ビル・ヘイリー

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ビル・ヘイリー
ビル・ヘイリー
本名 William John Clifton Haley 
生年月日 (1925-07-06) 1925年7月6日
没年月日 (1981-02-09) 1981年2月9日(満55歳没)
出生地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 ミシガン州ハイランド・パーク
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
職業 ミュージシャン、エンターテイナー
ジャンル ロックンロールカントリーロカビリー
活動期間 1945年-1980年

ウィリアム・ジョン・クリフトン・ヘイリー(William John Clifton Haley、1925年7月6日 - 1981年2月9日)はアメリカのミュージシャン。1950年代後半のロックンロール・ブームの火付け役の1人である。ヒット曲の「ロック・アラウンド・ザ・クロック」は「ロックンロールの古典」として最も著名な1曲である。

略歴[編集]

生い立ち[編集]

 1925年ミシガン州ハイランドパークに生まれる。幼少期に両親とともにフィラデルフィアに隣接するペンシルヴァニア州チェスターに移住した。当時、カントリーミュージックはスィングと共に地元ペンシルヴァニアでも非常に人気があり、ビルの音楽スタイルの基盤を形成した。1945年からプロのミュージシャンとしての活動をスタート、3年間マイナーバンドで過ごし、北西部での巡業活動を行う。[1]

レコードデビュー[編集]

COWBOY CR-1202 Tennessee Border
  • 1948/Aug.14 [Four Leaf Clover Blues / Too Many Parties And Too Many Pals](Cowboy CR-1201)
  • 1949/Mar.19 [Candy Kisses / Tennessee Border](Cowboy CR-1202)
  • 1950/Apr.8 [ Deal Me A Hand / Ten Gallon Stetson](Keystone 5101)
  • 1950/Apr.8 [ Susan Van Dusan / I'm Not To Blame ](Keystone 5102 )
  • 1950/Oct [ I'm Gonna Dry Ev'ry Tear With A Kiss / Why Do I Cry Over You?](Atlantic 727 ) [2](注)タイトル・クレジット左の日付はリリース日を指す。以下同様

 1948年、地元チェスターに戻ると自身のバンド「フォーエイセス(Four Aces)」を結成、ラジオ局、WPWAに出演を始める。ジャック・ハワード(Jack Howard)とジム・メイヤーズ(Jim Myers)が共同経営するカウボーイ・レーベルで「キャンディ・キス(Candy Kisses)」(ジョージモーガン1949年ヒット)を含む2枚のシングルをリリースするもヒットには至らず、カウボーイ自体も少数のリリースののち消滅してしまう。その後、センター、キーストン、アトランティック等のレーベルを転々とするがヒットに恵まれず、WPWAへの出演で糊口をしのいでいた。 また、1950年にはバンド名を「フォーエイセス」から「ザ・サドルメン(The Saddlemen)」に変更している。[1]

ホリデイ/エセックス時代[編集]

1951年 黒人音楽[編集]

  • Unknown [Rockt 88 / Tearstains on My Heart] (Holiday 105)
  • Sept.29 [Green Tree Boogie / Down Deep in My Heart] (Holiday 108)[2]

 この年ビルはフィラデルフィアでホリデイ(Holiday)、エセックス(Essex)などのレーベルを経営するデイブ・ミラー(Dave Miller)と契約を交わす。最初の録音となったのはミラーの意向によりシカゴのチェス・レコードからリリースされたジャッキー・ブレンストン(Jackie Brenston)のカヴァー「ロケット88(Rocket 88)」が選ばれた。録音はWPWAの地下の石炭倉庫で行われた。当時、一般的にタブーとされていた白人による黒人音楽のカヴァーだったが、ミラーはこのレコードの宣伝にあたって白人黒人双方の購買層を狙うため、ビルが白人であることを伏せ、写真も使用しなかった。[1][3]

1952年 創造の瞬間[編集]

  • Feb.23 [Jukebox Cannonball/ Sundown Boogie] (Holiday 113)
  • Apr.26 [Rock the Joint / Icy Heart] (Essex 303)
  • June [Dance with a Dolly / Rocking Chair on the Moon] (Essex 305)
  • Sept [Beatn'around the mulberry bush/Real rock drive] (Essex 45-310)[2]

 当時ビルはラジオ局WPWAのDJとして「ジャッジ・リズム・コート(リズムの裁判判決)」という番組を持っており、そのテーマ音楽としてジミー・プレストン&プレストニアンズ(Jimmy Preston and His Prestonians)英語版の「ロック・ザ・ジョイント(Rock The Joint)」を使用していた。ヒルビリー音楽には無い高揚感を持つこの曲をビルは気に入っていて、歌詞の一部を変更し録音、カントリー・バラード「アイシー・ハート(Icy Heart)」とのカップリングで発売される。A面の『アイシー・ハート』の宣伝を目的としたプロモーション・ツアーを行ったが、ポップ系DJからはB面の『ロック・ザ・ジョイント』に話題が集中した。[1]

