Template‐ノート:和暦/利用実態調査/1573天正

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説明[編集]

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    • その他の和暦または西暦の日付がわかるときは、同様に記入してよい。
  • 年や日付に異説がある場合、両方を記入する (どちらかを除去することはしない)。
  • 見出しの年号や月日は記事に書いてあったものなので、正しいとはかぎらない。

記載[編集]

天正元年[編集]

[編集]

〔…〕1573年(天正元年))には甲斐国武田信玄の侵攻の際に補強され、その後、周辺の諸城とともに後北条氏と武田氏の間で争奪合戦があったとされる。
河村城 2010-08-23T11:41:15Z
「白天目」茶碗は谷下一夢『顕如上人伝』によると、〔…〕、井上鋭夫『一向一揆の研究』によると、当時の情勢や「賢会書状」などから、翌年の1573年(天正元年)ではないかとしており、文献によって石山本願寺から織田信長に差し出された年代に違いがある。
高屋城の戦い 2010-09-25T03:47:41Z
〔…〕1573年(天正元年)にかけて、木戸城田中城を落城させ、また湖面より囲船にて湖北の浅井勢に襲撃し打撃を与えた。
坂本城 2010-06-10T20:11:18Z
しかし、織田軍の強大な軍事力の前に対抗できるはずもなく1573年(天正元年)、信長の家臣・佐久間信盛率いる織田軍に攻められた義継は自殺し宗家は滅亡した。
三好氏 2010-09-18T09:27:53Z
〔…〕1573年(天正元年)が攻め続けた城で、山城の優位性があったためではないかとしている。
山崎城 (山城国) 2010-09-24T14:38:43Z
この状況は1573年(天正元年)に包囲網の重要な一角を担った武田信玄が病死するまで続くことになる。
志賀の陣 2010-08-17T16:52:36Z
こうして1573年(天正元年)末には包囲網は実質的に瓦解した。
信長包囲網 2010-09-13T03:44:41Z
一方1573年(天正元年)に京都を追放された足利義昭は信長の護衛の下、まだ三好義継が健在だった若江城に移送された後、和泉紀伊興国寺へと転々とし、〔…〕、毛利領だった備後へと移っている。
信長包囲網 2010-09-13T03:44:41Z
吉川元春ら毛利軍は1573年(天正元年)出雲国、伯耆国因幡国に進軍し尼子軍を撃破しながら但馬国に迫ってきた。
竹田城 2010-09-20T06:42:18Z
1573年(天正元年)、高信を討つために山中幸盛ら尼子残党と結んだ山名豊国の攻撃を受け、劣勢の高信は和議を結び城を明け渡すも、まもなく豊国により謀殺される。
鳥取城 2010-08-17T22:01:35Z
始原については不明な点が多いが、『因幡民談記』によると1573年(天正元年)に山名豊国が因幡守護所を布勢天神山城から鳥取城に移した際に、布勢天神山城の3層の天守を移築したとされている。
鳥取城 2010-08-17T22:01:35Z
山頂近くの稜線には天険を利用した十神の砦があり1573年(天正元年)の尼子党の攻撃をここで防いでいる。
鳥取城 2010-08-17T22:01:35Z
〔…〕1573年(天正元年)にかけて2回訪問した。
八木城 (丹波国) 2010-05-19T19:13:39Z
この1573年(天正元年)の初旬、2回目の訪問の様子をガスパル・ヴィレラの書簡によると
八木城 (丹波国) 2010-05-19T19:13:39Z
『内藤如安の生涯』によると、母が殺されたのは1573年(天正元年)の秋から暮れにかけてはでないかと推察している。
八木城 (丹波国) 2010-05-19T19:13:39Z
1573年(天正元年)まで黒田氏が代々城代となり、重隆の子職隆、孫の孝高(官兵衛、如水)に伝えられた。
姫路城 2010-10-11T09:27:25Z
1573年(天正元年)、福田城を築城。
福田氏 2010-05-05T07:53:51Z

1月[編集]

こうした武田勢の勝利を受けて義昭は1573年(天正元年)1月、それまでの信長との表面的な友好関係を脱し、義昭は自ら二条城に篭って挙兵した。
信長包囲網 2010-09-13T03:44:41Z

3月[編集]

ところが義昭と信長の関係は徐々に悪化し、〔…〕、義昭の信長追討令に応じた武田信玄が西上を開始し三方ヶ原の戦いで勝利を収めたのを知ると、翌1573年(天正元年)3月に義昭は二条城において信長に対し挙兵する。
二条城 2010-10-14T15:55:10Z

4月[編集]

武田氏 - 当主信玄1573年(天正元年)4月、病死。
信長包囲網 2010-09-13T03:44:41Z

8月[編集]

浅井長政 - 1573年(天正元年)8月、自害。
信長包囲網 2010-09-13T03:44:41Z
朝倉義景 - 1573年(天正元年)8月、自害。
信長包囲網 2010-09-13T03:44:41Z

8月8日 (旧暦)[編集]

1573年(天正元年)8月8日、山本山城の守将である阿閉貞征が羽柴秀吉(7月ころに名字を木下から羽柴に改める)の調略に乗って織田方に寝返った。
小谷城 2010-04-11T13:23:22Z

8月16日[編集]

1573年(天正元年)8月16日刀禰坂の戦いに大敗した義景は一乗谷を放棄し大野へ逃れる。
一乗谷朝倉氏遺跡 2010-08-09T03:46:58Z

11月[編集]

三好氏 - 当主義継1573年(天正元年)11月に自害。
信長包囲網 2010-09-13T03:44:41Z

天正2年[編集]

[編集]

1574年(天正2年)、越前一向一揆
一向一揆 2010-10-02T07:59:38Z
1574年(天正2年)の書状から見えるように、この頃から鑑速の嫡男・臼杵統景が父の名代としての活動を開始して将来を嘱望された。
臼杵氏 2010-08-18T11:15:28Z
1574年(天正2年)父信長、母不明の四女として出生。
永姫 2009-09-08T01:18:40Z
実際に「左近」を初めて名乗ったことが解っているのは、宗節の甥で後継者の8世宗家・観世元尚1574年(天正2年)以降、それまでの「観世大夫」に代えて「観世左近」の署名を用いている。
観世左近 2010-02-26T18:10:00Z
1574年(天正2年)、長浜12万石の主となった秀吉に呼び寄せられ秀吉の生母・なかと共に転居した。
高台院 2010-10-06T15:18:48Z
1574年(天正2年) - 石楯尾神社再建。
鵠沼皇大神宮 2010-09-22T13:03:48Z
また『東山文庫記』によると1574年(天正2年)に「御主」が存在していたようで、安土城築城に先行する数少ない天守であったことを示している。
勝竜寺城 2010-03-22T06:55:22Z
1574年(天正2年)には、浦上氏と組んで宇喜多氏に対抗した三浦貞広と戦い敗れるも、後に和睦した毛利氏の支援を得て、三浦貞広を従属させた。
沼本房家 2009-09-24T14:16:27Z
しかし、〔…〕、永姫は1574年(天正2年)の出生であり別腹である。
生駒吉乃 2010-06-23T09:34:51Z
しかし1574年(天正2年)再度尼子残党に攻められ降伏、〔…〕芸但和睦で毛利の力が鳥取に直接及ぶようになるとその手から逃れるため尼子残党が鳥取城を退き山名豊国が城主に落ち着く。
鳥取城 2010-08-17T22:01:35Z
1574年(天正2年)には上杉謙信に忍城が包囲されるが、持ちこたえている。
忍城 2010-10-01T03:44:33Z
また1574年(天正2年)3回目の訪問の様子をルイス・フロイスの未刊の書簡では
八木城 (丹波国) 2010-05-19T19:13:39Z
また松田毅一の論文『丹波八木城と内藤如庵について』では、同盟関係にあった織田信長と足利義昭が仲違いを生じると内藤ジョアンは「1574年(天正2年)の秋以降、和泉堺に移って以後、義昭のもとに走った」と、八木城の戦い時には八木城にいなかった可能性を指摘している。
八木城 (丹波国) 2010-05-19T19:13:39Z
鉢形城はその後も戦略上の重要性から、各地の戦国大名の攻防の場となっており、〔…〕1574年(天正2年)には、上杉謙信が城下に火を放っている。
鉢形城 2010-09-14T13:13:05Z

1月[編集]

特に1574年(天正2年)1月に発生した越前一向一揆は5月までに越前を占領し、従前より本願寺の影響下にあった加賀を含めて北陸で強大な地盤を築こうとした。
信長包囲網 2010-09-13T03:44:41Z

9月[編集]

しかし、包囲網の瓦解により、圧力を受けることが少なくなっていた信長はこうした一向一揆に対して積極的な反撃に出て、石山本願寺を配下の塙直政を中心とする部隊に包囲させるとともに、長島一向一揆を1574年(天正2年)9月に、〔…〕、本願寺の影響力を削いでいる。
信長包囲網 2010-09-13T03:44:41Z

天正3年[編集]

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reject_y = 1575年(天正3年)
一乗谷朝倉氏遺跡 2010-08-09T03:46:58Z
朝倉氏が滅亡した後1575年(天正3年)に北ノ庄へ移った。
一乗谷朝倉氏遺跡 2010-08-09T03:46:58Z
1575年(天正3年)に三村氏を滅ぼして宿願を果たしたが、その後、機嫌を伺いに岡山城へ赴いた際、天神山城に帰ったが、同日に死去。
浦上宗辰 2009-05-04T01:40:59Z
ファイル:… 伊賀国で国司北畠具教が隠居城として1575年(天正3年)に築城を決め、同地域の土豪を説得、〔…〕織田信長と不和になり三瀬館に引き上げた。
丸山城 (伊賀国) 2010-06-20T09:11:59Z
1575年(天正3年) 長篠の戦いの後、武田勢が弱体化した期に乗じ信長は岩村城奪還を行った。
岩村城 2010-09-18T06:45:42Z
孟津抄(もうしんしょう)』1575年(天正3年)、九条稙通
旧注 2010-09-30T13:28:22Z
長篠城が奪われた為、救援作戦は頓挫したが、その二年後の1575年(天正3年)に三河国に侵入し長篠城に迫ったとの報が入り、織田信長は石山本願寺攻めを撤収し帰京した。
高屋城の戦い 2010-09-25T03:47:41Z
1575年(天正3年)、織田信長の降伏勧告を拒絶した在郷武士や長島一向一揆の牢人などを中心とした今井郷民が蹶起し、佐久間信盛を大将とした明智光秀配属の筒井順慶率いる織田の軍勢とよく戦ったが、結局降伏を余儀なくされた。
今井町 2010-10-14T15:34:42Z
寺内町の強い団結力と抵抗には、さすがの信長も一目おき1575年(天正3年)冬に土民なみになる(武装放棄)のを条件に「万事大坂同然」として、この町に大坂と同じように特別の立場を認めたのであった。
今井町 2010-10-14T15:34:42Z
1575年(天正3年)に死去。
坂元祐 2009-08-28T16:29:32Z
有馬国秀の時に荒木村重の支配下に入るが1575年(天正3年)に不義の疑いがかかり自刃して果ててしまう。
三田城 2010-03-22T10:47:40Z
〔…〕、姻戚関係であった土佐一条氏の危急を救うべく伊予国へ侵攻し、翌々年に一条兼定が豊後国へ亡命した際にも、またその翌年の1575年(天正3年)の土佐国侵攻(一条軍は四万十川の戦いで大敗)でも、大友水軍の一員として活動した。
若林鎮興 2010-07-26T13:22:11Z
reject_y = 1575年(天正3年)
小谷城 2010-04-11T13:23:22Z
ファイル:… その後、浅井氏の旧領のうち伊香郡・浅井郡・坂田郡は羽柴秀吉に与えられるが、秀吉は琵琶湖から離れた小谷城を嫌い1575年(天正3年)に北国街道と琵琶湖に面しており港もある今浜に新たに築城して居城とした(長浜城)。
小谷城 2010-04-11T13:23:22Z
しかし、続いて1575年(天正3年)に勝頼が三河の長篠城へ侵攻したことがきっかけとなって発生した長篠の戦いでは、信長と家康の連合軍の前に勝頼は敗北を喫している。
信長包囲網 2010-09-13T03:44:41Z
特に半独立を保ちながら信長に寄騎していた丹波波多野秀治但馬山名祐豊1575年(天正3年)〔…〕、相次いで叛旗を翻し、信長包囲網に加わった。
信長包囲網 2010-09-13T03:44:41Z
更に砦として明確に記載されているのが1575年(天正3年)の石山合戦の時で、石山本願寺支城として大和田に砦を築き、荒木村重軍が駐屯していた神崎や渡辺へ攻め込み一旦敗走させたが、逆に荒木村重軍は、石山本願寺軍を十三の渡しにおびき出してこれを破り、大和田や天満の砦を落していった。
大和田城 2010-08-21T09:59:25Z
しかし、〔…〕1575年(天正3年)、芸但和睦で毛利の力が鳥取に直接及ぶようになるとその手から逃れるため尼子残党が鳥取城を退き山名豊国が城主に落ち着く。
鳥取城 2010-08-17T22:01:35Z
最盛期には甲斐国・信濃国・駿河国及び上野国遠江国三河国美濃国飛騨国越中国の一部の計9カ国に及ぶ120万石の領土を有したが、武田勝頼の代になると美濃に進出して領土をさらに拡大する一方、次第に家中を掌握しきれなくなり1575年(天正3年)長篠の戦いに敗北、信玄時代からの重臣を失うと一挙に衰退し、〔…〕
武田氏 2010-09-03T04:14:21Z
1575年(天正3年) 長篠の戦いで内藤昌豊が討ち死にすると、その子内藤昌月が城代に任じられている。
箕輪城 2009-10-08T17:13:01Z
1575年(天正3年)成立、原本は全20巻であるが、現存本には15冊・21冊・54冊本などもある。
孟津抄 2010-02-21T16:29:43Z
また、この頃には全国的な山城への居館移転も傾向としてみられ、勝頼期には1575年(天正3年)の長篠の戦いでの敗戦により領国支配に動揺が生じ、勝頼は領国体制の立て直しのため府中移転を企図し、家臣団の反対もあったが新たに新府城を築き、〔…〕
躑躅ヶ崎館 2010-05-31T14:58:10Z

