「火垂るの墓」の版間の差分
加筆・整理。原作小説の主体化。全体的な乱雑な分類の整理など。 |
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{{基礎情報 書籍 |
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{{Portal|文学}} |
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|title = 火垂るの墓 |
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『'''火垂るの墓'''』(ほたるのはか)は、[[野坂昭如]]による[[日本]]の[[小説]]である。 |
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|orig_title = Grave of the Fireflies |
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|author = [[野坂昭如]] |
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|translator = <!-- 訳者 --> |
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|illustrator = 装幀:[[永田力]] |
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|published = [[1968年]][[3月25日]] |
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|publisher = [[文藝春秋]] |
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|genre = [[短編小説]] |
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|country = {{JPN}} |
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|language = 日本語 |
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|type = [[ハードカバー|上製本]] |
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|pages = 230 |
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|preceded_by = <!-- 前作 --> |
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|portal1 = 文学 |
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『'''火垂るの墓'''』(ほたるのはか)は、[[野坂昭如]]の[[短編小説]]。野坂自身の戦争原体験を題材に、浮浪児兄妹の[[餓死]]までの悲劇を独特の文体で描いた作品である。[[1967年]](昭和42年)、雑誌『[[オール讀物]]』10月号に掲載された。同時期発表の『[[アメリカひじき]]』と共に翌春に第58回(昭和42年度下半期)[[直木三十五賞|直木賞]]を受賞した。単行本は1968年(昭和43年)3月25日に[[文藝春秋]]より『アメリカひじき・火垂るの墓』として刊行された。現行版は[[新潮文庫]]より刊行されている。翻訳版はAlycia Davidson訳(英題:Grave of the Fireflies)をはじめ、各国で行われている。 |
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『火垂るの墓』を原作とした同名タイトルの映画([[アニメーション]]、実写)、漫画、テレビドラマ、[[合唱]][[組曲]]などの翻案作品も作られており、特にアニメーション映画は一般的にも人気の高い作品となっている。 |
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== 概要 == |
== 概要 == |
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[[兵庫県]][[神戸市]]と[[西宮市]]近郊を舞台に、親を亡くした |
[[兵庫県]][[神戸市]]と[[西宮市]]近郊を舞台に、戦火の下、親を亡くした14歳の兄と4歳の妹が[[終戦]]前後の混乱の中を必死で生き抜こうとするが、その思いも叶わずに[[栄養失調]]で悲劇的な死を迎えていく姿を描き、愛情と無情が交錯する中、[[蛍]]のように儚く消えた二つの命を、[[関西弁]]を生かした粘っこい饒舌かつ無駄のない緻密な文体で表現し、独特の世界観を醸し出している<ref name="ozaki">[[尾崎秀樹]]「解説」(文庫版『[[アメリカひじき]]・火垂るの墓』)([[新潮文庫]]、1972年。改版2003年)</ref><ref name="senpyo"/>。 |
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物語の構成は、駅構内で死んだ主人公の少年の[[腹巻]]の中から発見された[[ドロップ]]缶を駅員が放り投げると、缶の中から小さい骨のかけらが転げ出し、その遺骨が少年の妹の骨であることの説明から、時間が[[カットバック]]で[[神戸大空襲]]へ戻り、そこから駅構内の少年の死までの時間経過をたどる印象的で自然な流れとなっている<ref name="ozaki"/>。 |
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[[文藝春秋]]『[[オール讀物]]』昭和42年(1967年)10月号に掲載され、「[[アメリカひじき]]」と共に、第58回[[直木三十五賞|直木賞]](昭和42年下半期)を受賞する。[[1968年]](昭和43年)に『アメリカひじき・火垂るの墓』として文藝春秋より単行本化された。現在も[[新潮社]]より文庫本が出ている。他、[[滝田ゆう]]により漫画化されており、[[宙出版]]「怨歌劇場」に収録されている。2010年には[[新実徳英]]が混声合唱組曲にしている<ref>[http://center-choir.jp/images/hotaru_no_haka_a4_1.pdf 混声合唱組曲『火垂るの墓』初演リーフレット表紙]</ref>。 |
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== 作品背景 == |
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本項では、上記の小説を原作とした同名の映像作品についても扱う。 |
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[[File:Kobe after the 1945 air raid.JPG|250px|thumb|right|神戸大空襲後の神戸市街]] |
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『火垂るの墓』のベースとなった戦時下での妹との死別という主題は、野坂昭如の実体験や情念が色濃く反映された半ば自伝的な要素を含んでおり、1945年(昭和20年)[[6月5日]]の[[神戸大空襲]]により自宅を失い、家族が大[[火傷]]で亡くなったことや、焼け跡から食料を掘り出して[[西宮市|西宮]]まで運んだこと、美しい[[蛍]]の思い出、1941年(昭和16年)[[12月8日]]の開戦の朝に学校の鉄棒で46回の前回り記録を作ったことなど、少年時代の野坂の経験に基づくものである。 |
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また野坂は戦中から戦後にかけて二人の妹(野坂自身も妹も養子であったため、血の繋がりはない)を相次いで亡くしており、死んだ妹を自ら[[荼毘]]に付したことがあるのも事実である。しかしながら西宮の親戚の家に滞在していた当時の野坂は、その家の美しい娘に夢中であり、幼い妹・恵子(物語とは異なりまだ1歳6ヶ月で、8月22日に疎開先の[[福井県]]で亡くなった)のことなどあまり気にかけることなく、中学生らしい淡い初恋に心をときめかせていたという。また食糧事情は悪かったものの、小説のようなひどい扱いは実際には受けておらず、家を出て[[防空壕]]で生活したという事実はない<ref name="nosaka">野坂昭如「私の小説から 火垂るの墓」([[朝日新聞]] 1969年2月27日号に掲載)。のち『アドリブ自叙伝』([[筑摩書房]]、1980年。[[日本図書センター]]、1994年と2012年に復刊)に所収</ref>。 |
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野坂は、まだ生活に余裕があった時期に病気で亡くなった上の妹には兄としてそれなりの愛情を注いでいたものの、家や家族を失い、自分が面倒を見なくてはならなくなった下の妹のことはどちらかといえば疎ましく感じていたと認めており、泣き止ませるために頭を叩いて[[脳震盪]]を起こさせたこともあったという<ref>「プレイボーイの子守唄」([[婦人公論]] 1967年連載)</ref>。西宮から福井に移り、さらに食糧事情が厳しくなってからはろくに食べ物も与えず、その結果として、やせ衰えて骨と皮だけになった妹は誰にも看取られることなく餓死している<ref>野坂昭如「五十歩の距離」(『野坂昭如エッセイ集1 日本土人の思想』)([[中央公論社]]、1969年)</ref>。こうした事情から、かつては自分もそうであった妹思いのよき兄を主人公に設定し、平和だった時代の上の妹との思い出を交えながら、下の妹・恵子へのせめてもの[[贖罪]]と[[鎮魂]]の思いを込めてこの作品を著したのである。なお、「節子」という名は野坂の亡くなった養母の実名である。 |
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野坂は妹について次のように述べている。 |
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{{Quotation|一年四ヶ月の妹の、母となり父のかわりつとめることは、ぼくにはできず、それはたしかに、[[蚊帳]]の中に蛍をはなち、他に何も心まぎらわせるもののない妹に、せめてもの思いやりだったし、泣けば、深夜におぶって表を歩き、夜風に当て、[[汗疹]]と、[[虱]]で妹の肌はまだらに色どられ、海で水浴させたこともある。(中略)ぼくはせめて、小説『火垂るの墓』にでてくる兄ほどに、妹をかわいがってやればよかったと、今になって、その無残な骨と皮の死にざまを、くやむ気持が強く、小説中の清太に、その想いを託したのだ。ぼくはあんなにやさしくはなかった。|「私の小説から 火垂るの墓」<ref name="nosaka"/>}} |
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== あらすじ == |
== あらすじ == |
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1945年(昭和20年)[[9月21日]]、清太は[[日本国有鉄道|省線]][[三ノ宮駅]]構内で[[衰弱死]]した。清太の所持品は錆びた[[サクマ式ドロップス|ドロップ缶]]。その中には節子の小さな骨片が入っていた。駅員がドロップ缶を見つけ、無造作に草むらへ放り投げる。地面に落ちた缶からこぼれ落ちた遺骨のまわりに[[蛍]]がひとしきり飛び交い、やがて静まる。 |
1945年(昭和20年)[[9月21日]]、清太は[[日本国有鉄道|省線]][[三ノ宮駅]]構内で[[衰弱死]]した。清太の所持品は錆びた[[サクマ式ドロップス|ドロップ缶]]。その中には妹・節子の小さな骨片が入っていた。駅員がドロップ缶を見つけ、無造作に草むらへ放り投げる。地面に落ちた缶からこぼれ落ちた遺骨のまわりに[[蛍]]がひとしきり飛び交い、やがて静まる。 |
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[[太平洋戦争]]末期、兵庫県[[武庫郡]][[御影町]]<ref>清太・節子一家が住んでいたとされるのは、武庫郡御影町大字[[御影]]字上中・字上西。現在の[[神戸市]][[東灘区]][[御影本町]]六丁目・八丁目あたりである。</ref>(現在の神戸市東灘区)に住んでいた4歳の節子とその兄である14歳の清太は[[6月5日]]の[[神戸大空襲]]で母も家も失い、父の従兄弟の未亡人である兵庫県西宮市の親戚の家に身を寄せることになる。 |
[[太平洋戦争]]末期、兵庫県[[武庫郡]][[御影町]]<ref>清太・節子一家が住んでいたとされるのは、武庫郡御影町大字[[御影]]字上中・字上西。現在の[[神戸市]][[東灘区]][[御影本町]]六丁目・八丁目あたりである。</ref>(現在の神戸市東灘区)に住んでいた4歳の節子とその兄である14歳の清太は[[6月5日]]の[[神戸大空襲]]で母も家も失い、父の[[従兄弟]]の嫁で今は未亡人である兵庫県[[西宮市]]の親戚の家に身を寄せることになる。 |
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最初のうちは順調だった共同生活も戦争が進むにつれて叔母との諍いが絶えなくなっていった。居心地が悪くなった |
最初のうちは順調だった共同生活も戦争が進むにつれて、二人を邪魔扱いする説教くさい叔母との諍いが絶えなくなっていった。居心地が悪くなった清太は節子を連れて家を出ることを決心し、近くの満池谷町の貯水池<ref>現在の[[夙川公園]]北東部付近にある貯水池(ニテコ池)がモデル。</ref>のほとりにある[[防空壕]]<ref>ニテコ池のほとりに実在した壕。野坂自身もたびたび避難したという。</ref>の中で暮らし始めるが、[[配給 (物資)|配給]]は途切れがちになり、情報や近所付き合いもないために思うように食料が得られず、節子は徐々に[[栄養失調]]で弱っていった。清太は畑から野菜を盗んだり、空襲で無人の人家から物を[[火事場泥棒]]し、時には見つかり殴られながら飢えをしのいだ。やがて日本が降伏し戦争は終わった。敗戦を知った清太は、父の所属する[[連合艦隊]]も壊滅したと聞かされショックを受ける。 |
