郡寺(ぐんじ[1]、ぐんでら[2])は、飛鳥時代から奈良時代にかけて、日本各地で造られた古代寺院の一種である。郡名を冠する「郡名寺院」を指す場合もあれば、評衙跡や郡衙跡が近接する「評・郡衙寺院」を指す場合もあるなど、研究者によってその定義は異なる[3]。また、郡寺が公的な性格を有するかどうかも議論となっている[3]。平安時代中頃には、ほとんどが廃寺となったため、不明な点が多い。[要検証 – ノート]
郡寺論の端緒となったのは、1946年に発表された田中重久の「郡名寺院」論である[3] 。郡名寺院とは、郡名で呼ばれる地方寺院のことである[3]。その後、山中敏史は、郡衙の周辺に寺院が多数存在することに着目し、これらの寺院を考古学の見地から「評・郡衙周辺寺院」と呼んだ[3]。また、櫻井信也は、日本史学の見地から「評・郡衙隣接寺院」と呼んだ[3]。
こうした郡寺は各地の郡司層の関与のもとで造営されたと考えられるが、これらの寺院が公的な色彩を持っていたとする議論には批判もある[3]。
郡寺の主要な諸説は以下のようなものがあるという[4]。
- 氏寺説:同系氏族の長が建て、その子孫により、帰衣相伝された祈願所・寺院。氏族寺や私寺とも呼ばれる。
- 公寺説:郡司の氏寺であり、公的機能を伴ったとする説
- 知識寺説:渡来人などを含めた、複数の氏族による施設とする説
- 準官寺説:郡司を核に、知識寺機能に公的・官寺的機能があるとする説
三舟隆之は、氏寺説以外の説を批判しつつ「今後の研究の進展に期待する」とした[5]。後に三舟は、神郡には古代寺院が存在しない(小規模な仏堂のぞく)と指摘した[6]。
釈迦の死後、その遺骨(仏舎利)が信仰の対象となり、それを納めた「八仏塔」が造られた。マウリヤ朝アショーカ王は「八万四千」と表現されるまでに多くの仏塔をインド亜大陸各地に建てた[8]。
中国大陸・漢時代、漢字の「寺」は「役所」の意味であった。西域から多くの僧侶が鴻臚寺などに滞在したことで現在の意味となっていった[9]。西域から来た仏図澄は、893の寺を建てさせた。
北魏・太武帝の仏教弾圧(三武一宗の法難の第一)の後、文成帝 (北魏)は、郡県に官立寺院を造営し、隋を建てた文帝(楊堅)は、新都・大興城内に大興善寺と玄都観(道教)を置き、45州に大興国寺と114カ所に仁寿舎利塔を建てさせた。この仁寿 (隋)年間の頃に最初の遣隋使が送られている。
唐を建てた高祖(李淵)は京師に三寺二観、諸州に寺観各一所にまとめようとしたが、玄武門の変により中止、高宗は諸州に寺観各1カ所を置き、武則天による大雲寺、中宗による大唐中興(後に龍興寺)、そして玄宗は各州の寺を開元寺と改名した[10]。
東アジアでは、北魏・永寧寺、百済・弥勒寺、新羅・皇龍寺(慶州歴史地域)、日本・百済大寺と「九重塔」が国力を示す象徴として造られた。郡寺を含めた日本の古代寺院でも塔心礎が見つかっている[11]。
日本・古代仏教は、祖先信仰の氏族仏教、王統護持の宮廷仏教、鎮護国家の国家仏教、現世利益の民衆仏教と多層からなり、それらが併存していたと考えられる[12]。古代寺院の場所は「河合の地」など交通の要衝となる所に造られ、平地にある寺院の相当数が「山」を意識した場所にあるとの指摘がある[13]。また、古代仏教寺院には、軍事的要素があったとの指摘[14]がある。
ジュニア向けの歴史本には「各地で古墳をつくってきた地域の一部の豪族が、評家をもうけ、寺院の建立を行っていくことが、この時代の新しい動きです。[15]」と書かれている。
元明天皇の詔より作られた各国の風土記は、ほとんどが失われた。ほぼ完全に現存する出雲国風土記には、「寺」・「新造院」・「堂」について記述がある[16]。
出雲国風土記によると、意宇郡舎人郷・教昊寺のみ、「寺」として記載がある。創建者である僧・教昊の法号がつけられた寺で、安来市の野方廃寺が最有力である。出土した瓦は7世紀・第4四半期と島根県内で最古となり、新羅系といえる文様が見られたという。
