大分トリニータ
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大分トリニータ | |
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原語表記 | 大分トリニータ |
愛称 | トリニータ |
クラブカラー |
ブルー イエロー |
創設年 | 1994年 |
所属リーグ | 日本プロサッカーリーグ |
所属ディビジョン | Jリーグ ディビジョン2 |
ホームタウン |
大分市・別府市・ 佐伯市を中心とする大分県全県 |
ホームスタジアム | 大分銀行ドーム |
収容人数 | 40,000 |
運営法人 | 株式会社大分フットボールクラブ |
代表者 | 青野浩志 |
監督 | 田坂和昭 |
公式サイト | 公式サイト |
■テンプレート(■ノート)■サッカークラブPJ |
種類 | 株式会社 |
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市場情報 | 非上場 |
略称 | 大分FC |
本社所在地 |
870-0126 大分県大分市大字横尾1629 |
設立 | 1999年1月7日 |
業種 | サービス業 |
法人番号 | 1320001002904 |
事業内容 | サッカークラブの運営等 |
代表者 | 青野浩志 |
資本金 | 4億6,475万円 |
売上高 | 11億0,800万円 (2011年1月期) |
営業利益 | 9,000万円 (2011年1月期) |
純利益 | 1億1,500万円 (2011年1月期) |
純資産 | ▲10億5,200万円 (2011年1月期) |
総資産 | 2億1,600万円 (2011年1月期) |
決算期 | 1月期 |
主要株主 |
大分商工会議所 大分県他 |
関係する人物 | 溝畑宏 |
外部リンク | http://www.oita-trinita.co.jp |
大分トリニータ(おおいたトリニータ、Oita Trinita)は、日本の大分市、別府市、佐伯市を中心とする大分県全県にホームを置く、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。
概要
運営法人は株式会社大分フットボールクラブであり、1999年にJリーグへ加盟した。ホームタウンは大分市、別府市、佐伯市を中心とした大分県全県。ホームスタジアムは大分銀行ドーム(大分ビッグアイ)。練習場は大銀ドームに隣接する大分スポーツクラブを主に使用している(詳細は#ホームスタジアム・練習場を参照)。
クラブ名は、三位一体を表す英語「トリニティ(Trinity)」とホームタウン名「大分(Oita)」を合わせた造語で、イタリア語で「三位一体」を表すTrinitaと同じ綴りになっている[1]。県民・企業・行政が一致団結することを表している。
2006年、エンブレム、ロゴマーク、チームフラッグが「Tフレアー」と呼ばれるデザインコンセプトにより一新され、クラブとしての略称「大分FC」が「FC大分」に変更された。運営法人名とは無関係。クラブマスコットは、亀がモチーフのニータン。
クラブの歴史
JFL時代
1994年4月に任意団体「大分フットボールクラブ」として発足。競技登録上のチーム名は「大分」または「大分FC」で、「大分トリニティ」という愛称が付けられる。大分県社会人サッカーリーグ(当時は1部リーグのみ)と九州サッカーリーグを連覇して1996年に全国地域サッカーリーグ決勝大会(地元大分市営陸上競技場で開催)で2位に入り、設立わずか2年でジャパンフットボールリーグ(旧JFL)へ昇格。
当初は文正植、朴景和と韓国人監督の下、外国籍選手についても皇甫官、崔大植といった韓国代表歴を持つ選手を中心としたチームだった。
1998年、ブラジル人監督のフォルミーガを招聘し、外国籍選手にウィルを補強するなど韓国路線からの変更が見られた。
1999年 - 2002年(J2)
1999年1月、運営法人「株式会社大分フットボールクラブ」を設立。1999年から発足したJリーグ ディビジョン2(J2)に初年度からの参加が決まった。なお、「トリニティ」の名前が商標登録の関係で正式なチーム名として使えないため、Jリーグ加盟と同時に「大分トリニータ」へ改称した。
J2参加に当り、監督に山形を率いていた石崎信弘を招聘。J2初年度からJリーグ ディビジョン1(J1)昇格争いに加わるが、1999年・2000年とも3位、それも2年続けて「2位との勝ち点差1」で昇格を逃してしまう。2001年は序盤から出遅れたこともあり、シーズン途中の5月で石崎は解任された。新たに監督に就任した小林伸二は守備の建て直しに成功し、チームは最終節まで昇格を争うところまで持ち直したが、結局6位に終わった。
2002年は浮気哲郎やサンドロ、アンドラジーニャなどを補強、前年作り上げた堅守速攻を武器に序盤から首位を独走してJ2優勝を決め、J1昇格を果たした。また、最終節で史上初のJ2通算100勝を達成した。
2003年 - 2009年(J1)
2003年
- チームスローガン:ムーブ&バランス
J1昇格1年目の2003年、小林が引き続き指揮を執り、新潟の寺川能人、前年コパ・リベルタドーレス得点王のロドリゴなどの選手を補強したが、ロドリゴは期待されたような活躍は出来ずシーズン途中で退団。結果、守備はある程度通用するも、ストライカーが不在となり深刻な得点力不足に陥った。3年振りの復帰となるウィルなど多くの外国人FWを補強するも得点力不足は一向に改善されず、2試合で1点も取れないようなペースが続き、2ndステージでは15試合でわずか7得点しか挙げられなかった。最終節の15位・仙台との一戦は、負けた方がJ2降格(引分の場合大分が残留)という状況であったが、1-1で引分けて、年間順位は14位(1stステージ14位、2ndステージ16位)でJ1残留を果たす。なお、小林は成績不振の責任をとりこの年限りで辞任した。
