椿井文書

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椿井文書(つばいもんじょ[1]、別名:木津文書)とは、旧山城国相楽郡椿井村[2]明治時代の木津町のある旧家[3][4]で、あるいは、江戸時代後期に椿井政隆(1770-1837)によって作成、販売された[5][6]とされる神社仏閣の縁起書[7]、由緒書[8]や境内図である[9]

椿井文書が作られた背景には国学思想の隆盛と社格制度などがあったと考えられるが[10][11]、中には神社の伝承を加味したものもあり、一概に切り捨てがたいものもあるとされる[12]。「古文書」には広狭二義があり「広義の場合には、古い書類すなわち古記録、系図や、時には古典籍までをも含めていうことがある[13][14]狭義には「古文書とは、厳密には差出人と宛先が記されたもので、それらが伴わない古記録とは区別される。したがって、ある人の署名や花押や印鑑と称して差出人を偽装しているのが偽文書ということになる。そのため、例えば寺歴や社歴を虚飾した由緒書や家の歴史を粉飾した系図などは、厳密には偽文書に含まれない。[15]」という[16]。由緒書とは家や職能などの起源、由来、系譜などを訳したもの、縁起とは寺社草創の由来や神仏霊験譚で[17]、随分と偽作があるものの、それらは信仰心を伝えるもので歴史を伝えるものではなく、かたや椿井文書は悪意で作られたものであるという[18]

椿井文書に関する記録[編集]

明治23年(1890年)[19]、滋賀県内の宮司家に生まれた中村直勝は「次の点には触れずに置こうと、いろいろと勘考したのであるが、やはり、後世を誤る倶れがあるから、短言しておくこととする[7]」と、明治30年(1897年)前後頃の京都府南部木津町の椿井家[20][18]、明治35年(1902年)前後頃の木津の今井家[21]での由緒書の製造販売の様子について詳細に記している。

明治4年(1871年)頃から政府は政祭一致を目指し神職の人事権を掌握し社格の制度を設け、主に無社格となった神社を中心に廃止、統合を進めた。各神社は社歴調査に努めなければならなくなり「明治三十年前後-私の小学校時代のこと-(中略)せいぜいが小学校を卒業した程度の地方神職に、そうした歴史の調査ができるはずはなく比較的上等であった親父でさえ五里霧中で」[20]、由緒を求めて国文学の教授や和歌の師匠へ訪問してまで苦心する。「そのとき南山城の木津に椿井(つばい)という旧家があって、そこに行けば、どんな神社の縁起書でもあるという噂が立」ち[22]「地方の神社に対して、その社歴でも調査せしめたものか、滋賀県下の神職連は、寄ると触ると、自分の奉仕しておる神社の由緒調査について、苦い談を交わしておった[23]」という状況下でも「〔中村〕の〔〕の奉仕した神社は貧乏であったから、木津まで〔縁起書〕を探しに行かなかったが[24]」、多くの神職たちが木津を訪れたという。地方の神社の神職達や寺社へ椿井家[22]と今井家[21]は大量に所蔵している中から探し出すという建前で「時には、今迄知れておる社歴の一部を、彼等に語らせ[25]」注文主の財産状況を見定め上等下等の由緒、縁起、境内図等を製造販売したという[7][9]。販売された椿井文書について「しかし内容は万更、虚構でないこともある。興福寺東大寺春日社等の古記録が、種本ではないか[9]」と中村は評している。

馬部隆弘は、中村直勝が椿井文書について「明治三十年頃に山城国木津町に住んでおった椿井氏の秘庫中から探し出されたもの」と述べている点に関して、それは誤解であり、中村は今井家から流出した椿井文書について、流出の実態までは伝聞でしか知らなかったのであろうと指摘しているが[26]、他方researchmapの2020年5月29日付の研究ブログでは、中村の誤解を指摘したうえで、「とはいえ、戦後歴史学のなかで中村氏が椿井文書に最も精通していたことは間違いありません。例えば「興福寺官務牒疏」が椿井文書であることはどうやらお見通しのようです。1973年発行の『カラー近江路の魅力』(坤)のなか、「南都興福寺―言わば藤原氏の勢力は平安時代中期以降、消耗して金勝寺には達せず」と明言しているからです。1441年のものという体裁をとる「興福寺官務牒疏」のなかで、金勝寺は近江における興福寺末寺の最大勢力として描かれており、1973年段階の学界ではそれがほぼ常識でした。その誤りを一般向けの本でさらっと一蹴するあたり、中村氏の卓見ぶりが伝わってきます。」と述べている[27]。さらに馬部は、近年は自治体史について『永源寺町史』を初見として、椿井文書を偽文書として扱うものが登場すると指摘するとともに、田中淳一郎[28]、宮崎幹也[29]、上田長生[30]、向村九音[31]などによって個別の椿井文書に関する検証も進められるようになってきたとも指摘している[32]