「新造院」は出雲国風土記には郡家からの方位・距離や造営者(7院が郡司層)などが記載されていることから、島根県古代文化センターは、新造院を国家に寺として認可してもらうための施設だと有力視している。ほかに、716年の寺院併合例(続日本紀)後に新たに造られた施設だとする説がある。
「堂」は、日本霊異記の記述から、瓦葺きでない村落内寺院とされ、出雲では神社と併設されることがあった。
山田寺式、川原寺式、法隆寺式など、畿内寺院の瓦文様を持つ瓦が出土することが特徴となっている[17]。
墨書土器などに見られる「大寺」については諸説ある。畿内では天皇発願の寺院を指し[18]、地方では尊称として使われていたとされる[19]。
斑鳩宮と若草伽藍を初めに、日本の都城と寺院が「同一の地割り上に乗っていた」との指摘がある。他にも百済宮と百済大寺、大津京と南滋賀廃寺・崇福寺跡、藤原京と本薬師寺・大官大寺があり、官衙は律令と儒教のシンボル、寺院は仏教のシンボルであり、漢字が結びつけていたとの指摘がある[20]。
『地方官衙と寺院 -郡衙周辺寺院を中心として-』の中で山中敏史は、孝徳天皇(在位645年〜654年)から天武天皇(在位673年〜686年)前半までを前期評段階、天武天皇後半から文武天皇(在位697年〜707年)までを後期評段階、8世紀第1四半期を初期郡段階と仮称した[21]。
評造(評督、助督など)・郡司(大領、少領など)を務めた豪族が、寺院を建てることによって、中央との仕奉を示すとともに、中央からの先進的技術・物・思想を持ち込み、評・郡内での支配を強化しようとしたと考えられる[22]。
天平19年(747年)11月の「国分寺造営督促の詔」により、造営体制を国司から郡司層に移行させたとされる。実際、武蔵国分寺や下野国分寺からは、国内の郡すべての文字瓦などが発掘され、美濃国分寺(在地豪族の氏寺か)、能登国分寺(大興寺)、若狭国分寺(太興寺廃寺)には前身といえる寺院があった[23]。また、定額寺に指定された寺院は郡寺クラスが多かったとの指摘がある[24]。
10世紀後半、国司制度が受領制(請負制)になると郡衙は一斉に無くなる[25]。それに伴い、ほとんどの郡寺が廃寺に追い込まれたと考えられる[26]。
岐阜県博物館の特別展で[30]「全国的にも寺院と郡家が近接する位置にセットで存在することが明らかになっている。飛鳥・奈良時代の郡の支配において、官衙とともに寺院が大きな役割を果たしたことを示しており、今後、寺院跡が見つかっていない多藝郡などにおいても新たに見つかる可能性は大きい。また、逆に寺院跡の近辺からは郡家が見つかる可能性もある」との指摘がある。
郡寺は、各郡1寺が存在する国(伊賀国など)、各郡に郡寺が存在しない国(丹後国など)、各郡に複数寺院が存在する国(摂津国嶋上郡など)、郡寺が確認できていない国(伊勢国度会郡など)等がある[31]。一覧表は、奈良文化財研究所(2005)『地方官衙と寺院』等を参考に作成したものである[32] 。
郡名 |
比定郡衙 |
比定寺院 |
根拠・備考
|
平群郡 |
|
平群寺(平隆寺:県史跡) |
『興福寺官務牒疏』
|
吉野郡 |
|
吉野寺(比蘇寺) |
『日本書紀』欽明14年5月是月条
|
高市郡 |
|
和田廃寺 |
墨書土器「大寺」
|
忍海郡 |
|
|
唯一:地光寺跡(忍海漢人)
|
郡名 |
比定郡衙 |
比定寺院 |
根拠・備考
|
安宿郡 |
円明遺跡 |
安宿寺(円明廃寺) |
墨書土器「安宿寺」「安寺」
|
錦部郡 |
|
錦部遺跡(細井廃寺?) |
『歓心寺勘録縁起資材帳』
|
古市郡 |
|
古市寺(西琳寺) |
『西琳寺文永注記』
|
讃良郡 |
|
更荒寺(讃良寺跡) |
『とはずがたり』巻2
|
茨田郡 |
|
茨田寺(中山観音寺跡か高瀬寺跡) |
『聖徳太子伝私記』
|
若江郡 |
|
若江寺跡 |
『尊意贈僧正伝』
|
河内郡 |
皿池遺跡群 |
河内寺廃寺(国史跡) |
廃寺跡は史跡公園
|
石川郡 |
|
|
新堂廃寺(国史跡)
|
交野郡 |
倉山 |
周辺に長宝寺 |
|
渋川郡 |
|
|
渋川廃寺(阿刀氏?)
