元禄赤穂事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索

元禄赤穂事件(げんろくあこうじけん)は、江戸時代中期の元禄期に発生した赤穂浪士にまつわる事件。

元禄14年3月14日西暦1701年4月21日)に播磨赤穂藩主の浅野長矩(内匠頭)が、高家旗本吉良義央(上野介)に対して江戸城殿中において刃傷に及ぶも失敗し、殿中抜刀の罪で即日切腹・赤穂藩改易となったが、浅野の遺臣である大石良雄(内蔵助)以下、赤穂浪士47名(四十七士)が翌元禄15年12月14日1703年1月30日)深夜に吉良屋敷に討ち入り、主君が討ち漏らした吉良義央を討った事件である。

この事件は一般に「忠臣蔵」としても知られているが、この名称は本件を題材とした人形浄瑠璃歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』の通称、およびそこから派生したさまざまな作品群の総称であり、本来は本件自体を指す語ではない。

年賀の挨拶[編集]

江戸幕府において5代将軍徳川綱吉は、比較的朝廷への慣例を重くおいていたといわれ、毎年、朝廷への年賀の使者を参内すると同時に、朝廷からの返礼として勅使院使の江戸下向が毎年行われ、勅使・院使の接待として幕府は饗応役を設置し中小大名にその役目を命じた。饗応役の費用負担はかなりのものであったと言われている。

勅使・院使の江戸下向[編集]

江戸城外観

元禄14年1月28日1701年2月24日)、東山天皇への将軍徳川綱吉の「年賀の挨拶」として高家筆頭の吉良義央が京に遣わされた。その返礼に東山天皇の勅使として柳原資廉(前の権大納言)、高野保春(前の権中納言)が、また霊元上皇院使として清閑寺熈定(前の権大納言)が、江戸に下向することとなった。

2月4日3月3日)に、幕府は「勅使饗応役」として播磨赤穂藩主の浅野長矩を、「院使饗応役」として伊予吉田藩伊達村豊をそれぞれ任じ、両名の「指南役」は吉良義央を指名した。浅野長矩は天和3年(1683年)に一度、勅使饗応役に命じられており、吉良の指南のもと、霊元天皇の勅使花山院定誠千種有能の饗応役を務め上げていた。

2月29日3月28日)に、京より吉良義央が江戸へ戻ってきた。

3月11日4月18日)に、勅使饗応役の浅野長矩と、院使饗応役の伊達村豊は、勅使・院使一行の御馳走役(接待)として「伝奏屋敷」へ入った。

3月11日4月18日)に、勅使・院使一行は江戸に到着し、伝奏屋敷に滞在した。

3月12日4月19日)に、勅使・院使一行は江戸城へ登城の上、白書院において将軍徳川綱吉に「勅宣」「院宣」の伝奏を行った。

3月13日4月20日)は、勅使・院使一行は江戸城にて猿楽を観賞。

この後、勅使・院使一行は3月14日4月21日)に、江戸城にて将軍綱吉からの「奉答の儀」を受け、3月15日4月22日)に、増上寺を参拝し、帰京する予定となっていた。

松之大廊下の刃傷[編集]

江戸城本丸跡(東京)

3月14日4月21日)、勅使、院使が江戸城に登城して将軍綱吉が先の勅宣と院宣に対して返事を奏上するという奉答の儀が江戸城本丸御殿白書院にて執り行われる予定になっていた。同日巳の刻(午前9時過ぎ)、江戸城本丸御殿の大広間から白書院へとつながる松之大廊下(現在の皇居東御苑)において吉良義央と留守居番梶川頼照が居合わせた所へ、突然、浅野長矩が吉良義央に対して背後から小刀にて叫び声をあげながら斬りかかった。吉良は背後から背中を斬られ、「これはなんと」と振り向いたところを額を2回切りつけられ、気を失ってうつ伏せに倒れた。梶川頼照がすぐさま浅野を取り押さえ、居合わせた品川伊氏(豊前守)、畠山義寧(下総守)ら他の高家衆が吉良を蘇鉄の間に運んだ。

連行される途中、大広間の後ろの廊下で、浅野は「吉良上野介はこの間中から遺恨があるので、殿中と申し、今日のことと申し、かたがた恐れ入ることではあるが、是非に及ばず討ち果たしたのだ」とずっと繰り返し、「拙者も5万石の城主だ。場所柄をはばからないのは重々恐れ入るが、乱暴な取り押さえで服が乱れた。お上にはなんの恨みもないから刃向かわない。殺せなかったのが残念だ」と言っていたとのことであった。以上は梶川による『梶川與怱兵衛筆記(梶川日記)』により記されている。

すぐさま、浅野長矩は幕府目付多門重共近藤重興の取調べを受け、多門重共の記すところによれば、浅野長矩は「幕府に対する恨みは全くない。ただ吉良には私的な遺恨がある。だから己の宿意をもって前後を忘れて吉良を討ち果たそうとした」と述べている。一方、外科の第一人者である栗崎道有によって傷口を数針縫いあわせられ、正気を戻した吉良義央は、目付の大久保忠鎮久留正清らから聞き取りを受けたが、「拙者は恨みを受ける覚えは無い。浅野内匠頭の乱心であろう。またこの老体であるから、何を恨んだかなどいちいち覚えてはいない」と述べたとのこと。

江戸藩邸の動き[編集]

刃傷事件のあった元禄14年3月14日1701年4月21日)に江戸にいた赤穂藩重臣は次のとおり。

浅野長矩の弟であり、兄の養子に入っていた浅野長広は刃傷発生を知ると即刻伝奏屋敷(現在の東京都千代田区丸の内1-4日本工業倶楽部)から鉄砲洲の上屋敷(現在の東京都中央区明石町聖路加国際病院)に駆けつけたが、長矩の正室の阿久里(後の瑤泉院)から吉良の生死について問われても答えられないほど狼狽していたといわれる。未の刻(午後2時頃)、浅野長広は書状を国家老・大石良雄にしたためて、早水満尭萱野重実を第1の急使として赤穂へ派遣した。

浅野長矩の母方の従兄弟にあたる美濃大垣藩戸田氏定も自ら鉄砲洲上屋敷へ駆けつけてきた。さらに幕府からも目付の近藤重興と天野富重が上屋敷に送られてきて、浅野長広や家老藤井宗茂に屋敷内の騒ぎを取り沈めるよう命じている。戸田氏定は上屋敷を出た後、その足で伝奏屋敷に入り、浅野家の家財を運び出すなど撤収を指揮した。この撤収に当たっては原元辰が迅速に行うなど働きがあり、幕府目付を感服させたという。

浅野長矩切腹[編集]

事件後すぐさま勅使饗応役は戸田忠真へと交代となり、奉答の儀は白書院から黒書院へと移された。目付多門重共等の取り調べ結果は大目付仙石久尚(伯耆守)や、老中小笠原長重秋元喬知土屋政直稲葉正往へ報告され幕臣にて評議された。

老中による評議と同時に、事件は側用人柳沢吉保から将軍徳川綱吉に言上され、綱吉は朝廷との儀式を台無しにされたとして激怒したといわれ、浅野長矩の即日切腹と赤穂浅野家の改易を命じた。また吉良義央に対しては、殿中を憚り手向かいしなかったことが殊勝であるとして咎め無しとした。切腹申しつけの文言に「折柄と申し、殿中をはばからず、理不尽に切り付け候段、ふとどき至極に思しめされ候」とある。よって浅野の切腹は殿中抜刀(及び傷害・殺人未遂)の罪によるものであった。

大名が即日切腹というのは異例のことで、多門重共も遺恨の内容などについてもっと慎重な取調べが必要だと訴え、若年寄加藤明英稲垣重富を通じて再度言上されたが、柳沢吉保によって退けられた。綱吉が異例とも言える決定と下したのは、勅使や院使たちに対して自らの天皇への忠誠心をアピールして、母である桂昌院最大の念願である従一位叙任を取り消されないようにするためだったといわれている。

浅野長矩は芝愛宕下(現在の東京都港区新橋4丁目)の陸奥一関藩田村建顕の屋敷にお預けとなり、大目付庄田安利(下総守)が検使正使、目付多門重共・大久保忠鎮が検使副使として立会い、座敷ではなく白砂(庭先)にて同日六つ半(午後7時40分頃)、浅野長矩は切腹し御徒目付磯田武太夫によって介錯されたといわれる。

申の下刻(午後6時20分頃)には一関藩田村家より浅野長矩の遺体を引き渡したいから家臣を送るようにという使者が浅野長広に伝えられ、これを受けて片岡高房礒貝正久田中貞四郎、中村清右衛門、糟谷勘左衛門、建部喜六らが田村邸へ入り、浅野長矩の遺体を引き取った。彼らはそのまま泉岳寺へ向かい、同寺で長矩の葬儀を執り行ったが、大名の葬儀とは思えぬ淋しいものだったといわれている。

亥の下刻(午後11時10分)頃、上屋敷において長矩の正室阿久里が落髪。さらに3月15日4月22日)に入った深夜頃には、略奪を目的に町人が大勢群集して浅野家の鉄砲洲上屋敷裏口に乱入するようになる。大垣藩戸田家から送られてきていた警備兵たちや堀部武庸らが刀を持って追い払い、さらに翌朝には本家の浅野綱長(安芸守)にも警備の兵が依頼されて、小堀新五右衛門(大番物頭)が指揮する広島藩兵(足軽50名・小人30名)が到着し、上屋敷は治安を取り戻した。

阿久里の実家である三次藩の前藩主浅野長照(藩主浅野長澄は国許三次にいた)が阿久里を引き取るべく、幕府の許可を得たうえで大橋忠兵衛孝次(同藩先手頭)木村吉左衛門定重(同藩持筒頭)らを上屋敷に派遣し、3月15日4月22日)にはいった丑の刻(午前1時15分)頃に、阿久里はこの者たちに警護されて三次藩の赤坂今井邸(現東京都港区赤坂六丁目氷川神社)へと移っている。

赤穂藩 浅野家の改易[編集]

幕府は翌3月15日4月22日)、浅野長矩の弟で養子に入っていた浅野長広を閉門処分とした。また浅野長矩の従兄弟にあたる美濃大垣藩主戸田氏定、大垣新田藩戸田氏成武蔵岡部藩安部信峯、旗本安部信方浅野長恒浅野長武らを遠慮(江戸城登城禁止処分)とした。

3月16日4月23日)に、赤穂藩士は全員鉄砲洲の上屋敷から引き払い、申の刻(午後4時30分頃)には広島藩兵たちも引き上げて、戸田氏定がひとまずの管理者となったが、3月17日4月24日)には同屋敷は新しい主となった出羽新庄藩戸沢正誠に引き渡され、さらに3月22日4月27日)には若狭小浜藩酒井忠囿の屋敷となった。

