沃沮

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
東沃沮から転送)
移動先: 案内検索
満州の歴史
箕子朝鮮 東胡 濊貊
沃沮
粛慎
遼西郡 遼東郡
遼西郡 遼東郡
前漢 遼西郡 遼東郡 衛氏朝鮮 匈奴
漢四郡 夫余
後漢 遼西郡 烏桓 鮮卑 挹婁
遼東郡 高句麗
玄菟郡
昌黎郡 公孫度
遼東郡
玄菟郡
西晋 平州
慕容部 宇文部
前燕 平州
前秦 平州
後燕 平州
北燕
北魏 営州 契丹 庫莫奚 室韋
東魏 営州 勿吉
北斉 営州
北周 営州
柳城郡 靺鞨
燕郡
遼西郡
営州 松漠都督府 饒楽都督府 室韋都督府 安東都護府 渤海国 黒水都督府
五代十国 営州 契丹 渤海国
上京道   東丹 女真
中京道 定安
東京道
東京路
上京路
東遼 大真国
遼陽行省
遼東都司 奴児干都指揮使司
建州女真 海西女真 野人女真
満州
 

東三省
ロマノフ朝
中華民国
東三省
ソ連
極東
満州国
中華人民共和国
中国東北部
ロシア連邦
極東連邦管区/極東ロシア
中国朝鮮関係史
Portal:中国
朝鮮歷史
朝鮮の歴史
考古学 櫛目文土器時代 8000 BC-1500 BC
無文土器時代 1500 BC-300 AD
伝説 檀君朝鮮
史前 箕子朝鮮
辰国 衛氏朝鮮
原三国 辰韓 弁韓 漢四郡
馬韓 帯方郡 楽浪郡

三国 伽耶
42-
562
百済
346-660
高句麗
前37-668
新羅
356-
南北国 熊津安東都護府
統一新羅
鶏林州都督府
676-892
安東
都護府
668-756
渤海
698
-926
後三国 新羅
-935

百済

892
-936
後高句麗
901
-918
女真
統一
王朝
高麗 918-
遼陽行省
東寧双城耽羅
元朝
高麗 1356-1392
李氏朝鮮 1392-1897
大韓帝国 1897-1910
近代 日本統治 1910-1945
現代 連合軍軍政期 1945-1948
大韓民国
1948-
朝鮮民主主義
人民共和国

1948-
Portal:朝鮮

沃沮(よくそ、옥저)は、紀元前2世紀から3世紀にかけて朝鮮半島北部の日本海に沿った地方(現在の咸鏡道付近)に住んでいたと思われる民族。『三国志』や『後漢書』では東沃沮(とうよくそ)と表記される。

概要[編集]

2世紀頃の東夷諸国と東沃沮,北沃沮の位置。

『三国志』では、北東は狭く西南に広い、高句麗の蓋馬大山(長白山脈)の東から海岸までに及び、北に挹婁・夫餘と、南に濊貊と接し、その言語は高句麗と大体同じで時に少し異なると記される。

「沃沮」という独自の国家があったのではなく、前漢玄菟郡の夫租県(現在の咸鏡南道咸興市付近)にいた濊貊系種族を指すものと考えられており、同じく濊から分かれた夫余・東濊や高句麗とは同系とされている。1958年平壌の楽浪区域で出土した「夫租薉君」銀印や、1961年に出土した「夫租長印」銀印、『漢書』巻28地理志「夫租」などから、本来は「夫租」であったと考えられている[1]。しかし、『三国志』以降は沃沮と表記されるが、これは夫租を誤記したためと考えられている[2]1958年平壌の楽浪区域で出土した「夫租薉君」銀印や、1961年に出土した「夫租長印」銀印は、夫租地域にいた濊族の首長に贈られたものであり、夫租地域での濊族の居留が裏付けられている[1]

東沃沮[編集]

『三国志』東沃沮伝によれば、始め衛氏朝鮮に帰属していたが、漢の武帝により漢四郡楽浪郡真番郡臨屯郡玄菟郡)が置かれた際に、沃沮城(夫租城)を玄菟郡の県にした。以来、沃沮(夫租)は玄菟郡の支配下に入り、後に玄菟郡の縮小に伴って夫租県が楽浪郡に転属すると、沃沮(夫租)は楽浪郡に帰属することとなった。後、3世紀の頃には高句麗に臣従していた。毌丘倹が高句麗に攻め入った際には、高句麗王の憂位居北沃沮に逃れたという。この記事に続けて北沃沮・南沃沮と言う表現が見られるが、南沃沮とは東沃沮を指す考えられている。