|
志紀郡 |
舟橋遺跡? |
|
|
丹比郡 |
平尾遺跡? |
丹比廃寺? |
後に丹南郡・丹北郡・八上郡
|
- 和泉国(716年に和泉監、757年に立国)は、27の古代寺院推定地があり、最古は秦廃寺(貝塚市、大鳥郡)である[34]。
郡名寺的として、阿拝郡に三田廃寺、伊賀郡が財良寺跡、名張郡が夏見廃寺、山田郡に鳳凰寺廃寺があるという[37]。
- 伊勢国 (飛鳥・白鳳寺院数:約20カ所[33])、吉備池廃寺に似た、額田廃寺(桑名郡と員弁郡の境)が最古の可能性が高い[38]。
- 尾張国の最古は、後に国分寺に転用された尾張元興寺で、瓦(重圏文縁素弁蓮華文)は、飛騨・寿楽廃寺や信濃・明科廃寺にもみられる。[40]
郡名 |
比定郡衙 |
比定寺院 |
根拠・備考
|
渥美郡 |
存在を推定 |
市道遺跡 |
|
郡名 |
比定郡衙 |
比定寺院 |
根拠・備考
|
敷智郡 |
城山・伊場遺跡 |
存在を推定 |
|
磐田郡 |
|
磐田寺(寺谷廃寺?) |
『日本霊異記』中巻 第31
|
長田郡 |
永田遺跡群 |
木船廃寺 |
709年に長上郡・長下郡に分離
|
- 駿河国 静岡市埋蔵文化財センターの展示によると静岡県内最古は尾羽廃寺跡である。
- 相模国 「古瓦散布地も寺院跡を示すものと見做すならば、各郡に1寺か2寺が存在したことになる。」との指摘がある[43]。
郡名 |
比定郡衙 |
比定寺院 |
根拠・備考
|
海上郡 |
西野遺跡 |
今富廃寺 |
|
武射郡 |
嶋戸東遺跡 |
武射寺(真行寺廃寺) |
墨書土器「武射寺」
|
望陀郡 |
祇園・長須賀古墳群 |
上総大寺廃寺 |
|
畔蒜郡 |
丹過遺跡? |
|
唯一:真里谷廃寺
|
周准郡 |
外箕輪遺跡? |
九十九坊廃寺が近接 |
|
夷隅郡 |
|
|
唯一:岩熊廃寺
|
山辺郡 |
|
|
大椎廃寺と小食土廃寺のみ
|
郡名 |
比定郡衙 |
比定寺院 |
根拠・備考
|
栗太郡 |
岡遺跡 |
霊山寺遺跡? |
『西宮記』巻8 群行
|
甲賀郡 |
|
甲賀寺跡 |
『続日本紀』天平16年11月壬申条
|
滋賀郡 |
|
志我山寺(崇福寺跡) |
『続日本紀』大宝元年8月甲辰条
|
野洲郡 |
小篠原遺跡? |
益須寺跡 |
『日本書紀』持統8年3月己亥
|
蒲生郡 |
御前館遺跡? |
蒲生寺 |
『聖徳太子伝私記』
|
犬上郡 |
|
犬上寺 |
『左経記』寛仁3年10月29日条
|
犬上郡 |
竹ヶ鼻遺跡? |
廃寺が隣接(犬上寺?) |
|
浅井郡 |
|
浅井寺跡 |
『華頂要略』巻第55上
|
神崎郡 |
大郡遺跡? |
|
|
愛知郡 |
長野遺跡? |
|
|
坂田郡 |
大東遺跡? |
廃寺が隣接 |
|
伊香郡 |
井口遺跡? |
華寺廃寺が隣接 |
|
高島郡 |
日置前遺跡? |
廃寺が隣接 |
|
郡名 |
比定郡衙 |
比定寺院 |
根拠・備考
|
大野郡 |
|
三仏寺廃寺 |
ヘラ書き文字瓦「大寺」
|
荒城郡 |
