フランク・シナトラ
| フランク・シナトラ Frank Sinatra | |||||||||||||||
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映画『夜の豹』(1957年)より | |||||||||||||||
| 本名 | フランシス・アルバート・シナトラ(Francis Albert Sinatra) | ||||||||||||||
| 生年月日 | 1915年12月12日 | ||||||||||||||
| 没年月日 | 1998年5月14日(82歳没) | ||||||||||||||
| 出生地 |
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| 死没地 |
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| 身長 | 173 cm | ||||||||||||||
| 職業 | 俳優、歌手、エンターテイナー | ||||||||||||||
| ジャンル | 映画、テレビ | ||||||||||||||
| 活動期間 | 1935年 - 1995年 | ||||||||||||||
| 活動内容 | 映画、歌手 | ||||||||||||||
| 配偶者 |
ナンシー・バルバト(1939年 - 1951年) エヴァ・ガードナー(1951年 - 1957年) ミア・ファロー(1966年 - 1968年) バーバラ・マルクス(1976年 - 1998年) | ||||||||||||||
| 著名な家族 |
フランク・シナトラJr. ナンシー・シナトラ | ||||||||||||||
| 公式サイト | フランク・シナトラ オフィシャルファンクラブ | ||||||||||||||
| 主な作品 | |||||||||||||||
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映画 『踊る大紐育』 『地上より永遠に』 『オーシャンと十一人の仲間』 『ザッツ・エンターテインメント』 | |||||||||||||||
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フランシス・アルバート・"フランク"・シナトラ(Francis Albert "Frank" Sinatra、1915年12月12日 - 1998年5月14日)は、アメリカの著名なエンターテイナー、ポピュラー歌手、ジャズ歌手、俳優。
目次
概要[編集]
シナトラは、数々のヒット曲やゴールドディスクを世に送り出し、そのクルーナー(小さな声で歌う)・ヴォイスによる歌唱によって世界中に多くのファンを獲得した。、ビング・クロスビーやエルヴィス・プレスリーなどと並び、20世紀の有名エンターテイナーの一人である。
第二次世界大戦前の1930年代より死去する1990年代までの長きに渡り現役の歌手として活動し、数々のミリオンセラーを連発し、また多くのミュージシャンに影響を与えた。「Q誌の選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第3位にランキングされた[1]。
さらに1940年代以降は映画俳優としても活躍し、1953年には第26回アカデミー賞助演男優賞を受賞している。シナトラは、大作からミュージカル映画、コメディ映画まで数多くの映画に出演した。
しかし、デビュー期からイタリア系マフィアとの深い関係が度々取りざたされ、映画「ゴッドファーザー」でのマフィアの前で歌い、女優(キム・ノヴァックがモデル)を駄目にした歌手のエピソードは実話である。またマフィアを介してジョン・F・ケネディ大統領と親密な交友関係を持ち、ケネディの大統領当選に貢献したものの、後に仲たがいした。
略歴[編集]
- 1915年12月12日:ニュージャージー州ホーボーケンに生まれる。
- 1935年:「ホーボーケン・フォー」の一員として歌手デビュー。
- 1939年:幼友達ナンシー(ナンシー・バルバト)と結婚。
- 1939年:ハリー・ジェイムス楽団の歌手としてメジャー・デビュー。
- 1940年:トミー・ドーシー楽団に移籍。
- 1941年:映画『ラスベガス・ナイト』に楽団歌手とプロフェッショナルして初出演。
- 1942年:ラジオ番組のレギュラーをきっかけにソロ・デビュー。
- 1951年:ナンシーと離婚。女優エヴァ・ガードナーと結婚。
- 1953年:映画『地上より永遠に』で第26回アカデミー賞助演男優賞を受賞。
- 1957年:エヴァと離婚。
- 1961年:自分のレーベル、リプリーズを設立。
- 1966年:女優ミア・ファローと結婚。
- 1968年:ミアと離婚。
- 1971年:引退を発表。
- 1973年:アルバム『OL'BLUE EYES IS BACK』で歌手業に復帰。
- 1976年:ゼッポ・マルクス(マルクス兄弟の末っ子)の元妻、バーバラと結婚。
- 1985年:大統領自由勲章を受章。
- 1998年5月14日:多臓器不全により82歳で死去。
プロフィール[編集]
生い立ち[編集]
1915年にニューヨーク市近郊のニュージャージー州ホーボーケンで、イタリア系アメリカ人のアンソニー・マーティン・シナトラとドリーの元に長男として生まれる。難産であり鉗子のため鼓膜が破れていた。このことが歌手としてのキャリアに様々な形で影響することになった。