椿井文書の特徴[編集]

中村直勝は椿井文書の特徴を以下の様に記録している[7][9]

  • 範囲:滋賀県、奈良県、岐阜県、福井県、京都府
  • 用紙:煤で染められた間合紙
  • 書体:明朝体(職人が大量生産可能なためだと推測される)
  • 年号:承平~元亀~天正~
  • 署名:公文所誰某(例:興福寺公文所豊舜)
  • 表装:織子や安価な(紅地の)錦襴。
  • 木箱:切り口を墨で古色に塗装したもの、桐箱や春慶塗。

境内図の特徴

  • 古い奈良絵本[33][34][35]の手法
  • 地図の隅の由緒の書き込み
  • 不必要なほどの絵図への文字の書き込み
  • 朱印や印象のかわりの朱書き

椿井文書の販売[編集]

社家に生まれた中村直勝は椿井家[22]と今井家[21]での椿井文書の販売状況を聞いて下記の様に記している。椿井文書の書や絵画としての質については、一見して稚拙なものだとわかると評価しているが「溺れる者どもには藁よりも有難い縁起一巻[25]」「恐らく、全国に亙って同様なことはあったであろう。[18]」と述べている。

明治三十五年前後の事……先方の求めておるものをきき、時には、今迄知れておる社歴の一部を、彼等に語らせ、その上にて、そのようなものはあったらしいから、探しておくと言って、一旦引取らせ、注文の身分柄に応じて、上等下等の作品を作るのであるときいた。
中村直勝、[21]

滋賀県内の神社で椿井文書をみかけ、いつ頃、どこで、いくらくらいで買った物かを当てて神社側を驚かせたという[36][25]

時代背景[編集]

中村直勝は、明治35年前後に全国の地方所在の神社に社格昇格のことが流行し、地方の民社に縁起書や古文書のあろう筈も無く、何の手かがりもつかめない神職が、社格昇格を果たした神社の神職に、なぜ社歴がわかったのかと尋ねたところ、木津の今井家に行って尋ねてみたところ、由緒書があったので譲ってもらったと教えてもらい、その神職も今井家を尋ねてみた、としている[37]。また馬部隆弘は「国学の隆盛から国家神道へという流れのなかで、神社の社格が次第に重要な意味を持つようになっていく。それぞれの村においても、自村の神社の社格を意識するようになったに違いない。こうした時代背景のもと神社にまつわる椿井文書の需要は徐々に高まり、国家神道が軌道に乗るころに流出して爆発的に広まるのである。」としている[38]

馬部は、椿井政隆は国学に造詣が深く、南朝を正当とする水戸学の影響を少なからず受けているようにも見えるが、結果的に水戸学の成果を利用したと見る方が順当と思われるとする[39]。また五畿内志並河誠所に始まる延喜式神名帳の式内社を比定しようとする動きは国学と結びつきながら盛んになっていくが、椿井政隆もその一角に位置づけられ、維新後の明治政府は近世におけるこれらの議論を踏まえて式内社を確定させていったと論じている[40]。また馬部は椿井政隆の思想の根底には近代皇国史観に繋がるものがあるとする[41]

椿井政隆は式内社比定の補遺をはじめ「五畿内志」の欠を補う事を目的の一つとしていたようだと馬部は推定、その対象地域は普賢寺に集中しているという[42]

藤本孝一は田辺町にある普賢寺関白と呼ばれていた近衛基通公火墓発掘にまつわる論文の中で、椿井家の記述は江戸時代中期より流行する国学の考証学によっているのではないかと推定、椿井文書の椿井家は幕末に椿井村から田辺町へ移り住んだので、田辺町の伝承も椿井文書の関連で考える必要があろうと指摘している[43][注釈 1]

国学の隆盛[編集]

椿井文書の時代背景には、国学の隆盛から国家神道へという流れがあったという[44]。椿井文書を偽作したといわれる椿井政隆は国学に造詣が深く水戸学を利用したという[45]。椿井文書は神社仏閣の縁起書[7]、由緒書[8]や境内図他であるという[9]

寛文5年(1665年)、岡山藩主池田光政は荒神や淫祠とされた10,528神社を寄宮71社へ合祀、大社・産土社含め638社のみ存続させ、1,036カ寺のうち約6割の寺院を破却した。熊沢蕃山は排仏論を唱えた[46][独自研究?]

寛文6年(1666年)、水戸藩主徳川光圀は1098ヵ寺を処分、寛文7年(1667年)、山崎闇斎の影響を受けた会津藩主保科正之は神社再興と神仏混合の分離を行なう[47][独自研究?]

