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ジョージ・ウェア

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ジョージ・ウェア
George Weah
リベリアの旗 第25代 リベリア共和国大統領
任期
2018年1月22日  2024年1月22日
副大統領ジュエル・テイラー英語版
前任者エレン・ジョンソン・サーリーフ
後任者ジョセフ・ボアカイ
個人情報
生誕 (1966-10-01) 1966年10月1日(59歳)
リベリアの旗 リベリアモンロビア
政党民主変革会議
ジョージ・ウェア
名前
愛称 リベリアの怪人
カタカナ ジョージ・マネー・オポング・ウェア
ラテン文字 George Manneh Oppong Weah
基本情報
国籍 リベリアの旗 リベリア
身長 185cm
体重 82kg
選手情報
ポジション FW/MF/DF /GK
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1981-1984 リベリアの旗 ヤング・サバイバーズ  ? (?)
1984-1985 リベリアの旗 ボング・レンジ・ユナイテッド 2 (1)
1985-1986 リベリアの旗 マイティ・バロール 10 (7)
1986-1987 リベリアの旗 インヴィンシブル・イレブン英語版 23 (24)
1987 コートジボワールの旗 アフリカ・スポール 2 (1)
1987-1988 カメルーンの旗 トネール・ヤウンデ 18 (14)
1988-1992 モナコの旗 モナコ 103 (47)
1992-1995 フランスの旗 パリ・サンジェルマン 96 (32)
1995-2000 イタリアの旗 ミラン 114 (46)
2000 イングランドの旗 チェルシー 11 (3)
2000 イングランドの旗 マンチェスター・シティ (loan) 7 (1)
2000-2001 フランスの旗 マルセイユ 19 (5)
2001-2003 アラブ首長国連邦の旗 アル・ジャジーラ 39 (30)
通算 444 (181)
代表歴2
1986-2002 リベリアの旗 リベリア 75 (18)
1. 国内リーグ戦に限る。2014年12月2日現在。
2. 2019年4月25日現在。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

ジョージ・マネー・オポング・ウェア英語: George Manneh Oppong Weah, 1966年10月1日 - )は、リベリアモンロビア出身の政治家、元サッカー選手。リベリアの第25代大統領。サッカー選手として同国代表に14年間にわたって選出され、「リベリアの怪人」と称された[1]

概要

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バロンドールの規定が改定されて最初の年である1995年にFIFA最優秀選手賞欧州最優秀選手賞を受賞。ゴールキーパーを含めたほとんどのポジションをこなす。高い身体能力とゴール決定力を誇り、ACミラン時代のラツィオ戦では一人スルーパスからゴールを決めたことも有名。また、96 - 97シーズンの開幕戦で自陣ペナルティエリア付近から約80メートルを相手ゴール前まで単独でドリブル突破した上でゴールを決めた際、翌日の地元紙は「サン・シーロUFO出現」の見出しを掲げた。

2005年の総選挙よりリベリア政界に進出し、2018年1月22日より大統領に就任した。ジョセフ・ボアカイとの選挙での抗争で知られるポピュリストとして、主に若者からの人気は根強い。

経歴

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モンロビア郊外のブッシュロッド島英語版クララ・タウン英語版で14人兄弟の3番目として生まれる。幼い時に父を失い、祖母に育てられた彼の最初の夢はモンロビアのテレフォンオペレーターになることだった。

サッカー選手として

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15歳の時に当時3部リーグ所属の地元のサッカークラブ、ヤング・サバイバーズと契約するとゴールキーパーとしてサッカーキャリアをスタートした。すぐに得点をすることへ楽しさを覚え、フォワードへ転向、30試合に出場し31得点を記録。チームを2部リーグに昇格させた。

その後1部リーグのクラブを経て、1986年にはリベリアで最高のチームであったインヴィンシブル・イレブン英語版へ移籍。このクラブではキャプテンを務め得点王も獲得して、カメルーンスカウトの目にとまり1987年に国外デビューを果たした。