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節子の状態はさらに悪化し、清太は銀行から貯金を下ろして食料の調達に走るが、既に手遅れで、幼い妹は終戦 |
節子の状態はさらに悪化し、清太は銀行から貯金を下ろして食料の調達に走るが、既に手遅れで、幼い妹は終戦7日後の8月22日に短い生涯を閉じた。節子を[[荼毘]]に付した後、清太は防空壕を後にして去っていくが、彼もまた栄養失調に侵されおり、身寄りもなく三ノ宮駅に寝起きする[[戦災孤児]]の一人として野垂れ死んだ。清太は他の2、30体の死体と共に[[荼毘]]に付され、[[無縁仏]]として[[納骨堂]]へおさめられた。 |
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== 直木賞の選評 == |
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『[[アメリカひじき]]』と一緒に受賞し、審査員の評価は総じて高いもので、反対派はいなかった。 |
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[[File:Kobe after the 1945 air raid.JPG|250px|thumb|right|神戸大空襲後の神戸市街]] |
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野坂昭如の実体験が色濃く反映された半ば自伝的な要素を含む小説である。[[6月5日]]の神戸大空襲により自宅や家族を失ったことや、焼け跡から食料を掘り出して西宮まで運んだこと、美しい蛍の思い出などはすべて作者の経験に基づくものである。また野坂は戦中から戦後にかけて2人の妹(野坂自身も妹も養子であったため、血の繋がりはない)を相次いで亡くしており、死んだ妹を自ら荼毘に付したことがあるのも事実である。しかしながら西宮の親戚の家に滞在していた当時の野坂はその家の美しい娘に夢中であり、幼い妹(物語とは異なりまだ1歳で、後に疎開先の[[福井県]]で亡くなった)のことなどあまり気にかけることなく、中学生らしい淡い初恋に心をときめかせていたという。また食糧事情は悪かったものの、小説のようなひどい扱いは実際には受けておらず、家を出て防空壕で生活したという事実もない<ref>野坂昭如『私の小説から 火垂るの墓」(「朝日新聞」[[1969年]]2月27日、のち『アドリブ自叙伝』(筑摩書房、1980、日本図書センターより復刊、に再録)</ref>。 |
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[[海音寺潮五郎]]は、「[[大阪弁|大坂ことば]]の長所を利用しての冗舌は、縦横無尽のようでいながら、無駄なおしゃべりは少しもない。十分な計算がある。見事というほかはない」<ref name="senpyo">「第58回[[直木三十五賞|直木賞]](昭和42年度下半期)選評」([[オール讀物]] 1968年4月号に掲載)</ref>と評し、「後者(火垂るの墓)の結末は明治調すぎて、古めかしすぎて乗って行けなかったが、自伝的なものがありそうだから、こうせざるを得なかったのであろう」<ref name="senpyo"/>と述べている。 |
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[[水上勉]]は、「出来がよく、野坂氏の怨念も夢もふんだんに詰めこまれて、しかも好短篇の結構を踏み、完全である。感動させられた」<ref name="senpyo"/>と述べ、[[松本清張]]は、「私の好みとしては『アメリカひじき』よりも『火垂るの墓』をとりたい。だが、野坂氏独特の粘こい、しかも無駄のない饒舌体の文章は現在を捉えるときに最も特徴を発揮するように思う」<ref name="senpyo"/>と評している。 |
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[[川口松太郎]]は、「直木賞作家の本命とはいい難く、君の技量は逆手だ。文章のアヤの面白さに興味があって事件人物の描写説得は二の次になっている」<ref name="senpyo"/>とし、「野坂君が独特の文体の上に、豊かな内容をもり込む作家になってくれたらそれこそ[[鬼に金棒]]だ」<ref name="senpyo"/>と助言をしている。 |
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[[大佛次郎]]は、「この装飾の多い文体で、裸の現実を襞深くつつんで、むごたらしさや、いやらしいものから決して目を背向けていない」<ref name="senpyo"/>とし、「作りごとでない力が、底に横たわって手強い」<ref name="senpyo"/>と評している。[[柴田錬三郎]]は、「さまざまの話題をマスコミにまきちらし乍ら、とにもかくにも、[[文壇]]へふみ込んで来たその雑草的な強さは、敬服にあたいする。私は、『火垂るの墓』に感動した。[[劇作家|劇作者]]的文章が、悲惨な少年少女の最後を描いて、効果をあげたことは、われわれ実作者に深く考えさせるところがあった」<ref name="senpyo"/>と述べている。 |
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野坂は、まだ生活に余裕があった時期に病気で亡くなった上の妹には兄としてそれなりの愛情を注いでいたものの、家や家族を失い、自分が面倒を見なくてはならなくなった下の妹のことはどちらかといえば疎ましく感じていたと認めており、泣き止ませるために頭を叩いて[[脳震盪]]を起こさせたこともあったという。西宮から福井に移り、さらに食糧事情が厳しくなってからはろくに食べ物も与えず、その結果として、やせ衰えて骨と皮だけになった妹は誰にも看取られることなく餓死している<ref>野坂昭如『五十歩の距離』{{Full|date=2013年2月}})</ref>。 |
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== エピソード == |
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こうした事情から、かつては自分もそうであった妹思いのよき兄を主人公に設定し、平和だった時代の上の妹との思い出を交えながら、下の妹へのせめてもの[[贖罪]]と[[鎮魂]]の思いを込めてこの作品を著したのである。 |
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後年、野坂は執筆していた当時のことを、他にも小説や[[コラム]]などの仕事を何本も抱え込み、ひたひたと忍び寄る締め切りと何人もの担当者とのやり取りで受けるプレッシャーに晒され、まさに地獄のような日々の中でなんとか原稿を仕上げていた大変な時期だったと振り返り、娘の学校での宿題の、「火垂るの墓の作者は、どういう気持ちでこの物語を書いたでしょうか」という問いに対し、「締め切りに追われ、ヒィヒィ言いながら書いた」と答えたと、テレビ番組で発言している。 |
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== アニメーション映画 == |
== アニメーション映画化 == |
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{{独自研究|section=1|date=2012年5月}} |
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{{Infobox Film |
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| 作品名 = 火垂るの墓 |
| 作品名 = 火垂るの墓 |
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[[ファイル:Hotarunohaka3427.jpg|180px|thumb|火垂るの墓の碑<br />[[石屋川]]にて]] |
[[ファイル:Hotarunohaka3427.jpg|180px|thumb|火垂るの墓の碑<br />[[石屋川]]にて]] |
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同名の[[アニメ]]映画『火垂るの墓』(英題:''Grave of the Fireflies'')が、[[新潮社]]の製作で[[1988年]](昭和63年)[[4月16日]]から[[東宝]]系で公開された。制作は[[スタジオジブリ]]、監督・脚本は[[高畑勲]]。挿入歌として[[アメリータ・ガリ=クルチ]]の「[[埴生の宿]](原題:Home, Sweet Home)」が使われた。 |
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現在進行形のストーリーではなく、[[幽霊]]になった清太によるナレーションで過去のことを思い出しているものである。原作をほぼ忠実になぞっているが、後半部分の演出、特に節子の死のシーンの描写などはアニメオリジナルである(原作では、清太が池で泳いでいる間に死んでいる)。清太の死は冒頭で描かれ、ラストで山を降りた後が冒頭のシーンに繋がるといういわゆる[[ループ]]である。 |
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作中で画面が赤くなる時は、清太と節子の幽霊が登場し近くで見ており、記憶を何度も繰り返し見つめていることを意味する<ref>冒頭に出てくる二人と、新しくなるドロップの缶は幽霊になったイメージ、幽霊の節子が三宮の駅で倒れる過去の清太の所に行こうとしたのをもう一人の清太が制止するのは「自分も(幽霊になり)ここにいるから心配しなくていい」と言う意味、電車に乗り叔母の家まで行くのは、「過去を思い出しに行く」とも言えるシーンで、「死人に口なし」という事もことわざもあるように幽霊の清太は冒頭とラストを除き喋らない。</ref><ref>1988年5月号『アニメージュ』の高畑勲監督の発言、ジブリレイアウト展の音声解説より</ref>。ただしアニメ絵本ではこの部分は大幅に省略され、ラストで現代社会のビルを見ている二人が赤い状態の幽霊であることを示唆する場面があるのみである。なお、アニメ絵本は概ね映画本編を忠実になぞっているが、唐突に出て来た台詞、行動、場面等の説明がなされている。 |
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=== キャスト === |
=== キャスト === |
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清太の声を担当した辰巳努は当時16歳、節子の声を担当した白石綾乃は当時6歳で、共に舞台と同じ関西地区の出身者 |
清太の声を担当した辰巳努は当時16歳、節子の声を担当した白石綾乃は当時6歳で、共に作品舞台と同じ関西地区の出身者である。また清太、節子の母の声を担当した志乃原良子も大阪出身である。他にも、同じ関西が舞台である高畑勲の作品『[[じゃりン子チエ]]』に出演経験のある山口や表淳夫も含めた関西出身の俳優が多数出演しており、本職のアニメ声優はほとんど起用されていない。 |
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; 清太 - [[辰巳努]] |
; 清太 - [[辰巳努]] |
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: 14歳(中学3年)。劇中で、通っていた神戸市立中は空襲で全焼したことが清太により言及。家も焼け出され、母も死去し、清太は幼い妹・節子と共に西宮の親戚の家に行くが、叔母と折り合いが悪く妹と共にその家を出る。衰弱する妹に食べ物を与えるため必死になるが、栄養失調で妹を失い、自身も三宮駅構内で衰弱死する。アニメ映画では死の直前、意識が朦朧としても節子のことを考えていた。盗みを始めた理由についてアニメ絵本では節子が病気になりかかっているので「なんとかしなければならないと思ったため」という記述がある。 |
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; 節子 - [[白石綾乃]] |
; 節子 - [[白石綾乃]] |
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: |
: 4歳。清太の妹。母の言葉や着物のことを覚えている。清太から母が亡くなったことは聞かされず、病院に入院していると誤魔化されていたが、中盤で、実は叔母から母が既に亡くなったことを聞き、知っていたことが判明する。栄養失調のため体に[[汗疹]]ができたり、髪には[[虱]]がついていた。その影響で徐々に目も虚ろになり焦点もあっておらず、死の直前は清太の言葉もほとんど通じていなかった。この際、おはじきをドロップと思って舐めたり、石を御飯だと勘違いするほど思考力が落ちていた。スイカを食べた後、目を覚ます事はなく遺体は清太によって[[荼毘]]にふされ、遺骨はドロップの缶に納められた。 |
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; 清太・節子の母 - [[志乃原良子]] |
; 清太・節子の母 - [[志乃原良子]] |
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: |
: 兄妹の母親。心臓が悪い(原作においては節子を出産した後に心臓病を患ったと説明されている)。気立ての良い、上品な美人。二人より先に[[防空壕]]に行こうとしていた際に空襲に被災、全身に大火傷を負い重篤となる。包帯も取れない状態で、腕の一部が焼け[[蛆虫]]がついており、清太が駆けつける直前に昏睡状態に陥り、そのまま死亡。清太は節子に真実を話すことができず、「西宮の回生病院に入院している」ことにしている。なお、原作では母の遺骨は[[布引町]]近くの春日野墓地に埋葬されていることになっている。アニメ映画では、清太は母の遺骨を納めた箱を叔母の家についた直後に庭に隠している<ref>中盤の兄妹二人の言及から既に墓に納骨されていることが示唆されているという見方もある。</ref>。清太が持っていた7,000円の貯金は「母がもしもの時のために銀行に預けてくれていたものである」と劇中では言及。 |
