マーサ・レイ

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マーサ・レイ
Martha Raye
マーサ・レイMartha Raye
慰問活動中のマーサ・レイ(1943年)
本名 マージー・リード
Margy Reed
生年月日 (1916-08-27) 1916年8月27日
没年月日 (1994-10-19) 1994年10月19日(満78歳没)
出生地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国モンタナ州 シルバーボウ郡ビュート
死没地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国カリフォルニア州 ロサンゼルス
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
職業 女優歌手コメディアン
ジャンル 映画舞台
活動期間 1934年 - 1989年
活動内容 1934年:デビュー
1936年:映画『1937年の大放送』
1947年:映画『殺人狂時代』
1954年 - 1956年:テレビ『マーサ・レイ・ショー』
1969年アカデミー賞受賞
1989年:引退
1993年大統領自由勲章受章
1994年:死去
配偶者 バッド・ウエストモア(1937年 - 1938年)
デヴィッド・ローズ(1938年 - 1941年)
ニール・ラング(1941年 - 1944年)
ニック・コンドス(1944年 - 1953年)
エドワード・T・バグレー(1954年 - 1956年)
ロバート・オシェア(1956年 - 1960年)
マーク・ハリス(1991年 - 1994年)

マーサ・レイMartha Raye, 1916年8月27日 - 1994年10月19日)はアメリカ合衆国女優歌手コメディアン。本名はマージー・リードMargy Reed[注釈 1]

チャールズ・チャップリンの1947年の映画『殺人狂時代』でのヒロインとして知られるが、ティーンエイジャーのころから映画舞台テレビと幅広く活躍し、そのかたわらでアメリカ軍への慰問活動も積極的に行った。これらの活動が評価され、1968年度の第41回アカデミー賞ジーン・ハーショルト友愛賞を受賞し[1]、最晩年の1993年にもアメリカ国民に対する積年の活動と貢献に対して大統領自由勲章が贈られた[2]

生涯[編集]

デビューまで[編集]

マーサ・レイことマージー・リードは1916年8月27日、モンタナ州ビュートのセント・ジェームズ病院で生まれる[3][4]。マルギーの両親、ピーター・F・リードとメイベル・フーパーはともにアイルランドからの移民であり、「リードとフーパー」というコンビ名で地方回りのヴォードヴィル芸人であった。メイベルはマーサを産んでわずか2日後には早くも舞台に復帰し、マーサが3歳になると弟のバドとともに「マージーとバド」というコンビ名で親の舞台に立たせた。幾人かのショービジネス関係者は、ジュディ・ガーランドが1954年の映画『スタア誕生』で歌った歌の一節である「私はアイダホのポカテッロのプリンセス・シアターのトランクで生まれた」 I was born in a trunk in the Princess Theater in Pocatello, Idaho は、マージーの出生時のエピソードにヒントを得たと推測している。[5]

マージーは成長するとニューヨークに移って高等芸術学校英語版に進学するが、正規の学校教育を5年生の段階までしか受けていなかったため、マージーは他のクラスメートから頻繁に助けられながら受講した[6]

芸能生活[編集]

1930年代に入り、マージーはポール・アッシュとボリス・モロス率いる楽団でヴォーカリストを務めるようになる。「マーサ・レイ」との芸名を名乗り始めた時期は不明だが、1934年には短編映画 "A Nite in the Nite Club" で映画デビューし、2年後の1936年にはパラマウント映画と契約してビング・クロスビー主演の『愉快なリズム英語版』で初めての長編映画への出演を果たした。以降、1936年から1939年にかけてCBSで放送されていたアル・ジョルスン司会のラジオ・ショー『ザ・ライフブイ・プログラム』の一コーナー「カフェ・トロカデーロ」の主要キャストとして39回出演したほか、番組内でのコメディーのほかにソロやジョルスンとのデュエットで歌ったりもした。続く26年間、マーサはジョー・E・ブラウン英語版ボブ・ホープW・C・フィールズ英語版アボットとコステロジミー・デュランテ、そしてチャップリンといった大物喜劇人の面々との共演を重ねた。