天保元年(1830年)、水戸藩は神儒合一、唯一神道化をめざした改革で念仏堂・薬師堂、村々の小祠堂・石仏・庚申塚・廿三夜塔を破却、一村一社制度を実施[48][49][独自研究?]

天保13年(1842年)、長州藩村田清風は淫祠を廃し一村一社とする改革を実行、寺社堂庵9,666、石仏・金仏12,510を破却。国学者近藤芳樹は式内社は正祀それ以外は淫祠と述べ、岩政信比古『淫祠論評』は民衆の不安が高まると批判した[50][51][独自研究?]

慶応四年(1868年)、神仏分離令がだされる。廃仏毀釈で鹿児島県では寺院は一つ残らず廃された[52][独自研究?]

王政復古……祭政一致の制に復し天下の諸神社を神祇官に属す……
慶応四年(明治元年)三月十三日,第百五十三,太政官布告、[53]
一 中古以来、某権現或は牛頭天王之類其外仏語を以神号に相称候神社不少候何れも其神社の由緒委細に書付 早々可申出候事…… 一 仏像を以神体と致候神社は 以来相改可申候事……
慶応四年(明治元年)三月二十八日,第百九十六,太政官布告、[54][55]

国家神道[編集]

椿井文書の需要が高まった時代背景には、国学の隆盛から国家神道へという流れの中での社格制定があるという[56]。椿井文書の作者と推定される椿井政隆には皇国史観につながるような思想があるという[57]

明治4年(1871年)、太政官布告第二百三十四で神社が国の宗教機関と宣言され国家神道の体制が始まり[58]、神職の人事権が国家に握られる。興福寺僧侶は復飾願いを提出し春日社の神官となり、旧来の春日社家社寺領は没収、廃寺の指令を受けた。春日社家、新神司、新社司も解職され野田の社家町は全滅、興福寺の院坊の多くも廃寺となり、仏像、仏具は破壊、売却され、経典古書類は売却、焼却、反古紙、包装紙となった[59][独自研究?]

神社の儀は国家の宗祀にて一人一家の私有にすへきに非さるは勿論の事に候処中古以来大道の陵夷に随ひ神官社家の輩中には神世相伝由緒の向も有之候へ共多くは一時補任の社職其儘沿襲致し或は領家地頭世変に因り終に一社の執務致し居り其今村邑小祠の社家等に至る迄総て世襲と相成社入を以て家禄と為し一己の私有と相心得候儀天下一般の積習にて神官は自然士民の別種と相成祭政一致の御政体に相悖り其弊害不尠候に付今般御改正被為在伊勢両宮世襲の神官を始め天下大小の神官社家に至る迄精拱補任可致旨被 仰出候事
明治四年(1871年)五月十四日太政官布告第二百三十四、[60] 

社格[編集]

国家神道下で神社の社格が次第に重要な意味を持つようになり、椿井文書の需要が高まり爆発的に拡散したと馬部は推定している[61]

明治4年(1871年)5月14日、太政官布告235号にて社格を制定。淫祠は「神典正史に被載候諸社は勿論所由ありて禁来候霊祠等は淫祠と申間敷筋に候事」と明治二年(1869年)三月五日付の松江藩伺に対する回答で説明されている[62][独自研究?]

官社以下定額及神官職員規則等別紙の通被 仰出候、尤府藩県社・郷社の分は先達て差出候明細書を以取調 区別の上追て神祇官より差図に可及候条……官幣国幣官社以外府藩県社郷社二等を以て天下諸社の等差とす右官社定額の外式内及国史見在の諸社期年検査を歴て更に官社に列すへし……
明治4年5月14日 太政官布告235号、[60]
第三十条 淫祠無檀無住の寺院を廃する事
明治四年八月十九日「大蔵省事務章程節録」、[63]

明治5年(1872年)神社の整理は教務省管轄となり「別段の由緒格式等も無の社寺にて従来及衰頻永続難渋の向等廃合の所分允当に全るの分」がその対象となったが混乱が起き通達を出した[62][独自研究?]

神社寺院合併等の儀者事由明細取調教部省へ可相伺旨第百四号布告有之候右は強て合併可致との御旨意には無の従来氏子等も無の社殿頗敗し無檀無住にて堂宇破壊し又は小社小寺に付永久取続の目途無之分は諸般故障の有無糺し廃合の適宜を勘酌し詳悉調書を以て当省へ可伺出事に候条各地方庁区区之処分無之様可致候事
教務省明治五年六月十日第六号府県、[64]

明治7年(1874年)6月10日、神社統廃合差し止めの教務省通達(達書第二十三号)が出される[65][独自研究?]

明治12年(1879年)内務省達乙第三十一号にて各管下神社寺院明細帳の様式が細かく指定されている中で「一 祭神由緒不詳と雖も古老の口碑等に存する者は其旨を記し境内遥拝所等無之者は其項を除くへし」とある[66]が、元々信憑性が不明であったり確定不能であるのが普通である由緒・口碑等への信憑性の判定に行政官は不干渉だったことが滋賀県から内務省へ宛てた史料から垣間みえる[67][独自研究?]