赤坂南部坂(現東京都港区赤坂六丁目)にあった下屋敷のほうも3月18日4月25日)には藤井宗茂・富森正因から人吉藩相良長在へ引き渡された。また本所屋敷は当初鉄砲洲上屋敷から運び出した品を収納していたが、それも随時運び出して、3月22日(4月27日)には安井彦右衛門から伊予大洲藩加藤泰恒に引き渡された。

幕府は、播磨龍野藩脇坂安照備中足守藩木下公定の両名には赤穂城収城使を命じ、収城目付に旗本荒木政羽榊原政殊を任じた。この役目は当初日下部博貞の予定だったが、日下部は浅野家の遠縁にあたるので榊原に変更された。18日(25日)には、しばらく天領となる赤穂の統治のために幕府代官石原正氏岡田俊陳の赤穂派遣が決定した。

赤穂藩の動き[編集]

赤穂藩に報が伝わったのは3月20日4月27日)卯の刻(午前4時20分頃)であった。江戸からの第一の急使の早水満尭と萱野重実が赤穂城内にある筆頭家老大石良雄の屋敷に到着し、浅野長矩が吉良義央に刃傷に及んだという浅野長広からの書状を届けた。良雄はすぐさま赤穂にいる200名ほどの藩士全員に登城命令を出した。当時、国許にいた赤穂藩浅野家重臣は以下のとおり。

家中がそろったところで、急報を末席家老大野知房が藩士達に読んで聞かせた。この浅野長広の書状には吉良義央の存命については何も書かれておらず、吉良は討ち取られたと思い込んでいたといわれる。大石良雄は、これだけでは詳細が何も分からないということで、午後1時頃、萩原文左衛門(100石)と荒井安右衛門(15石5人扶持)を江戸へ派遣した。酉の刻(午後7時頃)、足軽飛脚による第2の急使が赤穂に到着する。これにも刃傷事件の発生以外は書かれていなかった。さらに戌の刻(午後11時頃)、原元辰と大石信清による第3の急使が到着して藩主浅野長矩切腹の情報が伝えられた。そこに吉良義央の生死や赤穂藩の改易については何も書かれていなかったが、藩主の切腹処分によるお家取り潰しは容易に想像出来たと思われ、大石良雄はすぐさま藩札の処理を札座奉行の岡島常樹に命じ、早くも翌3月20日4月27日)には領内数箇所に藩札交換所を設けて六分率で交換させ、赤穂経済の混乱の回避に努めた。

3月22日4月29日)には町飛脚の第4報が到着し、浅野長広お預かりの情報が伝えられ、続く3月25日5月2日)には町飛脚の第5報が到着し、これには江戸の浅野家上下屋敷が召し上げられたことが書かれていた。この段階でも吉良義央の生死の情報はなく、吉良の死を疑いだした大石良雄は、吉良の生死を確かめるために藩大目付の田中正形を江戸へ、番頭の伊藤五右衛門三次藩へそれぞれ派遣した。

赤穂藩の評定[編集]

事件の知らせを受け、家中にことの詳細を伝えることと、今後の対応について3月27日5月4日)から3日間にわたって城内広間において大会議を開催している。この会議では篭城を主張する抗戦派と、開城して御家再興を嘆願すべきとする恭順派に意見が分かれて対立した。抗戦派の中心は足軽頭の原元辰と札座奉行の岡島常樹の兄弟であり、恭順派は末席家老の大野知房が中心となっていた。この会議中の28日に第6の急使が到着し、赤穂城の収城目付が荒木政羽と榊原政殊、赤穂代官が石原正氏岡田俊陳になった旨が告げられた。これは篭城抗戦派をより刺激し、開城派大野の孤立が深まっていった。

この頃に、大石良雄も吉良義央の生存の情報を得た。大石は3月29日5月6日)に収城目付荒木政羽と榊原政殊に対して「赤穂家臣は武骨な者ばかりにて、ただ主君一人を思い、赤穂を離れようとはしません。吉良上野介様への仕置きを求めるわけではありませんが、家中が納得できる筋道をお立てください」という嘆願書を提出しようと多川九左衛門月岡治右衛門を江戸に派遣している。しかしこの多川と月岡の両名は、収城目付の荒木、榊原と小田原あたりで行き違いになり、江戸に到着後、「目付に直接手渡すように」という大石の命令に背いて江戸家老安井彦右衛門に報告してしまい、安井の報告を受けた大垣藩主の戸田氏定の「穏便に開城するように」という書状を持って帰ってくるだけに終わっている。

親族の大名家からは連日のように穏便に開城をという使者が派遣された。3月25日5月2日)に、広島藩士太田七郎右衛門正友が赤穂に到着しており、翌3月26日5月3日)にも大石の叔父にあたる広島藩士小山良速が赤穂入りしてくる。28日5日)には大垣藩主の戸田氏定家臣の戸田源五左衛門、植村七郎左衛門、29日(6日)には広島藩主浅野綱長家臣の太田七郎左衛門正友、4月1日8日)には三次藩主浅野長澄家臣の内田孫右衛門、6日13日)には戸田家家臣の戸田正純、杉村十太夫、里見孫太夫、8日15日)には戸田家家臣の大橋伝内、9日16日)には広島浅野家家臣、井上団右衛門、丹羽源兵衛、西川文右衛門、11日18日)には戸田家の高屋利左衛門、村岡勘助、広島浅野家の内藤伝左衛門、梅野金七郎、八木野右衛門、長束平内、野村清右衛門、末田定右衛門、12日19日)には戸田家の正木笹兵衛、荒渡平右衛門、三次浅野家の永沢八郎兵衛、築山新八が赤穂を訪れた。

こうした中で大野知房と原兄弟の対立はますます激化し、藩金分配についても原兄弟が下級藩士に厚い累減率の配分を主張したのに対し、大野が禄高順の分配を主張したので紛糾した。筆頭家老の大石良雄が原兄弟の意見に賛同したため、最終的には下級藩士に厚い配分をすることに決まった。しかも配分に当たって大石自らは分配金受け取りを辞退したので、藩士たちの支持を集めた。

一方で孤立の深まる大野知房は4月12日(19日)夜、子息の群右衛門とともに赤穂から逐電する。赤穂藩改易騒ぎのどさくさで岡島常樹の部下の小役人たちが金銀を盗んで逃げだした事件を捉えて、大野が「岡島も一味に違いない」と吹聴し、岡島が激高したのが直接の原因だったともいわれる。

大石良雄は、当初より開城してのお家再興派だったと言われているが、最初は篭城の主張に賛同しつつ原元辰ら篭城派の支持を獲得するも、篭城しても勝ち目が無いことと御親類へ迷惑が大きすぎるとのことで、藩士一同の殉死をもってお家再興嘆願へという方向での意見集約を得て行く。

江戸詰めの藩士たちは安井彦右衛門や藤井宗茂など赤穂藩から逃亡した者を除いて、吉良義央が存命であることを知り、多くが吉良を主君に代わって討つべしと主張するようになった。特に剣豪として江戸で名を馳せていた堀部武庸(馬廻役200石)、高田吉次の子孫であり槍の達人の高田郡兵衛(馬廻役200石)、堀部の剣の同門である奥田重盛(武具奉行。馬廻役150石)などが強硬に吉良の首級をあげるべきと主張し、片岡高房、礒貝正久、田中貞四郎ら浅野長矩の寵愛を受けた側近達も同様に仇討ちを主張したと言われる。しかし、腕を天下に披露したい武芸者の堀部武庸らは吉良邸への討ち入りを主張したのに対し、主君への報恩第一の寵臣片岡高房らは行列襲撃してでも即時の吉良殺害を主張するなど意見が食い違ったと言われている。

片岡高房らは、3月27日5月4日)に赤穂へ入って同志を募ろうとしたが、この頃、赤穂城では大石良雄のもと殉死切腹が主流であったため、片岡らの吉良を討つという主張は受け入れられず、赤穂も去っていった。

4月14日5月21日)には堀部武庸、高田郡兵衛、奥田重盛たち江戸駐在も赤穂へ入り、ただちに大石良雄はじめ重臣達に会見を申し込んで吉良義央への仇討ちを主張し、吉良への仇討ちを前提とした開城へと誘導し、浅野家中は開城に意見がまとまる。

大石良雄は切腹に同調した藩士80人〜60人(神文血判を提出した人数は文献によって異なる)それぞれから誓紙血判を提出させて義盟を結ぶが、番頭は奥野定良を除き血判を提出していない。足軽頭は八島宗右衛門を除いて全員が血判を提出した。

赤穂城開城[編集]

赤穂城本丸門

赤穂城は開城されることとなり、大石良雄らは4月15日5月22日)に到着した収城目付荒木政羽と榊原政殊を迎えた。大石は目付両氏に「病になった」という大野知房に代わって組頭奥野定良を家老代理にすることの許可を得る。4月17日5月22日)には代官の石原正氏と岡田俊陳も赤穂に到着し、4月18日5月25日)にはこの4人による赤穂城検分が行なわれたが、この際に大石は3回にわたって浅野長矩の弟浅野長広をもっての浅野家再興の取り成しを嘆願した。3回目の嘆願でようやく荒木政羽が浅野家再興を老中に取り次ぐことを約束したと『江赤見聞記』に記されている。同日、収城使脇坂安照率いる4,500余りの龍野藩兵が赤穂に到着し、翌4月19日5月26日)に大石は赤穂城を無血開城した。明渡しに際しての対応は、実に見事なものであったといわれる。

赤穂城開城後、大石良雄や吉田兼亮ら藩士の一部は遠林寺に入って、5月21日6月26日)まで藩政残務処理に追われた。この間の5月5日6月10日)には早水満尭と近松行重の2名を高野山に登らせて、奥の院御廟橋の近くに浅野長矩の墓を建立させている。

残務処理が終わった後、大石良雄は腕にできた腫れ物の療養のため赤穂に滞在している。この間も御家再興運動を積極的に行っており、原元辰らを大坂へ派遣して広島藩浅野家の家老の戸島保左衛門と会見させたり、遠林寺の住職祐海を江戸に遣わして将軍徳川綱吉やその生母桂昌院に影響力が大きい隆光大僧正らに会見させるなどした。また先に浅野家再興の嘆願を取りなして欲しいと依頼した荒木政羽も、江戸に戻ってから老中や若年寄に取り成しを行ってくれた。荒木は6月9日7月14日)に赤穂浅野家分家筋の旗本浅野長恒の屋敷を訪れて、「浅野家再興の見込みあり」の旨を大石に伝えて欲しいと伝言している。

