程で主にアメリカ海軍の邀撃戦闘機を大和攻撃隊随伴に振り向けさせ、日本側特攻機への邀撃を緩和し、もし、沖縄にたどり着ければ東シナ海北西方向から沖縄島残波岬に突入、自力座礁し大量の砲弾を発射できる砲台として陸上戦を支援し乗員は陸戦隊として敵陣突入させるというものであった。アメリカ軍の制海権・制空権下を突破して沖縄に到達するのは不可能にちかく、作戦の意義はまさに、一億総特攻の魁(さきがけ)であった。しかも戦争末期には日本軍の暗号はアメリカ軍にほとんど解読されており、出撃は通信諜報からも確認され、豊後水道付近では米潜水艦スレッドフィンに行動を察知され、特に暗号も組まれずに「ヤマト」と名指しで連絡されたという。

当初、第5艦隊司令長官レイモンド・スプルーアンス大将は戦艦による迎撃を考えていた。しかし「大和」が西進し続けたため日本海側に退避する公算があること、大和を撃沈するということが目的でありそのために手段は選ぶべきではないと考えマーク・ミッチャー中将の指揮する機動部隊に航空攻撃を命じた。

しかし、スプルーアンスが戦艦による砲撃戦を挑もうとしていたところをミッチャーが先に攻撃部隊を送り込んでしまった、という説がある。

米軍航空隊の爆撃で炎上する大和(1945年4月7日)
米軍航空隊の爆撃で炎上する大和(1945年4月7日)
大爆発して沈没(4月7日14時23分、北緯30度22分東経128度4分)
大爆発して沈没(4月7日14時23分、北緯30度22分東経128度4分)
大和の爆煙
大和の爆煙
靖国神社に展示される大和46cm主砲弾の実物大模型
靖国神社に展示される大和46cm主砲弾の実物大模型

4月7日12時32分、鹿児島県坊ノ岬沖90海里(1海里は1,852m)の地点でアメリカ海軍艦上機を50キロ遠方に認め、射撃を開始した。8分後、艦爆数機が急降下、1機撃墜、中型爆弾(250キロ爆弾と思われる)2発を被弾。後部射撃指揮所が損壊した(この時に副砲も損傷したという説があるが、後年の海底調査ではその形跡は見られない。また、一発が大和の主砲に当たり、装甲の厚さから跳ね返され、他所で炸裂したという説もある)。特に後部射撃指揮所つまり後部艦橋はオノで叩き割られたように跡形もなく破壊された。またこれによる火災は沈没まで完全には消火されることはなかった(攻撃が激しく消火どころではなかったようで、一度小康状態になったものが、その後延焼している)。以後14時17分まで、米軍航空隊386機(戦闘機180機・爆撃機75機・雷撃機131機)による波状攻撃を受けた。攻撃機の中には、大和と米空母の間を三往復したものもいた。 主な被害状況は以下のとおり。

  • 12時45分 左舷前部に魚雷1本命中。
  • 13時37分 左舷中央部に魚雷3本命中、副舵が取舵のまま故障(1345中央に復元固定)。
  • 13時44分 左舷中部に魚雷2本命中。
  • 14時00分 中型爆弾3発命中。
  • 14時07分 右舷中央部に魚雷1本命中。
  • 14時12分 左舷中部、後部に魚雷各1本命中。機械右舷機のみで12ノット。傾斜左舷へ6度。
  • 14時17分 左舷中部に魚雷1本命中(右舷後部という意見もある)、傾斜増す。
  • 14時20分 傾斜左舷へ20度、傾斜復旧見込みなし。総員上甲板(総員退去)を発令。

大和は爆弾の直撃を受け、艦内では火災をおこし艦上では対空兵器が破壊された。米軍の高性能爆薬を搭載した魚雷による効果的な左舷集中攻撃の結果、復元性の喪失と操艦不能を起こした。後部注排水制御室の破壊により、注排水が困難となった。また副舵が故障し、舵を切った状態で固定され、直進乃至左旋回のみしか出来なくなった。この事は傾斜を食い止めるために意図的に左旋回ばかりしていたと勘違いする生存者もいる。これより容易に米軍は大和に魚雷を命中させ得た。傾斜復旧の為に、右舷の外側機械室と3つのボイラー室に注水命令(いわゆる「無断注水」だった、という説もある)が出されているが、機械室、ボイラー室は、それぞれの床下にあるキングストン弁を人力で開く必要があり、生存者もいないため実際に操作されたかどうかは不明である。しかしながら14時過ぎには艦の傾斜はおおむね復旧されていたのも事実である。

