ロック・アラウンド・ザ・クロック

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ロック・アラウンド・ザ・クロック」(Rock Around the Clock)は、1954年に発表されたアメリカポピュラー・ソング

作詞・作曲:ジェイムズ・E・マイヤーズ(James E. Myers)、マックス・C・フリードマン(Max C. Freedman)。

Bill Haley and Comets 1954

概要[編集]

1954年3月20日に、「ソニー・デイ・アンド・ヒズ・ナイツ」(Sonny Dae and His Knights)によって初めてレコーディングされ、同年5月にアメリカで発売された、ビル・ヘイリー・アンド・ヒズ・コメッツによるシングル・レコードが大ヒットした。

経緯[編集]

 1952年、作曲者で版権の所有者でもあるジェイムズ・E・メイヤーズ(レーベル・クレジットのジミー・デナイト『Jimmy DeKnight』はメイヤーズの変名)によって、この曲はビル・ヘイリーに提供されていたが、当時ビルが在籍していたエセックス・レコードの経営者デイブ・ミラー(Dave Miller)とメイヤーズの確執により録音は見送られていた。ビル曰く「2年ほどポケットに入れて持ち歩いていた」。1954年、デッカレコードへ移籍の際、「ロック・アラウンド・ザ・クロックを最初に録音する」事がデッカのミルト・ゲイブラー、ヘイリー、メイヤーズの間で約束された。[1]

ソニー・デイ盤  ビル・ヘイリーと友人関係にあったソニー・デイ(本名 パスカル・ヴェニッティ)は当時のビルのマネージャー、ジャック・ハワード(Jack Howard)が所有するアーケイド(Arcaed)レコードから1954年3月に「ソニー・デイ・アンド・ヒズ・ナイツ」名義で同曲をリリースする。ビル・ヘイリー盤とソニー・デイ盤、この二つのレコードは一般的な「オリジナル曲」と「カヴァー・バージョン」の関係とは異なり、むしろ競作に近い。

録音[編集]

Pythian Temple NY

 当時デッカはNYにあるピディアン・テンプル・スタジオで多数の録音を行っていた。通常のスタジオは壁に反射する音を防ぐためのパッドを重厚に詰め込み、いわゆる「デッド・ルーム」な状態とするが、このスタジオは反響の強い「ライブ」な音響特性を持っていた。[1]

 デッカレコードのA&Rマン、ミルト・ゲイブラー英語版は当時をこう語る。[2]コロンビアは30番街の教会で録音していたが、私たちはブラスや弦楽器の自然なエコーが得られる場所を探していた(1940年代初頭デッカはPythian Templeの建物の一部をスタジオとして借りる)。ピディアン・テンプルはホテルのボールルームのようなもので、大きく高い天井とバルコニー、そしてステージがあった。全体のバランス調整ためにバルコニーにカーペットを敷きサウンドを「殺し」、部屋にリバーブを拾うマイクを設置、ビル以外のメンバーはフロアより約4フィート高いステージに上げて録音を行った。こうすることで彼らは通常のライブ演奏のように相手を感じながら演奏する事が出来、音響的にもステージの背後まで降りた天井が、丁度自然な「殻」のような状態となって最高のサウンドを生み出した。ステージから6~8フィート離れた場所にいるビルはフロアからバンドを見上げる格好になった。 」[1]

ミルト・ゲイブラー[ Milt Gabler](1911~2001) 1937年NYにコモドア・レコードを設立、ビリー・ホリデイジェリー・ロール・モートンなどの歴史的録音を行う。戦後デッカ入りしA&Rマンとして数々のポップ、ジャズレコードの制作を手掛ける。[1]

1954年4月12日 ピディアン・テンプル・スタジオ ,West 70th St.NY 

 ゲイブラーのプロデュースの元、午後2時15分録音が始まる。予定では2時スタートであったが、メンバー達がNYへ移動の際、フェリーの運航トラブルによりスタジオ入りが遅れたためこの時間となった。先にゲイブラーが提供した[サーティン・ウーマン]が 吹き込まれる。[ロック・アラウンド・ザ・クロック]の録音の際、パートタイムのメンバーであったダニー・セドロンはこの楽曲を正確に把握しておらず、他のメンバーから「ロック・ザ・ジョイントの時のソロを弾いたらどうか」という提案を受け入れてソロパートを演奏した。ファーストテイクはビルのヴォーカルがバッキングの音に埋もれNG、テイク2がOKとなり,5時40分録音が終了した。 [1] [3]

リリースと反応[編集]

Decca 9-29124 (We're Gonna)Rock Around The Clock

 1954年5月10日、ビル・ヘイリー&ヒズ・コメッツのデッカ移籍最初のレコードとして発売された。 「それはデッカが毎月リリースする大量のレコードの中の一枚に過ぎなかった。」ゲイブラーは語る。[2]「C&W、R&B、ではなくロックンロールという言葉も無かった。通常のポップレコードの扱いで、レーベルに記載される分類も『Foxtrot』(ダンス音楽)だった。7万5千枚売り上げたがスマッシュヒットとは言えない。ところが2枚目の「シェイク・ラトル・アンド・ロール」が全米トップ10入りの大ヒットになった時、ラジオ局に再度「ロック・アラウンド~」を送ったところ両方共に100万枚を売り上げた。そして最終的に「ロック・アラウンド・ザ・クロック」は2,000万枚を記録することになった。」[1]

 発売当初この曲は「サーティン・ウーマン」のB面の扱いであったが、[4]  翌1955年映画暴力教室』のオープニングに使用されるとビルボードチャートで7月9日から8月27日まで8週連続1位(Best Sellers In Stores)を記録する。また、この曲のヒットをきっかけに世界的なロックンロール・ブームが起こる。[1]