1月18日[編集]

1575年(天正3年)1月18日、吉田郡志比庄で一揆が蜂起、翌日には長繁を先頭に坂井郡、吉田郡、足羽郡の一揆勢3万3千人が一乗谷に攻め入り、長俊は一族もろとも討ち取られた。
一乗谷朝倉氏遺跡 2010-08-09T03:46:58Z

5月[編集]

しかし、包囲網の瓦解により、圧力を受けることが少なくなっていた信長はこうした一向一揆に対して積極的な反撃に出て、石山本願寺を配下の塙直政を中心とする部隊に包囲させるとともに、〔…〕、越前一向一揆を1575年(天正3年)5月ごろまでに鎮圧し、本願寺の影響力を削いでいる。
信長包囲網 2010-09-13T03:44:41Z

5月21日[編集]

笠井満秀(? - 1575年(天正3年)5月21日)長篠設楽原合戦の武田方敗走時に討死
肥後国 2010-10-01T19:08:52Z

天正4年[編集]

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1576年(天正4年)に村民が建てた小祠の場所に、〔…〕福井藩松平光通が墓塔を建立した。
一乗谷朝倉氏遺跡 2010-08-09T03:46:58Z
build_y = 1576年(天正4年)
丸岡城 2010-07-30T07:55:44Z
1576年(天正4年) 織田信長の家臣で、越前ほぼ一帯を領していた柴田勝家の甥である勝豊により築城され、勝豊はそれまでの豊原寺城から当城に移った。
丸岡城 2010-07-30T07:55:44Z
柴田勝豊の建造である場合1576年(天正4年)となるが、建築史の観点では、慶長期の特徴を多く見ることができるとして、〔…〕、改修による姿ではないかという説もある。
丸岡城 2010-07-30T07:55:44Z
Template:日本の城郭概要表 丸山城(まるやまじょう)は、三重県伊賀市枅川周辺にあった日本
丸山城 (伊賀国) 2010-06-20T09:11:59Z
〔…〕、同地域の土豪を説得、翌1576年(天正4年)正月より人夫衆を動員し作事を行ったが、織田信長と不和になり三瀬館に引き上げた。
丸山城 (伊賀国) 2010-06-20T09:11:59Z
1576年(天正4年) 信長は嫡子織田信忠を岐阜城の城主とし、織田家の家督、及び、美濃、尾張の2ヶ国を譲る。
岐阜城 2010-10-03T19:57:44Z
〔…〕1576年(天正4年)の50年に渡って書かれているが、散逸部分も少なくない。
言継卿記 2009-06-06T03:16:42Z
1576年(天正4年)の第一次木津川口の戦いには、水軍の将として主力部隊を率いて参加。
香川広景 2009-09-24T14:16:46Z
一方、〔…〕、まだ三好義継が健在だった若江城に移送された後、和泉紀伊興国寺へと転々とし、最終的には1576年(天正4年)になって毛利氏の庇護下に入って当時、毛利領だった備後へと移っている。
信長包囲網 2010-09-13T03:44:41Z
1576年(天正4年)、毛利氏の庇護下に入り、鞆に移った足利義昭であるが、それ以前の紀伊にいた頃から信長包囲網の再構築を企図していた。
信長包囲網 2010-09-13T03:44:41Z
特に半独立を保ちながら信長に寄騎していた丹波波多野秀治〔…〕1576年(天正4年)初頭にかけて、相次いで叛旗を翻し、信長包囲網に加わった。
信長包囲網 2010-09-13T03:44:41Z
また、社宝として、〔…〕〔…〕1576年(天正4年)の前関白九条稙通が清神社で民衆を前に源氏物語の講釈を行ったことが記述された連子窓、元亀年間の舞楽面がある。
清神社 2009-12-26T04:26:34Z
1576年(天正4年)の第一次木津川口の戦いでは村上水軍を率いて織田水軍を壊滅に導いた。
村上元吉 2010-07-24T21:36:02Z
その後は中国地方に勢力を張る毛利水軍の一翼を担い、〔…〕〔…〕〔…〕1576年(天正4年)の第一次木津川口の戦いなどが知られている。
村上水軍 2010-05-15T02:31:51Z
しかし、全国的に名を馳せたのは1576年(天正4年)に太田左近
太田城 (紀伊国) 2010-08-16T08:31:42Z
1576年(天正4年)、織田信長は荒木村重に命じ、尼崎城(大物城)、花隈城能勢城三田城多田城茨木城高槻城有岡城、そして大和田城の改修や築城をさせ石山本願寺のけん制の城とした。
大和田城 2010-08-21T09:59:25Z
丸岡城(重要文化財、福井県坂井市- 不明(1576年(天正4年)築説あり))
天守の一覧 2010-09-10T06:58:39Z
二条城に残った天主や門は1576年(天正4年)に解体され、安土へ運ばれ築城中の安土城に転用された。
二条城 2010-10-14T15:55:10Z
1576年(天正4年)に織田信長の命を受けて羽柴秀吉が播磨に進駐すると、播磨国内は織田氏につく勢力と中国地方の毛利氏を頼る勢力とで激しく対立、最終的には織田方が勝利し、毛利方についた小寺氏は没落した。
姫路城 2010-10-11T09:27:25Z

4月[編集]

1576年(天正4年)4月、信長は冷戦状態が続いていた石山本願寺に対して攻勢に出ることを決断し、塙直政、明智光秀らを中心とする軍勢が天王寺方面を攻略しようとした。
信長包囲網 2010-09-13T03:44:41Z
信長は1576年(天正4年)4月に京に滞在した際、二条の妙覚寺(現在地とは異なる)に宿泊したが、寺の東側に隣接する公家の二条家の邸宅の庭の眺望を気に入った。
二条城 2010-10-14T15:55:10Z

7月13日 (旧暦)[編集]

毛利氏の補給作戦については毛利輝元配下の村上元吉らが来援した1576年(天正4年)7月13日第一次木津川口の戦いでは織田方の水軍が破れ、石山本願寺への補給が成功している。
信長包囲網 2010-09-13T03:44:41Z

9月21日[編集]

木崎原の戦いで伊東氏が大敗した後、義祐の命で前線の高原城を守ったが、霧島神社の祭祀の日には島津領の村に侵入し、度々祭りを妨げたので1576年(天正4年)9月21日に島津氏の攻撃を受けて開城する。
長倉祐政 2010-06-17T09:50:48Z

天正5年[編集]

[編集]

reject_y = 1577年(天正5年)
今切城 2010-07-11T16:15:54Z
信長は本願寺を倒すためにまず雑賀衆を抑えることを考え1577年(天正5年)に信長自身率いる大軍をもって和泉国河内国から紀伊に侵攻(第一次紀州征伐)し、雑賀衆に服属を誓わせた。
雑賀衆 2010-09-28T13:19:31Z
これは播磨国永良荘(現・兵庫県市川町)の永良竹叟が記した『竹叟夜話』(1577年(天正5年))にある事件で、以下のようなものである。
皿屋敷 2010-09-19T04:06:04Z
1577年(天正5年)に能登国に侵攻した上杉謙信に包囲されるが、一年にわたって持ちこたえた。
七尾城 2010-01-27T23:00:31Z
1577年(天正5年)の手取川の戦いの際に上杉謙信が攻略して落城したとも、織田軍によって落城したともいわれる(『越登賀三州志』)。
松任城 2010-10-03T11:30:04Z
1577年(天正5年)になって、信長はまず本願寺の有力な寄騎である雑賀衆を離反させるべく、2月から紀州侵攻を行った。
信長包囲網 2010-09-13T03:44:41Z
また、丹波方面において1577年(天正5年)末から亀山城内藤定政が病死したことを受けて明智光秀を主将とする織田勢が丹波に侵攻し、八上城黒井城を攻略しようとして八上城の戦い黒井城の戦いが発生している。
信長包囲網 2010-09-13T03:44:41Z
1577年(天正5年)に織田信長雑賀城に侵攻するにあたって、雑賀衆の中にも織田信長軍に協力した者がいた。
太田城 (紀伊国) 2010-08-16T08:31:42Z
〔…〕1577年(天正5年)?)
竹田城 2010-09-20T06:42:18Z
1577年(天正5年)、嫡子の伊東近江守、その弟の長倉六郎太郎を伴い、伊東氏の豊後退去に同行。
長倉祐政 2010-06-17T09:50:48Z
また織田信長の命に従い羽柴秀吉総大将1577年(天正5年)〔…〕
八木城 (但馬国) 2010-03-22T10:49:21Z
この地名の舞台になったのが1577年(天正5年)〔…〕、いつの時代かはっきりしていないが、攻城戦に関連している。
八木城 (但馬国) 2010-03-22T10:49:21Z

3月[編集]

また、謙信は11月から畠山氏の籠城する能登七尾城を包囲するが、堅城であるため、強攻することもできず、翌1577年(天正5年)3月に本国の越後が北条氏の侵攻を受けたため撤退している。
信長包囲網 2010-09-13T03:44:41Z

7月[編集]

これらと並行して柴田勝家は加賀侵攻を継続していたが1577年(天正5年)7月になって七尾城が再び謙信の侵攻を受けたことから後詰の要請を受け、これを容れて能登への遠征を開始した。
信長包囲網 2010-09-13T03:44:41Z

10月[編集]

松永久秀 - 1577年(天正5年)10月、自害。
信長包囲網 2010-09-13T03:44:41Z

天正6年[編集]

[編集]

〔…〕1578年(天正6年)の記録
フロイス日本史 2010-06-11T00:25:31Z
第二部 : 1578年(天正6年)〔…〕
フロイス日本史 2010-06-11T00:25:31Z
本文は現存しない「日本総記」と称される第1巻(序文・日本六十六国誌・日本総論から成る)、〔…〕1578年(天正6年)までからなる第2巻、〔…〕
フロイス日本史 2010-06-11T00:25:31Z
本文は現存しない「日本総記」と称される第1巻(序文・日本六十六国誌・日本総論から成る)、〔…〕、そして1578年(天正6年)〔…〕
フロイス日本史 2010-06-11T00:25:31Z
1578年(天正6年)、三浦三崎に唐人が来航したときに十官という中国刀術の名人がいて、一刀斎は扇一本で木刀を持った十官と試合し、勝ったといわれる。
伊東一刀斎 2010-03-02T07:56:52Z
しかし1578年(天正6年)の「耳川の戦い」に出陣した臼杵統景は島津軍に敗れて討死した。
臼杵氏 2010-08-18T11:15:28Z
1578年(天正6年)の丸山城の戦いで廃城になったという説もあるが、『丸山城跡』によると「残る遺構から判断して築城半ばに廃城になった城とは到底考えられない」としていたり、 Template:quotation と『諸国廃城考』には記している。
丸山城 (伊賀国) 2010-06-20T09:11:59Z
能勢頼道と丸山城 === 1578年(天正6年)、それまで織田信長に出仕していた有岡城兵庫県伊丹市)の荒木村重は突然信長に反旗を翻し、有岡城の戦いが起こった。
丸山城 (摂津国能勢郡) 2010-09-17T09:16:53Z
後、菊池氏の一族で菊池三家老の赤星親家が城主となるが、同じ菊池三家老の隈部親永に圧迫され1578年(天正6年)親家の子赤星統家の時、龍造寺氏と結んだ親永によって赤星氏は菊池城を追われた。
菊池城 2010-10-13T12:16:45Z
〔…〕1578年(天正6年)耳川の戦い島津氏に大敗した大友氏を見限り、新たに肥前国戦国大名龍造寺氏と結んで親家の子赤星統家を攻めて追放、現菊池市一帯をも領有するようになる。
隈部氏 2009-11-30T07:10:41Z
〔…〕1578年(天正6年)〔…〕
原田城 2010-08-26T14:55:17Z
〔…〕1578年(天正6年)-慶長年間 !! style="width:25%" | 慶長年間以降
原田城 2010-08-26T14:55:17Z
1578年(天正6年)には日向国北部に侵攻し、土持親成らを討って、土持氏を滅亡に追い込んだ。
戸次鎮連 2009-12-24T15:59:07Z
1578年(天正6年)の上月城の戦いにも出陣。
口羽春良 2009-05-04T12:55:22Z
しかし、有岡城の戦いで荒木村重が織田信長に背くと1578年(天正6年)に羽柴秀吉明智光秀筒井氏らの武将に攻められ落城したようである。
三田城 2010-03-22T10:47:40Z
しかし、このような外征の結果1578年(天正6年)に日向国への侵攻では手柄を挙げたが、耳川の戦いで大友軍本体が島津軍に敗北し、それまでの攻勢から守勢へと変わった。
若林鎮興 2010-07-26T13:22:11Z
1578年(天正6年)にも、毛利氏に従い、播磨国上月城攻略戦にも出陣。
沼本房家 2009-09-24T14:16:27Z
1578年(天正6年)になり、3月に上杉謙信が病没し、上杉景勝上杉景虎による上杉氏の跡目争いである御館の乱が発生したことで上杉氏は北陸方面で大幅な後退を余儀なくされた。
信長包囲網 2010-09-13T03:44:41Z
reject_y = 不明(1578年(天正6年)多田神社焼き討ちと同時期という説もある)
新田城 2010-08-21T05:17:33Z
Template:日本の城郭概要表 吹田城(すいたじょう)は大阪府吹田市吹田駅付近にあった城。
吹田城 2010-08-26T05:36:44Z
その後大屋肥後守が城主となり1578年(天正6年)の三木合戦織田信長方の稲田植元に占領され、〔…〕〔…〕
船上城 2010-03-22T09:47:11Z
1578年(天正6年)の上月城の戦いに出陣した。
村上景親 2010-01-04T12:56:09Z
1578年(天正6年)荒木村重が有岡城の戦いで織田信長へ謀反に及ぶと、安部仁右衛門は芝山源内と談合し織田信長軍につくこととした。
大和田城 2010-08-21T09:59:25Z
城代・羽柴小一郎長秀(秀長)1578年(天正6年)〔…〕
竹田城 2010-09-20T06:42:18Z
元政は毛利氏の一門として、多くの戦いに出陣し1578年(天正6年)の上月城攻防戦でも抜群の戦功を上げ、〔…〕
天野元政 2009-10-13T02:39:12Z
その後も1578年(天正6年)の耳川の戦いにおいて、九州最大の戦国大名であった豊後大友氏に大勝し、〔…〕、九州西部に強大な勢力を誇った肥前龍造寺氏を撃ち破り、九州最大の戦国大名へと成長した。
島津氏 2010-09-07T06:14:06Z
これに伴い1578年(天正6年)時点では織田勢に属していた田結庄是義垣屋光政山名祐豊と、毛利勢に属していた垣屋豊続太田垣輝延、八木豊信に勢力が二分したようである。
八木城 (但馬国) 2010-03-22T10:49:21Z
しかし、翌1578年(天正6年)には羽柴秀吉は竹田城にいた。
八木城 (但馬国) 2010-03-22T10:49:21Z
1578年(天正6年)三木合戦が勃発すると、別所重宗は三木城の別所氏と対立し羽柴秀吉に加担する。
豊地城 2010-09-24T14:36:03Z
1578年(天正6年)には、10年間に及んだ石山合戦において、織田信長と石山本願寺門主顕如との和睦に奔走。
立入宗継 2010-10-05T13:12:09Z