大和への最後のとどめになった攻撃は、空母ヨークタウンからの艦載機による右舷後部への魚雷攻撃で、大和の艦底を攻撃するために、意図的に深度を深く調節された魚雷が使用された。そのためこの魚雷が命中した時は、艦橋でも今の魚雷は見えなかった、という士官の報告がある。また今までの魚雷命中に無いような 下から突き上げられた後に、艦全体がブルブル振動して、グッグッと沈下したという証言もある。すでに左の舷側は海水に洗われる状態であった。

最後に魚雷が命中してからは20度、30度、50度と急激に傾斜が増し、3分後に総員退去が命ぜられた。しかし、艦内の大半のものに「総員上甲板」は知られず、総員上甲板(総員退去)の発令3分後には大傾斜赤い艦腹があらわになった。艦橋トップの測距所からは、煙突に轟々と海水が流れ込み、そこに兵員も吸い込まれるのが見られた。主砲射撃手の村田元輝兵曹長も「最期まで艦橋最上部の射撃指揮所におり艦と運命を共にするつもりであったが、部下と退艦するしないで押し問答となり、このままでは部下も巻き添えにしてしまうと思い指揮所の外にでたところ、普段は目もくらむ高さの指揮所の筈が、すぐそこに海面があり、あっというまにサブンとそのまま海に漬かった」と後述している。

また随伴した駆逐艦からは、大和が操艦不能になっているのが観察され、一部駆逐艦との衝突の危機もあったが駆逐艦側が回避した。その後急に傾斜が激しくなり、お椀をひっくりかえすようにゴロンと横転したと思うと、海面が盛り上がって大爆発したという記載も残っている。

横転は14時23分(転覆が正しいかもしれない)。第2・第3主砲塔の弾薬庫が大爆発(機関部が水蒸気爆発を起こしたという説もある)、艦体はバラバラになり海に沈んだ。そのときに発した火柱キノコ雲は、遙か鹿児島でも確認できたという。だが、視認距離を求める公式L1(km)=116.34×(√ho(km)+√ht(km))(←L1は水平線上の最大視認距離、ho は水面からの眼高。ht は目標の高さ。坊の岬最高点は96.9m 爆煙が雲底到達した高度は1,000m)に当てはめてみると視認距離は152.6Kmとなり、計算の結果は213キロ以上も離れた鹿児島県からは確認できないこととなる。例外として、山などの高いところに上がれば視認は可能となるが、当日の悪天候の気象条件から見て、鹿児島県内の山などからこれを確認するのは至難の技となるだろう。爆発は沈没してからという意見と、沈没前という意見と両方あるが、転覆後という点では一致している。大和沈没により古村啓蔵少将は一時は作戦続行を図って暗号を組んでいたものの、結局は作戦中止を司令部に要求し、生存者を救助のうえ帰途についた。

同型艦の「武蔵」が魚雷20本以上・爆弾20発近くを被弾し、炎上しながら9時間程耐えたのに比べ「大和」はいささか早く沈んだ印象があるが、これは被弾魚雷の内1本(日本側記録では7本目)を除いては全て左舷に集中したためと、低い雲に視界を遮られて大和側から敵機の視認が困難を極めたからであり、大和の操艦や性能が武蔵に劣っていたわけではない。米軍航空隊は「武蔵」一隻を撃沈するのに5時間以上もかかり手間取った点を重視し、大和型の攻略法を考えていた。その方法とは片舷の対空装備をロケット弾や急降下爆撃、機銃掃射でなぎ払った後、その側に魚雷を集中させて横転させようという物で、実際に第一波攻撃では「大和」は魚雷を被弾していない(1発被弾したという資料もある)。また、主砲は傾斜5度、副砲は10度、高角砲は15度以上になると射撃不能とすることもできた。 しかしながら、米軍側と日本側の戦闘記録による命中数と被弾数には大きな食い違いがあり、魚雷に至っては米軍側は一説では30本以上の命中を主張しており、その戦闘の激しさを物語っている。

