弥生 (睦月型駆逐艦)

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Yayoi II.jpg
艦歴
建造所 浦賀船渠
起工 1924年1月11日
進水 1925年7月11日
竣工 1926年8月28日(第二十三号駆逐艦)
喪失 1942年9月11日
除籍 1942年10月20日
要目(計画)
排水量 基準:1,315トン、常備:1,445トン
全長 102.72m
全幅 9.16m
吃水 2.92m
機関 ロ号艦本式缶4基
メトロポリタン・ヴィッカースタービン2基
2軸、38,500馬力
速力 37.25ノット
航続距離 14ノットで4,500海里
燃料 重油450トン
乗員 154名
兵装 45口径三年式12cm単装砲4門
留式7.7mm機銃2挺
61cm3連装魚雷発射管2基6門
(八年式魚雷12本)
爆雷投射器
爆雷12個

彌生(やよい/やよひ)は日本海軍駆逐艦[1]睦月型駆逐艦の3番艦である[2]。艦名は旧暦3月のこと。艦名は初代神風型駆逐艦の「弥生」に続いて2代目。なお日本海軍の登録上は旧字の「彌生」であり[3]、それにならって「彌生」と表記する文献もあるが[4]、ここでは「弥生」と表記する。

艦歴[編集]

1923年(大正12年)度計画艦。浦賀船渠で建造され1926年(大正15年)8月28日に竣工、佐世保鎮守府に所属した。当初は「第二十三号駆逐艦」という艦名であり、一等駆逐艦に類別され、1928年(昭和3年)8月1日附で「彌生(弥生)」と改名された[1]1930年(昭和5年)11月中旬、昭和天皇は戦艦「霧島」は御召艦として、岡山県宇野から横須賀へ帰京することになった[5]。第30駆逐隊(睦月、如月、弥生、卯月)は「霧島」の供奉艦に指定される[6]。11月21日「霧島」は横須賀に到着し、天皇は退艦した[7]

1937年(昭和12年)からの支那事変により中支、南支方面に進出する。また仏印進駐作戦に参加した。第30駆逐隊の構成艦はしばしば変更されており、「卯月」「如月」「夕月」「望月」等が編入あるいは転出している。

太平洋戦争緒戦[編集]

太平洋戦争開戦時、「弥生」は第四艦隊(司令長官井上成美中将)・第六水雷戦隊(司令官阿部弘毅少将、旗艦「夕張」)・第30駆逐隊(司令安武史郎大佐)に所属していた。開戦時の第30駆逐隊は睦月型4隻(睦月如月、弥生、望月)である[8]。12月上旬、第六水雷戦隊・第十八戦隊(天龍、龍田)を主力とする艦隊は、第1次ウェーク島攻略作戦を実施する。

ウェーク島の戦いは米軍の反撃により、日本軍にとって予想外の展開となった。12月11日、姉妹艦「如月」がF4Fワイルドキャットの空襲により沈没、第30駆逐隊は開戦劈頭で3隻編制となった。またウェーク島砲台の攻撃で駆逐艦「疾風」が沈没した。第2次ウェーク島攻略作戦では、南雲機動部隊より派遣された第二航空戦隊の空母2隻(飛龍蒼龍)、重巡2隻(利根筑摩)、第17駆逐隊(谷風浦風)が航空支援をおこない、第六戦隊の重巡4隻(青葉衣笠加古古鷹)が陸上支援に加わった。その後も第六水雷戦隊各艦はラバウル方面、ブーゲンビル島ポートモレスビーの各攻略作戦に参加した。

1942年(昭和17年)5月25日、姉妹艦「卯月」が第30駆逐隊に編入され、定数4隻を回復する[9]。6月1日以降、第六水雷戦隊は南洋部隊主隊に、「弥生」はラバウル方面部隊に編入された[10]。6月24日、「望月」「弥生」「夕凪」は南洋部隊主隊に編入され、海上護衛作戦に従事する[10]。 7月9日に一旦佐世保港へ帰港した。7月10日、第六水雷戦隊の解隊にともない、軽巡洋艦「夕張」、第29駆逐隊(夕月、追風、朝凪、夕凪)、第30駆逐隊(睦月、弥生、望月、卯月)、「能代丸」、「長運丸」は第二海上護衛部隊へ編入された[11][10]。だが第30駆逐隊が第二海上護衛隊として作戦に従事する機会は訪れず、わずか4日で第八艦隊へ異動した[12]

