ディーン・マーティン

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Dean Martin
ディーン・マーティン
ディーン・マーティン
本名 Dino Paul Crocetti
生年月日 1917年6月7日
没年月日 1995年12月25日(満78歳没)
出生地 オハイオ州ステューベンヴィル
死没地 カリフォルニア州ビバリーヒルズ
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
職業 俳優
配偶者 ベティ・マクドナルド (1941-49)
ジーン・ビーガー (1949-73)
キャサリン・メイホーン (1973-76)

ディーン・マーティンDean Martin1917年6月7日 ステューベンヴィル - 1995年12月25日 ビヴァリーヒルズ)は、アメリカ合衆国俳優・歌手・司会者である。1946年~1956年はジェリー・ルイスとのコメディ・チーム「底抜けコンビ」で知られ更に1958年以降はフランク・シナトラやサミー・デイヴィス・ジュニアたちと組んだエンターテイナー集団「ラットパック」でも有名。アメリカではディノ(Dino)の愛称で親しまれている。

来歴[編集]

ステューベンヴィルにあるディーン・マーティンの壁画

1917年6月7日、アメリカ・オハイオ州の東部、ピッツバーグに程近い小都市ステューベンヴィルで生まれる。イタリア系のアメリカ人で、出生時の名前はDino Paul Crocettiである。イタリア系移民の子であったので幼少のときは英語が話せずイタリア語を話していた。

高校を中退し、ヤミ酒場(禁酒法時代1920〜1933当時:ディノ15歳の時)で密造酒などの運び役などをしながら棍棒セールスマンとして製鉄所に勤めていた(←製鉄所に警備棒を持ってガードマンとして勤務していた)。さらに少年時代から酒場に出入りしていたことから15歳よりウェルター級ボクサーとして懸賞試合でボクシングをしていた。その時のリングネームは『キッド・クロセッティ』である。そのボクシングの試合で鼻を負傷しボクサーを引退する。

その後、バーの用心棒や違法ルーレットカジノのディーラーや元締めなどをして勤めていた。ショウ・ビジネスへの活動の始まりとしては、1940年代初頭にクラブまわりをしていたサミー・アトキンス率いるバンドと知り合い専属歌手となる。当初の歌い出としては当時の流行歌手ビング・クロスビーミルス・ブラザーズの歌唱スタイルを真似たものであった。その時に名前を本名ディノ・クロセッティ(Dino Crocetti)から最初の名前ディノ・マルティーニ(Dino Martini)と変えている。その後バンド活動中にサミー・アトキンスからイタリア風の名前から英語風のものに変えることをすすめられ名前をディーン・マーティンと改名する。

そしてクラブ歌手として活動中の1946年、アトランティック・シティのクラブで解雇寸前の窮地に立たされた時、偶然ナイトクラブで歌っていたニューヨークで出会った9歳下の無名コメディアンジェリー・ルイスと即興でコンビ(Martin and Lewis日本での名称は「底抜けコンビ」)を組み人気が沸騰、それがハル・B・ウォリスの目に止まりコンビで映画「底抜けシリーズ」(パラマウント映画、1949年 - 1956年)に出演して、世界的スターになった。1952年にはおなじパラマウント社の人気シリーズ「珍道中シリーズ」(主演ビング・クロスビーボブ・ホープドロシー・ラムーア)にも、同コンビでゲストで乱入している(『バリ島珍道中』(Road to Bali、監督ハル・ウォーカー)。

マーティン&ルイスコンビ主演映画はパラマウントのドル箱シリーズになったが、成功の手柄はルイスの独り勝ち等の中傷があり、マーティンは歌手としてミリオンヒットを何枚か出したにも関わらず俳優としての評価は低かった。尚コンビ解消の理由は正式に発表されていないが2人には1,956年に7本追加契約があり、内2本を消化しただけだけであり、その後ルイスはパラマウント&製作者ハル・B・ウォリスとの契約を継続したから世論は自己都合退社したと揶揄されたマーティンには不利に働いた。

だが独立後もウォリスへの恩は忘れず「果てなき夢」(1959)、「凡ては夜に始まる」(1960)、「浮気の計算書」(1962)、「エルダー兄弟」(1965)、「5枚のカード」(1968)に主演し残り5本分の契約は果たし筋を通している。

