戦争文学

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戦争文学(せんそうぶんがく)とは、戦争を扱った文学。特に近代以降の戦争を題材にするものについて呼ぶ。狭義に第二次世界大戦下の日本で戦争遂行の国策高揚の意図をもって書かれた文学を指すこともある。

戦争における戦闘などの記録としての文学は、戦記文学(せんきぶんがく)、戦史文学(せんしぶんがく)とも呼ばれる。

ヴォルテールは「カンディード」で七年戦争を下敷きに最善説を批判した。

19世紀以後

ナポレオン戦争の時代

「戦争と平和」の挿絵
ゴヤの描いたナポレオン戦争の惨禍

ナポレオン戦争を題材にした作品として、ワーテルローの戦いを描いたスタンダールパルムの僧院』(1839)などが著名で、ロシア遠征下を描いたレフ・トルストイ戦争と平和』(1865-69)はロシア他の国民の戦争観にも影響を与えた。またトルストイは自ら従軍したクリミア戦争での体験を小説化した『セヴァストーポリ』(1855-56)もあり、1904年には、博愛主義に基づく非戦論である論考「汝、悔い改めよ (Bethink Thyself)」をイギリスの『タイムズ』に発表する。ナポレオンのヴェネツィア共和国侵攻に対してロマン派詩人ウィリアム・ワーズワースソネット「ヴェネツィア共和国滅亡について」(1802)などを書き、スペイン半島戦争に対してはロバート・サウジーが『スペイン半島戦争史』(1830)を残した。フランス支配下のデュッセルドルフに生まれたハイネは、「二人の擲弾兵」(1820)でナポレオン軍敗残兵の愛国心を謳っている。この戦争を題材に版画集「戦争の惨禍」などを描いたゴヤは、リオン・フォイヒトヴァンガーの小説『ゴヤ』(1953)でゲリラ戦にも参加した人物として書かれており、ナポレオン軍と英海軍の海戦を中心とするセシル・スコット・フォレスターホーンブロワーシリーズ』(1948-)は海洋冒険小説の代表的作品となっている。

これに先立つ近代では、ゲーテフランス革命戦争に従軍した経験から、戦時下の市民生活を舞台とする『ヘルマンとドロテーア』(1797)を執筆。ロマン派詩人フリードリヒ・ヘルダーリンは、ギリシャの独立闘争に参加した若者の心情と内幕を描く『ヒュペーリオン』(1797-99)を書いた。

様々な近代戦争

アメリカ南北戦争を舞台にした作品ではスティーヴン・クレイン赤い武功章』や、看護師として従軍したウォルト・ホイットマンの詩集『軍鼓の響き』(1865年)などがある。普仏戦争に召集されたギ・ド・モーパッサンは「脂肪の塊」他の風刺的、反戦的な短編を書き、また国民兵を志願したアルフォンス・ドーデは『月曜物語』で、戦争下のパリとアルザス地方の人々を描き、その中の「最後の授業」はよく知られる。クリミア戦争将校の父を持ち自身も露土戦争に兵士として参加したフセーヴォロド・ガルシンには、兵卒としての経験に基づく作品として、野戦病院で書き上げた『四日間』(1877年)や、『一兵卒イヴォーノフの回想より』(1883年)などがある。イタリア統一戦争を背景に没落してゆくシチリア島の貴族を描いた、ジュゼッペ・トマージ・ディ・ランペドゥーサの死後発表された『山猫』(1958年)は、世界的ベストセラーとして知られる。

アルゼンチンウルグアイの抗争の中で、弾圧に抗して独裁政権と戦うガウチョインディオの戦いを描いた、ホセ・エルナンデスや、アルゼンチン・ブラジル戦争などにも参加したイラリオ・アスカスビらのガウチョ詩人がいた。アレッホ・カルペンティエール『この世の王国』(1949年)はハイチ革命にいたる戦乱を魔術的リアリズムで描いた作品で、同じ舞台でトゥーサン・ルーヴェルチュールを描いたアンナ・ゼーガース『ハイチの宴』(1949年)や、メキシコ革命の戦乱を舞台にしたカルロス・フエンテス『おいぼれグリンゴ』(1985年)などもある。

