歌舞伎

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安政年間の市村座
三代目歌川豊国 画『踊形容江戸繪榮』大判錦絵三枚続物。安政5年7月(1858年)江戸市村座上演の『』を描いたもの。
芝居小屋の詳細については「劇場」項の「歌舞伎」節を参照)

歌舞伎(かぶき)は、日本固有の演劇で、伝統芸能の一つ。重要無形文化財(1965年4月20日指定[1])。世界無形遺産(2009年9月登録)。

語源

歌舞伎という名称の由来は、「傾く」(かたむく)の古語にあたる「傾く」(かぶく)の連用形を名詞化した「かぶき」だといわれている[2]戦国時代の終わり頃から江戸時代の初頭にかけて江戸で流行した、派手な衣装や一風変った異形を好んだり、常軌を逸脱した行動に走ることを指した語で、特にそうした者たちのことを「かぶき者」とも言った[3]

そうした「かぶき者」の斬新な動きや派手な装いを取り入れた独特な「かぶき踊り」で、慶長年間(1596年 - 1615年)に京・江戸で一世を風靡したのが出雲阿国である。慶長8年(1603年)京都で始めたと言われる[4]。その後阿国を模倣したさまざまな踊りが世に出たが、その多くが「かぶき踊り」の範疇で受け取られた。これが今日に連なる伝統芸能「かぶき」の語源となっている。

この「かぶき」に「う芸」の意から「歌舞妓」と当て字したのはその後のことだった。寛永6年(1629年)に女歌舞伎が禁止されると[4]芸妓に連なる「妓」の字に代わって伎楽に連なる「伎」の字を用いた「歌舞伎」の表記が見られるようになるが、江戸時代を通じてこの「歌舞妓」と「歌舞伎」は混用されていた。これが現在のように「歌舞伎」に落ち着いたのは明治になってからのことである。

歴史

江戸時代の歌舞伎

出雲阿国

歌舞伎の元祖は、慶長8年(1603年)に北野天満宮で興行を行い、京都で評判となった出雲阿国といわれている。阿国は出雲大社巫女だったとも河原者でもあったというが、定かではない。阿国はその時代の流行歌に合わせて、踊りを披露し、また、男装して当時のかぶき者の振る舞いを取り入れて、当時最先端の演芸を生み出した。この頃の歌舞伎は能舞台で演じられており、現在の歌舞伎座をはじめとする劇場で見られる花道はまだ設置されていなかった。[5]

阿国が評判になると多くの模倣者が現れ、遊女が演じる遊女歌舞伎女歌舞伎)や、前髪を剃り落としていない少年の役者が演じる若衆歌舞伎が行なわれていたが、風紀を乱すとの理由から前者は寛永6年(1629年)に禁止され、後者も売色の目的を兼ねる歌舞伎集団が横行したことなどから慶安5年(1652年)に禁止されて[4]、現代に連なる野郎歌舞伎となった。そのため、歌舞伎では男性役も女性役もすべて男優が演じる。それは江戸時代の文化の爛熟の中で洗練されて完成し、独特の美の世界を形成するに至っている。

江戸時代の歌舞伎は、その成立の過程からは歌舞伎踊り歌舞伎劇に分けられる。歌舞伎踊りは若衆歌舞伎までの歌舞伎を指すもので、この頃は流行の歌に合わせた踊りが主体だった。若衆歌舞伎ではさらに飛躍した軽業なども見せていた[6][7]。一方その後の歌舞伎に見られるようになった歌舞伎劇では、踊りの要素を備えながらも演劇が主体となった。これは若衆歌舞伎が禁止される際に、江戸町奉行所から「物真似狂言づくし」を義務付けられたことがその一因ともなっている。演目の内容は史実や物語などを題材にしたものが主流となり、これがやがて歌舞伎狂言と呼ばれるようになってゆく。