マーティン語録①;誰の人生にも二つの曲がり角がある、私の人生で一つ目はジェリー・ルイスと出逢った事、二つ目はジェリー・ルイスと決別した事だ。

1956年にコンビを解消してからは、シナトラ一家、いわゆるラット・パック の主要メンバーとして、フランク・シナトラサミー・デイヴィス・ジュニアピーター・ローフォードジョーイ・ビショップとともに活動した。映画では主に西部劇(多くはセカンドロールで本領発揮する小悪党キャラ)、自身の歌もまじえたロマンチック・コメディーなど娯楽映画を中心に多数出演し、1950年代〜60年代を代表するマネーメーキングスターの地位を築いた。主な代表作にエドワード・ドミトリク監督の『若き獅子たち』(1958年)、ハワード・ホークス監督の『リオ・ブラボー』(1959年)、ヴィンセント・ミネリ監督の『走り来る人々』(1958年)、『ベルは鳴っている』(1960年)、ビリー・ワイルダー監督の『ねえ!キスしてよ』(1964年)などがある。そして1966年からはドナルド・ハミルトンDonald Hamilton)原作のスパイ小説を基にした映画『サイレンサー』シリーズの全4作に主演、原作のハードボイルドでシリアスな展開とは違いプレイボーイでユーモア溢れるスパイ=マット・ヘルムを演じ、1960年代スパイ映画ブームに乗り同時期に人気絶頂だった『007』シリーズの亜流作品としても話題となった。

そして1969年にはアメリカンニューシネマに逆行するグランド・ホテル・スタイルのオールスター・キャスト70mm『大空港』(一般公開は1970年)の副操縦士(月一度、同僚機長の癖を監督する機長)役など演技派としても知られた。

マーティン語録②;ニューヨークは嫌いだ、あそこはエレベーターしかない、俺はエレベーターを信用しない、ついでにテレビジョンもロケットも嫌いだ、君らは月へ行く奴等を信用できるかい?俺は嫌だね! (ニューヨーク大停電とアポロ宇宙計画を皮肉った独特の表現だが、後に『ローハイド』にゲスト出演したり冠番組を通産20年も持ったのは自分を高く売り込む駆け引き)

歌手としても有名で、レコーディングキャリアの本格的な始まりは1948年マーティン&ルイスとして『底抜け』(※)シリーズ(パラマウント映画)の主題歌(The Certain Party) をキャピトル・レーベルで吹き込んだのを皮切りに、同年キャピトル・レコードと契約し1961年まで在籍、その後フランク・シナトラがリプリーズ・レコードを設立するにともない彼の誘いで1962年にリプリーズに移籍し1980年までにスイング、ラテン、カントリー、R&B、ポップスなどあらゆるジャンルの曲を歌いこなし、多数のアルバム、シングルを残している。主な代表曲に『誰かが誰かを愛してる』 (Everybody Loves Somebody)、『ザッツ・アモーレ』(That's Amore)、『イナモラータ』(Innamorata、『ヴォラーレ』(Volare)、『思い出はかくのごとし』 (Memories Are Made of This)、『キング・オブ・ザ・ロード』 (King of the Roadグラミー賞受賞曲)などのヒット曲がある。NBCのテレビ番組『ディーン・マーティン・ショー』(The Dean Martin Show、1965〜1974)及びen: The Dean Martin Celebrity Roast(1974〜1984)のホストとしても活躍した。またラスベガスでのショーやステージ活動も1987年まで精力的に行っていた。

マーティン語録③;何の才能もない人に必要なもの、それは努力、忍耐、自制心!

だが、全く努力していない気楽に歌い気楽に演じているイメージを守り抜いた結果しばし一流の監督や音楽家ですら欺いていた。

_ハワード・ホークス;彼は男優としてもっと成功しても良かった、ジャック・L・ワーナーがロケ地に来て‘我々はディーンと契約した筈だが彼はどこだ?、えっあのヨレヨレが!’と吃驚したからだ、だが人生をフラフラしている奴でもある、彼は追い詰められなければ自分のショーのリハーサルすらしない、早く切り上げてゴルフに行きたいのだ。

_ネルソン・リドル;ディーンは歌が巧いのに本人が全くそれに気付いていない、彼は自分の人生を真剣に考えないのです、まして周囲が自分をどう評価しているかなど全く考えていません。

因みに演技賞ノミネートは1959年「奥様ごめんなさい」ゴールデングローブ賞(ベストアクター)のみ。

私生活では、最初の妻ベティ・マクドナルドとの間に4人(1男3女)、2番目の妻ジーン・ビーガーとの間に3人(2男1女)の子供をもうけた。3番目の妻キャサリン・メイホーンとは結婚後わずか3年で離婚している。