その後カトリックとしての洗礼を受ける[2]。少年期に音楽に興味を持ち始め、1930年代初頭、当時ラジオで人気を得ていたビング・クロスビーの歌声に憧れて歌手を志す。
プロデビュー[編集]
1935年、20歳の時に地元のイタリア人ボーカルトリオ「ザ・スリー・フラッシズ」に参加、「ホーボーケン・フォア」としてラジオ出演や全米巡業(ただし他のグループ・コメディアンも一緒の一座であり、レストランなどの店頭などで歌った)などを行い後に脱退した。なお、この頃よりニュージャージー州やニューヨーク州、イリノイ州などを拠点とし、レストランなどを牛耳っていたイタリア系マフィアとの関係が深かったといわれている。
その後バーのラウンジで歌っていたところを見出され、1939年には当時大衆的な人気が高かったトランペッター、ハリー・ジェイムスの楽団「ミュージック・メイカーズ」の専属歌手としてプロデビューした[3]。その歌唱スタイルはクロスビーの影響下にあるクルーナースタイルであった。
高まる人気[編集]
1940年には、やはり人気のあったトロンボーン奏者トミー・ドーシーオーケストラに引き抜かれ移籍して大活躍、10代の女性を中心にシナトラへの人気を決定的なものとした。なお、「ミュージック・メイカーズ」からの移籍にまつわるエピソードが、後にマフィアを描いた映画「ゴッドファーザー」で取り上げられている(詳細は後述)。
音楽的に、リーダーのトミー・ドーシーによる滑らかなトロンボーン・プレイを研究し、自らの歌い回しに取り込み、また、世界で最初にマイクロフォンをマイクスタンドから取り外して歌うなど、マイクロフォンの特性を熟知し、自らの楽器とした巧みな歌唱テクニックは、既にこの頃から発揮されていた。
1941年12月の日本との間の開戦をきっかけにアメリカも参戦した第二次世界大戦では、多くの若者が兵士として徴兵され戦場に送られ、またシナトラも兵役を自ら志願したが、シナトラは出生時、難産であり鉗子のため鼓膜が破れており兵役不合格となった。
その為、AFRS(American Forces Radio Service = アメリカ軍ラジオサービス)や慰問部隊の歌手の1人として、アメリカ全土の基地やヨーロッパ各地の前線を回ると同時に、レコードのリリースや戦意高揚のためのプロパガンダ映画を含む映画への出演を続けた。従って、その歌手としてのキャリアが兵役によって中断されることはなかった。
アメリカ全土から若者が戦場に赴いたこの時代、若々しい歌声のシナトラは「ボビーソクサー(女学生たち)のアイドル」と呼ばれた。劇場での公演では、観客の女性に興奮のあまり気絶し失禁する者すら出たという。
この頃、多くのスターを抱え、映画会社として黄金期を迎えていたメトロ・ゴールドウィン・メイヤー (MGM) のミュージカル映画にも(演技はさして巧くないものの歌手としての才能を見込まれて)多数主演し、後にスタンダード・ナンバーとして記憶される曲を多く歌っている。
スランプと復活[編集]
しかし戦時下における熱狂的な人気の反動か、第二次世界大戦が1945年に終戦した後の1940年代後半から一時人気が低迷し、さらに1950年には喉の疾患で一時声が出なくなりスランプに陥った。その結果所属している映画会社のMGM、レコード会社のコロムビアのいずれからも見放されてしまう。
シナトラはそのまま「過去の存在」となるかと思われたが、1953年にはフレッド・ジンネマン監督の第二次世界大戦前夜のアメリカ軍兵士を描いた文芸映画『地上より永遠に』の脇役であるイタリア系アメリカ人兵士「マッジオ」役に、友人のイーライ・ウォラックなどを退け抜擢され、結果的にこれが大きな転機となった。
これまで主役級ばかりを次々とを演じてきたシナトラにとって脇役の演技は格落ちで、しかも出演料も安かったにも関わらず、この役にほれ込み相当の運動をおこなった。明るく陽気で、周囲から仲間はずれにされて虐げられる主人公にいつまでも味方をしたことが仇となり、軍隊内の虐待で惨めに死んで行く兵士を演じ、アカデミー賞助演男優賞を獲得、俳優として奇跡的なカムバックを成し遂げる。なお、この役に採用されるまでのエピソードも、マフィアを描いた映画「ゴッドファーザー」で取り上げられている(詳細は後述)。
最盛期[編集]
相前後して1940年代から契約していたコロムビア・レコードに代わり、当時は新興レーベルだったポピュラー音楽界の有名レーベルであるキャピトル・レコードと1952年に専属契約した。
歌手としてのキャリアを積んだ結果、円熟の度を重ねた歌唱を発揮し、コロムビア・レコード時代の盟友アクセル・ストーダールとのコンビを解消、新たにネルソン・リドルやビリー・メイ、ゴードン・ジェンキンズなどの優れた編曲家が指揮するオーケストラをバックに、スタンダード曲や、座付き作者とも言うべき作曲家ジミー・ヴァン・ヒューゼンと作詞家サミー・カーンらによる新曲を多数録音した。
こうして1950年代後半にキャピトルから多数送り出されたアルバムは、ジャズ的センスに富んだ質の高いものばかりで、シナトラの最盛期をこの時代とする批評家は多い。またシナトラ+リドルの、シンガーとアレンジャーのコンビネーションは、アメリカのポピュラー音楽史上最高と言われている。
なおこの頃、ビル・ヘイリー[4]やエルヴィス・プレスリー[5]などの出現によりロックンロールの人気が高まった。だが、10代を中心に人気を獲得したロックンロールにシナトラは見向きもせず、音楽傾向はそのままでエンターテイナーとして、大人になったかつてのファン層を手放さないことで人気を維持し続けた。また、当時アメリカで爆発的に普及が進んだテレビジョンにも進出し、1950年から1952年にかけてCBSで「フランク・シナトラ・ショー」と名付けられた音楽ショー番組が放映された。