歌舞伎の舞台は本来能舞台をもとにした構造だったが、時代が下ると客席を貫いて歌舞伎役者が登場・退場する花道が付き[8]、舞台の幅を広げ、享保2年(1717年)には観客の座る場にも屋根を設けて舞台とひとまとまりの建物になり[9]、能舞台からは離れた形に発展していった。また能では用いられない引き幕によって場面を区切るという演出は、話の筋に時の流れを自然に導入して複雑な劇の展開を可能にし、花道によって他の演劇には見られないような二次元性(奥行き)を、また迫りによって三次元性(高さ)を獲得し、廻り舞台によって場面の転換を図る高度な演劇へと進化した。

江戸時代前期の元禄時代には「西の藤十郎・東の團十郎」と江戸にも名優が登場し、江戸歌舞伎の萌芽が見て取れる。京の坂田藤十郎は細やかな情を表現する和事芸を、そして江戸の初代市川團十郎は猛々しい荒事芸をそれぞれ創始し、江戸の荒事と上方の和事という今日まで受け継がれる芸風の違いが生じた。

近松門左衛門が大坂・竹本座の座付作者となると[10]、上方を中心として人形浄瑠璃が全盛となり、上方では歌舞伎は低迷した。その後、宝暦天明寛政になると、上方歌舞伎では女形による舞踊が登場し、初代桜田治助初代並木五瓶の作品が人気を呼んだ。また宝暦年間には初代並木正三によって回り舞台が発明された[11]

安土桃山時代から江戸時代後期の文化文政時代までは、京・大坂が歌舞伎の中心だった。それは上方が中心だった人形浄瑠璃から書き換えられた演目の数からもわかる。 文化文政時代になると、四代目鶴屋南北が『東海道四谷怪談』(四谷怪談)や『於染久松色読販』(お染の七役)など、江戸で多くの作品を創作し[12]、江戸歌舞伎のひとつの全盛期が到来する。天保年間になって大南北や人気役者が次々に死去し、また天保の改革の一貫として堺町・葺屋町・木挽町に散在していた江戸三座と操り人形の薩摩座・結城座が一括して外堀の外[13]に移転させられたり[14]五代目市川海老蔵が贅沢禁止令違反などの理由で江戸所払いになったり[15]したため、一時退潮を見せた。しかし江戸三座が猿若町という芝居町に集約されたことで逆に役者の貸し借りが容易となり、また江戸市中では時折悩まされた火事延焼による被害も減ったため、歌舞伎興行は安定を見せ、これが結果的に江戸歌舞伎の黄金時代となって開花した。またその後幕末から明治の初めにかけては、二代目河竹新七(黙阿弥)が『小袖曾我薊色縫』(十六夜清心)、『三人吉三廓初買』(三人吉三)、『青砥稿花紅彩画』(白浪五人男)、『梅雨小袖昔八丈』(髪結新三)、『天衣紛上野初花』(河内山)などの名作を次々に世に送り出し、これが明治歌舞伎の全盛へとつながった。[16]

江戸時代には歌舞伎は単に芝居と、出演者は役者と、劇場は小屋と呼ばれた。歌舞伎役者らは伝統的に「河原者」(賎民)として身分上は差別された[17]ものの、各地への通行には逆に便宜を与えられた。武家では幕府に倣って芝居見物を多くの藩で禁止したものの、実際には連日にぎわう芝居小屋に多くの武家が足を運んだ。

明治以降の歌舞伎

明治になっても相変わらず市民の歌舞伎への人気は高かったが、日本国外の演劇事情を知った知識人などからは、その内容が文明国にふさわしくないのではないかという声も上がるようになった。歌舞伎では物語の背景や人物設定が決して簡単明瞭なものではなく、また内容も仇討ちお家騒動心中立などといった「前近代的」なものが多く、しかも盗賊侠客悪家老などを讃美するものあり、筋書きも荒唐無稽、そしてそれを宙乗りや早替わりなどといった外連(けれん)の演出で補うなどというのは、(彼らが信じる西洋式の)演劇の本来あるべきかたちをないがしろにするものではないか、といった批判が噴出したのである。