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: なお、清太が泥棒で捕まり、殴られた際に節子が清太にかけた言葉は、原作では「母の口調」とあり、アニメ絵本では「母が昔、節子が泣く度に言った台詞」と書かれている。母親の登場シーンは事実上、冒頭のみで後は回想シーンなどで登場する。清太が回想した母と節子と海に行った場面は劇中では特に説明がないが、アニメ絵本や原作の記述によると1年前の出来事とされている。 |
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; 親戚の叔母さん - [[山口朱美]] |
; 親戚の叔母さん - [[山口朱美]] |
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: 西宮在住。清太と節子を一時的に引き取る。当初はうまくいっていたが、次第に諍いが絶えなくなる<ref>実際の野坂が疎開した先の叔母は映画のように態度が悪くなっていない。</ref>。 |
: 西宮在住。清太と節子を一時的に引き取る。当初はうまくいっていたが、次第に諍いが絶えなくなる<ref>実際の野坂が疎開した先の叔母は映画のように態度が悪くなっていない。</ref>。原作では「未亡人」とも表記され、清太の父親の従弟が夫だった。清太と節子を預かることは清太の言及によると約束になっていたようであり、叔母の言動から母も叔母の家に疎開する予定だった模様。原作ではお互い空襲で家が焼けたら身を寄せ合う約束だったと記され、アニメ絵本でも、状況によっては叔母が清太達の家に疎開する可能性も示唆されている。勝手に出て行ったのは清太達で叔母は直接的に追い出す言動は取っていないが、引き止めもせずにせいせいし、原作では、二人を疫病神と呼び、「横穴へ住んどったらええ」と言っている。 |
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; 清太・節子の父 |
; 清太・節子の父 |
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: 兄妹の父親。[[海軍大尉]]。戦争に出征しているため、劇中では写真と回想シーンでのみ登場する。モデルは野坂の実父とされる。清太は昔、父の[[観艦式]]を見たと言及しており、節子が生まれる前から、海軍にいたことが示唆されている。この観艦式は原作では1935年(昭和10年)10月となっている。なお父が乗り込んだとされる高雄型重巡洋艦[[摩耶]]は1944年(昭和19年)10月の[[レイテ沖海戦]]で[[フィリピン]]のパラワン水道において米潜水艦の魚雷攻撃を受け沈没していることから、清太達が父の帰りを待ち望んでいた1945年(昭和20年)には既に死亡しているものと推測される。 |
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; 叔母さんの娘 |
; 叔母さんの娘 |
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: 女学生。三つ編みの清楚な風貌の少女 |
: 女学生。三つ編みの清楚な風貌の少女。節子に下駄をプレゼントする、母が自分達の食器にだけ米を盛り清太と節子には雑炊しか与えなかった際は居心地の悪そうな素振りを見せる描写がある。 |
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; 叔母宅の下宿人 |
; 叔母宅の下宿人 |
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: 学生。眼鏡をかけた、真面目そうな青年 |
: 学生。眼鏡をかけた、真面目そうな青年。劇中で名前は呼ばれておらず絵コンテ集で確認できる。叔母に愛想を尽かされ庭で煮炊きする清太・節子を気の毒がる素振りを見せるが、下宿人という立場からか積極的な擁護まではしなかった。叔母の台詞では[[勤労奉仕]]に熱心に参加している模様。原作では、家には娘と、[[商船学校]]在学中の息子・幸彦と、[[神戸税関]]に勤めている下宿人がおり、下宿人は闇の食料ルートに詳しく缶詰などを持ってきて、叔母の娘の気をひこうとしている。 |
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; 役名表記無し |
; 役名表記無し |
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: 端田宏三、酒井雅代、野崎佳積、松岡与志雄、金竹雅浩、柳川清、真木一、[[表淳夫]]、はりた照久、[[田中弘史]]、伝法三千雄、[[玉生司朗]]、[[中村正 (声優)|中村正]]、関田美香、宮本毬子、松本淳、松田春子、上田恵子、竹岡和彦、鰺坂貴代美、上野真紀夫、平松豊和、森脇京子、[[嶋谷隆司]]、真田隆次、邦保、加治春雄、安満敏子、小林誠、沢田憲一、隈本晃俊、国分郁男、横山祐介、房本佳長、谷本幸士郎、守屋真人、中山鉄朗、藤田尚樹、城野正富美、伴鉄、木下真喜子、行原千酷、黒川裕子、川口真由美 |
: 端田宏三、酒井雅代、野崎佳積、松岡与志雄、金竹雅浩、柳川清、真木一、[[表淳夫]]、はりた照久、[[田中弘史]]、伝法三千雄、[[玉生司朗]]、[[中村正 (声優)|中村正]]、関田美香、宮本毬子、松本淳、松田春子、上田恵子、竹岡和彦、鰺坂貴代美、上野真紀夫、平松豊和、森脇京子、[[嶋谷隆司]]、真田隆次、邦保、加治春雄、安満敏子、小林誠、沢田憲一、隈本晃俊、国分郁男、横山祐介、房本佳長、谷本幸士郎、守屋真人、中山鉄朗、藤田尚樹、城野正富美、伴鉄、木下真喜子、行原千酷、黒川裕子、川口真由美 |
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=== 製作の経緯 === |
=== 製作の経緯 === |
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映画『火垂るの墓』は、 |
映画『火垂るの墓』は、1988年(昭和63年)の公開時、[[宮崎駿]]監督作品『[[となりのトトロ]]』と同時上映されているが、先に企画された『となりのトトロ』は、当初、60分程度の中編映画として企画されており、単独での全国公開は難しかった<ref>叶精二『宮崎駿全書』フィルムアート社、2006年、p113</ref>。そこで同時上映作品として[[高畑勲]]監督作品『火垂るの墓』の企画が決定したという経緯が伝えられている。 |
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最終的に、両作とも上映時間は90分近くなり、長編2本体制で公開された。アニメ映画界の二大巨頭の代表作、しかも作風も物語も印象も全く相反する内容の作品を一緒に観ることができたが、当時としてみれば地味な素材であった上、東宝宣伝部が消極的だったことや<ref>叶精二『宮崎駿全書』フィルムアート社、2006年、p123</ref>、高畑・宮崎両監督の一般的な知名度も現在ほどではなく、公開日が春休み後の中途半端な時期でもあったため、配給収入は5.9億円と伸び悩んだ。評論家からは好評で『[[キネマ旬報]]』誌の日本映画ベストテンでは6位に食い込んでいる。 |
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両映画の制作はスタジオジブリで同時に進行した。[[東映アニメーション|東映動画]]でも長編作品を2本同時進行したことはなかったといい、高畑・宮崎の信頼に耐える主要スタッフ(アニメーター)は限られており、人員のやりくりに制作側は苦慮することになった<ref>鈴木敏夫『映画道楽』ぴあ、2005年、p101-p102</ref>。特に揉めたのが作画監督の[[近藤喜文]]の処遇であった。結果として宮崎側が新しく参入したスタッフを中心に制作したのに対し、高畑側は近藤や美術監督の[[山本二三]]など旧知のベテランを集めた。 |
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両映画の制作は[[スタジオジブリ]]で同時に進行した。[[東映アニメーション|東映動画]]でも長編作品を2本同時進行したことはなかったといい、高畑・宮崎の信頼に耐える主要スタッフ(アニメーター)は限られており、人員のやりくりに制作側は苦慮することになった<ref>鈴木敏夫『映画道楽』ぴあ、2005年、p101-p102</ref>。特に揉めたのが作画監督の[[近藤喜文]]の処遇であった。結果として宮崎側が新しく参入したスタッフを中心に制作したのに対し、高畑側は近藤や美術監督の[[山本二三]]など旧知のベテランを集めた。 |
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[[徳間書店]]社長・[[徳間康快]]の要請を受け、野坂の原作小説を文庫として販売している[[新潮社]]が『火垂るの墓』の出資・製作となっている。新潮社が[[メディアミックス]]で映像製作に携わる初めてのケースとなった。こうした経緯もあって、ビデオや[[レーザーディスク|LD]]は徳間系列ではない[[パイオニア]]から発売され、その後リリースされた[[DVD]]も、ジブリ作品としては例外的に[[ワーナー・ブラザーズ|ワーナー]]の扱いとなっていた(新潮社との契約が満了した[[2008年]]8月以降は[[ディズニー|ブエナビスタ]]から再発されている)。[[2012年]]4月には[[Blu-ray Disc]]版が発売された。 |
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当初は両作とも60分であったが、高畑の『火垂るの墓』の時間が長くなると、対抗するように宮崎の『となりのトトロ』の時間も延び<ref>鈴木敏夫『映画道楽』ぴあ、2005年、p107-p108</ref>、結果的に長編2本の同時進行となった。質を落としたくない高畑勲は公開の延期を申し出たが、1988年(昭和63年)4月の公開時点で清太が野菜泥棒をして捕まる場面など未完成のシーンが残ったままとなり、その部分は色の付かない白味・線撮りの状態で上映された(ただし、悲惨なシーンであるために事情を知らない観客には演出効果に感じられ、ほとんど話題にならなかった)。公開後も制作を続け、後に差し替えられている。 |
当初は両作とも60分であったが、高畑の『火垂るの墓』の時間が長くなると、対抗するように宮崎の『となりのトトロ』の時間も延び<ref>鈴木敏夫『映画道楽』ぴあ、2005年、p107-p108</ref>、結果的に長編2本の同時進行となった。質を落としたくない高畑勲は公開の延期を申し出たが、1988年(昭和63年)4月の公開時点で清太が野菜泥棒をして捕まる場面など未完成のシーンが残ったままとなり、その部分は色の付かない白味・線撮りの状態で上映された(ただし、悲惨なシーンであるために事情を知らない観客には演出効果に感じられ、ほとんど話題にならなかった)。公開後も制作を続け、後に差し替えられている。 |
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わずかながらも未完成のままでの劇場公開という不祥事に、高畑勲はいったんアニメ演出家廃業を決意したが、後に[[宮崎駿]]の後押しを受けて1991年( |
わずかながらも未完成のままでの劇場公開という不祥事に、高畑勲はいったんアニメ演出家廃業を決意したが、後に[[宮崎駿]]の後押しを受けて1991年(平成3年)に『[[おもひでぽろぽろ]]』で監督に復帰することになる(おもひでぽろぽろも『火垂るの墓』と同じように現在進行形のストーリーではなく過去の思い出しである)<ref>『[[魔女の宅急便 (スタジオジブリ作品)|魔女の宅急便]]』TV初公開時の宮崎駿の発言</ref>。 |
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[[徳間書店]]社長・[[徳間康快]]の要請を受け、野坂の原作小説を文庫として販売している[[新潮社]]が『火垂るの墓』の出資・製作となっている。新潮社が[[メディアミックス]]で映像製作に携わる初めてのケースとなった。こうした経緯もあって、ビデオや[[レーザーディスク|LD]]は徳間系列ではない[[パイオニア]]から発売され、その後リリースされた[[DVD]]も、ジブリ作品としては例外的に[[ワーナー・ブラザーズ|ワーナー]]の扱いとなっていた(新潮社との契約が満了した2008年(平成20年)8月以降は[[ディズニー|ブエナビスタ]]から再発されている)。2012年(平成24年)4月には[[Blu-ray Disc]]版が発売された。 |
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=== 監督の意図 === |
=== 監督の意図 === |
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高畑勲は、本作品について「反戦アニメなどでは全くない、そのようなメッセージは一切含まれていない」と繰り返し述べたが、反戦アニメと受け取られたことについてはやむを得ないだろうとしている。高畑は、兄妹が |
高畑勲は、本作品について「反戦アニメなどでは全くない、そのようなメッセージは一切含まれていない」と繰り返し述べたが、反戦アニメと受け取られたことについてはやむを得ないだろうとしている。高畑は、兄妹が二人だけの閉じた家庭生活を築くことには成功するものの、周囲の人々との共生を拒絶して社会生活に失敗していく姿は現代を生きる人々にも通じるものであると解説し、特に高校生から20代の若い世代に共感してもらいたいと語っている<ref>『[[アニメージュ]]』1988年5月号に掲載インタビュー</ref><ref>高畑勲『映画を作りながら考えたこと』(徳間書店、1991年)471頁</ref>。 |
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=== 時代描写 === |
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高畑勲の[[リアリズム]]志向により、1945年(昭和20年)当時の風景が忠実に再現された<ref>ただし、空襲時の警防団員の描き分けや警察官の制服の生地色や正肩章の装着、佩剣が乗馬勤務者用のものであり釣環の数も多い、略帽を着用していないなど、資料が偏る傾向もみられる。</ref>。作画に参加した[[庵野秀明]]が、[[神戸港]]での[[観艦式]](清太の回想)の場面の軍艦([[高雄型重巡洋艦]]「[[摩耶 (重巡洋艦)|摩耶]]」)を出来るだけ史実に則って描写する事を求められ、[[舷窓]]の数や[[ラッタル]]の段数まで正確に描いたという逸話が残されている。もっとも完成した映画ではすべて影として塗り潰され、庵野の努力は徒労に終わった<ref>[[竹熊健太郎]]編『庵野秀明 パラノエヴァンゲリオン』太田出版、1997年、p69-p70</ref>。 |