2月[編集]

北畠氏養子となっていた織田信長の次男北畠信雄は、伊勢国を掌握すると伊賀国の領国化を狙っていたが1578年(天正6年)2月、伊賀国の郷士下山甲斐が北畠信雄を訪れ、伊賀国への手引きを申し出た。
丸山城 (伊賀国) 2010-06-20T09:11:59Z

3月[編集]

上杉氏 - 謙信1578年(天正6年)3月に病死、御館の乱を経て後を継いだ養子景勝は加賀、能登から撤退し以後も抗争を継続。
信長包囲網 2010-09-13T03:44:41Z

天正7年[編集]

[編集]

1579年(天正7年) インドにおいてイエズス会に入会し、神学を学ぶ。
バレト写本 2010-09-05T10:51:41Z
Template:Buddhism 安土宗論(あづちしゅうろん)とは1579年(天正7年)、安土城下の浄厳院で行われた浄土宗法華宗日蓮宗)の宗論。
安土宗論 2010-10-15T14:18:33Z
1579年(天正7年)、第二次黒井城の戦い丹波国を平定した信長は、中国攻めのための補給線上にあるとして丸山城を重要視し、山下城(兵庫県川西市)の城主で信長方の塩川国満を通じて織田氏に帰属するように勧めたが、能勢頼道は、これに応じなかった。
丸山城 (摂津国能勢郡) 2010-09-17T09:16:53Z
1579年(天正7年)兄の死後、家督を継ぐ。
久武親直 2010-10-07T05:08:33Z
しかし1579年(天正7年)に嫡男の熊谷高直が病死、嫡孫の熊谷元直を補佐し、〔…〕
熊谷信直 2010-04-27T08:53:08Z
1579年(天正7年) 御館の乱を制した、上杉謙信の養子上杉景勝が入城。
春日山城 2010-07-20T10:06:58Z
また1579年(天正7年)に杉重良が毛利氏に反旗を翻して、松山城を退去して蓑島城に入った。
松山城 (豊前国) 2010-01-26T00:23:45Z
1579年(天正7年)になり、畿内では荒木村重は有岡城にて、別所長治は三木城にてそれぞれ織田勢の包囲下に置かれることになり、石山本願寺も海上補給の失敗により孤立を深め、丹波の波多野氏、赤井氏なども織田勢の攻勢を受けるなど、徐々に織田勢優勢の形が作られていった。
信長包囲網 2010-09-13T03:44:41Z
以後、信長の側近・奉行としての活動が多く1579年(天正7年)に安土宗論が発生した際には堀秀政長谷川秀一とともに奉行を務め、〔…〕、織田氏の故地である越前織田庄の劔神社を宰領するなどの活動が見られる。
菅屋長頼 2010-03-18T20:41:48Z
大和田城はその後、本来の目的である毛利水軍と石山本願寺軍の補給路を断つ重要な拠点となり、翌1579年(天正7年)に大和田城の攻城戦が繰り広げられたが、この年大地震がおこり攻城軍は壊滅し逃走した。
大和田城 2010-08-21T09:59:25Z
1579年(天正7年)筒井城を大改修しようと多聞山城の石垣を筒井城に移したが、信長の「大和一国破城命令」により廃城とし、居城を郡山城に移した。
筒井城 2010-08-28T19:33:17Z
1579年(天正7年)に松平信康が切腹するという事件が起こる。
徳川家康の影武者説 2010-03-20T07:55:09Z
そのため1579年(天正7年)の信康自害に誰よりも悲しんだのは、この数正のはずである。
徳川家康の影武者説 2010-03-20T07:55:09Z

1月[編集]

別所長治 - 1579年(天正7年)1月、自害。
信長包囲網 2010-09-13T03:44:41Z

5月[編集]

信長公記等に依ると1579年(天正7年)5月中旬、浄土宗の霊誉玉念(れいよぎょくねん)という長老が上方へ出てきて安土の町で説法をしていた。
安土宗論 2010-10-15T14:18:33Z

6月[編集]

波多野秀治 - 1579年(天正7年)6月、降伏するが刑死。
信長包囲網 2010-09-13T03:44:41Z

9月[編集]

荒木村重 - 1579年(天正7年)9月、有岡城を捨て逃亡。
信長包囲網 2010-09-13T03:44:41Z

10月[編集]

宇喜多直家 - 1579年(天正7年)10月、降伏。
信長包囲網 2010-09-13T03:44:41Z

11月[編集]

1579年(天正7年)11月以降は、この邸に皇太子誠仁親王を住まわせることになった。
二条城 2010-10-14T15:55:10Z

天正8年[編集]

[編集]

しかし1580年(天正8年)、信長との抗争に敗れて顕如石山本願寺を退去した後は、本願寺の分裂騒動もあって一向一揆という名称は見られなくなる。
一向一揆 2010-10-02T07:59:38Z
里見義頼により1580年(天正8年)、館山城が築城された。
館山城 2010-07-10T01:25:28Z
1580年(天正8年)には北条氏直の弟の源五郎が、〔…〕
岩槻城 2010-06-30T16:35:39Z
1580年(天正8年)親永が入城し、北上する島津氏と対峙したが、隈部氏は篭城してこれを凌いで島津氏と和睦所領を安堵された。
菊池城 2010-10-13T12:16:45Z
build_y = 1580年(天正8年)
金沢城 2010-10-09T16:17:40Z
1580年(天正8年) 佐久間盛政が尾山御坊を攻め落とし、金沢城と改称して用いた。
金沢城 2010-10-09T16:17:40Z
隈部親永が1580年(天正8年)に隈府城に移るまで隈部氏の居城であった。
隈部館 2010-10-13T08:10:30Z
〔…〕1580年(天正8年)| revamp = 筒井順慶、豊臣秀長増田長盛| rulers = 筒井氏豊臣氏水野氏〔…〕、堀| cultural asset = 奈良県指定史跡| rebuilding things = 大手向櫓、東櫓、大手門| location = 北緯34度39分6.9秒 東経135度46分44.18秒 / 北緯34.651917度 東経135.7789389度 / 34.651917; 135.7789389| }} 郡山城こおりやまじょう)は、奈良県大和郡山市に築かれた
郡山城 (大和国) 2010-09-18T09:51:19Z
1580年(天正8年)に毛利氏が備前国に進出して、宇喜多直家に味方する虎倉城主・伊賀久隆と戦い大敗北を喫した。
桂元盛 2009-09-25T02:22:36Z
鎮連は1580年(天正8年)に斜陽の大友氏を支えるべく、志賀親度一萬田鎮実らと連署で大友義統を諌める書状を提出した。
戸次鎮連 2009-12-24T15:59:07Z
〔…〕1580年(天正8年))の織田勢との戦いにも五箇山の塩硝が使われた。
五箇山 2010-09-18T06:37:34Z
黒井城の戦いでほぼ丹波国を手中に収めると1580年(天正8年)亀山城の城主となったが、坂本城もそのまま城主となっていたようである。
坂本城 2010-06-10T20:11:18Z
1580年(天正8年)に門主顕如が石山本願寺から退去して石山戦争が終結すると、雑賀衆の門徒たちは雑賀の鷺森(現在の鷺森別院)に顕如を迎え入れた。
雑賀衆 2010-09-28T13:19:31Z
中世後期の山崎の地には赤松氏傘下の釜内氏が篠の丸山に築いた篠の丸城があったが1580年(天正8年)に羽柴秀吉によって攻め落とされた。
山崎城 (播磨国) 2010-09-24T14:39:21Z
1580年(天正8年)、父・郷氏は兄安東友郷とともに織田信長に反旗を翻した結果、〔…〕
山内可氏 2010-06-04T02:46:15Z
1580年(天正8年)には、大友氏重臣の田原親貫が反乱を起こした。
若林鎮興 2010-07-26T13:22:11Z
1580年(天正8年)に柴田勝家が松任城を落城させると、家臣徳山則秀が入城した。
松任城 2010-10-03T11:30:04Z
そのため1580年(天正8年)、毛利方の備中国加茂城攻めの最中に、反撃に遭い討死した。
沼本房家 2009-09-24T14:16:27Z
そして、翌1580年(天正8年)になり、1月に三木城が陥落し別所長治が自害すると、閏3月には本願寺法主顕如は石山本願寺を明け渡し、信長との講和に合意した。
信長包囲網 2010-09-13T03:44:41Z
以後、信長の側近・奉行としての活動が多く、〔…〕長谷川秀一とともに奉行を務め、翌1580年(天正8年)には安土にて造営奉行を務めたほか、織田氏の故地である越前織田庄の劔神社を宰領するなどの活動が見られる。
菅屋長頼 2010-03-18T20:41:48Z
reject_y = 1580年(天正8年)
石山本願寺 2010-10-13T11:27:14Z
〔…〕、戦国の一大勢力となったが、織田信長との抗争(石山合戦)の末1580年(天正8年)に顕如が明け渡し、その直後に焼亡した。
石山本願寺 2010-10-13T11:27:14Z
〔…〕1580年(天正8年)に蜂須賀正勝に与えられ、〔…〕
船上城 2010-03-22T09:47:11Z
〔…〕1580年(天正8年))
竹田城 2010-09-20T06:42:18Z
桑山重晴(1580年(天正8年)〔…〕
竹田城 2010-09-20T06:42:18Z
1580年(天正8年)に織田方秀吉の第一次鳥取城攻めで3か月の籠城戦(この時の籠城費用は全て豊国が負担)の末、和議により降伏し9月豊国が織田信長に臣従した。
鳥取城 2010-08-17T22:01:35Z
秀吉は信長在世中にも二条御新造の隣接地に屋敷を有していたが1580年(天正8年)に信長によって没収されてお気に入りであった前関白近衛前久に献上されている(『兼見卿記』)。
二条城 2010-10-14T15:55:10Z
〔…〕1580年(天正8年)の二度に渡って侵攻してきた。
八木城 (但馬国) 2010-03-22T10:49:21Z
この地名の舞台になったのが、〔…〕1580年(天正8年)の羽柴秀吉但馬国侵攻の時だったのか、いつの時代かはっきりしていないが、攻城戦に関連している。
八木城 (但馬国) 2010-03-22T10:49:21Z
1580年(天正8年)、黒田孝高は秀吉に「本拠地として姫路城に居城すること」を進言した。
姫路城 2010-10-11T09:27:25Z
姫路城の最初の天守は1580年(天正8年)の春、羽柴秀吉によって姫山の頂上、現在の大天守の位置に3重で建てられた。
姫路城 2010-10-11T09:27:25Z
〔…〕〔…〕1580年(天正8年)にはコレジオ神学院)が設置されたという。
府内 (豊後国) 2010-07-19T14:55:47Z
Template:日本の城郭概要表 豊地城(といちじょう)は、兵庫県小野市中谷町にあった平城
豊地城 2010-09-24T14:36:03Z
1580年(天正8年)に三木合戦は終結すると、同年6月に羽柴秀吉から播磨8城の破城令が下り豊地城も破却された。
豊地城 2010-09-24T14:36:03Z

