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=== エピソード ===
=== エピソード ===
* 入浴時間が約5時間という程、大の[[風呂]]好きであった。
* 2000年の正月放送の富士フイルム「お正月を写そう」のCM撮影(撮影自体は、[[1999年]]の12月初旬)に、ドリフの現役メンバー(及び[[田中麗奈]])と一緒に出演し、これが荒井を含めたドリフのメンバーが全員集合した最後の映像となった。当初は荒井はそのCMの出演メンバーに含まれていなかったが、七福神役をやるのに人数が1人足りなかった([[ジャンボマックス]]を出演させるという案もあった)のでダメ元で声をかけた所、承諾されて出演が決まった。荒井が一人だけ早く撮影を終え現場を去る際に、いかりやと堅い握手と抱擁を交わし、その姿にドリフのメンバー・スタッフ一同は相当ジーンときたという。
* 2000年の正月放送の富士フイルム「お正月を写そう」のCM撮影(撮影自体は、[[1999年]]の12月初旬)に、ドリフの現役メンバー(及び[[田中麗奈]])と一緒に出演し、これが荒井を含めたドリフのメンバーが全員集合した最後の映像となった。当初は荒井はそのCMの出演メンバーに含まれていなかったが、七福神役をやるのに人数が1人足りなかった([[ジャンボマックス]]を出演させるという案もあった)のでダメ元で声をかけた所、承諾されて出演が決まった。荒井が一人だけ早く撮影を終え現場を去る際に、いかりやと堅い握手と抱擁を交わし、その姿にドリフのメンバー・スタッフ一同は相当ジーンときたという。
* 彼はいかりやよりも3歳年上だったが、デビューからしばらくの間、年齢を6歳若くごまかして公表しており、なおかつドリフのメンバー達も彼の実際の年齢を知らなかった。年齢をごまかしていた理由は、ドリフのメンバー達には「リーダーの長さん(いかりやの愛称)より俺が年上だと具合が悪いから」と説明していたが、本当のところは女性にモテたかったのではないかと、いかりやは語っている(参考文献:いかりや長介著『だめだこりゃ』)。
* 彼はいかりやよりも3歳年上だったが、デビューからしばらくの間、年齢を6歳若くごまかして公表しており、なおかつドリフのメンバー達も彼の実際の年齢を知らなかった。年齢をごまかしていた理由は、ドリフのメンバー達には「リーダーの長さん(いかりやの愛称)より俺が年上だと具合が悪いから」と説明していたが、本当のところは女性にモテたかったのではないかと、いかりやは語っている(参考文献:いかりや長介著『だめだこりゃ』)。

2011年9月21日 (水) 12:25時点における版

荒井 注
本名 荒井 安雄
ニックネーム 注さん、ハゲ注
生年月日 1928年7月30日
没年月日 (2000-02-09) 2000年2月9日(71歳没)
出身地 東京都
身長 158cm
言語 日本語
方言 共通語
最終学歴 立教大学文学部宗教学科(中退)、二松学舎大学文学部日本文学科(卒業)
グループ名 ザ・ドリフターズ(途中で脱退)
相方 いかりや長介
加藤茶
高木ブー
仲本工事
芸風 コント
事務所 渡辺プロダクション(ドリフ時代)
活動時期 1964年 - 2000年
過去の代表番組 8時だョ!全員集合1969年 - 1974年
時間ですよ・昭和元年
他の活動 俳優
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荒井 注(あらい ちゅう、1928年7月30日 - 2000年2月9日)は、日本俳優コメディアン。本名、荒井 安雄(あらい やすお)。ドリフ映画での呼び名は「ハゲ」「ハゲ注」。