日本では、明治期には政治小説が流行し、その中で国権拡張や北進論南進論などに基づく海外雄飛を主眼としたものには西欧列強との武力衝突を含むものもあり、東海散士佳人之奇遇』(1885-88年)ではアメリカ独立戦争エジプトアラービー=パシャの乱など各国様々な独立運動について論じ、矢野龍渓『浮城物語』(1890年)はインドネシアの独立戦争を題材にしている。台湾出兵については中村地平『長耳国漂流記』(1941年)、第二次台湾出兵については西川満『台湾縦貫鉄道』(1979年)が書かれる。日清戦争では従軍記者であった国木田独歩のルポタージュ『愛弟通信』は世に知られ、朝鮮での戦闘を描く遅塚麗水『陣中日記』(1894年)、戦争の不条理を描いた川上眉山『大村少尉』(1896年)がある。日露戦争では、桜井忠温が体験を元にした『肉弾』、日本海海戦を詳細に再現した水野広徳『此の一戦』(1911年)が大きな影響を与え、与謝野晶子『君死にたまふことなかれ』は反戦的との批判を受けた。田山花袋「一兵卒」は、従軍医としての体験に基づく自然主義的描写により兵士の悲惨さを描く。この戦争で英雄となった東郷平八郎乃木希典などの伝記も数多く作られ、また敵将として著名だったステパン・マカロフの戦死にも石川啄木が「マカロフ提督追悼」の詩を発表した。またC・W・ニコルはこの時代の海軍の人々を描く『盟約』(1999年)を書いている。

明治時代の講談の流行の中では、新聞講談、正史講談と称して、明治維新西南戦争を読むことも行われ、大和魂を養うために講談を推奨する論調も生まれて、日清戦争、日露戦争などを読んで高い評価を得た美当一調などがいた。

第一次世界大戦後

欧州の文学と文学者

第一次世界大戦の開戦後にドイツがベルギー、フランスに侵入すると、ゲアハルト・ハウプトマンらドイツの文学者他の知識人93人により、各国からの抗議に答えるための、ドイツの行為を正当化する「93人のマニフェスト 文明世界に訴う」が発表される。開戦の報をスイスで聞いたロマン・ロランは、各国の知識人や文学者に呼びかけて反戦運動を行い、政治論集『戦いを越えて』(1915年)や、戦争に引き裂かれる恋人達を描く『ピエールとリュース』(1920年)などを刊行する。ロランの理想主義を批判したアンリ・バルビュスも従軍経験による反戦小説『砲火』(1916年)を執筆。ロランはまたヴェルサイユ条約に幻滅して「精神の独立宣言」を発表、これに多くの文学者も賛同した。デンマークの言語学者クリストフ・ニーロップも開戦直後から反戦論を発表し、『戦争と人間』(Er Krig Kultur? 1917年)として刊行した。

また大戦が始まると、フランスでは軍人の英雄的な行動を語る短編小説の週刊のコレクション「祖国」「青少年のための薔薇書籍」などが、レオン・グロック、ギュスタヴ・ル・ルージュ、ジャン・プティユグナンといった大衆小説家が執筆により刊行され、またルールタビーユアルセーヌ・ルパンといった人気ヒーローも戦場で活躍した。スペインのブラスコ・イバニェスによる『黙示録の四騎士』(1916)はドイツの侵入を受けたフランス側の立場で書かれ、アメリカでベストセラーとなって同国参戦の世論を決定したとも言われ、続いて大戦を題材とした『われらの海』(1918)、『女性の敵』(1919)が大戦三部作と呼ばれる。

この大戦における大量殺戮の衝撃によって生み出された作品として、ドイツ側からの大戦の経験による作品には、ギムナジウム時代に徴兵されて従軍したエーリヒ・マリア・レマルク西部戦線異状なし』が書かれ、ナチス政権下では反戦的として圧迫された[1]。英雄的な活躍で知られるエルンスト・ユンガーは、1920年代に『内的体験としての戦争』『総動員』などの作品で戦場の美学を描いた。軍医として各地を転戦したハンス・カロッサはその体験記『ルーマニヤ日記』(1924年)他を残し、シーグフリード・サスーンは反戦詩『戦争詩篇』などを残した。世紀末ウィーンカール・クラウスは長大な戯曲『人類最後の日々』(1922年)で、ドイツでの第一次世界大戦の進行を、政治家や軍人や市民など、あらゆる局面において活写した。イタリアで前線指揮官として従軍したエミリオ・ルッスの体験を記した『戦場の一年』(1938年)は、反ファシズム運動のために亡命した後にパリで刊行された。