確かに歌舞伎はある程度の基礎知識がないと物語の背景や人物設定が分かりにくいところがある。「見取り狂言」仕立ての興行で発達した歌舞伎では、複数の演目から人気の場や幕をのみを拾って見せるのが通常である。また仮に「通し狂言」を上演したとしても、そもそも歌舞伎には一日のうちに時代物世話物、荒事と和事、狂言と舞踊といった相対する分野をくまなく網羅するという決まり事があるため、例えば江戸の遊郭の遊女たちが羨望する粋でいなせな美男の助六が実は姿を変えて父の仇討ちの機会を待つ武士の曾我五郎鎌倉時代に実在した人物)だったりする必然性があった。こうした歌舞伎を愛する者にとっては当たり前な設定は、洋行帰りの知識人にとっては奇妙奇天烈な展開にしか見えなかった。そしてそもそも作者と役者の双方が演出家の役割を兼ね、さらに「お家芸」という口伝がものをいう歌舞伎は、脚本家・演出家・俳優の役割が明確に分担されている西洋演劇を見慣れた者たちには混沌と混乱にしか見えなかった。

様々な批判を受けて、演劇改良運動と呼ばれる歌舞伎様式の改良運動が起こった。これは明治政府の文明国の上流、中流階級が観劇するにふさわしい演劇の成立を目指す目論見とも重なり、政治家を巻き込んだ運動となった。この運動のひとつの成果として、現在につながる歌舞伎座の開場がある。また新派と呼ばれる、日本の新しい演劇形式が成立した。

このような運動の中で創作された歌舞伎演目は、最初、河竹黙阿弥らの旧来の作者や福地桜痴ら文化人によって、歴史的事実をありのままに演じる活歴物や、西洋風の新しい風俗を描いた散切物などが創られたが成功しなかった。その後、俳優の芸よりも脚本を主体とした新歌舞伎と呼ばれる多くの作品が昭和の戦前にかけて生まれた。それらには、坪内逍遥の『桐一葉』、岡本綺堂の『修善寺物語』『鳥辺山心中』などがある。

また、明治の名優九代目市川團十郎五代目尾上菊五郎が古典の型を整備。大正には二代目市川左團次が埋もれていた古典の復活を行い、上方では初代中村鴈治郎が和事の芸を大成するなど、従来の作品の見直しも行なわれた。昭和には六代目尾上菊五郎初代中村吉右衛門十五代目市村羽左衛門二代目實川延若三代目中村梅玉など多くの名優が活躍し、今日の歌舞伎に大きな影響を与えた。

その一方では、従前からの梨園封建的なあり方に疑問を呈する形で二代目市川猿之助春秋座結成に始まり、ついに歌舞伎界の封建制的な部分に反発して昭和6年(1931年)には四代目河原崎長十郎三代目中村翫右衛門六代目河原崎國太郎らによる前進座が設立された[18]

第二次大戦後の歌舞伎

太平洋戦争大東亜戦争)の激化に伴い、劇場の閉鎖や上演演目の制限など規制が行なわれ、歌舞伎の興行も困難になり、戦災による物的・人的な被害も多かった。

終戦後、GHQは日本の民主化と軍国主義化の払拭との理由から「仇討ち物」や「身分社会を肯定する」の演目の上演を禁止した。しかし、マッカーサーの副官バワーズの進言で、古典的な演目の制限が解除され、昭和22年(1947年)11月、東京劇場で東西役者総出演による『仮名手本忠臣蔵』の通し興行が行われた。

1950年代、人々の生活に余裕が生まれ、娯楽も多様化し始めた。プロ野球やレジャー産業の人気上昇、映画やテレビ放送の発達が見られるようになり、歌舞伎が従来のように娯楽の中心ではなくなってきた。そして歌舞伎役者の映画界入り、関西歌舞伎の不振、小芝居が姿を消すなど歌舞伎の社会にも変動の時代が始まった。

そのような社会の変動の中、昭和37年(1962年)の十一代目市川團十郎襲名から、歌舞伎は人気を回復する。役者も團十郎のほか、六代目中村歌右衛門二代目尾上松緑二代目中村鴈治郎十七代目中村勘三郎七代目尾上梅幸八代目松本幸四郎十三代目片岡仁左衛門十七代目市村羽左衛門などの人材が活躍。国内の興行も盛んとなり、欧米諸国での海外公演も行われた。

