宗谷 (船)
| 艦歴 | ||
|---|---|---|
| 発注 | ソビエト連邦 | |
| 起工 | 1936年10月31日 | |
| 進水 | 1938年2月16日 | |
| 竣工 | 1938年6月10日 | |
| 退役 | 1978年10月2日 | |
| 戦歴 | 潜水艦1隻撃退 戦闘機撃墜1 |
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| その後 | 記念艦として船の科学館で公開 | |
| 性能諸元 | ||
| 排水量 | 2224トン(新造時) | |
| 全長 | 82.3 m | |
| 全幅 | ||
| 吃水 | ||
| 機関 | 1450馬力スクリュー1軸 | |
| 最大速 | 12.5ノット(軍艦時代) | |
| 航続距離 | ||
| 乗員 | ||
| 航空機 | ||
宗谷(そうや、船番号: PL107)は、日本の砕氷船である。日本海軍では特務艦、海上保安庁では巡視船として服務した。日本における初代南極観測船になり、現存する数少ない旧帝国海軍艦艇である。現在でも船籍を有しており、船舶法の適用対象で、必要であれば舫を解いて航行できる。
目次 |
[編集] 命名の由来
北海道北部の宗谷岬と樺太の間にある宗谷海峡にちなんで名づけられた。
[編集] 歴史
[編集] 商船
1936年(昭和11年)9月18日、川南工業株式会社香焼島造船所はソビエト連邦通商代表部より、耐氷型貨物船3隻の発注を受けた[1]。これはソ連から北満鉄路を買収した契約の一部であった[2]。12月7日 、耐氷型貨物船第107番船として川南工業株式会社香焼島造船所(長崎県)にて起工。1938年(昭和13年)2月16日、川南工業社長の長女 川南幸子の手によってソ連船ボロチャエベツ(Volochaevets)として進水[3]。この時、僚船ボルシェヴィク(Bolshevik)およびコムソモレツ(Komsomolets)も本船とともに進水した。しかし、第二次世界大戦直前の情勢に鑑み、ソ連への引渡はなされず商船地領丸として竣工した。同じ様にボルシェヴィクは「天領丸」、コムソモレツは「民領丸」となった。なお3隻はロイド船級協会の規格に沿った性能であることが求められたが、一番船ボルシェヴィクをロイド船級協会極東主任検査官立会いのもとで公試運転したところ、性能が規定値に満たず不合格となった[4]。
本船はソ連向けに建造された耐氷能力と、当時としては珍しい最新鋭のイギリス製水深探知機(ソナー)が装備されていた民間貨物船だったため、大日本帝国海軍の興味を引いていた[5]。時勢を睨み測量業務ができ、なおかつ大量輸送能力を持つ船を捜していたのである。だが本船はソ連との契約問題がこじれたため直接日本海軍には就役せず、民間会社の貨物船として運行した[6]。1938年(昭和13年)12月、日本海軍は227万5000円を購入費として計上した。12月20日、ソ連通商部は東京民事裁判所に提訴し、前払い建造費の返還と違約金の支払いを求めた[7]。本船の購入問題はソ連政府がモスクワ駐在大使東郷茂徳に解決をせまるほどの大問題に発展する[8]。裁判中にノモンハン事件が発生している。結局、裁判は1941年1月にソ連政府と建川美次大使との交渉で政治決着した[9]。
[編集] 特務艦
1940年(昭和15年)2月20日、「地領丸」は正規の軍艦籍に入籍され、海軍艦政本部により宗谷と改名された[10]。石川島造船所にて、8㎝単装高角砲1門、25㎜連装機銃、測探儀室、測量作業室増設などの改装を行う。海軍は老朽化した砕氷艦「大泊」の不足を補う役目を本艦に期待し、千島・樺太など北洋水域の後方補給・物資輸送および同海域強行測量艦として運用するつもりだった[10]。初代特務艦長は山田雄二中佐。塗装は灰色だった。
6月4日、宗谷はドックを出て横須賀に向かった[11]。用途は特務艦(運送艦)で、横須賀鎮守府部隊付属となる。最初の任務は北樺太の調査だった。11月、第4艦隊所属となってサイパン島に赴く。1941年12月8日、横須賀で日米開戦の報を受ける。すぐにトラックやラバウルといった南方に進出し、測量作業に従事した。1942年のミッドウェー海戦には上陸部隊輸送船団の一隻として参加した。8月、ラバウルに移動し第8艦隊に所属する。8月7日、海兵隊第1海兵師団がガダルカナル島に上陸し、「ガダルカナル島の戦い」が始まる。敷設艦津軽、明陽丸(5628 t)、第二一号掃海艇、各艦に分乗する海軍陸戦隊と共に宗谷はフロリダ諸島の戦いで占領されたツラギ島奪還に向かった。8月8日、敵機の雷撃で明陽丸が大破、翌朝沈没。作戦中止命令が出され、宗谷はラバウルを経てトラック基地に戻った[12]。同日、三川軍一中将率いる巡洋艦部隊が米軍艦隊に突入して第一次ソロモン海戦が発生するが、宗谷以下陸戦隊輸送船団が後退していたため、当初のツラギ奪還任務は果たせなかった。