アメリカ軍としてイタリア戦線に従軍したアーネスト・ヘミングウェイ武器よさらば』(1929年)などがあり、またこの体験によってロスト・ジェネレーションと言われる作家群を生み出した。四肢を失う重傷を負って帰国した兵士を描いたダルトン・トランボジョニーは戦場へ行った』(1939年)は反戦的な内容のために後に発禁とされる。情報員としての活動もしていたサマセット・モームは、大戦中のスイスやロシアでの経験を元にしたスパイ小説アシェンデン』(1928年)を書いている。

世界への影響とファシズムの台頭

大戦と並行して起きたアラブの反乱では、アラブ側として参加したイギリス人T.E.ロレンスの自伝的作品『知恵の七柱』が広く反響を呼ぶ。1936年からのスペイン内戦は欧米のインテリや芸術家に深い影響を与え、ヘミングウェイやジョージ・オーウェルも義勇軍経験にもとづく作品を書いた。

プロレタリア文学からは、シベリア出兵を体験した黒島伝治による「渦巻ける烏の群」(1927年)などの反戦小説、日本統治下朝鮮のパルチザンを描く反戦詩、槇村浩「間道パルチザンの歌」(1932年)などが生まれた。1928年には日本左翼文芸家総連合による反戦文学集『戦争ニ対スル戦争』(黒島伝治「橇」、立野信之「標的になった彼奴ら」、壷井繁治「頭の中の兵士」などを収録)が刊行。済南事件を題材にした黒島「武装せる市街」はおびただしい伏字とともに1928年に発行されたが、ただちに発禁にあい、また第2次大戦後にはGHQによる検閲で発行を停止された。

ヨーロッパでファシズムが勢いを増すとロランはバルピュスとともに反ファシズム運動を始め、1933年にはロランを名誉総裁に国際反ファシスト委員会を結成、ナチス政府はロランの出版物の焼却命令を出した。ハインリヒ・マントーマス・マンの兄弟も、ナチス台頭への反対を訴え、トーマス「五つの証言」、ハインリヒ「超民族性への信仰告白」(1932年)などを執筆するが、ナチス政権による焚書、追放により亡命する。

国共内戦下の中国では、葉紫による農民の闘争を描く「豊収」(1933年)や、蒋介石北伐を描く「陽は西に上る」(1939年、未完)などが書かれた。

戦時下の日本とその周辺

バスに乗り遅れるな

日華事変勃発とともに、出版社の依頼により作家が戦地へ派遣され、多くの報告文学が生まれた。その中で南京攻略戦に従軍した石川達三「生きてゐる兵隊」は戦争の残酷さを描いたことから発禁処分を受ける。また上田広は鉄道部隊の労苦を描いた「鮑慶郷」「黄塵」などを戦地で書き、天津・北京を見た尾崎士郎は「悲風千里」で中国民衆への同情もにじませた。

1937年に戦地で芥川賞受賞の報を受けて注目され、翌1938年に軍報道部員として徐州会戦に従軍していた火野葦平の戦闘体験を記した「麦と兵隊」は、国民に喝采をもって受け入れられ100万部ともいわれるベストセラーとなり、火野は続いて「土と兵隊」「花と兵隊」などを発表したが、終戦とともに戦犯作家として休筆を余儀なくされている[2]

国策文学
大政翼賛会文化部長を務めた岸田國士

1938年8月に内閣情報部漢口攻略戦への作家の従軍を要請し、「ペン部隊」として陸軍班24人、海軍班8人が、音楽家による「円盤(レコード)部隊」や、画家によるグループとともに従軍。次いで11月には南支従軍ペン部隊として10数名が従軍、林芙美子『戦線』、丹羽文雄『海戦』、岩田豊雄(獅子文六)『海軍』など、文学者の視点による作品が書かれ、岸田國士の従軍報告では中国における日本の文化工作批判を行った。一方で新聞社から派遣された小林秀雄も、国策のための文学者動員を批判した。この年には農民文学振興を目的として「農民文学懇話会」が結成され、続いて大陸開拓文芸懇話会、海洋文学協会、経国文芸の会、国防文芸連盟、輝く部隊、日本文学者会などが設立される。1940年に大政翼賛会が設立されると、日本文芸中央会という翼賛会文芸部との連絡協議会が作られ、1942年に各団体を併合した日本文学報国会が作られる。こうした流れの中での国策文学として、立野信之「後方の土」、徳永直「先遣隊」、湯浅克衛「先駆移民」などの大陸文学、間宮茂輔「あらがね」、中本たか子「南部鉄瓶工」、橋本英吉「坑道」などの生産文学などが書かれた。1941年には数十人の作家、画家、漫画家、記者などが軍報道班員として徴用され、マレー、ビルマ、ジャワ・ボルネオ、フィリピンなど各方面に派遣されて従軍記などを著した。日本文学報国会は、大東亜共同宣言の五大原則についての作品執筆依頼や、佐佐木信綱らによる「愛国百人一首」の選定、大東亜文学者大会の開催などを行った。また『新青年』などの娯楽雑誌でも国際スパイ小説や軍国調の作品が書かれ、一方で岡田誠三『ニューギニア山岳戦』(1944年)では兵士達の悲惨な最期が描かれた。