閏3月[編集]

本願寺 - 1580年(天正8年)閏3月、石山本願寺を明け渡し講和。
信長包囲網 2010-09-13T03:44:41Z

5月[編集]

山名氏 - 祐豊1580年(天正8年)5月に病死、嫡男堯熙は降伏。
信長包囲網 2010-09-13T03:44:41Z

天正9年[編集]

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これに危機感を覚えた能勢頼次は、翌1581年(天正9年)丸山城を捨てて能勢妙見宮為楽山城を築き、織田信長軍の備えとした。
丸山城 (摂津国能勢郡) 2010-09-17T09:16:53Z
なお、現在の蔵王堂は1581年(天正9年)〔…〕
吉野城 2010-10-13T15:07:01Z
1581年(天正9年)から明智光秀が普請目付として着手し、大規模な近世城郭として工事が開始され、奈良の大工衆を集めたことが記録されている。
郡山城 (大和国) 2010-09-18T09:51:19Z
新田義貞から9代目に当たる戸賀崎義氏(隼人)が1581年(天正9年)に清久村(現埼玉県久喜市)に移り、義氏から8代目が暉芳である。
戸賀崎暉芳 2010-02-27T15:21:55Z
武田氏は長篠の戦いにおける敗退を契機に領国の動揺を招き、勝頼は1581年(天正9年) に領国維持のため韮崎(韮崎市)への府中移転と同時に異母弟の仁科盛信を高遠城主とした。
高遠城 2010-07-04T11:24:57Z
1581年(天正9年)、島津義久相良義陽と水俣で戦ってこれを降し、葦北郡を割譲させて家臣の宮原景種を佐敷城代とする。
佐敷城 (肥後国) 2010-06-24T06:52:06Z
1581年(天正9年)、前田利家奥能登地域からの七尾城の防御を目的に、浄土真宗を除く各宗派の寺院を防御陣地として移転配置した。
山の寺寺院群 2009-07-11T08:19:06Z
その細川藤孝も1581年(天正9年)に丹後国に入封すると、代わって村井貞勝の家臣矢部善七郎、矢部猪子兵助の両名が城主となったようだが、〔…〕
勝竜寺城 2010-03-22T06:55:22Z
織田信長の指示により越前国府中から能登国の領主となった利家は1581年(天正9年)、七尾城に入城した。
小丸山城 2010-01-25T13:38:25Z
1581年(天正9年)、毛利方であった長野祐盛が松山城に籠もる、同じ毛利方の高橋元種を攻撃する事態が起きた。
松山城 (豊前国) 2010-01-26T00:23:45Z
代々新発田氏の居城となっていたが1581年(天正9年)、新発田重家上杉景勝に対して反乱を起こした(新発田重家の乱)。
新発田城 2010-07-14T09:38:01Z
1581年(天正9年)、森可政の長男として生誕。
森重政 (旗本) 2010-03-16T00:15:05Z
1581年(天正9年) 生誕
森重政 (旗本) 2010-03-16T00:15:05Z
また1581年(天正9年)には攻略したばかりの七尾城代となり、政務をとっている。
菅屋長頼 2010-03-18T20:41:48Z
開祖の斎藤伝鬼房は、常陸国真壁郡井手(現、茨城県桜川市)出身と伝えられ、初め塚原卜伝新当流を学び1581年(天正9年)、鎌倉鶴岡八幡宮に参籠中に夢で剣の妙技が記された巻物を天から授かり天流と称したと伝えられる。
天流 2009-04-08T15:05:04Z
1581年(天正9年)、家康は信康を葬った庵所を訪れ、清瀧寺と改名させ、信康に清瀧寺殿の法名を贈った。
徳川家康の影武者説 2010-03-20T07:55:09Z
1581年(天正9年)には、織田氏の中国侵攻への備えとして備中国に進出し、忍山城を守った。
南方就正 2010-02-12T15:23:21Z
しかし、東条城が1581年(天正9年)の羽柴秀吉の「城割」となると、別所重宗はしばらくの間本城は持っていなかったようである。
八木城 (但馬国) 2010-03-22T10:49:21Z
{{日本の城郭概要表| img = ファイル:Hyogoj01.jpg| img_capt = 兵庫城の石碑と案内看板| img_width = 300px| name = 兵庫城、兵庫陣屋| pref = 兵庫県| ar_called = 池田城、片桐陣屋、兵庫陣屋| struct = 平城、海城| tower_struct = 不明(天守が備えた可能性が指摘されている)| builders = 池田恒興| build_y = 1581年(天正9年)| revamp = 不明| rulers = 池田恒興、〔…〕
兵庫城 2010-05-12T18:05:55Z
摂津国の大守になった池田恒興は1581年(天正9年)花隈城には入城せず兵庫津に城を築いた。
兵庫城 2010-05-12T18:05:55Z

3月[編集]

(近年の研究では重傷を負ったものの、その後も生存していたことが明らかになっている)何人かの城将の入れ替えの末1581年(天正9年)3月毛利氏重臣吉川経家を城主に迎える。
鳥取城 2010-08-17T22:01:35Z

6月[編集]

〔…〕、父・郷氏は兄安東友郷とともに織田信長に反旗を翻した結果1581年(天正9年)6月に誅伐される。
山内可氏 2010-06-04T02:46:15Z

12月[編集]

1581年(天正9年)12月7歳の時、前田利家の嫡男・利長19歳の正室となった。
永姫 2009-09-08T01:18:40Z

天正10年[編集]

[編集]

1582年(天正10年)の本能寺の変の後は、豊臣秀吉に仕えた。
粟屋氏 2010-07-31T05:10:56Z
1582年(天正10年)頃、豊臣秀吉から大坂城の外壕を掘鑿した功労および猫間川河岸整備に対する賞として、城南の地を拝領した。
安井道頓 2010-10-12T12:26:24Z
1582年(天正10年)父・信長に呼ばれ利長と共に本能寺を目指していたが途中で本能寺の変の急報を聞き、前田家の旧領尾張荒子に逃げる。
永姫 2009-09-08T01:18:40Z
1582年(天正10年)信濃国をも支配地域としていた武田家を滅亡させた織田信長海津城森長可を入れて北信地域の支配に当たらせた。
猿ヶ馬場峠 2010-03-30T01:07:13Z
しかし掛川城は1582年(天正10年)の武田氏の滅亡まで徳川氏の領有であり続けた。
掛川城 2010-07-31T07:05:28Z
1582年(天正10年) 本能寺の変の後の清洲会議により、勝豊は近江国長浜城に移された。
丸岡城 2010-07-30T07:55:44Z
1582年(天正10年)、本能寺の変の際、明智光秀に味方したため、羽柴秀吉軍に攻められ再び丸山城は落城した。
丸山城 (摂津国能勢郡) 2010-09-17T09:16:53Z
1582年(天正10年)に義氏が死去したが、男系の後継ぎがいなかった。
喜連川藩 2010-09-22T16:26:03Z
信長の死後、豊臣秀吉が京都を支配下に置いたときは、桑原貞成杉原家次浅野長政(この三名は、いずれも1582年(天正10年)〔…〕、その後前田玄以が京都所司代を務めている。
京都所司代 2010-09-14T04:11:03Z
大橋重保(おおはし しげやす)1582年(天正10年)河内国志紀郡古室村(現大阪府藤井寺市)出身の旗本
空乗寺 2010-06-08T12:11:40Z
1582年(天正10年)に伊賀久隆が不慮の死を遂げると、その一報を毛利輝元に伝えた。
桂元盛 2009-09-25T02:22:36Z
1582年(天正10年)の備中高松城の戦いでは、鴨庄城の守将となった。
桂広繁 2009-12-21T08:45:58Z
1582年(天正10年)に死去。
口羽氏 2009-04-23T20:45:09Z
武田氏滅亡により一時織田氏の領有に帰するも、本能寺の変により空白化した武田遺領を巡る天正壬午の乱、続く国人一揆による織田家臣・河尻秀隆の殺害の結果1582年(天正10年)に甲斐国は徳川家康の所領となるが、家康は引き続き甲府を甲斐の政治的中心地と定め、〔…〕、一蓮寺を移転させて築城を開始したという。
甲府城 2010-07-26T15:57:00Z
1582年(天正10年) 織田信長の命により、河尻秀隆が城主となる。
甲府城 2010-07-26T15:57:00Z
1582年(天正10年)、勝頼は内通した木曾氏攻めを行い、仁科は大将として出陣し城代として小山田昌成(二代目備中守)が入っている。
高遠城 2010-07-04T11:24:57Z
1582年(天正10年)の本能寺の変の際には近江長浜城に居り、一時難を避けて領内の大吉寺に身を寄せた。
高台院 2010-10-06T15:18:48Z
この間、河瀬兵部丞は今井から退去しており1582年(天正10年)に復帰している。
今井町 2010-10-14T15:34:42Z
1582年(天正10年)には親織田派の鈴木孫一が反対派の土橋氏を倒すが、同年の本能寺の変によって信長が横死すると孫一は羽柴秀吉のもとに逃亡し、土橋派が主導権を握る。
雑賀衆 2010-09-28T13:19:31Z
また1582年(天正10年)に山崎片家が城主だった時に、家臣の車瀬政右衛門が縄張りをしたので「車瀬城」と呼ばれるようになったとも伝わっている。
三田城 2010-03-22T10:47:40Z
その後池田氏三好秀次が三田城の城主となったが1582年(天正10年)に近江国から入封した山崎片家が2万2千石で、次いでその息子山崎家盛が城主となり、三田城を修築した。
三田城 2010-03-22T10:47:40Z
1582年(天正10年)〔…〕、伊藤掃部助が大和の領主である筒井順慶定次の取次であったとされる。
取次 (豊臣政権) 2010-09-25T03:06:48Z
今川領国が武田領国化されると支配拠点のひとつとなるが、武田氏は1582年(天正10年)に織田・徳川勢力により滅亡し、甲斐・駿河の武田遺領は三河の徳川家康が領有した。
駿府城 2010-08-28T06:56:45Z
〔…〕、代わって村井貞勝の家臣矢部善七郎、矢部猪子兵助の両名が城主となったようだが、翌1582年(天正10年)本能寺の変以後明智光秀の属城となったと思われている。
勝竜寺城 2010-03-22T06:55:22Z
build_y = 1582年(天正10年)
小丸山城 2010-01-25T13:38:25Z
1582年(天正10年)に築城。
小丸山城 2010-01-25T13:38:25Z
1582年(天正10年)、甲州攻めのため駿河甲斐に向け出陣した徳川家康の攻撃を受け落城した。
小山城 (遠江国) 2010-05-06T14:19:44Z
大規模な城である諏訪原城長篠の戦い敗戦後の早い時期に落城したのに比べ、比較的小規模な城であるにもかかわらず1582年(天正10年)の徳川氏侵攻まで小山城が持ちこたえることの出来た要因に、大熊備前守朝秀が戦上手であるということ以外にも、諏訪原城に比べより戦闘正面を限定させている小山城の構造が挙げられるかもしれない。
小山城 (遠江国) 2010-05-06T14:19:44Z
1582年(天正10年)安心院千世松大友氏により滅ぼされ
信国助左衛門吉貞 2010-01-04T15:59:46Z
1582年(天正10年)には、前田利家に能登、加賀に転出したのを受けて、越前府中を与えられる予定であったとも言う。
菅屋長頼 2010-03-18T20:41:48Z
しかし、徳川家康1582年(天正10年)に駿府を領有して以降はしばしば当寺を参拝し、自らの念持仏の千手観音(伝・恵心僧都作)を奉納するなどした。
清水寺 (静岡市) 2010-04-19T07:38:45Z
そして1582年(天正10年)、三河遠江の戦国大名となっていた家康は、賤機山に築かれていた武田氏の城塞を攻略するにあたり、無事攻略できたならば必ず壮麗な社殿を再建するとの誓いを立てた上で当社の社殿を焼き払い、駿河領有後に現在の規模と同程度の社殿を建造した。
静岡浅間神社 2010-09-03T15:36:37Z
戦国期には復興し、北陸に一向一揆勢力が勃興する中でも隠然たる勢力を誇ったが1582年(天正10年)本能寺の変直後の混乱に乗じて、越後の上杉方についていた能登畠山氏旧臣が蜂起し、天平寺衆徒と共に石動山に立て籠った為、前田利家佐久間盛政長連龍らの織田軍に焼き討ちされ、再び全山焼亡した。
石動山 2010-06-15T00:06:48Z
1582年(天正10年)頃、家督を相続する。
村上元吉 2010-07-24T21:36:02Z
1582年(天正10年)、本能寺の変が起きると、妙覚寺にいた信長の嫡男・信忠主従はそれを知るや本能寺の信長と合流するため出撃しようとしていた。
二条城 2010-10-14T15:55:10Z
最盛期には甲斐国・信濃国・駿河国及び上野国遠江国三河国美濃国飛騨国越中国の一部の計9カ国に及ぶ120万石の領土を有したが、武田勝頼の代になると美濃に進出して領土をさらに拡大する一方、次第に家中を掌握しきれなくなり、〔…〕、信玄時代からの重臣を失うと一挙に衰退し1582年(天正10年)織田信長に攻め込まれて滅亡した(天目山の戦い)。
武田氏 2010-09-03T04:14:21Z
松永滅亡後は諸所を流浪したのち1582年(天正10年)近江長浜において山内一豊に仕えた。
福岡干孝 2009-08-16T10:42:30Z
1582年(天正10年)、本能寺の変で自害したはずの織田信長は「天からの一筋の光」に導かれて家臣の森蘭丸とともに命を救われる。
夢幻の如く 2010-09-19T03:53:54Z
reject_y = 1582年(天正10年)
名東城 2010-03-07T23:35:57Z
1582年(天正10年)の本能寺の変後は、養父と豊臣秀吉馬廻衆として仕え、小田原の役に従軍した頃、家督を継いだとされる。
矢部定政 2009-03-08T17:15:22Z
しかし1582年(天正10年)の武田氏滅亡後に駿河を領有した徳川家康正親町天皇の勅命によって復興・整備を進め、現在も残る本堂が再建されるなど盛時の姿を取り戻した。
臨済寺 (静岡市) 2010-06-19T11:41:24Z
また、この頃には全国的な山城への居館移転も傾向としてみられ、〔…〕、勝頼は領国体制の立て直しのため府中移転を企図し、家臣団の反対もあったが新たに新府城を築き1582年(天正10年)には躑躅ヶ崎館から移転している。
躑躅ヶ崎館 2010-05-31T14:58:10Z