マーサのニックネームの一つは「ザ・ビッグマウス」。これは、マーサの顔が比較的小さかったことに反比例して口が大きかったことから名づけられた。1980年代に入って義歯安定剤「ポリデント」のコマーシャルに出演した際に「ビッグマウスからも取ってしまう!新しい「ポリデント・グリーン」はしつこい汚れもきれいになる!」と口をネタにしたフレーズを使った。マーサの大きな口はコミックにおいてもネタにされ、その多くは実際よりも、やたら口が強調されて描かれた。ウォルト・ディズニーの1938年のアニメ映画『マザー・グース ハリウッドへ行く英語版』でのマーサは、やはり大きな口を持っていたジョー・E・ブラウンらとともに踊っているように描かれている。また、ワーナーメリー・メロディーズ・シリーズの一つ『カッコウが木に満ちあふれ英語版』でも、マーサはジャズ風スキャットを歌うロバ「モーシャ・ブレイ」として描かれている。

慰問活動[編集]

アメリカが第二次世界大戦に参戦すると、マーサはアメリカ慰問協会(USO)英語版に加わって慰問活動を開始する[5]。以降、朝鮮戦争ベトナム戦争においても引き続いて慰問活動を行い、飛行機恐怖症の気があったにもかかわらずアメリカ軍の慰問のためにツアーを続けた。

ベトナム戦争初期の1966年10月、マーサは南ベトナムソクチャンに駐留する、「ソクチャン・タイガース」あるいは「ヴァイキング」のニックネームを持つ第121航空大隊および「戦士」あるいは「サンダーバード」こと第36航空大隊の二部隊が駐留する根拠地を慰問した。しかし、マーサが到着して間もなく、二つの部隊は近在から捕虜を輸送する命を帯びて出動することとなり、マーサは出動した軍人全員がショーを見ることができるよう待機し、部隊が帰還してからショーを開くこととなった。この南ベトナム・ツアーにおいてマーサは、慰問活動の合間にしばしば看護活動を行っていた。その時、出動していたUH-1「ヒューイ・スリック」1機が戦闘に巻き込まれ、ソクチャンへ帰還を余儀なくされるほどの損害を受けた、という報が根拠地にもたらされた。「ヒューイ・スリック」に搭乗していた一人は語る。

私は、「スリック」が敵の射撃を受けてテールローターとドライブシャフトに大きな損害を受けながらも、幸運にして生きながらえていることを知った。機体は応急点検の結果、1時間程度のフライトなら大丈夫だが、いずれにせよ着地後放棄されることとなった。なんとかソクチャンにたどり着くと、慰問の追加のショーで来ていたマーサが「何が起こったの?」と尋ねてきた。私はパイロットの生死に関する知らせを受け取っていなかったが、話を聞いていたマーサは「部隊全員が任務から戻るまで、私たち一行はここに残る」と言った。しかし、部隊の幾人かは任務から戻ってこなかった。マーサは帰ってこない兵員を待っている間、部隊の者とポーカーに興じ、部隊の士気を保つことに貢献した。私もその輪に加わってマーサとポーカーを楽しんだが、少し後悔した。マーサはこれまでの第二次世界大戦、朝鮮戦争などでのUSOの活動の中で、GI相手に何度もポーカーを数多く楽しんでいたからだ。もっとも、私は他の者もそうであったように、そのようなマーサを敬愛していた。
任務はヴァイキング・パイロットと射手を失い、負傷者も何人か出ていた。准尉のパイロットは敵に撃たれた際、操縦していなかった。彼と残り2人の乗組員は何とかソクチャンに帰還したが、マーサがボランティアとして医師に交じって、看護活動を行った。すべての処置が完了し、マーサは部隊全員がそろったのを見計らって、ようやくショーを開始した。関係者は、マーサを卓越した芸能人であると同時に思いやりのある人物だとして高く評価した。このベトナム戦争の最中、マーサが予告なしでアメリカ陸軍特殊部隊群を電撃訪問した際にキャンプによからぬ出来事があったが、マーサはその収拾に手を貸した。部隊はマーサに「名誉グリーンベレー」の称号を与え、マーサは愛情をこめて「コロネル・マギー」と呼ばれるようになった。 — [7][8]