また、大和も武蔵もバイタルパート(集中防御方式において設計上 防弾と浸水防御を重点的に施した部分(主砲塔、弾火薬庫、機関部等))には被害がなく、それに浮力を与える前後の非防弾区画に水雷や爆弾を集中的に受けた結果として浮力を失って沈没していたので、その部分への水密鋼管の充填、防水隔壁の強化をしていれば「一度の航空攻撃では、大和も武蔵も沈まなかった」との意見が戦後旧海軍関係者に存在した。しかし大和型戦艦は、バイタルパート以外の非防御区画がすべて破壊され浸水しても、バイタルパートのみの浮力で、艦弦を水面上に保つことができるように設計されており、この意見は誤りである。またバイタルパートといえ、同一箇所に2発目の魚雷が命中した際には耐えることが出来ず、機関室などへの大規模浸水を引き起こした。いかなる防御をしていても、船として海面に浮かぶ構造をしている限りは、このような飽和攻撃をうけて沈ますにいることは不可能であり、多少の防水隔壁の強化でどれほどの効果があるか疑問である。アメリカ軍は、まだまだ戦闘を継続できる航空機を所有しており、一方大和の対空砲火は一部の25ミリ機関砲を除いて殆ど沈黙させられおり、もはや大和の防御力が如何ほど残っていようと、沈没は時間の問題であった。もともと大和型は魚雷2本命中しても戦闘能力を維持するように設計させており、3本目命中をもって戦線から離脱させるのが正しい運用方法であるが、本作戦は大和が沈没または座礁をもって終結するもので大和が破壊される事は元々予定されていたことであり、そのとおりになったからといって大和の設計思想をどうこう言うのは適切ではない。

なお、菊水作戦時、沖縄までの片道分の燃料しか積んでいなかったとされていたが、実際には約4,000(満載6,500)トンの重油を積んでいた。重油タンクの底にある計量不能の重油を各所からかき集めたもの、及び海上護衛総隊割り当て分7,000トンの内4,000トンを第2艦隊向けに割り振ったためで、実際にはその量だと全速力でも3往復はできたという。とはいえ、空襲への回避運動や敵艦隊との水上戦が発生したなら、長時間に及ぶ高速での迂回航行を想定する必要があったし、また戦術的な擬装航路の実行なども合わせて考えるなら、決して余裕のある燃料量ではなかったとも言われている。 なお、うまく沖縄本島に上陸できれば乗組員の給料や物資買い入れ金なども必要とされるため、現金51万805円3銭が用意されていた(2006年の価値に換算して9億3000万円分ほど)。また出撃に先立ち(5日午後)、傷病者と若干の老兵、兵学校卒業直後の53名の士官候補生が退艦させられた。

戦死者は伊藤整一第二艦隊司令長官(戦死後大将)、有賀幸作艦長(同中将)以下2,740名、生存269名。

戦艦大和の沈没によって、連合艦隊は引導を渡されることになった。1945年4月25日、連合艦隊だけでなく海上護衛総隊及び各鎮守府をも指揮する海軍総隊が設けられ、終戦まで海上護衛及び各特攻作戦の指揮を執る。

[編集] 海上特攻の経緯

『戦艦大和』(児島襄著)によると、4月2日矢矧での第二艦隊の幕僚会議では次の3案が検討された。

  1. 航空作戦、地上作戦の成否如何にかかわらず突入戦を強行、水上部隊最後の海戦を実施する。
  2. 好機到来まで、極力日本海朝鮮南部方面に避退する。
  3. 揚陸可能の兵器、弾薬、人員を揚陸して陸上防衛兵力とし、残りを浮き砲台とする。

この3案に対し古村少将、山本大佐、伊藤中将ら幕僚は3.の案にまとまっていた。 しかし突然4月4日神重徳大佐から電話により特攻作戦が内示された。 この命令は連合艦隊司令長官と軍令部総長の決裁後に軍令部、連合艦隊の幹部に通告されたため反論しようがなかった。