アメリカでは映画会社の不当な拘束に対して、俳優たちがSAGという俳優労組を結成していた。シナトラは離婚をせずにエヴァ・ガードナーと恋愛関係にあった[6]ために、MCA(芸能エージェント)とMGMから、干されてしまった。苦境に陥ったシナトラはAFTRAに駆け込み、結果としてMCA側が破れ、和解しシナトラは芸能界に復帰することができた。1951年11月にエヴァ・ガードナーと結婚[7]したが、シナトラの人気復活とともに再発した浮気癖が原因で1957年に離婚している。
"シナトラ一家"[編集]
最盛期であった1950年代後半に、サミー・デイヴィスJr.やディーン・マーティン、ピーター・ローフォード、ジョーイ・ビショップらとともに「シナトラ一家(Rat Pack/ラット・パック)」を組み、ネバダ州・ラスベガスに自らが所有するカジノホテル、「サンズ(Sands)」を中心にツアーを行った。なおラスベガスで遊び惚けるシナトラ達を「Rat Pack/ラット・パック」と名付けたのは、女優のローレン・バコールであった。
また、シナトラ一家が総出演した『オーシャンと11人の仲間』(1960年公開。後にジョージ・クルーニー、ブラッド・ピット、アンディ・ガルシアなどの出演でリバイバルされた『オーシャンズ11(Ocean`s Eleven)』のオリジナル)などの映画に出演し高い人気を博した。
公民権運動が徐々に高まりつつあったが、まだまだ人種差別が激しく、多くのホテルがアフリカ系アメリカ人を客として受け入れることを拒んでいた1950年代後半のアメリカで、アフリカ系の血を引いていたサミー・デイヴィスJr.を一家に入れて「サンズ」のショーに出演させることに反対するものが多かった。しかし、シナトラはデイヴィスJr.の音楽センスを高く評価していた上に、自らが新興移民のイタリア系移民であることから、人種差別を受けることも多く人種差別を嫌悪していたため、周囲の反対を押し切ってデイヴィスJr.をシナトラ一家に迎え入れた。ただしシナトラはサミー・デイヴィスに暴力をふるっていたことも明らかになっている。
さらに、当時公民権運動を進めるマーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師を支援した。しかしその反面、シナトラと仲の良かったアフリカ系アメリカ人ミュージシャンのクインシー・ジョーンズは自伝の中で、シナトラが「日常的に人種差別発言を行っていた」ことを暴露している。また女優のキム・ノヴァックにドラッグを教え、女優のキャリアを台無しにしたのは、シナトラであると報道されている。
ケネディとの友情と選挙協力[編集]
「シナトラ一家」のメンバーのローフォードが、1956年に民主党の若手上院議員のジョン・F・ケネディの妹パトリシアと結婚して以降、「ケネディの広報マシン」と呼ばれるようになったローフォードを通じて、ジョンやジョンの弟のロバートやエドワードなどのケネディ兄弟と家族ぐるみの親しい関係を結んだ。
特定の候補との親密な関係を懸念する者もいたが、その後シナトラはケネディ家を通じて民主党への支援を活発に行い、1960年の大統領選挙にジョンが出馬した際には、ローフォードやサミー・デイヴィスJr.などとともに、カリフォルニア州やネバダ州で行われた民主党の選挙資金調達パーティーに出演するなど、ジョンの予備選勝利に向けて協力を行った[8]。
さらに、1960年7月10日の民主党大会の初日前夜に、ビバリーヒルズのビバリー・ヒルトン・ホテルで開かれた民主党の資金調達パーティーでは、シナトラやローフォード、デイヴィスのほかにも、シナトラが親しかったジュディ・ガーランドやトニー・カーチスが出席し、シナトラはアメリカ国歌を歌ったばかりか、会場の各テーブルをまわり代議員へのジョンへの支援への説得を行った[9]。
またジョンは、予備選挙中にシナトラから紹介されたシナトラの元恋人のジュディス・キャンベルを経由して、シナトラとも関係の深かったマフィアの大ボスのサム・ジアンカーナを紹介してもらい(キャンベルとジアンカーナも性的関係にあった)、ウェストバージニア州における選挙への協力を直接要請した他、FBIの盗聴により、シナトラが同州のマフィアからケネディのために寄付金を募り、ケネディの選対関係者にばらまいたことが明らかになっている[10]。
なおケネディは、シナトラから紹介されたジュディス・キャンベルと不倫関係を持っただけでなく、その死の直前まで不倫関係にあった女優のマリリン・モンローをケネディに紹介したのもシナトラであった。
ケネディとの友情の決裂[編集]
しかしケネディ兄弟、特にジョンがマフィアと関係の深いシナトラと深い関係を築き、ジョンがシナトラの元恋人のキャンベルやモンローと不倫関係を持ったこと、さらに上記のようにジョンが大統領選挙の本選において、ジアンカーナなどシナトラと親しいマフィアからの選挙不正への関与を含む選挙支援を受けたこと、そしてその後の関係の決裂が、後にジョンの名声を大きく傷つけるだけでなく、下記のように暗殺の原因の1つとされることとなる。
ジョンの大統領の任期2年目に入った1962年に入り、シナトラとジアンカーナらのマフィアとの関係がマスコミなどで問題視され、さらにマフィアへの取り締まり方針を強めたFBIからもジョンとシナトラ、そしてキャンベルとの密接な関係について忠告を受けたこともあり、ケネディ政権の司法長官となったロバートがジョンとシナトラの関係を終結させるように画策した。
