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* [[クリストフ・メッツェルダー]]
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* [[ペア・メルテザッカー]]
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* [[ヴォルフガング・オフェラート]]
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* [[ギュンター・ネッツァー]]
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* [[シュテファン・エッフェンベルク]]
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* [[カール=ハインツ・リードレ]]
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* [[ウルフ・キルシュテン]]
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* [[マリオ・バスラー]]
* [[オリバー・ビアホフ]]
* [[オリバー・ビアホフ]]
* [[オリバー・ノイビル]]
* [[オリバー・ノイビル]]
* [[カルステン・ヤンカー]]
* [[ミロスラフ・クローゼ]]
* [[ミロスラフ・クローゼ]]
* [[ゲーラルド・アサモア]]
* [[ゲーラルド・アサモア]]

2014年1月29日 (水) 12:30時点における版

サッカードイツ代表
国または地域 ドイツの旗 ドイツ
協会 ドイツサッカー協会
愛称 Die Nationalelf, Die Mannschaft
監督 ヨアヒム・レーヴ
最多出場選手 ローター・マテウス(150試合)
最多得点選手 ゲルト・ミュラー
ミロスラフ・クローゼ(68得点)
ホームカラー
アウェイカラー
初の国際試合 1908年4月5日スイス
3-5
最大差勝利試合 1912年7月1日ロシア
16-0
最大差敗戦試合 1909年3月16日イングランド(アマチュア)
0-9
FIFAワールドカップ
出場回数 17回(初出場は1934
最高成績 優勝(195419741990
UEFA欧州選手権
出場回数 10回
最高成績 優勝(1972、1980、1996)

サッカードイツ代表ドイツ語Deutsche Fußballnationalmannschaft ドイチェ・フースバルナツィオナルマンシャフト)はドイツサッカー協会(DFB)により編成されるサッカーのナショナルチームである。愛称はマンシャフトMannschaft](独語で“チーム”、”集団”の意)である。

1990年ドイツ再統一に際して、ドイツ連邦共和国(西ドイツ)がドイツ民主共和国(東ドイツ)を編入した経緯があるため、慣例的に西ドイツ代表の歴史、記録はドイツ代表のものに含まれる。逆に東ドイツの歴史、経歴は現在のドイツ代表とは別個に扱われる。東ドイツ代表に関してはサッカー東ドイツ代表を参照のこと。

又、本項目に於いて東西別に代表が編成される1952年から東西ドイツが再統一される1990年までの事項に関しては「西ドイツ代表」と呼称されていたものに相当する。

概要

ドイツ代表は、西ドイツ時代を含め、世界を代表する強豪国の一つである。FIFAワールドカップでの成績は優勝3回、準優勝4回、決勝戦には7回進出している。 特にベスト8以上進出については他を隔絶しており、2010年大会で15大会連続まで伸ばした(次点はブラジルほかの5大会連続であり、現在いずれも既に途切れている)。UEFA欧州選手権での優勝回数は3回、準優勝3回、都合決勝戦には6回進出している事になる。この数字もヨーロッパ最多を誇る。 FIFAランキングで1位になった経験を持つ7カ国の1つでもある。

20世紀から21世紀の世紀転換期において、ドイツ代表にもヨーロッパ各地で見られる移民の影響が反映されるようになった。ドイツでの特徴として中央ヨーロッパバルカン半島、そして特にトルコ系移民がドイツ代表に選出されることが増えていることが挙げられる。これは、神聖ローマ帝国ハプスブルク帝国プロイセン王国といった旧ドイツ系国家が、海岸線が少なく欧州の中央に位置する事情から、伝統的に他大陸よりは欧州内で植民地を広げてきた歴史を反映している。 隣国のフランスイングランドほど多くはないが、これらのナショナルチームと同様にアフリカ系の移民選手も誕生している。