12日17日)、腫れ物がおさまった大石は生まれ故郷の赤穂を後にすることとなる。

御家再興の嘆願[編集]

赤穂を離れた後の7月、大石良雄は山城国山科に隠棲する。ここは公家であり、大石と遠縁にあたる摂関近衛家の領地で、親戚の同志進藤俊式の一族進藤長之(近衛家諸大夫)がこの土地を管理していた。

山科に居を移した直後の大石は、浅野家お家再興を進め、小野寺秀和とともに美濃大垣城へ赴いて戸田氏定に拝謁して浅野家再興を嘆願。また江戸で浅野家再興運動中の遠林寺住職祐海とも書状で連絡を取り合った。

堀部ら江戸急進派は、大石らからは「上野介へ仇討ちはするが、まず大学様のお家再興をしなければならない。時期を見よ」と諭され、赤穂開城を見届けたのち、5月12日6月17日)には江戸へ帰っていったが6月頃から大石の江戸下向を迫る書状を送りつけてくるようになったが、大石はひたすら浅野長広のため隠忍自重するよう求める返書を書き続け、江戸下向を避けた。苛立つ堀部らは、とうとう8月19日付けの書状で「大学様も兄親の切腹を見ながらでは、100万石が下されても人前に立てないだろう」と述べるようになり、大石は江戸急進派鎮撫に使者の派遣の必要性を感じるようになったといわれる。

9月下旬、大石良雄は原元辰(300石足軽頭)、潮田高教(200石絵図奉行)、中村正辰(100石祐筆)らを江戸へ派遣、続いて進藤俊式(400石足軽頭)と大高忠雄(20石5人扶持腰物方)も江戸に派遣した。しかし彼らは逆に堀部武庸に論破されて急進派になってしまったため、元禄14年10月20日1701年11月19日)大石が自身で江戸へ下向する。これは大石第一次東下りとも呼ばれる。

江戸三田(東京都港区三田)の前川忠太夫宅で堀部と会談し、浅野長矩の一周忌になる明年3月に決行を約束した。またこの際、かつて赤穂藩を追われた不破正種が一党に加えてほしいと参じたため、大石は浅野長矩の眠る泉岳寺へ参詣した際に主君の墓前で不破に浅野家への帰参と同志へ加えることの許可を与えた。この江戸下向の際に荒木政羽や浅野長矩正室の瑤泉院とも会見している。江戸で一通りすべきことを終えた大石は、12月には京都へ戻った。帰京後から大石の伏見撞木町(京都府京都市伏見区撞木町)などでの放蕩が激しくなったといわれる。

大石良雄の放蕩三昧については、落合勝信の著作といわれる「江赤見聞記」にあるが、真相は不明。「堀部筆記」のなかに大石の放蕩について触れたものは確認されていないため、少なくとも江戸方の同志の耳には入っていなかったのではないかとして、放蕩を疑う説もある。「江赤見聞記」は吉良家の遠縁にあたる伏見奉行建部政宇の目をくらますためとしている。

進藤俊式と小山良師は、大石の側にお軽という妾をおいているが、これは江戸急進派がこれ以上激昂しないように放蕩をおさえようとしたのだという。この女性がのちに『仮名手本忠臣蔵』の登場人物「おかる」に転じることになる。

吉良家屋敷替え[編集]

元禄14年8月19日1701年9月21日)、幕府は吉良義央に対して、呉服橋内から本所(現東京都墨田区両国3丁目)の松平信望の上げ屋敷へ屋敷替の命を受けた。受け取りの証を9月3日に提出した。松平信望は本所を立ち退いて下谷の町野重幸の上ゲ屋敷に移り、そこに吉良が入った。さらにその直後の8月21日8月23日)には、庄田安利(浅野を庭先で切腹させた大目付)、大友義孝(吉良と親しくしていた高家仲間)、東条冬重(吉良義央の実弟)の3名を同時に呼び出して「勤めがよくない」などと咎めて役職を取り上げた。

吉良義央は元禄14年12月12日1702年1月9日)に家督を外孫で養子の吉良義周に譲り、隠居した。奥方の富子(梅嶺院)は屋敷替えになった際に上杉家の実家に帰っていた。富子が新しい屋敷に同道せず上杉家へ戻った理由は創作・諸説あり定かではない。離婚説、「浅野が腹を切ったのだから貴方も切ったらどうです」と発言したせいで不仲になった説、討ち入りを案じて吉良が帰した説、新しい屋敷がせまくて女中を連れていけなかった説などがある。

円山会議[編集]

年末からは脱盟者も出始め、同志の1人萱野重実は父の萱野七郎左衛門と浅野家への忠孝の間で苦悩して自害、橋本平左衛門遊女はつと恋仲となり、忠義を捨てて彼女と心中してしまった。また江戸急進派の中心人物の高田郡兵衛も旗本内田元知との養子縁組騒動を機に脱盟した。高田の脱盟は江戸急進派の面目を失わせる結果となり、その発言力を弱めさせた。大石良雄はこれを好機として元禄15年2月15日1702年3月13日)の山科と円山での会議において「大学様の処分が決まるまで決起しない」ことを決定する。

3月5日4月1日)、吉田兼亮(200石加東郡郡代)と近松行重(馬廻250石)がこの決定を江戸の同志達に伝えるべく下向した。吉田はまず江戸で孤立していた片岡高房ら長矩近臣組と面会すると説得して大石良雄の盟約に加わらせている。そして3月8日4月4日)に江戸急進派のリーダー格の堀部武庸と両国米沢町(現東京都中央区東日本橋2丁目)で会談に及んだ。しかし案の定堀部ら江戸急進派は決定に納得せず、大石をはずして代わりに原元辰を大将にして独自に決起することを模索しつつ、6月には最後の調整のため堀部武庸が自ら京都へ乗り込んでくることとなった。堀部は「もはや大石は不要」として大石を斬り捨てるつもりだったとも言われる。

この頃、お家再興が難しい情勢となり、元禄15年7月18日(1702年8月11日)に、幕府が浅野長広に広島藩への永預かりを言い渡したことで、お家再興の望みは完全に絶たれる。大石良雄も以降は討ち入り一本と決め、堀部ら江戸急進派との対立はここに解消された。7月28日8月21日)、大石は、堀部武庸も招いて京都円山で同志との会議を開き、本所吉良屋敷への討ち入りを決定した。

堀部武庸は早速これを江戸急進派の同志達に伝えるべく江戸へ戻っていった。また大石良雄はお家再興だけを目当てに盟約を参加していた者がいるであろうことを鑑みて、大高忠雄貝賀友信に同志を訪ねさせて義盟への誓紙を一度返却させ、盟約から抜ける機会を与えた。大高忠雄たちは誓紙の返還を拒んだ者だけに仇討ちの真意を伝えた。この行為は「神文返し」と呼ばれた。この頃には江戸の同志や遅れて出した同志も足して130人を超えていたが、神文返しによってその数は60人以下になったといわれていたが、史実としてあったことではない。

江戸下向[編集]

道中の富士で大石良雄は曾我兄弟の墓を詣でたという。ドラマ等では、「日野家用人垣見五郎兵衛」と変名していた大石が、道中本物の垣見五郎兵衛と出会うといった演出がなされたものもある。

10月23日12月11日)には鎌倉へ到着。ここで吉田兼亮らが大石を出迎えた。さらに吉田らが用意しておいた川崎平間村軽部五兵衛宅の離れに滞在する。大石はここから同志たちに今後の綱領「訓令十カ条」を発した。

11月5日12月23日)に大石の一行は江戸へ入る。江戸では日本橋石町三丁目(現東京都中央区日本橋本町)の宿屋小山屋弥兵衛店に滞在。公事訴訟のために滞在する垣見左内(大石良金)の後見人垣見五郎兵衛と名乗った。良雄や良金のほかには潮田高教、小野寺秀和、近松行重、大石信清、早水満尭、菅谷政利三村包常、大石若党2人(加瀬村幸七、室井左六)、近松行重の下男1人、計12名がここに滞在した。

他にも麹町、本所、両国、築地、芝、南八丁堀湊町、深川黒江町などに借宅や店を借りて同志たちが滞在した。

大石良雄は本所吉良屋敷を同志に探らせ、吉良邸絵図面を入手した。この絵図面入手経路について岡野包秀お艶の逸話(後述)が生まれたが、寺坂の私記には「内縁をもって入手した」としている。この「内縁」とは、堀部金丸の後妻の実家忠見氏は吉良邸の隣人である本多長員(幕府から派遣される越前松平家家老(監視役))の家臣であることから忠見氏ともいわれている。また大石信清の母方の叔父太田加兵衛が吉良家屋敷の前主松平信望の家臣であることから、こちらとする説もある。

元禄15年11月29日1703年1月16日)、大石良雄は、赤坂今井の三次藩下屋敷にいる浅野長矩正室の瑤泉院の用人落合勝信宛で赤穂藩藩金の使用明細書とその傍証資料を送っている。このことと第一次大石東下りの際に大石が瑤泉院に拝謁したことがヒントとなって討ち入り直前に大石が瑤泉院に拝謁し、今生の別れをするという「南部坂雪の別れ」の逸話(後述)が生まれたといわれる。なお、討ち入り費用については、瑤泉院が自身の三次領からの収益をあてて用立てたとの説が2009年に発表されている[1]

討ち入り前[編集]

吉良義央在邸確実の日を探るため、大高忠雄(脇屋新兵衛)を茶人山田宗偏に弟子入りさせる。宗偏は本所に茶室を構えていたので吉良義央から吉良家の茶会にしばしば招かれていた。その宗偏から吉良家の茶会が元禄15年12月14日1703年1月30日)にあることを聞き出した。しばしば吉良邸に招かれて、『源氏物語』や『伊勢物語』を進講したり、歌の指導をしていた国学者荷田春満大石良穀の友人であったので、春満を通じて吉良邸茶会が12月14日にあり、その日は泊まり客があるとの情報を当日の夕刻、兄で弘前藩家臣の大石良麿とともに、米沢町の堀部金丸宅を訪れた大石良穀から入手。大石兄弟は父の大石良総と相談して知らせに来た。大石良雄はそのときはじめて春満の存在を知って討入予定がなぜ漏洩したのか不審に思った。しかし、確かな情報と判断し、この日元禄15年12月14日1703年1月30日)を討ち入りの日と決定した。