ジョンは、これを受けてパームスプリングスのシナトラ邸への訪問を直前になって断るなど、あからさまに恩人であるシナトラと距離を置いたために、シナトラが激怒した。これ以降、ジョンやロバートらケネディ兄弟との関係が疎遠になっだけでなく、ジョンの側近となっていたローフォードを「シナトラ一家」から事実上追放することとなった。
さらにシナトラは、かつてはジョセフ・マッカーシによるハリウッドへの赤狩りに反対していたが、後にケネディ兄弟の政敵でマッカーシーの赤狩りに全面協力した”右派のリチャード・ニクソン(共和党)と密接な関係を結ぶ”までになった。
リプリーズ期[編集]
1960年代に入ってからは、個人レーベルとして「リプリーズ・レコード」を設立、後半は全盛期のキャピトル時代に比してやや水準は劣るものの、良質なアルバムを多数送り出している。また「リプリーズ・レコード」には、サミー・デイヴィスJr.やディーン・マーティン、ビング・クロスビーなどの友人も参加している。
1962年にはワールド・ツアーで初来日し東京でコンサートを行っており、これ以降数度に渡り来日公演を行っている。なお1963年には、歌手となった長男のフランクJr.が誘拐され、240,000ドルを要求されたものの2日後に解放されるという事件が起き、各国のマスコミをにぎわせた。
また、この頃全盛期のテレビジョンの音楽ショーへの出演の他に、映画俳優としての活動も活発に行っていたが、かつての人気アイドル的な役回り、評価ではなく、この頃は「演技派俳優」として「影なき狙撃者」などが評価を受けたほか、1965年には初の監督作品として「勇者のみ」の監督及び出演を行っている。
1966年7月に、シングル「夜のストレンジャー」を発表。グラミー賞を獲得しシナトラの人気が健在であることを世界中に示した。1967年3月には娘のナンシー・シナトラとデュエットで「恋のひとこと」を発表。ビルボードのHot 100チャートおよび全英シングルチャートで1位を記録した。さらに同年にはアントニオ・カルロス・ジョビンとのコラボレーションアルバム「フランシス・アルバート・シナトラ&アントニオ・カルロス・ジョビン」を発表するなど精力的に活動した。なお、同アルバムはグラミー賞最優秀アルバム賞にノミネートされた。
1969年にはフランスの歌手クロード・フランソワの楽曲「Comme d' habitude(コム・ダビテュード / いつものように)」にポール・アンカが英語詞を付けたナンバー「マイ・ウェイ」をヒットさせ、124週に渡りシングルチャートに、51週に渡りアルバムチャートにとどまる大ヒットとなった(これは通俗的に流行したことで日本でもよく知られており、シナトラ=「マイ・ウェイ」のイメージが強い)。以降この曲は「ニューヨーク・ニューヨーク」「夜のストレンジャー」に並ぶシナトラの代表曲となった。
副業とチャリティー[編集]
またこの頃、航空機チャーターやチタンの製造などの事業への投資を開始したほか、全米黒人地位向上協会(NAACP)の活動資金集めや、イスラエルやイタリアなどの各国の子供向けのチャリティーへの協力を行うなど、自らの資金力と社会的影響力を元に、エンターテインメント以外の分野における活動を活発化させた。
引退と復帰[編集]
この様に華々しい活躍を見せていたものの、1971年には一時引退を表明した。しかしその2年後の1973年にはアルバム「Ol' Blue Eyes Is Back」と共に再び歌手業に復帰し、1974年には娘のナンシーとともに復帰ツアーをアメリカ国内や世界各国で行い、またこれ以降も、ニューヨークの「マディソン・スクエア・ガーデン」やラスベガスの大型高級ホテル「シーザース・パレス」などでの大規模なショーの定期公演を行う。
さらに、ロンドンやテヘラン、シドニー、さらに1979年にはエジプトのアンワル・アッ=サーダートの妻が行うチャリティープログラムのためにピラミッド前でコンサートを行うなど、海外公演も再び精力的にこなすようになる。またアルバムのリリースやテレビ出演も以前同様に積極的にこなした。
この様に活発に活動をこなす中、1976年に「マルクス兄弟」のゼッポ・マルクスの前妻のバーバラ・マルクスと結婚し、その後一生添い遂げることになるが、1977年には母親が飛行機事故で亡くなるという不幸に襲われた。
復帰後の活躍[編集]
1980年代は映画への出演こそ減ったものの、アルバムのリリースや、引き続きニューヨークやラスベガスをはじめとする全米各地でのショーや、日本やイギリス、西ドイツなど諸外国でのコンサート活動を精力的に行った。1980年には、リオ・デ・ジャネイロのマラカナン・スタジアムでコンサートを行い、単一のミュージシャンが行ったコンサートの世界最多動員記録を打ち立てた。
1982年には、ラスベガスの「ゴールデン・ナゲット」ホテルと3年間で1,600万ドルという高額の専属ショー契約を交わし話題を呼んだ。また、同時期には同じイタリア系アメリカ人のリー・アイアコッカが社長に就任したクライスラーと高額のテレビCM出演契約を交わし、娘のナンシーとともに同社の「ニューヨーカー」などの高級車種のCMに出演した。
なお、1985年にはその長年の活動が認められて、以前カリフォルニア州知事選挙の支援活動を行ったことのあるロナルド・レーガンより大統領自由勲章を授与された。また、アメリカを訪問したイタリアのアレッサンドロ・ペルティーニ大統領の前で歌を披露したほか、ルチアーノ・パヴァロッティとジョージ・シェアリングとともに、ニューヨークの「ラジオシティ・ミュージックホール」でコンサートを行った。