戦後の全盛期を迎えた1960年代 - 1970年代には次々と新しい動きが起こる。特に明治以降、軽視されがちだった歌舞伎本来の様式が重要だという認識が広がった。昭和40年(1965年)に芸能としての歌舞伎が重要無形文化財に指定され(保持者として伝統歌舞伎保存会の構成員を総合認定)、国立劇場が開場し、復活狂言の通し上演などの興行が成功する。その後大阪には映画館を改装した大阪松竹座、福岡には博多座が開場し歌舞伎の興行はさらに充実さを増す。さらに、三代目市川猿之助は復活狂言を精力的に上演し、その中では一時は蔑まれたケレンの要素が復活された。猿之助はさらに演劇形式としての歌舞伎を模索し、スーパー歌舞伎というより大胆な演出を強調した歌舞伎を創り出した。また近年では、十八代目中村勘三郎によるコクーン歌舞伎平成中村座の公演、四代目坂田藤十郎などによる関西歌舞伎の復興[19]などが目を引くようになった。また歌舞伎の演出にも蜷川幸雄野田秀樹といった現代劇の演出家が迎えられるなど、新しいかたちの歌舞伎を模索する動きが盛んになっている現代の歌舞伎公演は、劇場設備などをとっても、江戸時代のそれと全く同じではない。その中で長い伝統を持つ歌舞伎の演劇様式を核に据えながら、現代的な演劇として上演していく試みが続いている。このような公演活動を通じて、歌舞伎は現代に生きる伝統芸能としての評価を得るに至っている。

歌舞伎は、ユネスコ無形文化遺産保護条約の発効以前[20]2005年平成17年)に「傑作の宣言」がなされ、「人類の無形文化遺産の代表的な一覧表」に掲載され、世界無形遺産に登録されることが事実上確定していたが、2009年(平成21年)9月の第1回登録で正式に登録された。

歌舞伎狂言

明治28年(1895年)11月、東京歌舞伎座上演の『』(中央で見得を切るのは九代目市川團十郎の鎌倉権五郎)

現在に伝わる江戸時代に創作された歌舞伎狂言の演目は、人形浄瑠璃の演目を書き換えたものと、歌舞伎狂言として創作されたものに大別される。人形浄瑠璃の演目を書き換えたものは、丸本物[21]義太夫物義太夫狂言でんでん物[22]などと呼ばれる。一方、歌舞伎狂言として創作されたものは、純歌舞伎[23]と呼ばれる。

内容としては、時代物世話物に大別される。時代物とは、江戸時代より前の時代に起きた史実を下敷きとした実録風の作品[24]や、江戸時代に公家・武家・僧侶階級に起きた事件を中世以前に仮託した作品をいう[25]。一方、世話物とは、江戸時代の市井の世相を描写した作品をいう[26]

また歌舞伎には世界と呼ばれる類型がある。これは物語が展開する上での時代・場所・背景・人物などの設定を、観客の誰もが知っているような伝説や物語あるいは歴史上の事件などの大枠に求めたもので[27]、「曾我物」「景清物」「隅田川物」「義経物(判官物)」「太平記物」「忠臣蔵物」などといった世界には、それぞれ特有の約束ごとが設定されている。観客はそうした世界の中で狂言作者がどのように物語を展開させるかを楽しむようになった。