2月[編集]

残った武田勝頼は1582年(天正10年)2月の武田崩れで自害し、上杉景勝、毛利輝元は織田氏との戦いを継続しているが、極めて不利な状況となった。
信長包囲網 2010-09-13T03:44:41Z
武田勝頼 - 1582年(天正10年)2月、自害。
信長包囲網 2010-09-13T03:44:41Z
1582年(天正10年)2月、天目山の戦いで武田氏は滅亡したが、この機に乗じ北条氏政の弟・氏邦が侵攻した。
箕輪城 2009-10-08T17:13:01Z

5月[編集]

1582年(天正10年)5月の高松城対陣(備中高松城の戦い)以降、中国地方への取次として黒田孝高蜂須賀正勝が取次の任にあたり、中国国分交渉を行って毛利氏の服属を促進させた。
取次 (豊臣政権) 2010-09-25T03:06:48Z

6月[編集]

しかし1582年(天正10年)6月の本能寺の変で信長が横死したことで、織田氏と上杉氏、毛利氏の戦いは決着がつかないまま、終焉することになった。
信長包囲網 2010-09-13T03:44:41Z
1582年(天正10年)6月、秀吉は主君・信長を殺害した明智光秀山崎の戦いで討ち果たし、一気に天下人の地位へ駆け上っていく。
姫路城 2010-10-11T09:27:25Z

6月2日[編集]

1582年(天正10年)6月2日 信忠が本能寺の変で倒れると、家臣の斎藤利堯が岐阜城を乗っ取る。
岐阜城 2010-10-03T19:57:44Z
貞勝は1582年(天正10年)6月2日明智光秀が信長を殺した本能寺の変のとき、信長の嫡男・織田信忠と共に二条城で討死してしまった。
京都所司代 2010-09-14T04:11:03Z

天正11年[編集]

[編集]

1583年(天正11年)にルイス・フロイスは、イエズス会よりヨーロッパの後進が日本布教に赴く際の資料とするために、日本における布教史の編纂の執筆を命じられ、以後10年以上にわたって執筆を続け、時には1日に10時間以上の執筆を行ったという。
フロイス日本史 2010-06-11T00:25:31Z
1583年(天正11年)、一益は賤ヶ岳の戦いの後に羽柴秀吉に敗れ、織田信雄の家臣、佐久間正勝が城主となる。
蟹江城 2009-06-02T17:36:29Z
1583年(天正11年) 柴田勝家が豊臣秀吉によって北ノ庄城で滅ぼされると、この地は丹羽長秀の所領となり、長秀は丸岡城主として青山宗勝(修理亮)を置いた。
丸岡城 2010-07-30T07:55:44Z
信長の死後、豊臣秀吉が京都を支配下に置いたときは、桑原貞成杉原家次浅野長政(この三名は、〔…〕1583年(天正11年)の短期間)、その後前田玄以が京都所司代を務めている。
京都所司代 2010-09-14T04:11:03Z
1583年(天正11年) 賤ヶ岳の戦いの後、羽柴秀吉(豊臣秀吉)から加増を受けた前田利家4月28日(新暦:6月14日)に入城し、尾山城と改称した。
金沢城 2010-10-09T16:17:40Z
build_y = 1583年(天正11年)
甲府城 2010-07-26T15:57:00Z
武田氏滅亡により一時織田氏の領有に帰するも、本能寺の変により空白化した武田遺領を巡る天正壬午の乱、続く国人一揆による織田家臣・河尻秀隆の殺害の結果、〔…〕、家康は引き続き甲府を甲斐の政治的中心地と定め、翌1583年(天正11年)に家臣の平岩親吉に命じて一条小山の縄張りを行い、一蓮寺を移転させて築城を開始したという。
甲府城 2010-07-26T15:57:00Z
山門に対する監視の必要性が薄くなったことと、もうひとつは1583年(天正11年)〔…〕大津の地が東海道淀川を通じた北国を結ぶ上に重要視された為ではないかとしている。
坂本城 2010-06-10T20:11:18Z
1583年(天正11年)、利家が尾山城へ本拠を移した後、兄の前田安勝が七尾城代として居住した。
小丸山城 2010-01-25T13:38:25Z
賤ヶ岳の合戦の恩賞で1583年(天正11年)に前田利長に松任4万石を与えられ越前府中城より移った。
松任城 2010-10-03T11:30:04Z
build_y = 1583年(天正11年)
上田城 2010-09-12T17:33:07Z
上田城は、甲斐武田氏の旧臣である真田昌幸により1583年(天正11年)に築城された平城である。
上田城 2010-09-12T17:33:07Z
滝川一益の敗退直後は北条氏に臣従するが、すぐに徳川氏の誘いに応じて乗り換え、上田・小県地方制圧の拠点として1583年(天正11年)に上田城の築城に着手する。
上田城 2010-09-12T17:33:07Z
〔…〕〔…〕1583年(天正11年)輝元のものは特に有名。
清神社 2009-12-26T04:26:34Z
創建年 = 1583年(天正11年)
総見院 (京都市) 2010-10-15T09:30:36Z
正門・土塀 - 1583年(天正11年)の創建当時のそのままで現存する。
総見院 (京都市) 2010-10-15T09:30:36Z
その後1583年(天正11年)、本拠地を大坂に定めた秀吉は京都における拠点として「二条第」を構えた。
二条城 2010-10-14T15:55:10Z
このため1583年(天正11年)には天下統一の拠点として築いた大坂城へ移動、〔…〕
姫路城 2010-10-11T09:27:25Z
しかし1583年(天正11年)池田恒興わずか2年で美濃国大垣城に移封され、兵庫城下は豊臣秀吉の直轄地となり片桐且元代官として入城した。
兵庫城 2010-05-12T18:05:55Z

4月16日[編集]

1583年(天正11年) 4月16日、信孝は長島城主の滝川一益と呼応し再度挙兵。
岐阜城 2010-10-03T19:57:44Z

天正12年[編集]

[編集]

reject_y = 1584年(天正12年)
蟹江城 2009-06-02T17:36:29Z
しかし1584年(天正12年)に起きた蟹江城合戦と翌年の大地震で壊滅した。
蟹江城 2009-06-02T17:36:29Z
1584年(天正12年)、小牧・長久手の戦いにおける蟹江城合戦では秀吉方となった一益に攻略されるも、徳川家康・織田信雄の大軍に包囲され、篭城戦の末、半月後に落城した。
蟹江城 2009-06-02T17:36:29Z
Template:日本の城郭概要表 丸山城(まるやまじょう)は、三重県伊賀市枅川周辺にあった日本
丸山城 (伊賀国) 2010-06-20T09:11:59Z
丸山城は滝川雄利が居城し続けた場合、織田信雄と豊臣秀吉の対立が進んだ1584年(天正12年)に滝川雄利は、伊賀国より伊勢国松ヶ島城の城主として入城、この時に放棄されたと考えられている。
丸山城 (伊賀国) 2010-06-20T09:11:59Z
1584年(天正12年)の小牧・長久手の戦いで池田恒興と元助が討死したため、恒興の次男・池田輝政の居城となった。
岐阜城 2010-10-03T19:57:44Z
1584年(天正12年)の秋、伊予軍代に任命される[1]
久武親直 2010-10-07T05:08:33Z
父の左兵衛重慶は豊臣秀次に仕えていたが1584年(天正12年)の小牧・長久手の戦いで戦死した。
空乗寺 2010-06-08T12:11:40Z
1584年(天正12年)北上する島津氏に攻められると、1年余籠城、よくこれを防いで和睦し所領を安堵され、〔…〕
隈部氏 2009-11-30T07:10:41Z
しかし、その筒井順慶も1584年(天正12年)に死去すると、養子筒井定次豊臣秀吉の命により伊賀上野に転封となった。
郡山城 (大和国) 2010-09-18T09:51:19Z
1584年(天正12年) 突如として、かつての犬山城主でもあった池田恒興によって奇襲を受けて奪われた。
犬山城 2010-10-10T18:58:32Z
ひとつは豊臣秀吉1584年(天正12年)に山門復興を許可
坂本城 2010-06-10T20:11:18Z
Template:日本の城郭概要表 山下城(やましたじょう)は兵庫県川西市にある向山(標高:188.4m)と、谷を隔てて城山(標高:181.4m)にある2つの山からなる山城
山下城 (摂津国) 2010-08-25T19:28:04Z
reject_y = 1584年(天正12年)
山崎城 (山城国) 2010-09-24T14:38:43Z
1584年(天正12年) 近江国日野城6万石の蒲生氏郷が伊勢国12万3千石を与えられ松ヶ島城に入城した。
松坂城 2010-09-05T12:55:01Z
以降、〔…〕1584年(天正12年)には北条氏と主は変わったが、上杉謙信の攻撃を退けるなど、関東七名城の一つとされる。
新田金山城 2010-05-06T22:10:44Z
ファイル:… 本能寺の変で織田信長が死去した後1584年(天正12年)小牧・長久手の戦い徳川家康軍と羽柴秀吉軍の間で戦が起こっていた時、徳川家康は太田衆、雑賀衆、根来衆らを味方になるように誘い、『秀吉の天下統一戦争』によると「呼応し、秀吉方の岸和田城を攻めたり、さらに大坂までせめてきた」と記しているが、『日本城郭大系』によると「その誘いには応ぜす」と、大坂までは攻め上ったが太田衆、雑賀衆、根来衆連合軍が独自の判断としている。
太田城 (紀伊国) 2010-08-16T08:31:42Z
〔…〕、九州最大の戦国大名であった豊後大友氏に大勝し、また1584年(天正12年)の沖田畷の戦いでは、九州西部に強大な勢力を誇った肥前龍造寺氏を撃ち破り、九州最大の戦国大名へと成長した。
島津氏 2010-09-07T06:14:06Z

4月[編集]

墨俣城が最後に歴史に現われるのは1584年(天正12年)4月で、小牧・長久手の戦いを目前にして当時美濃を支配していた池田恒興の家臣伊木忠次が改修した。
墨俣城 2010-10-03T15:14:39Z

天正13年[編集]

[編集]