後に「白山靺鞨」となり、渤海国が建国されてからは渤海人の一部となった。

東沃沮は、東以外にも別の沃沮が存在するという意味ではなく、東方民族の沃沮程度の意味だという[1]

北沃沮[編集]

前述の通り、北沃沮は『三国志』東沃沮伝の中に見える名称で、別名で置溝婁ともいう。南沃沮(北沃沮の対比での表現。東沃沮そのものを指す)から800里離れるが、南北ともに同じ習俗であり、北を挹婁と西を夫余と南を高句麗と接していた。

  • 「置溝婁」を「買溝」と書いている例があることから、「置溝婁」は誤写で、正しくは「買溝婁」であるとする説がある。もし「置溝婁」ならば現地語で「北城」または「木城」の意味であり(戦前には日本語の「津軽」との関係を考える説もあった)、「買溝婁」ならば現地語で「水城」の意味となる。
  • きわめて少数意見ではあるが両方とも実在で二つの別の地名とする説もある(李炳涛説)。この場合「置溝婁」は現在の咸鏡北道鏡城郡、「買溝婁」は江原道文川に比定される。李炳涛によれば、毌丘倹に追撃された時の高句麗王宮の逃走路は、まず「買溝婁」(文川)へ入りそこから北上して「置溝婁」(鏡城)に到達したというのである。

日本人(倭人)について[編集]

三国志』東夷伝東沃沮の条に、日本人(倭人)とみられる記述がある。

王頎が毌丘倹の命令で高句麗王を追撃し、北沃沮の東方の境界まで至った際、そこの老人に「この海の東にも人は住んでいるだろうか。」と尋ねると、「昔、ここの者が漁にでたまま暴風雨にあい、10日間も漂流し、東方のある島に漂着したことがあります。その島には人がいましたが、言葉は通じません。その地の風俗では毎年7月に童女を選んで海に沈めます。」と答えた。また、「海の彼方に、女ばかりで男のいない国もあります。」や、「一枚の布製の着物が海から流れ着いたことがあります。その身ごろは普通の人と変わりませんが、両袖は三丈もの長さがありました。また、難破船が海岸に流れ着いたことがあり、その船にはうなじのところにもう一つの顔のある人間がいて、生け捕りにされました。しかし、話しかけても言葉が通じず、食物をとらぬまま死にました。」などとも答えた。

言語系統[編集]

中国の史書によると、夫余の言語は高句麗と同じとされ[3]沃沮ワイ人もほぼ同じとされる[4]。一方、東の挹婁は独特の言語を使っていたとされ、夫余の言語と異なる[5]と記される。ここで2つの言語系統が存在することがわかるが、扶余諸語がどの系統に属すのか判断する手掛かりがほとんど現存しておらず、現在に至ってもよく解っていない。

脚注[編集]

  1. ^ a b c 田中俊明「朝鮮地域史の形成」『世界歴史9』岩波講座1999年ISBN 978-4000108294 p134
  2. ^ 「沃沮」(よくそ)の語源については、かつては何らかの現地語を表したと考えられ、日本語の「えみし」や満洲語の「ウェチ」(森林の意味)との類似をあげる説もあったが、現在では「夫租」(ふそ)が正しく、「沃沮」は単なる誤記が定着したものというのが通説である。
  3. ^ 三国志』魏書烏丸鮮卑東夷伝 高句麗「東夷旧語以為夫餘別種,言語諸事,多与夫餘同」、『後漢書』東夷列伝 高句驪「東夷相傳以為夫餘別種,故言語法則多同」
  4. ^ 『三国志』魏書烏丸鮮卑東夷伝 東沃沮「其言語与句麗大同,時時小異。」濊「言語法俗大抵与句麗同,衣服有異。」、『後漢書』東夷列伝 東沃沮「言語、食飲、居處、衣服有似句驪。」濊「耆旧自謂与句驪同種,言語法俗大抵相類。」
  5. ^ 『三国志』魏書烏丸鮮卑東夷伝 挹婁「其人形似夫餘,言語不与夫餘、句麗同」、『後漢書』東夷列伝 挹婁「人形似夫餘,而言語各異」

参考文献[編集]

  • 武田幸男編『新版世界各国史2 朝鮮史』2000年、山川出版社、ISBN 4-634-41320-5
  • 李炳涛『韓国古代史』
  • 大原利武『満鮮に於ける漢代五郡二水考』1933年、近沢書店

関連項目[編集]

外部リンク[編集]