江戸潜伏中にも同志の脱盟があり、田中貞四郎(側用人150石。酒乱をおこして脱盟。)、小山田庄左衛門(100石。片岡高房から金を盗んで逃亡)、中村清右衛門(側用人100石。理由不明)、鈴田十八(理由不明)、中田理平次(30石4李施。理由不明)、毛利小平太(大納戸役20石5人扶持。理由不明)、瀬尾孫左衛門(大石家家臣。理由不明)、矢野伊助(足軽5石2人扶持。理由不明)の8名が姿を消した。最後まで残った同志の数は47人。

12月2日、頼母子講を装って全同志が深川八幡前の大茶屋に集まった。このときに討ち入り時の綱領「人々心覚」が定められ、その中で武器、装束、所持品、合言葉、吉良の首の処置など事細かに定め、さらに「吉良の首を取った者も庭の見張りの者も亡君の御奉公では同一。よって自分の役割に異議を唱えない」ことを定めた。

討ち入り[編集]

元禄15年12月14日1703年1月30日)午後、同士は両国橋西の米沢町にあった堀部金丸の借宅に集まり、その後3か所の集合場所に分かれた。吉田兼亮らは集合場所の本所林町5丁目にある堀部武庸の借宅に行く途中、竪川の河岸地にある「亀田屋」という茶屋でそば切など食べながら時をすごした。それぞれの集合場所から本所吉良屋敷裏門近くの前原宗房の借店を経て、表門隊と裏門隊の二手に別れて吉良邸に討ち入った。

実際に襲撃したのは現在の時刻で元禄15年12月15日1703年1月31日)に入っての未明午前4時頃であった。江戸時代の慣習では夜明けの明六つと日暮れの暮六つ(1月30日では午前6時8分頃と午後5時39分)を境とし1日の始点を暁九つとした。この時に雪が降っていたというのは『仮名手本忠臣蔵』での脚色であり、実際は冷え込みが厳しかったが空は晴れていた。なお、月齢は13.6で満月の一歩手前であった。

表門隊[編集]

表門隊の大将は大石良雄。その下に23士が属した。そのうち片岡高房(槍)、富森正因(槍)、武林隆重(槍)、奥田重盛(太刀)、矢田助武(槍)、勝田武堯(槍)、吉田兼貞岡島常樹小野寺秀富の9士で吉良邸内へ突入している。

庭の見張りについたものは早水満堯(弓)、神崎則休(弓)、矢頭教兼(槍)、大高忠雄(太刀)、近松行重、間光興(槍)の6士。

新門の見張りについた者は、堀部金丸(槍)、村松秀直(槍)、岡野包秀(槍)、横川宗利(槍)、貝賀友信の5士。

そして表門には大石良雄(槍)、原元辰(槍)、間瀬正明(半弓)という参謀格の3士が陣取り、表門隊の指揮をとった。

裏門隊[編集]

裏門隊の大将は大石良雄の嫡男大石良金。実質的な指揮者は吉田兼亮。その下に24士が属した。そのうち堀部武庸(太刀)、礒貝正久(槍)、倉橋武幸杉野次房赤埴重賢三村包常、菅谷政利、大石信清(槍)、村松高直(槍)、寺坂信行の10士が吉良邸内へと突入した。

庭内の見張りは大石良金(槍)、潮田高教、中村正辰(槍)、奥田行高(太刀)、間瀬正辰(槍)、千馬光忠(半弓)、茅野常成(弓)、間光風(弓)、木村貞行(槍)、不破正種(槍)、前原宗房(槍)の11士。

裏門には吉田兼亮(槍)、小野寺秀和(槍)、間光延(槍)が陣取り、裏門隊の指揮をとった。

吉良方[編集]

吉良家臣の数は諸説あってはっきりとしていないが、討ち入り後の幕府の検死役の書に「中間小物共八十九人」と書かれている。桑名藩所伝覚書では「上杉弾正(上杉綱憲)から吉良佐平(吉良義周)様へ御付人の儀侍分の者四十人程。雑兵百八十人程参り居り申し候よし」と記しており、上杉家からかなりの数の士分と非士分が吉良義周(上杉綱憲の次男。吉良義央の養子)にしたがって吉良家へ入ったとしている。姓名などが判明しているのは以下の通り。

  • 筆頭家老…斎藤宮内忠長(150石)
  • 家老…左右田孫兵衛重次(100石)・松原多仲宗許(100石)
  • 取次月番…須藤与一右衛門(50石)・岩瀬舎人(50石)
  • 取次…平沢助太夫(15両4人扶持)斎藤十郎兵衛(15両3人扶持)清水団右衛門(5両5人扶持)
  • 目付…糟谷平馬(8両3人扶持)・新貝伝蔵(6両)
  • 近習…山吉新八郎盛侍(30石5人扶持)・永松九郎兵衛(7両3人扶持)・新貝弥七郎安村(6両)・天野貞之進(6両)・鈴木浅右衛門(5両)・高橋治右衛門(10両)
  • 中小姓…左右田源八郎(7両)・斎藤清右衛門(6両)・笠原長太郎(5両)・伊藤喜左衛門(4両)・鈴木杢右衛門(4両)・岩瀬喜大夫(7両)・宮石島之助(5両)
  • 祐筆…堀江勘左衛門(7両)・鈴木元右衛門(6両)
  • 台所役…岩田弥一兵衛(5両)
  • 隠居付家老…小林平八郎央通(150石)
  • 隠居付用人…鳥居利右衛門正次(50石)・宮石新兵衛(50石)
  • 隠居付近習…清水一学義久(7両3人扶持)・大須賀治郎右衛門(6両)・榊原平右衛門(6両)・加藤太左衛門(6両)
  • 隠居付台所役…三田八右衛門(5両)

役職石高などが不明な者では、小笠原忠五郎、村上甚五右衛門、古沢善右衛門、馬場次郎右衛門、石原弥右衛門、富田五左衛門、星八左衛門、若松新右衛門、近藤徳兵衛、山下甚右衛門、榊原五郎右衛門といった名前が挙げられている。非士分の者たちとして厩別当の杉山与五右衛門、茶坊主の鈴木松竹、牧野春斎、足軽の大河内六郎右衛門、森半右衛門、権十郎、仲間八大夫、兵右衛門、若右衛門などの名が伝わる。創作では討ち入り時に吉良家の女中が逃げ惑う演出なども行われるが、実際には夫人の富子がすでに吉良家におらず、それに仕える女中も屋敷内にはいなかった。

山鹿流陣太鼓と装束[編集]

山鹿素行が赤穂に配流になった縁で藩主が山鹿素行に師事し、赤穂藩は山鹿流兵法を採用していたとされるが、実践における戦術・戦法ではなく儒教的な色彩の武士の心得というものであった。

映画やテレビドラマ、演劇では、雪の降りしきる夜、赤穂浪士は袖先に山形模様のそろいの羽織を着込み、大石良雄が「一打三流」の山鹿流陣太鼓を打ち鳴らす。吉良家の剣客清水一学がその太鼓の音を聞いて「あれぞまさしく山鹿流」と赤穂浪士の討ち入りに気づくのが定番となっている。

実際には赤穂浪士は合図の笛と鐘は用意したが、太鼓は持っていなかった。門を叩き壊す音が『仮名手本忠臣蔵』で陣太鼓を打ち鳴らす音に変わったのではないかといわれている。また山形模様は『仮名手本忠臣蔵』の衣装に採用されて広く認知されるようになったものだが、先行作でも使用が確認されている[2]。実際には赤穂浪士は討ち入りの際は火事装束に似せた黒装束でまとめ、頭巾に兜、黒小袖の下は鎖帷子を着込んだ完全武装だった。羽織などの着用もばらばらだったといわれている。山形模様ではないが、袖先には小袖と羽織をまとめるため、さらしを縫い付けている者もいた。

討入開始[編集]

吉良邸討ち入り。葛飾北斎

元禄16年1月24日1703年3月10日)に礒貝正久と富森正因が連署で書いた『礒貝富森両人覚書』によると、表門は梯子をかけて登り、裏門は門を打ち破ったとしている。赤穂浪士のお預かりを担当した伊予松山藩松平定直の家臣波賀清大夫が赤穂浪士たちから話を聞き、それをもとにして書いた『波賀聞書』では、表門隊で最初に梯子を上って邸内に侵入したのは大高忠雄と小野寺秀富であったといい、大高が飛び降りざま名乗りを上げ、吉田兼貞と岡島常樹もそのあとに続いて上っていったとしている。原元辰は飛び降りた際に足をくじき、また神崎則休も雪で滑り落ちたが、大事はなく働きにも影響はなかったという。堀部金丸は高齢であるため大高忠雄が抱いて下ろしたとしている。一方裏門の様子を示した『波賀聞書』では、杉野次房と三村包常が門を破り、一番に突入したのは横川宗利、番人を倒したのは千馬光忠の半弓であったとしている。寺坂信行の書いた『寺坂私記』によると原元辰が書いた「浅野内匠頭家来口上書」を上包して箱に入れ、青竹に挟んで吉良邸の玄関前に立て置いたという。

富森正因の証言によると礒貝正久が軽い者を捕えてろうそくを出させ、真っ暗だった吉良邸内を明るくしたという。後に取り調べの時にこれを聞いた大目付仙石久尚も礒貝の機転の良さに感心したという。

『小野寺書状』によると、表門隊は玄関に差し掛かり、玄関の戸を蹴破ったとしている。飛び起きて広間からかけつけてきた番人3人と戦っている間、小野寺秀富が立て並べてある弓を発見、秀富は吉良家臣1人を斬り倒したあと、すぐにそれらの弓の方へ向かって弦を切って使い物にならないようにしたという。ドラマなどではこれは秀富のその場の機転のようになっているが、『小野寺書状』によると吉良家臣は弓の使い手が多いという情報を事前につかんでいたので弓は発見次第に弦を切るよう事前に決めていたとしている。

『波賀聞書』によると、庭の見張り組は「五十人組は東へ回れ」「三十人組は西へ回れ」などと声高に叫ぶことであたかも百人以上の大勢が討ち入ったかに装ったとしており、これが功を奏し、長屋にいた吉良家臣たちは本当にその人数がいると信じ込み、ほとんどの者が恐怖で長屋から出てこなかったという。『礒貝富森両人覚書』も、邸内ではたびたび戦闘が起きたが、長屋の侍は出てこなかったとしている。しかし『小野寺書状』によると長屋から飛び出してきた吉良家臣2人がおり、先に出てきた男を小野寺秀和が槍で倒し、もう1人は間光延の槍で倒したという。

『赤城士話』によると間瀬正明に遮二無二斬りかかる吉良家臣がおり、孫九郎はその男の脇腹に槍を突き刺したが、その吉良家臣は槍を手繰り寄せようと槍を二打ち三打ちしてきた。孫九郎が槍を投げだすと男は倒れて息絶えたという。