1シーズンカメルーンで過ごしたウェアは、その後フランスASモナコへ移籍し、監督を務めていたアーセン・ヴェンゲルから、自らの子供の様に扱われ、成長を助けられた[2]。1991年にクープ・ドゥ・フランスをもたらすと、翌年にはチームをカップ・ウィナーズカップの決勝に導いた。1992年に移籍したパリSGでもチームをリーグ優勝に導くと、1995年には再びクープ・ドゥ・フランスをチームにもたらした。また、1994-95シーズンのUEFAチャンピオンズリーグでは通算7得点を決め、チームを準決勝まで導いた。しかし、パリサンジェルマンファンから人種差別を受けることもあった[2]

1995年アフリカ人として初のバロンドールを受賞し、同年にFIFA(国際サッカー連盟)選出の世界年間最優秀選手賞も受賞[3]。最後に自身3度目(89年、94年、95年)となるアフリカ年間最優秀選手賞と、この年の個人タイトルを総なめにした。

1995-96シーズンACミランへ加入すると、リーグ開幕節のパドヴァ戦で初ゴールとフランコ・バレージへのアシストを決める公式戦デビューを果たした[2]。このシーズン、得点だけでなくアシストも二桁以上を記する活躍[4]、チームはリーグ制覇を果たした。1996-97シーズンの開幕戦となった、エラス・ヴェローナ戦では自陣からドリブルでゴールを決めるなど[2]、多くの得点を決めた。驚異的な身体能力を誇り、「リベリアの怪人」と呼ばれた。1998-99シーズンにもリーグ優勝を果たしたが、その後は膝の怪我等も有り、1999-00シーズン途中にチェルシーFCに移籍。以降マンチェスター・シティFCマルセイユアル・ジャジーラと渡り歩き2002-2003シーズンをもって現役引退した。

リベリア代表として75試合に出場したが、FIFAワールドカップの本大会に出場することはできなかった。特に2002年大会のアフリカ予選では1位と勝ち点1差で惜しくも出場を逃した。

内戦で傷ついた祖国リベリアの為にジョージ・ウェア基金を設立するなどしてリベリアのユニセフ親善大使も務めた(大統領立候補の際、規定により一時的に大使を辞めている[5])。

2008年1月、日本バリエンテ郡山の総監督に就任した[6]。しかし、来日は就任会見時の1度のみで、シーズン開幕後に訪日することはなかった。同クラブは不祥事のため2008年シーズンをもって運営会社が解散。ウェアも事実上退任した。

政治家として

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サッカー選手引退後、アメリカフロリダ州ニューヨークで妻子と共に暮らしていたが、2005年の大統領選挙英語版民主変革会議 (CDC)候補として立候補。その際の遊説は、自身がエリート層出身者では無いと貧困層に訴えるポピュリズムそのものだった[3]。第1回目の選挙で最多得票を勝ち取ったものの過半数に満たなかったために、ウェアに次ぐ票を得たエレン・ジョンソン・サーリーフとの決選投票となり、他候補者との連合に成功したサーリーフに最終投票で敗北した[3]

2009年にアメリカからリベリアに帰国し、CDCのモンセラード郡の上院議員候補になるために政治活動を開始。2011年の大統領選挙英語版で現職のサーリーフに再び挑む意向を発表した。実際にはCDCのウィンストン・タブマン英語版がサーリーフに挑む事になり、タブマンは彼を副大統領候補に選んだ。結局はサーリーフが再選を果たしたが、政治家になる決意をさらに固めた。

2014年の上院議員選挙英語版にモンセラード郡から立候補し、12月20日の投開票でサーリーフの息子であるロバート・サーリーフを下し初当選。2017年の大統領選挙英語版に出馬し、10月10日の第1回目投票では得票率39%で1位となり、12月26日の決選投票では61.5%を得票、ジョセフ・ボアカイを下し当選した[7]。2018年1月22日に就任。副大統領は、シエラレオネ特別法廷で有罪となり収監中のチャールズ・テイラー (第22代大統領)の元妻であるジュエル・テイラー英語版であるが、テイラーの復権につながるとの懸念も出た[8]