宗谷は戦局の推移によって北洋のみならず南洋へも進出し、任務についた。1943年(昭和18年)1月28日午前7時、アメリカ潜水艦から発射された魚雷4本のうち1本が右舷後方に命中するも、幸運にも不発弾であったため難を逃れた。護衛の第二八号駆潜艇が爆雷を投下し、この潜水艦を撃沈した[13]。ただし、米軍の記録では該当する潜水艦の喪失記録はない。宗谷が爆雷を投下したという証言もあるが、宗谷が爆雷を搭載したのは横須賀に戻ってからという証言もある[14]。戦局の悪化とともに、ガダルカナル島撤退に活躍した。トラック島空襲では2月17日、回避行動中に座礁し[15]、翌18日には空襲で米軍機1機を撃墜するも9名が戦死し、総員退艦命令が出た。19日、満ち潮と共に宗谷は離礁し、仰天した乗組員は再び艦に乗り込んだ[16]。こうして宗谷は奇跡的に脱出に成功するが、当時の艦長 天谷嘉重大佐は責任を感じ、1944年(昭和19年)12月16日に拳銃自殺した[17]。1945年(昭和20年)5月29日、姉妹船「天領丸」が米潜水艦に撃沈された[18]。6月26日、宗谷は第126船団(神津丸、永観丸、海防艦四坂、第五一駆潜艇)と共に船越湾大釜崎沖を航行中、米潜水艦「パーチェ」からの雷撃で神津丸と永観丸が被雷沈没。宗谷は爆雷で反撃し、パーチェに損害を与えて撃退した[19]。8月2日、横須賀でドック入りしている時、戦艦長門、病院船氷川丸と共に空襲を受ける。敵機が投下したガソリンタンク(増槽)が宗谷の機関室に飛び込んできたが、ボイラーに火を入れていなかったため爆発しなかった[20]。終戦時は北海道・室蘭港に所在。
終戦後、主に小樽-樺太間を往復し引揚者を次々と本土へと運んだ。
[編集] 巡視船
その後、オホーツク海配属の砕氷能力を持つ灯台補給船を必要としていた海上保安庁は、当初砕氷艦「大泊」を引き継ぐ予定であったものの、予想以上に老朽化が進んでいたことから宗谷に変更される。そもそも日本海軍が宗谷を購入したのは、大泊の能力不足を補い、新鋭砕氷艦竣工までのつなぎをするためだった[21]。
[編集] 南極観測船
1956年(昭和31年)11月8日 日本は国際地球観測年に伴い南極観測を行うこととなり、南極観測船が必要となった。国鉄の宗谷丸などの候補が選定され、砕氷能力や船体のキャパシティは宗谷丸のほうが勝っていたが、改造予算の問題や耐氷構造、船運の強さ(魚雷を被弾するも不発弾で沈没を逃れた等)を買われ、宗谷が南極観測船に選定される。大幅な船体補強と耐氷能力の向上を主眼とした大改装(牧野茂/戦艦大和の設計者のひとり)を日本鋼管浅野船渠で受けた。
初代南極観測船として、東京水産大学(現東京海洋大学)の海鷹丸を随伴船に従え南極に向け出港。1957年(昭和32年)1月29日 南緯69度00分22秒・東経39度35分24秒オングル島プリンスハラルド海岸に第1次南極地域観測隊が昭和基地を開設、宗谷がプリンスハラルドに接岸の間、「プリンスハラルド宗谷船内郵便局」が船内に置かれた[22]。帰路に厚い氷に閉じ込められたが、当時最新鋭艦だったソ連の砕氷艦「オビ」の救援により辛くも脱出に成功。砕氷して進む「オビ」号とは、後ろをついて進む宗谷が離されないように注意しなければならないほどの性能差であったという。
その後も宗谷は1958年(昭和33年)にアメリカの砕氷艦「バートン・アイランド」号、1960年(昭和35年)に「オビ」号の救援を再び受けている。宗谷はその後派遣回数と同じ回数の修理・改装を繰り返し、通算6回の南極観測任務を遂行した。
[編集] その後
1962年(昭和37年) 南極観測任務を後継の南極観測船「ふじ」に譲り、再び通常任務に復帰。北海道に配備される。
1970年(昭和45年)3月 19隻の漁船が吹雪と流氷のために遭難し、宗谷が救出に向かう。悪天候の中、無事救出成功。
1978年(昭和53年)10月2日 退役。生涯で通算1000名以上の命を救った。代替船としてヘリコプター搭載型巡視船「そうや」(船番号:PLH01、現役)が建造された。
[編集] 展示
1979年(昭和54年)5月から、東京お台場にある船の科学館で一般公開されている。
2010年(平成22年)チリ地震 (2010年)の津波により、船の科学館は宗谷への乗船を一時停止した。
進水からすでに70年が経過しており、本来商船としてつくられながら、軍艦や南極観測船、巡視船として、過酷な環境に身を置いた類稀な船歴からくる長年の酷使や、退役後の繋留に伴う経年劣化により船体が傷んでいるため、維持管理には多額の資金が必要とされ、募金活動が行われている。
[編集] 要目
[編集] 1944年
- 基準排水量:3,800 t
- 全長:77.5 m
- 全幅:12.8 m
- 速度:12 kt
- 機関:ボイラー2缶/蒸気機関1基、1軸
- 出力:1,597馬力
- 航続距離:8.5 ktで4,080浬
- 兵装:四〇口径三年式八糎高角砲1基、九六式二十五粍高角機銃2挺、爆雷10発
[編集] 1978年
- 総トン数:4,100 t
- 全長:83.3 m
- 全幅:15.8 m(バルジ含む)
- 速度:13.5 kt
- 機関:ディーゼル機関2基、2軸
- 出力:4,800馬力
- 航続距離:12.5 ktで15,000浬
- 搭載機:シコルスキーS-58型ヘリコプター 2機
デハビランド・カナダ DHC-2「昭和号」1機(いずれも露天繋留) - 砕氷能力:1 m
- 貨物積載量:500 t(観測用物資、初期値450 tから増量)
※当初、搭載機は小型のベル47G観測ヘリであったため、ヘリ甲板前方に格納庫を有していた。搭載機を大型のシコルスキーS-58型に変更後は、格納庫の容量が不足したため第3次改装の際に格納庫を撤去してヘリ甲板を拡大、露天繋留による暴露積載とした。
[編集] 宗谷を題材とした作品
