田村元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。122.135.80.196 (会話) による 2016年3月3日 (木) 10:55個人設定で未設定ならUTC)時点の版であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

田村 元
たむら はじめ
答志島の桃取港修築記念碑に刻まれた田村元
生年月日 1924年5月9日
出生地 三重県松阪市
没年月日 (2014-11-01) 2014年11月1日(90歳没)
出身校 慶應義塾大学
所属政党自由党→)
自由民主党
称号 従二位
勲一等旭日桐花大綬章
三重県松阪市名誉市民
親族 父・田村稔

日本の旗 第66代 衆議院議長
在任期間 1989年6月2日 - 1990年1月24日

日本の旗 第48-49代 通商産業大臣
内閣 第3次中曽根内閣
竹下内閣
在任期間 1986年7月22日 - 1988年12月27日

日本の旗 第48代 運輸大臣
内閣 福田赳夫内閣
在任期間 1976年12月14日 - 1977年11月28日

日本の旗 第33代 労働大臣
内閣 第1次田中角栄内閣
在任期間 1972年7月7日 - 1972年12月22日

選挙区 三重県第2区
当選回数 14回
在任期間 1955年2月28日 - 1996年9月27日
テンプレートを表示

田村 元(たむら はじめ、1924年5月9日 - 2014年11月1日)は、日本政治家衆議院議員、第66代衆議院議長労働大臣運輸大臣通商産業大臣自由民主党国会対策委員長を歴任。

来歴・人物

三重県松阪市に生まれる。父親の稔は、弁護士出身で三重県議会議員を経て、1942年昭和17年)の翼賛選挙衆議院議員に当選した(田村稔は戦後に松阪市長となる梅川文男治安維持法違反で逮捕された際に弁護活動を行なっている。これは梅川が元の家庭教師をしていたという親しい関係であったことが理由であると思われる[要出典])。

旧制三重県立宇治山田中学校を経て、1950年(昭和25年)に慶應義塾大学法学部卒業後、三重交通勤務と中学校代用教員を経て、参議院議員の前田壌の秘書となる[1]1953年衆議院三重2区(当時)から立候補するが落選。1955年(昭和30年)の衆議院議員総選挙に再度立候補し、当時、最年少の30歳で当選した(当選同期に愛知揆一椎名悦三郎唐沢俊樹高村坂彦渡海元三郎丹羽兵助など)。

当初は大野伴睦派に所属し、自由党と日本民主党の保守合同の際には裏方として活動し、自由民主党が結党されると青年部長に就任。1960年(昭和35年)に建設政務次官1962年(昭和37年)に労働政務次官を務めた。

1964年(昭和39年)6月に大野が死去。その後派閥は村上勇派と船田中派に分裂し、田村は村上派に所属する。1972年(昭和47年)の佐藤栄作引退を受けての自由民主党総裁選挙では村上派を引き継いだ水田三喜男派をまとめ、田中角栄を支持し、第1次田中角栄内閣労働大臣として初入閣した。労相在任中に田中首相と労働界首脳の間の接着剤として会議を設けたり、週休二日制や定年の延長などの問題に取り組んだ。福田赳夫内閣では運輸大臣を務め成田空港開港に尽力した。

水田派から江崎真澄らと田中派入りするが、直後に田中が逮捕された時は、思わず「しまった!」との声を上げたと言われる。当初、二階堂進の側近を任じるも、次第に距離を置くようになり、派内で「田村グループ」を形成する。1982年に退陣表明した鈴木善幸首相の後継総裁選びでは鈴木、福田、二階堂による会談が行き詰まる中、無関係な国会対策委員長の田村が「中曽根総理・福田総裁」案を提示したが、これを拒否した中曽根が予備選で勝利。後に田村は「福田総裁なんてとんでもない、と思った角さん(田中角栄)が中曽根さんに『絶対に受けるな』と言って、中曽根さんが蹴ったというのが内幕だ」と明かしている[2]

田中は自分の派閥から竹下が独立したのを気に入らず、自分の派閥を田村に継がせて対抗させようと田村に打診したが、田中は返事をもらう前に脳梗塞で倒れたためこの話は立ち消えた。田中が脳梗塞で倒れたあと、竹下に協力を乞われて奥田敬和と共に中間派をまとめ竹下派に合流した。第3次中曽根内閣通商産業大臣に就任。続く竹下内閣でも留任した。竹下内閣辞任の後、総理の要請を受けるが断り、1989年平成元年)6月2日、予算案強行採決を巡る国会混乱の引責で原健三郎衆議院議長、多賀谷真稔副議長が辞任したことで、後任の衆議院議長に選出される。消費税導入に伴う衆議院の解散による第39回衆議院議員総選挙後、議長職は桜内義雄に回り、自民党最高顧問となる。1994年(平成6年)、死刑廃止を推進する議員連盟の初代会長に就任する。1996年(平成8年)の第41回衆議院議員総選挙には「自分は旧三重2区の人々に支持されてきたのであり、次の選挙で(今までの支持者を半分に)分けることは出来ない」と小選挙区制になることを嫌って出馬せず、政界を引退。甥の田村憲久が地盤を継承した。連続当選14回(中選挙区制でのトップ当選連続13回は三木武夫と並び最高記録)。2004年(平成16年)に松阪市名誉市民に選ばれる。国対委員長や衆院議長を歴任していたため与野党を問わず人望が厚かったことから、議員引退後は元国会議員で構成される前議員会の会長に選ばれ、長きに渡り会長を務めていた。

2014年(平成26年)11月1日、老衰のため死去[3][4]。90歳没。没後に従二位に叙され[5]、衆議院より弔詞が捧呈された[6]