江戸時代の歌舞伎は日の出から日没まで上演した[28]。これは当時の芝居小屋では天窓から照明の明かりをとらざるを得なかったため(歌舞伎の夜間上演が行われるようになったのは明治初年になってガス灯が使われるようになってからのことである)。朝方から夕刻までやっている歌舞伎は江戸っ子にとって一日がかりの娯楽であり、そのためもあって当時書かれた演目には概ね長大なものが多い。歌舞伎は必然的に、時代物を好む客も世話物を好む客も、一日の中でどんな客をも楽しませるような形態に進化していった。歌舞伎ではひとつの演目であっても時代物と世話物が幕間をはさんで交互に現れるといった、複雑な物語の展開を見せるものが少なくないのはこのためである。しかし江戸時代も後期になると、このようにひとつの演目だけを通して上演すること(通し狂言[29]は稀となり、一日の中で二つ以上の演目の人気場面をつなぎ合わせて上演すること(ミドリ見取り[30]が一般化した。これが今日にも連なる歌舞伎独特の上演形態となっている。昭和のはじめごろまでは、演目を並べるときに「一番目」(時代物)、「中幕」[31](所作事または一幕物の時代物)、「二番目」(世話物)と呼ぶ習慣があったが、現在では行われていない。

歌舞伎音楽

歌舞伎には、多彩な音楽が用いられる。これは「歌舞伎」が本来、最初から劇として作られた演目、人形浄瑠璃を原作とした演目、さらには舞踊といったさまざまの種類の舞台を総称したものであり、各分野に適応した音楽が存在するためである。大きく分けて(1) 歌物である長唄と、(2) 語り物である浄瑠璃がある。

長唄
歌舞伎の伴奏音楽として発達した音楽。舞踊劇や舞踊で演奏される(例:『勧進帳』『連獅子』など)。また囃子方と共に下座音楽(後述)を担当する。
義太夫節
人形浄瑠璃は、義太夫節(浄瑠璃の一種)の演奏に合わせて劇が進行する構成であり、歌舞伎でも人形浄瑠璃から移入した演目(『義経千本桜』『仮名手本忠臣蔵』など)は同様に義太夫節が演奏される。人形浄瑠璃では登場人物の台詞と状況説明を全て義太夫節の太夫(語り手)が行うが、歌舞伎での台詞は基本的に役者が担当し、太夫は状況の説明のみを語ることになる。このため、歌舞伎における義太夫節を「竹本」(チョボ)といって区別することがある。義太夫狂言での義太夫節は主に舞台上手上部にある専用の場所で演奏される。この場所を「床(ゆか)」または「チョボ床」と呼ぶ[32]
常磐津節・清元節
共に浄瑠璃の一つ。大坂で発展した義太夫節に対し、これらは江戸で発展したもので「江戸浄瑠璃」と呼ばれる[33] 。重厚な義太夫節に比べて軽妙洒脱な芸風が特徴で、清元節は更に繊細な持ち味を備える。舞踊劇や舞踊で演奏される。それぞれ、常磐津節清元節を参照(常磐津節『関の扉』『戻駕』、清元節『落人』『保名』など)。
その他
上記の他、大薩摩節河東節[34]新内節などが使われる演目がある。江戸浄瑠璃の一つである富本節(常磐津節と清元節の系譜の中間に位置する)は江戸時代に盛んに用いられたが、近代以降は衰退し、現在では歌舞伎の伴奏として演奏されることはない。
下座音楽
「黒御簾音楽」ともいい[2]、劇中音楽を担当し、「黒御簾(くろみす)」と呼ばれる舞台下手脇の専用の場所で伴奏音楽や効果音を演奏する。効果音では、太鼓を使った水辺を表す音や鉦による寺院の鐘の音など、楽器を使ってさまざまな効果を表す[2]

長唄は舞台の正面または上手に雛段を設け、そこに出囃子とともに並んで演奏する[35]。義太夫節の床以外での演奏は出語りという。常磐津や清元は山台という台に上がって演奏するが、山台はふつう常磐津だと舞台下手に、清元は舞台上手に置かれる[36](ただし清元の山台も本来は舞台下手に置くものだったという)。各流派の演奏はひとつの演目の中で単独で行うとは限らず、異なる音曲が順番に演奏を担当するものや、合奏するものがある。たとえば『京鹿子娘道成寺』では初めに義太夫が語り、次に長唄が演奏する。また舞踊劇『紅葉狩』では常磐津節、長唄、義太夫節が合奏しこれを三方掛合(さんぼうかけあい)という[37]。長唄や浄瑠璃各流派は、歌舞伎公演のほか日本舞踊の伴奏や単独での演奏会も行われている。