上町遺跡? |
|
|
郡名 |
比定郡衙 |
比定寺院 |
根拠・備考
|
新田郡 |
天良七堂遺跡(国史跡) |
寺井廃寺 |
|
緑野郡 |
|
緑野寺(浄法寺) |
『続日本後紀』承和元年5月乙丑条
|
佐位郡 |
三軒屋遺跡(佐位郡正倉跡:国史跡) |
上植木廃寺 |
|
吾妻郡 |
|
|
唯一:金井廃寺(東吾妻町指定史跡)
|
邑楽郡 |
「大泉町古永」想定 |
東矢島廃寺 |
|
多胡郡 |
多胡碑周辺 |
|
|
- 武蔵国は771年後に東海道となる。最古は寺谷廃寺(埼玉県比企郡滑川町)である[54]。勝呂廃寺(坂戸市、入間郡)は、物部直広成一族が郡司になったことで氏寺から郡寺へと性格が変わったと書かれている[55]。高麗郡衙の付属寺院として女影廃寺 (日高市)が造られたと書かれている[56]。
郡名 |
比定郡衙 |
比定寺院 |
根拠・備考
|
丹生郡 |
府中城跡 |
大虫廃寺 |
|
郡名 |
比定郡衙 |
比定寺院 |
根拠・備考
|
加賀郡 |
加茂遺跡 |
加茂廃寺 |
|
郡名 |
比定郡衙 |
比定寺院 |
根拠・備考
|
古志郡 |
八幡林官衙(国史跡、長岡市) |
|
702年まで越中国
|
頸城郡 |
栗原遺跡(妙高市)? |
|
702年まで越中国
|
郡名 |
比定郡衙 |
比定寺院 |
根拠・備考
|
何鹿郡 |
青野南 |
綾中廃寺 |
綾部市資料館・展示
|
氷上郡 |
市辺遺跡 |
三ツ塚廃寺 |
|
- 但馬国は三宅廃寺(豊岡市、袴挟遺跡が出石郡家?但馬国府?)と七美郡殿岡廃寺(香美町)である。
- 因幡国 白鳳時代から奈良時代:11カ寺(智頭郡のみ見当たらず)[62]、鳥取県で最古は大御堂廃寺、野方・弥陀ヶ平廃寺のいずれかである[63]。
郡名 |
比定郡衙 |
比定寺院 |
根拠・備考
|
八上郡 |
万代寺遺跡 |
土師百井廃寺(国史跡) |
|
気多郡 |
上原遺跡 |
寺内廃寺・上原南遺跡 |
|
高草郡 |
|
|
唯一:菖蒲廃寺
|
巨濃郡(岩井郡) |
|
|
唯一:岩井廃寺
|
郡名 |
比定郡衙 |
比定寺院 |
根拠・備考
|
明石郡 |
吉田南遺跡? |
太寺廃寺 |
|
賀茂郡 |
|
河合廃寺? |
他に広渡廃寺[66]
|
賀古郡 |
溝之口遺跡 |
周辺に野口廃寺 |
|
揖保郡 |
小神芦原遺跡? |
周辺に小神廃寺 |
|
佐用郡 |
長尾・沖田遺跡? |
長尾廃寺が隣接 |
|
印南郡 |
塩田遺跡? |
|
中西廃寺と山角廃寺のみ
|
詫賀郡 |
思い出遺跡 |
多哥寺遺跡(量興寺の前身) |
|
飾磨郡 |
|
|
播磨国分寺・尼寺ふくめ5寺跡
|
神崎郡 |
|
|
唯一:溝口廃寺
|
宍粟郡 |
|
|
唯一:千本屋廃寺
|
赤穂郡 |
|
|
唯一:与井廃寺
|
郡名 |
比定郡衙 |
比定寺院 |
根拠・備考
|
苫田郡 |
美作国府の前身 |
|
|
英田郡 |
高本 |
江見廃寺 |
|
勝田郡 |
勝間田・平遺跡 |