ちなみに、2ndステージの失点数はリーグ最少の16であり、リーグ最少失点で最下位という珍記録を作ってしまった(これには小林が2ndステージ以降、極端な守備的戦術を取っていた事が理由に挙げられる)。
2004年
- チームスローガン:Perform & Enjoy
オランダ人のハン・ベルガーを監督に迎える。寺川が新潟に復帰したものの、元ブラジル代表で2003年には全北現代で得点ランキング2位となる27得点を記録したマグノ・アウベス、元オランダ代表でFCバルセロナ在籍経験もあるリチャード・ビチュヘ、仙台で活躍しアテネ五輪代表候補でもあった根本裕一などを補強し、攻撃サッカーへの転換を図る。序盤はマグノ・アウベスとビチュヘが期待通りの活躍を見せ、順調に勝ち星を挙げ、1stステージは10位で終える。
しかし、ビチュヘの退団や、1stステージで活躍した木島のケガなどもあって2ndステージでは一気に失速。緊急補強としてDFパトリック・ズワンズワイクを獲得するも、2年連続の最下位となった。マグノ・アウベスが11得点を決め、高松もそれに次ぐ8得点などの活躍もあったが、その他の選手はほとんど点が取れず得点力不足は解決をしなかった。結局年間13位に終わり、ベルガーはシーズン終了後に辞任した。
2005年
- チームスローガン:Together & Enjoy
皇甫官がヘッドコーチから監督に昇格。また前年度のゲームキャプテンを務め、3年間、守備の要として活躍したサンドロが退団した。
新外国人FWドドの不調もあり序盤は苦しい戦いが続く。その後は最高8位まで上がり、持ち直したかと思われたが、主将吉田孝行の怪我もあり再び失速。神戸との最下位争いから抜け出せず、直接対決でも1-2で敗戦するなどチーム状態がどん底だったため、皇甫を8月28日付で解任し、後任にペリクレス・シャムスカが就任した。
初采配となった浦和戦を2-1で勝利すると、そこから破竹の勢いで勝利を積み上げ、当初に掲げていた「残り12試合で勝ち点18」の目標をわずか8試合(6勝1敗1分け、勝ち点19)で達成、目標を7位に修正するほど好調だった。この出来事は「シャムスカマジック」と呼ばれた。11月23日のC大阪戦に1-1で引き分けたことでJ1残留が決定。最終順位は11位と過去3年間で最高順位だった。
2006年
- チームスローガン:Challenge & Challenge
シャムスカが引き続き指揮を執った。チーム得点王のマグノ・アウベス、主将を務めていた吉田孝行など、多くの選手が他クラブに移籍、または戦力外となった一方で、オズマール、柏から元日本代表の増田忠俊らを獲得。25人という少数精鋭でシーズンに臨んだ。序盤こそややつまづいたものの、松橋章太や後述の若手選手の台頭により調子を上げ夏場には4連勝、更にはこの年のリーグ王者である浦和から白星をあげ、一時は5位まで浮上した。そのため、シーズン前に掲げた目標を「8位以内」から「4位以内」に修正し10月にはJ1残留が決まった。ただ、下位相手に勝ち星を上げることができず、8位でシーズンを終えた。
また、チーム創設以来初めて、日本代表に西川周作と梅崎司、後に高松大樹も招集され、梅崎と高松は試合にも出場。また、若手が台頭、西川や梅崎以外にも高橋大輔や福元洋平、森重真人らが試合に起用され、特に高橋はレギュラーの座を梅田高志から奪った。
2007年
- チームスローガン:Challenge & Competition
エジミウソン、トゥーリオのボランチコンビが去り、新たにジュニオール・マラニョン、宮沢正史を穴埋めとして補強。しかし、その二人が組んだ新ボランチコンビが機能せず、第7節 横浜FM戦で0-5、第8節 G大阪戦で0-4と、大量失点で負ける試合も少なくなかった。第13節には最下位の横浜FCにも1-2で敗北を喫するなど不振が続き、前半戦(第18節)終了時点で自動降格圏内である17位と低迷した。
J1残留のために後半戦をリベンジ16と銘打ち、新潟から鈴木慎吾、元福岡のホベルト、そして3度目の加入となるエジミウソンを獲得。その結果、後半戦はチーム状態が回復し、順調に白星を重ねるようになる。中でも第31節は同じく残留争いをしていた大宮との直接対決で1-1の後半44分に前田俊介の大分移籍後初得点となるゴールで逆転勝利し、残留を大きく手元に手繰りよせた。そして第33節 磐田戦を1-0で勝利し、J1残留を確定させた。
2008年
- チームスローガン:One Heart,Big Challenge
チームの財政事情もありシーズン前に梅崎司、松橋章太、三木隆司等主力級選手が他クラブに次々と移籍。その穴を埋めるべく、G大阪より家長昭博、前広島のウェズレイらを獲得。新体制発表会見ではクラブ待望のマスコットキャラクターとなるニータンが誕生した。
シーズン前に家長が実戦練習中に負傷、全治6か月の大ケガを負ったが、その代役に抜擢された2年目の金崎夢生が活躍。更には守備陣が好調を保ち、リーグトップレベルの堅守(イタリア代表の「カテナチオ」とクラブマスコットであるカメのニータンを掛け合わせ「カメナチオ」と呼称)を見せ、J1過去最少の24失点(1試合平均0.706点)を記録した。その堅守を武器にナビスコ杯でクラブ初の予選突破を果たすと、勢いそのままに勝ち上がり優勝を果たしクラブ初そして九州のチーム初のタイトルを獲得。また、J2からスタートしたチームとしてはFC東京に次ぎ5年ぶり、西日本のチームとしても前年のG大阪に続いての制覇となった。
一方、リーグでも終盤まで優勝争いを演じ、チーム最高の4位でシーズンを終え、前述のナビスコ杯制覇も含めクラブとしても大きく成長したシーズンであった。ただ、得点数が33得点(リーグワースト2位)と攻撃力不足の改善が来季以降の大きな課題となったシーズンでもあった。
2009年