8月7日、アメリカ軍ウォッチタワー作戦を発動しガダルカナル島フロリダ諸島に上陸、ガダルカナル島の戦いがはじまる。第30駆逐隊は8月15日に佐世保を出港、ソロモン方面へ進出する。一部書籍では、『第30駆逐隊の「睦月」「弥生」「望月」の3隻[13]は8月22日夜半[14]にガダルカナル島を約10分間砲撃、同島への艦砲射撃の第1号となった』としている。だが戦史叢書によれば、8月13日夜明け前、駆逐艦「追風」「夕月」はガダルカナル島・ヘンダーソン飛行場への艦砲射撃を実施している[15]。8月18日にも、一木支隊先遣隊約900名を揚陸させた陽炎型駆逐艦6隻(萩風陽炎谷風浦風浜風)のうち、「嵐」「萩風」「陽炎」によって陸上砲撃が実施されている[16]。「陽炎」は23日にも単艦でルンガ泊地に突入、陸上を砲撃した[17]

8月24日午前7時、第30駆逐隊はショートランド泊地を出撃[18]。旗艦「睦月」以下、駆逐艦「弥生」、「陽炎」、「磯風」、「江風」はルンガ泊地に突入、同日22時より約10分間の飛行場砲撃に成功した[19]。ガ島砲撃部隊はソロモン諸島海域を離脱後、第二水雷戦隊(司令官田中頼三少将:軽巡洋艦「神通」、第24駆逐隊《海風涼風》)及び哨戒艇「1号(初代島風)」「2号」「34号」「35号」に護衛された横須賀鎮守府所属横須賀第五特別海軍陸戦隊並びに陸軍一木支隊の輸送船3隻(ぼすとん丸、大福丸、金龍丸)と合流すべく北上した[20]。この増援部隊輸送船団は8月16日以降漸次トラック泊地を出撃し、8月25日のガダルカナル島揚陸を予定して同島へ向かっていた[21]。8月25日午前6時、ガ島砲撃部隊と増援部隊輸送船団は合同直後の陣形変更中のところを急降下爆撃機SBDドーントレス8機と、B-17爆撃機3機に空襲され、二水戦旗艦「神通」被弾炎上、「睦月」「金龍丸」沈没という被害を受ける[22]。「弥生」は「睦月」生存者を救助[23]。安武司令も「弥生」に移乗し、同艦が30駆司令艦となった[24]。「神通」は「涼風」の護衛下でトラック泊地へ回航され、沈没艦生存者を乗せた「弥生」「哨戒艇1号」「2号」は安武司令の意見具申によりラバウルへ退避することになった[25][26]。8月27日午前2時、睦月生存者を乗せた「弥生」、哨戒艇「1号」、「2号」はラバウルに到着した[27]。増援部隊輸送船団が撃退されたことで、第二次ソロモン海戦は戦術的にも戦略的にも米軍の勝利となった。

沈没[編集]

その後、第30駆逐隊(弥生、望月)は第十八戦隊(天龍龍田)、第17駆逐隊(浦風、谷風、浜風、磯風)、駆逐艦「嵐」等と共に『ラビ攻略作戦』に参加、部隊を上陸させるなどソロモン・ニューギニア方面で活動した。9月3日、連絡員20名をタウポタへ輸送する[28]。9月4日夜、「弥生」はラビ方面で連絡不能となった部隊を捜索すべくミルン湾に突入、苦戦する海軍陸戦隊に糧食を渡すと負傷者224名を収容し、5日1時にラバウルへ向かった[29]。 9月10日16時30分、安武司令の乗艦する「弥生」は駆逐艦「磯風」を指揮下に入れ、ラビ攻略部隊を撤収させるためラバウルを出港した[30]。9月11日正午より、ラビの東にあるノルマンビー島の東方でB-17B-25約10機による空襲を受け、後部への爆弾命中により舵が故障、続いて航行不能となり、16時15分沈没した[31]。安武第30駆逐隊司令も「弥生」と共に戦死した。沈没地点はノルマンビー島東方15浬南緯10度3分 東経151度27分 / 南緯10.050度 東経151.450度 / -10.050; 151.450[32]。 「磯風」は回避行動を取ったため弥生沈没現場から離れてしまい、16時40分の日没と共に「弥生」救出に向かったが痕跡も生存者も発見できず、20時45分に捜索を中断してラバウルへ帰投した[31]。同日20時20分、「天龍」「浜風」はラバウルを出撃して「弥生」沈没位置へ向かうが、12日の捜索では何も発見できなかった[31][33]。9月21日19時30分、「磯風」は「望月」と共にラバウルを出撃する[31]。22日、友軍と協力して「弥生」カッターボートを発見し10名を救助した[34][31]。同日深夜、2隻は生存者の誘導のもとノルマンビー島北東端に到着して探照灯・サイレンを用いて連絡を取ろうとしたが、弥生乗組員は米軍が進出してきたため森林に退避しており、連絡および救出に失敗した[31]。25日21時、「磯風」は「望月」を率いて再出撃、26日夜半に到着して弥生駆逐艦長以下乗組員83名を救助する[35]。「磯風」は「弥生」乗員救出任務終了の9月28日をもって第十八戦隊の指揮下を離れた[36]