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[[日本テレビネットワーク協議会|日本テレビ系列]]で放送されている『[[金曜ロードSHOW!|金曜ロードショー]]』では1989年 - 1991年は3年連続、以降は2年に一度(奇数年)、8月の[[終戦の日]]前後にこの作品を放映するのが恒例となっている。その中で[[1990年]]と[[2007年]]は清太の命日である9月21日、[[1997年]]と[[2003年]]は節子の命日である8月22日に放映されている。 |
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また、登場人物の会話は関西出身の俳優や声優を起用した[[ネイティヴ]]な[[関西弁]]である。「キイキ悪い(体調が悪い、病気の意)」、「(二本松の)ねき(脇、近くという意味)」などといった現在ではほとんど使われることがなくなった古い表現も、原作小説のままに使用されている。ただ、いわゆる[[神戸弁]]ではなく、[[大阪弁]]に近い言い回しに統一されている点が異なる。 |
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しかし奇数年である[[2011年]]は放送がなかった。これは、2年に1度やることによって視聴率が徐々に低下し始めたことや、2011年の終戦の日前後と清太と節子の命日が金曜日ではなかったことによると思われる。 |
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=== テレビ放映 === |
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[[日本テレビネットワーク協議会|日本テレビ系列]]で放送されている『[[金曜ロードSHOW!|金曜ロードショー]]』では1989年 - 1991年は3年連続、以降は2年に一度(奇数年)、8月の[[終戦の日]]前後にこの作品を放映するのが恒例となっている。その中で1990年(平成2年)と2007年(平成19年)は清太の命日である9月21日、1997年(平成9年)と2003年(平成15年)は節子の命日である8月22日に放映されている。しかし奇数年である2011年(平成23年)は放送がなかった。これは、2年に1度やることによって視聴率が徐々に低下し始めたことや、その年の終戦の日前後と、清太と節子の命日が金曜日ではなかったことによると思われる{{要出典|date=2013年8月}}。 |
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=== 反響・評価など === |
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[[ファイル:Mikage Public Hall, Kobe, Japan.JPG|180px|thumb|作中に登場する[[御影公会堂]](現存)]] |
[[ファイル:Mikage Public Hall, Kobe, Japan.JPG|180px|thumb|作中に登場する[[御影公会堂]](現存)]] |
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『となりのトトロ』のような楽しいアニメを見ようと映画館を訪れ、楽しいトトロを見た後に『火垂るの墓』を見て、衝撃を受ける、涙が止まらない、茫然自失で席から立ち上がれない観客が続出したという<ref>[[竹熊健太郎]]編『庵野秀明 パラノエヴァンゲリオン』太田出版、1997年、p72</ref>。そのため、「上映の順番を逆にしてくれればよかったのに」という声も少なくなかった{{要出典範囲|date=2012年5月|(一部映画館では先に火垂るの墓が上映されている館もあった)}}。 |
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* 日本で「ジブリがいっぱいCOLLECTION」シリーズとして発売されたセルビデオは、40万本を出荷した<ref>日経BP社技術研究部 『進化するアニメ・ビジネス―世界に羽ばたく日本のアニメとキャラクター』日経BP社、2000年、47頁。ISBN 4822225542</ref>。 |
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また、舞台となった西宮市の西宮回生病院、[[香櫨園]]浜、[[夙川駅]]、[[夙川公園]]、[[ニテコ池]](貯水池)、神戸市の御影公会堂や御影小学校、石屋川などを、[[巡礼 (通俗)|モデルとなった場所を訪ねる]]人は絶えず、地域史研究の一環として地元の[[教育委員会]]が見学会を催すこともある。尚、ニテコ池へは[[阪神電鉄]]西宮駅より[[阪神バス]]の「山手線」もしくは「鷲林寺線」で「満池谷(まんちだに)」下車すぐである(ここには巨大な墓地と火葬場がある)。但し、舞台の一つである[[阪急]][[三宮駅]]については、公開後に発生した[[阪神・淡路大震災]]により建物が全壊し、仮設駅舎として再建されている。 |
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* 作中で画面が赤くなる時は、清太と節子の幽霊が登場し近くで見ており、記憶を何度も繰り返し見つめていることを意味する。<ref>冒頭に出てくる二人と新しくなるドロップの缶は幽霊になったイメージ、幽霊の節子が三宮の駅で倒れる過去の清太の所に行こうとしたのをもう一人の清太が制止するのは「自分も(幽霊になり)ここにいるから心配しなくていい」と言う意味、電車に乗り叔母の家まで行くのは「過去を思い出しに行く」とも言えるシーンで「死人に口なし」という事もことわざもあるように幽霊の清太は冒頭とラストを除き喋らない。</ref><ref>1988年5月号『アニメージュ』の監督の発言、ジブリレイアウト展の音声解説より</ref>。ただしテレビアニメ絵本ではこの部分は大幅に省略され、ラスト現代社会のビルを見ている二人が赤い状態の幽霊である事を示唆する場面があるのみである。現在進行形のストーリーで描かれ概ね映画本編を忠実になぞっているが唐突に出て来た台詞、行動、場面等の説明がされている。 |
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日本で「ジブリがいっぱいCOLLECTION」シリーズとして発売されたセルビデオは、40万本を出荷した<ref>日経BP社技術研究部 『進化するアニメ・ビジネス―世界に羽ばたく日本のアニメとキャラクター』日経BP社、2000年、47頁。ISBN 4822225542</ref>。また海外でも多く視聴されており、英国の映画雑誌『エンパイア』誌が発表した「落ち込む映画ベスト10」の第6位にランクインされた。 |
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[[黒澤明]]は『火垂るの墓』を見て感動するが、[[宮崎駿]]監督の作品と勘違いしてしまい、宮崎に賞賛の手紙を送っている。受け取った宮崎は複雑な顔をしたという<ref>ラジオ「[[鈴木敏夫のジブリ汗まみれ|ジブリ汗まみれ]]」の[[鈴木敏夫]]の発言。</ref>。ただ、一番好きだというわけではなく、一番最近の作品の中ではよかったということで褒めていたのだと、娘が語っている{{誰|date=2013年8月}}。 |
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=== パロディ === |
=== パロディ・その他 === |
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{{観点|date=2012年5月|section=2}} |
{{観点|date=2012年5月|section=2}} |
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*[[中川家]]はコントで剛が節子、礼二が清太役を演じ、弱った節子が物を要求、だが清太は名前が似ているだけの物を持ってきて節子がのり突っ込みした後違うことに気付き、清太が「それ○○やない、○○や〜」とぼけるネタを披露した。 |
*[[中川家]]はコント内で、剛が節子、礼二が清太役を演じ、弱った節子が物を要求、だが清太は名前が似ているだけの物を持ってきて、節子がのり突っ込みした後違うことに気付き、清太が「それ○○やない、○○や〜」とぼけるネタを披露した。 |
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*[[陣内智則]]は自身の「さお竹売り」というタイトルで[[期末試験]]の勉強中「節子と清太の一人二役を演じ同情を誘い、さお竹を売りつけようとしたさお竹売りにキレ |
*[[陣内智則]]は自身の「[[竿竹|さお竹]]売り」というタイトルのコント内で、[[期末試験]]の勉強中の学生が、「節子と清太の一人二役を演じ同情を誘い、さお竹を売りつけようとしたさお竹売り」にキレて、さお竹売りの演技には騙されなかったものの結局ラストでは騙され、竿だけを売りつけられるというネタを披露した。 |
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*『[[KAMEN RIDER DRAGON KNIGHT]]』に登場するアルバートが関西弁で「兄ちゃん」と言うシーンは日本語吹き替え版を担当した[[村井良大]]によると関西という |
*『[[KAMEN RIDER DRAGON KNIGHT]]』に登場するアルバートが関西弁で「兄ちゃん」と言うシーンは、日本語吹き替え版を担当した[[村井良大]]によると、関西ということで本作の節子の言い回しを参考にしたと明かしている<ref>2010特撮ニュータイプ3月号インタビューより</ref>。 |
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== テレビドラマ |
== テレビドラマ化 == |
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終戦60年スペシャルドラマ『火垂るの墓 |
終戦60年スペシャルドラマ『火垂るの墓―ほたるのはか―』として[[2005年]](平成17年)[[11月1日]]の21:00 - 23:54に[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]系列で放送された。『[[ドラマ・コンプレックス]]』第一弾番組でもある。 |
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撮影は当時の風景を可能な限り再現するために、神戸周辺のみならず日本各地をロケして行われた。視聴率は21.2%を記録した。アニメでは描写されなかった部分(清太達の名字、父親がいかにして戦争に出掛けたか、叔母が清太達を引き取ることになった経緯、清太が通う学校描写)が描かれた。本編のDVDは2006年(平成18年)2月22日発売された。 |
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なお、ドラマ版の製作に当たって、野坂昭如は「ドラマは、原作を離れて自由である。ぼくの小説が戦後60年経った現在、違う形となり、今を生きる人たちに、戦争の惨たらしさを少しでも伝えられれば、原作者として有難いこと」とのメッセージを寄せている。 |
なお、ドラマ版の製作に当たって、野坂昭如は「ドラマは、原作を離れて自由である。ぼくの小説が戦後60年経った現在、違う形となり、今を生きる人たちに、戦争の惨たらしさを少しでも伝えられれば、原作者として有難いこと」とのメッセージを寄せている。 |
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* 兵庫県[[西宮市]] ほか |
* 兵庫県[[西宮市]] ほか |
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== 実写映画 |
== 実写映画化 == |
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[[2008年]](平成20年)[[7月5日]]公開。[[黒木和雄]]監督により企画が進行していたが、黒木の死去により、黒木を師と仰ぐ[[日向寺太郎]]が監督となった。叔母役の松坂は事実上の悪役という |
[[2008年]](平成20年)[[7月5日]]公開。[[黒木和雄]]監督により企画が進行していたが、黒木の死去により、黒木を師と仰ぐ[[日向寺太郎]]が監督となった。叔母役の[[松坂慶子]]は事実上の悪役ということから一度はオファーを断ったと告白している。 |
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[[File:Akitani Pond Grave of the Fireflies 秋谷池(兵庫県西脇市黒田庄町喜多字秋谷口) 火垂るの墓 DSCF3656.jpg|230px|thumb|right|ロケ地に選ばれた秋谷池(西脇市黒田庄町)]] |
[[File:Akitani Pond Grave of the Fireflies 秋谷池(兵庫県西脇市黒田庄町喜多字秋谷口) 火垂るの墓 DSCF3656.jpg|230px|thumb|right|ロケ地に選ばれた秋谷池(西脇市黒田庄町)]] |
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全ての撮影が舞台となる[[兵庫県]]内で行われた。池の土手を歩くシーンや池辺で飛び交う[[蛍]]をとる印象的なシーンは、[[西脇市]][[黒田庄町]]喜多字秋谷口の[[秋谷池]][http://maps.google.co.jp/maps?q=%E8%A5%BF%E8%84%87%E5%B8%82%E9%BB%92%E7%94%B0%E5%BA%84%E7%94%BA%E5%96%9C%E5%A4%9A%E5%AD%97%E7%A7%8B%E8%B0%B7%E5%8F%A3&rls=com.microsoft:ja:IE-SearchBox&oe=UTF-8&redir_esc=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&hl=ja&tab=wl]で撮られた。メイキングのDVDは |