- NHKの番組「プロジェクトX」(『運命の船・宗谷発進』 2001年2月13日)において宗谷の活躍が放映された。
- 本船の生涯は1984年(昭和59年)にテレビ東京で放映された「宗谷物語」でアニメ化された。
- 文部省(現:文部科学省)の依頼により開発されたダッチワイフ(弁天さん)も南極地域観測隊と乗船したと言い伝えられている。ダッチワイフの別称「南極1号」はこれが由来である。
[編集] 参考文献
- アルバム「写真で見る『宗谷』の生涯」 海人社『世界の艦船』1983年2月号 No.318 pp.45–49
- 伊東直一「「宗谷」一代記」 海人社『世界の艦船』1983年2月号 No.318 pp.92–97
- 桜林美佐『奇跡の船「宗谷」 昭和を走り続けた海の守り神』(並木書房、2006年) ISBN 4890632069
- 飯沼一雄「「宗谷」誕生秘話 封印された松尾造船所問題 上・下」 海人社『世界の艦船』2006年11月号 No.666 pp150–155・2006年12月号 No.667 pp.150–155
- アルバム「あれから50年 昭和31年10月 南極観測船に改造直後の「宗谷」」 海人社『世界の艦船』2006年11月号 No.666 pp.48–51
- 「巻頭特集・南極物語 観測船「宗谷」が目指した極限の大地」 大日本絵画『モデルグラフィックス』2007年3月号 No.268
- 「特別記事・南極観測船「宗谷」」 モデルアート社『モデルアート』2007年3月号 No.721
- 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史』(新潮社、2009年)ISBN 4103904070
[編集] 脚注
- ^ 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史』12頁
- ^ 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史』18頁 飯沼一雄「「宗谷」誕生秘話」の孫引き。
- ^ 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史』8頁
- ^ 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史』32頁
- ^ 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史』34-35頁
- ^ 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史』38頁
- ^ 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史』39頁
- ^ 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史』46-48頁
- ^ 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史』73-74頁
- ^ a b 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史』54頁
- ^ 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史』56頁
- ^ 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史』114頁
- ^ 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史』120頁
- ^ 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史』121頁
- ^ 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史』142-143頁
- ^ 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史』146頁
- ^ 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史』162
- ^ 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史』166頁
- ^ 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史』171頁
- ^ 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史』174頁
- ^ 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史』54頁
- ^ 1956年(昭和31年)10月16日郵政省告示第1131号「プリンスハラルド宗谷船内郵便局を設置する件」
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- 船の科学館
- 船の科学館のホームページ(宗谷保存募金活動)
- 南極観測のホームページ(国立極地研究所)
- みらいにつたえるもの (flash movie)