 当時のビルのマネージャーJack Howard(カウボーイ・レコードの経営者と同一人物)は、1970年にRob Finnisによるインタビューに対し、こう答えている。「ある日私の所に女性のブッキング・エージェントが来て、ニュージャージー州グロスターの「ザ・ツインバー」[4]という店で2週間350ドルでの出演依頼を受けた。ステージでビル達が「ロック・ザ・ジョイント」を演奏をしだすと観客はざわめき、揺れだした。当時誰も気が付かなかったが、それがロックンロール創造の瞬間だった」。2週の契約が18週に延長された。この年の9月にはバンド名を「サドルメン」から「コメッツ(Comets)」に変更している。[1]

1953年 全米ヒット[編集]

Essex 321 Crazy Man Crazy
  • Apr [Crazy, man, crazy / What' cha gonna do] (Essex 321)
  • June [Fractured / Pat-a-cake] (Essex 327)
  • Aug [Live it up / Farewell, so long, boodbye ](Essex 332)
  • Dec [I'll be true / Ten little indians ](Essex 340)
  • 1954 Mar.20 [Straght jacket / Chattanooga choo choo](Essex 348)[2]

 4月「クレイジー・マン・クレイジー(Crazy Man Crazy)」発売。ビル曰く「若者達のダンスの時の掛け声に触発されて書いた」この曲は、1953年5月23日ビルボード誌ホット100の最高12位を記録、最終的に100万枚を売り上げる。この時期からバンドの編成にドラムとサックスが追加されロックンロールサウンドへ向かう。「ストレート・ジャケット」のリリース(発売はデッカ移籍後となる)をもって、エセックスとの契約終了。 [3]

デッカ時代[編集]

1954年 幸運のチケット[編集]

Decca 9-29124 (We'reGonna)Rock Around The Clock
  • May.15 [ (We're Gonna) Rock Around The Clock /Thirteen Women (And Only One Man In Town)](Decca 9-29124)
  • July.10 [Shake, Rattle And Roll/A.B.C. Boogie] (Decca 9-29204 )
  • Oct..30 [Happy Baby / Dim, Dim The Lights (I Want Some Atmosphere)] (Decca 9-29317)[2]

 3月デッカ・レコードと契約を交わす。5月「ロック・アラウンド・ザ・クロック」、7月「シェイク・ラトル・アンド・ロール英語版」をリリース。後者は ビルボードのポップチャートで最高7位の大ヒットとなった。「シェイク~」録音の10日後6月17日にギタリストのダニー・セドロン(Danny Cedrone)が急死、[5]フラニー・ビーチャー( Franny Beecher)が加入する。[1]

 フラニー・ビーチャーはボブ・バーマンのインタビューで当時をこう語る。「最初のセッションの時の事、私はギターソロのパートでジャズのフィーリングでプレイしたところ、最初の4小節でバンド全体の演奏が止まりました。ビルが私に言いました。『それじゃレコードが売れないよ』。それからはメジャースケール(長音階)を強く意識して♭5度などのブルーノートは使用しませんでした。」175ドルでスタートした週給が300ドルまでハネ上がった(コメッツ・メンバーの給与形態は週給だった)。それはバンドの稼働いかんに関わらず支払われ、演奏旅行の費用、ユニフォーム、機材の購入、そしてセッション毎のギャランティーは別途支給された。「当時これだけ稼いでいたミュージシャンは他にいません。私は3台のリンカーン・コンチネンンタルを所有していましたが、洗車をする必要がありませんでした。少しでもほこりが付けばその車を下取りに出し、新車を購入出来たのです。」[6]

1955年 ロックンロール・エラ[編集]

  • Feb.12 [Birth Of The Boogie/Mambo Rock](Decca 9-29418)
  • June 25 [Razzle-Dazzle/ Two Hound Dogs] (Decca 9-29552)
  • Nov.12 [Rock-A-Beatin' Boogie/Burn That Candle] (Decca 9-29713)
  • Dec.31 [See You Later, Alligator/The Paper Boy (On Main Street, U.S.A)](Decca 9-29791)[2]

 前年に発売された「ロック・アラウンド・ザ・クロック」がMGM映画暴力教室」のオープニングとして使用され、ビルボードチャートにおいて7月9日から8月27日まで8週連続1位という大ヒットを記録する。これをきっかけにアメリカをはじめ世界的なロックン・ロール・ブームが起こる。9月、ジョーイ・ディアンブロシア(テナーサックス)、ディック・リチャーズ(ドラム)、マーシャル・ライテル(ベース)の3人がコメッツを脱退,ザ・ジョディマーズ英語版を結成する。[6]

1956年 狂騒とビジネス[編集]