来歴

ドリフ時代

  • 1964年、「トリスのおじさんみたいな面白い顔をした奴がいる」との評判を聞きつけたいかりや長介のスカウトで、ザ・ドリフターズに参加。担当楽器はピアノだが、ロカビリーのスリーコードしか弾けなかったという話がある。
  • いかりや長介の著書で、荒井の背の低さとピアノの演奏力をチェックしなかった事が、失敗だったという。が、この人選の失敗が、「ふてぶてしい」荒井のキャラクターと相まって、ドリフの人気に繋がっていく。
  • ドリフの正メンバーになった直後、事務所の先輩ハナ肇に、芸人は水に関係する名前が良いと言う事で、「~を注ぐ」から採って「注」と言う芸名を名付けられた。「要注意人物」だからだと言う説もある(加藤茶曰く)。
  • 初期のドリフメンバーとして活躍し、「This is a pen!」のギャグは大ヒットとなった。コントでは「威張り散らすいかりやをシラっとした目で見、無視をし、いかりやに怒られてふてくされながらギャグを言う」と言うパターンが受けた。学校コントでは、「先生役のいかりやと同級生の落第し続けた生徒」と言う設定であった。中でも代表的なギャグ「何だ、バカヤロウ!」「何見てんだよ!」は流行語となり、ソロ活動でも頻繁に使用された。その「何だ、バカヤロウ!」は、ピアノ担当なのに鍵盤が弾けない事を加藤茶にからかわれたときに言い返した言葉が発端である(いわゆる“逆ギレ芸”の先駆けとも言える)。
  • 1974年3月に「体力の限界」を理由にドリフターズを脱退(『8時だョ!全員集合』のプロデューサーだった居作昌果の説によれば、いかりやのワンマンが気に入らなかったと言う。ギャラの配分をめぐる不平なども関係していたとされる。ただし、いかりやの著書では、荒井からは多くを学んだと評しており、好印象で語られている。なお、全員集合でのいかりやの台詞は、「(荒井は)暫くお休みをいただく」というものであり、脱退するとは一言も語っておらず、あくまで休養中というのが実質である。)。一般発表したのは『8時だョ!全員集合』の生本番中だった。その後、交代したばかりの新人であった志村けんでは、穴埋めとしても暫くは完全には対応できなかった。

ソロ時代

  • 「芸能界を引退する」と言ってドリフを脱退したにも拘わらず、引退の半年後に芸能界に復帰した為いかりやを始めとしたドリフに残されたメンバーと衝突し、和解に3年を要した。和解後はドリフの番組にゲスト出演するようになり、ドリフ大爆笑でいかりやなどに「仕事が減ったからまたドリフターズに入ろうかなっと思って来た」「たまに来たんだからお茶くらい出せ!」と言ったり、1981年放送のドリフ大爆笑「保存版・ドリフの隠された秘密」のコント内でいかりやに「陰険な性格とふてぶてしい態度がメンバー全員の反感を買い、ザ・ドリフターズより永久追放の憂き目となる」と、脱退のことをネタにされたりした。
  • 芸能界復帰後、井上梅次監督の土曜ワイド劇場明智小五郎シリーズ』等で俳優として活躍した。
  • 「8時だョ!全員集合」の裏番組である萩本欽一の『欽ちゃんのドンとやってみよう』(欽ドン)のレギュラーだったこともある。年下の萩本には実に楽しそうにイジられていた。
  • 1991年には38歳年下の元信用金庫職員の女性と再婚し話題を呼んだ。
  • 1992年嘉門達夫替え歌メドレー3(完結編)に、ゲスト・ボーカルとして登場。これが荒井最後のシングル曲となった。
  • 伊豆に移住してからカラオケボックス経営を考えたが、完成した建物の入口が狭すぎて機器を入れることができず、経営を断念した事がある。この模様はテレビのワイドショーでも取り上げられ、レポーターのインタビューに対し「何だ、バカヤロウ!」とコメントしていた。
  • 糖尿病を患っていることで知られるグレート義太夫によると、楽屋で病気治療のためのインスリン注射を打っている際、荒井に「若いのに糖尿かい、気をつけろよ」と声をかけられ、病気の話で盛り上がったことがあるという。荒井も糖尿病を患っていたらしい。
  • 2000年2月9日、静岡県伊東市の自宅(『荒井注事務所』という所属事務所を併設していた)で入浴中に肝不全のため急逝。弔辞を読んだのはいかりやであった。遺骨はオーストラリアケアンズ散骨された。以下はいかりやによる弔辞である。
「出発間際の忙しい時に、とあんたは大変怒るかもしれないけど、ちょっとお話しましょうや。去年の暮れに会った時(フジカラーのCM)、あれは良い仕事だったよね。あんたも現場に入った時より、帰る時の方が元気だったもん。みんなも喜んでた。本当に良い仕事だった。あれ、覚えてるかな?あのときあんたがさ、『今度は医者の言うことをよく聞いて、早く飲んでも良いってお墨付きをもらってくるから、一緒に飲もう』って約束したこと。結果的にあれが最期の言葉になっちゃったよね。今日ねえ、みんな来たかったろうけど、そうもいかなくて。浮世のしがらみって奴で、高木と志村は仕事でね。加藤はさあ、これが笑っちゃうんだけど、渋滞にはまっちゃって。あいつらしいな。あんたが行っちまうのを遅らせようとしてねえ。いまハラハラ、ドキドキして向かっているとこだと思うよ。あんたもあれでねえ、よっぽど偉い人というか、変な人というか…。カラッケツでドリフを始めて、飛行機で言えば離陸する大変な時に乗っていてくれて、それから何とか先が見えてきて、さあ、これから楽になるぞ、お金も儲かるぞという時にあんた、辞めちゃった。あの時はあんたの人生哲学が理解できなかった。でも『極力みんなに迷惑かけないように、半年、お礼奉公する』って言って、辞めると言ってからも半年は続けてくれた。あの半年のあんたは凄かった。あれは凄かった。鬼気迫るというのかな、本当に面白かった。あんまり面白かったから、気が変わって『残る』と言うかなとも思ったけれど、あんたとうとう言わなかったね。スパッと辞めちゃった。もうあんたは行くんだよな、止めても無駄だというのは分かってはいるけど、こっちはあの時と同じ立場にいるような気がするよ。行くな、とは言わないぜ。でも途中、気を付けてな。飲もうぜ、絶対に飲むんだよ。飲まなきゃ駄目だ。飲むんだよ。おい、飲むんだぞ!長話すると嫌われるから、この辺でな。飲む場所はあんたが決めといてくれ。じゃあ、いずれ」
  • この後、実際にいかりやが「じゃあ、いずれ」の言葉通り他界したのは、4年後の2004年3月20日であった。荒井の死後、いかりやは荒井を追悼する意味合いも込めて、荒井との思い出を書き綴った自伝『だめだこりゃ』を出版。この『だめだこりゃ』は、いかりやの存命中に文庫化もされた。
  • 出棺時、霊柩車のクラクションと同時に参列者全員が、持ちギャグのひとつである「何だバカヤロウ!」と叫んで見送った。