外題と通称

歌舞伎の演目の題名のことを外題(げだい)という。「芸題」(げいだい)が詰まって「げだい」になったとする説もあるが、古代から中世にかけては絵巻物の外側に書かれた短い本題を「外題」、内側に書かれた詳題を「内題」と言っており、これが起源だとする説もある。

外題はもともと上方歌舞伎の表現で、江戸歌舞伎では名題(なだい)といっていた[38]。こちらにも「内題」(ないだい)が詰まって「なだい」になったとする説があり、上方の「外題」と江戸の「名題」で対になることが、絵巻物起源説の根拠となっている。

外題には縁起を担いで伝統的に「割りきれない」奇数の字数が好まれる。このため『義経』や『四谷怪談』のようにどうやっても割れてしまう字数には、あえて「千本櫻」や「東海道」などの奇数の字を付け足して『東海道四谷怪談』や『義経千本櫻』などいった長い外題とした。しかも作者や興行主は当て字や当て読みを駆使してを競ったので、外題には凝った漢字5文字か7文字のものに長大な読みを無理に付けたものが多く、今日のわれわれから見ると字面だけでは何と読めば良いのか分らないようなものある。このため5文字以上の外題がついた演目には、より親しみやすい通称がついていることが多い。

  • 都鳥廓白波(みやこどり ながれの しらなみ) →『忍の惣太』(しのぶの そうた)
  • 大塔宮曦鎧(おおとうのみや あさひの よろい) →『身替り音頭』(みがわり おんど)
  • 慙紅葉汗顔見勢(はじ もみじ あせの かおみせ) →『伊達の十役』(だての じゅうやく)
  • 刈萱桑門筑紫𨏍(かるかや どうしん つくしの いえづと) →『刈萱同心』(かるかや どうしん)
  • 青砥稿花紅彩画(あおとぞうし はなの にしきえ) →『白浪五人男』(しらなみ ごにんおとこ)
  • 与話情浮名横櫛(よはなさけ うきなの よこぐし) →『切られ与三』(きられ よさ)
  • 蘆屋道満大内鑑(あしやどうまん おおうち かがみ) →『葛の葉』(くずのは)

また歌舞伎は通し狂言として上演されることが稀で、通常は各演目の中から人気のある場(など)のみが単独で上演されるが、その場合、外題でも通称でもその場面本来の名称でもない、全く別の通称が用いられることがある。

  • 絵本太功記(えほん たいこうき)十段目「尼ヶ崎閑居の場」 →『太十』(たいじゅう)
  • 心中天網島(しんじゅう てんの あみじま)二段目「天満紙屋内の場」→『時雨の炬燵』(しぐれの こたつ)
  • 国性爺合戦(こくせんや かっせん)二段目「獅子ヶ城楼門の場」→『楼門』(ろうもん)
  • 楼門五三桐(さんもん ごさんの きり)二幕目返し「南禅寺山門の場」→『山門』(さんもん)
  • 平家女護島(へいけ にょごがしま)二段目切「鬼界が島の場」→『俊寛』(しゅんかん)
  • 恋飛脚大和往来(こいびきゃく やまと おうらい)二段目「新町井筒屋の場」→『封印切』(ふういんきり)
  • 義経千本桜(よしつね せんぽん ざくら)四段目「道行初音旅の場」→『吉野山』(よしのやま)、四段目切「河連法眼館の場」→『四ノ切』(しのきり)

なお返し(返し幕)とはいったん幕を引くが幕間を設けず、鳴り物などで間をつなぎ用意が出来次第すぐに次の幕を開けること[39]とは義太夫狂言のその段の最後の場面のことで[40]、すなわち『四ノ切』とは四段目の最後の場のことをいう。『義経千本桜』の四段目の切はケレンを使った派手な演出が有名な人気の場面で、これが上演されることが特に多かったことから、ただ「四ノ切」と言えばこの場面を指すようになった。

