観音寺 (京田辺市)

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観音寺
Kannnonnjioomidou
本堂
所在地 京都府京田辺市普賢寺下大門13
山号 息長山
宗派 真言宗智山派
本尊 十一面観音国宝
創建年 伝・白鳳年間
開山 伝・義淵
開基 伝・天武天皇(勅願)
中興年 伝・天平16年(744年
正式名 観音寺
別称 普賢寺、大御堂
文化財 十一面観音菩薩立像(国宝)
法人番号 9130005008942 ウィキデータを編集
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観音寺(かんのんじ)は、京都府京田辺市にある真言宗智山派寺院。山号は息長山。本尊は十一面観音。別名は普賢寺大御堂大御堂観音寺など。

歴史[編集]

伝承によれば、白鳳年間(7世紀後半)、天武天皇の勅願により法相宗の僧・義淵により創建された観心山親山寺が始まりと伝えられる。その後、天平16年(744年)、聖武天皇の命で東大寺初代別当の良弁が中興し[1]、息長山普賢教法寺と寺名を改めている。

その後、奈良東大寺実忠が入寺し、宝亀9年(778年)には五重塔を建てたという[2]。法相宗・三論宗華厳宗の三宗を兼ね、七堂伽藍は壮麗を極めて「筒城の大寺」と呼ばれる大寺院となった。古代・中世には普賢寺と呼ばれている。延暦13年(794年)の火災以後、たびたび火災に遭い藤原氏の援助によりその都度復興されたが、藤原氏の衰退とともに寺運も衰えた。

永享9年(1437年)には大御堂をはじめ諸堂13、僧坊20あまりを数えた建物のほとんどが焼失した。その後、復興されたが永禄8年(1565年)の焼失後は大御堂一宇を残すのみとなった[1]

大御堂裏の丘陵上には塔の礎石が残り、7世紀から8世紀の古瓦が出土することから、ここが古代普賢寺の遺構と推定されている[3]

境内[編集]

  • 大御堂(本堂) - 1953年昭和28年)3月に再建。
  • 庫裏
  • 庭園
  • 地祇神社 - 鎮守社。
  • 鐘楼

文化財[編集]

国宝[編集]

  • 木心乾漆十一面観音立像 - 像高172.7cm。奈良時代、8世紀の作。一木造の心木の上に木屎漆(こくそうるし)を盛り上げて造形した木心乾漆造で、この技法は奈良時代から平安時代初期に多用された。頭上面の一部や台座蓮肉部も当初のものである。同じ木心乾漆造になる奈良・聖林寺の十一面観音像としばしば比較される[2]

所在地[編集]

  • 京田辺市普賢寺下大門13

交通アクセス[編集]

公共交通機関
  • 近鉄京都線三山木駅片町線(学研都市線)JR三山木駅より
    • 徒歩30分。
    • 奈良交通バス90系統「水取」行き、または91系統「高船」行きで7分、「普賢寺」停留所下車。両系統合わせて1日6便の運行である。
      • 100系統「同志社大学デイヴィス記念館」行きの方が、便数が1時間に1~2便と多いが、終点から900mの徒歩移動を要する。また、同志社大学休講日は減便される。
    • タクシーの場合は1,000円程度。ただし、駅前に常駐していないため呼び出す必要がある。
  • 近鉄京都線新田辺駅より
    • 奈良交通バス101・102系統「同志社大学デイヴィス記念館」行き、終点から900m。1時間に1~2便運行。同志社大学休講日は減便される。
自動車

脚注[編集]

  1. ^ a b 『日本名刹大事典』、p.128
  2. ^ a b 『週刊朝日百科 日本の国宝』75号、p.8 - 147
  3. ^ (若林、2006)、p.35

参考文献[編集]

書籍

  • 『週刊朝日百科 日本の国宝』75号、朝日新聞社、1997
  • 毎日新聞社編『仏像めぐりの旅 4 京都(洛北・洛西・洛南)』、毎日新聞社、1993
  • 圭室文雄/編『日本名刹大事典』雄山閣出版、1992年。
  • 若林邦彦「古代寺院普賢寺の建物・基壇跡について」『同志社大学歴史資料館館報』10、2006(参照:同志社大学歴史資料館サイト)

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

座標: 北緯34度47分43.2秒 東経135度45分42.8秒