- チームスローガン:One Heart,Big Challenge
新加入は神戸から期限付き移籍の坪内秀介と新人2人、FC岐阜にレンタル移籍していた梅田高志と、仙台にレンタル移籍をしていた宮沢正史の2人のベテランに留まった。一方、主力の退団はレンタル移籍で加入していた小林亮ほどで、ほぼ前年と同じメンバーで戦うこととなった。シーズン開幕前に、ロサンゼルスで行われたチーム史上初の国際大会となるパンパシフィックチャンピオンシップにナビスコカップ優勝チームとして出場し、3位となる。
しかし、リーグが始まると、パンパシ杯があるにもかかわらずチーム始動が遅く、フィジカルトレーニングが十分に行えなかったことや、九州石油ドームの芝の張り替えに失敗し、芝の状態が不安定だった影響による怪我や累積警告で、多くの主力選手の欠場が相次ぎ、最下位に低迷。5月23日の広島戦で敗戦を喫したことで10連敗となり、延長戦が廃止された2003年以降のJ1では、2007年の横浜FCの9連敗を抜いてワースト記録となった。その後も負け続け14連敗、1勝1分15敗(勝ち点4)の最下位でシーズンを折り返した。このため、同月14日に成績不振によりシャムスカを解任。後任にはかつて広島でコーチを務めたランコ・ポポヴィッチが就任した。7月18日の第18節・浦和戦では強化部の松山博明が暫定監督を務め、1-0で浦和に勝利。これで連敗を14で止め、3月21日の第3節・新潟戦以来の勝ち点、3月14日の第2節・京都戦以来の勝ち星をあげた。その後、4連敗があったもののチームの状態は少しずつ上向いたが、チームを残留圏内まで浮上させるには至らず、第30節の京都戦(勝利が残留の必要条件)で引き分け、リーグ戦4試合を残し8シーズンぶりのJ2降格が決定。しかし、9月13日の磐田戦から10戦負けなし、またこれまでリーグ戦未勝利だった千葉にも2-0で快勝するなど10戦負けなしでリーグを終了し、リーグ終盤に遅ればせながらチームの復調を遂げた結果、最下位は免れた。ただし、後述する公式試合安定開催基金の規定によりシーズン終了時点で仮にJ1残留する順位であったとしてもJ2降格は不可避であった。
一方、連覇を懸け臨んだナビスコ杯予選は、終盤に追いつかれるなど勝ち切れない試合が多く、結局無敗(1勝5分)ながら予選敗退となった。ただ、最終節の新潟戦は2-1で勝利し、リーグ戦も通算して実に17試合振りの公式戦白星を挙げた。また、8月5日にはスルガ銀行チャンピオンシップが開催され、コパ・スダメリカーナ王者・SCインテルナシオナルと対戦し、1-2で惜敗した。
2010年 - (J2)
2010年
- チームスローガン:RESTART ~ONE HEART~
後述するように、チームの経営危機で強化費を削減。そのため、ポポヴィッチ監督を含むチームの3分の1以上の選手・スタッフを放出。監督には前副社長の皇甫官が2005年以来5年ぶりに指揮を執ることになった。
補強はユース・大卒選手を3人獲得、更に現韓国代表のキム・ボギョンとチャン・ギョンジンの二人の韓国人選手をレンタルで獲得、また、一度は戦力外となった選手の再契約などで限られた予算の中で選手の穴埋めを行った。とはいえ、監督の皇甫の年俸が経営危機の中であるにも関わらず高額である事、本年契約する見込みだったフェルナンジーニョの契約解除に伴う高額な違約金負担。(しかし、これは彼の移籍先である仙台に一部を負担させたと見られている)と、財政運営の見込みが甘かった(中期決算発表で黒字化の見込みと出していた)ことにより運営資金のショートが翌年の1月中に発生してしまう事態に陥った。県の緊急融資でなんとか乗り切るが、財政が芳しくない大分県からの融資には県民からの批判の声が挙がった。
当初こそキムの活躍もあり上位につけていたが、4月25日から7月31日まで約3か月間勝ち星を挙げられず急激に失速。8月7日の富山戦で12試合ぶりの勝利を挙げたものの、その後17試合で4勝にとどまり、J2では過去最低の15位に終わった。また、この年限りで皇甫が監督を退任した。
6月1日、南アフリカW杯韓国代表メンバー23人にキムが選出され、クラブ史上初のW杯代表が誕生した。
2011年
- チームスローガン:SORYOKU戦 総力×走力
田坂和昭が監督に就任。オフにキム・ボギョンがレンタル元のC大阪に復帰、更に前年から続く経営危機の影響で東慶悟、菊地直哉、そして藤田義明がJ1クラブにそれぞれ移籍。また高年俸がネックとなっていた高松はFC東京に期限付き移籍した。補強は水戸から大卒1年目の作田裕次と藤川祐司、熊本から西弘則など若手選手を多く獲得した。また前プロ野球・福岡ソフトバンクホークスCOOの竹内孝規と1年間のクラブアドバイザー契約を締結した。シーズン途中からフォーメーションを3-4-3に変更し、FWのチェ・ジョンハンや三平和司がサイドで起用されたり、DFの刀根亮輔がFW、ボランチの姜成浩がCBで起用されたりと多くの選手を様々なポジションにコンバートさせリーグを戦った。また、それまで伸び悩んだ印象の強かった前田俊介や森島がそれぞれ自己最高の成績を残すなど若手が多く台頭した。なお、J2シーズンの成績は12位となり、天皇杯は3回戦で敗退した。
2012年
- チームスローガン:挑戦×頂戦
昨シーズンクラブの主軸として活躍した前田が札幌へ完全移籍したものの、森島、土岐田ら主力選手の引き止めに成功し流出を少数にとどめた。補強面では、千葉から元日本代表の村井慎二の獲得に成功、またFC東京にレンタル移籍していた高松大樹が復帰し、後はC大阪より3人の若手選手をレンタル加入させるなど前年と同じく多くの若手選手を獲得した。
開幕戦は、大分銀行ドームで開催されることになった。開幕戦がホームで行われるのは、07年以来となる。
5月、「J1昇格支援募金」を開始。(後述)
成績
タイトル
国内タイトル
- Jリーグカップ:1回
- Jリーグ ディビジョン2:1回
個人別
- 優秀新人賞
- 優秀選手賞