1986年には、ニュージャージー州のアトランティックシティーでの公演の最中に大腸憩室症により倒れそのまま入院するが、その後回復し、1988年にはディーン・マーティンとサミー・デイヴィス・ジュニアとともに「シナトラ一家」の再結成ツアーをアメリカ国内で行う。しかし、ディーン・マーティンが数度に渡り公演に遅刻したために、途中からはディーン・マーティン抜きでの公演となってしまい、2人が同じ舞台に上がるのはこれが最後となってしまう。
なお、マーティンはツアーの前年に、三男のディノ・ポール・マーティンを飛行機墜落事故で亡くし鬱病になったため、シナトラが朋友を元気づける為の催したツアーであった。
晩年[編集]
1990年に最後の世界ツアーを行い、この際に最後の単独来日公演を神奈川県横浜市の「横浜アリーナ」で行う(1991年3月)、なお1994年にはナタリー・コールとのジョイント公演を福岡だけで行った。これが生涯で最後の来日となった。
1993年には、ロックンロール界の大御所であるU2のボノや、スペイン人スター歌手のフリオ・イグレシアス、またR&B界の大御所であるスティーヴィー・ワンダーやルーサー・ヴァンドロスといった各国のスーパースターとの競演アルバム『Duets』2連作をリリースし、高い評価を受けると共に最後の新作かつ世界的ヒットとなった。
しかしこの年に心臓発作で入院し、その後回復に万全を期すために活動を縮小していったものの、上記のように翌年に来日公演を行うなど、度々ファンやマスコミの前に姿を見せた。
死去[編集]
1997年2月に再度心臓発作を起こした後は一般及びマスコミの前に姿を見せることはなくなり、自宅での治療に専念した。しかし1998年5月14日にビバリー・ヒルズの自宅で心臓発作を起こしウェスト・ハリウッドのセダース・サイナイ・メディカル・センターに運ばれ、そのまま回復することなく永眠した。
シナトラの死は世界各国で大きな衝撃を持って受け止められ、ビル・クリントン大統領がシナトラの死を悼むメッセージを述べたほか、エルトン・ジョンやポール・マッカートニー、マイケル・ジャクソンなど世界各国のアーティストがその死を悼むメッセージを発表した。また、多くのファンがシナトラの自宅やハリウッドの「ウォーク・オブ・フェイム」のシナトラの星に花束を掲げた。
さらに、シナトラと縁が深いニューヨークのエンパイア・ステート・ビルディングが弔意を示すために(シナトラの瞳と同じ)青い照明に変えられたほか、同じくシナトラと縁が深いラスベガスのストリップの全ての照明が同じく弔意を示すために10分間完全に消灯された。
1998年5月20日にビバリー・ヒルズのカトリック教会で行われた葬儀には、グレゴリー・ペック、トニー・ベネット、ボブ・ディラン、ライザ・ミネリ、トニー・カーチス、ジル・セント・ジョン、ジャック・ニコルソン、ソフィア・ローレン、カーク・ダグラス、ロバート・ワグナー、ミア・ファロー、ナンシー・レーガンなど、アメリカだけでなくヨーロッパの各界から多数が参列しその死を悼んだ。
マフィアとの関係[編集]
FBIの調査対象[編集]
シナトラはその生涯にわたり、地元のニューヨークやシカゴ、ラスベガスのイタリア系マフィアとの黒い噂が絶えなかった。実際にマフィアの大物のサム・ジアンカーナやカルロ・ガンビーノ、ラッキー・ルチアーノなどのイタリア系マフィアの歴代の大ボスとの交流があったことが、FBIの資料で公になっており、その資料は合計で2,403ページにも及ぶことから、いかに深く広いつき合いがあったかわかる。
タブー[編集]
しかも、このことは「公然の秘密」であったにも関わらず、メディアのインタビュアーがマフィアとの関係を尋ねることはタブーとされていて、実際に尋ねてしまった場合はインタビューは即時中断し、そのインタビュアーは二度とシナトラに対するインタビューはできなかった。
なお、有名なニュースアンカーのウォルター・クロンカイトがインタビュー番組の収録の際、番組のプロデューサーにけしかけられてシナトラにマフィアとの関係を尋ねてしまった際には、怒ったシナトラが自らのマネージャーを呼びつけて中座し、インタビューは中止された。その後、シナトラとマネージャー、プロデューサーの話し合いの後に再開し、シナトラより「興行先で興行主がマフィアであると知らず同席することはあった」との説明があったに留まった[11]。
最初の結婚[編集]
1940年代、シナトラはジェノヴェーゼ・ファミリーの副ボスウィリー・モレッティと友人となった。シナトラの最初の妻だったナンシー・バルバートはモレッティと縁のある人物のいとこであった。
『ゴッドファーザー』[編集]
シナトラが『地上より永遠に』の脇役に抜擢されるまでの有名なエピソードがある。つまり、カムバックを狙ったものの、映画界における女性スキャンダルが元で役につけなくなったシナトラが、「育ての親」であるサム・ジアンカーナに泣きつき、最終的にジアンカーナが裏で「マフィア的に」動いて役に抜擢されたというものである。
このエピソードは後に、イタリア系マフィアの血族を描いた映画、『ゴッドファーザー』で取り上げられ、世間に知られるようになる(映画上ではさすがに実名ではなく、「ジョニー・フォンテーン」と言う芸名になっている)。
その後、あるパーティーに、「ゴッドファーザー」の原作者のマリオ・プーゾとシナトラとが同席していて、知人がプーゾをシナトラに紹介しようとしたところ、「Fuck off(うせろ)!!」と怒鳴ったのは有名な話である。
ケネディ大統領暗殺事件[編集]
娘のナンシーによれば、ケネディが1960年の大統領選挙に立候補する際、ケネディの父親で、密造酒商売を通じてマフィアと繋がりが深く、禁酒法時代に密造酒製造・販売で財を成してのし上がった過去があるジョセフ・P・ケネディが、シナトラの歌手デビュー当時から密接なつき合いがあるイタリア系マフィアの大ボスで、ショービジネス界を裏で握っているジアンカーナに選挙運動に協力するように頼んでほしい、とシナトラに頼んだと証言している。