同年10月20日、駆逐艦「弥生(彌生)」は一等駆逐艦卯月型[37]、 帝国駆逐艦籍[3]、 第30駆逐隊[38]のそれぞれから除籍された。12月1日、「睦月」「弥生」を喪失した第30駆逐隊も解隊された[39]

歴代艦長[編集]

※『艦長たちの軍艦史』250-252頁による。階級は就任時のもの。

艤装員長[編集]

  1. 和田省三 中佐:1925年11月10日 -

艦長[編集]

  1. 和田省三 中佐:1926年8月28日 - 1927年11月1日
  2. 杉本嘉多雄 少佐:1927年11月1日 - 1928年3月1日
  3. 原顕三郎 中佐:1928年3月1日 - 1928年3月15日
  4. 鈴木田幸造 少佐:1928年3月15日 - 1929年11月1日[40]
  5. (兼)山本正夫 少佐:1929年11月1日[40] - 1929年11月15日[41]
  6. 坂野民部 少佐:1929年11月15日 -
  7. 西岡茂泰 中佐:1930年8月1日 - 1933年11月15日
  8. 杉野修一 少佐:1933年11月15日 - 1934年10月22日
  9. 折田常雄 少佐:1935年4月25日 -
  10. 吉川潔 少佐:1937年11月15日 -
  11. 入江籌直 少佐:1938年9月15日 -
  12. 上杉義男 少佐:1938年12月15日 -
  13. (兼)作間英邇 少佐:1939年3月18日 -
  14. 安並正俊 少佐:1939年5月15日 -
  15. 広瀬弘 少佐:1939年10月15日 -
  16. 原口昇 少佐:1939年11月15日 -
  17. 杉谷永秀 少佐:1940年1月6日 -
  18. 石井励 少佐:1940年10月15日 -
  19. 肝付正明 少佐:1941年9月10日 -
  20. 梶本顗 少佐:1942年7月5日 -

脚注[編集]