- フェアプレイ個人賞
- 2006年 根本裕一
- MVP
- 2008年 高松大樹
- ニューヒーロー賞
- 2008年 金崎夢生
経営問題
スポンサー問題
2005年になって、小室哲哉が代表を務めるレコードレーベル・企画会社トライバルキックスがユニフォーム胸広告のスポンサー料未払い問題が発覚し、クラブの債務超過が問題となりチーム存続の危機に立たされた。大分県スポーツ文化振興財団が2億円融資、さらに6月にユニフォーム胸スポンサーとなったマルハンが2006年から6年間の年間シートを購入したことにより、当面の危機は回避された。
マルハンがスポンサーとなることに関してはJリーグの規定に抵触するのではないかとの指摘があったものの、特例として認められた。なお、同社がスポンサーとなることが本当に規定に抵触するのかは不明である。過去にはリーグスポンサーにパチンコ製造メーカー(平和)や消費者金融が傘下にあるノンバンクが名を連ねていたことがあり、鹿島アントラーズではプロミスがパンツ部分のユニフォームスポンサーになっていたことがある。現在は「スポンサー自粛カテゴリー」として「本体もしくは傘下企業がパチンコホールを経営している場合はアウト」となっているとされ[2]、他に、アビスパ福岡の大株主である大都技研も、子会社にパチンコホールがあることを理由にユニフォームスポンサーを断られた例がある。
Jリーグ側はマルハンのトリニータを通じた社会貢献活動を評価しているが、「テレビ放映の規制などの問題より来期以降のユニフォームスポンサーは継続は難しい」と見解を出した。2007年以降もマルハンとスポンサー契約を結んでいるが、もしこのままユニフォーム胸スポンサーが承認されない場合、クラブ側は他企業にこの枠を与えることはせず、胸部分を空白(またはチームロゴ)にする方針だとコメントした。実際に2009年8月29日にフォーリーフジャパンが胸スポンサーに就くまでは胸の部分が空白のままだった。また、マルハン会長の韓昌祐も「胸スポンサーという形でなくとも、トリニータを今後とも応援していきたい。」とこの件に関する2006年12月2日のマルハン・大分FC共同記者会見で明言している。
しかし、2009年9月14日に、「ユニホームに企業名が入らず広告対価が伴わない」ことを理由に、マルハンがスポンサーを撤退することが発表された[2][3]。この年には地元企業のジョイフルも一度はユニフォームスポンサーの継続を決めていた[4]が、代表取締役の交代が決まった直後の3月に撤退を決めた。また、フォーリーフジャパンもスポンサーとしての適格性に対してサポーター・関係者から疑問符がつけられ(詳しくはフォーリーフジャパン#トリニータのスポンサー問題を参照)、同社は同年限りでスポンサーから降板した。
2010年5月には、ティエムシー(旧・ペイントハウス)が保有していた大分FCの株式を大分商工会議所が買い取り、筆頭株主となった[5][6][7]。ティエムシーは大分FCの法人化後の1999年に筆頭株主となっていたが、本業の経営環境が悪化し破産した。
2011年からは、大分県中津市に本社を置くダイハツ九州が胸スポンサーとなっている[8]。
観客動員
2007年度の平均観客動員数は19,759人で、浦和レッドダイヤモンズ・アルビレックス新潟・FC東京・横浜F・マリノスに次ぐJ1で5番目であった。2006年までは、観客動員数はほぼ横ばいで推移してきたが、2007年から減少傾向である。地元サポーターの動員力はあるが、アウェイサポーターは浦和戦を除き少ない。理由としては2008年時点でJ1の18クラブ中14クラブのホームタウンが東日本にあり、相手チームから見ると長距離かつ大分県の交通事情が芳しくないため平日や日曜開催の試合に行けないことや、交通費が掛かることが挙げられる。
J2へ降格した2010年には、シーズンパスが目標としていた13,000席を半分程度しか売り切れず(最終販売数8289席)、急遽販売期間を4月25日まで延長(ただし、大分市のクラブ事務所と大分銀行ドームでの主管試合開催日のみ)した。なお、平均観客動員数は1万人台を維持した。
2011年は第20節のFC東京戦を「7.9大分総力戦」と銘打って開催。3万人を目標にさまざまな集客作戦を展開し、目標には届かなかったものの、27,519人の観客を集めた。しかし、平均観客動員数は2010年シーズンより16%減の8,779人に終わった。
公式試合安定開催基金
2009年1月期現在で累積赤字が11億円、債務超過額が5億5,800万円[9]、更には成績不振による入場料減収や監督交代に伴う人件費増加、主要スポンサーであるマルハンの撤退[10]、ユニフォーム胸スポンサーにフォーリーフジャパン内定後の騒動(上記#スポンサー問題参照)やユニフォーム背中スポンサーのオメガプロジェクト・ホールディングスの役員逮捕に伴うスポンサー料収入減見込み[11]、翌2010年度の運営費を前倒しで使う自転車操業のような経営方針もあいまって[12]、2009年11月からのリーグ戦残り3節(うちホーム2試合)の運営が困難な状況になった。
そのため2009年11月11日、日本プロサッカーリーグが設立した公式試合安定開催基金からの緊急融資を申請した[13]。
すでに2010年度からJ2に降格していることが決定しているとはいえ、J1に所属しているクラブが同基金からの融資を申請するのは史上初となる[14]。申請の際、本年度のみで2億円程度不足とみられていた[14]が、同月16日広瀬勝貞大分県知事が定例記者会見で本年度のみで約4億円不足すると発表した[12]。