2000年代中期までは恵まれたフィジカルを活かした肉弾戦と安定した足元の技術、強靭な精神力(日本では「ゲルマン魂」と表現されることが多い)[1][2]を重視したプレースタイルで知られていたが、クリンスマン政権以降元々のフィジカルに加え組織的な守備とパスワーク、綿密なデータを組み合わせた柔軟なスタイルに変動しつつある。 伝統的にゴールキーパーに同世代で世界クラスの選手を複数輩出していることでも知られ、重要な大会の際監督を常に悩ます種となっている。 チームの特徴としてPK戦に強く、ワールドカップで4度PK戦を経験しているが敗退したことはない。なお、4度のPK戦でPKを外したのは1982年スペイン大会準決勝フランス戦のウリ・シュティーリケのみである(W杯とEUROで合計28人が蹴りそのうち26人が成功している)。

ユニフォームは白いシャツとソックス、黒いパンツをホーム用に用い、現在の国旗(プロイセン王国の国旗が白と黒である)の色をチームカラーとしない(他にイタリアオランダ日本などがある)珍しい仕様である。エンブレムはドイツの国章をアレンジしたもので、それにW杯優勝を示す星を3つ配している。

西ドイツ時代から世界トップクラスの実力と実績を残してきが、イタリアを大の苦手としている。W杯では2分3敗、欧州選手権でも2分1敗と主要国際大会の本大会で一度も勝った事がない。最近では2012年の欧州選手権準決勝で対戦し、1-2で敗れた。

歴史

第二次世界大戦以前

ドイツ帝国時代の1900年に成立したドイツサッカー連盟(DFB)は1904年にFIFAの創立メンバーとなり、1908年に初の代表チームを編成した。バーゼルでのアウェーゲームとなった初試合ではスイスに敗れ、翌1909年にはイングランドに同代表史上最悪スコア(0-9)での惨敗を喫したが、6試合目となる同年のスイス戦(カールスルーエで開催)で初勝利を挙げた。1912年ストックホルム五輪オリンピック初出場を果たしたが、予選ラウンドでオーストリアに敗れた。なお、この後のロシア戦の勝利(16-0)がドイツ代表の史上最良スコアとなっている(サッカー競技参照)。その後、1914年4月にオランダアムステルダムで対戦したのを最後に、第一次世界大戦による活動中止を余儀なくされた。

第一次大戦の敗北で帝政が崩壊し、ワイマール共和国へ移行してから3年後、1920年にドイツ代表は再び活動を開始した(6月27日、チューリッヒでスイスに1-4で敗北)。以後もスイス・オランダ・スウェーデンなどの近隣諸国との対戦を重ね、1928年にはアムステルダム五輪サッカー競技にも参加した。

1933年アドルフ・ヒトラーが政権を獲得してナチス・ドイツ体制が成立した後もドイツ代表の活動は活発で、1934年イタリア大会FIFAワールドカップに初参加すると3位に入り、1936年には開催国だったベルリン五輪でベスト8となった(サッカー競技参照)。ゼップ・ヘルベルガーが監督になったドイツ代表は1938年6月開催のW杯フランス大会にも出場を決めていたが、3月にドイツがアンシュルスオーストリアを併合すると、ドイツ代表は「オストマルク」と改称された旧オーストリア地域代表との親善試合を行い、オーストリア出身選手をドイツ代表に組み込んでW杯に臨んだ。しかし、1回戦で再試合の末にスイスに敗れた。

1939年9月に第二次世界大戦が始まってもドイツ代表の活動は活発で、イタリアやハンガリーなどの枢軸国や、スイス・スウェーデンなどの中立国、それにドイツによって創立されたクロアチア独立国やスロヴァキア共和国(独立スロヴァキア)などとの対戦を行った。しかし、1942年11月22日のスロヴァキア戦(ブラチスラヴァ、5-2で勝利)を最後に活動を停止し[3]1945年5月のドイツ降伏と共に代表チームやドイツサッカー連盟も消滅した。

西ドイツ時代

第二次大戦後、ドイツは東方の領土を失った上で連合国による分割統治を受け、1949年にはドイツ連邦共和国(西ドイツ)とドイツ民主共和国(東ドイツ)の成立により東西分断が確定した。西側では1950年にDFBが旧名のまま復活し、同年11月22日にはシュトゥットガルトでスイス相手に西ドイツ代表としての初試合を行った(1-0で勝利)。監督にはナチスへの協力により戦争責任を追及されていたヘルベルガーが復帰した。一方、1952年9月21日にはサッカー東ドイツ代表の初試合が行われた。