  1. ^ a b #達昭和3年6月pp7-8『達第八十號 驅逐艦及掃海艇中左ノ通改名ス 本達ハ昭和三年八月一日ヨリ之ヲ施行ス|昭和三年六月二十日 海軍大臣岡田啓介|第二十三號驅逐艦 ヲ 驅逐艦 彌生(ヤヨヒ)トス』
  2. ^ #艦艇類別等級表(昭和16年12月31日)p.1『艦艇類別等級表|驅逐艦|一等|睦月型|睦月、如月、彌生、卯月、皐月、水無月、文月、長月、菊月、三日月、望月、夕月』
  3. ^ a b #内令昭和17年10月(4)pp.9-10『内令第千九百三十二號 佐世保鎮守府在籍 驅逐艦 彌生 右帝国驅逐艦籍ヨリ除カル|佐世保鎮守府在籍 呂號第六十一潜水艦 右帝国潜水艦籍ヨリ除カル|呉鎮守府在籍 特務艦 樫野 右帝国特務艦籍ヨリ除カル|昭和十七年十月二十日 海軍大臣嶋田繁太郎』
  4. ^ 戦史叢書』、『写真 日本の軍艦 第10巻 駆逐艦I』等。
  5. ^ #S5御召艦準備p.26『一.軍艦霧島行動予定』
  6. ^ #S5御召艦準備p.2『一.御召艦 軍艦霧島/二.供奉艦 第三十駆逐隊(睦月、如月、彌生、卯月)/三.右ノ外宇野港ヘハ呉鎮守府ヨリ警備艦トシテ軍艦天龍及第十八駆逐隊ヲ派遣ノ予定』
  7. ^ #S5御召艦準備p.25『5.11.21(霧島艦長)天皇陛下ニハ午後1時28分横須賀御入港午後2時17分天機御麗シク御退艦遊バザル』
  8. ^ #編制(昭和16年12月31日現在)p.2
  9. ^ #内令昭和17年5月(3)p.39『内令第九百三十一號 駆逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十七年五月二十五日 海軍大臣嶋田繁太郎|第二十三駆逐隊ノ項ヲ削ル|第二十九駆逐隊ノ項中「追風」ノ上ニ「夕月、」ヲ加フ|第三十駆逐隊ノ項中「望月」ノ下ニ「、卯月」ヲ加フ』
  10. ^ a b c #戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)44頁『第六水雷戦隊のSN作戦における活躍と同隊の解隊』
  11. ^ #S1704第二海上護衛隊日誌(1)pp.51-52『(ロ)自7月10日至7月14日『区分/第2海上護衛隊|艦(隊)名/夕張、第29駆逐隊(夕月、追風、朝凪、夕凪)、第30駆逐隊(睦月、弥生、望月、卯月)、能代丸、長運丸』
  12. ^ #S1704第二海上護衛隊日誌(1)p.53『Ⅱ編制ノ経過概要 7月中旬以降當隊ノ編制右ノ如ク改メラレ稍兵力ノ充実ヲ見ルモ第三十駆逐隊ハ當隊ノ任務ニ従事スルニ至ラズシテ當隊ヨリ除カレ、夕張、第二十九駆逐隊又「ソロモン」「ニューギニヤ」方面作戦ニ従事中ニシテ本月ハ當隊固有ノ護衛任務ニ服スル機会ナク、専ラ能代丸、長運丸ノ2艦ニ依リ當隊任務ヲ遂行セリ』
  13. ^ 『艦長たちの太平洋戦争 続編』p119による。『写真 日本の軍艦 第10巻 駆逐艦I』p55の望月行動年表によると「望月」この時はまだ佐世保にいる。
  14. ^ 写真 日本の軍艦 第10巻 駆逐艦I』p54による。『艦長たちの太平洋戦争 続編』p119では8月24日とされている。
  15. ^ #戦史叢書南東方面海軍作戦(1)512頁
  16. ^ #戦史叢書南東方面海軍作戦(1)534頁
  17. ^ #戦史叢書南東方面海軍作戦(1)559頁
  18. ^ #戦史叢書南東方面海軍作戦(1)585頁
  19. ^ #S1708外南洋部隊増援部隊詳報(1)pp.16-17『(20)30dg(卯月、望月缺)磯風、江風、陽炎ハ8月24日2200「ルンガロード」ニ進入飛行場附近ヲ砲撃シタル後北方ニ避退セリ。陽炎ハ敵潜1隻ヲ砲撃及爆雷攻撃ニ依リ概ネ確実ニ撃沈セリ』
  20. ^ #戦史叢書南東方面海軍作戦(1)586頁
  21. ^ #S1708外南洋部隊増援部隊詳報(1)pp.10-11『(一)挺身隊(4dg《野分舞風欠》17dg《磯風欠》及陽炎)ハ陸軍一木支隊先遣隊(陸兵約900名)ヲ分乗4dg司令指揮ノ下ニ8月16日0500「トラック」ヲ出撃ス。同時刻第二梯団(陸軍輸送船ぼすとん丸、大福丸《一木支隊ノ約1500名乗船》護衛艦艇《神通、哨34、哨35》)「トラック」發|(二)8月17日0700哨1、哨2、金龍丸ヲ護衛シ「トラック」發|(三)24dgハ前進部隊電令作第24号ニ依リ2Sd司令官ノ指揮ヲ受ケ一木支隊ノ護衛ニ任ゼラレシヲ以テ8月17日1500「トラック」發|(四)8月18日1300 24dg第二梯団ニ合同ス』