翌11月17日、Jリーグ理事会にて融資を決定、当初3億5,000万円、2010年1月末に2億5,000円、合計6億円を融資すると発表した。ちなみに基金10億円のうち過半数を今回の融資で使った事になる。この会見で鬼武健二Jリーグチェアマンは「経営破たんに近い、あってはならない経営」と発言している[15]。これを受け同月20日、溝畑宏社長が12月5日の公式戦終了後に引責辞任すること、辞任後は皇甫官副社長が社長代行に就任することが発表された[16]ものの、12月12日、皇甫副社長および原靖強化部長が辞表を提出、受理されたため、青野浩志経営企画部長が代表取締役代行を務めることとなった[17]。その後の調べで、実質債務超過額が9億円以上になると判明した[18]。
チーム側は再建計画書をJリーグに提出するも、12月14日のJリーグ理事会で追加融資分2億5千万円の承認が否決された。理由は「12月10日までに後任の社長が決まるはずが未だ決定していない上、運営予算も年間9億円規模が望ましいとしたのにチームから提出された予算では11億円規模となっており経費削減が不十分」というもの[18][19]。同年12月23日のJリーグ臨時理事会でも同様の理由により否決されたため、チーム側ではやむを得ず地元銀行からのつなぎ融資を受け当座の資金を確保[20]した。
一方で大分県では、県や地元企業らが中心になって新たに「大分トリニータを支える県民会議」が発足[21]。また大分市では市役所内にチーム支援のための募金箱を設置し、当面「5000万円を目標」として募金を募っている[22]。ただ大分県内でもチーム支援に対する考えは地域によって温度差があり、大分市以外では「なぜトリニータばかり優遇するのか」という不満の意見もある[23]。
その後、青野浩志が新社長に就任し運営予算を削減した計画書を再提出、2010年1月19日Jリーグ理事会は新社長就任と地元のサポートが得られたことを確認し残り2億5千万円の追加融資が決定するも更なる予算圧縮を要望[24]、同年2月16日予算を更に修正した計画書を再々提出し追加融資が正式に了承された[25]。ちなみに同年4月27日に開催された株主総会では、2010年1月末時点で債務超過額が11億6700万円にも達していることが明らかにされている[26]。
なお、融資完済と債務超過が解消するまでJ1昇格は認められず、たとえJ2で3位以上になっても大分を除外した2チームがJ1昇格することになる[25]。また現状の再建計画では、J1昇格が認められる債務超過額1億円を切る目安が2012年1月となるため[27]、少なくとも2012年度まではJ1昇格は認められないことになる。
また、トリニータ再建支援のため、大分銀行ドームの使用料金を全額減免する処置を行った。
しかし、再建計画は思った以上に難航しており、先述のシーズンパスの売り上げ低迷や1試合の観客動員数が1万人程度に留まっただけでなく、球団経営の収入の柱となるべき広告収入が大幅に減少。単年度黒字こそ計上する見込みではあるが、2011年1月までに必要な運転資金5億円のうちの1億9,000万円が不足する可能性が出てきたため、大分県の外郭団体・大分県文化スポーツ振興財団に2億円の追加融資を申請した。なお同財団はトリニータに対して2005年にも2億円の融資を行い、8,000万円の返済残高を残していた[28]。
2012年1月31日、Jリーグから融資を受けていた5億円の内の2億円を返済した。なお、残り3億円の返済期限は2013年1月31日である[29]。
2012年5月、「J1昇格支援募金」開始する。これは経費削減や、地元企業・団体のスポンサード支援などの経営努力によって単年度黒字は確保したものの、公式試合安定開催基金からの融資の残り3億円の返済と、大分県外郭団体からの債務返済といった累積赤字の解消を少なくとも同年10月までに完了しなければ、成績上の条件(2位まで自動昇格、3-6位は今年度から採用される「J1昇格プレーオフ」進出権利)を満たしてもJ1昇格をすることができないが、その債務返済が依然として厳しく、クラブの自力での返済には限界があり、市民・団体などから3億円のうちの1億円を目標に募集(1口5000円、上限なし)するというものである。[30]この取組みで県民から1190万円の寄付が寄せられた。しかしながら、大分県知事の広瀬勝貞は、「社長の思惑は別としてもなかなか厳しい状況である」とした上で、「最初から全くやる気もありませんという必要もないかな」として、今回の募金活動を注目した上で、大分県としての行政支援への可能性を示唆している。[31]
下部組織
- ユースチームは発足からしばらくの間は目立った成果を残せていなかった。しかし、西川周作や梅崎司が日本代表に名を連ねるまでに成長した他、2005年に福元洋平、2007年には小手川宏基がユース在籍中に抜擢されトップチームでの出場を果たしている。
- 一方で、高校・大学からのスカウトでも実績をあげている。2005年は深谷友基、2006年は高橋大輔が加入1年目にしてトリニータに欠かせない選手となった。また、西川や梅崎と同様にA代表に選出された高松大樹、金崎夢生、森重真人もそれぞれの高校からの入団選手である。
- 将来的な日本女子サッカーリーグ参入を視野に入れ、下部組織としてJFA登録の女子サッカーチーム「大分トリニータレディース」が2007年4月に発足。2006年10月に第一回セレクションを開催し、30名の選手が選抜された。2007年に大分県女子サッカーリーグを優勝、続く九州各県女子リーグ決勝大会も優勝し、2008年より九州女子サッカーリーグに昇格した。
- 2006年9月に下部組織として野球のリトルシニアチーム「大分東リトルシニア」を設立した。
- 九州地区のJリーグチーム等で構成される九州チャレンジャーズリーグには2011年から参加している。
クラブ記録
試合記録
- リーグ戦連続無敗記録
- リーグ戦ホーム連続無敗記録
- 13試合 - 10勝3分 (2008年4月12日J1第6節 川崎フロンターレ戦 〜 11月9日J1第31節 ジェフユナイテッド市原・千葉戦)
- ナビスコ杯を含めると16試合 (12勝4分)
- 連続無失点試合
- ホーム最多連勝記録
- リーグ戦最多連敗記録