DFBのFIFA復帰が認められてからの初大会となった1954年大会は、当時マジック・マジャールと呼ばれたハンガリー相手に決勝戦で3-2で勝利した(ベルンバンクドルフ・スタジアムで開催)。これがワールドカップにおけるドイツの初優勝である。この大会ではグループリーグでもハンガリーと対戦していて、その時は3-8で敗れている。現在ではこの敗戦も含めてヘルベルガー監督にはしたたかな計算があったと考えられている。この勝利は「ベルンの奇蹟」(de:)と呼ばれ、復興途上の西ドイツ国民に大きな希望を与えた[4]。一方、マジック・マジャールは1956年ハンガリー動乱により多くの主力選手が亡命し、再戦の機会を与えられないまま消滅した。

1966年大会では、決勝まで進んだ。対戦相手は地元イングランドであった。試合は1-2で迎えた後半ロスタイムにヴェーバーが同点ゴールを決める粘りを見せる。結局延長前半10分過ぎに放たれたジェフ・ハーストのゴールが決まり、その後ハーストにもう1点浴びて力尽きた。延長の最初のゴールはボールがバーを直撃した後に地面を叩いたが、ゴールラインの中か外か非常に微妙な位置に落ちており、主審は副審にも確認してゴールの判定を下した。コンピュータグラフィックなどによるシミュレーションではゴールの外と言う説が有力になっており、86年大会のディエゴ・マラドーナの神の手ゴールと並んで大会史上に残る疑惑のゴールとしても知られる。

1970年大会では、準々決勝でイングランドと再び顔を合わせた。後半5分までに2点を先制される苦しい展開だったが、23分にフランツ・ベッケンバウアー、36分にゼーラーがゴールを挙げて同点に追いつくと、延長後半3分にゲルト・ミュラーが決勝点を挙げ、前回大会の雪辱と準決勝進出を果たした。準決勝のイタリア戦は、前半7分に先制されその後カテナチオと呼ばれるイタリア伝統の堅い守備に苦しんだが、試合終了間際のロスタイムにシュネリンガーが同点ゴールを挙げた。そして延長前半5分にミュラーが勝ち越し点を決めるが今度はイタリアが反撃し、8分、11分と立て続けにゴールを挙げて再逆転する激しいシーソーゲームとなった。しかし西ドイツも延長後半5分にミュラーが同点ゴールを挙げる粘りを見せる。その2分後にジャンニ・リベラに決勝ゴールを浴びて力尽きたが、2200メートルと言う高地での過酷な状況に加え、後半に右肩を脱臼しながらも選手交代の枠を使い切ってしまったために試合終了までピッチに立ち続けたベッケンバウアーの奮闘など、印象に残る試合となった。

1974年大会ではトータルフットボールを掲げたオランダとの決勝戦で、フランツ・ベッケンバウアー率いる西ドイツ代表はリベロという概念をピッチに持ち込み、2度目のワールドカップ優勝を成し遂げた。

1982年大会準決勝のフランス戦では、1-1で迎えた延長前半2分にトレゾール、さらに8分にはアラン・ジレスのゴールでフランスにリードを奪われる。しかしここからゲルマン魂を発揮。直後に怪我でスタメンを外れていたカール=ハインツ・ルンメニゲが入ると流れが変わり、12分にそのルンメニゲが、そして延長後半3分にはフィッシャーがオーバーヘッドで劇的な同点ゴールを挙げる。試合はこのままPK戦へ突入し、5-4で西ドイツが決勝に進んだ。しかしGKハラルト・シューマッハーがフランスのパトリック・バチストンと交錯、重傷を負わせるという場面もあった。

1986年大会は世代交代の過渡期で苦戦の連続だったが、準決勝で因縁のフランスを退けて2大会連続で決勝に進んだ。アルゼンチンとの決勝ではディエゴ・マラドーナを抑えながらも前半21分にホセ=ルイス・ブラウン、後半10分にホルヘ・バルダーノにゴールを許す苦しい展開となった。しかし、後半28分にルンメニゲ、更に36分にはルディ・フェラーがゴールを挙げる粘りを見せた。その3分後に攻めあがった裏をマラドーナにスルーパスで突かれ、独走したホルヘ・ブルチャガに決められて2-3で力尽きた。