歌舞伎に由来する語

  • 大向うをうならす(うならせる) - 大向うに座る目の肥えた芝居の見物客の賞讃を博する。転じて、人々の人気を集める。
  • 差金(さしがね) - 蝶や鳥などを舞台上で表現する場合に、小道具で創り、後見(舞台上で補佐する役。黒衣のときもある)が長い棒にさして動かす[41]。この小道具一式を差金と呼ぶ。また人形浄瑠璃でも人形を動かす部分に差金と呼ばれる部分がある。
黒衣
  • 黒衣(くろこ) - 表には出ないものの、なくてはならない存在。縁の下の力持ち。ただし「黒子」「くろこ」は共に誤用が定着した慣用で、正しい表記は「黒衣」読みは「くろご」。黒装束に黒頭巾を着用し、舞台上で役者の介添や小道具を操作する者のことをいう。
  • 黒幕(くろまく) - 歌舞伎の黒幕は通常夜を表すために用いるが[41]、人形浄瑠璃の黒幕は舞台を操る者をその陰に隠すために用いる。そこから歌舞伎でも、舞台裏から影響力を行使して舞台を操る興行主・金主(投資者)・芝居茶屋などのことを「黒幕」と呼ぶようになった。そもそも黒という色に悪の意味を絡ませるのは近代になってからの連想で、当時はむしろ御公議の「幕府」「幕閣」や大相撲の「幕内」などの語にみられるように、「幕」という語には「中に立ち入り難く、様子が見えにくい」という語感があった。ここから「外部の者には実情がよく分からない」という意味で、今日の「政界の黒幕」のような使われ方がされるようになったと考えられている。
  • 二枚目(にまいめ)・三枚目(さんまいめ) - 一座を構成する配役の番付の上で、思慮分別をわきまえた貫禄のある役を務める立役看板役者を「一枚目」、美男で人気が高い若衆役を務める役者を「二枚目」、面白おかしい役を務める道外方を「三枚目」に掲げていたことが語源。現代でも日常的に用いられる言葉として残っている。
  • 幕切れ(まくぎれ)・大詰(おおづめ) - それぞれの場(幕)の終わりに引き幕が閉まることを幕切れ、江戸歌舞伎の一番目の最後の幕を大詰と言った。現在でも「さしもの事件もあっけない幕切れとなった」、「ペナントレースも大詰めを迎えた今週」のように使用される。
  • 千両役者(せんりょうやくしゃ) - 名優と呼ばれる歌舞伎役者の収入は1000両を超えたことから、転じて素晴らしく活躍した人の意味。女形では初代芳澤あやめ正徳年間1711年 - 1715年)に、立役では二代目市川團十郎享保6年(1721年)に、初の年給1000両を得たという。
  • 十八番(おはこ、じゅうはちばん) - 市川家が得意演目の歌舞伎十八番の台本を桐の箱に入れて保管したことが語源となっている。

伝統歌舞伎保存会

社団法人伝統歌舞伎保存会は歌舞伎関係者のうち技能に優れたものを会員として構成されている団体。会員は重要無形文化財「歌舞伎」の保持者として総合認定を受けている[1]。2007年10月25日現在の会員数は162名。

劇団前進座

毎年5月の国立劇場公演を中心に、京都南座での初春公演、2月大阪国立文楽劇場公演、初春と秋の前進座劇場公演、秋の名古屋公演など都市部のみならず、地方での巡業公演も積極的に行なっている。公演は歌舞伎のみならず、歴史劇、現代劇や子ども向けミュージカルなど多彩。

地芝居

専門の演者による公演の他、地域住民が祭礼の奉納行事などとして江戸時代以来の伝統に則った芝居が日本各地で上演されている。これらを地芝居と呼び、歌舞伎と人形浄瑠璃のどちらかかが演じられる事が多い。歌舞伎では農村で行なわれる芝居(農村歌舞伎)や都市における曳山の上で芝居(曳山祭り)等がある。地芝居における演目の多くは専業の演者による公演と重なり、その影響が強く見られる。しかし中にはその地域独自の演目を備えるなど、個性的な発展を見せている公演も存在する。