大石良雄が12月19日に寺井玄渓(浅野長矩の藩医だった人物)に送った書状によると、一番の働きをしたのは不破正種であったという。四、五人の敵と戦い、その刀がささらのようになっていたという。不破正種が父佐倉新助にあてた書状では本当は不破は庭の見張り担当であったが、こらえ難くて独断で邸内へ突入してしまい、邸内では長刀を振るう当主吉良義周と遭遇し戦闘になった。

新井白石が吉良邸の隣人の旗本土屋逵直から聞き取った話を室鳩巣が書き綴った『鳩巣小説』では、隣の吉良邸が騒がしくなったので外へ出て見た土屋が壁越しに声をかけたところ、片岡高房、原元辰、小野寺秀和と名乗った者が、吉良義央を打ち取って本望を達したと言う声を聞いたとしている。これを聞いた土屋は壁際に灯りを掲げてその下に射手をおき、「塀を越えてくる者は誰であろうとも射て落とせ」と命じたという。

上杉家の動き[編集]

米沢藩主である上杉綱憲は吉良義央の実子で、赤穂浪士の討ち入りを知った綱憲がいきり立って父の援軍に出馬しようとするところを家老千坂高房(または色部安長)が強く諫言しておしとどめる場面が「忠臣蔵」の物語でよく取り上げられる。実際には、千坂は元禄13年(1700年)に死去しており、色部は父親の喪中で出仕していず、上杉家の縁戚である高家・畠山義寧が綱憲を止めている。

綱憲は、江戸では赤穂の浪人が多く危険であるとして、吉良に米沢へ隠居するよう勧めていた。12月14日(1月30日)の吉良屋敷での茶会は江戸での別れの茶会であったといわれる。

赤穂浪士は討ち入りに際して上杉家からの援軍と、引きあげ時の追撃を警戒していた。実際に上杉家では藩邸に討ち入りの報が入ると、直ちに数人を出して様子を探らせ、赤穂浪士に対抗できるだけの人数を集めていた。そうしているうちに吉良義央が討ち取られて、赤穂浪士たちは引きあげてしまったという報告が入った。やがて、幕閣から上杉家へ赤穂浪士の処分は幕府が行うので上杉家は手出ししないよう命じられてしまった。上杉家は幕府の命に従う外なかったが、世間からは腰抜けと冷笑されたといわれる。

吉良方の奮戦[編集]

小林平八郎と清水一学は吉良家臣として劇作などに取り上げられ、吉良義央の身代わりとなって奮戦する小林平八郎の姿や、泉水にかけられた橋の上で二刀を構えた清水一学が赤穂浪士を大いに苦しめ、赤穂浪士第一の剣客堀部武庸と大立ち回りを演じる場面が描かれている。しかし上杉家家臣が編纂した「大河内文書」によると、小林平八郎は逃げようとしたところを赤穂浪士につかまり、「上野介はどこか?」「身分が低い家臣なので知りません」「身分の低い家臣がなぜ絹の寝巻きなど着ている?」という問答の末に首をはねられたといわれている。また『江赤見聞記』は、吉良方に強者が広間に六人、台所に一人いたとしており、吉良家臣の清水一学は台所で討ち死にしたとされ、特に活躍したとは伝えられていない。ただ大河内文書は上杉家家臣のみを持ち上げ吉良家家臣の評価をさげる傾向にあり必ずしも真実を語っているとは限らない、との懐疑的な見方もある。小林平八郎については、落合与左衛門(瑤泉院付き用人)の書といわれる『江赤見聞記』で「小林平八は、槍を引っさげて激しく戦い、上野介をよく守ったが、大勢の赤穂浪士と戦ってついに討ち取られた」と記載がある。 『大河内文書』が最も目覚しい働きがあったとしている家臣は新貝弥七郎山吉盛侍である。新貝は玄関口で奮戦して討死し、山吉はより奮戦して近松行重を斬り捨てて庭の池に叩き落したという。山吉は重傷を負ったものの、一命をとりとめ、吉良家断絶後も吉良義周に従って配流先の信濃国諏訪藩へ供した。彼らはいずれも上杉家から吉良義周に従って吉良家へ移ってきた元上杉家家臣である。

当時18歳の吉良家当主の吉良義周は薙刀を持って、赤穂浪士の剣客のひとりである武林隆重(堀部武庸とも)と果敢に渡り合ったが、斬られて目に血が入り、気を失ったという。事件後に来た幕府の検分役に重傷の身で気丈に応対して、検分役を感心させている。

終結[編集]

赤穂浪士引き揚げの図。歌川広重

『礒貝富森両人覚書』によると、吉田兼亮や間光興らが、台所横の炭小屋からヒソヒソ声がするのを聞いたため、中へ入ろうとすると、中から皿鉢や炭などが投げつけられ、さらに2人の吉良家臣たちが中から斬りかかってきたのでこの2人を切り伏せたあと、尚奥で動くものがあったため、まず間光興が槍で突いた。出てきたのは老人で脇差で抵抗しようとするも武林隆重に一刀のもと斬り捨てられた。老人であり、白小袖を着ていることからこの死体をよく調べてみると面と背中に傷があったので吉良に間違いないと判断し、一番槍の間光興が首を落とした。そして合図の笛を吹き後、玄関前に集合した赤穂浪士たちは表門番人の3人に吉良の首を見せて間違いなく吉良義央であることを確認した。『鳩巣小説』によると声だけしか聞こえない土屋邸では赤穂浪士たちが吉良を探している間の声を聞いて取り逃がしたのだろうと思っていた。しかし突然「有り様に申さぬか」という大声が聞こえてきたという。他の者が「額の傷を見よ」という声も聞こえきた。その後しばらくしてわっと泣き出す声が聞こえた。これを聞いて土屋は今まさに吉良の首をあげて悦びの泣き声をあげているのだろうと思ったという。

吉良家は小林平八郎、清水一学、鳥居利右衛門正次、新貝弥七郎安村、須藤与一右衛門斎藤清右衛門左右田源八郎大須賀次郎右衛門小境源次郎鈴木元右衛門笠原七次郎榊原平右衛門鈴木松竹牧野春斎、ほか足軽2名の死者を出し、負傷者23人であった。赤穂浪士の負傷者は近松勘六、原惣右衛門の2名。また、吉良家家老の左右田孫兵衛は、討ち入りの時に生き残ってしまったために「途中で逃げ出した」とする悪評を立てられたが、討ち入り後も配流された吉良義周のために尽くし、その死後は生涯他家への仕官を断ったことから、吉良家への忠節を尽くした家臣とみなされ汚名は除かれたと言われる。

引き上げ[編集]

討ち入り後は、吉良邸内の厳重な火の始末をし、吉良義央の遺体を寝所に安置した後、吉良の首は潮田高教の持つ槍の先に掲げられ吉良邸を出発し、当初は回向院へ向かったが受け入れられず、浅野長矩の菩提である高輪泉岳寺に向かった。この時、吉田兼亮・富森正因の両名を、討ち入りの口上書の写しを持って大目付仙石久尚のもとに出頭させた。辰の刻(午前8時ごろ)泉岳寺に着き、住職酬山長恩によって受け入れられ、墓前に吉良義央の首級を供え仇討ちを報告した。また、この際に吉田兼亮の足軽の寺坂信行が立ち退いており、赤穂浪士は46人となっていた

幕府の評定[編集]

赤穂浪士より申し出を受けた大目付仙石久尚はすぐさま江戸城へ登城し、月番老中稲葉正往へ報告され、泉岳寺からの届け出で寺社奉行阿部正喬から、町方からより町奉行松前嘉広からも報告を受ける。赤穂浪士はいったん泉岳寺から仙石久尚の屋敷に引き揚げさせ、老中による幕閣の協議が行われ、協議内容は将軍徳川綱吉へ上奏され、46人の赤穂浪士は、細川綱利松平定直毛利綱元水野忠之の4大名家に預けさせた。浪士たちの待遇は各大名家で異なったらしく、大石らを預かった細川家や水野家は浪士たちを厚遇したが、松平家と毛利家では冷遇したようである。細川家などは江戸の庶民から称賛を受けたようで「細川の 水の(水野)流れは清けれど ただ大海(毛利甲斐守)の沖(松平隠岐守)ぞ濁れる」との狂歌が残っている。これは浪士たちを厚遇した細川家と水野家を称賛し、冷遇した毛利家と松平家を批判したものである。もっとも、江戸の庶民の批判に閉口したか、毛利家や松平家でも浪士たちの待遇を改めたようである。

赤穂浪士の討ち入り行為を義挙として江戸の武士には賞賛するものもいた。本来、徒党を組んでの討ち入りは死罪に値するものの、忠義を奨励していた将軍綱吉や側用人柳沢吉保をはじめとする幕閣は死罪か切腹か助命かで対応に苦慮した。幕閣の中にも「夜中に秘かに吉良を襲撃するは夜盗と変わる事なし」と唱え、獄門を主張した者もいた(『柳沢家秘蔵実記』)。その一方で、主君仇討ち事件に大いに感激した幕閣もいて、その内部でも意見の違いがあった。彼らを中心に構成する将軍の諮問機関である幕府評定所は12月23日2月8日)に「一、内匠頭には少々存念があったようなので、その意を家臣が達するためにやむをえずに大勢で示し合わせた場合は徒党とは言いがたい。一、内匠頭家臣達は真の忠義者であるので、このままお預りにしておき、いずれは赦免すべき。一、吉良上野介家臣達で戦わなかった者は侍とは認められないので斬罪に処すべき。一、上杉綱憲は父親の危機に何もしなかったので領地召し上げにするべき」という浅野家寄りの意見書を将軍綱吉に提出したともいわれている。

学者間でも議論がかわされ、林信篤室鳩巣は義挙として助命を主張し、荻生徂徠は「46士の行為は、義ではあるが、私の論である。長矩が殿中もはばからないで罪に処されたのを、吉良を仇として、公儀の許しもないのに騒動をおこしたことは、法をまぬがれることはできない」と主張した。この荻生の主張が採用され、浪士には切腹が命じられた。「浅野は殿中抜刀の犯罪で死罪なのに、吉良を仇と言うのはおかしい。幕府の旗本屋敷に乗り込み多数を殺害する騒動には死罪が当然」というのが江戸幕府の見解ということになる。

こうしたなかで将軍綱吉は徐々に助命に傾き、皇族から出された恩赦という形を得るため、輪王寺門主として上野寛永寺に居住する公弁法親王に拝謁し、それとなく法親王から恩赦を出すよう依頼するに至ったという説がある。