1982年、1986年と2大会続けて決勝で敗れたが、1990年大会は、前回大会の雪辱を期して引き続きベッケンバウアーが監督としてドイツ代表を率いて参加した。決勝ではディエゴ・マラドーナ擁するアルゼンチンと対戦。この決勝戦ではマラドーナをギド・ブッフバルトが完封するなど守備的に進行し、アンドレアス・ブレーメのPKによる得点が決勝点となり3度目の優勝を成し遂げた。

東西ドイツ統一後

1990年のドイツ再統一により、東西のナショナルチームが合体。ナショナルチームの名前から「東」「西」が外れた「ドイツ代表」が再生した。このチームは大半が旧西ドイツ代表選手で占められたが、旧東ドイツからはマティアス・ザマーが選出され、やがて統一ドイツ代表の主力となった[5]

ベルティ・フォクツに監督が変わり、統一ドイツとして初めての国際舞台は1992年、スウェーデンでの欧州選手権だった。クラウス・アウゲンターラーピエール・リトバルスキーが代表から引退した以外は90年W杯のメンバーはほとんど不動で、グループリーグでオランダに2年前の借りを返されたものの、準決勝で地元のスウェーデンに3-2と競り勝って決勝に進出。しかし、急遽の代替出場ながらもイングランド、フランス、オランダと強豪国を抑えて決勝に進出したデンマークの勢いに圧され、0-2で敗れ準優勝に終わった。

1994年アメリカW杯。欧州のTV中継時間に合わせるため、デーゲームが続いたことでベテラン揃いのドイツはアメリカでの殺人的な暑さに苦しめられた。準々決勝までたどり着いたが、ボリビア韓国ベルギーに勝利するも1点差、内容でも苦しい勝負が続いた。準々決勝のブルガリア戦、ドイツは後半2分にマテウスがPKで先制するが、30分にストイチコフにFKを決められると、その3分後にはヨルダン・レチコフにダイビングヘッドを決められて1-2で敗退。この大会を最後にギド・ブッフバルトルディ・フェラーアンドレアス・ブレーメなどの4年前の優勝メンバーは代表を引退したが、フォクツは留任となった。

1996年、イングランドでの欧州選手権ではマテウスの後継者として攻守に貢献したザマーの活躍で優勝した。特に、地元イングランド相手にPK勝ちした準決勝、そして決勝ではチェコ相手に苦戦しながらもゴールデンゴールでの逆転勝利を収めた。ザマーの他にもオリバー・ビアホフクリスティアン・ツィーゲメーメット・ショルといった新戦力が台頭していた。

しかし、ザマー、ショルは2年後のフランスW杯を長引く故障で辞退。ザマーの代役にフォクツの最終的にとった策は、37歳のマテウスの代表復帰だった。組み合わせにも恵まれ、準々決勝まで進んだが、ベテランに頼るチームは準々決勝のクロアチア戦で0-3の完敗。世代交代が必要なことは明らかとなった。大会後、フォクツは辞意を表明したが、世代交代を先送りしてきた代表チームの現状からか後任が決まらず、すぐには辞められない事態となった。1998年10月にエーリッヒ・リベックが後任監督となり、フォクツは退任となった。

しかし、リベックは指導者として約2年のブランクがあり、選手の把握やコミュニケーションが当初から心配されていた。2年後のオランダ、ベルギーでの欧州選手権、彼もマテウスを招集した。世代交代を先送りしたツケが回り、結果は1分2敗のグループリーグ最下位。得点は初戦のルーマニア戦の1点のみで、最後のポルトガル戦は、既に1位通過を決めてメンバーを落としてきた相手に0-3の惨敗という内容だった。リベック、そしてマテウスには批判が浴びせられ、両者共に代表を去った。後任には中堅クラブのレバークーゼンを率いてブンデスリーガの強豪に育て上げたクリストフ・ダウムで一時は決定したが、ダウムのコカイン服用が明らかになり頓挫。結局、90年W杯優勝の立役者の1人で、コーチ経験のないフェラーが監督に就任する事となった。