詩の分野では日米開戦後はほとんどの詩誌が廃刊して日本文学報国会詩部会に統合され、多くの詩人が戦争誌を書いた。高村光太郎「大いなる日に」、室生犀星「美以久佐」などの他、文学報国会からは150人あまりによる戦争誌アンソロジー「辻詩集」が刊行された。その中で金子光晴のみは疎開先の山中湖畔で反戦詩を書き続け、戦後に『落下傘』『蛾』として発表された。

1937年には「川柳人」の反戦的作品が特高に検挙され、1940年には自由主義的な「京大俳句」の平畑静塔ら十数名が検挙される新興俳句弾圧事件が起きるなどの弾圧が行われ、1942年に日本文学報国会俳句部会に俳句界は統一された。短歌では大日本歌人協会による「支那事変歌集・戦地篇」が1938年、「銃後篇」が1941年に刊行されるが、歌人協会は自由主義的傾向を攻撃されて解散、文学報国会に吸収され、戦時短歌が満ち溢れた。

教科書になった木口ラッパ兵

また明治以来、日清戦争における木口ラッパ兵や「水平の母」、日露戦争における軍神広瀬少佐第一次上海事変における爆弾三勇士など多くの軍国美談が、報道や美談集のような書籍、物語などで広く知られ、学校教科書や教材でも取り上げられた。火野葦平や、脚本家でやはり帰還兵である中野実も『軍国美談集』『善行美談集』の執筆に加わった。

台湾・朝鮮・中国・満州

日本統治下の台湾でも文芸銃後運動の影響が及び、1943年に日本文学報国会台湾支部が設立、台湾文芸家協会は台湾文学奉公会に移行し、台湾皇民文学樹立を目指す運動がなされる。その過程上にある、周金波「志願兵」や高進六「道」などが書かれ、また反面で占領や兵士として動員される苦悩を描く呉濁流『胡太明』がひそかに書かれて戦後になって出版された。同じく朝鮮では、1939年に内鮮一体のスローガンを掲げた朝鮮文人協会が創られ、のち朝鮮文人報国会に発展。

日中戦争下の中国では、国民党の特務工作員を描く茅盾『腐蝕』(1941年)が書かれ、茅盾は占領された香港を脱出して桂林、次いで重慶に移り、香港陥落を扱った「陥落後」(劫後拾遺、1943年)、抗戦のために工場を上海から杭州に移転する工場主を描く戯曲「清明前後」(1945年)などを書いた。毛沢東の「文芸講話」の影響を受けた趙樹理には、閻錫山蒋介石の内戦から抗日戦争が終わるまでの農村を描いた『李家荘の変遷』(1945年)などがある。

満州国では、北村謙次郎による建国当時の争乱を語る『春聯』(1942)など日系作家による「開拓文学」や、古丁ら中国系作家による「面従腹背」作品が書かれていたが、1941年に弘報処の公布した「芸文指導要綱」に基づく芸文統制が進められ、種々あった文学団体も満州芸文聯盟に統合されていった。

第二次世界大戦後

第二次世界大戦では、さらに大規模の殺戮に加え、無差別爆撃強制収容所などによる民間人への多大な被害が出たことにより、軍人の視点での戦争に加えて、民間人の戦争被害や、ファシズムへの抵抗を描いたものも多く書かれた。

ドイツ
空襲後のハンブルク

第一次大戦で衛生兵として徴兵された経験のあるベルトルト・ブレヒトは、その経験による詩「死んだ兵士の言い伝え」、ナチス政権から逃れての亡命後に反ナチ的戯曲『第三帝国の恐怖と悲惨』(1937)、三十年戦争の中でしたたかに商売に励む女性を描く戯曲『肝っ玉お母とその子供たち』(1939)、そしてポーランド侵攻に際して被災した子供達を描いた「子供の十字軍」(1941年)などを書いた。

