ルイ・ジョーダン
| ルイ・ジョーダン | |
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| 基本情報 | |
| 別名 | ザ・キング・オブ・ザ・ジュークボックス |
| 生誕 |
1908年7月8日 |
| 死没 |
1975年2月4日 |
| ジャンル | ブルース、ジャズ、ジャンプ・ブルース、R&B |
| 職業 | 歌手、サクソフォーン奏者 |
| 担当楽器 | アルト・サックス |
| 活動期間 | 1932年-1974年 |
| レーベル |
デッカ・レコード マーキュリー・レコード タンジェリン・レコード |
| 共同作業者 | ティンパニ・ファイブ |
ルイ・ジョーダン(Louis Jordan、1908年7月8日 - 1975年2月4日)はアメリカ合衆国の歌手、サックス奏者。1940年代から1950年代初頭に多くの曲をヒットさせた「ザ・キング・オブ・ザ・ジュークボックス」と称される[1]。
来歴
[編集]アーカンソー州ブリンクリー生まれ。7歳から父親が彼にクラリネットとサキソフォンを教えた。地方大学で音楽を専攻、1920年代からプロ奏者・歌手として下積みを始めた。1938年に「ティンパニ・ファイブ」を結成、リズム・アンド・ブルースとジャズを演奏。1942年からロサンゼルスに引っ越し、ミュージック・ビデオの前身であるサウンディ(soundies)を作って売り始める。AFRS(後のAFN)のラジオにも出演。1942年に「ホワット・ザ・ユース・オブ・ゲッティン・ソバー」を『ビルボード』誌のR&Bチャート1位に送り込む。1944年には「G.I.ジャイヴ」がR&Bチャートとポップ・チャートの両方で1位を獲得。1945年、ビング・クロスビーとのデュエット「マイ・ベイビー・セッド・イエス」がポップ・チャートで14位を記録。1946年にはエラ・フィッツジェラルドとのデュエット「ストーン・デッド・イン・ザ・マーケット」と「エイント・ザット・ジャスト・ライク・ア・ウーマン」がR&Bチャート1位となる。更に「チュー・チュー・チ・ブギ」が同年8月24日付から18週にわたり(不連続)R&Bチャート1位を記録。1949年のR&Bチャート1位の曲「サタデー・ナイト・フィッシュ・フライ」がルイ達が初めて演奏したジャンプ・ブルースとされている。 1987年にロックンロールの殿堂にて「リズム・アンド・ブルースの父」「ロックンロールの祖父」と紹介される。1952年6月1日、ロサンゼルス・リグレー・フィールドにてレオン・ヘフリン主催の第8回「キャバルケード・オブ・ジャズ」で演奏。1954年にアラディン・レコードと契約、21曲を作曲。他の会社とも契約、ロックンロールで営業してはどうかと勧められる。1960年代にクリス・バーバーとイギリスで小規模なツアーを行い、バーバーに評価される。1956年に発表した、自分のヒット曲の再演アルバム『サムバディ・アップ・ゼア・ディグス・ミー』はクインシー・ジョーンズのプロデュースで知られる。 1961年にアメリカ合衆国内国歳入庁はルイにリーエンを発行、ルイは所有物を売る。2人目の妻への損害賠償と幾つかの曲の著作権についての訴訟もあった。 1975年カリフォルニアの邸宅で心臓発作により死去。墓は5人目の妻の故郷セントルイスにある。アメリカ合衆国下院は2008年6月23日、ルイ・ジョーダン生誕100周年を称える決議を通した。2018年にグラミー生涯成績賞を授与。
影響
[編集]- 「エイント・ザット・ジャスト・ライク・ア・ウーマン」は後のロックンロールに通じるイントロで始まり、チャック・ベリーの楽曲「ジョニー・B.グッド」のヒントになったとも言われる[2]。
- B.B.キングはルイの曲をしばしば取り上げ、1999年にはルイに捧げたアルバム『レット・ザ・グッド・タイムス・ロール〜ザ・ミュージック・オブ・ルイ・ジョーダン』発表。
- 1987年、ロックの殿堂のアーリー・インフルエンス部門に選出された[3]。
- 1990年代には、ルイのヒット曲を元にしたブロードウェイ・ミュージカル『Five Guys Named Moe』が上演された。
脚注
[編集]- ^ “Local band brings back ‘The King of the Jukebox’ with new recordings”. C&G Newspapers (2021年4月22日). 2021年10月8日閲覧。
- ^ ブルースCDガイドブック(小出斉・著、ブルース・インターアクションズ、ISBN 4-938339-21-8)参照
- ^ “Louis Jordan”. Rock & Roll Hall of Fame. 2018年12月16日閲覧。