シナトラはジアンカーナに協力を要請したほか、その後元ガールフレンドでジアンカーナの情婦でもあったジュディス・キャンベルを大統領になる前のケネディ大統領に紹介し、キャンベルとケネディは短期間の間、不倫関係になった。なおその後キャンベルはケネディをジアンカーナに紹介した。実際にその後ジアンカーナはケネディの大統領選挙の支援を行った。
しかしケネディは大統領当選後、ケネディ家とジアンカーナをはじめとするマフィアとの関係を怪しんだFBI長官ジョン・エドガー・フーヴァーに忠告を受けたため、マフィアの協力で大統領に当選したことが表ざたになることを恐れた弟で司法長官となったロバートが、大統領就任後にジアンカーナをはじめとするマフィアとの繋がりがあるシナトラを露骨に避けた上、この様な事実のもみ消しのために「マフィアを徹底的に取り締まる」と発表し、実際にジアンカーナとシナトラとの関係を一方的に断った。
このような仕打ちに怒ったジアンカーナとシナトラは徐々に反ケネディに傾いて行き、さらにジアンカーナは「ケネディ大統領暗殺事件の黒幕の一人」と言われ、「ケネディ兄弟の暗殺はジアンカーナへの裏切りに対する報復であっただろう」と言われる陰謀論の根拠となっている。なおシナトラは、1963年11月22日のケネディ大統領暗殺事件の直後に、1952年にかつて自分が出演した映画「3人の狙撃者」のフィルムを回収して回ったと言われている。そこでのシナトラの役は大統領狙撃未遂の主犯の上官だった。
私生活[編集]
家族[編集]
1939年にホーボーケン時代からの恋人ナンシー・バルバトと最初の結婚をした後、1951年に離婚するまでの間に3人の子供をもうけた。3人ともエンターテイメントの世界に進んだ。長女のナンシー(Nancy Sinatra)は歌手として活躍し、特にスパイ映画の007シリーズ第5作『007は二度死ぬ』の主題歌は世界的なヒットとなった。
次女ティナは女優としてテレビを中心に活躍した。長男のフランクJr.は歌手となったが1963年に誘拐され、240,000ドルを要求されたものの2日後に解放された。現在もピアニスト、音楽プロデューサー、歌手として活躍している。来日経験も多く、2012年2月にはブルーノート東京で亡き父フランク・シナトラの歌を披露した。
女優のエヴァ・ガードナーと付き合い始めてからはナンシーとの離婚を模索したが、カトリック教徒であることから協議が難航した。1951年にナンシーと離婚してからわずか10日後にガードナーと再婚したものの、カムバック後の多忙と浮気癖の再発により1957年に離婚した。
その後は独身であることを大いに謳歌したものの、1966年には、30歳年下の女優のミア・ファローと結婚した。しかしこの結婚はわずか2年しか持たなかった。最後の妻となるバーバラとは1976年に結婚し、1998年にバーバラが死ぬまで添い遂げた。
母親のナタリー・シナトラは、1977年1月9日、シナトラの公演に向かう途中、乗っていた小型ジェット機がカリフォルニア州パームスプリングスの北西45kmの山中に墜落し、亡くなった。
交友関係[編集]
上記のように歌手や俳優仲間から政治家、マフィアまで幅広い交友関係を持っていた。また、かつての栄光の座を失って仕事や金銭面で苦境に立たされた友人や後輩などへ陰ながら支援を続けたことでも知られ、「人生のツキから見放されて、初めてフランクのありがたさがわかる」と言われていた[12]。
プレイボーイ[編集]
前記のモンローやローレン・バコール、キム・ノヴァク、シャーリー・マクレーン、ナタリー・ウッドなど多くの女優と浮名を流したほか、同じく女優のエヴァ・ガードナーやミア・ファローなどと計4回結婚するなど、生涯を通じてプレイボーイとして名を馳せた。
生涯を通じ数多くのミリオンセラーを連発した他、ルイ・アームストロングやアントニオ・カルロス・ジョビン、セリーヌ・ディオンやビング・クロスビーなどの音楽界との大物との競演、競作も数多い。ヒットした曲の多くがスタンダードとして、多くのアーティストにカバーされている。
ディスコグラフィ:代表的なヒット曲[編集]
フランク・シナトラのシングルおよびアルバムの年代リスト(英語版Wikipedia)
- オール・オア・ナッシング・アット・オール (All or Nothing at All) - 1939年、シナトラ初のミリオンセラー曲。
- アイ・フォール・イン・ラヴ・トゥー・イージリー (en:I Fall In Love Too Easily)
- 君微笑めば
- あなたはしっかり私のもの(I've Got You Under My Skin)
- オール・ザ・ウェイ(All The Way)
- タイム・アフター・タイム (Time After Time)
- アイム・ア・フール・トゥ・ウォント・ユー (I'm A Fool To Want You)
- フライ・ミー・トゥー・ザ・ムーン(Fly Me to the Moon)
- カム・フライ・ウィズ・ミー(Come Fly with Me)
- マイ・ウェイ(My Way)
- ニューヨーク・ニューヨーク(New York New York{Theme from New York, New York})
- On the Town(踊る大紐育)のオープニングソングNew York New Yorkではない。