全ての撮影が舞台となる[[兵庫県]]内で行われた。池の土手を歩くシーンや池辺で飛び交う[[蛍]]をとる印象的なシーンは、[[西脇市]][[黒田庄町]]喜多字秋谷口の[[秋谷池]][http://maps.google.co.jp/maps?q=%E8%A5%BF%E8%84%87%E5%B8%82%E9%BB%92%E7%94%B0%E5%BA%84%E7%94%BA%E5%96%9C%E5%A4%9A%E5%AD%97%E7%A7%8B%E8%B0%B7%E5%8F%A3&rls=com.microsoft:ja:IE-SearchBox&oe=UTF-8&redir_esc=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&hl=ja&tab=wl]で撮られた。メイキングのDVDは公開同年の8月8日、本編DVDは翌2009年(平成21年)3月27日発売。 |
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=== 特徴 === |
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アニメ映画とは異なり、登場人物による回想を廃止し、現在進行形のストーリーに変更している。一部原作でのみ描かれた部分、本作オリジナルの部分も多い<ref>これは原作においても過去を思い出す人物がいないとは言え、清太が亡くなるところから始まるので、現在進行形での展開はその意味でも初めてでもある。</ref>。また、清太は[[喘息]]を持病に持ち、[[剣道]]が得意という設定が追加された。原作では駅で亡くなっていたが、実写映画では一人で生きようと雨の中歩き、倒れるところで物語は終了し生死不明となる。<ref>倒れたことが「死んだ」のかは劇中の描写及び日向監督のインタビューでも明確にはされていない。</ref><ref>当初の日向監督のインタビューでは「倒れた後、立ちあがる」というラストでそのシーンも撮影されていたと語られておりおそらく尺の都合でカットされたことになる。</ref>。 |
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* 清太は喘息を持病に持ち、剣道が得意という設定が追加された。今までは駅で亡くなっていたが、今回は一人で生きようと雨の中歩いているなかで物語は終了し生死不明となる<ref>正確には「雨の中で倒れる」である。倒れた事が「死んだ」のかは劇中の描写及び日向監督のインタビューでも明確にはされていない。</ref><ref>当初の日向監督のインタビューでは「倒れた後、立ちあがる」というラストでそのシーンも撮影されていたと語られておりおそらく尺の都合でカットされた事になる。</ref>。 |
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原作やアニメ映画などでは、当初はうまく行っていた叔母の家での共同生活が次第に悪くなる展開だったが、実写映画は最初から最後まで叔母の態度が悪い。「家に置くのを追い返そうとするも食料を持っていたことから態度を変えて置く」流れで共同生活が始っている<ref>家に預かるということを、原作やアニメ映画版とテレビドラマ版では最初から承知していたが、実写映画版はなぜか知らなかった様子である。</ref>。叔母の夫は直接は登場しないもの「半年前に亡くなった」と言及され、日向監督の考えで戦死通告は死亡した時期より遅れて届いたことになっている。 |
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* 清太の父の消息については特に触れられていない。姓名が設定されていない事を考えると、下記の法則から実は生きているのではないかとも言える。 |
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清太の父の消息(生死)については特に触れられていない。なお、日向監督は、「姓名は亡くなった人物にだけ付ければいい」との考えで、作中で亡くなった人物にしか姓名は設定されていない(最終的に生死不明である清太は除く)。このことから、清太の父は姓名が設定されていないため、生きているのではないかとも言える。 |
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* 今までは空襲の被災により意識不明のまま亡くなった母を、今回は一瞬だけ意識を取り戻し、その後亡くなると言う自然な形へ変更。これに伴い叔母の家に向かう場面をやや変更し、到着するまでの道順が(初めて)描写された。 |
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* 今までは最初しか出番がなかった清太の地元の町内会長や西宮に住む本作オリジナル登場人物など今まではあまり描かれなかった他者との交流シーンが大幅に追加されている。 |
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原作、アニメ映画などでは空襲の被災により意識不明のまま亡くなった母を、実写映画では一瞬だけ意識を取り戻し、その後亡くなると言う形へ変更している。これに伴い叔母の家に向かう場面をやや変更し、到着するまでの道順が初めて描写された。また、今までは最初しか出番がなかった清太の地元の町内会長や西宮に住む原作の登場人物などがクローズアップされオリジナル化されて、今まではあまり描かれなかった清太と他者との交流シーンが大幅に追加されている。 |
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* 日向監督の「姓名は亡くなった人物にだけ付ければいい」との考えで、作中で亡くなった人物にしか姓名は設定されていない<ref>最終的に生死不明である清太は除く</ref>。 |
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=== キャスト(映画) === |
=== キャスト(映画) === |
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* 清太 - [[吉武怜朗]] |
* 清太 - [[吉武怜朗]] |
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* 節子 - [[畠山彩奈]] |
* 節子 - [[畠山彩奈]] |
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* 雪子(清太の母) - [[松田聖子]] |
* 雪子(清太の母) - [[松田聖子]] |
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* 本城 雅夫 - [[江藤潤]] |
* 本城 雅夫 - [[江藤潤]] |
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* 清太の父 - [[高橋克明]] |
* 清太の父 - [[高橋克明]] |
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* 未亡人の息子 - [[萩原一樹]] |
* 未亡人の息子 - [[萩原一樹]] |
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* 未亡人の娘 - [[矢部裕貴子]] |
* 未亡人の娘 - [[矢部裕貴子]] |
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* 若い未亡人 - [[池脇千鶴]] |
* 若い未亡人 - [[池脇千鶴]] |
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* 町会長(西宮) - [[原田芳雄]] |
* 町会長(西宮) - [[原田芳雄]] |
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* 町会長(御影) - [[長門裕之]] |
* 町会長(御影) - [[長門裕之]] |
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* 未亡人(清太の親戚) - [[松坂慶子]] |
* 未亡人(清太の親戚) - [[松坂慶子]] |
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== 漫画化 == |
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== 映像版の時代描写 == |
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『火垂るの墓』は[[滝田ゆう]]により漫画化されている。 |
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=== アニメ映画版 === |
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*『怨歌劇場』([[ぱる出版]]、1993年10月20日) |
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高畑勲の[[リアリズム]]志向により、1945年当時の風景が忠実に再現された<ref>ただし、空襲時の警防団員の描き分けや警察官の制服の生地色や正肩章の装着、佩剣が乗馬勤務者用のものであり釣環の数も多い、略帽を着用していないなど、資料が偏る傾向もみられる。</ref>。作画に参加した[[庵野秀明]]が、[[神戸港]]での[[観艦式]](清太の回想)の場面の軍艦([[高雄型重巡洋艦]]「[[摩耶 (重巡洋艦)|摩耶]]」)を出来るだけ史実に則って描写する事を求められ、[[舷窓]]の数や[[ラッタル]]の段数まで正確に描いたという逸話が残されている。もっとも完成した映画ではすべて影として塗り潰され、庵野の努力は徒労に終わった<ref>[[竹熊健太郎]]編『庵野秀明 パラノエヴァンゲリオン』太田出版、1997年、p69-p70</ref>。 |
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*:絵:滝田ゆう。原作:野坂昭如。 |
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*:※ 『火垂るの墓』をはじめ、野坂の12編の短編が漫画化されている。 |
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*宙コミック文庫 漢文庫シリーズ『怨歌劇場』([[宙出版]]、2007年1月25日) |
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*:絵:滝田ゆう。原作:野坂昭如。 |
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== 合唱組曲化 == |
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また、登場人物の会話は関西出身の俳優や声優を起用した[[ネイティヴ]]な[[関西弁]]である。「キイキ悪い<ref>体調が悪い、病気の意。</ref>」、「(二本松の)ねき<ref>脇、近くという意味。</ref>」などといった現在ではほとんど使われることがなくなった古い表現も、原作小説のままに使用されている。ただ、いわゆる[[神戸弁]]ではなく、[[大阪弁]]に近い言い回しに統一されている点が異なる。 |
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2010年(平成22年)に、[[新実徳英]]により混声合唱組曲が作られている<ref>[http://center-choir.jp/images/hotaru_no_haka_a4_1.pdf 混声合唱組曲『火垂るの墓』初演リーフレット表紙]</ref>。 |
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*混声合唱組曲『火垂るの墓』 第33回演奏会 [[神戸市役所]]センター合唱団 |
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*:2010年(平成22年)11月19日 [[神戸文化ホール]]中ホール |
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*:作曲:新実徳英。作詞:[[車木蓉子]]。 |
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*:構成は、「1.駅」、「2.火垂る」、「3.飢え」、「4.悔」、「5.愛―蛍」、「6.臨―声」の、6から成る。 |
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*:※ 被爆・終戦65周年紀念特別企画。 |
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== おもな刊行本 == |
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*『[[アメリカひじき]]・火垂るの墓』([[文藝春秋]]、1968年3月25日) |
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* 野坂昭如はこの作品を執筆していた当時、他にも小説やコラムなどの仕事を何本も抱え込んでいたと後に語っている。ひたひたと忍び寄る締め切りと何人もの担当者とのやり取りで受けるプレッシャーに晒され、まさに地獄のような日々の中でなんとか原稿を仕上げていた大変な時期だったという。また、娘の学校での宿題の「火垂るの墓の作者は、どういう気持ちでこの物語を書いたでしょうか」という問いに対し「締め切りに追われ、ヒィヒィ言いながら書いた」と答えたとテレビ番組で発言した。 |
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*:装幀:[[永田力]]。帯文:[[大佛次郎]]。 |
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* [[黒澤明]]は高畑勲が監督したアニメ映画を見て、宮崎駿の作品と勘違いし、宮崎に賞賛の手紙を送っている。受け取った宮崎は複雑な顔をしたという<ref>ラジオ「ジブリ汗まみれ」の鈴木敏夫の発言。</ref>。ただ、一番好きだという訳ではなく、一番最近の作品(の中ではよかった)ということで褒めていたのだと、娘が語っている。 |