しかし法親王は「亡君の意思を継いで主が仇を討とうというのは比類なき忠義のことだとは思う。しかしもしこの者どもを助命して晩年に堕落する者がでたらどうであろうか。おそらく今回の義挙にまで傷が入ることになるであろう。だが、今死を与えれば、後世までこの話は語り継がれていくことになるだろう。時には死を与えることも情けとなる」と述べ、これをもっともと考えた将軍綱吉は赤穂浪士へ切腹を命じることを決意したという説もある。

切腹[編集]

泉岳寺の赤穂浪士の墓

元禄16年2月4日3月20日)、4大名家へ切腹の命が伝えられる。また同日、幕府評定所の仙石久尚は吉良家当主の吉良義周を呼び出し、吉良家改易と義周の信濃諏訪藩高島への配流の処分を下した。

46人の赤穂浪士はその日のうちにお預かりの大名屋敷で切腹。4大名家で切腹開始時刻の多少のずれはあったが、どの家でも半時(約1時間)ほどで切腹を終えている。当時の切腹はすでに形骸化しており、実際に腹を切ることはなく、脇差を腹にあてた時に介錯人が首を落とす作法になっていたため、素早く終わった。間新六のみ肌脱ぎせずにすぐに脇差を腹に突き立てたため、実際に腹を切り裂いている[3]細川綱利は切腹跡についた血を清掃しようとする藩士に対して赤穂浪士は吾藩の氏神であるとして清掃する必要なしと指示している[4]。赤穂浪士の遺骸は主君浅野長矩と同じ泉岳寺に埋葬された。

当時の刑罰は明治時代以降と大きく異なり、一族連座が基本であったが、赤穂浪士については幕閣内にも同情論が強かったため、本件での一族連座は限定的となった[4]。赤穂浪士の遺子のうち、15歳以上の男子でかつ出家した者を除いた4人(吉田伝内、中村忠三郎、間瀬定八、村松政右衛門)が伊豆大島流罪となったが、浅野長矩室瑤泉院の働きかけで1706年には出家を条件に赦免された[5]

浅野家の再興[編集]

宝永6年1月10日1709年2月19日)、将軍綱吉が死去し甥の家宣が将軍を継ぐと、新将軍就任の恩赦により、出家していた赤穂浪士の遺子たちの還俗も認められた[5]

同年8月、内匠頭の実弟である浅野長広も赦免され、500石の旗本に列した[6]

また、正徳3年(1713年)、大石良雄の三男である大三郎広島の浅野宗家に1,500石で召抱えられた[7]

逸話や伝承[編集]

元禄赤穂事件には「忠臣蔵」への演劇化による脚色も手伝って逸話や伝承の類が多く残っている。以下、有名な逸話ではあるが、伝承の域をでていないものをあげる。

脇坂安照が吉良に一矢報いる[編集]

殿中刃傷があった直後、播磨龍野藩主脇坂安照が隣藩の藩主である浅野長矩の無念を思いやって抱きかかえられて運ばれる吉良義央とわざとぶつかり、吉良の血で大紋の家紋を汚すと、それを理由にして「無礼者」と吉良を殴りつける。吉良は激痛でひっくり返り、「お許しを」と許しを請いながら逃げ去っていく。

村上喜剣[編集]

薩摩の剣客村上喜剣は、京都の一力茶屋で放蕩を尽くす大石良雄をみつけると、「亡君の恨みも晴らさず、この腰抜け、恥じ知らず、犬侍」と罵倒の限りを尽くし、最後に大石の顔につばを吐きかけて去っていった。しかしその後、大石が吉良義央を討ったことを知ると村上は無礼な態度を取ったことを恥じて大石が眠る泉岳寺で切腹した。大高忠雄の墓の隣にある「刃道喜剣信士」という戒名が彫られた墓はこの村上喜剣のものであるといわれる。

大野や奥野は第二陣であった[編集]

大野知房は実は逃げたわけではなく、大石が失敗した時に備えた第二陣の大将であり、米沢藩へ逃げ込むであろう吉良を待ちうけて山形県板谷峠に潜伏していた。しかし大石の討ち入りが成功したという報を聞き、大野は歓喜してその場で自害したとするもの(実際に板谷峠に大野の墓が現存しているが、後世の人間に作られたといわれる)。奥野定良にも同様に第二陣の大将とする逸話があるが、彼にはさらに浅野長矩の隠し子の姫を幕府に知られぬようこっそり育てる役目を大石から命じられていたためやむなく脱盟したという逸話がある。

大高忠雄の詫び証文の逸話[編集]

大高忠雄が江戸下向しようとしている道中、団蔵というヤクザ者の馬子が「馬に乗れ」とからんできた。大高は断ったが、腰抜け侍と見て調子に乗った団蔵は「詫び証文を書け」と因縁をつけてくる。大高はここで騒ぎになるわけにはいかないと思って、おとなしくその証文を書いた。これを見た団蔵は腰抜け侍ぶりを笑ったが、その後、赤穂浪士の討ち入りがあり、そのなかに大高がいたことを知った団蔵は己を恥じて出家の上、大高を弔ったという。大高の詫び証文が三島の旧本陣世古家に所蔵されて現存している。しかしながらこの大高の詫び証文と伝わるものは後世の人が作ったものといわれている。神崎則休にも同様の逸話がある。

岡野包秀とお艶の逸話[編集]

岡野包秀は吉良邸絵図面を手に入れるため、吉良義央の本所屋敷の普請を請け負っていた大工の棟梁の娘お艶と恋人になる。しかし岡野はやがて本当にお艶に恋するようになり、彼女を騙して絵図面を手に入れたことに自責の念を感じ、忠義と恋慕の間で苦しむ。討ち入り後、泉岳寺へ向かう赤穂浪士を見守る人々の中に涙を流しながら岡野を見送る大工の父娘がいた。

大高忠雄と宝井其角[編集]

大高源五と宝井其角。尾形月耕

大高源五は、子葉の俳号を持ち、俳人としても名高い赤穂浪士である。俳人の宝井其角とも親交があったため、このような逸話が残る。討ち入りの前夜、大高は煤払竹売に変装して吉良屋敷を探索していたが、両国橋で宝井其角と出会った。其角は早速「年の瀬や水の流れも人の身も」と発句し、大高はこれに「あした待たるるこの宝船」と返し、仇討ちをほのめかす。

赤埴重賢、徳利の別れ[編集]

赤埴重賢は討ち入り直前にこれまで散々迷惑をかけた兄に今生の別れを告げようと兄の家を訪れた。しかし兄は留守であった。義姉もどうせ金の無心にでも来たのだろうと仮病をつかって出てこない。やむなく源蔵は兄の羽織を下女に出してもらって、これを吊るして兄に見立てて酒をつぎ、「それがし、今日まで兄上にご迷惑おかけしてきましたが、このたび遠国へ旅立つこととなりました。もう簡単にはお会いできますまい。ぜひ兄上と姉上にもう一度お会いしたかったが、残念ながら叶いませんでした。これにてお別れ申し上げる」と兄の羽織に対して涙を流しながら酒を酌み交わし、帰って行く。その後帰宅した兄は下女から重賢の様子を聞いて、もしや重賢はと思いを巡らせる。そして12月15日、吉良義央の首をあげて泉岳寺へ進む赤穂浪士の中に弟重賢の姿があった。

俵星玄蕃[編集]

杉野次房は「夜泣き蕎麦屋の十助」として吉良邸の動向を探っていた。やがて俵星玄蕃という常連客と親しくなった。かねてより浅野贔屓であった玄蕃は、12月14日、赤穂浪士たちが吉良邸へ向けて出陣したことを知ると、是非助太刀しようと吉良邸へ向かった。両国橋で赤穂浪士達と遭遇したが、大石には同道を断られた。しかしその中になんと蕎麦屋の十助がいるではないか。そして二人は今生の別れを交わした。その後玄蕃はせめて赤穂浪士たちが本懐を遂げるまでこの両国橋で守りにつこうと仁王立ちになった。これは文化の頃の講釈師大玄斎蕃格による創作といわれる。玄蕃の名は自らの「玄」と「蕃」の字の組み合わせ、「俵」は槍で米俵も突き上げるという意味、さらに「星」の字は「仮名手本忠臣蔵」の主人公大星由良助(大石良雄がモデル)の「星」の字。

上杉家の忠臣[編集]

討ち入りを聞いた上杉綱憲は実父を助けるため吉良邸への出兵を宣言。しかし江戸家老・色部安長(または千坂高房)が上杉の御家を守るために主人の前に立ちふさがり、「殿は吉良家の御当主にあらず!上杉家の御当主でございますぞ」と一喝。綱憲はその迫力に威圧されて出兵を諦めるしかなかった。大佛次郎の小説『赤穂浪士』に上杉家の江戸家老が上杉綱憲を止める場面があることにちなむ。しかし色部は実父の喪に服していてこの日上杉家に出仕しておらず、このようなことはできなかった。実際に綱憲を止めに来たのは家臣ではなく上杉家親族の高家畠山義寧。また討ち入り中ではなく討ち入り後のことである。

色部や千坂ではなく、綱憲の母富子が綱憲を押しとどめるという逸話もある。

南部坂雪の別れ[編集]

討ち入り直前、大石良雄は赤坂・南部坂に住む浅野長矩正室・瑤泉院のところへ最期のあいさつへ向かう。

しかし吉良か上杉の間者が聞き耳を立てていたので口頭で討ち入りのことを伝えることはできず、その場では「他家に仕官するので最後に殿にご焼香させてください」と述べた。瑤泉院はそれに激高し「不忠臣の焼香など殿は望まない。失せよ」と大石をののしって追い払う。大石はこっそりと討ち入りに加わる者たちの名前を連ねた書状を置いて立ち去るより他になかった。そして邸外から瑤泉院の方へ向けて土下座して不敬を詫びたというもの。

物語によっては、その後間者が連判状を盗もうとして発覚、瑤泉院が大石の真意に気づき彼を罵った事を後悔するという場面がある場合もある。

その他[編集]

「不忠臣」のその後[編集]

赤穂藩浅野家家臣は士分だけでも300名以上いたが、このうち討ち入りに参加したのは46名で(寺坂は士分ではなく足軽身分)、8割以上が討ち入りに参加していない。討ち入りに参加した藩士が義士として称えられれば称えられるほど、その反動として、討ち入りに参加しなかった者とその家族に対しては幕末まで厳しい批判が向けられることになっていった。討ち入りに参加した浪士の子弟らは各藩から争って招聘される一方、脱盟者で後に仕官が適った者は大石信興以外には確認されていない。小山田庄左衛門の父小山田一閃は、息子が同志の片岡高房から金を奪って逃げだしたことを恥じて自害しており、また岡林直之も兄の旗本松平忠郷から義挙への不参加を責められ切腹させられた。旗本内田家の養子に入ったはずの高田郡兵衛も悪評に耐えかねた養父内田元房に家を追い出されるなどしている。元赤穂藩士たち、およびその子孫は町人からさえ「義挙に加わらなんだ不忠者」と蔑まれ、味噌、醤油さえ売ってもらえず、出自を隠して変名を名乗るほかなかったとも伝えられる。