特攻命令を伝達に来た聯合艦隊参謀長草鹿龍之介中将に対し伊藤中将が納得せず、無駄死にとの反論を続けた。自身も作戦に疑問を持っていた草鹿少将が黙り込んでしまうと、たまりかねた三上中佐が口を開いた「要するに、一億総特攻のさきがけになっていただきたい、これが本作戦の眼目であります」その言葉に伊藤中将もついに頷いたという。

『戦藻録』(宇垣纏中将日誌)によれば、及川古志郎軍令部総長が「菊水一号作戦」を天皇に上奏したとき、「航空部隊丈の総攻撃なるや」との御下問があり、「水上部隊を含めた全海軍兵力で総攻撃を行う」と奉答してしまった為に、第二艦隊の海上特攻も実施されることになったということである。

[編集] 現在

現在の大和は、北緯30度43分、東経128度04分、長崎県男女群島女島南方176キロ、水深345mの地点に沈没している。艦体は1番副砲を境に前後二つに分かれ、艦首は北西(方位310度)に、艦尾部は東(方位90度)方向を向いている。右舷を下にした艦首部より1番副砲(0~110番フレーム付近)までの原型をとどめた部分、転覆した状態の3番主砲塔基部付近より艦尾までの原型をとどめた後部(175~246番フレーム付近)が約170メートルの間に、原型をとどめぬ艦中央部は一つの起伏となり艦尾艦首の70メートル南に転覆した状態で、根元から折れた艦橋は艦首の下敷きとなり、各々半分泥に埋まった状態で沈んでいる。3つの主砲はすべて転覆時に脱落しており、砲塔の天井をしたにして海底に塔のように主砲構造物が直立している。主砲砲身自体は泥に埋もれており観察できていない。また2番砲塔のみ酷く破損しており、沈没時に2番砲塔の弾薬庫が爆発したことを示す証拠といわれている。1番と3番主砲には著しい損壊は認められていない。2つの副砲も同様に転覆した状態で海底にあるが、こちらは砲身が視認されている(NHK特集『海底の大和、巨大戦艦四十年目の鎮魂』にて放送)。

4つのスクリューのうち 3つは船体に無傷で付いているが、1本は脱落して、海底に突き刺さっている。沈没時の爆発でスクリュー軸が折れて、脱落したものと思われる。舵には損傷はない。艦首部分には 左右に貫通している魚雷命中穴があり、その他にも多数の破孔があるようだが、詳細な位置は一般には公開されていない。

{{要出典範囲|現在、検閲のため極秘裏に保管されていた「大和型戦艦」と思われる2隻の戦艦が動く映像が発見されている。かなりの距離から撮影された物で、どちらが大和で、どちらが武蔵かは不明である。(現在youtubeにアップロードされており、だれでも閲覧できる。:またその映像自体は少なくとも10年以上前から存在が知られているが、きわめて不鮮明な映像のため資料的価値は少なく注目されてはいない。

[編集] 歴代艦長

(階級はいずれも大佐)

  1. 宮里秀徳1941年9月5日~(艤装員長)
  2. 高柳儀八:1941年11月1日~
  3. 松田千秋1942年12月17日~
  4. 大野竹二1943年9月7日~
  5. 森下信衛1944年1月25日~
  6. 有賀幸作:1944年11月25日~

[編集] フィクションの中の大和

詳細は大和型戦艦に関連する作品の一覧を参照。

[編集] 主要参考文献

[編集] 通史

[編集] 建造記録

[編集] 図面集

  • 日本造船学会 編『昭和造船史 別冊 日本海軍艦艇図面集』(原書房明治百年史叢書第242巻、1978年) ISBN 4562003367
  • 岡本好司『スーパーイラストレーション 戦艦大和』(モデルアート社1993年9月号臨時増刊 No.414)
  • ヤヌス・シコルスキー 著\原勝洋 訳、監修『戦艦大和図面集』(光人社、1998年) ISBN 4769808453
  • 雑誌「丸」編集部『写真 日本の軍艦 第1巻 戦艦I』(光人社、1989年) ISBN 4769804512