2023年の大統領選挙英語版で再びボアカイと対決して僅差ながら敗北した[9]

人物

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ウェアはキリスト教プロテスタントの家で生まれているが、彼は1997年イスラム教に改宗し、名前も「ウスマン(Ousman)」と言うイスラム名で呼ばれ、10年間イスラム教徒としてイスラム教を学んだ。しかし、再びプロテスタンティズム精神を求め、彼が当時在住していたフランスで2007年に「自分はもうイスラム教徒ではない」と語り、イスラム教徒をやめ、元のプロテスタントに戻った。彼はキリスト教徒とイスラム教徒が平和になる事を願っており、彼らは一人だと言う。2017年10月に彼はナイジェリアでナイジェリアの著名なキリスト教伝道師の預言者T・B・ジョシュア英語版の主催の集会に出席した。そこにはリベリア国民愛国戦線元指導者のプリンス・ジョンソンがおり、一緒に並んでジョシュアと握手を交わしている。なおジョンソンはリベリア内戦の時、敵対していたサミュエル・ドウ(第21代大統領)を捕らえ殺害したが、その後、ナイジェリアに亡命し、キリスト教に目覚め、牧師となっており、2007年にジョシュアの仲介でジョンソンはドウの残された家族と和解している。2017年の大統領選でジョンソンはウェアを支持しており、ジョシュア仲介のナイジェリアでのジョンソンとの出会いが彼の2017年の大統領選への立候補に重要な影響を与えたと言われている。

フランス語が流暢に話せサッカー選手としてフランスのリーグに所属し長らくフランスに住んでいた事もある縁から、フランスの市民権も持っている。

家族

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ジャマイカ出身の妻クレア英語版との間に3人の子女がおり、2人の子息のジョージ英語版ティモシーはいずれもサッカー界に入っている。また、クレア以外の女性との間に1名の子女がいる。

個人成績

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国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグ リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
出場得点 出場得点出場得点 出場得点
フランス リーグ戦 F・リーグ杯フランス杯 期間通算
1988-89モナコD12314
1989-90175
1990-912910
1991-923418
1992-93パリ-SG3014
1993-943211
1994-95347
イタリア リーグ戦 イタリア杯オープン杯 期間通算
1995-96ミランセリエA2611
1996-972813
1997-982410
1998-99268
1999-00104
イングランド リーグ戦 FLカップFAカップ 期間通算
1999-00チェルシープレミア113
2000-01マンC71
フランス リーグ戦 F・リーグ杯フランス杯 期間通算
2000-01マルセイユD1195
UAE リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
2001-02アル・ジャジーラ
2002-03
通算フランスD1 21884
イタリアセリエA 11446
イングランドプレミア 184
UAE
総通算

個人タイトル

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脚注

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  1. ジョージ・ウェア氏の息子がPSGからレンタルへ…セルティック加入か”. サッカーキング (2018年12月26日). 2020年11月10日閲覧。
  2. 1 2 3 4 Ispirare una generazione: la leggenda di George Weah”. GOAL (2022年10月14日). 2023年8月8日閲覧。
  3. 1 2 3 スティーヴ・ブルームフィールド『サッカーと独裁者 アフリカ13か国の「紛争地帯」を行く』白水社、2011年、229-231頁。
  4. GEORGE WEAH 1995-96 Season”. Transfermarkt. 2023年8月8日閲覧。
  5. George Weah has temporarily stepped aside from his role with UNICEF
  6. “バリエンテ郡山の総監督にウェア氏”. ゲキサカ. (2008年1月11日) 2022年5月25日閲覧。
  7. “リベリア大統領選、元サッカー選手のウェア氏が勝利”. AFP通信. フランス通信社. (2017年12月29日) 2022年5月25日閲覧。
  8. “リベリアで大統領選決選 元サッカー選手と副大統領”. 日本経済新聞. (2017年12月26日) 2022年5月25日閲覧。
  9. “リベリア大統領選挙について(外務大臣談話)”. 外務省. (2023年11月24日) 2024年2月2日閲覧。

関連項目

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外部リンク

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