1993年11月2日、マーサはビル・クリントン大統領から大統領自由勲章を授与された[2][5]

マーサ・レイはおよそ半世紀にまたがるキャリアを誇るパフォーマーであり、世界中の観客を虜にして喜ばせるスピリットを持っている。彼女は途方もない喜劇と音楽の才能をもって映画、舞台およびテレビを通じてアメリカのエンターテインメントを形成する一助をなした。また大いなる勇気と優しさ、そして愛国心を持つ彼女は第二次世界大戦中の慰問ツアーで認められ、朝鮮戦争とベトナム戦争では彼女に「コロネル・マギー」の称号が与えられた。マーサ・レイはアメリカ国民が誇れる人物の一人であり、休むことなしにアメリカ人の生活に益をなす贈り物を与え続けた女性である。 — [8]

「殺人狂時代」[編集]

話は少しさかのぼって1946年。チャップリンが『殺人狂時代』で主役ヴェルドゥを手こずらせるヒロイン、アナベラ・ボヌール役にマーサを起用するきっかけとなったのは、マーサが出演した映画『山は笑う英語版』(1937年)の監督が『殺人狂時代』での助監督ロバート・フローリー英語版であり、フローリーの推薦があったと映画史家のデイヴィッド・ロビンソン英語版は推測している[9]。チャップリン自身もマーサ出演の『ジープに乗った4人のジル』 (Four Jills in a Jeep)(1944年)を見て評価し、起用が決まった[9]。幼年期から芸能界に身を置くマーサにとっては、チャップリンは神様でありヒーローであった[9][10]。出演依頼はチャップリン本人から電話を通じてマーサに直接行われたが、電話を受けたマーサは相手が「神様」チャップリン本人とは思いもよらず、いたずら電話だと思い込んで切ってしまった[10]。撮影に入っても最初のころはチャップリンに遠慮していたマーサであったが、演技に支障が出て迷惑がかかると思ったマーサは徐々に開き直り、やがてチャップリンを「チャック」と呼ぶようになるなど馴れ馴れしくなった[9]。チャップリンもマーサの才能に感心し、その馴れ馴れしさを認めた[9]。現存する『殺人狂時代』のNGフィルムでも、チャップリンとマーサが演技の途中で思わず笑い出してNGになるショットが残されている[11]。なお、チャップリン映画では演技経験のない女性をヒロインに据えることが圧倒的に多かったが、マーサがこの慣例を破った最初の例となった[10]

テレビ活動[編集]

テレビ時代が到来すると、マーサの活動も映画からテレビにその比重を移すこととなった。そのテレビでの活動においても、マーサは初期のテレビ・スターとして活躍した。1954年から1956年にかけてNBCで放送された『マーサ・レイ・ショー英語版』では、引退したばかりの元世界ミドル級チャンピオンであるロッキー・グラジアノがマーサの気まずいボーイフレンド「グーンバ」[注釈 2]役として共演し、プロデューサーと構成は、のちにCBSで『フィル・シルヴァー・ショー英語版』を手掛けるナット・ヘイケン英語版であった。ショーを盛り立てた主なゲストにはザ・ザ・ガボールセザール・ロメロ英語版ブロードウェイダンサーのウェイン・ランブ英語版といった面々が登場した。また、『ワッツ・マイライン?英語版』などのテレビ番組にもゲスト出演したが、当時の夫との関係がこじれたことや健康問題、『マーサ・レイ・ショー』の1955年9月20日の放送でマーサがゲストの女優タルラー・バンクヘッドとともにCBSのクイズ番組の勝者だった12歳のアフリカ系アメリカ人女子をキス攻めにしたことが視聴者の批判を浴びて番組の人気が急落した[12][注釈 3]ことが重なり、『マーサ・レイ・ショー』終了後の1956年8月14日に睡眠薬自殺を図ったが一命を取りとめた。回復後、マーサはローマ・カトリックでもユダヤ系でもなかったにもかかわらず、クリストフォロスとジェネシスの金メダルおよびダビデの星を授かり、お守りとして大切にした。以降に出演したテレビ番組では、マーサは世話になったフロリダ州マイアミのセント・フランシス病院にいた姉妹の修道女への感謝の意味をこめて、「おやすみ、シスター」と語ることが通例となった。