アムステルダムにあるアンネ・フランク像

大戦で焦土となったドイツでは、1945年をドイツ文学のゼロ地点と呼び習わし、ハンブルク空襲の体験にもとづくハンス・エーリヒ・ノサック「死神とのインタビュー」(1948)などや、従軍経験に基づき兵士の視点で描いたハインリヒ・ベル『汽車は遅れなかった』(1949)『アダムよ、おまえはどこにいた』(1951)などが書かれ、これらの独裁政権下、戦場、銃後、帰還の体験、廃墟での生活などの真実の姿を求める作品は廃墟の文学と呼ばれた。テオドール・アドルノの『ミニマ・モラリア』(1950)の中の「アウシュヴィッツの後で詩を書くことは野蛮である」という言葉は広く知られるようになる。またナチス・ドイツを成立させた社会を対象とするギュンター・グラスブリキの太鼓』(1959)なども書かれるようになる。また戦時下のユダヤ人少女アンネ・フランクアンネの日記』は世界で広く読まれ、ナチスによる強制収容所の体験を描いた作品ではヴィクトール・フランクル夜と霧』(1956)が知られる。児童文学で知られるエーリッヒ・ケストナーもナチス政権下では著作を焚書され作品発表を禁止されていたが、反戦詩「君や知る、大砲の花咲く国」「集団墓地からの声」などが戦時中にフランスのレジスタンスの出版社で出るなどでも知られており、戦後は軍縮会議を諷刺した子供向けの絵本『動物会議』(1949)や、ファシズムを諷刺する戯曲『独裁者の学校』(1956)などを残した。

フランス、イタリア

フランスではドイツ占領下にあって、秘密出版「深夜版」による匿名作家ヴェルコールのナチスとペタン政権に対する抵抗文学『海の沈黙』(1942)、『星への歩み』(1943)などが熱烈な読者を獲得し、世界的に知られるようになった。ルイ・アラゴンは『エルザの瞳』(1942)ではフランス軍の敗北「ダンケルクの悲劇」の叙事的背景の中に愛の叙情詩を溶け込ませ、『フランスの起床ラッパ』(1945)で戦争の悲惨さを訴えた。ポール・エリュアールは『詩と真実』(1942)で自由を讃えて政府とゲシュタポに追われるようになりながら、逃亡の中でナチスからの解放を謳った。彼らやガブリエル・オーディシオ、パトリス・ドゥ・トゥール・デュ・パン、ギルヴィック、エディット・トーマ、ピエール・セゲールなどが抵抗詩人と呼ばれ、弾圧を受けながら、国民作家評議会を組織して活動した。[3]

サン=テグジュペリは飛行士として1940年にドイツ軍偵察を務めた経験と省察を描いた『戦う操縦士』(1942)を、パリと亡命先のニューヨークで同時に出版し、アメリカではベストセラーとなった。戦争に向かって行くフランスを描く『自由への道』を書いたジャン=ポール・サルトルは、捕虜としてのドイツ収容所体験に基づく戯曲「蠅」を書くとともに、モーリス・メルロー=ポンティらとともに抵抗組織を結成する。

戦後は、戦時中の抵抗運動を描くボーヴォワール『他人の血』(1945)など、サルトルの唱えるアンガージュマンの文学の影響で、多くの作家が戦争、抵抗運動、強制収容所などを題材とした作品を書いた。一方で、『死者の時』(1953)などピエール・ガスカールは、5年間の過酷な俘虜収容所体験にもとづいて生の不安を描いた。太平洋戦線でクワイ河捕虜収容所での体験を描いたピエール・ブール戦場にかける橋』(1952)は映画化されて大ヒットした。

イタリアではパルチザンの少年を描いたイタロ・カルヴィーノ『蜘蛛の巣の小道』(1947)がネオレアリズモの作品として高く評価された。チェーザレ・パヴェーゼは『月と篝火』(1950)で貧しい農村でのファシストとパルチザンの闘争が残した傷痕を描いている。

日本
広島の原爆ドーム

日本では、大岡昇平の『俘虜記』(1948年)は捕虜収容所を、、『レイテ戦記』(1971年)戦場の軍と兵士を描き、坂口安吾は空襲下の異様な状況を描いて戦時下の日本を象徴する『白痴』(1946年)などを発表して一躍時代の寵児となり[4]ビルマ戦線の兵士を主人公とする竹山道雄の『ビルマの竪琴』(1947年)、戦争被害者としての女教師を描く壺井栄の『二十四の瞳』(1952年)などの戦後文学が、戦後のヒューマニズムの所産として評価された[5]