  22. ^ #戦史叢書南東方面海軍作戦(1)587頁
  23. ^ #S1708二水戦日誌(4)pp.12-13『25日30dg司令/30dg(望月卯月缺)ハ地点「ケムヌ14」ニ於テ金龍丸ノ救助処分ニ従事中、睦月ハ0827敵B-17三機ノ爆撃ヲ受ケ後部機械室ニ命中0940遂ニ沈没セリ、生存者ハ全部弥生ニ収容セリ|戦死(行衛不明モ含ム)准士官以上3名下士官兵37名、負傷者准士官以上3名下士官兵8名』
  24. ^ #S1708二水戦日誌(4)p.12『25日1145 30d司令/8月25日司令駆逐艦ヲ弥生ニ変更セリ』
  25. ^ #S1708二水戦日誌(4)p.16『25日1300 30dg司令/一.金龍丸ハ大火災大爆発ヲ起セルヲ以テ睦月ノ魚雷ニテ処分セリ|二.睦月ハB-17三機ノ爆撃ヲ受ケ0940沈没セリ|三.金龍丸睦月ノ生存者ハ全部本艦ニ収容セリ|四.重傷者13名有リ至急陸上病院ニ入院セシムル必要有ルニ付「ラボール」ニ回航セシメラレ度』
  26. ^ #戦史叢書南東方面海軍作戦(1)590頁
  27. ^ #S1708二水戦日誌(6)p.39『27日二.0330弥生、哨1、哨2「ラバール」着』
  28. ^ #戦史叢書南東方面海軍作戦(1)633頁
  29. ^ #戦史叢書南東方面海軍作戦(1)631頁
  30. ^ #戦史叢書南東方面海軍作戦(1)634頁
  31. ^ a b c d e f #戦史叢書南東方面海軍作戦(1)636頁
  32. ^ #S1709十八戦隊日誌(1)p.7『弥生磯風ヲ30dg司令指揮ノ下ニ1630RRヲ出撃セシメタルガ弥生11日1535及1545爆弾被害ニ依リ1615南緯10度3分東経151度27分ニテ沈没セリ』
  33. ^ #S1709十八戦隊日誌(1)p.9『天龍浜風ヲ率ヰ敵飛行機ノ来襲ヲ考慮(12日)同夜沈没地点北西方面海面及「ノルマンビー」島北東岸捜索ノ事ニ決セリ』
  34. ^ #S1709十八戦隊日誌(1)p.9『21日1930RR出撃磯風望月ヲシテ救出ニ向ハシメタルガ22日天候不良ニシテ上空哨戒機ノ発進ナカリシヲ以テ順延トシ偶前日味方戦闘機ガ「スルミ」沖ニテ発見セル漂流「カッター」ガ弥生ノモノナル算アリタルヲ以テ聖川丸水偵ト協力之ガ捜索ニ向ハシメタルニ右ハ弥生「カッター」ニシテ磯風ハ1300弥生連絡員10名ヲ収容、之ガ嚮導ノ下ニ在「ノルマンビー」島弥生乗員救助ニ向ヘリ』
  35. ^ #S1709十八戦隊日誌(1)pp.10-11『25日2100RR発再度磯風望月ヲシテ之ガ救出ニ向ハシム。経過別図第三ノ通ニシテ艦長梶本少佐以下83名ノ救出ヲ了セリ。更ニ帰途同日1000頃「ウッドラーク」島北西方海面ニテ被弾沈没セル気象観測船恭海丸乗員ヲ捜索セシメタルモ何等消息ヲ得ル能ハズ27日1700RR帰着』
  36. ^ #S1709十八戦隊日誌(1)pp.5-6『ロ.任務編制軍隊区分(磯風)(28日除カル)備考 磯風ハ弥生乗員救出完了迄編入』
  37. ^ #内令昭和17年10月(4)pp.5-6『内令第千九百二十五號 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス|昭和十七年十月二十日 海軍大臣嶋田繁太郎|驅逐艦、一等卯月型ノ項中「彌生、」ヲ削ル|潜水艦二等ノ部「呂六十一型」ヲ「呂六十二型」ニ改メ同項中「呂號第六十一、」ヲ削ル』
  38. ^ #内令昭和17年10月(4)pp.10-11『内令第千九百三十四號 |驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十七年十月二十日 海軍大臣嶋田繁太郎|第八驅逐隊ノ項中「荒潮」ノ下ニ「、満潮」ヲ加フ|第三十驅逐隊ノ項中「彌生」ヲ削ル』
  39. ^ #内令昭和17年12月(1)p.4『内令第二千二百十一號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十七年十二月一日 海軍大臣嶋田繁太郎|第三十驅逐隊ノ項ヲ削ル』
  40. ^ a b 『官報』第854号、昭和4年11月2日。
  41. ^ 『官報』第866号、昭和4年11月16日。