後年には前述のように、1970年代から1980年代にかけて「ポリデント」のコマーシャルに出演した。

後年の活動[編集]

1970年、マーサはクロフト兄弟英語版の映画『パフンスタッフ英語版』で「すべての魔女の女王」ボス・ウィッチ役を演じ、これは同じ1970年にクロフト兄弟が手掛けたテレビシリーズ『ザ・バガルーズ英語版』で悪女ベニータ・ビザール役を演じる伏線となった。テレビ界においてもABCの『ザ・ラブボート英語版』にしばしばゲスト出演したが、それはかつて、短命に終わったABCの『ロイ・ロジャース・アンド・デイル・エヴァンス・ショー英語版』に出演していたころを髣髴させるものであった。CBSでもシチュエーション・コメディアリス英語版』に、ぶっきらぼうな母親キャリー役で第9シーズンから出演し、2シーズンから3シーズンにわたって出演した。カメオ出演も多くこなし、CBSの『ジェシカおばさんの事件簿』、NBCの『アンディ・ウィリアムス・ショー』および『署長マクミラン』に出演。『署長マクミラン』では新シリーズの第6エピソードにおいて、家政婦アガサとして再度のカメオ出演を果たした。

私生活[編集]

マーサの私生活は複雑で感情的かつ激動と言えるものだった[13]。また、生涯に7回の結婚を経験している。その一方ではメソジスト信者として定期的に教会の礼拝や日曜学校に出席して聖書を読んでいた[14]

最初の結婚相手はメイクアップアーティストバッド・ウエストモア英語版で1937年5月30日に結婚したが、極度の虐待に耐えかねて9月には早くも離婚を申請して受理された。二番目の相手デヴィッド・ローズとは1938年10月8日に結婚したが、1941年5月19日に離婚して、ローズはジュディ・ガーランドと再婚した。以降、ニール・ラングと1941年5月25日から1944年2月3日、ニック・コンドスと1944年2月23日から1953年6月17日、エドワード・T・バグリーと1954年4月21日から1956年10月6日、ロバート・オシェアと1956年11月7日から1960年12月1日の間にそれぞれ結婚生活を送ったが、いずれも最終的には離婚という結果に終わった。このうちコンドスとの間には1944年7月26日に一人娘のメロディー・コンドスを産んでいる。

マーク・ハリスとの結婚とマーサの死[編集]

1988年、マーサは脳卒中を患って引退を余儀なくされ、1990年には別の発作を起こして以降は車いす生活となった[6]。その翌年の1991年、オシェアとの離婚から31年経っていたマーサはマーク・ハリスと7度目の結婚をラスベガスで果たす。マーサが75歳、ハリスが42歳だったこの結婚は一定の話題を呼び、ハリスはバイセクシャルの気があったものの、最終的に1994年のマーサの死まで連れ添うこととなった。マーサの死後、ハリスはビバリーヒルズに隣接するベル・エアーにあった自宅を含むマーサーの遺産の大部分を相続した。一方で、実の娘メロディーには何も相続されなかったとする。これに対して、2008年4月23日にハワード・スターンのラジオ番組『ハワード・スターン・ショー英語版』にインタビュー出演したハリスは、遺産300万ドルのうち10万ドルを贈与したと証言した。その後、ハリスは二度の心臓発作を起こして一人娘のいるニューヨークに移り住んだ。