1585年(天正13年)、大地震により壊滅。
蟹江城 2009-06-02T17:36:29Z
〔…〕、その早世後の1585年(天正13年)にはその弟氏房が城主になる(形の上では太田氏の名跡を継いでいる)。
岩槻城 2010-06-30T16:35:39Z
ファイル:… ファイル:… 1585年(天正13年)豊臣秀吉の弟豊臣秀長が大和国・和泉国紀伊国三ヵ国100万余の領主として郡山城に入る。
郡山城 (大和国) 2010-09-18T09:51:19Z
〔…〕1585年(天正13年)病没。
月山富田城 2010-05-07T15:23:17Z
1585年(天正13年)〔…〕
月山富田城 2010-05-07T15:23:17Z
1585年(天正13年)に、養父・立花道雪が死去。
戸次鎮連 2009-12-24T15:59:07Z
1585年(天正13年)には、毛利輝元の使者として上洛。
口羽春良 2009-05-04T12:55:22Z
その後、秀吉と共に大坂城に移り1585年(天正13年)、秀吉が関白に任官したことに伴い従三位に叙せられ、北政所と称する。
高台院 2010-10-06T15:18:48Z
1585年(天正13年) - 社殿を再建造立。
鵠沼皇大神宮 2010-09-22T13:03:48Z
1585年(天正13年)、家康と和解した秀吉が紀伊に攻め入ってくる(千石堀城の戦い、第二次紀州征伐)と焼き討ちされた根来寺に続いて雑賀に対して攻撃が加えられ、雑賀衆は抵抗したがかなわずに壊滅した。
雑賀衆 2010-09-28T13:19:31Z
Template:日本の城郭概要表 雑賀城(さいかじょう)は戦国時代に現在の和歌山県和歌山市和歌浦中3丁目付近に存在した丘
雑賀城 2010-08-30T08:28:49Z
いつの頃まで存在したのかは不明であるが、遅くとも秀吉が紀州征伐をする1585年(天正13年)には廃城となっていたであろうと推察される(この年から和歌山城築城が開始される)。
雑賀城 2010-08-30T08:28:49Z
1585年(天正13年)旧8月、一豊が再度近江長浜城主となるに及び、長浜に赴いて扶助を受け、山内姓を拝する。
山内可氏 2010-06-04T02:46:15Z
reject_y = 1585年(天正13年)
枝吉城 2010-05-12T12:49:51Z
明石氏の最期の城主は明石則実で、三木合戦では羽柴秀吉軍に与し、野口城を攻城、これらの功績により1585年(天正13年)豊岡城の城主となっている。
枝吉城 2010-05-12T12:49:51Z
『采邑私記』によると1585年(天正13年)に明石則実が豊岡城に転封した後、高山右近が入りその後この城を破城して資材を船上城の築城に使ったとされている。
枝吉城 2010-05-12T12:49:51Z
また『ひょうごの城紀行』では「枝吉城は明石氏が去ったあと、廃城になったものと思われる」とあり1585年(天正13年)以降廃城になったとしている。
枝吉城 2010-05-12T12:49:51Z
1585年(天正13年)には紀州征伐で3月予定の雑賀攻めに対して出陣命令を両者が伝えている。
取次 (豊臣政権) 2010-09-25T03:06:48Z
〔…〕1585年(天正13年)の豊臣秀長大和入国まで、伊藤掃部助が大和の領主である筒井順慶定次の取次であったとされる。
取次 (豊臣政権) 2010-09-25T03:06:48Z
1585年(天正13年)に秀吉が関白となった頃から毛利氏に対しては豊臣秀長が取次的役割を果たしていたといわれる
取次 (豊臣政権) 2010-09-25T03:06:48Z
十河城は長宗我部元親の手に落ち、長宗我部親武が城主となったが羽柴秀吉軍が讃岐国に侵攻すると1585年(天正13年)には撤退、讃岐国には仙石秀久が領主となり十河存之は2万を与えられ十河城を復権された。
十河城 2010-05-26T05:50:35Z
build_y = 1585年(天正13年)
駿府城 2010-08-28T06:56:45Z
1585年(天正13年) 駿河国を支配した徳川家康浜松城より居城を移して築城。
駿府城 2010-08-28T06:56:45Z
1585年(天正13年)に羽柴秀吉(豊臣秀吉)が佐々成政を滅ぼした際に上杉景勝に会談を申し入れた。
勝山城 (越後国) 2010-09-24T14:26:15Z
本能寺の変後、賤ヶ岳の戦い羽柴秀吉織田信長の後継者としての地位を確立すると、隆景は進んで毛利家を羽柴秀吉の天下統一事業に参加させ1585年(天正13年)には四国征伐の功賞として伊予一国を与えられて独立した大名となった。
小早川氏 2010-07-19T04:09:34Z
1585年(天正13年) 次子真田信繁(幸村)を人質に送り上杉景勝に臣従し、上田城にて徳川軍(約7000)を迎え撃ち、撃退に成功する(第1次上田合戦)。
上田城 2010-09-12T17:33:07Z
build_y = 1585年(天正13年)
上野城 2010-08-08T13:36:17Z
その後1585年(天正13年) に筒井定次によって改修を受け、〔…〕大坂の役によって、当時高虎が従属する徳川家康に対立していた豊臣氏が滅んだため築城が中止され、本丸・二ノ丸などの主要部分は城代屋敷を除いて未完成のまま江戸時代を過ごした。
上野城 2010-08-08T13:36:17Z
1585年(天正13年) 大和郡山から移ってきて伊賀を拝領した筒井定次により、天正伊賀の乱で焼け落ちた平楽寺の跡に築城された。
上野城 2010-08-08T13:36:17Z
ローマ教皇グレゴリウス13世に安土城の屏風絵を贈っていたが、実際に届いたのは信長の死後の1585年(天正13年)であったとされる。
織田信長 2010-10-11T04:02:10Z
1585年(天正13年)、山内一豊が江州長浜三万石の領主になったとき招かれて弐百人扶持を受け客分となる。
深尾重良 2010-05-30T11:33:14Z
1585年(天正13年)に病死。
杉元相 2010-01-26T00:33:47Z
代わりに元秋の弟・毛利元康を養子としたが、またもや1585年(天正13年)に、元康は元秋死後の月山富田城に入り、養子縁組は解消されるに至った。
椙杜氏 2010-01-26T00:34:25Z
毛利元秋は1585年(天正13年)、月山富田城内で病死。
椙杜隆康 2010-01-26T00:39:13Z
〔…〕〔…〕生駒政勝に城主が移り1585年(天正13年)に一旦廃城となった。
船上城 2010-03-22T09:47:11Z
しかし1585年(天正13年)、地震により大破したため尾張清洲の地に再建した。
総見院 (清須市) 2010-05-04T23:51:09Z
この支配体制は立花道雪が病死した1585年(天正13年)以降も高橋紹運と、紹運の子で道雪の養子立花宗茂の2人に継承されている。
多々良浜の戦い (戦国時代) 2010-07-26T13:59:01Z
、もう1点は1585年(天正13年)、松田憲秀が源右衛門に宛てた印判状である
多摩市指定文化財一覧 2010-10-07T11:37:05Z
〔…〕1585年(天正13年))
竹田城 2010-09-20T06:42:18Z
赤松広秀(斎村政広)(1585年(天正13年)〔…〕
竹田城 2010-09-20T06:42:18Z
その後継潤は豊臣政権に代わった1585年(天正13年)の九州征伐で功績を挙げ、正式に因幡・但馬のうち5万石を与えられ、鳥取城を本拠として城主となった。
鳥取城 2010-08-17T22:01:35Z
Template:日本の城郭概要表 Template:日本の城郭概要表
八木城 (但馬国) 2010-03-22T10:49:21Z
1585年(天正13年)、八木城の城主となったのは別所重宗で1万5千で登用された。
八木城 (但馬国) 2010-03-22T10:49:21Z
〔…〕、姫路城には弟・豊臣秀長が入ったが1585年(天正13年)には大和郡山へと転封。
姫路城 2010-10-11T09:27:25Z
1585年(天正13年)に同母兄の元秋が急死したため、出雲国月山富田城主となった。
末次元康 2010-06-13T15:34:11Z
その後も引き続き富田城主として、出雲支配にあたるも1585年(天正13年)に月山富田城にて病没する。
毛利元秋 2009-07-08T16:38:53Z
build_y = 1585年(天正13年)
和歌山城 2010-05-21T13:06:57Z
豊臣秀吉の弟・秀長1585年(天正13年)の紀州征伐の副将として参陣し、平定後に紀伊和泉の2ヶ国を加増された。
和歌山城 2010-05-21T13:06:57Z

9月[編集]

木山城と赤井城は1585年(天正13年)9月、相次いで落城した。
木山城 (肥後国) 2009-09-18T14:52:59Z

10月[編集]

1585年(天正13年)10月、15代当主・畠山義継は政宗の父・輝宗に降伏を申し出た。
二本松城 2010-09-01T12:42:21Z

11月13日[編集]

1585年(天正13年)11月13日、家康に人質時代から近侍しており、岡崎城代であった石川数正豊臣秀吉のもとに出奔した。
徳川家康の影武者説 2010-03-20T07:55:09Z

天正14年[編集]

[編集]

翌年に第1部「日本総記」(現在では逸失)を書き上げ1586年(天正14年)には第2部を完成、〔…〕、後に加筆されたために、第3部を2つに分ける考え方もある)。
フロイス日本史 2010-06-11T00:25:31Z
1586年(天正14年)に徳島城を築くとそちらに移り、家臣である益田宮内が城代となった。
一宮城 (阿波国) 2010-09-12T19:41:12Z
1586年(天正14年)長宗我部信親の戦死で家督相続問題が起こると、元親の四男・長宗我部盛親を支持し、反対派の吉良親実比江山親興に対しては元親に讒言して粛清した[1]
久武親直 2010-10-07T05:08:33Z
〔…〕、1年余籠城、よくこれを防いで和睦し所領を安堵され、ついで1586年(天正14年)豊臣秀吉九州の役が開始されると速やかに降伏して山鹿市一帯の旧領(約1,900町)を安堵された。
隈部氏 2009-11-30T07:10:41Z
1586年(天正14年)に入ると、九州制覇の野望に燃える島津勢はいよいよ宿敵・大友氏を滅ぼすべく、その領土への侵攻を開始した。
戸次川の戦い 2010-08-19T05:25:55Z
1586年(天正14年)に、父の鎮連は島津氏に内応したとされ(実際に内応したかは不明、他の南部衆が裏切ったため、同様に疑いをかけられたとも、諌言を繰り返して義統に疎まれていたためとも)、主君の大友義統によって誅殺、もしくは自害に追い込まれた。
戸次統常 2010-07-31T05:27:12Z
1586年(天正14年)、高橋元種の籠もる豊前国香春嶽城を攻撃、粟屋就光らとともに三の岳を攻略して、高橋元種の降伏に貢献した。
香川春継 2009-05-16T09:17:10Z
Template:日本の城郭概要表 坂本城(さかもとじょう)は近江国滋賀郡坂本滋賀県大津市下阪本3丁目の坂本城址公園内)にあった城。
坂本城 2010-06-10T20:11:18Z
しかし1586年(天正14年)秀吉の命を受けた浅野長政が大津城築城により廃城になり、資材は大津城築城に使用された。
坂本城 2010-06-10T20:11:18Z
しかし、康長は本能寺の変後の消息は不明、存保は1586年(天正14年)、戸次川の戦いで戦死してしまい、改易とされてしまう。
三好氏 2010-09-18T09:27:53Z
1586年(天正14年) 内ヶ島氏滅亡 天正大地震によって飛騨国(岐阜県北部)の帰雲山で山腹が崩落。
事故の一覧 2010-09-11T22:31:36Z
1586年(天正14年)、前田利家南部信直の取次となり、服属を促進させた。
取次 (豊臣政権) 2010-09-25T03:06:48Z
Template:日本の城郭概要表 十河城(そごうじょう)は香川県高松市十川東町にあった平城
十河城 2010-05-26T05:50:35Z
しかし翌1586年(天正14年)九州征伐に従軍し、島津氏との豊後国戸次川の戦いにて討死すると、十河城も廃城となる。
十河城 2010-05-26T05:50:35Z
1586年(天正14年)、豊臣秀吉九州征伐を開始。
松山城 (豊前国) 2010-01-26T00:23:45Z
1586年(天正14年)の島津氏の豊後侵攻や、江戸時代中期の大火によって堂宇は焼失し、〔…〕
浄土寺 (大分市) 2010-05-15T10:26:34Z
Template:日本の城郭概要表
船上城 2010-03-22T09:47:11Z
1586年(天正14年)には城と城下町は完成したのではないかと考えられている。
船上城 2010-03-22T09:47:11Z
1586年(天正14年)
即位灌頂 2010-07-18T15:29:40Z
1586年(天正14年)の四国征伐において村上元吉も父や弟ともに、豊臣秀吉に協力しなかったため、追討されかける。
村上元吉 2010-07-24T21:36:02Z
1586年(天正14年)家政は下助任町に菩提寺を移し、〔…〕
徳島藩主蜂須賀家墓所 2010-09-20T12:33:57Z
しかし、フロイスの『日本史』によれば、府内は1586年(天正14年)の島津家久の侵攻の際に焼失したとされる。
府内 (豊後国) 2010-07-19T14:55:47Z
1586年(天正14年)に、福田忠兼は息子の福田兼親の妻に大村純忠の娘を迎え、この頃までには完全に大村氏の支配下に入っている。
福田氏 2010-05-05T07:53:51Z
1586年(天正14年)、桑山重晴に3万石を与え城代に据えた。
和歌山城 2010-05-21T13:06:57Z

6月[編集]

その2年後の1586年(天正14年)6月、木曽三川の大氾濫で木曽川の流路が現在の位置に収まったので、墨俣は戦略上の重要性を失い、この地が城として使われることはなかった。
墨俣城 2010-10-03T15:14:39Z

7月16日[編集]

城は政宗の猛攻によく耐えたが、翌1586年(天正14年)7月16日、政宗への内通者も出たため、相馬義胤の口添えにより二本松城は開城し、ここに畠山氏は滅亡した。
二本松城 2010-09-01T12:42:21Z

9月[編集]

1586年(天正14年)9月、家康服属前には上杉景勝関東以北の取次が命ぜられた[2]
取次 (豊臣政権) 2010-09-25T03:06:48Z

11月[編集]

1586年(天正14年)11月、徳川家康が秀吉に臣従し、上杉と相談の上で関東方面の取次が命ぜられた(ただし取次との史料なし)。
取次 (豊臣政権) 2010-09-25T03:06:48Z
羽柴秀吉九州征伐に際して府内に派遣された仙石秀久1586年(天正14年)11月、「府内之町家数五千計御座候」との報告を送っている。
府内 (豊後国) 2010-07-19T14:55:47Z

天正15年[編集]

[編集]