エピソード

  • 入浴時間が約5時間という程、大の風呂好きであった。
  • 2000年の正月放送の富士フイルム「お正月を写そう」のCM撮影(撮影自体は、1999年の12月初旬)に、ドリフの現役メンバー(及び田中麗奈)と一緒に出演し、これが荒井を含めたドリフのメンバーが全員集合した最後の映像となった。当初は荒井はそのCMの出演メンバーに含まれていなかったが、七福神役をやるのに人数が1人足りなかった(ジャンボマックスを出演させるという案もあった)のでダメ元で声をかけた所、承諾されて出演が決まった。荒井が一人だけ早く撮影を終え現場を去る際に、いかりやと堅い握手と抱擁を交わし、その姿にドリフのメンバー・スタッフ一同は相当ジーンときたという。
  • 彼はいかりやよりも3歳年上だったが、デビューからしばらくの間、年齢を6歳若くごまかして公表しており、なおかつドリフのメンバー達も彼の実際の年齢を知らなかった。年齢をごまかしていた理由は、ドリフのメンバー達には「リーダーの長さん(いかりやの愛称)より俺が年上だと具合が悪いから」と説明していたが、本当のところは女性にモテたかったのではないかと、いかりやは語っている(参考文献:いかりや長介著『だめだこりゃ』)。

また、高木ブーがテレビで語ったところによると高木ブーが年齢を6歳サバを読んでいたのは荒井注が昭和9年生まれにして高木ブーより年下になってしまったため、メンバー間の序列のバランスを取るため年齢を変えさせられたとのこと。

出演

ザ・ドリフターズとしての出演は、「ザ・ドリフターズ」を参照。

テレビ番組(ドリフ脱退後)

CM(ドリフ脱退後)

映画

CD

その他

  • 3DOアドベンチャーゲーム「西村京太郎 悪逆の季節 東京~南紀白浜連続殺人事件」- 亀井刑事役

関連項目