参考文献[編集]

  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • Ref.C12070089800 『昭和3年達完/6月』。
    • Ref.C12070162900 『昭和17年4月~6月内令2巻/昭和17年5月(3)』。
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    • Ref.C12070166700 『昭和17年10月~12月内令4巻止/昭和17年12月(1)』。
    • Ref.C13072003500 『昭和16年12月31日現在10版内令提要追録第10号原稿巻2.3/ 巻3追録/第13類艦船(1)』。
    • Ref.C05021029500 『公文備考 昭和5年C儀制巻1/第3482号5.10.22御召艦準備に関する件』。
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    • Ref.C08030142600 『昭和17年4月10日~昭和19年4月24日 第2海上護衛隊司令部戦時日誌(2)』。
    • Ref.C08030095600 『昭和17年8月1日~昭和17年8月31日 第2水雷戦隊戦時日誌(1)』。
    • Ref.C08030095700 『昭和17年8月1日~昭和17年8月31日 第2水雷戦隊戦時日誌(2)』。
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    • Ref.C08030095900 『昭和17年8月1日~昭和17年8月31日 第2水雷戦隊戦時日誌(4)』。
    • Ref.C08030096000 『昭和17年8月1日~昭和17年8月31日 第2水雷戦隊戦時日誌(5)』。
    • Ref.C08030096100 『昭和17年8月1日~昭和17年8月31日 第2水雷戦隊戦時日誌(6)』。
    • Ref.C08030096400 『昭和17年8月13日~昭和17年8月31日 外南洋部隊増援部隊戦闘詳報(1)』。
    • Ref.C08030096500 『昭和17年8月13日~昭和17年8月31日 外南洋部隊増援部隊戦闘詳報(2)』。
    • Ref.C08030096600 『昭和17年8月13日~昭和17年8月31日 外南洋部隊増援部隊戦闘詳報(3)』。
    • Ref.C08030096700 『昭和17年8月13日~昭和17年8月31日 外南洋部隊増援部隊戦闘詳報(4)』。
    • Ref.C08030096800 『昭和17年8月13日~昭和17年8月31日 外南洋部隊増援部隊戦闘詳報(5)』。
    • Ref.C08030096900 『昭和17年8月13日~昭和17年8月31日 外南洋部隊増援部隊戦闘詳報(6)』。
    • Ref.C08030022500 『昭和17年9月14日~昭和18年8月15日 第8艦隊戦時日誌(1)』。
    • Ref.C08030022600 『昭和17年9月14日~昭和18年8月15日 第8艦隊戦時日誌(2)』。
    • Ref.C08030059100 『昭和17年2月1日~昭和17年3月31日 第18戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)』。
  • 防衛庁防衛研修所戦史室 『戦史叢書49 南東方面海軍作戦(1) ガ島奪還作戦開始まで』 朝雲新聞社、1971年9月。
  • 防衛庁防衛研修所戦史室 『戦史叢書62 中部太平洋方面海軍作戦(2) 昭和十七年六月以降』 朝雲新聞社、1973年2月。
  • 海軍歴史保存会『日本海軍史 第7巻』(第一法規出版、1995年)
  • 雑誌「丸」編集部『写真 日本の軍艦 第10巻 駆逐艦I』(光人社、1990年) ISBN 4-7698-0460-1
  • 佐藤和正『艦長たちの太平洋戦争 続篇』(光人社、1984年) ISBN 4-7698-0231-5
  • 日本造船学会『昭和造船史 第1巻』(原書房、1981年、第3刷)ISBN 4-562-00302-2
  • 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。