日韓W杯予選は大苦戦の連続だった。イングランドと同組だったが、予選初戦だったアウェーで1-0と勝ったものの、その後のホームでは1-5と惨敗。それでも最終戦に勝てば1位で出場権獲得が決まるという状況だったが、ホームでフィンランド相手にスコアレスドローに終わり、2位で回ったプレーオフの末にウクライナを破って出場権を獲得した。予選での状態から大会前にドイツを優勝候補に上げる声はあまり聞かれず、グループリーグではアフリカの雄カメルーン、予選でオランダを蹴落としたアイルランドと同組となった事で、グループリーグ敗退も囁かれていた。

しかし、本大会に入るとこれまでの不振を払拭するように快進撃を見せる。初戦のサウジアラビア戦を8-0で圧勝すると、アイルランドには終了間際に引き分けに追いつかれたが、第3戦のカメルーン戦では退場者を出しながらも2-0と勝利し、グループリーグを首位で通過。決勝トーナメントで対戦が予想されたポルトガル、イタリア、スペインが先に敗退した結果、大会を通じて一度も強豪国と当たらないという強運も味方し、パラグアイアメリカ、韓国をそれぞれ1-0で下し、決勝戦まで勝ち上がった。しかし決勝のブラジル戦では、攻撃の柱のミヒャエル・バラックが累積警告で出場停止になったこともあり、ブラジルの分厚い攻撃力に耐えるのが精一杯で、0-2で敗れた。この大会ではミロスラフ・クローゼトルステン・フリンクスクリストフ・メツェルダーなど、次代を担う若手選手が台頭した。

2004年の欧州選手権ではオランダ、ラトビアチェコと強豪揃いのグループに組み込まれた。初戦のオランダ戦は1-1のドローでまずまずのスタートを切ったが、格下のラトビアとの2戦目をスコアレスドローで終える誤算となり、3戦目では既にグループ1位で決勝トーナメント進出を決め、メンバーを落としてきたチェコ相手に1-2の逆転負け。攻撃力が振るわずに決勝トーナメント進出を逃し、フェラーは監督を辞任した。

2006年ワールドカップドイツ大会は「ドイツ代表」がホストとなる最初の大会になった。フェラーの後を継いだユルゲン・クリンスマン監督は若手を積極的に登用したが、親善試合では結果が出せず、大会直前には日本代表と引き分けるなど地元開催ながら下馬評は決して高いものではなかった。しかし、ホームでの圧倒的なドイツ国民の声援と大会得点王となったクローゼや、ルーカス・ポドルスキの活躍を受けてグループリーグを突破、決勝トーナメント1回戦でスウェーデンを、準々決勝では優勝候補の一つに挙げられていた因縁のアルゼンチンをPK戦の末破り、準決勝進出。準決勝ではイタリアに敗れ、2大会連続の決勝進出は果たせなかったが3位決定戦でポルトガルを下して3位となった。クリンスマンはワールドカップ後に辞任し、ヨアヒム・レーヴが監督となった。

2008年の欧州選手権では、1996年大会以来の決勝進出を果たしたものの、スペインに敗れ準優勝に終わった。

2010年ワールドカップ南アフリカ大会では、攻撃の要であるミヒャエル・バラックを怪我で欠くなど主力に故障が相次いだが、メスト・エジルトーマス・ミュラーなどの若手が十分にその穴を埋めた。グループリーグではセルビアに敗れたものの2勝1敗で突破し、決勝トーナメント1回戦では因縁の相手イングランドを4-1で下した。このイングランド戦ではイングランドのフランク・ランパードの放ったシュートが明らかにゴールラインを超えていたのに審判がノーゴールの判定を下すという誤審があり、一部では1966年のハーストの「幻のゴール」のリベンジなどと報じられた[6]。準々決勝では、これまた因縁の相手マラドーナ率いるアルゼンチンに4-0と圧勝した。こうして有名選手を多数擁する優勝候補達を下して準決勝へ進出し、欧州選手権決勝の雪辱を果たすべくスペインとの準決勝に臨んだが1-0で敗れ2大会ぶりの決勝進出は出来なかった。しかし3位決定戦ではウルグアイを下し、2大会連続で3位となった。この大会では、ドイツの試合結果を予言するタコパウルが話題となった。パウルは本大会のドイツの勝敗をすべて的中させている。