ただし、江戸時代に同様の事件で改易、取り潰しにあった大名家の家臣で徒党を組んで正面切った意趣返しをしたのは本件だけであり、その他の浪人に対し討ち入りをしなかったとして倫理的な批判が向けられたわけではない。

また、「不忠臣」と呼ばれるが、討ち入りを事前に密告した者はいなかった。

刃傷の理由[編集]

浅野長矩の「この間の遺恨覚えたか」という発言に関しては、『梶川筆記』にも『多門筆記』にも『内匠頭お預かり一件』に長矩が「遺恨あり」と証言していることが記されている。いずれの書物も長矩が遺恨を主張していることについては触れているが、刃傷の原因となった「遺恨」の細かい内容については記していない。 当事者が語っていないからであり、刃傷の動機は「永遠に謎」であり、語られる動機は全て推測・創作である。

『忠臣蔵』など芝居に由来する創作では、院使饗応役の伊達村豊が黄金100枚、狩野探幽の絵などを吉良義央へ進物をしたのに対して、潔癖な浅野長矩は鰹節2本しか贈らなかったために賄賂好き(後述の様に、現在の賄賂とは意味合いが異なる)な吉良の不興を買い、饗応役に不慣れな浅野長矩に対して勅使への音信、増上寺の畳替え、殿中礼服の違いなど事あるごとに苛めたことが原因としているものが多い。しかし長矩は17年前の天和3年(1683年)にも同じ勅使饗応役に就任している。ただしこの17年間で物価は大幅に上昇しており、そのことを考慮せず、不興を買った可能性はある。 また吉良本人は直前まで上洛し、更に自身の発熱および大井川の増水により帰京が予定より大幅に遅れており、実際の饗応指導は部下にあたる高家品川伊氏・畠山義寧が行ったことから、途中で何らかの連絡ミスが発生した可能性もある。

また進物や賄賂についても、公費予算から支出される現代の公務員と異なり、高家や勅使饗応役の大名は必要経費を自弁しなければならなかった(言葉を換えれば、旗本や大名に与えられている所領は、現代の公務員の給料とは異なり、そういった公務における必要経費を含めた支給である)。広大な領地と莫大な石高をもつ大名ならこれも何とかなるであろうが、一方の高家は家格は高いとはいえど所詮、旗本に過ぎないので、わずかな領地と石高しかもっていない。吉良家は高家の最名門の家柄であるが、それでも石高で言えば4,200石。5万石の浅野長矩の収入に及ぶべくもない。高家が饗応役を命じられた大名から進物をもらうことは、賄賂というよりも授業料や必要経費の性格が強い(言葉を換えれば、大名から授業料を受け取る立場にある高家は領地が少なく、また饗応役に命じられる大名にとっては、高家に支払う授業料も必要経費の一部である。また大名から授業料を受け取った高家も、当然ながらそれを全て私する訳ではなく、上洛折衝等の役目を果たすための必要経費に用いる事となる)。そもそも当時の武家社会では賄賂自体が卑しまれている類のものではなく、庶民や後世の視点で見て不正なものである賄賂と、後世の視点で見ても正当なものである授業料が混同されている事に留意する必要がある。

浅野長矩と吉良義央のそれぞれの領地で産出するの製法と販路の問題で対立があったという説があった。これは吉良出身の作家の尾崎士郎が自らの随筆『吉良の塩』の中で唱えていたものである。堺屋太一もこの説に基づいて『峠の群像』を執筆し、NHK大河ドラマになっている。しかし、実際には吉良の領地にあったとされる塩田の遺跡は旗本大河内家の領地であった。塩による遺恨説は、飛び地の領地に気付かずに吉良の領地に塩田があったとしてしまったものであり、今日では「塩田説」は否定されている。

両者の性格に原因を求める説もある。浅野長矩については痞(つかえ)という、今で言う心療内科的な持病をもっていたという逸話が残っていることから、生来短気な人物だったのではないかとも言われている。史実だけを見ると、浅野長矩は、四十七士の1人千馬光忠を閉門処分にしており、重臣近藤正憲も組頭から解任している。また四十七士の1人不破正種も藩から追放している。このうち千馬は直言癖があり、不破は人を斬って、それぞれ浅野を激怒させたといわれている。

吉良義央は、亀井茲親を苛めたという逸話が津和野に残っており、嫌がらせが常習的だったとも言われる。大河ドラマ『元禄繚乱』などもこの説を採っており、吉良が田舎大名が困るのを面白がるような描き方をして、サディスト的な性格を持っていたことを強調している。ただし亀井の逸話の初出は元禄赤穂事件から数十年後の『仮名手本忠臣蔵』成立以後であり、創作の疑いが強い。

また史実を見ると、吉良義央は、息子が当主となっている米沢藩上杉家に対して吉良家の大量の買い掛け金や自邸の普請費用を押し付けて、上杉家勘定方を困らせている。破綻寸前となった上杉家を上杉鷹山が立て直すエピソードが有名だが、そこまで上杉家を傾けたのは吉良とも言われている。

しかし、実際には関ヶ原の戦いに際して上杉家は徳川家康に敵対し、米沢藩30万石に減封されるものの、120万石を領有していた当時の藩士を解雇しなかったため、収支に対し人件費だけでも倍の出費を強いられ、また体面を保つための出費も著しかったなど、一概に吉良のみを非難する向きも疑問があり、『仮名手本忠臣蔵』を盾に自藩の失策を弁明しているとも受け取る事が出来る。

吉良義央が浅野長矩に美しい小姓を譲ってくれるよう懇望したが、断られたため恨みをいだいたという男色衆道)遺恨説も、幾つかの文献に記されている。

学術的にはほとんど取り上げられていないものの、陰謀史観の一つとして、本来は吉良義央の側を陥れるはずだった陰謀に浅野長矩が利用されたとの説、桂昌院の従一位叙任を阻止しようとした御台所鷹司信子の陰謀説、幕府の役人と結びついた塩商人が赤穂の塩を狙い、赤穂藩を潰して天領にし儲けを得ようとしたという説もある。

浅野長矩は統合失調症(精神分裂病)であったとする説もある。なお、吉良の傷を治療した栗崎道有という医者が、当時の長矩について「乱心にあらず」と記録しているとする主張があるが、実際には栗崎は幕府がそのように判断したと書いているのであって、栗崎自身が判断したわけではない。そもそも、当然ながら当時の医学レベルは現代と比べれば低いものであり、しかも医者ですらない幕府の診断の正確性については裏付けは無い。統合失調症説を出した精神科医の考えにも問題がある。浅野長矩の母方の叔父・内藤忠勝を精神分裂病と決めつけた上で遺伝的な要因があるとしたが、内藤忠勝による刃傷事件で彼の「失神」(乱心)が原因とした公的発表には根拠が無いし、仮に内藤忠勝が統合失調症だとしても叔父と甥の関係ではそれほど高頻度に発症するものでないことは精神医学上の常識である。[要出典]

大石良雄の意図[編集]

大石良雄がお家再興を第一とし、討ち入りを引き伸ばして家臣に不評を買った点から、「初め内蔵助には討ち入りを行う意図は無かったのではないか」という推測もある。実際には、刃傷事件4か月後の元禄14年7月の大石の自筆の手紙(お家再興嘆願を依頼された遠林寺の僧侶祐海への手紙)に「吉良殿つつがなきところは、大学様ご安否次第と存じ候」とある。

幕府裁定の正当性[編集]

本件に関する幕府の裁定は浅野長矩の殿中抜刀に対する処罰だけで、これは相手の生死や傷害の程度・抜刀の理由に関係なく、無条件に死罪となる。これに対して吉良義央は抜刀はしていないので無罪となる。唯一の目撃者である梶川頼照は「老中・若年寄・大目付列席のもと、質問された。老中が『吉良は刀に手をかけたか、または抜いたのか?』と聞いたので、私は『帯刀には手をかけ申さず』と答えた」と記していることから、幕府は殿中抜刀に集中して審議をしていたことがうかがえる。この幕府裁定は当時として妥当であり、前例にも沿っており、問題は無いとするのが通説である。

しかし、主君である浅野長矩だけが切腹となり、吉良義央に咎めがなかったのは「喧嘩両成敗」に反すると浅野家の家臣達が憤慨したと主張する説もある。だが、幕府が喧嘩両成敗を殿中抜刀の被害者に適用した例はない。そもそも、松の廊下事件においては、浅野が背後から一方的に吉良に斬りつけ、吉良は気を失っているので「そもそも喧嘩として成立していない」「よって喧嘩両成敗は考慮できない」。

元禄赤穂事件以前に起こった江戸城内での刃傷沙汰には次のものがある。

  • 寛永4年(1627年):小姓組猶村孫九郎が、西の丸で木造氏、鈴木氏に切りつけた事件。鈴木は死亡。木造は助かった。加害者猶村は殿中抜刀の罪により切腹改易、被害者鈴木はその時の傷がもとで死亡。木造は逃げたことを咎められ、改易となった。加害者は死罪、被害者は死亡と改易の例。
  • 寛永5年(1628年):目付豊島信満が、西の丸表御殿で縁談のもつれから老中井上正就に斬りつけ、正就と制止しようとした青木忠精を殺害し、その場で自害した(豊島事件)。被害者加害者共に死亡の例。
  • 寛文10年(1670年):殿中の右筆部屋で、右筆の水野伊兵衛と大橋長左右衛門が口論になり、水野伊兵衛が刀を抜いた。水野伊兵衛は殿中抜刀の罪で死罪となった。喧嘩相手の大橋長左右衛門は無罪。殿中抜刀で水野が死罪となり、喧嘩相手の大橋は無罪である。加害者は死罪、被害者は無罪の例。
  • 貞享元年(1684年):若年寄稲葉正休が、本丸で大老堀田正俊を殺害し、正休もその場で老中らによって殺害された事件。加害者被害者共に死亡の例。

「浅野長矩が吉良義央に斬りかかったのは、相応の理由があった」とするのであれば、吉良に対して一切の咎めが無いのは不公正である、という論は成り立つ。そして、その論をわかりやすく説明する上で「喧嘩両成敗」という言葉を持ち出すのであれば、あながち間違っているとはいえない。また吉良には一切非が無いのであれば、浅野の行動はまさしく乱心であり、赤穂藩に対する幕府の処分は過酷にすぎる、という論も成り立つ。