晩年は、息子で俳優のディーン・ポール・マーティン(Dean Paul Martin)が飛行機事故死したり(1987年3月21日、没年35歳)、長年の不摂生(実は甘党でキャノンボール2(1983)撮影中にコーヒーの角砂糖を5個も入れた事をシャーリー・マクレーンが著書に記している)がたたり体調を崩すなどが原因で、キャリアに対する意欲を失うなど波乱が多かった。1988年には盟友フランク・シナトラからサミー・デイヴィス・ジュニアとの巡業に誘われたものの、リハーサルに遅れてきたり途中で帰ってしまったことから、シナトラが激怒、結局、巡業先のシカゴでリタイヤ、けんか別れしてしまう(その後、ディーンの代役はライザ・ミネリがつとめた)。30年に渡って共に仕事をしてきたシナトラとディーンは、その後再び同じステージに立つことはなかったという。

1995年12月25日カリフォルニア州ロサンゼルス郡ビヴァリーヒルズで、肺癌に併発した肺気腫により死去[1]。78歳没。

彼の死は、盟友フランク・シナトラにも大きな衝撃を与えた。シナトラはマスコミに以下のコメントを発表している。 「友が逝ってしまった。長い年月共に仕事をしてきた親友が、彼とは血はつながっていないが兄弟だった。ディーンはいつまでも私の心の奥深くに生き続ける。」

マーティン語録④;俺の事をイタリアンと呼べる奴は唯一フランク・シナトラだ、俺もフランクをイタリアンと呼ぶ、だが他の奴等が呼んだら殴る!

※邦題の命名者は淀川長治と清水俊二

主な出演作品[編集]

主なアルバム[編集]

  • スインギン・ダウン・ヤンダー (1955年、キャピトル・レコード
  • プリティ・ベイビー (1956年、キャピトル・レコード)
  • ウインター・ロマンス (1956年、キャピトル・レコード)
  • スリープ・ウォーム (1959年、キャピトル・レコード)
  • ジス・タイム・アイム・スインギン (1960年、キャピトル・レコード)
  • イタリアン・ラブ・ソングズ (1962年、キャピトル・レコード)
  • チャ・チャ・チャ・ダ・モーレ (1962年、キャピトル・レコード)
  • フレンチ・スタイル (1963年、リプリーズ・レコード
  • ディノ・ラティーノ (1963年、リプリーズ・レコード)
  • ドリーム・ウィズ・ディーン (1964年、リプリーズ・レコード)
  • 誰かが誰かを愛している (1965年、リプリーズ・レコード)
  • ディーン・マーティンTVショウ (1967年、リプリーズ・レコード)
  • フォーエヴァー・クール (2007年、キャピトル・レコード / EMIミュージック・ジャパン※没後12年を経て、過去の曲からヴォーカルだけを取り出しデジタル化、演奏をリニューアルし収録し直した新譜。

トリビア[編集]

  • かつてハリウッドでトム・ハンクス主演、マーティン・スコセッシ監督で伝記映画『ディノ』の製作が浮上したことがあったが結局、この企画は実現しなかった。[2]
  • 作品リストには記されていないが、1962年『女房は生きていた』(20世紀フォックス製作)でマリリン・モンローとも共演している。この作品でディノはモンローの夫役で出演していた。結局この作品はモンローの精神不安により撮影が進まず、未完のままお蔵入りとなった。20世紀フォックスの倉庫には現在でもディーンとモンローの幻の共演シーンのフィルム(撮影期間32日:約7分のシーンのみ)の一部が残されている。
  • 1968年の映画『サイレンサー破壊部隊』でディーン・マーティンは相手役のシャロン・テートと共に、当時無名だったブルース・リー(この作品でアクション指導を担当)からカンフーの武術指導を受けている。この作品には、これまた当時無名だったアクション俳優チャック・ノリスが敵の部下役で出演していて彼との格闘シーンもある。ディノの人気シリーズだったこの作品のエンドタイトルには『Coming up next the ravagers』(次回、掠奪部隊に続く)と表示され第5作目の予定が立てられていたが、この作品の公開直後シャロン・テートがチャールズ・マンソン事件に巻き込まれ亡くなったために、このシリーズは打切りとなった。
  • ローリングストーンズ初期のUSツアーにて、ディーンがホストを務めるTVショウに出演し、ディーンに酷評された。
  • いとしのオールディーズ」(NHKラジオ第1毎週金曜日20:05〜)のテーマとして、ディーンの「誰かが誰かを愛している」が使用されている。
  • テレビ西部劇の代表「ローハイド」には1964年にゲスト出演を果たしている。チャールズ・ブロンソンリー・ヴァン・クリーフのように、悪役時代のゲスト出演は珍しくないが、ディーンのように既に大スターになってから、しかも人気も活躍度も充分高かった時期のゲストは稀である。

日本語版吹替え[編集]

声の吹替えを担当した人物

羽佐間道夫/広川太一郎/宝田明/藤村有弘

脚注[編集]

  1. ^ ディーン・マーティン IMDb
  2. ^ アメリカWikipedia:Dean Martinより

外部リンク[編集]