明治15年(1882年)4月、興福寺再興。明治18年(1885年)興福会発会。会長は九条道孝、会員は久邇二品親王近衛忠熙、元学侶の中御門胤隆他[68][独自研究?]

明治27年(1894年)2月27日、府県郷社には社司一名および社掌若干名を、また村社以下の神社にも社掌若干名を置くことが義務付けられた(勅令第二二号)[69][独自研究?]

社格の条件[編集]

社格を上げる条件は由緒・縁起の格式だけでなく、財政面でもクリアしなければならなかった。[独自研究?]

第一条 左項の一に当り、境内地六百坪以上にして、本殿、拝殿(但し同一建物にして本殿、拝殿を区画したるものを含む)、鳥居及社務所(社殿の構造、境内の風致等、其府県内の壮観にして最も有名なるもの)を具へ、現金五千円以上若くは之に相当する国債証書又は土地、及弐千戸以上の氏子を有する神社は府社若くは県社に列することを得。
第一 延喜式若くは六国史所載の神社
第二 一国の総社たりしもの
第三 祭神の功績、史上(乗)に顕著ニシテ其地方に縁故あるもの又は特別由緒ある神社
第二条 左項の一に当り、境内地五百坪以上にして、……現金参千円以上若くは……、及千戸以上の氏子を有する神社は郷社に列することを得。 第一 延喜式若くは六国史所載の……
第三条 無格社にして境内地参百坪以上を有し、……現金弐千円以上若くは……、及弐百戸以上の氏子を有する神社は村社に列することを得。

第四条 前条氏子なき神社は崇敬者を以て氏子と看倣すことを得(氏子同様の義務を負担するものにして其の名簿は町村長の証明を要す)。……
明治30年(1897年)府県郷村社昇格内規、[70]

明治39年(1906年)4月28日、神饌幣帛料公費支出(勅令第九六号)[71][独自研究?]

明治35年前後の状況[編集]

中村直勝は明治35年前後、神社に社格昇格のことが流行した中での出来事として木津の旧家での椿井文書販売状況を記録している[72]明治39年8月10日神社合祀令が出る。1898年から1916年の間に境外無格社は大阪府約8割、滋賀県約5割、奈良県約4割、京都府約2割、府県郷村社は大阪府約5割、奈良県、滋賀県、京都府約1割が消失した[73]。「三十九年より四十二年末に至る迄に、府県社、郷社、村社、無格社の数が、実に四万五千も減って居る。」[74]。全体でみれば府県社・郷社の減少はほとんどみられないが、大阪府では府郷村社は半分[73]、三重県では明治36年に1万524あった神社が大正2年には1165にまで減少した[75][独自研究?]

神社寺院仏堂の合併に因り不用に帰したる境内官有地は官有財産管理上必要のものを除くの外内務大臣に於て之を其の合併してる神社寺院仏堂に譲与することを得
神社寺院仏堂合併跡地ノ譲与ニ関スル件, 明治三九年年八月十日勅令第二百二十号、[76]

南龍子広雄・平群政隆と椿井権之輔[編集]

1926年「近江栗太郡志(卷五)」は「興福寺官務牒疏」について「一讀すれば名寺社の來由明にして得難き史料なり然れども熟讀して更に實地に就きて其記する所と對照すれば正鵠なるあり、又事實と反するものあり、全部を信據すべき記録に非ざるを知る、按ずるに正確の原本ありて後に地方人の依頼により故意に僞説を記入したるものゝ如し」と評価した[77]

1986年藤田恒春は「(水木本)元亀の起請文」の巻頭文の署名「南龍子広雄」は文政六年(1823年)版「續浪華郷友録」掲載の「南龍堂 椿井流兵学古實国学 有職及物産名廣雄字 慶龍山城泉何辺上狛士 椿井権之輔」と同一人物であろうと推定した[78]。南龍子広雄によって蒐集された「(水木本)元亀の起請文」は原本であろうと鑑定されている。

その巻頭文には「平群政隆」という署名落款が押されていた[79]。草津市惣社神社所蔵「宝光寺縁起」には「南京興福寺官務家 永賜従五位下椿井越前権介平群政隆」「大般若寺由緒書」には「平群宿禰政隆」の署名があるという[79]

自治体史掲載の地名区分によれば「上狛士 椿井権之輔」の上狛は山城町椿井(旧椿井村)ではなく山城町上狛(旧上狛村)に該当する。

「大字椿井」を中心とした一帯は北之荘、「大字上狛」の地は南之荘と呼ばれ、地元の文書では「北むら」「南むら」といわれていた。狛氏は南之荘に、椿井氏と高林氏は北之荘に、それぞれ居館をかまえていたと考えられている
ふるさと椿井の歴史、[80]