- 14連敗 (2009年4月4日J1第4節 浦和レッズ戦 〜 7月13日第13節 ジュビロ磐田戦) ※J1ワースト3位、延長戦廃止後ワースト1位
得失点記録(Jリーグ加盟後)
最多得点試合
- ホーム
- J1:5得点
- 5-0 (2005年第27節 清水エスパルス戦)
- J2:5得点
- 5-0 (2002年第17節 川崎フロンターレ戦) 他4試合
- アウェー
- J1:8得点
- 8-0 (2003年第14節 ヴィッセル神戸戦)
- J2:5得点
- 5-2 (2000年第4節 大宮アルディージャ戦)
最多失点試合
- ホーム
- アウェー
- J1:6失点
- 0-6 (2007年第23節 ジェフユナイテッド市原・千葉戦)
- J2:5失点
- 0-5 (1999年第3節 大宮アルディージャ戦、2010年第19節 ジェフユナイテッド市原・千葉戦)
その他
- 年間総失点数
- 24失点 (1試合平均 0.706点、2008年) ※J1最少記録
- ホーム 9失点 (1試合平均 0.529点)、アウェー 15失点 (1試合平均 0.882点)
- リーグ戦年間完封試合数
- 34試合中17試合 (2008年)
ホームスタジアム・練習場
ホームスタジアム
- 現在は大分銀行ドーム(旧名称:大分スポーツ公園総合競技場)をホームスタジアムとして登録している。
- 1999年のJ2加盟時は大分市営陸上競技場を本拠地として登録。JFL時代は大分のほか別府市野口原総合運動場陸上競技場、佐伯市営陸上競技場も使用していたが、このうち佐伯については1999年・2000年にJ2の一部試合を開催している。
- 2001年に大分スポーツ公園総合競技場が完成してからはこの2か所併用で本拠地登録した。ただし、2002年までは2002 FIFAワールドカップ開催に備えた芝生の生育管理への配慮としてビッグアイの試合数が制限されていた。
- 2003年にJ1へ昇格したが、大分市営陸上競技場はJリーグの開催規定の一つ・スタンドの椅子座席が、基準値(J1で1万5000人以上、J2で1万人以上)を確保できておらず、大半が芝生席(メインスタンドのみ座席)であることからホームゲームの開催会場から外され、大分スポーツ公園総合競技場に一本化された
- 大分スポーツ公園総合競技場の芝の養生などの関係から熊本県民総合運動公園陸上競技場(KKWING、熊本県熊本市)で年1-2回ホームゲームを開催していたが、2008年よりロアッソ熊本がJリーグへ加盟したため、原則として主催試合開催が不可能となった。
- 2007年10月20日はKKWINGで13時からロアッソ、19時30分からトリニータが同日開催した。
- 2004年は雷雨により中止となったが、この時に熊本県民総合運動公園屋内運動広場(パークドーム熊本)南側の駐車場が冠水し、駐車していた約150台が動かなくなった。ところが、この駐車場はもともと洪水を防ぐために雨水を一時的に貯める貯水池だったことから、後日トリニータの補償問題にまで発展する騒ぎとなった。
- 2008年、J1第26節の札幌戦では鹿児島県立鴨池運動公園陸上競技場が使用された。これは、九州石油ドーム(当時)がメイン会場となるチャレンジ!おおいた国体が行われるための処置でもあった。また2010年のJ2第25節の札幌戦も鹿児島県立鴨池運動公園陸上競技場で開催された。
練習場
2002年頃までは、リバーパーク犬飼等各地のグラウンドを転々として練習を行ってきたが、大分スポーツクラブ完成以降は、主練習場として大分スポーツクラブを使用している。
大分市営陸上競技場や、別府市野口原総合運動場陸上競技場でも練習を行うことがある。
ユニフォーム
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チームカラー
- ブルー
フィールドプレーヤー用
- 1stユニフォームについてはチームカラーである青を基調としている。
- 2006年までは黄色も配色されていたが、2007年にプーマの世界戦略ユニフォームを採り入れて以降は、黄色に変わり黒が配色されている。
- 2ndユニフォームは、2005年まではシャツ、パンツ、ソックス共に白を基調としていたが、2006年からはグレーに、2008年からは更にパンツが黒になった。ただ、2009年は前年のユニフォームに比べグレーが濃くなり、特に青系の色を基調としているチームとの対戦では見づらいという意見もでた。しかし、2010年はさらにグレーが濃くなり、ホームチームとの判別が困難だという批評がより大きくなっていた。2011年は白のソックスを試合によっては着用した。2012年より色を上下ともに白に変更したため視認性での問題は無くなった。
ゴールキーパー用
- 1stユニフォームについては2006年までは黄色を基調としていたが、2007年より黒を基調としたユニフォームとなっており、黄色は2nd以降のユニフォームとして使われている。2010年より、1stは赤を基調としたものになった。
ユニフォームあれこれ
- 2007年はアウェー戦は、ユニフォームの色が同系色ではない清水エスパルス戦やジェフユナイテッド市原・千葉戦も含め全試合を2ndユニフォームで行った。
- 2009年から2008年のヤマザキナビスコカップ制覇による星マークを胸のエンブレムにつけている。
ユニフォームスポンサー
掲出箇所 | スポンサー名 | 表記 | 掲出年 | 備考 |
---|---|---|---|---|
胸 | ダイハツ九州 | ダイハツ九州 | 2011年- | |
背中 | ネットワンシステムズ | Net One Systems | 2010年- | 2009年は袖 |
袖 | 広友ホールディングス | KOYOU | 2010年- | |
パンツ | 南九州コカ・コーラボトリング[32] | Coca Cola | 2006年- | 2002年-2005年までは袖 |