- 夜のストレンジャー(Strangers in the Night)
- 恋のひとこと(Somethin' Stupid)
- 追憶(The Way You Look Tonight)
- ヤング・アット・ハート(Young At Heart)
- ユー・メイク・ミー・フィール・ソー・ヤング(You Make Me Feel So Young)
アルバム[編集]
- フランク・シナトラ・シングス・フォー・スウィンギン・ラヴァーズ
- フランク・シナトラ・シングス・フォー・ヤング・ラヴァーズ
- カム・フライ・ウィズ・ミー
- カム・ダンス・ウィズ・ミー
- スウィング・イージー
- オンリー・ザ・ロンリー
- シナトラ・スウィンギンセッション・アンド・モア
- ポイント・オブ・ノーリターン
- アカデミー・アウォード・ウィナーズ
- シナトラ・ライヴ・アット・ザ・サンズ
- アラウンド・ザ・ワールド
- 夜のストレンジャー
- グレイテスト・ヒッツ
- クリスマス・アルバム
- ジョリー・クリスマス・フロム・フランク・シナトラ
- シナトラ&ジョビン(アントニオ・カルロス・ジョビンとの競演)
- ヴォイス
- デュエッツ
- デュエッツII
- マイ・ウェイ
- ザッツ・ライフ
- セプテンバー・オブ・マイ・イヤーズ
- シナトラ・アンド・カンパニー
- ヴォイス〜コロンビア・イヤーズ1943-1952
- キャピトル・イヤーズ
- リプリーズ・コレクション
日本公演[編集]
- 1962年
- 1974年
- 1985年
- 1989年 with サミー・デイヴィスJr.、ライザ・ミネリ
- 2月23日 大阪城ホール、25日 東京ベイN.Kホール
- 1991年
- 3月10日,11日 横浜アリーナ
- 1994年 with ナタリー・コール
- 11月19日,20日 福岡ドーム
日本におけるシナトラの興行や企画等の権利については、シナトラの初の来日時のボディガードを行った敏いとうが窓口となっている。
TV[編集]
映画[編集]
『地上より永遠に』で1953年にアカデミー賞助演男優賞を獲得した他、『踊る大紐育』や『上流社会』、『脱走特急』などの多くの作品に主役、準主役級で出演した。
オットー・プレミンジャー監督作品『黄金の腕』では、麻薬中毒に苦しむ博打うちのドラマー役で鬼気迫る演技を見せた。『錨を上げて』、『踊る大紐育』、『上流社会』、『抱擁』などの劇中で歌唱したナンバーは、後世までスタンダードとなった歌も少なくない。しかし一方で、俳優活動を積極的に行わなくなった1960年代後半以降に主演した映画には、質的に他愛ない水準の作品も少なくなかった。
知名度の高さから『八十日間世界一周』や『キャノンボール2』などのカメオ出演でも活躍したが、特に1965年の『オスカー』では、ラストシーンでの一瞬の登場だけで全てをひっくり返すどんでん返しの役割を演じた。
出演作[編集]
- ラスヴェガスの夜 Las Vegas Nights (1941)
- おおい、その船 Ships Ahoy (1942)
- グッドモーニング・ベヴァリー Reville with Beverly (1943)
- どんどん高く Higher and Higher (1943)
- 芸人ホテル Step Lively (1944)
- 錨を上げて Anchors Aweigh (1945)
- 下町天国 It Happened in Brooklyn (1947)
- 奇蹟の鐘 The Miracle of the Bells (1948)
- キッシング・バンディット The Kissing Bandit (1948)
- 私を野球へつれてって Take me Out to the Ball Game (1949)
- 踊る大紐育 On the Town (1949)
- ダブル・ダイナマイト Double Dynamite (1951)
- ダニー・ウィルスンに会ってくれ Meet Danny Wilson (1952)
- 地上より永遠に From Here to Eternity (1953)
- 三人の狙撃者 Suddenly ! (1954)
- 心の青春 Young at Heart (1955)
- やさしい罠 The Tender Trap (1955)
- 黄金の腕 The Man with The Golden Arm (1955)
- 野郎どもと女たち Guys and Dolls (1955)
- 見知らぬ人でなく Not As A Stranger (1955)
- ジョニー・コンチョ Johnny Concho (1956)
- 上流社会 High Society (1956)
- 八十日間世界一周 Around the World in 80 Days (1956)
- 誇りと情熱 The Pride and the Passion (1957)
- 夜の豹 Pal Joey (1957)
- 抱擁 The Joker is Wild (1957)
- 最后の接吻 Kings Go Forth (1958)
- 走り来る人々 Some Came Running (1958)
- 波も涙も暖かい A Hole in the Head (1959)
- 戦雲 Never So Few (1959)
- オーシャンと十一人の仲間 Ocean's Eleven (1960)
- カンカン Can-Can (1960)
- ペペ Pepe (1960)
- 四時の悪魔 The Devil at 4 o'clock (1961)