宝暦13年(1763年)「北原村絵図」では、椿井村、上狛村、北原村等の領地の区分が描かれている[81]。ただし、椿井村も含めた旧狛野荘全域を総称して「上狛」とされることもあった[82]

明治22年(1889年)4月1日は単独で新村となり、北河原村、椿井村、神童子村は併合して高麗村となった[83]

1989年高島幸次は「(水木本)元亀の起請文」は起請文著判者の一人の野村七之丞が椿井氏の出であり、南龍子広雄こと椿井権之輔は故実家としてだけでなく自らの祖先への関心ゆえに蒐集したのではないかと推測している[84]

明治15年(1882年)、普賢寺関白と称えられ天福元年5月29日(1233年7月8日)京都府京田辺市普賢寺の地で亡くなり中ノ山(法楽寺)で火葬された近衛基通の墓が、近衛篤麿により村人達が火葬の地と伝承していた場所へ立てられた。

昭和62年(1987年)、防災工事前に発掘調査が行われ、明治15年立てられた近衛基通墓の下から江戸時代後期の物とみられる家形石祠と「號(号+帍)普賢寺前摂政 近衛基通公御廟」と彫られた墓石と自然石碑が出土したが、他に遺物はなく火葬場とは判定されなかった。

家形石祠は陽明文庫所蔵「山城國綴喜郡普賢寺郷上村字元中ノ山法楽山ト云御廟従前之圖」にて描かれているが出土した物と形状が若干異なる。

藤本孝一が椿井文書である可能性を指摘した「興福寺別院山城國綴喜郡観心寺普賢教法寺四至内之圖」に貼られた付箋には実際に出土した物と同じ形状の家形石祠と、自然石碑が描かれていた[85]


1988年藤本孝一はその10数年前に京都国立博物館景山春樹が普賢寺の観音寺へ周旋した「興福寺別院山城國綴喜郡観心寺普賢教法寺四至内之圖」(正長元年(*1428年)戊申歳次三月中幹日改正之,普賢寺 学頭本願院覚範大僧都公文僧蔵之坊式部郷公俊 交衆山下中務郷重春 地頭代普賢寺宮内左衛門尉盛邦,天文貮年(*1533年)六月再画。1968年出版の田辺町史に酷似した絵図の写真が付箋と共に撮影されているが付箋の位置は異なる)は「近衛基通公火葬旧蹟」の書き込みがある、明治14年(1881年)写された、“文明14年(1482年)始図、永正6年(1509年)増補、天明8年(1788年)模写”の陽明文庫所蔵「山城国綴喜郡筒城郷惣図(山城國普賢寺郷惣圖)」(惣荘探題 多々良朝臣久盛(花押)/息長宿禰実村(花押),これと相似した「山城国綴喜郡筒城郷朱智庄佐賀庄両惣圖」が昭和43年(1968年)『田辺町史』にて掲載されている)を立体画にしたもので、

太田晶二郎の研究で紹介された沼田頼輔の干支と年月日表記についての説「年号-数字-年(歳など)-干支 の形式が古く(上代・中世)、年号-数字-干支-年(歳)は新しい(近世)[86]」に基づき天正五年(1577年)より溯らない近世の形式であると判断できる点と、

山城國普賢寺郷惣圖の方形朱印が「興福官務」であることから椿井文書ではないかという説がある「興福寺官務牒疏」が連想され、その「興福寺官務牒疏」には記載されているが他では見られない「交衆」「朱智荘」「息長」や、日本書紀の地名「筒城」が使用されている事から、断定はできないが、この二図は椿井文書ではないかと鑑定している。

椿井文書とは椿井村の椿井家で「各寺社が椿井家へ自己の寺社の由来について調査を依頼すると,椿井家では「当家伝来処」と称して縁起類を依頼主へ渡す」ものと紹介、中村直勝が近江からも訪ねていったと記録した事や、椿井文書の例として生没年未詳の椿井広雄応龍子の署名がある「飯尾山医王教寺鎮守社祭事紀巻」や椿井応龍子正群政隆の署名がある「高麗大寺圖」の写しや平群龍磨広雄の署名がある「北吉野山神童子縁起」等を紹介、いずれも表記されている年号は古いにもかかわらず「年号-数字-干支-年(歳)」という沼田頼輔の説によると、いる。