関連項目

一覧
周辺文化

関連図書

出典・補注

  1. ^ a b 同日文化財保護委員会告示第18号「無形文化財を重要無形文化財に指定する等の件」
  2. ^ a b c 日本大百科全書(小学館)、歌舞伎の項
  3. ^ 日本国語大辞典(小学館)、歌舞伎者の項
  4. ^ a b c 国史大辞典(吉川弘文館)、歌舞伎の項
  5. ^ 『江戸歌舞伎集』(『新日本古典文学大系』96 1997年、岩波書店)の430頁「元禄期の江戸の舞台」。
  6. ^ 新版 歌舞伎事典(平凡社)
  7. ^ なお歌舞伎踊りにはその後に発達した踊り主体の演目も含める場合もある( →「歌舞伎舞踊」項も併せて参照)。
  8. ^ 日本大百科全書(小学館)、歌舞伎の項、歌舞伎の歴史、第2期。1666年、歩み板が客席を貫くように設置された。
  9. ^ 日本大百科全書(小学館)、歌舞伎の項、歌舞伎の歴史、第2期。
  10. ^ 国史大辞典(吉川弘文館)、近松門左衛門の項。
  11. ^ 日本大百科全書(小学館)、回り舞台の項。
  12. ^ 日本国語大辞典(小学館)、鶴屋南北の項。
  13. ^ 浅草聖天町。丹波園部藩下屋敷を収公した跡地。現在の浅草六丁目一帯。
  14. ^ 日本大百科全書(小学館)、猿若町の項。
  15. ^ 誰でも読める日本史年表(吉川弘文館)
  16. ^ 国史大辞典(吉川弘文館)、河竹黙阿弥の項。
  17. ^ 盛田嘉徳『中世賤民と雑芸能の研究』雄山閣出版、1994年2月5日 ISBN 9784639004363
  18. ^ 大辞泉(小学館)、前進座の項。
  19. ^ 平成17年(2005年)、三代目中村鴈治郎が、231年ぶりの上方歌舞伎の大名跡・坂田藤十郎を襲名した。
  20. ^ 2003年(平成15年)のユネスコ第32回総会において採択され、2006年(平成18年)4月に発効した。
  21. ^ 日本国語大辞典(小学館)
  22. ^ 日本芸術文化振興会 歌舞伎辞典「義太夫狂言」(2011年11月24日閲覧)
  23. ^ 日本芸術文化振興会 歌舞伎辞典「純歌舞伎」(2011年11月24日閲覧)
  24. ^ 国史大辞典(吉川弘文館)、時代物の項
  25. ^ kotobank「時代物」(2011年11月24日閲覧)
  26. ^ 国史大辞典(吉川弘文館)世話物の項
  27. ^ 須永朝彦氏『歌舞伎ワンダーランド』「世界 ― 予め設定される時間と人物」、新書館、1990年
  28. ^ 国史大辞典(吉川弘文館)、歌舞伎の項。歌舞伎は俗に「一番太鼓二番鶏」と言われ、早朝に始まった。劇場の一番太鼓は鶏が時を作るころだという意味である。
  29. ^ 日本国語大辞典(小学館)、通狂言の項。
  30. ^ 日本大百科全書(小学館)、通し狂言の項。「選り取り見取り」から。
  31. ^ 日本国語大辞典(小学館)
  32. ^ 日本大百科全書(小学館)、竹本の項
  33. ^ 大辞泉(小学館)、江戸浄瑠璃の項。
  34. ^ 国史大辞典(吉川弘文館)河東節の項、
  35. ^ 日本大百科全書(小学館)、長唄の項、沿革〔2〕
  36. ^ 日本大百科全書(小学館)、山台の項
  37. ^ 日本国語大辞典(小学館)、三方掛合の項
  38. ^ 新版 『歌舞伎事典』(平凡社)、外題の項。
  39. ^ 日本国語大辞典(小学館)、返幕の項。
  40. ^ 日本国語大辞典(小学館)、切・限の項、2-5-ハ。
  41. ^ a b 大辞林(三省堂)

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