武田泰淳は中国戦線に従軍していた心情を告白する『審判』(1947年)を発表した。江崎誠致の『ルソンの谷間』(1957年)、ペン部隊として従軍した体験を元にした今日出海の『山中放浪』(1949年)、林芙美子の『浮雲』(1951年)、特攻隊兵士としての体験として島尾敏雄の『出発は遂に訪れず』などが発表された。また出陣する学徒兵の遺書を集めた『きけ わだつみのこえ』(1949年)なども発表された。戦死した宇垣纏中将の従軍日記である『戦藻録』(1952年)のように歴史的価値が高いものも遺族らによって出版された。海軍も独自に歴史を残すために富岡定俊元海軍中将が日本出版協同の社長の福林正之を通じて、淵田美津雄奥宮正武の『ミッドウェー』(1951年)、『機動部隊』(1951年)、猪口力平中島正の『神風特別攻撃隊』(1951年)、坂井三郎の『空戦記録』(1953年)、堀越二郎奥宮正武の『零戦』(1953年)を発表した[6]。他に敗戦後中国満州に残された人々や、ソ連によるシベリア抑留などを描いた作品も多い。『真空地帯』(1952年)を書いた野間宏など第一次戦後派の文学者たちは傍観者の立場から戦争を書いた[7]。戦争加害者としての日本人という立場での作品も次第に書かれるようになり、米軍捕虜に対する生体解剖実験を題材にした遠藤周作海と毒薬』(1967年)や、森村誠一731部隊を書いた『悪魔の飽食』(1981年)は大きな衝撃を与えた。

また広島長崎への原爆投下の悲劇を題材にした作品として、原民喜夏の花」(1947年)、井伏鱒二黒い雨』(1966年)、自ら被爆し、被爆から三日間の広島の人々を記録した大田洋子『屍の街』(1948年)、長崎での被爆体験を描いた林京子『祭りの場』(1975年)などがあり、原爆文学とも呼ばれる。広島の記憶は、マルグリット・デュラス『ヒロシマ・モナムール(二十四時間の情事)』(1960)でも取り上げられている。終戦直後はGHQの検閲があり、『原爆体験記』を出版する時に原爆文学や原爆記録に対するアメリカ占領軍による検閲、発禁が歴然とあった[8]。また沖縄戦で戦艦大和に乗艦していた吉田満戦艦大和ノ最期」に敗戦直後に書かれたが、GHQ検閲により全文削除され、独立後の1952年に全文の出版がされた。

ソ連、東欧
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ショーロホフと「静かなドン」を記念したソ連の切手

大祖国戦争が始まると、ソ連作家達はいちはやく愛国的な作品を生み出し、前戦の出来事を描いた叙情詩、歌入りポスター、小説、評論などが発表され、ナチスの残虐さを訴えるミハイル・ショーロホフ『憎しみの科学』などこれらはA.N.トルストイにより「人民の魂の雄叫び」と呼ばれた。戦時中には多くの作家が従軍記者としてルポを執筆し、初期には記録文学として、『赤い星』紙通信員を務めたヴァシーリイ・グロスマン『スターリングラード見聞記』、シーモノフ『黒海よりバレンツ海まで』、戦意高揚のための評論としてA.N.トルストイ「祖国」、エレンブルク「戦争」などが書かれた。1942年になると戦争の様相を広く描いた長篇小説ワンダ・ワシレフスカヤ『虹』が『イズベスチヤ』紙で初めて連載されて読者の熱狂的な支持を受け、単行本は初版40万部が即日売り切れたと伝えられ、マルク・ドンスコイ監督で映画化された。グロスマンは、「人民は死なず」(1942年)や、戦後には広島への原爆投下を題材にした「八月六日」などを書き、まやゴルバートフ『屈服しない人々』、ベーク『ウォロコラムスコエ街道』、シーモノフ『昼も夜も』などが書かれた。スターリングラード攻防戦を経験したヴィクトル・ネクラーソフは「スターリングラードの塹壕にて」(1946年)などの戦争ものを書いた。夫の出征中の妻を描いたアンドレイ・プラトーノフ「帰還」(1947年)はソ連軍人を中傷する作品として批判され、プラトーノフの名は「雪解け」まで文学史から抹殺されることになる。ショーロホフは戦争中は戦線を視察した記録文学『祖国のために』を『プラウダ』に連載し、戦後には戦争に打ちひしがれたドンの人々と人間愛を描いた「人間の運命」(1956年)を書く。