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*文庫版『アメリカひじき・火垂るの墓』([[新潮文庫]]、1972年1月30日。改版2003年) |
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*:カバー装画:[[近藤喜文]]、[[山本二三]]、[[保田道世]]。付録・解説:[[尾崎秀樹]]。 |
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*限定豪華版『火垂るの墓』([[成瀬書房]]、1978年6月21日) |
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*:あとがき:野坂昭如。 |
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*:収録作品:アメリカひじき、火垂るの墓 |
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*:限定200部。[[毛筆]]署名落款 |
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*アニメ絵本『火垂るの墓』([[新潮社]]、1988年5月) |
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*:絵:近藤喜文、[[百瀬義行]]。詩:[[田村隆一]]。 |
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*大型アニメ絵本『火垂るの墓』([[徳間書店]]、1988年8月) |
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*:監督:[[高畑勲]]。 |
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*朗読CD『火垂るの墓』(新潮社、2001年7月25日) |
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*:朗読:[[橋爪功]]。CD1枚。76分。 |
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*:収録内容:火垂るの墓、野坂昭如談話 |
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*英文版『The Grave of the Fireflies』(Tate Pub & Enterprises Llc、2009年) |
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== 脚注 == |
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== 参考文献 == |
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*文庫版『[[アメリカひじき]]・火垂るの墓』(付録・解説 [[尾崎秀樹]])([[新潮文庫]]、1972年。改版2003年) |
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*『人間の記録 第188巻―野坂昭如: アドリブ自叙伝』([[日本図書センター]]、2012年) |
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== 関連項目 == |
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2013年8月10日 (土) 06:03時点における版
火垂るの墓 Grave of the Fireflies | ||
---|---|---|
著者 | 野坂昭如 | |
イラスト | 装幀:永田力 | |
発行日 | 1968年3月25日 | |
発行元 | 文藝春秋 | |
ジャンル | 短編小説 | |
国 |
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言語 | 日本語 | |
形態 | 上製本 | |
ページ数 | 230 | |
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『火垂るの墓』(ほたるのはか)は、野坂昭如の短編小説。野坂自身の戦争原体験を題材に、浮浪児兄妹の餓死までの悲劇を独特の文体で描いた作品である。1967年(昭和42年)、雑誌『オール讀物』10月号に掲載された。同時期発表の『アメリカひじき』と共に翌春に第58回(昭和42年度下半期)直木賞を受賞した。単行本は1968年(昭和43年)3月25日に文藝春秋より『アメリカひじき・火垂るの墓』として刊行された。現行版は新潮文庫より刊行されている。翻訳版はAlycia Davidson訳(英題:Grave of the Fireflies)をはじめ、各国で行われている。
『火垂るの墓』を原作とした同名タイトルの映画(アニメーション、実写)、漫画、テレビドラマ、合唱組曲などの翻案作品も作られており、特にアニメーション映画は一般的にも人気の高い作品となっている。
概要
兵庫県神戸市と西宮市近郊を舞台に、戦火の下、親を亡くした14歳の兄と4歳の妹が終戦前後の混乱の中を必死で生き抜こうとするが、その思いも叶わずに栄養失調で悲劇的な死を迎えていく姿を描き、愛情と無情が交錯する中、蛍のように儚く消えた二つの命を、関西弁を生かした粘っこい饒舌かつ無駄のない緻密な文体で表現し、独特の世界観を醸し出している[1][2]。
物語の構成は、駅構内で死んだ主人公の少年の腹巻の中から発見されたドロップ缶を駅員が放り投げると、缶の中から小さい骨のかけらが転げ出し、その遺骨が少年の妹の骨であることの説明から、時間がカットバックで神戸大空襲へ戻り、そこから駅構内の少年の死までの時間経過をたどる印象的で自然な流れとなっている[1]。
作品背景
『火垂るの墓』のベースとなった戦時下での妹との死別という主題は、野坂昭如の実体験や情念が色濃く反映された半ば自伝的な要素を含んでおり、1945年(昭和20年)6月5日の神戸大空襲により自宅を失い、家族が大火傷で亡くなったことや、焼け跡から食料を掘り出して西宮まで運んだこと、美しい蛍の思い出、1941年(昭和16年)12月8日の開戦の朝に学校の鉄棒で46回の前回り記録を作ったことなど、少年時代の野坂の経験に基づくものである。
また野坂は戦中から戦後にかけて二人の妹(野坂自身も妹も養子であったため、血の繋がりはない)を相次いで亡くしており、死んだ妹を自ら荼毘に付したことがあるのも事実である。しかしながら西宮の親戚の家に滞在していた当時の野坂は、その家の美しい娘に夢中であり、幼い妹・恵子(物語とは異なりまだ1歳6ヶ月で、8月22日に疎開先の福井県で亡くなった)のことなどあまり気にかけることなく、中学生らしい淡い初恋に心をときめかせていたという。また食糧事情は悪かったものの、小説のようなひどい扱いは実際には受けておらず、家を出て防空壕で生活したという事実はない[3]。
野坂は、まだ生活に余裕があった時期に病気で亡くなった上の妹には兄としてそれなりの愛情を注いでいたものの、家や家族を失い、自分が面倒を見なくてはならなくなった下の妹のことはどちらかといえば疎ましく感じていたと認めており、泣き止ませるために頭を叩いて脳震盪を起こさせたこともあったという[4]。西宮から福井に移り、さらに食糧事情が厳しくなってからはろくに食べ物も与えず、その結果として、やせ衰えて骨と皮だけになった妹は誰にも看取られることなく餓死している[5]。こうした事情から、かつては自分もそうであった妹思いのよき兄を主人公に設定し、平和だった時代の上の妹との思い出を交えながら、下の妹・恵子へのせめてもの贖罪と鎮魂の思いを込めてこの作品を著したのである。なお、「節子」という名は野坂の亡くなった養母の実名である。
野坂は妹について次のように述べている。
あらすじ
1945年(昭和20年)9月21日、清太は省線三ノ宮駅構内で衰弱死した。清太の所持品は錆びたドロップ缶。その中には妹・節子の小さな骨片が入っていた。駅員がドロップ缶を見つけ、無造作に草むらへ放り投げる。地面に落ちた缶からこぼれ落ちた遺骨のまわりに蛍がひとしきり飛び交い、やがて静まる。
太平洋戦争末期、兵庫県武庫郡御影町[6](現在の神戸市東灘区)に住んでいた4歳の節子とその兄である14歳の清太は6月5日の神戸大空襲で母も家も失い、父の従兄弟の嫁で今は未亡人である兵庫県西宮市の親戚の家に身を寄せることになる。
最初のうちは順調だった共同生活も戦争が進むにつれて、二人を邪魔扱いする説教くさい叔母との諍いが絶えなくなっていった。居心地が悪くなった清太は節子を連れて家を出ることを決心し、近くの満池谷町の貯水池[7]のほとりにある防空壕[8]の中で暮らし始めるが、配給は途切れがちになり、情報や近所付き合いもないために思うように食料が得られず、節子は徐々に栄養失調で弱っていった。清太は畑から野菜を盗んだり、空襲で無人の人家から物を火事場泥棒し、時には見つかり殴られながら飢えをしのいだ。やがて日本が降伏し戦争は終わった。敗戦を知った清太は、父の所属する連合艦隊も壊滅したと聞かされショックを受ける。
節子の状態はさらに悪化し、清太は銀行から貯金を下ろして食料の調達に走るが、既に手遅れで、幼い妹は終戦7日後の8月22日に短い生涯を閉じた。節子を荼毘に付した後、清太は防空壕を後にして去っていくが、彼もまた栄養失調に侵されおり、身寄りもなく三ノ宮駅に寝起きする戦災孤児の一人として野垂れ死んだ。清太は他の2、30体の死体と共に荼毘に付され、無縁仏として納骨堂へおさめられた。
直木賞の選評
『アメリカひじき』と一緒に受賞し、審査員の評価は総じて高いもので、反対派はいなかった。
海音寺潮五郎は、「大坂ことばの長所を利用しての冗舌は、縦横無尽のようでいながら、無駄なおしゃべりは少しもない。十分な計算がある。見事というほかはない」[2]と評し、「後者(火垂るの墓)の結末は明治調すぎて、古めかしすぎて乗って行けなかったが、自伝的なものがありそうだから、こうせざるを得なかったのであろう」[2]と述べている。
水上勉は、「出来がよく、野坂氏の怨念も夢もふんだんに詰めこまれて、しかも好短篇の結構を踏み、完全である。感動させられた」[2]と述べ、松本清張は、「私の好みとしては『アメリカひじき』よりも『火垂るの墓』をとりたい。だが、野坂氏独特の粘こい、しかも無駄のない饒舌体の文章は現在を捉えるときに最も特徴を発揮するように思う」[2]と評している。
川口松太郎は、「直木賞作家の本命とはいい難く、君の技量は逆手だ。文章のアヤの面白さに興味があって事件人物の描写説得は二の次になっている」[2]とし、「野坂君が独特の文体の上に、豊かな内容をもり込む作家になってくれたらそれこそ鬼に金棒だ」[2]と助言をしている。
大佛次郎は、「この装飾の多い文体で、裸の現実を襞深くつつんで、むごたらしさや、いやらしいものから決して目を背向けていない」[2]とし、「作りごとでない力が、底に横たわって手強い」[2]と評している。柴田錬三郎は、「さまざまの話題をマスコミにまきちらし乍ら、とにもかくにも、文壇へふみ込んで来たその雑草的な強さは、敬服にあたいする。私は、『火垂るの墓』に感動した。劇作者的文章が、悲惨な少年少女の最後を描いて、効果をあげたことは、われわれ実作者に深く考えさせるところがあった」[2]と述べている。
エピソード
後年、野坂は執筆していた当時のことを、他にも小説やコラムなどの仕事を何本も抱え込み、ひたひたと忍び寄る締め切りと何人もの担当者とのやり取りで受けるプレッシャーに晒され、まさに地獄のような日々の中でなんとか原稿を仕上げていた大変な時期だったと振り返り、娘の学校での宿題の、「火垂るの墓の作者は、どういう気持ちでこの物語を書いたでしょうか」という問いに対し、「締め切りに追われ、ヒィヒィ言いながら書いた」と答えたと、テレビ番組で発言している。
アニメーション映画化
火垂るの墓 | |
---|---|
監督 | 高畑勲 |
脚本 | 高畑勲 |
原作 | 野坂昭如 |
製作 | 佐藤亮一 |
出演者 |
辰巳努 白石綾乃 |
音楽 | 間宮芳生 |
編集 | 瀬山武司 |
製作会社 | スタジオジブリ |
配給 | 東宝 |
公開 |
![]() |
上映時間 | 88分 |
製作国 |
![]() |
言語 | 日本語 |
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/thumb/2/2b/Hotarunohaka3427.jpg/180px-Hotarunohaka3427.jpg)
石屋川にて
同名のアニメ映画『火垂るの墓』(英題:Grave of the Fireflies)が、新潮社の製作で1988年(昭和63年)4月16日から東宝系で公開された。制作はスタジオジブリ、監督・脚本は高畑勲。挿入歌としてアメリータ・ガリ=クルチの「埴生の宿(原題:Home, Sweet Home)」が使われた。
現在進行形のストーリーではなく、幽霊になった清太によるナレーションで過去のことを思い出しているものである。原作をほぼ忠実になぞっているが、後半部分の演出、特に節子の死のシーンの描写などはアニメオリジナルである(原作では、清太が池で泳いでいる間に死んでいる)。清太の死は冒頭で描かれ、ラストで山を降りた後が冒頭のシーンに繋がるといういわゆるループである。
作中で画面が赤くなる時は、清太と節子の幽霊が登場し近くで見ており、記憶を何度も繰り返し見つめていることを意味する[9][10]。ただしアニメ絵本ではこの部分は大幅に省略され、ラストで現代社会のビルを見ている二人が赤い状態の幽霊であることを示唆する場面があるのみである。なお、アニメ絵本は概ね映画本編を忠実になぞっているが、唐突に出て来た台詞、行動、場面等の説明がなされている。
キャスト
清太の声を担当した辰巳努は当時16歳、節子の声を担当した白石綾乃は当時6歳で、共に作品舞台と同じ関西地区の出身者である。また清太、節子の母の声を担当した志乃原良子も大阪出身である。他にも、同じ関西が舞台である高畑勲の作品『じゃりン子チエ』に出演経験のある山口や表淳夫も含めた関西出身の俳優が多数出演しており、本職のアニメ声優はほとんど起用されていない。
- 清太 - 辰巳努
- 14歳(中学3年)。劇中で、通っていた神戸市立中は空襲で全焼したことが清太により言及。家も焼け出され、母も死去し、清太は幼い妹・節子と共に西宮の親戚の家に行くが、叔母と折り合いが悪く妹と共にその家を出る。衰弱する妹に食べ物を与えるため必死になるが、栄養失調で妹を失い、自身も三宮駅構内で衰弱死する。アニメ映画では死の直前、意識が朦朧としても節子のことを考えていた。盗みを始めた理由についてアニメ絵本では節子が病気になりかかっているので「なんとかしなければならないと思ったため」という記述がある。