存在を推定 |
|
久米郡 |
宮尾遺跡 |
久米廃寺(岡山県史跡) |
|
- 備中国を含めた吉備最古の本格寺院として秦原廃寺(総社市、下道郡)がある[70]
郡名 |
比定郡衙 |
比定寺院 |
根拠・備考
|
英賀郡 |
小殿遺跡 |
英賀廃寺 |
|
賀夜郡 |
近接を想定 |
栢(かや)寺廃寺 |
郡名寺院
|
窪屋郡 |
三須河原遺跡 |
三須廃寺が隣接 |
|
都宇郡 |
幸利神社周辺? |
惣爪廃寺が近接 |
備中国分寺・尼寺
|
浅口郡 |
|
|
唯一:占見廃寺
|
小田郡 |
|
|
唯一:関戸廃寺
|
後月郡 |
|
|
唯一:寺戸廃寺
|
郡名 |
比定郡衙 |
比定寺院 |
根拠・備考
|
高宮郡 |
郡山城下町遺跡・郡山大通院谷遺跡? |
|
|
和歌山県立博物館の展示によると、7世紀後半の古代寺院として最上廃寺跡など15カ所あるという。
津名郡に志筑廃寺(淡路島最古)、三原郡に山惣廃寺がある。
郡名 |
比定郡衙 |
比定寺院 |
根拠・備考
|
板野郡 |
黒谷川宮ノ前遺跡 |
|
法輪寺と大唐国寺跡
|
名方郡 |
|
石井廃寺(徳島県史跡)? |
896年に名西郡と名西郡に分離
|
那賀郡 |
|
立善廃寺? |
715年に勝浦郡が分離
|
美馬郡 |
|
郡里廃寺跡(国史跡)? |
860年に三好郡が分離
|
- 土佐国 は8世紀初めまでの建立例として比江廃寺(国史跡)や秦泉寺廃寺や大寺廃寺がある[74]。
郡名 |
比定郡衙 |
比定寺院 |
根拠・備考
|
三井郡 |
|
三(井)寺(ヘボノ木遺跡) |
墨書土器「三寺」
|
郡名 |
比定郡衙 |
比定寺院 |
根拠・備考
|
玉名郡 |
立願寺遺跡 |
塔の尾廃寺 |
|
託麻郡 |
神水遺跡 |
水前寺廃寺 |
|
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- 帝塚山大学考古学研究所[編]『シンポジウム報告書 天武・持統朝の寺院造営 -西日本-』2007年
- 帝塚山大学考古学研究所[編]『シンポジウム報告書 天武・持統朝の寺院造営 -東日本-』2008年
- 梶原義実「国分寺研究における諸問題」『名古屋大学文学部研究論集(史学)』55号、2009年
- 小畑ら4名「Jr.日本の歴史① 国のなりたち」小学館 2010年
- 木村ら7名『新アジア仏教史 06 仏教の東伝と受容』佼成出版社 2010年
- 三舟隆之『日本古代の王権と寺院』名著刊行会 2013年
- 大津ら5名『岩波講座 日本歴史 第3巻』岩波書店 2014年
- 加藤謙吉[編]『日本古代の王権と地方』大和書房 2015年
- 佐藤信[編]『古代東国の地方官衙と寺院』山川出版社 2017年
- 梶原義実『古代地方寺院の造営と景観』吉川弘文館 2017年
- 鈴木ら3名[編]『日本古代の道路と景観 -駅家・官衙・寺-』八木書店 2017年
- 大橋泰夫「古代国府の成立と国郡制」吉川弘文館 2018年