1587年(天正15年):肥後国人一揆
一揆 2010-09-24T02:19:19Z
1587年(天正15年)羽柴秀吉九州平定後、親永は佐々成政の配下に組み込まれるが、同年親永が菊池城に拠って成政に反抗したため、反乱が鎮圧された後に菊池城は破却された。
菊池城 2010-10-13T12:16:45Z
1587年(天正15年) バテレン追放令により除封されたキリシタン大名高山右近が前田利家に呼ばれ、尾山城の大改造を行った(再び金沢城に改称されたのはこの頃といわれている)。
金沢城 2010-10-09T16:17:40Z
隈部親永が隈府城に移った後も重要拠点であったが1587年(天正15年)に発生した肥後国人一揆の鎮圧後に破却された。
隈部館 2010-10-13T08:10:30Z
こうした判例が用いられた最も古いもは1587年(天正15年)の春であり、〔…〕
喧嘩停止令 2010-09-27T21:32:58Z
次いで八代郡も併合した島津氏は肥後へ進出する道が開け、以後盛んに九州各地を経略したが1587年(天正15年)に豊臣秀吉九州征伐を受けたことにより、肥後の諸城を放棄して撤退を余儀なくされた。
佐敷城 (肥後国) 2010-06-24T06:52:06Z
木下勝俊時代の1587年(天正15年)に篠の丸城の南側、現在の山崎城の場所である鹿沢の地に城を築いたとされているが、鹿沢には羽柴氏以前より城砦があったとする説もある。
山崎城 (播磨国) 2010-09-24T14:39:21Z
1587年(天正15年)に比定される6月文書では毛利輝元備中の代わりに豊前筑前筑後肥後の四カ国を与えられて九州取次となる構想が秀吉から示されたが実現せず、小早川隆景が伊予から筑前に転封されるに留まった[2]
取次 (豊臣政権) 2010-09-25T03:06:48Z
1587年(天正15年)に九州の役が終わり、島津義久が服属すると石田三成細川藤孝が取次となった。
取次 (豊臣政権) 2010-09-25T03:06:48Z
1587年(天正15年)には九州征伐により筑前国名島に35万石に転じ、豊臣政権下では五大老にまでなるが、〔…〕〔…〕
小早川氏 2010-07-19T04:09:34Z
この間1587年(天正15年)には反抗した新発田重家を攻略して越後を再統一し、〔…〕佐渡国を平定。
上杉氏 2010-09-14T03:17:57Z
1587年(天正15年)黒田孝高豊臣秀吉より豊前6郡を与えられ、その頃黒田長政に刀・道具を与えられる[3]
信国助左衛門吉貞 2010-01-04T15:59:46Z
1587年(天正15年)、景勝により新発田城は落城。
新発田城 2010-07-14T09:38:01Z
その後高山右近は1587年(天正15年)バテレン追放令によって船上城を追放されてしまった。
船上城 2010-03-22T09:47:11Z
その後、故郷の真壁に帰り、下妻城主・多賀谷重経を始め多くの弟子に武術を教えたが、神道流の桜井霞之助を試合で殺したことを恨まれ1587年(天正15年)、桜井の弟子達に謀殺された。
天流 2009-04-08T15:05:04Z
例えば1587年(天正15年)の豊臣秀吉によるバテレン追放令で自主的に棄教した黒田孝高は当然、禁教令の直前で自主的に棄教した有馬直純も特に転びキリシタンとは呼ばれない。
転びキリシタン 2010-08-03T00:12:01Z
1587年(天正15年)に発生した肥後国人一揆において、最後まで抗戦を続けた城のひとつである。
田中城 (肥後国) 2009-11-16T14:37:42Z
まもなく1587年(天正15年)に秀吉九州攻めを受け降伏するものの、本領である薩摩・大隅2ヶ国と日向諸県郡は安堵される。
島津氏 2010-09-07T06:14:06Z
特に牛馬の肉を食べることは当然の禁忌であり1587年(天正15年)、秀吉は宣教師ガスパール・コエリョに対して「牛馬を売り買い殺し、食う事、これまた曲事たるべきの事」と詰問し、それに対してコエリョは「ポルトガル人は牛は食べるが馬は食べない」と弁明をしている[4]
日本の獣肉食の歴史 2010-10-14T08:50:42Z
build_y = 1587年(天正15年)頃
八王子城 2010-08-20T16:05:50Z
〔…〕1587年(天正15年)頃に本拠とした。
八王子城 2010-08-20T16:05:50Z
肥後国人一揆(ひごこくじんいっき)とは1587年(天正15年)に起こった肥後国人による一揆
肥後国人一揆 2010-10-04T13:29:44Z
戦国時代〔…〕1587年(天正15年))は、筑前国筑後国豊前国、豊後国、肥前国肥後国の九州北・中部6ヶ国の守護職を務めるとともに、九州探題にも任じられて、府内はその本拠地として繁栄を極めた。
府内 (豊後国) 2010-07-19T14:55:47Z
1587年(天正15年)、豊臣秀吉九州征伐により島津氏が去った後は、肥後南部を領有した小西行長によって支城の一つに位置づけられたが、関ヶ原の戦いによって小西氏は滅び木山城も廃城となった。
木山城 (肥後国) 2009-09-18T14:52:59Z

5月[編集]

天正年間の一時期、肥後国は島津氏の支配下に置かれたが1587年(天正15年)5月豊臣秀吉九州征伐が開始されると、島津氏は圧倒的な軍勢の前に屈服、薩摩大隅に押し戻された。
肥後国人一揆 2010-10-04T13:29:44Z

6月[編集]

九州征伐後の1587年(天正15年)6月、豊臣秀吉により佐々成政が肥後国主に任じられ検地を行おうとしたが肥後の国人は服さず、翌月には隈部親永が兵を挙げて肥後国人一揆が始まった。
田中城 (肥後国) 2009-11-16T14:37:42Z

7月[編集]

1587年(天正15年)7月佐々成政が行った検地に、親永は息子の隈部親泰と共に抵抗、これが肥後国人一揆の発端となった。
隈部氏 2009-11-30T07:10:41Z

天正16年[編集]

[編集]

〔…〕1588年(天正16年)に制定された刀狩令海賊禁止令よりも前に成立していた可能性がある
喧嘩停止令 2010-09-27T21:32:58Z
豊臣政権の下で肥後の領主に任じられた佐々成政の統治は国人一揆によって短期に終わり1588年(天正16年)葦北郡は肥後北部の半国を拝領した加藤清正の飛び領地となる。
佐敷城 (肥後国) 2010-06-24T06:52:06Z
山門に対する監視の必要性が薄くなったことと、〔…〕1588年(天正16年)に大坂城を築城しており、大津の地が東海道淀川を通じた北国を結ぶ上に重要視された為ではないかとしている。
坂本城 2010-06-10T20:11:18Z
build_y = 1588年(天正16年)
松坂城 2010-09-05T12:55:01Z
1588年(天正16年) 氏郷は、松ヶ島は伊勢湾に面し城下町の発展性が無いと考え、現在の城地である飯高郡矢川庄の四五百森(よいほのもり)に新たに築城を開始した。
松坂城 2010-09-05T12:55:01Z
天下統一を進める秀吉は1588年(天正16年)に海賊禁止令を出し、瀬戸内海の海賊行為も禁止された。
村上元吉 2010-07-24T21:36:02Z
1588年(天正16年)年に豊臣秀吉が海賊禁止令を出すと、村上水軍は従来のような活動が不可能となり、海賊衆としての活動から撤退を余儀なくされる。
村上水軍 2010-05-15T02:31:51Z
この刀狩1588年(天正16年)におこる秀吉の刀狩の先駆で『和歌山市史』によると「一揆の武装解除といった戦後処理のにとどまらず、長期的な展望にたっての身分政策を指向していたと考えられ、全国的な兵農分離政策の先駆けとして、重要な意味を持っていたといわなければならない」としている。
太田城 (紀伊国) 2010-08-16T08:31:42Z
織田氏斎藤氏と支配権が移った後、1583年天正11年)に豊臣秀吉の家臣、池田恒興が城主となり1588年(天正16年)に一柳直末によって
大垣城 2010-02-14T02:42:04Z
〔…〕〔…〕1588年(天正16年))の所蔵となっている。
大島本 2010-09-29T19:51:18Z

2月[編集]

1588年(天正16年)2月謝罪のため大坂に出向いた成政は、秀吉に面会を拒否されて尼崎に幽閉され、一揆の原因を作ったことを理由に、同年閏5月14日摂津国尼崎法園寺において切腹させられた。
肥後国人一揆 2010-10-04T13:29:44Z

4月14日 (旧暦)[編集]

1588年(天正16年)4月14日5月9日)、後陽成天皇聚楽第に行幸、その還御の4月19日5月14日)には従一位に陞叙。
高台院 2010-10-06T15:18:48Z

天正17年[編集]

[編集]

〔…〕1589年(天正17年)の記録
フロイス日本史 2010-06-11T00:25:31Z
本文は現存しない「日本総記」と称される第1巻(序文・日本六十六国誌・日本総論から成る)、〔…〕〔…〕1589年(天正17年)までからなる第3巻から構成される。
フロイス日本史 2010-06-11T00:25:31Z
ただし、〔…〕1589年(天正17年)以後の部分は加筆されたものと考えられ、この加筆部分を別の巻として扱う見方もある。
フロイス日本史 2010-06-11T00:25:31Z
佐渡攻め(史実では1589年(天正17年))に馳せ参じた時に慶次が着用。
花の慶次 2010-09-18T12:52:50Z
1589年(天正17年)、二宮就辰らの指揮の下、ついに築城が開始された。
広島城 2010-08-08T14:26:26Z
reject_y = 1589年(天正17年)
七尾城 2010-01-27T23:00:31Z
越中国と能登国を繋ぐ要所である七尾城は、のちに織田氏によって領され、城主として前田利家が入るが、既に山城の時代ではなく、拠点を小丸山城に移したため、しばらく子の前田利政が城主となっていたが、のち1589年(天正17年)廃城となった。
七尾城 2010-01-27T23:00:31Z
1589年(天正17年)政宗は、豊臣秀吉の制止を無視して蘆名義広を攻め、蘆名氏を滅ぼし黒川城を手にした。
若松城 2010-06-25T13:17:11Z
まず、天正年間(1573年 - 1592年)または1589年(天正17年)に建てられた天正期天守。
駿府城 2010-08-28T06:56:45Z
この間、〔…〕1589年(天正17年)には秀吉の命により渡海し、佐渡国を平定。
上杉氏 2010-09-14T03:17:57Z

天正18年[編集]

[編集]