[編集] 写真集

  • 原勝洋 編『戦艦「大和」 永遠なれ!』(KKベストセラーズ、2005年) ISBN 45844170975

[編集] 戦記

  • 吉田満『戦艦大和』(角川文庫、1968年) ISBN 4041281016
  • 吉田満『戦艦大和ノ最期』(講談社文芸文庫、1994年) ISBN 4061962876
    ノンフィクション戦争文学の古典と位置付けられている。しかしその内容の真実性については一部疑問も投げかけられている(駆逐艦の短艇指揮官の行動など)。
  • 吉田満・原勝洋 編『ドキュメント戦艦大和』(文春文庫新装版、2005年)ISBN 4167349043
  • 原勝洋『日米全調査 決戦戦艦大和の全貌』(アリアドネ企画、2004年) ISBN 4384033893
    レイテ沖海戦における大和艦隊の実態、巻末付九四式四十糎砲塔兵器学教科書。
  • 阿部三郎『特攻大和艦隊 帝国海軍の栄光をかけた十隻の明暗』(光人社NF文庫、2005年) ISBN 4769824580
  • 原勝洋『真相・戦艦大和ノ最期 写真と新資料で解明!』(KKベストセラーズ、2003年) ISBN 4584187576
  • 辺見じゅん『決定版 男たちの大和』(角川春樹事務所ハルキ文庫、2004年)上巻 ISBN 4758431248 下巻 ISBN 4758431256

[編集] 証言集

[編集] 海底探査記録

  • 辺見じゅん・原勝洋 編『戦艦大和発見』(角川春樹事務所ハルキ文庫、2004年) ISBN 475843123X
  • テレビ朝日出版部 編『戦艦大和 海底探査全記録』(テレビ朝日事業局出版部、1999年) ISBN 4881312367

[編集] 同型艦

  • 武蔵 [III]
  • 110号艦(→航空母艦信濃
  • 111号艦(未成)

[編集] 関連項目

  • 大日本帝国海軍艦艇一覧
  • 大和 (初代)
  • 平賀譲
  • 牧野茂
  • 吉田満
  • 岩本徹三
  • 土井勝
  • 呉市
  • 大和神社
    奈良県天理市にある神社。大和の艦内には同神社の分霊が祀られており、その縁で現在、坊ノ岬沖海戦における大和と第二艦隊の全戦没者3721名が祀られている。
  • 呉市海事歴史科学館
    愛称“大和ミュージアム”、1/10スケールの戦艦大和が再現されている。
  • 大和型 (架空戦記)
  • 宇宙戦艦ヤマト
  • 愛知縣護國神社
    境内に戦艦大和記念碑があり、記念碑の主体は大和の主砲弾の実物である。
  • ディスカバリーチャンネル
    ディスカバリーチャンネルによれば、当時の日本の技術力は世界に比べとても低く、現在言われているほどの性能は持ち合せていなかったとのことである。特に46センチ砲に関しては、アメリカ海軍アイオワ級戦艦の40.6cm50口径砲に軍配が上がるとのこと。また、速力においても33ノット出せるアイオワ級に及ばない。旧式のエンジン、欠陥のある船体、そして巨大なだけの艦砲とコストも手間も掛かった割には全く戦果が出せなかった部分にも説明が付くと、ディスカバリーチャンネルでは主張されている。
  • 上記のディスカバリーチャンネルもそうであるが、欧米では大和型(を含む日本軍の装備全般)の評価は非常に低く、アイオワ級やサウスダコタ級等の米戦艦と撃ちあった場合、ほぼ確実に大和型は敗北すると見る向きが多い[1]。理由としては、レーダー技術の低さ、火器管制の制度の差、対空能力の低さが上げられる。ただし、日本国外では大和型に関して新造時の性能を基に評価される事が多く、レーダーや対空砲を追加した後の、もしくは大和型より後に建造された他国戦艦と比較するのは不公平と言えなくもない。
  • コンピューターゲーム等に登場する際、日本産ソフトでは沈没直前の改装後の姿で描かれる事が多いのに対して、海外ソフトでは新造時の姿が多く見られる。[要出典]

[編集] 外部リンク

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