安井道頓

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安井 道頓(やすい どうとん、生年不詳[1] - 元和元年5月8日1615年6月4日[要出典])は、戦国時代から江戸時代初期にかけての商人道頓堀の開鑿者として知られる。なお、安井道頓とするのは従来の誤った通説で、成安 道頓(なりやす どうとん)が正しい[1][2][3]

来歴[編集]

かつては、河内国渋川郡久宝寺安井氏摂津国住吉郡平野郷成安氏の2説が存在した。しかし、1965年から1976年にかけて行われた「道頓堀川裁判」によって、成安氏が正しいことが明らかとなった[1]。裁判の過程で、原告は安井家に伝来する古文書を証拠として提出した[4]が、佐古慶三らによる論証の結果、「安井道頓」とされた人物の姓は安井ではなく、成安姓であると結論づけられた[1][4]。安井家の文書には史実の裏付けがなかったり、「成安道頓」という別姓の実名を認める記述などがあったためである[1][4]。この鑑定結果は極めて確度が高く[1]脇田修もこの鑑定に基づく成安氏説が正しいとした[1]。のちに、原告も「安井道頓」が秀吉から拝領した土地を先祖が相続したという主張を撤回した[4]

成安氏は、征夷大将軍の大納言坂上田村麻呂の次男で平野郷の開発領主となった坂上広野の子孫といわれる平野氏の七名家(しちみょうけ)の一つである。成安氏から安井氏になったとするこの説に対して、成安氏は摂津国に住した氏だが、道頓は河内国の出身とされていることから、否定する向きもある。しかし、摂津国の南東端に位置する平野郷は、河内国に隣接しており、成安氏の一族である坂上・平野氏は河内国にも支配地を持っていたことから、成安道頓は河内国で生まれた可能性は否定はできない。[要出典]

郷土史家の中には、安井氏は本願寺の攻撃を受けた際に多くの一族を失い、定次一人が生き残ったものと思われることから係累がなく、定次に実子ができなかったために、久宝寺から西に鞍作を挟んで近接する平野郷の有力者であった成安氏から養子を迎えたとする説を唱える者もおり、また、定次と道頓の関係を甥としている史料もあることから、定次の兄弟が成安氏に養子に入っていたか、姉妹が嫁いでいたなど、色々な可能性を指摘する郷土史家もいる。しかしながら、道頓の出自については明らかにされていない。[要出典]

1612年慶長17年)、城南の開発には河川の堀鑿が必要と考えた道頓は、豊臣氏の許可を受け、私財を投じて城南地域中心部の水路(後の道頓堀)の堀鑿に着手した[3]。しかし、堀鑿中の1615年(元和元年)大坂夏の陣に参加して戦死[3]。水路の堀鑿は安井九兵衛(道卜)や平野次郎兵衛らに受け継がれて完成した[1][3]。当時の松平忠明が道頓の死を悼んで、道頓堀と命名した[3]

1914年(大正3年)従五位が追贈された[5]

道頓の登場する作品[編集]

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g h 第16話 成安道頓(なりやすどうとん、生年不詳-1615年)”. 公益財団法人関西・大阪21世紀協会. 2024年1月15日閲覧。
  2. ^ 三訂版, 旺文社日本史事典. “成安道頓(なりやすどうとん)とは?”. コトバンク. 2024年1月15日閲覧。
  3. ^ a b c d e 道頓堀の名の由来について |大阪に関するよくある質問”. www.oml.city.osaka.lg.jp. 大阪市立図書館. 2024年1月15日閲覧。
  4. ^ a b c d 牧英正「道頓堀裁判記録」『大阪市立大学史紀要』第1巻、大阪市立大学、2008年10月、84-87頁、doi:10.24544/ocu.20171208-097 
  5. ^ 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.32