マヌエル・バレト(Manuel Barreto、またはManoel Barreto、1564年 - 1620年)は1590年(天正18年)イエズス会宣教師として、日本に帰国する天正遣欧少年使節と共に来日した。
バレト写本 2010-09-05T10:51:41Z
1590年(天正18年) イエズス会宣教師として、巡察師ヴァリニャーノに伴い来日する。
バレト写本 2010-09-05T10:51:41Z
第三部 : 1590年(天正18年)〔…〕
フロイス日本史 2010-06-11T00:25:31Z
1590年(天正18年):葛西・大崎一揆
一揆 2010-09-24T02:19:19Z
1590年(天正18年) 家康が関東に移封となると、豊臣家臣・田中吉政が入る。
岡崎城 2010-09-09T02:07:57Z
現地を視察した広島大大学院教授の三浦正幸は、大林寺郭堀跡のこの石垣は、豊臣秀吉の命令で1590年(天正18年)に岡崎城主となった田中吉政が築いたと推定している。
岡崎城 2010-09-09T02:07:57Z
1590年(天正18年)の豊臣秀吉による小田原の役で、この城は落城し廃城となった。
河村城 2010-08-23T11:41:15Z
その後も掛川城は石川氏が城代を務めたが1590年(天正18年)に家康が東海から関東に移封されると、掛川城には豊臣秀吉の直臣であった山内一豊が5万1千石(のち5万9千石)で入った。
掛川城 2010-07-31T07:05:28Z
1590年(天正18年)、小田原の役後は、佐竹氏の命令で植田城に居城を移した。
梶原政景 2010-06-24T04:11:03Z
1590年(天正18年)、豊臣秀吉による小田原征伐の際には、氏房が小田原城に詰めたため、氏房付の宿老である伊達房実の指揮の下、2000の兵が岩槻城に篭城するが、浅野長吉等に率る約2万の兵に攻められ、1000余の犠牲を出して数日後に降伏落城した。
岩槻城 2010-06-30T16:35:39Z
小田原の役後、名族である足利氏の断絶を惜しんだ豊臣秀吉は、足利氏姫を小弓公方家頼純の子である足利国朝に娶わせ1590年(天正18年)に下野喜連川の地に400貫(3500石)の所領を与えた。
喜連川藩 2010-09-22T16:26:03Z
1590年(天正18年)に豊臣秀吉に従った岡本宗憲が入城後、天守本丸、二の丸、三の丸などのその後の亀山城の母体となる城が形成されたとされる。
亀山城 (伊勢国) 2010-09-19T14:19:58Z
1590年(天正18年) 天正の瀬替えにより大井川の流路が変更される。
金谷町 2009-11-10T13:49:05Z
御譜代町は、伊達氏戦国大名だったころの米沢城下町にあった6つの町が、その本拠地の移転にともなって1590年(天正18年)に岩出山へ、〔…〕
御譜代町 2010-08-29T06:25:05Z
1590年(天正18年) 南部氏に臣従していた大浦為信は、小田原攻めにあった豊臣秀吉より南部氏に先駆けて45,000石の所領安堵の朱印状を受ける。
弘前城 2010-09-23T20:59:36Z
1590年(天正18年)、豊臣秀吉小田原攻めの際に開城。
江戸城 2010-10-14T14:34:43Z
1590年(天正18年) 徳川家康の関東移封。
甲府城 2010-07-26T15:57:00Z
build_y = 1590年(天正18年)
高松城 (讃岐国) 2010-09-21T14:59:19Z
1590年(天正18年) 小田原の役の際に宗家の三戸城南部信直豊臣秀吉の元に帰参して所領の南部7郡を安堵された。
根城 2010-10-14T06:14:37Z
reject_y = 1590年(天正18年)
山中城 2010-09-13T03:41:53Z
1590年(天正18年)、小田原の役豊臣秀次率いる7万の軍勢が山中城を攻撃、城将松田康長ら4千は奮戦し、豊臣方も部将の一柳直末など多くの戦死者を出すものの、猛烈な力攻めの結果わずか半日で落城し、松田以下城兵はほとんど討死した。
山中城 2010-09-13T03:41:53Z
しかし、政宗は1590年(天正18年)に秀吉に臣従し、会津を召し上げられた。
若松城 2010-06-25T13:17:11Z
1590年(天正18年)、北条滅亡後は蒲生氏郷奥州方面の取次と位置づけられたと考えられ
取次 (豊臣政権) 2010-09-25T03:06:48Z
その後1590年(天正18年)には、豊臣政権による後北条氏滅亡に伴う家康の関東移封が行われ、徳川領国と接する駿府城には豊臣系大名の中村一氏が入城する(甲斐の甲府城にも、同様に豊臣系大名が配置されている)。
駿府城 2010-08-28T06:56:45Z
1590年(天正18年)小田原の役後、江戸に移封となった徳川家康に代わり、中村一氏が大名として入城。
駿府城 2010-08-28T06:56:45Z
信国吉政(初代)(のぶくに よしまさ (しょだい)|1590年(天正18年)か
初代信国吉政 2010-08-03T11:54:38Z
1590年(天正18年)に徳川家臣本多忠勝に攻められ落城後廃された。
勝浦城 2010-08-12T14:11:00Z
1590年(天正18年)、豊臣秀吉小田原攻めによる後北条氏の滅亡と徳川家康江戸入府によって、小田原は歴史の表舞台から姿を消す。
小田原市 2010-10-06T21:04:26Z
1590年(天正18年) 豊臣秀吉天下統一の仕上げとして隠居北条氏政と当主氏直が指揮する北条氏と開戦し、当時北条の台頭に対抗していた関東の大名・佐竹義重宇都宮国綱らとともに数十万の大軍で小田原城を総攻撃した。
小田原城 2010-08-18T23:53:37Z
1590年(天正18年) 氏郷は小田原の役の軍功により陸奥国会津60万石の大封を得て若松城に移った。
松坂城 2010-09-05T12:55:01Z
reject_y = 1590年(天正18年)
新田金山城 2010-05-06T22:10:44Z
1590年(天正18年) 豊臣秀吉小田原征伐の際攻撃を受けて落城、こののち廃城となった。
新田金山城 2010-05-06T22:10:44Z
1590年(天正18年)、小田原の役の時一豊に従って山中城を攻め武功をあげる。
深尾重良 2010-05-30T11:33:14Z
1590年(天正18年) 豊臣秀吉小田原攻めの際に江戸重通北条氏側に加担し、逆に佐竹義重義宣父子は秀吉軍に参陣した。
水戸城 2010-07-04T11:24:26Z
1590年(天正18年) 陸奥国北部を勢力下に置く南部氏は、安土桃山時代に天下統一を果たした豊臣秀吉より、当主の南部信直が10万石の所領を安堵された。
盛岡城 2010-07-04T09:05:25Z
1590年(天正18年) 豊臣秀吉が小田原征伐の際に陣として築城
石垣山一夜城歴史公園 2010-06-05T15:12:24Z
ファイル:…藩城址(現佐倉城址公園・国立歴史民俗博物館)]] ファイル:…とね川風景]] ファイル:…]] 1590年(天正18年)、第31代当主千葉重胤の時に豊臣秀吉小田原の役で北条氏が滅亡すると、千葉氏も所領を没収され、戦国大名としての千葉家は断絶してしまった。
千葉県 2010-10-13T07:41:45Z
1590年(天正18年) 豊臣秀吉による小田原征伐では、河越城を守っていた後北条氏の宿老の大道寺政繁は上野国まで出陣して迎え撃つが結局、降伏、前田利家の軍勢は河越城に入城した。
川越城 2010-06-17T09:23:13Z
戦国時代戦国大名伊達政宗東北地方の南半分を征服して奥羽の覇者となったが1590年(天正18年)、政宗は豊臣秀吉に服属し、秀吉は天下統一を達成した。
多賀城市 2010-08-25T09:49:47Z
1590年(天正18年)の小田原の陣に参戦して豊臣秀吉から領土を安堵されたが、文禄の役では病気と称し参加しなかったため、領地の一部を没収された。
多賀谷氏 2010-01-31T04:55:13Z
その後1590年(天正18年)、豊臣秀吉小田原攻めの際に、浅野長政率いる豊臣方に城北側の大手方面から急襲され八王子城と共に落城
滝の城 2010-03-03T06:23:49Z
1590年(天正18年)の小田原征伐では、正則の家臣として出陣し、北条氏規が籠もる韮山城攻めでは、城壁に3度よじ登り、城内から3度突き落とされて負傷した。
長尾一勝 2010-07-31T09:44:43Z
1590年(天正18年)、太閤検地の際、地侍が農民を扇動し一揆を起こして篭城する。
藤島城 2010-04-22T00:23:00Z
1590年(天正18年)の小田原征伐の際、城主・成田氏長は小田原城にて篭城。
忍城 2010-10-01T03:44:33Z
1590年(天正18年) 城主の白河結城氏豊臣秀吉奥州仕置により改易されると、その後、この地は会津領となり、蒲生氏、続いて上杉氏、再度、蒲生氏が支配した。
白河小峰城 2010-10-03T01:48:36Z
reject_y = 1590年(天正18年)
八王子城 2010-08-20T16:05:50Z
reject_y = 1590年(天正18年)
鉢形城 2010-09-14T13:13:05Z
1590年(天正18年) 豊臣秀吉による小田原攻めがはじまり、鉢形城は前田利家上杉景勝島田利正徳川家康麾下の浅野長吉本多忠勝鳥居元忠 らの連合軍(35000)に包囲され、北条氏邦の老臣黒澤上野介ら(3000)が約1か月の籠城戦を戦ったのち、開城した。
鉢形城 2010-09-14T13:13:05Z
1590年(天正18年) - 玉縄城主北条氏勝徳川家康にくだって開城。
片瀬 (藤沢市) 2010-10-02T22:51:55Z
古くは「江戸時代=幕藩体制」であり、〔…〕1960年代安良城盛昭が太閤検地による荘園制の解体が中世と近世の統治体制を分ける画期と考え、豊臣政権が日本全国を統一した1590年(天正18年)を幕藩体制の始期とする考えを打ち出し、論争を呼んだ(太閤検地論争)。
幕藩体制 2010-10-11T11:44:10Z
1590年(天正18年) 豊臣秀吉小田原征伐の際に箕輪城は前田利家上杉景勝連合軍の攻撃により開城した。
箕輪城 2009-10-08T17:13:01Z
Template:日本の城郭概要表
利府城 2009-12-29T14:51:41Z
1590年(天正18年)に徳川家臣の平岩親吉によって甲府城が築城されるや、その機能を廃されるに至った。
躑躅ヶ崎館 2010-05-31T14:58:10Z

6月[編集]

小田原の役により1590年(天正18年)6月、焼失。
白山神社 (八王子市) 2010-08-24T14:52:05Z
1590年(天正18年)6月 - 小田原の役により焼失。
白山神社 (八王子市) 2010-08-24T14:52:05Z

6月23日 (旧暦)[編集]

小田原の役の一環として1590年(天正18年)7月24日(旧暦6月23日)、八王子城は天下統一を進める豊臣秀吉の軍勢に加わった上杉景勝前田利家真田昌幸らの部隊1万5千人に攻められた。
八王子城 2010-08-20T16:05:50Z

天正19年[編集]

[編集]

日本への渡来は安土桃山時代末の1591年(天正19年)に筑前の貿易商人 神屋宗湛島井宗室らによって中国南部から種子が輸入され、当時需要が高まりつつあったろうそくの蝋を採取する目的で栽培されたのがはじまりとされる。
ハゼノキ 2010-05-30T14:27:28Z
1591年(天正19年) 『バレト写本』を書写する。
バレト写本 2010-09-05T10:51:41Z
皇族の家紋である菊紋や桐紋の権威は増して厳格になり1591年(天正19年)、〔…〕、豊臣秀吉が菊紋や桐紋の無断使用を禁止する規制を布くほどであった。
家紋 2010-09-18T21:01:53Z
なお、〔…〕1591年(天正19年)に再建されたものである。
吉野城 2010-10-13T15:07:01Z
蔵王堂はその後も焼失しており現在のは1591年(天正19年)に再建されたもの。
吉野城 2010-10-13T15:07:01Z
1591年(天正19年)豊臣秀長が没し、〔…〕、大和大納言家は断絶し100万石城の時代は終了する。
郡山城 (大和国) 2010-09-18T09:51:19Z
〔…〕1591年(天正19年)
月山富田城 2010-05-07T15:23:17Z
1591年(天正19年)〔…〕
月山富田城 2010-05-07T15:23:17Z
1591年(天正19年) 城主となった加藤光泰が築城を再開する。
甲府城 2010-07-26T15:57:00Z
1591年(天正19年)、黒田孝高より、吉川広家月山富田城を居城としたいという要請を、豊臣秀吉に取り成したという書状を香川春継宛に送っており、吉川家中で春継が重用されていることが伺える。
香川春継 2009-05-16T09:17:10Z
1591年(天正19年) 広島城が、一応の完成を見る。
佐東銀山城 2010-02-08T16:06:01Z
1591年(天正19年)、伊達政宗米沢から岩出山に転封となった。
細倉鉱山 2010-03-04T10:10:29Z
この後、正勝は四国取次となり、孝高は1591年(天正19年)ごろ失脚して中国取次としての動きが見られなくなった。
取次 (豊臣政権) 2010-09-25T03:06:48Z
1591年(天正19年) 可政と共に初めて徳川家康に拝謁する。
森重政 (旗本) 2010-03-16T00:15:05Z
1591年(天正19年) 九戸政実を倒し、三戸城から九戸城(のち「福岡城」と改める。
盛岡城 2010-07-04T09:05:25Z
全国統一が完成した翌年の1591年(天正19年) 、豊臣政権は諸国に対して一国御前帳の提出を命じているが、これは翌年の人掃令と合わせて朝鮮出兵に備えた兵粮軍役負担を確保するために、大名の領知高を確認する点を優先しつつも日本全国の土地を同一の基準をもって把握しようとしたのである。
石高制 2010-07-07T15:49:28Z
1591年(天正19年)、政宗は岩出山城を居城として伊達領を形成した。
多賀城市 2010-08-25T09:49:47Z
1591年(天正19年)、政宗が岩出山城に転封されると、二本松城は会津若松城蒲生氏郷の支城となった。
二本松城 2010-09-01T12:42:21Z
1591年(天正19年)に蒲生氏郷が入部すると、城域は拡大され、梯郭式の城へと変貌した。
二本松城 2010-09-01T12:42:21Z
伏見城の原形ともいえる施設は豊臣秀吉が1591年(天正19年)に関白の位と京都における政庁としての聚楽第豊臣秀次に譲り太閤の隠居所として伏見の地に築いた屋敷である。
伏見城 2010-08-28T02:56:18Z
その後、熊谷氏が毛利氏の家臣として勢力を拡大すると、観音寺も大いに栄えたが1591年(天正19年)頃に広島城が完成すると熊谷氏も広島城下に移住し、〔…〕、熊谷氏も毛利氏に従って長門国へと移り住んだ。
菩提所観音寺跡 2010-05-04T06:30:31Z
1591年(天正19年)に吉川氏当主の吉川経言が月山富田城主となったため、元康は備後国神辺城主となる。
末次元康 2010-06-13T15:34:11Z
〔 (<ref>中)〕新田義重の重臣にして徳川郷郷主を引き継いだ生田隼人を遠祖とし1591年(天正19年){{要検証|title=年号は正しいか。
明仁 2010-10-14T10:15:57Z
この城で鶴丸が産まれるが1591年(天正19年)に死去してしまった。
淀古城 2010-08-10T09:57:25Z
岩屋古墳の横穴式石室は、古文書の内容から1591年(天正19年)にはすでに開口していたと考えられており
龍角寺岩屋古墳 2010-06-28T10:50:57Z
]] 龍角寺古墳群について現在知られている最も古い文献は1591年(天正19年)の岩屋古墳について書かれたもので、当時すでに岩屋古墳の横穴式石室が開口していたことが判明している
龍角寺古墳群 2010-07-18T16:23:36Z

4月[編集]

1591年(天正19年)4月、転封により、輝政に代わって豊臣秀勝が岐阜城の城主となる。
岐阜城 2010-10-03T19:57:44Z

脚注[編集]

  1. ^ a b 引用エラー: 無効な <ref> タグです。「c」という名前の注釈に対するテキストが指定されていません
  2. ^ a b 引用エラー: 無効な <ref> タグです。「yamamoto1990」という名前の注釈に対するテキストが指定されていません
  3. ^ 引用エラー: 無効な <ref> タグです。「nkys04」という名前の注釈に対するテキストが指定されていません
  4. ^ 引用エラー: 無効な <ref> タグです。「harare」という名前の注釈に対するテキストが指定されていません