- 節子 - 白石綾乃
- 4歳。清太の妹。母の言葉や着物のことを覚えている。清太から母が亡くなったことは聞かされず、病院に入院していると誤魔化されていたが、中盤で、実は叔母から母が既に亡くなったことを聞き、知っていたことが判明する。栄養失調のため体に汗疹ができたり、髪には虱がついていた。その影響で徐々に目も虚ろになり焦点もあっておらず、死の直前は清太の言葉もほとんど通じていなかった。この際、おはじきをドロップと思って舐めたり、石を御飯だと勘違いするほど思考力が落ちていた。スイカを食べた後、目を覚ます事はなく遺体は清太によって荼毘にふされ、遺骨はドロップの缶に納められた。
- 清太・節子の母 - 志乃原良子
- 兄妹の母親。心臓が悪い(原作においては節子を出産した後に心臓病を患ったと説明されている)。気立ての良い、上品な美人。二人より先に防空壕に行こうとしていた際に空襲に被災、全身に大火傷を負い重篤となる。包帯も取れない状態で、腕の一部が焼け蛆虫がついており、清太が駆けつける直前に昏睡状態に陥り、そのまま死亡。清太は節子に真実を話すことができず、「西宮の回生病院に入院している」ことにしている。なお、原作では母の遺骨は布引町近くの春日野墓地に埋葬されていることになっている。アニメ映画では、清太は母の遺骨を納めた箱を叔母の家についた直後に庭に隠している[11]。清太が持っていた7,000円の貯金は「母がもしもの時のために銀行に預けてくれていたものである」と劇中では言及。
- なお、清太が泥棒で捕まり、殴られた際に節子が清太にかけた言葉は、原作では「母の口調」とあり、アニメ絵本では「母が昔、節子が泣く度に言った台詞」と書かれている。母親の登場シーンは事実上、冒頭のみで後は回想シーンなどで登場する。清太が回想した母と節子と海に行った場面は劇中では特に説明がないが、アニメ絵本や原作の記述によると1年前の出来事とされている。
- 親戚の叔母さん - 山口朱美
- 西宮在住。清太と節子を一時的に引き取る。当初はうまくいっていたが、次第に諍いが絶えなくなる[12]。原作では「未亡人」とも表記され、清太の父親の従弟が夫だった。清太と節子を預かることは清太の言及によると約束になっていたようであり、叔母の言動から母も叔母の家に疎開する予定だった模様。原作ではお互い空襲で家が焼けたら身を寄せ合う約束だったと記され、アニメ絵本でも、状況によっては叔母が清太達の家に疎開する可能性も示唆されている。勝手に出て行ったのは清太達で叔母は直接的に追い出す言動は取っていないが、引き止めもせずにせいせいし、原作では、二人を疫病神と呼び、「横穴へ住んどったらええ」と言っている。
- 清太・節子の父
- 兄妹の父親。海軍大尉。戦争に出征しているため、劇中では写真と回想シーンでのみ登場する。モデルは野坂の実父とされる。清太は昔、父の観艦式を見たと言及しており、節子が生まれる前から、海軍にいたことが示唆されている。この観艦式は原作では1935年(昭和10年)10月となっている。なお父が乗り込んだとされる高雄型重巡洋艦摩耶は1944年(昭和19年)10月のレイテ沖海戦でフィリピンのパラワン水道において米潜水艦の魚雷攻撃を受け沈没していることから、清太達が父の帰りを待ち望んでいた1945年(昭和20年)には既に死亡しているものと推測される。
- 叔母さんの娘
- 女学生。三つ編みの清楚な風貌の少女。節子に下駄をプレゼントする、母が自分達の食器にだけ米を盛り清太と節子には雑炊しか与えなかった際は居心地の悪そうな素振りを見せる描写がある。
- 叔母宅の下宿人
- 学生。眼鏡をかけた、真面目そうな青年。劇中で名前は呼ばれておらず絵コンテ集で確認できる。叔母に愛想を尽かされ庭で煮炊きする清太・節子を気の毒がる素振りを見せるが、下宿人という立場からか積極的な擁護まではしなかった。叔母の台詞では勤労奉仕に熱心に参加している模様。原作では、家には娘と、商船学校在学中の息子・幸彦と、神戸税関に勤めている下宿人がおり、下宿人は闇の食料ルートに詳しく缶詰などを持ってきて、叔母の娘の気をひこうとしている。
- 役名表記無し
- 端田宏三、酒井雅代、野崎佳積、松岡与志雄、金竹雅浩、柳川清、真木一、表淳夫、はりた照久、田中弘史、伝法三千雄、玉生司朗、中村正、関田美香、宮本毬子、松本淳、松田春子、上田恵子、竹岡和彦、鰺坂貴代美、上野真紀夫、平松豊和、森脇京子、嶋谷隆司、真田隆次、邦保、加治春雄、安満敏子、小林誠、沢田憲一、隈本晃俊、国分郁男、横山祐介、房本佳長、谷本幸士郎、守屋真人、中山鉄朗、藤田尚樹、城野正富美、伴鉄、木下真喜子、行原千酷、黒川裕子、川口真由美
スタッフ
- 原作:野坂昭如(新潮文庫版)
- 製作・企画:佐藤亮一
- 音楽:間宮芳生
- 挿入歌:「埴生の宿」(原題「Home Sweet Home」)
- 歌:アメリータ・ガリ=クルチ(日本盤発売元 BMGビクター株式会社)
- キャラクターデザイン・作画監督:近藤喜文
- レイアウト・作監補佐:百瀬義行
- 美術監督:山本二三
- 撮影監督:小山信夫
- 音響監督・音響演出:浦上靖夫
- 作監助手:保田夏代
- 原画:石井邦幸、羽根章悦、森友典子、大谷敦子、河内日出夫、奥山玲子、山内昇寿郎、高野登、木上益治、高坂希太郎、岡田敏靖、桜井美知代、酒井明雄、石黒育、小川博司、賀川愛、梅津泰臣、庵野秀明、才田俊次、大関紀子
- 動画チェック:尾沢直志、矢吹英子
- 動画:吉野高夫、堀内博之、神原よし美、原佳寿志、平田英一郎、金子昌司、辻繁人、鍵島仁史、柴田志朗、成田達司、栗田務、稲田浩、高野亜子、小須田ひろみ、川原良江、西戸スミエ、片山雄一、鈴木まゆみ、河内由美、入江篤、山田みどり、太田世彦、佐藤伸子、本橋明美、藤本真弓、小川祐子、佐久間敬子、反田誠二、飯沼卓也、大内正彦、斉藤百合子、西山映一郎、田辺修、木田葉子、井坂純子、長岡みどり、武井智子、塩原智恵子、江野沢柚美、米山幸子、福土多鶴子、古沢英明、嘉村弘之、佐藤文 動画工房、OH!プロダクション、ドラゴンプロダクション、グループライナス、スタジオぽっけ
- 美術助手:久村佳津
- 背景:小関睦夫、平田秀一、菱山徹、樋口法子、田村盛揮、金箱良成、中座洋次、橋爪ふきこ、須藤栄子、平川栄治、伊奈淳子
- 特殊効果:谷藤薫児
- キャラクター色彩設計:保田道世
- 仕上検査:小川典子、柏倉由里子
- 仕上:古谷由実、松下友紀子、大武恭子、岩切紀親、西牧道子、高橋直美、波部真由美、渡辺信子、町井春美、久保田滝子、田原とし子、浅井美穂子、高木夕紀、七海礼子、石田君江、設楽久子、原田徳子、山口やす子、大野恵津子、佐久間芳美、中田信子、市川由美子、佐久間多恵子、米井ふじの、宮川はれみ、青木利栄、堀井まつ子、吉川孝男、平井静子、佐野信子、五十嵐信子、志岐和恵、町田千恵子、伊勢田美千代、青沼麗子、柴田美知子、佐藤英子、平沼和枝、中山伊久江、豊永真一、別部真奈美、服部由美、完甘幸隆、小菅 勉、五十嵐淳子、細谷明美、安井理絵、斉藤冨美子、高砂芳子、吉川潤子、阿部穂美 スタジオキリー、スタジオディーン、龍プロダクション、IMスタジオ、トレーススタジオM、ボビー企画、スタジオ古留美、スタジオOZ、スタジオ九魔、童夢舎、スタジオシャフト、スタジオエンジェル、スタジオトムキャット、セルアーツスタジオ
- 撮影:ラッキーモア 岡崎英夫、小沢次雄、影山篤志、伊藤真司、谷口直之、阿部雅司、大地丙太郎
- 編集:瀬山武司
- 編集助手:足立浩
- 音響効果:大平紀義、伊藤道広(E&Mプランニングセンター)
- 整音:大城久典
- 制作担当:上田真一郎
- 制作デスク:押切直之
- 演出助手:須藤典彦
- 録音制作:オーディオ・プランニング・ユー
- 録音スタジオ:A.P.Uスタジオ
- 現像:東京現像所
- 制作:スタジオジブリ
- プロデューサー:原徹
- 脚本・監督:高畑勲
キャッチコピー
賞歴
- 日本カトリック映画大賞
- ブルーリボン特別賞
- 文化庁優秀映画
- 国際児童青少年映画センター賞
- シカゴ国際児童映画祭・最優秀アニメーション映画賞を受賞。同映画祭の子供の権利部門第1位に選出。
- 第1回モスクワ児童青少年国際映画祭・グランプリを受賞。
製作の経緯
映画『火垂るの墓』は、1988年(昭和63年)の公開時、宮崎駿監督作品『となりのトトロ』と同時上映されているが、先に企画された『となりのトトロ』は、当初、60分程度の中編映画として企画されており、単独での全国公開は難しかった[13]。そこで同時上映作品として高畑勲監督作品『火垂るの墓』の企画が決定したという経緯が伝えられている。
最終的に、両作とも上映時間は90分近くなり、長編2本体制で公開された。アニメ映画界の二大巨頭の代表作、しかも作風も物語も印象も全く相反する内容の作品を一緒に観ることができたが、当時としてみれば地味な素材であった上、東宝宣伝部が消極的だったことや[14]、高畑・宮崎両監督の一般的な知名度も現在ほどではなく、公開日が春休み後の中途半端な時期でもあったため、配給収入は5.9億円と伸び悩んだ。評論家からは好評で『キネマ旬報』誌の日本映画ベストテンでは6位に食い込んでいる。
両映画の制作はスタジオジブリで同時に進行した。東映動画でも長編作品を2本同時進行したことはなかったといい、高畑・宮崎の信頼に耐える主要スタッフ(アニメーター)は限られており、人員のやりくりに制作側は苦慮することになった[15]。特に揉めたのが作画監督の近藤喜文の処遇であった。結果として宮崎側が新しく参入したスタッフを中心に制作したのに対し、高畑側は近藤や美術監督の山本二三など旧知のベテランを集めた。
当初は両作とも60分であったが、高畑の『火垂るの墓』の時間が長くなると、対抗するように宮崎の『となりのトトロ』の時間も延び[16]、結果的に長編2本の同時進行となった。質を落としたくない高畑勲は公開の延期を申し出たが、1988年(昭和63年)4月の公開時点で清太が野菜泥棒をして捕まる場面など未完成のシーンが残ったままとなり、その部分は色の付かない白味・線撮りの状態で上映された(ただし、悲惨なシーンであるために事情を知らない観客には演出効果に感じられ、ほとんど話題にならなかった)。公開後も制作を続け、後に差し替えられている。
わずかながらも未完成のままでの劇場公開という不祥事に、高畑勲はいったんアニメ演出家廃業を決意したが、後に宮崎駿の後押しを受けて1991年(平成3年)に『おもひでぽろぽろ』で監督に復帰することになる(おもひでぽろぽろも『火垂るの墓』と同じように現在進行形のストーリーではなく過去の思い出しである)[17]。
徳間書店社長・徳間康快の要請を受け、野坂の原作小説を文庫として販売している新潮社が『火垂るの墓』の出資・製作となっている。新潮社がメディアミックスで映像製作に携わる初めてのケースとなった。こうした経緯もあって、ビデオやLDは徳間系列ではないパイオニアから発売され、その後リリースされたDVDも、ジブリ作品としては例外的にワーナーの扱いとなっていた(新潮社との契約が満了した2008年(平成20年)8月以降はブエナビスタから再発されている)。2012年(平成24年)4月にはBlu-ray Disc版が発売された。
監督の意図
高畑勲は、本作品について「反戦アニメなどでは全くない、そのようなメッセージは一切含まれていない」と繰り返し述べたが、反戦アニメと受け取られたことについてはやむを得ないだろうとしている。高畑は、兄妹が二人だけの閉じた家庭生活を築くことには成功するものの、周囲の人々との共生を拒絶して社会生活に失敗していく姿は現代を生きる人々にも通じるものであると解説し、特に高校生から20代の若い世代に共感してもらいたいと語っている[18][19]。
時代描写
高畑勲のリアリズム志向により、1945年(昭和20年)当時の風景が忠実に再現された[20]。作画に参加した庵野秀明が、神戸港での観艦式(清太の回想)の場面の軍艦(高雄型重巡洋艦「摩耶」)を出来るだけ史実に則って描写する事を求められ、舷窓の数やラッタルの段数まで正確に描いたという逸話が残されている。もっとも完成した映画ではすべて影として塗り潰され、庵野の努力は徒労に終わった[21]。
また、登場人物の会話は関西出身の俳優や声優を起用したネイティヴな関西弁である。「キイキ悪い(体調が悪い、病気の意)」、「(二本松の)ねき(脇、近くという意味)」などといった現在ではほとんど使われることがなくなった古い表現も、原作小説のままに使用されている。ただ、いわゆる神戸弁ではなく、大阪弁に近い言い回しに統一されている点が異なる。
テレビ放映
日本テレビ系列で放送されている『金曜ロードショー』では1989年 - 1991年は3年連続、以降は2年に一度(奇数年)、8月の終戦の日前後にこの作品を放映するのが恒例となっている。その中で1990年(平成2年)と2007年(平成19年)は清太の命日である9月21日、1997年(平成9年)と2003年(平成15年)は節子の命日である8月22日に放映されている。しかし奇数年である2011年(平成23年)は放送がなかった。これは、2年に1度やることによって視聴率が徐々に低下し始めたことや、その年の終戦の日前後と、清太と節子の命日が金曜日ではなかったことによると思われる[要出典]。
反響・評価など
『となりのトトロ』のような楽しいアニメを見ようと映画館を訪れ、楽しいトトロを見た後に『火垂るの墓』を見て、衝撃を受ける、涙が止まらない、茫然自失で席から立ち上がれない観客が続出したという[22]。そのため、「上映の順番を逆にしてくれればよかったのに」という声も少なくなかった(一部映画館では先に火垂るの墓が上映されている館もあった)[要出典]。
また、舞台となった西宮市の西宮回生病院、香櫨園浜、夙川駅、夙川公園、ニテコ池(貯水池)、神戸市の御影公会堂や御影小学校、石屋川などを、モデルとなった場所を訪ねる人は絶えず、地域史研究の一環として地元の教育委員会が見学会を催すこともある。尚、ニテコ池へは阪神電鉄西宮駅より阪神バスの「山手線」もしくは「鷲林寺線」で「満池谷(まんちだに)」下車すぐである(ここには巨大な墓地と火葬場がある)。但し、舞台の一つである阪急三宮駅については、公開後に発生した阪神・淡路大震災により建物が全壊し、仮設駅舎として再建されている。
日本で「ジブリがいっぱいCOLLECTION」シリーズとして発売されたセルビデオは、40万本を出荷した[23]。また海外でも多く視聴されており、英国の映画雑誌『エンパイア』誌が発表した「落ち込む映画ベスト10」の第6位にランクインされた。
黒澤明は『火垂るの墓』を見て感動するが、宮崎駿監督の作品と勘違いしてしまい、宮崎に賞賛の手紙を送っている。受け取った宮崎は複雑な顔をしたという[24]。ただ、一番好きだというわけではなく、一番最近の作品の中ではよかったということで褒めていたのだと、娘が語っている[誰?]。
パロディ・その他
![]() | この節は中立的な観点に基づく疑問が提出されているか、議論中です。(2012年5月) |
- 中川家はコント内で、剛が節子、礼二が清太役を演じ、弱った節子が物を要求、だが清太は名前が似ているだけの物を持ってきて、節子がのり突っ込みした後違うことに気付き、清太が「それ○○やない、○○や〜」とぼけるネタを披露した。