「推測するに、椿井家では縁起・絵図を作成する際、現代人が偽文書を作るような考えは全くなかったのではなかろうか。『四至内之図』も現地の景観とよく合い、作図するに当り、現地調査や史料採訪を行っていたと思える。江戸時代中期より流行する国学の考証学によっているのではなかろうか。ただし、考証に耽るあまり上代より説き付け、室町時代に至って編纂されたもののように叙述したところに、後世をまどわすものがあった。基通公廟も、幕末に椿井家が田辺町に移り住んだこともあり、現在の地の伝承も椿井文書の関連で考える必要があろう。[87]」としている。「興福寺別院山城國綴喜郡観心寺普賢教法寺四至内之圖」は元々は大西家で所蔵されていた事が判明している[88]

1989年、山城郷土資料館高橋美久二は「興福寺別院山城國綴喜郡観心寺普賢教法寺四至内之圖」を元に大西館と呼ばれている城館跡の出土物は図に「大西館」「公文所」と書かれている図と酷似していると報告している[89]

椿井政隆偽作説[編集]

椿井政隆による古文書偽作については、大正末期に中川泉三が「興福寺官務牒疏」を始めとして近江に残る絵図が椿井政隆の手になる偽作であることを把握していると、馬部隆弘は指摘している[90]

1927年、東浅井郡志の「平群懐英椿井政隆共著の淡海國輿地名略考巻十六に、八相山城は……八相縫殿助長祐の居城なり……後、長祐が織田信長に仕へ、天正年中信長の命を南都興福寺に傳へたる由にて、其古文書をも僞作して之を載せ置けり[91]」という記述にみえる椿井政隆は「興福寺衆徒の家の産にして、彼の寺社の縁起を出すを以て有名なる、木津の今井氏と姻親の関係あり[92]」と記されている。

1994年、『ふるさと椿井の歴史』は、懐英、南竜、王順と号した椿井権之輔政隆の古記録、古文書蒐集や絵画、系図、絵図、縁起書を筆写して納めた仕事を「今日の歴史研究の水準でもって確認できる事実が押さえられている一方、確実な事実と認めることのできない記述もかなり多いので、多くの研究者も歴史史料として扱いあぐねているのが現状といえよう」[93]としている。

2005年、椿井文書は木津の今井家が生産販売したのではなく山城町椿井の椿井権之丞が作ったものが今井家から流通したもので、椿井権之丞は椿井政隆(1770年 - 1837年[5][94])と同一人物であるという説が1911年三宅源治郎「郷社三之宮神社古文書伝来之記[95]」に書かれたエピソードを根拠に馬部隆弘により立てられている[96]。椿井政隆は謎多き人物で馬部もまだよくわかっていない部分があるという[97]。椿井政隆の墓を求めて山城町椿井へ行った馬部は椿井政隆の墓は発見していない[98]。ただし馬部は2019年の著書で、1816年から1818年にかけて椿井政隆は近江国蒲生郡をたびたび訪れており、偽文書を各地に残していることを指摘している[99]

飯田家文書と東大・木津町・大阪大谷大学の調査[編集]

椿井文書として配布した写しの原本は今井家から木津の飯田家へ1136件が譲渡されたという[100][101][98]

昭和10年(1935年)、東京帝国大学史料編纂所は椿井文書を中心とした飯田三次家文書の調査を行い、全体の目録を作成したほか、一部については影写本や模写本も作成している。昭和57年(1982年)からの木津町史編纂の際の再調査では東大作成目録や南山城に関するものを中心に写真撮影が行われ、飯田家の家蔵文書と新たに確認された椿井文書の目録とが作成されている[102]。飯田家所蔵の椿井文書のうち84点は大阪大谷大学図書館が2019年度に購入し、大阪大谷大学博物館から目録[100]が公刊されている。84点のうち[1~63]が椿井文書に該当し、残る[64-84]は椿井政隆が蒐集した文書と判断されるという[103]。またこの目録には、先に述べた東京帝国大学史料編纂所や木津町教育委員会が作成した目録も、あわせて収録されている[104]。東京大学史料編纂所データベースでは西法寺文書(西法寺;京都市上京区)に合綴された飯田文書(影写本)や竜松院文書(東大寺図書館)に合綴された興福寺文書(影写本)等が見える。

椿井権之丞と今井家[編集]