エピソード

  • 自由党と日本民主党との合同の打ち合わせを、大野伴睦の命令で三木武吉などと交渉。自民党になる秘密会合を開く際は、両党の党首が同じ料亭で会っているのがマスコミにバレないよう、前後に建つ別々の料亭に入ってもらい、両境の塀を「あとできちんと弁償するから」と自らノコギリで壊し、表で待つ新聞記者に分からないように秘密の通路を作った[7]
  • 政治家を引退する時、中曽根康弘に「いつまでも年寄りがのさばっているのは良くない。俺と一緒に引退して、ここらで若い者に道を譲ろう」と呼びかけたら「嫌だ。俺は辞めん」と言われた[要出典]
  • 三重県鳥羽市神島や答志島では田村への感謝から島民がお金を出し合って田村の像を島に建てた。
  • ホトトギス』平成25年3月号に、稲畑汀子による選句が掲載された[8]
  • 田中角栄から金を受け取らなかったのは金丸、竹下、田村の3人だった。「だから(田中に)警戒された」と田中派幹部に言われた[9]

選挙歴

当落 選挙 施行日 選挙区 政党 得票数 得票率 得票順位
/候補者数
比例区 比例順位
/候補者数
第26回衆議院議員総選挙 1953年4月19日 三重県第2区 無所属 22,630 8.6 7/9 - -
第27回衆議院議員総選挙 1955年2月27日 三重県第2区 自由党 36,818 13.3 3/10 - -
第28回衆議院議員総選挙 1958年5月22日 三重県第2区 自由民主党 65,758 22.6 1/10 - -
第29回衆議院議員総選挙 1960年11月20日 三重県第2区 自由民主党 87,461 32.1 1/7 - -
第30回衆議院議員総選挙 1963年11月21日 三重県第2区 自由民主党 75,340 25.6 1/9 - -
第31回衆議院議員総選挙 1967年1月29日 三重県第2区 自由民主党 75,308 24.5 1/9 - -
第32回衆議院議員総選挙 1969年12月27日 三重県第2区 自由民主党 83,953 26.6 1/6 - -
第33回衆議院議員総選挙 1972年12月10日 三重県第2区 自由民主党 112,343 37.6 1/5 - -
第34回衆議院議員総選挙 1976年12月5日 三重県第2区 自由民主党 91,022 30.0 1/5 - -
第35回衆議院議員総選挙 1979年10月7日 三重県第2区 自由民主党 105,850 34.7 1/5 - -
第36回衆議院議員総選挙 1980年6月22日 三重県第2区 自由民主党 102,876 32.2 1/5 - -
第37回衆議院議員総選挙 1983年12月18日 三重県第2区 自由民主党 79,584 25.2 1/7 - -
第38回衆議院議員総選挙 1986年7月6日 三重県第2区 自由民主党 104,966 32.6 1/5 - -
第39回衆議院議員総選挙 1990年2月18日 三重県第2区 自由民主党 81,446 23.8 1/6 - -
第40回衆議院議員総選挙 1993年7月18日 三重県第2区 自由民主党 91,200 27.7 1/5 - -
当選回数14回 (衆議院議員14)

栄典

著書

  • 『政治家の正体』 講談社、1994年6月

関連人物

  • 田村憲久:自民党衆議院議員で甥。元厚生労働大臣。
  • 梅川文男:元の家庭教師をしていた。同じ中学の先輩にあたる。1957年に第6代松阪市長となる。
  • 盛山正仁:自民党衆議院議員で娘婿。元法務大臣政務官。

脚注

  1. ^ 『日本政治史に残る三重県選出国会議員』の220ページの記述。(著者)廣新二。出版年は1985年(昭和60年)三重県選出の自由民主党議員の「田村元」の項目。
  2. ^ 田村元衆院議長死去 政変で光った策士「タムゲン」東京新聞 2014年11月4日
  3. ^ 元衆院議長の田村元氏死去 当選14回「政界仕掛け人」 朝日新聞 2014年11月4日閲覧
  4. ^ 「タムゲン」の愛称…元衆院議長の田村元氏死去 読売新聞 2014年11月4日
  5. ^ 故田村元・元衆院議長に従二位 ウォール・ストリート・ジャーナル ジャパン 2014年11月18日閲覧
  6. ^ 平成26年11月18日本会議議事録 衆議院
  7. ^ 『政治家の正体』 [要ページ番号]
  8. ^ 正論』 2013年5月号 330ページ
  9. ^ 読売新聞 2014年11月5日
議会
先代
原健三郎
日本の旗 衆議院議長
第66代:1989年 - 1990年
次代
櫻内義雄
先代
竹下登
日本の旗 衆議院予算委員長
1979年 - 1980年
次代
小山長規
先代
内田常雄
日本の旗 衆議院大蔵委員長
1968年
次代
田中正巳
先代
森山欽司
日本の旗 衆議院建設委員長
1966年
次代
森下國雄
公職
先代
渡辺美智雄
日本の旗 通商産業大臣
第48・49代:1986年 - 1988年
次代
三塚博
先代
石田博英
日本の旗 運輸大臣
第48代:1976年 - 1977年
次代
福永健司
先代
塚原俊郎
日本の旗 労働大臣
第33代:1972年
次代
加藤常太郎
党職
先代
田沢吉郎
自由民主党国会対策委員長
第26代:1981年 - 1982年
次代
小此木彦三郎
その他の役職
先代
斎藤昇
三重県遺族会会長
第6代:1972年 - 2000年
次代
谷嘉昭