ユニフォームサプライの遍歴
歴代ユニフォームスポンサー年表
年度 | 胸 | 袖 | 背中 | パンツ | サプライヤー |
1998 | 朝日ソーラー/ ペイントハウス |
NEXD SOPH. | みどり牛乳 | - | PUMA |
1999 | ペイントハウス | PAINT HOUSE | |||
2000 | |||||
2001 | |||||
2002 | Coca Cola | SOPH. | |||
2003 | ペンタくん | コロンブスの床 さとうベネック | |||
2004 | ペンタくん/ Tribalkicks | ||||
2005 | –/MARUHAN | Joyfull | |||
2006 | MARUHAN | Joyfull | BOWS | Coca Cola | |
2007 | - | ||||
2008 | - | オメガ プロジェクト | |||
2009 | -/FOUR LEAF | Net One Systems | |||
2010 | - | -/KOYOU | Net One Systems | ||
2011 | ダイハツ九州 | KOYOU | |||
2012 |
スポンサー
エピソード
開幕戦
- 2003年にJ1昇格から2007年までの5年間、年間開幕試合に勝ち星を挙げることができなかったが、2008年の清水エスパルスとの対戦で開幕戦初勝利を挙げた。
カラーボード
開幕戦など重要な試合ではサポーターがカラーボード(人文字)を掲げて試合を盛り上げる。
- 過去にはサポーターの背番号である「12」や「GO!2006」、「OITA」などの人文字を作っている。
- あくまでホームゴール裏のみで、浦和が埼玉スタジアムで行うような、スタジアム全体ではない。
- アウェーでは九州ダービーとなった2006年の福岡戦で行なった。このときはアウェー席から青と黄色のカラーボードを掲げた。福岡サポーターからも拍手が上がったほどで、監督のシャムスカや選手達は「ホームかと思った」というコメントを残した。
- 2008年、国立競技場でのナビスコカップ決勝戦でも掲げている。これまでで最大規模であり、カラーボードも決勝進出にあわせて有志が追加作成した。
守備放棄試合
2003年3月8日のナビスコ杯・対京都パープルサンガ戦(西京極)で、1-1で迎えた後半17分、大分・高松大樹が負傷したために京都・松井大輔がボールを一旦フィールドの外に出した。
京都側がボールを出したので大分ボールのスローインとなる。サッカー界ではこのように試合を中断させるためにわざとボールを出した場合、相手(この場合は京都)にボールを返すのが「暗黙の了解」とされている。ボールを受けた寺川能人も京都の選手に向かって蹴ったが、そのボールをロドリゴがカットし、そのまま強引にボールをゴールに押し込んでしまった。あくまで「暗黙の了解」であるため、ルール上は大分の得点として認められる。しかし京都側はマナーに反する行為であるとして猛烈に抗議し、会場は一時騒然となった。
その後京都側のキックオフで試合が再開されたが、当時大分の監督だった小林伸二は選手に対し守備を放棄するように指示。京都・中払大介のシュートを大分守備陣は見送り、スコアは2-2と再びイーブンになった。
奇しくもこの試合はtotoGOALがスタートして最初の試合だった。「totoGOAL」は指定されたチームの得点を「0点」「1点」「2点」「3点以上」で予想するものであるため、今回の出来事がtotoGOALの結果を変えてしまったという点で問題となったが、日本サッカー協会・川淵三郎キャプテンは大分の守備放棄という行為に対して「あの状況では仕方がなかった」という見解を示し、Jリーグ側も大分を処罰しなかった。
しかし「いくら暗黙の了解を破られたといっても、ロドリゴのゴールを防ぐことができなかった京都にも問題はある」という声もあり[誰?]、この出来事は「フェアプレーとは何か」という大きな問題をサッカー界に投げかけた。
サポーター居残り事件
2007年6月30日のJリーグ前半戦最終日、ホーム九州石油ドームでの対横浜F・マリノス戦にて、0-3にて惨敗。連敗続き、そして自動降格圏17位でチームに対し、約1000人のサポーターがスタジアムに試合終了後2時間居残り、不甲斐ないチームや経営陣への不満を爆発させた。サポーターに対し、一度はスタッフが説明を行ったが、「社長出て来い」とサポーターは収まらず、最終的にはシャムスカ監督と話し合いを行った後に溝畑宏社長がサポーターの前に現れ、「本当に、すいません。近日中に、サポーターとの話し合いの場を設ける」ことを約束した。この試合は午後7時からで9時に試合終了のナイトゲームだったため、事態は深夜までかかったという。その後、7月8日にサポーターズカンファレンスが行われ、経営陣とサポーター代表との話し合いが持たれた。
リベンジ16
上述の居残り事件を受け、危機感をより強く感じたチームは、2007年リーグ後半戦の16試合を「リベンジ16」と銘打って巻き返しを図った。「リベンジ三戦士」として鈴木慎吾・ホベルト・エジミウソンを獲得、即戦力の補強を行なうと、「リッジー」がこのプロジェクトのキャラクターとして登場し、これを盛り上げた。この16試合を8勝7敗1分と、ほぼ五分の成績で終え、「前半戦で降格圏内にいるチームはJ2に降格する」というジンクスを見事に破り、J1残留を果たした。
「リベンジ16」の中で唯一対戦していなかった横浜F・マリノスについては、2007年に2戦とも大敗かつ無得点(第7節・A0-5/第18節・H0-3)だったことから、2008年のホームゲームで「リベンジ」と銘打ってリッジーも再登場のもと行なわれた。試合は1-0で勝利し、リベンジを果たした。
ナビスコカップ優勝記念リング