Bill Haley and the Comets1956
  • Mar.24 [The Saints Rock 'N Roll/R-O-C-K]( Decca 9-29870 )
  • June 2 [Hot Dog Buddy Buddy/Rockin' Through The Rye ](Decca 9-29948)
  • July 28 [Rip It Up/Teenager's Mother (Are You Right?)] (Decca 9-30028)
  • Oct.13 [Blue Comet Blue/Rudy's Rock] (Decca 9-30085)
  • Dec.1 [Choo Choo Ch'boogie/Don't Knock The Rock](Decca 9-30148)[2]

 1月「シー・ユー・レイター・アリゲーター」最高7位100万枚を超えるヒット。[7]同月エルヴィス・プレスリーRCAビクターからメジャーデビュー。ロックンロール・ブームが加熱し社会現象に発展。[7]

 「ロックンロールの害悪論」が起こる。一部の識者はこの新種の音楽を「暴力行為のサウンドトラック」、あるいは「白人と黒人の分離を崩壊させるための扇動」と非難した。この一連のバッシングに対しビルは穏やかに反論している。「ロックンロールは、人種差別に対処するために役立ちます。私たちは黒人音楽も演奏します。白人と黒人が同じステージを共有しパフォーマーが演奏している間、子供たちが並んで座って音楽を楽しんでいるのを見ました。子供たちが音楽を聴いているとき、トラブルにはつながりません」。論争はロックンロール最初のメッセージソング「ティーン・ネイジャーズ・マザー」を生み出した。[6]この年計9曲をヒット・チャートに送り込む。[7]

 ビルとデッカの契約では1枚のレコードの販売価格(89セント)から3%(2.7セント)がミュージシャンの取り分となる。この年、ビルはジャック・ハワードと共同経営の形で音楽社出版社を設立する。「Valleybrook」(ASCAP)と「Seabreeze」(BMI)、この二つの出版社が提供する楽曲をビルがヒットさせれば収入は倍増、と言う訳だ。しかし自家製出版社が最高の曲を作り続けるのなら話は別だが、実際には10万枚しか売れないビルの曲より100万枚売れる他人の曲の方がはるかに有益だった。[6]「彼らは自分たちが版権を所有している曲しか録音したがらなくなった。」とミルト・ゲイブラーも当時を嘆いている。[1]

1957年[編集]

  • Mar.2 Forty Cups Of Coffee / Hook, Line And Sinker (Decca 9-30214)
  • May 27 ( You Hit The Wrong Note) Billy Goat / Rockin' Rollin' Rover( Decca 9-30314)
  • Aug.5 The Dipsy Doodle / Miss You( Decca 9-30394)
  • Oct.21 Rock The Joint / How Many( Decca 9-30461)

 1月、ジョー・ターナー、ラヴァーン・ベイカーらとオーストラリア・ツアーに出る。ビルは体調不良を理由にキャンセルしたステージに関し訴訟を起こされるなどしたが、3週間で33万人を集客する。2月イギリス・ツアー。当時イギリスではヒステリーに近いロックンロール・ブームが起きており、トミー・スティール、ロニー・ドネガンなど自国のスターが人気を博していた。イギリスにとって初めてのロック・スターの来訪にサウザンプトンからロンドンまで特別列車が用意され、ワーテルロー駅(英語読みはウォータールー)には4,000人のファンが押し寄せた。メディアは「第二のワーテルローの戦い」と報じる。

1958年~1959年[編集]

 以降、レコードのセールスはアメリカ、イギリス共に低迷し再びヒット・メーカーとして返り咲くことはなかった。その理由として当時のデッカ・レコードのA&Rマン、ミルト・ゲイブラー英語版は「エルヴィス・プレスリーなど若いロック・スターの台頭、ビルの自分の音楽への固執、ロック・ミュージックの急激な進化」を挙げている。1959年デッカ・レコードとの契約終了。[1]

晩年[編集]

1960年代以降は主にヨーロッパブラジルなど海外を中心に活動していたが、1970年代にはアルコール中毒に陥って活動が困難となる。やがて脳腫瘍を患い、1981年に死去。1987年に「ロックの殿堂」入りを果たした。

記録[編集]

ロック・アラウンド・ザ・クロック」は、「ロックンロールの最初で最大のヒット曲」とされ、ギネス・ワールド・レコーズの認定によれば、世界中で通算2500万枚(推定)を売り上げたとされる[8]

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g h Rob Finnis(著)『DON'T KNOCK THE ROCK』NEW KOMMOTION Vol.24、1980年、12頁
  2. ^ a b c d e f g Rock'n Country Style
  3. ^ a b Chris Gardner(解説)『ROCK THE JOINT!』ROLLER COASTER LP、1985年
  4. ^ 「ザ・ツインバー」は2016年現在も「ジャックス・ツインバー」として営業している
  5. ^ ビルはダニーの遺族への基金を設立している。
  6. ^ a b c d Colin Escott(解説)『BILL HALEY& & HIS COMETS』BearFamily BOX-CD、1990年
  7. ^ a b c Bill Haley & His Comets Top Songs
  8. ^ 『ギネス世界記録 2010』ゴマブックス、2009年、29頁。ISBN 9784777115297

関連項目[編集]