2012年の欧州選手権では、ポルトガル、オランダ、デンマークと強豪が揃ったグループリーグを3連勝で突破し、準決勝まで進んだがイタリアに敗れた。

ワールドカップにおいて1次リーグ敗退経験が一度もなく、さらに1954 FIFAワールドカップから15大会連続のベスト8以上、2002 FIFAワールドカップから3大会連続のベスト4と非常に安定した成績をおさめている。

成績

FIFAワールドカップ

開催国 / 年 成績
ウルグアイの旗 1930 不参加
イタリア王国の旗 1934 3位 4 3 0 1 11 8
フランスの旗 1938 1回戦註1 2 0 1 1 3 5
ブラジルの旗 1950 不参加註2
スイスの旗 1954 優勝 6 5 0 1 18 12
スウェーデンの旗 1958 4位 6 2 2 2 12 14
チリの旗 1962 ベスト8 4 2 1 1 4 2
イングランドの旗 1966 準優勝 6 4 1 1 15 6
メキシコの旗 1970 3位 6 5 0 1 17 10
西ドイツの旗 1974 優勝 7 6 0 1 13 4
アルゼンチンの旗 1978 ベスト8註3 6 1 4 1 10 5
スペインの旗 1982 準優勝 7 3 2 2 12 10
メキシコの旗 1986 準優勝 7 3 2 2 8 7
イタリアの旗 1990 優勝 7 5 2 0 15 5
アメリカ合衆国の旗 1994 ベスト8 5 3 1 1 9 7
フランスの旗 1998 ベスト8 5 3 1 1 8 6
日本の旗大韓民国の旗 2002 準優勝 7 5 1 1 14 3
ドイツの旗 2006 3位 7 5 1 1 14 6
南アフリカ共和国の旗 2010 3位 7 5 0 2 16 5
ブラジルの旗 2014
合計 出場17回/優勝3回 99 60 19 20 206 117
  • 註1 この大会の出場権を得ていたオーストリアは直前にドイツに併合(ドイツ・オーストリア合邦)されたため棄権扱いとなり、旧ドイツと旧オーストリア両国の選手がドイツ代表として出場。
  • 註2 ドイツサッカー協会のFIFAへの復帰が認められていなかった。
  • 註3 この大会は、1次リーグ突破の8チームで2次リーグ(4チーム×2組)が行われており、この2次リーグで敗退した。

FIFAコンフェデレーションズカップ

(関連する大会のみ表記)

  • 1997 - 出場辞退
  • 1999 - グループリーグ敗退
  • 2003 - 出場辞退
  • 2005 - 3位(開催国)

UEFA欧州選手権

開催国 / 年 成績
フランスの旗 1960 不参加
スペインの旗 1964
イタリアの旗 1968 予選敗退
ベルギーの旗 1972 優勝 2 2 0 0 5 1
ユーゴスラビアの旗 1976 準優勝 2 1 1 0 6 4
イタリアの旗 1980 優勝 4 3 1 0 6 3
フランスの旗 1984 1次リーグ 3 1 1 1 2 2
西ドイツの旗 1988 ベスト4 4 2 1 1 6 3
スウェーデンの旗 1992 準優勝 5 2 1 2 7 8
イングランドの旗 1996 優勝 6 4 2 0 10 3
ベルギーの旗オランダの旗 2000 1次リーグ 3 0 1 2 1 5
ポルトガルの旗 2004 1次リーグ 3 0 2 1 2 3
オーストリアの旗スイスの旗 2008 準優勝 6 4 0 2 10 7
ポーランドの旗ウクライナの旗 2012 ベスト4 5 4 0 1 10 6
合計 出場11回/優勝3回 43 23 10 10 65 45