ナチス占領下のポーランドを描いた作品ではイェジ・アンジェイェフスキ灰とダイヤモンド』(1946年)がある。チェコスロバキアのパルチザンに参加し、解放までを描く『死の名はエンゲルヒェン』(1959年)を書いたラディスラフ・ムニャチコは、戦後チェコスロバキアの代表的な作家とみなされるようになった。ナチスとそれに続くソ連軍支配下のハンガリーを舞台にしたアゴタ・クリストフ悪童日記』は亡命先のフランスで1986年に発表された。

アメリカ、イギリス、その他

アメリカでは太平洋戦線での経験に基づくノーマン・メイラー『裸者と死者』(1948年)、ヨーロッパ戦線を舞台にしたアーウィン・ショー『若き獅子たち』(1948年)が書かれた。ガダルカナルの戦いを経験したジェームス・ジョーンズの『地上より永遠に』(1951年)、『シン・レッド・ライン』(1962年)や、ドイツ軍捕虜としてドレスデン大空襲を体験したカート・ヴォネガットスローターハウス5』(1969年)も、戦争の悲惨さを訴えた。パール・バックは原爆開発の経緯を『神の火を制御せよ』(1959)に小説化し、トルコナジム・ヒクメットも原爆投下と核時代を批判する「死んだ小さな女の子」「雲に人間を殺させないで」「そして この夜明けに」を書く。

為政者の手によるものとしては、ウィンストン・チャーチル『第二次世界大戦回想録』がノーベル文学賞を受賞する。大戦中の軍事作戦を題材にした軍事小説には、アリステア・マクリーンナヴァロンの要塞』(1957年)、ジャック・ヒギンズ鷲は舞い降りた』(1976年)など数多くがある。

冷戦期以降

ベトナム戦争

ベトナムでは日本占領下の1941年に、インドシナ共産党ベトナム独立同盟)による救国文学会が設立され、それまでフランス植民地下の社会を描いていたトー・ホアイ、ナム・カオなど多くの作家が参加した。1943年にチュオン・チン「現代ベトナムにおける新文化運動の若干の大原則」において、解放戦線における文学の方向性が示される。フランスとの独立戦争(第一次インドシナ戦争)が始まると作家たちは抗仏のための文芸活動を行う。ジャーナリストであったアイン・ドックは解放戦線に参加し、文芸誌や新聞の編集を手がけていた経験を元にした「土地」(1964年)を書いている。1954年の終戦後は、自由を求める作家たちへの共産党政権による制約が強化されるようになる。第二次インドシナ戦争が始まると、北側では文学にも戦争への奉仕が求められ、抗米の戦士を題材にしたグエン・ゴック・トゥ『立上がる祖国』(1956年)などが書かれた。1986年のドイモイ路線以後は人間自身を主題にした作品が書かれるようになり、戦後の生活に苦悩する元将軍が中越戦争へ赴くグエン・フィ・ティエップ「退役将軍」(1988年)などが登場、ベトナム戦争の兵士を描いたバオ・ニン『戦争の悲しみ』(1991年)は国内及び海外のさまざまな文学賞を受賞した。

従軍時代のグスタス・ハスフォード

ベトナム戦争にアメリカ軍歩兵として従軍したティム・オブライエンは、その記憶を実直に描いた『僕が戦場で死んだら』(1973)や『カチアートを追跡して』(1978)などを書き、海兵隊の報道員として従軍したグスタフ・ハスフォードは『フルメタル・ジャケット』(1979)でリアルな戦場と兵士達を描写した。開高健も従軍体験を元にしたルポタージュ『ベトナム戦記』(1965)、長編小説『輝ける闇』(1968)などを書き、後には中東戦争も取材する。ベトナム帰還兵の苦悩を題材にしたデイヴィット・マレル『一人だけの軍隊』(1972)は映画ランボーシリーズとして大ヒットし、続編では主人公が再度ベトナムやアフガニスタンの戦場へと向かう。1989年には、ベトナムからアメリカに移住したレ・リ・ヘイスリップが戦争体験に基づく『天と地』を書き、オリバー・ストーンによるベトナム戦争三部作として映画化された。