- 影なき狙撃者 The Manchurian Candidate (1962)
- 荒野の3軍曹 Sergeants 3 (1962)
- 野望の系列 Advise & Consent (1962)
- テキサスの四人 4 For TEXAS (1963)
- ナイスガイ ニューヨーク Come Blow Your Horn (1963)
- 7人の愚連隊 Robin and the Seven Hoods (1964)
- 勇者のみ None But the Brave (1965)
- 結婚専科 Marriage on the Rocks (1965)
- 脱走特急 Von Ryan's Express (1965)
- クィーン・メリー号襲撃 Assault on a Queen (1966)
- 巨大なる戦場 Cast a Giant Shadow (1966)
- トニー・ローム 殺しの追跡 Tony Rome (1967)
- 裸のランナー The Naked Runner (1967)
- 刑事 The Detective (1968)
- セメントの女 Lady in Cement (1968)
- 大悪党 ジンギス・マギー Dirty Dingus Magee (1970)
- ザッツ・エンターテインメント That's Entertainment! (1974)
- 第一の大罪 The First Deadly Sin (1980)
- キャノンボール2 The Cannonball Run II (1983) - 本人役
CM[編集]
受賞歴[編集]
アカデミー賞[編集]
- 受賞
- 1946年 アカデミー名誉賞:『The House I Live In』
- 1954年 アカデミー助演男優賞:『地上より永遠に』
- 1971年 ジーン・ハーショルト友愛賞
- ノミネート
- 1956年 アカデミー主演男優賞:『黄金の腕』
ゴールデングローブ賞[編集]
- 受賞
- 1954年 助演男優賞:『地上より永遠に』
- 1958年 主演男優賞 (ミュージカル・コメディ部門):『夜の豹』
- 1971年 セシル・B・デミル賞
- ノミネート
- 1964年 主演男優賞 (ミュージカル・コメディ部門):『ナイスガイ ニューヨーク』
同時代のエンターテイナー[編集]
シナトラのファン[編集]
- 伊藤つよし
- 中川ヨウ
出典[編集]
- ^ “Rocklist.net...Q Magazine Lists..”. Q - 100 Greatest Singers (2007年4月). 2013年5月21日閲覧。
- ^ http://hollowverse.com/frank-sinatra/
- ^ Frank Sinatra with Harry James
- ^ 「ロック・アラウンド・ザ・クロック」が大ヒットした
- ^ 「ハウンドドッグ」などの大ヒットと骨盤ダンスが、センセーショナルに報道された
- ^ Ava Gardner - Actress, Classic Pin-Ups, Film Actress, Film Actor/Film Actress - Biography
- ^ Frank Sinatra and Ava Gardner. AvaGardner.org .Retrieved 2007-01-04.
- ^ 『ピーター・ローフォード―ケネディ兄弟とモンローの秘密を握っていた男』P.342 ジェイムズ スパダ著、広瀬順弘訳 読売新聞社刊、1992年
- ^ 『ピーター・ローフォード―ケネディ兄弟とモンローの秘密を握っていた男』P.346 ジェイムズ スパダ著、広瀬順弘訳 読売新聞社刊、1992年
- ^ 『ピーター・ローフォード―ケネディ兄弟とモンローの秘密を握っていた男』P.344 ジェイムズ スパダ著、広瀬順弘訳 読売新聞社刊、1992年
- ^ 『クロンカイトの世界』ウォルター・クロンカイト著 浅野輔訳 阪急コミュニケーションズ、1999年
- ^ 『クロンカイトの世界』ウォルター・クロンカイト著 浅野輔訳 阪急コミュニケーションズ、1999年
日本語文献[編集]
- 『シナトラ 20世紀のエンターテイナー』 アーノルド・ショー、尾坂力訳(早川書房、1978年)、公式伝記
- 『ヒズ・ウェイ』 キティ・ケリー、柴田京子訳(文藝春秋、1989年)、タブーにも触れた伝記
- 『フランク・シナトラ 栄光の日々』 フレッド・デラー、河村美紀訳(シンコー・ミュージック、1997年)
- 『ザ・ヴォイス フランク・シナトラの人生』 ピート・ハミル、馬場啓一訳(日之出出版、1999年)、親密だった著者による評伝的エッセー。
- 『シナトラ』 三具保夫(駒草出版、2007年)
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
- フランク・シナトラ オフィシャルファンクラブ Sinatra Society of Japan
- FrankSinatra - 公式YouTubeチャンネル
- フランク・シナトラ - allcinema
- フランク・シナトラ - KINENOTE
- Frank Sinatra - オールムービー(英語)
- Frank Sinatra - インターネット・ムービー・データベース(英語)
- Frank Sinatra - TCM Movie Database(英語)
- ワーナーミュージック・ジャパン - フランク・シナトラ
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