- 陣内智則は自身の「さお竹売り」というタイトルのコント内で、期末試験の勉強中の学生が、「節子と清太の一人二役を演じ同情を誘い、さお竹を売りつけようとしたさお竹売り」にキレて、さお竹売りの演技には騙されなかったものの結局ラストでは騙され、竿だけを売りつけられるというネタを披露した。
- 『KAMEN RIDER DRAGON KNIGHT』に登場するアルバートが関西弁で「兄ちゃん」と言うシーンは、日本語吹き替え版を担当した村井良大によると、関西ということで本作の節子の言い回しを参考にしたと明かしている[25]。
テレビドラマ化
終戦60年スペシャルドラマ『火垂るの墓―ほたるのはか―』として2005年(平成17年)11月1日の21:00 - 23:54に日本テレビ系列で放送された。『ドラマ・コンプレックス』第一弾番組でもある。
撮影は当時の風景を可能な限り再現するために、神戸周辺のみならず日本各地をロケして行われた。視聴率は21.2%を記録した。アニメでは描写されなかった部分(清太達の名字、父親がいかにして戦争に出掛けたか、叔母が清太達を引き取ることになった経緯、清太が通う学校描写)が描かれた。本編のDVDは2006年(平成18年)2月22日発売された。
なお、ドラマ版の製作に当たって、野坂昭如は「ドラマは、原作を離れて自由である。ぼくの小説が戦後60年経った現在、違う形となり、今を生きる人たちに、戦争の惨たらしさを少しでも伝えられれば、原作者として有難いこと」とのメッセージを寄せている。
キャスト(ドラマ)
- 親戚の叔母。京子に頼まれ清太と節子を預かり当初は好意的に接していたが、源造が戦死し食べ物を自分の子供たちに与える為諍いが絶えなくなっていき、なつには「鬼」と比喩された。冒頭の2005年(現代)では95歳で大往生を迎え死去し、遺骨を拾われた。
- 澤野 源造 - 伊原剛志
- 久子の夫、大工。1943年、「必ず生きて帰ってくる」と家族に伝え出征。その後、現地で戦死。中盤で吉岡 利之により戦死通告が届く。
- 澤野 なつ/光村 恵子 - 井上真央
- 久子の長女/現代のなつの孫(二役)
- 澤野 善衛 - 要潤
- 源造の末弟で足が悪く杖を使用している。戦争終了後、老人に絡まれている清太を助けた後、久子に貯金を取り上げられそのまま家を後にする。
- 澤野 はな - 福田麻由子
- 久子の次女
- 久子の長男
- 吉岡 利之 - 生瀬勝久
- 町の駐在。澤野源蔵の出征の際の行事に参加し、戦士通告を久子に届けた。よろず屋の主人に殴られ警察に連れて行かれた清太を久子に引き渡した。清太達が二人で生活していると聞くと「戦争中に子供二人だけで生きていくなんて無理やで」と驚いていた。
- よろず屋の主人。澤野源蔵の出征の際には泣いていた。
- 自分で飯を作ることになった清太に金額を負け、「何があったか知らんけど意地をはったらあかんで」と説く。実は息子も戦争で戦死しているため自分の店に盗みに入った清太が自分の息子と同じく海軍の父を持つので情けないという理由で自分の手も怪我をするほど殴っていた。
- 松井 素子 - 岡本麗
- 栄作の妻
- 横川 清 - 沢村一樹
- 清太・節子の父、海軍大佐。1943年夏、出征の際に息子の清太に自分の代わりに大黒柱として母の京子と妹の節子を守り抜くよう言い聞かせた。戦争終了後、実は既に死亡していたことが判明する。
- 横川 京子 - 夏川結衣
- 清太・節子の母
- 光村 なつ - 岸惠子
- 現代のなつ
スタッフ(ドラマ)
- 原作:野坂昭如(「火垂るの墓」 新潮文庫刊)
- 脚本:井上由美子
- 音楽:沢田完
- VFXスーパーバイザー:小田一生
- タイトルバック演出:丹下紘希(イエローブレイン)
- エンディングテーマ:Bank Band 「生まれ来る子供たちのために」
- プロデューサー:村瀬健
- 演出:佐藤東弥
- 広報:神山喜久子
- 音楽協力:日本テレビ音楽
- 美術協力:日本テレビアート
- 制作協力:日テレ映像センター・トータルメディアコミュニケーション
- 製作・著作:日本テレビ
撮影協力
- 兵庫県神戸市
- 兵庫県立神戸高等学校(神戸市灘区)
- 神戸上高丸団地(神戸市垂水区)
- 岡山県備前市
- 岡山県高梁市成羽町
- 広島県福山市鞆町(鞆の浦)
- 広島県竹原市
- 長野県諏訪郡原村
- 山梨県西八代郡上九一色村
- 栃木県
- 岡山県真庭郡久世町(現・真庭市)
- 大井川鐵道株式会社
- 兵庫県西宮市 ほか
実写映画化
2008年(平成20年)7月5日公開。黒木和雄監督により企画が進行していたが、黒木の死去により、黒木を師と仰ぐ日向寺太郎が監督となった。叔母役の松坂慶子は事実上の悪役ということから一度はオファーを断ったと告白している。
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/b/b5/Akitani_Pond_Grave_of_the_Fireflies_%E7%A7%8B%E8%B0%B7%E6%B1%A0%EF%BC%88%E5%85%B5%E5%BA%AB%E7%9C%8C%E8%A5%BF%E8%84%87%E5%B8%82%E9%BB%92%E7%94%B0%E5%BA%84%E7%94%BA%E5%96%9C%E5%A4%9A%E5%AD%97%E7%A7%8B%E8%B0%B7%E5%8F%A3%EF%BC%89_%E7%81%AB%E5%9E%82%E3%82%8B%E3%81%AE%E5%A2%93_DSCF3656.jpg/230px-Akitani_Pond_Grave_of_the_Fireflies_%E7%A7%8B%E8%B0%B7%E6%B1%A0%EF%BC%88%E5%85%B5%E5%BA%AB%E7%9C%8C%E8%A5%BF%E8%84%87%E5%B8%82%E9%BB%92%E7%94%B0%E5%BA%84%E7%94%BA%E5%96%9C%E5%A4%9A%E5%AD%97%E7%A7%8B%E8%B0%B7%E5%8F%A3%EF%BC%89_%E7%81%AB%E5%9E%82%E3%82%8B%E3%81%AE%E5%A2%93_DSCF3656.jpg)
全ての撮影が舞台となる兵庫県内で行われた。池の土手を歩くシーンや池辺で飛び交う蛍をとる印象的なシーンは、西脇市黒田庄町喜多字秋谷口の秋谷池[1]で撮られた。メイキングのDVDは公開同年の8月8日、本編DVDは翌2009年(平成21年)3月27日発売。
特徴
アニメ映画とは異なり、登場人物による回想を廃止し、現在進行形のストーリーに変更している。一部原作でのみ描かれた部分、本作オリジナルの部分も多い[26]。また、清太は喘息を持病に持ち、剣道が得意という設定が追加された。原作では駅で亡くなっていたが、実写映画では一人で生きようと雨の中歩き、倒れるところで物語は終了し生死不明となる。[27][28]。
原作やアニメ映画などでは、当初はうまく行っていた叔母の家での共同生活が次第に悪くなる展開だったが、実写映画は最初から最後まで叔母の態度が悪い。「家に置くのを追い返そうとするも食料を持っていたことから態度を変えて置く」流れで共同生活が始っている[29]。叔母の夫は直接は登場しないもの「半年前に亡くなった」と言及され、日向監督の考えで戦死通告は死亡した時期より遅れて届いたことになっている。
清太の父の消息(生死)については特に触れられていない。なお、日向監督は、「姓名は亡くなった人物にだけ付ければいい」との考えで、作中で亡くなった人物にしか姓名は設定されていない(最終的に生死不明である清太は除く)。このことから、清太の父は姓名が設定されていないため、生きているのではないかとも言える。
原作、アニメ映画などでは空襲の被災により意識不明のまま亡くなった母を、実写映画では一瞬だけ意識を取り戻し、その後亡くなると言う形へ変更している。これに伴い叔母の家に向かう場面をやや変更し、到着するまでの道順が初めて描写された。また、今までは最初しか出番がなかった清太の地元の町内会長や西宮に住む原作の登場人物などがクローズアップされオリジナル化されて、今まではあまり描かれなかった清太と他者との交流シーンが大幅に追加されている。
キャスト(映画)
- 清太 - 吉武怜朗
- 節子 - 畠山彩奈
- 雪子(清太の母) - 松田聖子
- 本城 雅夫 - 江藤潤
- 清太の父 - 高橋克明
- 高山 道彦 - 山中聡
- 本城 君枝 - 千野弘美
- 本城 昭子 - 谷内里早
- 本城 和子 - 鈴木米香
- 未亡人の息子 - 萩原一樹
- 未亡人の娘 - 矢部裕貴子
- 若い未亡人 - 池脇千鶴
- 町会長(西宮) - 原田芳雄
- 町会長(御影) - 長門裕之
- 未亡人(清太の親戚) - 松坂慶子
スタッフ
- 監督:日向寺太郎
- 製作:石川博/川城和実/桐畑敏春/久松猛朗/横倉信夫/鈴木ワタル
- プロデューサー:伊藤成人/河野聡/南條昭夫/磯田修一
- 脚本:西岡琢也
- 音楽:Castle In The Air(谷川公子+渡辺香津美)
- 撮影:川上皓市
- 照明:水野研一
- 録音:久保田幸雄
- 美術監修:木村威夫
- 美術:中川理仁
- 編集:川島章正
- ヘアメイク:小堺なな
- 製作:『火垂るの墓』パートナーズ
- 配給:パル企画(2008/カラー/35mm/100分/ビスタサイズ)
漫画化
『火垂るの墓』は滝田ゆうにより漫画化されている。
- 『怨歌劇場』(ぱる出版、1993年10月20日)
- 絵:滝田ゆう。原作:野坂昭如。
- ※ 『火垂るの墓』をはじめ、野坂の12編の短編が漫画化されている。
- 宙コミック文庫 漢文庫シリーズ『怨歌劇場』(宙出版、2007年1月25日)
- 絵:滝田ゆう。原作:野坂昭如。
合唱組曲化
2010年(平成22年)に、新実徳英により混声合唱組曲が作られている[30]。
- 混声合唱組曲『火垂るの墓』 第33回演奏会 神戸市役所センター合唱団
おもな刊行本
- 『アメリカひじき・火垂るの墓』(文藝春秋、1968年3月25日)
- 文庫版『アメリカひじき・火垂るの墓』(新潮文庫、1972年1月30日。改版2003年)
- 限定豪華版『火垂るの墓』(成瀬書房、1978年6月21日)
- あとがき:野坂昭如。
- 収録作品:アメリカひじき、火垂るの墓
- 限定200部。毛筆署名落款
- アニメ絵本『火垂るの墓』(新潮社、1988年5月)
- 大型アニメ絵本『火垂るの墓』(徳間書店、1988年8月)
- 監督:高畑勲。
- 朗読CD『火垂るの墓』(新潮社、2001年7月25日)
- 朗読:橋爪功。CD1枚。76分。
- 収録内容:火垂るの墓、野坂昭如談話
- 英文版『The Grave of the Fireflies』(Tate Pub & Enterprises Llc、2009年)
脚注
- ^ a b 尾崎秀樹「解説」(文庫版『アメリカひじき・火垂るの墓』)(新潮文庫、1972年。改版2003年)
- ^ a b c d e f g h i j 「第58回直木賞(昭和42年度下半期)選評」(オール讀物 1968年4月号に掲載)
- ^ a b 野坂昭如「私の小説から 火垂るの墓」(朝日新聞 1969年2月27日号に掲載)。のち『アドリブ自叙伝』(筑摩書房、1980年。日本図書センター、1994年と2012年に復刊)に所収
- ^ 「プレイボーイの子守唄」(婦人公論 1967年連載)
- ^ 野坂昭如「五十歩の距離」(『野坂昭如エッセイ集1 日本土人の思想』)(中央公論社、1969年)
- ^ 清太・節子一家が住んでいたとされるのは、武庫郡御影町大字御影字上中・字上西。現在の神戸市東灘区御影本町六丁目・八丁目あたりである。
- ^ 現在の夙川公園北東部付近にある貯水池(ニテコ池)がモデル。
- ^ ニテコ池のほとりに実在した壕。野坂自身もたびたび避難したという。
- ^ 冒頭に出てくる二人と、新しくなるドロップの缶は幽霊になったイメージ、幽霊の節子が三宮の駅で倒れる過去の清太の所に行こうとしたのをもう一人の清太が制止するのは「自分も(幽霊になり)ここにいるから心配しなくていい」と言う意味、電車に乗り叔母の家まで行くのは、「過去を思い出しに行く」とも言えるシーンで、「死人に口なし」という事もことわざもあるように幽霊の清太は冒頭とラストを除き喋らない。
- ^ 1988年5月号『アニメージュ』の高畑勲監督の発言、ジブリレイアウト展の音声解説より
- ^ 中盤の兄妹二人の言及から既に墓に納骨されていることが示唆されているという見方もある。
- ^ 実際の野坂が疎開した先の叔母は映画のように態度が悪くなっていない。
- ^ 叶精二『宮崎駿全書』フィルムアート社、2006年、p113
- ^ 叶精二『宮崎駿全書』フィルムアート社、2006年、p123
- ^ 鈴木敏夫『映画道楽』ぴあ、2005年、p101-p102
- ^ 鈴木敏夫『映画道楽』ぴあ、2005年、p107-p108
- ^ 『魔女の宅急便』TV初公開時の宮崎駿の発言
- ^ 『アニメージュ』1988年5月号に掲載インタビュー
- ^ 高畑勲『映画を作りながら考えたこと』(徳間書店、1991年)471頁
- ^ ただし、空襲時の警防団員の描き分けや警察官の制服の生地色や正肩章の装着、佩剣が乗馬勤務者用のものであり釣環の数も多い、略帽を着用していないなど、資料が偏る傾向もみられる。
- ^ 竹熊健太郎編『庵野秀明 パラノエヴァンゲリオン』太田出版、1997年、p69-p70
- ^ 竹熊健太郎編『庵野秀明 パラノエヴァンゲリオン』太田出版、1997年、p72
- ^ 日経BP社技術研究部 『進化するアニメ・ビジネス―世界に羽ばたく日本のアニメとキャラクター』日経BP社、2000年、47頁。ISBN 4822225542
- ^ ラジオ「ジブリ汗まみれ」の鈴木敏夫の発言。
- ^ 2010特撮ニュータイプ3月号インタビューより
- ^ これは原作においても過去を思い出す人物がいないとは言え、清太が亡くなるところから始まるので、現在進行形での展開はその意味でも初めてでもある。
- ^ 倒れたことが「死んだ」のかは劇中の描写及び日向監督のインタビューでも明確にはされていない。
- ^ 当初の日向監督のインタビューでは「倒れた後、立ちあがる」というラストでそのシーンも撮影されていたと語られておりおそらく尺の都合でカットされたことになる。
- ^ 家に預かるということを、原作やアニメ映画版とテレビドラマ版では最初から承知していたが、実写映画版はなぜか知らなかった様子である。
- ^ 混声合唱組曲『火垂るの墓』初演リーフレット表紙
参考文献
関連項目
外部リンク
- 終戦60年スペシャルドラマ「火垂るの墓 -ほたるのはか-」
- 実写 映画『火垂るの墓 -ほたるのはか- 』公式ホームページ
- 火垂るの墓の舞台を訪ねる
- 野坂昭如と自伝小説
- 火垂るの墓 - 金曜ロードショー(2009年8月14日放送分)
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