後年の例としては享保10年7月28日1726年8月25日)に江戸城本丸で発生した事件がある。水野忠恒松本藩主7万石)が扇子を取りに部屋に戻ったところ、毛利師就(長府藩主5万7,000石)が拾ってくれたが、そのとき毛利は「そこもとの扇子ここにござる」と薄く笑ったため、水野は侮辱されたと思い、毛利を討とうと斬りかかった。しかし、水野は周りにいた者に取り押さえられ、水野も毛利も双方が助かってしまった。このとき将軍徳川吉宗は、水野の行動を乱心によるものであると裁定し、秋元喬房に預かりとして改易に処しながらも切腹はさせず、また親族の水野忠穀に信濃国佐久郡7,000石を与えて水野家を再興させた。そのうえで毛利家は咎めなしとした。その結果、水野家からも毛利家からも不満の声は上がらなかった。同じ事例でも徳川吉宗と徳川綱吉の違いがここにあると言われる。

討入に関する説[編集]

討入は、はじめ元禄15年12月5日1703年1月21日)に予定されていたが、将軍が柳澤吉保の屋敷に御成りになるからこの日は避けたという。これは、堀部金丸が元禄15年12月11日付で大石良穀に宛てて書いたという書状(去ル五日相延候会日相定候哉……)による。12月2日に深川八幡の前の大茶屋で吉良邸襲撃に関する最後の全体会議が行われたが、それについて書いたなかには12月5日討入予定の話はない。12月6日が最初の討入予定日だったという説もある。12月14日(正しくは12月15日未明)の討入は、諸史料を照らして暁7ツ(午前2時40分)頃行われたとされている。この日であれば、月齢13.6、月没時刻は午前5時17分。月没時刻までは月明かりがある。12月5日であれば月齢3.5で月没は午後8時55分。三日月のような細い幼い月で早々に沈んでしまう。眠りの深くなったま夜中や未明に奇襲襲撃するとすれば月明かりは役に立たない。月没後、腰に刀を差し松明を片手に持って梯子を上って闇の中に飛び降りる。そのようなことは不可能。12月6日であっても、月齢4.5で、月没は午後9時55分。15日のように表門の脇に梯子を立てて、それを上って暁に吉良邸内に入ることはできない。堀部武庸の従兄で討入の際に堀部金丸に付き添った佐藤一敞の覚書によれば、12月15日の「7半過」(午前5時を過ぎた頃)に月は家の蔭に隠れ、薄暗くなった(七半過ニ茂可成哉と存候月の入際ニて家之陰江月落薄暗成候)。月没後は、皆が手に灯りを持っていたという。

従来は、堀部武庸ら江戸急進派による度重なる督促や、浅野長広の広島浅野家預かりによって赤穂浅野家再興の可能性がなくなったことにより、大石良雄のとる道は討入になったとされていたが、討入は幕府主導によって計画的に行われたとする説が有力になってきた。その理由のひとつは、12月13日付で大石が赤穂の3人の僧に宛てた書簡のなかに、「若老中(若年寄)も知っているようだ。(討入は)うまくいくだろう」という意味のことが書かれている。また、堀部武庸ら3名が大石に元禄14年8月19日付で連名で送った書簡のなかで、吉良の本所移転が確定したような書き方をしているが、本所屋敷の先住者・松平信望に屋敷替の命が出されたのが8月12日で翌日には移転先の屋敷の受取証を提出している。吉良に屋敷替の命があったのはその後であり、本所屋敷の受領証を提出したのは9月3日である。この流れからしても堀部武庸らが吉良の本所移転の情報を得たのは早すぎる。松平信望の屋敷だったときには南が正面であったのに、吉良屋敷になってから正面が東になっている。吉良屋敷の絵図面を見ると東に表門があるにもかかわらず、表玄関が南向きである。本所屋敷が松平信望のものであった時代の江戸の地図や幕府普請方の役所用資料においても、南が正面であったことが確認できる。表門が移設された、ということである。天和3年1月12日(1683年20月8日)日発令の触れによって町の防火対策として屋根番制度が始まった。風の激しい時には屋根番を屋根の上に立たせて監視するというもので、大岡忠相によって町の火の見櫓(10町に1つ)と火の見櫓のない町では「枠火の見」と呼ばれる火の見梯子が設置されるまで、屋根番制度は続いた。吉良屋敷の正面が南であった場合、本所相生町2丁目の屋根の上に立てば表門周辺はまる見えになる。東に表門を移設すればたとえ相生町2丁目で屋根番が立ったとしても、死角になる。表門の移設は、町人に討入の実態を見させないための策であった。さらに、2ツ目の道沿いに中山直房の屋敷があった。初代火付改で、「鬼勘解由」という異名で恐れられた人物である。中山直房は事件当時は火付改の現職ではなかったが、「鬼勘解由」の話は後世まで語り継がれていた。また、中山直房は当時は御使番の職にあって、火事のときには大名火消定火消を管理・監督することが職務のうちにあった。火事を装った討入とするための条件が、すべてそろっていたのである。[要出典]

後世の顕彰[編集]

1868年(明治元年11月)、東京に移った明治天皇は泉岳寺に勅使を派遣し、大石らを嘉賞する勅語を贈った。これは江戸庶民に親しまれていた大石を顕彰することで、新政府への共感を得る効果があった[8]

仇討ちという表現の妥当性[編集]

旧来より、赤穂浪士の仇討ち(あこう ろうしの あだうち)、吉良邸討ち入り(きらてい うちいり)などと呼ばれた事件で、曾我兄弟の仇討ち伊賀越えの仇討ちと並んで「日本三大仇討ち」に数えられる[9]

しかしながら、仇討ちというのは、元来、直接の尊属を殺害した者に対して復讐を行う行為である。「日本三大仇討ち」というものの、本当の仇討ちに当たるのは「曾我兄弟の仇討ち」のみである。「伊賀越えの仇討ち」については、主君の遺命によるものであり、つまり「上意討ち」であるというのが正しい。そして「元禄赤穂事件」においては主君の命令すら無く、家臣が勝手に主君の意思を忖度しての行動であり、上意討ちであるかどうかすら疑問である。

さらには、仮に直系の尊属のみならず、主君を殺害した者に対しての復讐についても、広義の「仇討ち」と解釈するとしても、吉良を討った行為が復讐にあたるかどうかも疑問である。浅野は「殿中抜刀の罪で死罪」になったのであり、吉良が浅野を殺害したわけではない。むしろ逆であり、浅野が吉良に対して殺人未遂を犯しているのである。復讐であるとすれば、浅野にそこまでの行動をさせた吉良のそれ以前の行動に問題があった、という事になるが、浅野が吉良を斬ろうとした動機は全く不明であるのは、上記の通りである。

よって吉良を指して浅野の仇と表現することには妥当性の検討が必要であり、史実事件として本件を考察する場合に、安易に「仇討ち」と表現することには問題がある。

幕府裁定では「46士の行為は、義ではあるが私の論である。長矩が殿中もはばからないで罪に処されたのを、吉良を仇として公儀の許しもないのに騒動をおこしたことは、法をまぬがれることはできない」とされており、吉良を仇とすることは否定されている。

現在の学者の間でも幕府裁定は妥当というのが通説である。[要出典]

類似の事件[編集]

赤穂浪士の吉良邸討入りに類似した事件には、討入りの30年前に起こった寛文12年(1672年)の浄瑠璃坂の仇討がある。 浄瑠璃坂の仇討宇都宮藩を脱藩した奥平源八が寛文12年(1672年)2月3日に父の仇である同藩の元藩士奥平隼人を討った事件である。 源八の一族40人以上が徒党を組んで火事装束に身を包み、明け方に火事を装って浄瑠璃坂の屋敷に討ち入ったという方法などは、30年後に起こる元禄赤穂事件において赤穂浪士たちが参考にしたとされている。 源八ら一党は、幕府に出頭して裁きを委ねた。幕府は本来ならば死罪であるところを死一等を減じて伊豆大島への流罪という寛大な処分を行った。 恩赦後、一党は他家へ召抱えられた。 この事件を知っていた赤穂浪士は同様の寛大な処置を期待していた可能性もある。

事件を題材とした作品[編集]

事件後はさまざまな劇化が試みられ、討入りから45年後の寛延元年8月(1748年8月)人形浄瑠璃『仮名手本忠臣蔵』が初演され、同年12月(1749年1月)には歌舞伎として上演された。同作は多くの観客を呼び、事件を元にした作品群の代表的存在となっている。劇化の詳細については「忠臣蔵」を参照。

なお、映画やテレビドラマでは、松之大廊下での刃傷事件時の吉良義央の装束が狩衣あるいは大紋となっているのが見受けられるが、狩衣は四品侍従成していない従四位下の者)、大紋は侍従成していない五位の者の装束であり、朝廷との交渉を職務とする高家(初任従五位下侍従)の装束は昇殿できる直垂である。この時代考証の誤りは、「四品=四位の者全員のはず」あるいは「儀礼においては侍従成の有無より四位か五位かが優先されるはず」とする誤解に基づいている[10]

事件を題材とした評論[編集]

  • 丸谷才一 『忠臣蔵とは何か』(1984年)ISBN 406196013X (忠臣蔵のみならず、事件の本質にも言及)
  • 野口武彦 『忠臣蔵 赤穂事件・史実の肉声』(ちくま新書 1994年 ちくま学芸文庫 2007年)
  • 尾崎秀樹編 『徹底検証「忠臣蔵」の謎』(講談社文庫 1998年)

脚注[編集]

  1. ^ http://www.chugoku-np.co.jp/News/Sp200912090243.html
  2. ^ 忠臣蔵とは何か 丸谷才一
  3. ^ 泉(1998) p.119
  4. ^ a b 泉(1998) p.120
  5. ^ a b 泉(1998) p.121-122
  6. ^ 泉(1998) p.278
  7. ^ 泉(1998) p.122/279
  8. ^ NHK教育知るを楽しむ・歴史に好奇心』「ナナメ読み忠臣蔵・第4回・事件はこうして美談になった」2008年12月25日放送分
  9. ^ なお、鎌倉時代初期に起きた曾我兄弟の仇討ちを除き、浄瑠璃坂の仇討を加えると「江戸三大仇討ち」となる。
  10. ^ 高家の装束が直垂であることは、神坂次郎著『おかしな大名たち』所収の大沢基寿の史談会での談話に明らかである

参考文献[編集]

関連書籍[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]