選手

出場試合数ランキング

2013年9月7日時点
  水色は現役選手
# 名前 出場 得点 期間
1 ローター・マテウス 150 23 1980-2000
2 ミロスラフ・クローゼ 129 68 2001-
3 ルーカス・ポドルスキ 111 46 2004-
4 ユルゲン・クリンスマン 108 47 1987-1998
5 ユルゲン・コーラー 105 2 1986-1999
6 フランツ・ベッケンバウアー 103 14 1965-1976
7 トーマス・ヘスラー 101 11 1988-2000
8 フィリップ・ラーム 100 5 2004-
9 ミヒャエル・バラック 98 42 1999-2011
バスティアン・シュヴァインシュタイガー 98 24 2004-
11 ベルティ・フォクツ 96 1 1967-1978
12 ゼップ・マイヤー 95 0 1966-1979
カール=ハインツ・ルンメニゲ 95 45 1976-1986
14 ペア・メルテザッカー 92 2 2004-
15 ルディ・フェラー 90 47 1982-1994
16 アンドレアス・ブレーメ 86 8 1984-1994
オリバー・カーン 86 0 1995-2006
18 アンドレアス・メラー 85 29 1988-1999
19 アルネ・フリードリヒ 82 1 2002-2011
20 カールハインツ・フェルスター 81 2 1978-1986
ヴォルフガング・オフェラート 81 17 1963-1974
ベルント・シュナイダー 81 4 1999-2008

得点数ランキング

2013年9月7日時点
  水色は現役選手
# 名前 得点 出場 期間 得点率
1 ゲルト・ミュラー 68 62 1966-1974 1.10
ミロスラフ・クローゼ 68 129 2001- 0.53
3 ユルゲン・クリンスマン 47 108 1987-1998 0.44
ルディ・フェラー 47 90 1982-1994 0.52
5 ルーカス・ポドルスキ 46 111 2004- 0.41
6 カール=ハインツ・ルンメニゲ 45 95 1976-1986 0.47
7 ウーヴェ・ゼーラー 43 72 1954-1970 0.60
8 ミヒャエル・バラック 42 98 1999-2011 0.43
9 オリバー・ビアホフ 37 70 1996-2002 0.53
10 フリッツ・ヴァルター 33 61 1941-1958 0.54

監督

試合数などは2013年9月7日現在

名前 期間 試合数 備考
ドイツサッカー協会技術委員会 1908-1927 63 18 13 32
オットー・ネルツ 1928-1936 70 42 10 18 1934年ワールドカップ第3位
ゼップ・ヘルベルガー 1936-1964 162 92 26 44 1954年ワールドカップ優勝
ヘルムート・シェーン 1964-1978 139 87 30 22 1966年ワールドカップ準優勝、1972年欧州選手権優勝
1974年ワールドカップ優勝、1976年欧州選手権準優勝
ユップ・デアヴァル 1978-1984 67 45 11 11 1980年欧州選手権優勝、1982年ワールドカップ準優勝
フランツ・ベッケンバウアー 1984-1990 66 36 17 13 1986年ワールドカップ準優勝、1990年ワールドカップ優勝
ベルティ・フォクツ 1990-1998 102 67 23 12 1992年欧州選手権準優勝、1996年欧州選手権優勝
エーリッヒ・リベック 1998-2000 24 10 6 8 一時期、ウリ・シュティーリケと共同監督
ルディ・フェラー 2000-2004 53 29 11 13 2002年ワールドカップ準優勝
ユルゲン・クリンスマン 2004-2006 24 13 6 5 2006年ワールドカップ第3位
ヨアヒム・レーヴ 2006- 96 65 16 15 2008年欧州選手権準優勝、2010年ワールドカップ第3位
合計 865 504 169 193

関連項目

脚注

  1. ^ 例:最後に見せたゲルマン魂 ドイツ精神的な強さ発揮(産経新聞 2010年7月11日
  2. ^ 「日本サッカーの父」と呼ばれるドイツ人サッカー指導者デットマール・クラマーは「ドイツにはゲルマン魂がある。君たち日本人にも素晴らしい大和魂があるじゃないか」と言っている。 クラマーコーチと大和魂 メキシコ五輪日本代表日本トップリーグ連携機構
  3. ^ 翌23日にスターリングラード攻防戦でドイツ軍が包囲され、ドイツの苦境が明白になった。
  4. ^ これを元に2003年には同名の映画「ベルンの奇蹟」(Das Wunder von Bern)がドイツで製作・公開された。
  5. ^ その後、ディナモ・ドレスデンでもザマーの同僚だったウルフ・キルシュテンも旧東ドイツ代表からの統一ドイツ代表入りを果たした。
  6. ^ ドイツ各紙、誤審問題で「ごめんなさい。イングランド」サンケイスポーツ 2010年6月29日)

外部リンク



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