1911年、三宅源治郎が「郷社三之宮神社古文書伝来之記」にて書き記したエピソード(馬部 2005a, p. 103)によれば、明治二一年1888年二月、三之宮神社神職三松俊季は中川政勝から山城国相楽郡木津町「今井良久」宅所有の近江、山城、丹波、河内四ヶ国の大量古文書の中に三之宮神社の古文書類があることを聞く(馬部 2005a, pp. 103–104)。それは「興福寺の蔵から持ち出され、木津の今井家に質入れされたものと伝聞している[105][注釈 2] 」つまり興福寺の侍、椿、井権之丞が明治維新の頃、興福寺秘庫の古文書を持ち出し自家に秘蔵し一家零落して明治八年頃「今井良政」へ質入れしたと伝聞しているが、一家滅亡の後所有権が今井家へ移ったとある[106]。椿井権之丞が興福寺から持ち出した古文書の質入れ先であったのは今井良政であり[107]、1888年三之宮神社古文書類を所持していたのは「今井良久」で[108]、中川政勝の仲介で三之宮神社三松が閲覧に向かいその後購入資金調達に奔走している[109]。馬部は2019年の著書で今井良久[110]について「『京都府議会歴代議員録』(京都府議会、一九六一年)七一七頁。佳平は明治二八年に没し、良政が跡を継ぐ[111]」と記し、2020年の著書では「彼の嫡男にあたる良重はすでに没しており、次男の良政は分家を興していた。そのため、良久は明治一七年(一八八四)に生まれた息子の清明を嫡子に定めていたが、まだ一二歳である。そのため、明治二八年(一八九五)一一月に三宅源治郎が今井家を訪問した際は、今井良政が対応している[112]」と述べるとともに、八相神社氏子総代の中川泉三が1902年に「八相大明神由緒記」の購入にあたって今井良政とやりとりしたことや、湯坪神社も同年に「牛頭天王社縁起」を良政から購入していることから「良政が分家から戻ってくるかたちで今井家を相続したようである[112]」と推測している[112]。なお『京都府議会歴代議員録』には、木津町の今井良久は京都府の府議会議員で1883年良久へ改名し1895年8月8日64才で逝去し、後継者は孫の今井嘉兵衛(財団法人京都高等学校及び京都中学校理事長)と記載されている[113]

如此書類を同家(今井家)に所持するの所謂を取調しに、相楽郡狛村之内字椿井と云ふ処に椿井権之丞なる郷士(南朝三代の朝庭に仕へ奉り勤王の忠を励みたる家柄なり)有りて、維新以前迄は南都興福寺の侍なりしか、維新の際如何成訳か知るに由なけれ共、同寺宝庫に秘蔵せられし古文書類を長持に二棹斗りを持ち出し自家に秘蔵せしか、諸家は維新後……明治七・八年の頃に至りては所有之土地家屋は更なり、家財全部を売却し……遂に彼の大切成古文書も今井良政氏方へ入質し其後是を受け出す能はす。……一家滅亡の不幸にそ陥りける。如上の仕合にて諸古文書も全く今井氏の所有に帰したり(※以上は三宅源治郎「郷社三之宮神社古文書伝来之記」より)
三宅氏購入文書を含む大量の文書群は興福寺の蔵から持ち出され、木津の今井家に質入れされたものと伝聞しているが、【三之宮〔穂谷三之宮大明神年表録〕・〔穂谷惣社記録〕】が明らかに穂谷村の論理で操作されていることから、興福寺原蔵という点は疑わしい。 — 馬部隆弘、[114]

その椿井権之丞は江戸時代の故実家椿井政隆であるという。[115][116]、「これらの史料を興福寺から持ち出したとされる椿井家は、一九世紀前半に活躍する椿井権之輔政隆なる人物を輩出した家である。(馬部 2005a, p. 107)」「〔「穂谷三之宮大明神年表録」〕〔「穂谷惣社記録」〕が穂谷村の論理で記されていることや、〔「河州交野郡五ヶ郷惣侍中連名帳」〕に近世段階の津田地域の有力農民の苗字が網羅的に掲載されていることなどから、穂谷村の全面的協力があったことも疑いない。三宅氏購入文書はおそらく、穂谷村が「系図屋」ともいえる椿井氏に作成を依頼したのだと思われる(馬部 2005a, p. 108)」という。

馬部は〔「穂谷三之宮大明神年表録」の嘉禄二年(1226年)棟札〕と〔「当郷旧跡名勝誌」の嘉吉二年(1442年)棟札〕の内容が非常に似通っているが、〔「穂谷三之宮大明神年表録」〕では〔正嘉2年(1258年)]棟札〕の後ろに位置するべき〔「当郷旧跡名勝誌」の嘉吉二年(1442年)棟札〕を、嘉吉から嘉禄へ変更して冒頭に配置したとみなし、「穂谷村が往古より三之宮神社と関わっていることを主張したかったのではないだろうか」(馬部 2005a, pp. 97–100)という。

【三之宮1】穂谷三之宮大明神年表録……

和銅三(*710年)庚戌年社頭成建
(この間九項目略)
一貞応元(*1222年)壬午年九月十八日亥剋賊党社頭炎上云々
其後再興
一奉修覆御宝殿棟上
嘉禄二(*1226年)壬戌年三月二日 
当願主中原惣兼 津田村住人卅余人
奉加 尊延寺住侶粟而・同 穂谷村・同 芝村・野村郷卅余人
大工藤原昌次 山城国山子 惣交野郡郷也
一奉修覆当社御宝殿棟上
正嘉二(*1258年)戊午年 聖々賢々……
一奉建立牛頭天皇御宝殿
永仁六(*1298年)戊戌四月九日
 上下遷宮尊延寺別当 上西原坊浄海