いくつかの疑問[編集]

原曲[編集]

 メイヤーズ/フリードマン版「ロック・アラウンド・ザ・クロック」(この項以下『RATC』と略す)の原曲とされたものを以下に整理する。

〇タイトルに関連がみられるが異曲とされるもの

  • Trixie smith - My Daddy Rocks Me with a Steady Roll [Black Swan 14127] 1922年
  • Hal Singer - Rock Around The Clock [Mercury] 1948年
  • Wally Mercer - Rock Around The Clock [Dot 1099] 1952年

〇歌詞もしくはメロディに類似性があり、作曲にインスパイアを与えたとされるもの

  • Hank Williams - Move it on Over [MGM 10033] 1947年
  • Leroy Anderson - Syncopated Clock [Decca ] 1951年[4]

作曲者[編集]

 真の作曲者が誰であるか不明である。ヘイリーの歴史家クリス・ガードナーが1979年にメイヤーズに行ったインタビューに対し「私(メイヤーズ)が指一本で演奏するピアノを聞いて、マックス・フリードマンが部屋に入り曲の完成を手伝いました。私はフリードマンに「Rock Around the Clock」は「Dance Around the Clock」よりも優れたタイトルであるとアドバイスしました。」と語っている。[4]

 2000年7月のNational Public Radioに対するインタビューで、ガードナーは「RATC」の作曲について異なる意見があると語った。「メイヤーズの作曲への関与を疑っている人が少なからずいます。 フリードマンが何年も前に亡くなり、自分自身のために語ることが出来なくなった今、我々が真実を知る事はもう出来ないでしょう。」コメッツのピアニスト、ジョニー・グランデは、NPRに「フリードマンが曲を書いた」とシンプルに語る。 Alan Freedは、Chuck Berryの「Maybelline」の共同作家として評価されているが、作曲への実際のインプットは一度もなかったと同じように、「DeKnight」のクレジットは出版社の手配だったともいう。さらに混乱に拍車をかけるのが、Henry Fillerなる人物が「RATC」を編曲したことを示す手書きの楽譜が存在する。Myers / DeKnightには全くクレジットされていない。 Fillerが元のコンポジションに与える影響は全く分かっていない。[4]

デモ録音[編集]

 コメッツのメンバーが否定しているにも関わらずエセックス・レコード在籍時(1953年頃)のデモ録音の存在が噂される。ジョン・スウェンソンがヘイリーに行ったインタビューで「『RATC』を録音しようと楽譜を持ってスタジオに行くが、デイブ・ミラー(エセックスの経営者)がそれを破り捨ててしまう、そんな事が3回ほどあった。」その状況の中、何らかの形でヘイリーはデモ録音に成功したとも言われている。時折、中古市場にエセックス・レコードの「RATC」が出回るが、デッカ録音を元に1960年代末に作られた海賊盤である。[4]

記録と影響[編集]

ロックンロールの最初で最大のヒット曲」とされ、ギネス・ワールド・レコーズの認定によれば、世界中で通算2500万枚(推定)を売り上げたとされる[5]。 「ローリング・ストーンの選ぶオールタイム・グレイテスト・ソング500」において159位にランクイン[6]となった。


明快な12小節のブルース進行、バックビートのリズムという当時のR&Bの基本要素を備えているが、演奏はまだジャズの色が抜けていない[要出典]しかしそれが白人による黒人音楽の解釈・融合という目新しい音楽「ロックンロール」であり、アメリカの多数派である白人のリスナーを引きつける要因にもなった[要出典]チャート評論家のフレッド・ブロンソン(Fred Bronson)は、「ロック・アラウンド・ザ・クロック」がビルボードチャートで1位を記録した1955年7月9日以後を「ロック時代」(Rock Era)と呼んでいる[要出典]ロック時代の終わりがいつ頃なのかは諸説あり、はっきりしない[要出典]日本において「『ロック・アラウンド・ザ・クロック』がロックンロールのルーツで、ロックンロールの語源ともなった」と半ば定説のように語られていた事があったが、前述のとおりこの曲は「最初のヒット曲」であり、それ以前にもロックンロール自体は存在している。[要出典] なお、「ロック・アラウンド・ザ・クロック」は「ロックンロールで最初の全米(ビルボード)1位獲得曲」といわれることがある。しかし一部では、1954年にビルボード1位を獲得したクルー・カッツの「シュブーン」をそれとする見方もある[7]

日本での歌唱[編集]

ビル・ヘイリー盤がヒットしていた1955年に、日本では早くも江利チエミ音羽たかしの訳詞)とダーク・ダックス藤浦洸の訳詞)による競作シングルによって、日本語歌詞でカバーされている。

また、2001年の「第51回NHK紅白歌合戦」のディズニーショーで、モーニング娘。によって本楽曲が歌唱された。

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g Rob Finnis(著)『DON'T KNOCK THE ROCK』NEW KOMMOTION Vol.24、1980年、16頁
  2. ^ a b 1970年 Rob FinnisがMilt gablerに対して行ったインタビュー
  3. ^ Chris Gardner(解説)『ROCK THE JOINT!』ROLLER COASTER LP、1985年。
  4. ^ a b c d e The Story of 'Rock Around the Clock': The First Cuckoo of Spring
  5. ^ 『ギネス世界記録 2010』ゴマブックス、2009年、29頁。ISBN 9784777115297
  6. ^ 500 Greatest Songs of All Time: Bill Haley and His Comets. (We're Gonna) Rock Around the Clock' | Rolling Stone
  7. ^ 八木誠(監修・著)『洋楽ヒットチャート大事典』小学館、2009年、10頁。ISBN 978-4-09-387811-1