2009年2月25日 前年のナビスコカップ優勝を受けて製作され、この日2008年在籍した、選手・監督・コーチ・職員(いわゆる「裏方」さん)に配られた。 ナビスコカップ優勝時の記念品として、優勝メダルが決勝戦ベンチ登録されたメンバー全員に主催者により送られた。 しかしメダルはその試合に登録されたメンバーしかもらえず、選手や監督・コーチ・裏方さんみんなの力で優勝できた、みんなで優勝の喜びを分かち合いたいと言うことで、当時の社長・溝畑宏の発案、SOPH代表取締役清永浩文のデザインによって製作された。
夜8時キックオフ
2009年第23節のヴィッセル神戸とのホームゲームは、当初本来開催されるべき8月22日・8月23日を含めた8月19日から8月24日まで、大分ビッグアイで全国中学陸上競技大会が開催されたため、開催日時未定で当初発表されたが、その後8月24日の中学陸上最終日の競技終了後、会場の観客入れ替えや設営作業などのため20時からと、通常のナイターでは異例の時刻での開催となった。
なお当時ビッグアイは芝生のコンディション問題が指摘されていたため、大分市営陸上競技場での振り替え開催処置を取ることも検討されていたが、興行的な問題もあるため、当初の予定通りビッグアイを使用した。
スタジアムDJ
その他
- サポーターにとってもアウェイゲームは長距離移動になるが、大分市や別府市からフェリーで関西へ行けるため、関西や名古屋での試合ではフェリーを使ったツアーが組まれ、比較的盛況である。広島や神戸などではアウェイにもかかわらず、ゴール裏サポーターの数はホームと同等程度にまでなることがある。
- 日本文理大学と提携し、スポーツビジネス分野の講義に協力している。また、トリニータのOBである岡中勇人が大学のサッカー部の監督に就任した。
- 2008年、ビジネスジャンプの増刊誌『BJ魂』に、木村元彦が原作を担当した漫画『大分トリニータ物語』が掲載される。
脚注
- ^ 厳密にはイタリア語ではアクセント記号をつけてtrinitàと綴る
- ^ a b 大分トリニータ スペシャルスポンサー「株式会社マルハン」とのスポンサー契約について (2009年9月14日)
- ^ 【トリニータ】 マルハン完全撤退 - 大分合同新聞、2009年9月14日
- ^ 【トリニータ】新たな挑戦 30人体制に - 大分合同新聞、2009年1月31日
- ^ 大分商議所 大分FC株の取得で筆頭株主に - 大分合同新聞、2010年5月14日
- ^ トリニータ株を大分商議所取得 経営再建へ 筆頭株主に - 西日本スポーツ、2010年5月14日
- ^ Jリーグが大分の株主変更を了承 - 日刊スポーツ、2010年5月18日
- ^ 【トリニータ】胸スポンサーにダイハツ九州 - 大分合同新聞、2011年1月11日
- ^ 2008年度Jリーグ公開資料 (PDF)
- ^ マルハン スポンサー撤退へ 大分に合計約13億円支援 - 西日本新聞、2009年9月15日
- ^ 大分、スポンサー撤退でさらに経営難に - 報知新聞、2009年11月11日
- ^ a b 【トリニータ】「運営費7-8億円不足」 - 大分合同新聞、2009年11月17日 引用エラー: 無効な
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タグ; name "OHITAGODO20091117"が異なる内容で複数回定義されています - ^ Jリーグ「公式試合安定開催基金」借入申請について - 大分トリニータ、2009年11月11日
- ^ a b 【Jリーグ】大分が運営費不足で融資を申請、J1では初 - MSN産経ニュース (ウェブ魚拓)、2009年11月11日 引用エラー: 無効な
<ref>
タグ; name "MSN20091111"が異なる内容で複数回定義されています - ^ 【トリニータ】3億5千万円融資 - 大分合同新聞、2009年11月17日
- ^ 「新しい発展のため、けじめ」 J1大分溝畑社長辞任 - 西日本新聞、2009年11月21日
- ^ J大分 溝畑社長・皇甫副社長ら辞任 - 読売新聞、2009年12月13日
- ^ a b 再出発、よみがえれ!トリニータ (11) - 大分合同新聞、2009年12月18日
- ^ 大分へ追加融資見送り J理事会「再建計画不十分」 - 読売新聞、2009年12月15日
- ^ 大分FCへつなぎ1.5億円 地場金融融資 - 大分合同新聞、2009年12月25日
- ^ 【トリニータ】「県民会議」が発足 - 大分合同新聞、2009年12月13日
- ^ 大分トリニータ 市長「J1復帰へ資金集め」 - 日経ネット九州版、2009年12月15日
- ^ 再出発、よみがえれ!トリニータ(8) - 大分合同新聞、2009年12月15日
- ^ Jリーグ、トリニータに追加融資を決定 - 大分合同新聞、2010年1月20日
- ^ a b 東京Vと異例の文書締結 - 報知新聞2010年2月16日
- ^ 【トリニータ】債務超過6億円増 - 大分合同新聞、2010年4月28日
- ^ 大分が再建方針を発表=J1復帰「3年後が目安」 - 時事通信、2009年12月11日
- ^ 【トリニータ】2億円融資決定 - 大分合同新聞、2010年11月18日
- ^ 大分 期日ギリギリに2億円返済 昇格へ「前倒しで返済できるように」 - スポーツニッポン、2012年1月31日
- ^ 公式サイト・支援金募集のご案内
- ^ 毎日新聞2012年5月29日
- ^ J2ロアッソ熊本のユニフォームパンツにもスポンサーを掲出している
関連項目
- 九州ダービー (バトルオブ九州)
- 大分トリニータの選手一覧
- 1999年J2最終節
- 2000年J2最終節
- 2001年J2最終節
- 大分トリニータレディース
外部リンク
- 大分トリニータ - OFFICIAL WEB SITE
- 大分東リトルシニア (トリニータ下部組織のリトルシニア野球チーム)
- 大分トリニータ後援会