冷戦と代理戦争

パレスチナ人作家ガッサーン・カナファーニーは、1948年のイスラエル侵入を描いた「遥かなる部屋のフクロウ」、クウェートへの密出国をはかる男たちを描く『太陽の下の男達』(1963)などパレスチナ戦争を題材にした作品を書いている。

朝鮮戦争中には、占領下のソウルを描いた廉想渉『驟雨』(1952-53)、占領下の平壌を描いた韓雪野『大同江』(1952-54)などが書かれた。その後戦後の混乱を描いた作品や、軍隊の生活を描いた兵営小説が書かれ、1974年から朝鮮戦争を扱った大河小説、洪盛原『されど』が5年間の長期連載で発表。続いて金源一『火の祭典』(1983)、趙廷来太白山脈』(1983-89)などの大河小説が発表された。朝鮮戦争に参戦した米軍の移動野戦病院を舞台にした風刺小説として、リチャード・フッカー『マッシュ』(1968)がある。

チェ・ゲバラと会談するサルトル(左はボーヴォワール)

アルジェリア戦争でフランスでは、アルジェリア民族解放戦線への連帯を主張するサルトルらを中心として、多くの知識人による「121人宣言」が発せられ、またサルトルとアルベール・カミュによる激しい論争が行われた。

キューバ革命で指導的役割を果たしたチェ・ゲバラは『革命戦争回顧録』(1963)、次いで身を投じたボリビア革命における『ゲバラ日記』(1968)などを残している。ナイジェリアチヌア・アチェベは、ビアフラ戦争下の人々を描いた「アンクル・ベンの選択」「戦時下の娘たち」(1972)などを書いた。フレデリック・フォーサイスはビアフラ戦争のルポ『ビアフラ物語』(1969)、アフリカの小国のクーデターに暗躍する傭兵を描く『戦争の犬たち』(1974)などを書く。クリシャン・チャンダル「ペシャワール急行」は第三次印パ戦争での悲惨さを描いている。

冷戦期における第三次世界大戦の恐怖や、それに連なる軍事衝突を描く作品として、ソ連原潜の亡命劇を描くトム・クランシーレッド・オクトーバーを追え』(1984)などの軍事スリラー・軍事サスペンス小説が無数に書かれている。

テロの世紀へ

アフガニスタンにおける1970年代からのクーデターソ連軍のアフガニスタン侵攻、引き続く内戦から2001年のアメリカによる空爆にいたる時代を舞台にしたカーレド・ホッセイニカイト・ランナー』(2003)は、世界的なベストセラーとなった。パオロ・ジョルダーノ『兵士たちの肉体』は、アフガニスタン紛争に派兵されたイタリア人兵士達を描く。

ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争においては、ボスニアの人々の運命を描く、サーシャ・スタニシチ『兵士はどうやってグラモフォンを修理するか』(2006)や、紛争を取材したスペインのアルトゥーロ・ペレス=レベルテ『戦場の画家』(2006)がある。イラク戦争においては、派兵された兵士を描くケヴィン・パワーズ『イエロー・バード』、アメリカ陸軍によるイラク兵士生き埋め事件の記憶が現代を浸食するチャイナ・ミエヴィル「基礎」が書かれている。

脚注

  1. ^ 秦豊吉「あとがき」(新潮社、1955年)
  2. ^ もりたなるお『芸術と戦争』産経新聞出版14-19ページ
  3. ^ 加藤周一「途絶えざる歌」(『加藤周一セレクション1 科学の方法と文学の擁護』平凡社 1999年)
  4. ^ 奥野健男『坂口安吾』文藝春秋社 1996年
  5. ^ 川村湊成田龍一他『戦争文学を読む』朝日新聞出版 11ページ
  6. ^ 神立尚紀『祖父たちの零戦』講談社 314ページ
  7. ^ 川村湊成田龍一他『戦争文学を読む』朝日新聞出版 83ページ
  8. ^ 川村湊成田龍一他『戦争文学を読む』朝日新聞出版 173ページ

参考文献

叢書

  • 『昭和戦争文学全集』(全16巻)集英社 1964-65年
  • 『戦争の文学』(全8巻)東都書房 1960年
  • 日本の原爆文学』(全15巻)ほるぷ出版、1983年
  • 『近代戦争文学事典』(全5巻)和泉書院、1993年
  • 『「戦争と平和」子ども文学館』(全20巻)日本図書センター、1995年
  • 城山三郎 昭和の戦争文学』(全6巻)角川書店 2005-06年
  • 『コレクション 戦争×文学」(全20巻)集英社 2011-2012年

関連項目