死の直前、マーサはハリスの後援を得て1991年公開のベット・ミドラー主演の映画『フォー・ザ・ボーイズ』がマーサの慰問活動の経験談を無断に引用したとしてミドラーと映画プロデューサーを告訴したが、裁判の末にマーサ側の訴えは認められなかった[15]

1993年に入ると、マーサはアルツハイマー型認知症と診断され、血行不良から両足を失うこととなった。長年の心血管疾患との闘病の末、マーサは1994年10月18日にロサンゼルスで肺炎により78年の生涯を終えた。アメリカ政府は、マーサの第二次世界大戦以来のUSOでの功績をたたえてアーリントン国立墓地への埋葬を申し出たが、マーサの生前の願いによりノースカロライナ州フォートブラッグ英語版内の墓地に、アメリカ軍全体の名誉中佐とアメリカ海兵隊名誉大佐としての礼遇をもって埋葬された[5]

マーサ・レイはハリウッド・ウォーク・オブ・フェームの星を2つ刻んでおり、6251番地に映画部門、6547番地にテレビ部門の星がある。

主な出演作品[編集]

インターネット・ムービー・データベースのデータによる。

映画[編集]

テレビ[編集]

舞台[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ #ロビンソン (下) p.245 では「マーガレット・リード」としている。
  2. ^ "goombah" 。シチリア方言で、イタリア語における「コンパニオン」 "compare" にひっかけている。
  3. ^ おそらく、キス攻めにしたことではなくアフリカ系アメリカ人と親しくしたことが批判された。公民権運動の嚆矢の一つ、モンゴメリー・バス・ボイコット事件(1955年12月1日)が起こったのは、件の放送回から約2か月後のことである。

出典[編集]

  1. ^ Awards for Martha Raye” (英語). Internet Movie Database. 2013年1月31日閲覧。
  2. ^ a b Secretary of the Senate, United States Congress. “Presidential Medal of Freedom Recipients”. Official Website of the United States Senate. United States Senate (Government of the United States). 2013年1月31日閲覧。
  3. ^ Birth Certificate. ColonelMaggie.com.
  4. ^ Tribune staff. “125 Montana Newsmakers: Martha Raye Ament”. Great Falls Tribune. 2013年1月31日閲覧。
  5. ^ a b c d Martha Raye”. Montana Kids. Montana Office of Tourism. 2013年1月31日閲覧。
  6. ^ a b The Death of Martha Raye”. Findadeath.com (2002年3月6日). 2013年1月31日閲覧。
  7. ^ Raye, Martha, LTC”. Together we Served. togetherweserved.com. 2013年1月31日閲覧。
  8. ^ a b Colonel Martha "Maggie" Raye”. war-veterans.org.. 2013年1月31日閲覧。
  9. ^ a b c d e #ロビンソン(下) p.245
  10. ^ a b c #大野 (2007) p.246
  11. ^ #大野 (2007) pp.245-246
  12. ^ Davidson, Jim (2007年8月12日). “The Martha Raye Show”. Classic TV Info. 2013年1月31日閲覧。
  13. ^ Raye, Martha (1954年4月25日). “Me and My Big Mouth”. The American Weekly: p. 7. http://news.google.com/newspapers?id=53QxAAAAIBAJ&sjid=yA8EAAAAIBAJ&pg=5898,6485827&dq=martha-raye-show&hl=en 2013年1月31日閲覧。 
  14. ^ Pitrone, Maddern Jean Take It from the Big Mouth: The Life of Martha Raye Hardcover, The University of Kentucky Press, April 8, 1999, pages 220-221
  15. ^ Pittrone, Jane Maddern (1999). Take It from the Big Mouth: The Life of Martha Raye. University of Kentucky Press. p. 216. 

参考文献[編集]

サイト[編集]

印刷物[編集]

外部リンク[編集]