奉加津田長中・藤阪村・尊延寺輪番衆・穂谷・杉村惣中…… — 「穂谷三之宮大明神年表録」(馬部隆弘)、(馬部 2005a, p. 97)

「枚方市史第六巻」では下記の通りである。

穂谷三之宮大明神年表録……

和銅三(*710年)庚戌年、社頭成建、……
治承二(*1178年)戊戌年、再興、中原朝臣副雄、山田宿称百範並惣庄住人等、尊延寺脇之坊良海、明尾寺慈源、
- - - - - - - - - - - - - -
一貞応元(*1222年)壬午年九月十八日亥剋賊党社頭炎上云々、
其後再興、
一奉修覆御宝殿棟上、
嘉禄二(*1226年)壬戌年三月二日
当願主中原惣兼 津田村住人卅余人
奉加 尊延寺住侶粟而・同 穂谷村、同芝村、野村郷卅余人
大工藤原昌次山城国山子惣交野郡郷也、
一奉修覆当社御宝殿棟上、
正嘉二(*1258年)戊午年、聖々賢々、……
一奉建立牛頭天皇御宝殿
永仁六(*1298年)戊戌四月九日
 上下遷宮尊延寺別当 上西原坊浄海
- - - - - - - - - - - - - -
奉加、津田、長中、藤阪村、尊延寺輪番衆、穂谷、杉村惣中、

慶長八(*1603年)卯年九月十三日…… — 「枚方市史第6巻」、(枚方市史編纂委員会 1968, pp. 268–269)

「津田史」では下記の通りである。

三、三之宮大明神年表録(三ノ宮神社所蔵)……

和銅二(*709年)庚戌年(*710年)社頭成建。……
治承二(*1178年)戊戌年再興中原朝臣副雄
山田宿弥百範 並惣庄住人等
尊延寺脇之坊良海 明尾寺慈源
貞応元(*1222年)壬午年九月十八日亥之刻賊党社以炎上云々
一、奉修復御奉殿棟上 嘉禄二(*1226年)壬戌年三月二日
当願主 中原惣兼 津田村住人卅余人
奉加 尊延寺住侶粟而 穂谷村
同芝村 野村郷 卅余人
大工 藤原昌次 山城国山子 惣交野郡郷也
一、奉修復当社御宝殿棟上 正嘉二(*1258年)戊午年
当願主 津田郷刀弥氏……
一、奉建立牛頭天皇御宝殿 永仁六(*1298年)戊戌四月九日
 上下遷宮別当尊延寺 上西原坊 浄海
奉加 津田長中 藤阪村 尊延寺 輪番衆
穂谷 杉村 惣中
一、奉上葺屋形大明神 天正六年(*1578年)戊寅年六月十日亥之時……
一、屋形大明神奉上葺 慶長七(*1602年)壬寅三月十日下遷宮

上遷宮 四月二日…… — 「津田史」、(片山 1957, pp. 265–267)

馬部が引用した「当郷旧跡名勝誌」は下記である。

津田村尊光寺に残る由緒書「当郷旧跡名勝誌」(〔片山長三著『津田史』1957年〕二八六頁)に記される次の棟札写を引用する。

「一奉修復御宝殿棟上 嘉吉二年(*1442年) 大歳 三月二日 壬戌
当願主 中原宗兼 同願主 津田住人三十余人
奉加 尊延寺村 穂谷村 野村三十余人

大工 藤原昌次 山城国山子 惣交野郡郷々也 — 馬部隆弘、(馬部 2005a, p. 99)

馬部が引用した片山長三著『津田史』1957年の286-288頁の「当郷旧跡名勝誌」は下記の様に記載している。

天和二年(*1682年)壬戌記

当郷旧跡名勝誌 全
津田村 山下氏尊光寺古記……
奉修復当社御宝殿棟上 正嘉二年(*1258年)大歳 二月十六日戊午……
……此時代迄ハ津田一郷ノ氏神ニシテ、余村非氏子哉。支配モ一郷ゟ仕者也。……
一 奉修復御宝殿棟上 嘉吉二年(*1442年) 大歳 三月二日 壬戌
当願主 中原宗兼 同願主 津田住人三十余人
大工 藤原昌次 山城国山子 惣交野郡郷々

如此有りレ之。但シ奉加ト有ルガ故ニ、此時代迄穂谷村芝村ハ非二氏子一哉。山城国山子トハ…… — 「津田史」、(片山 1957, pp. 286–288)

枚方市史第6巻188頁の「当郷旧跡名勝誌」三宮嘉吉二年棟札写は下記の様に記載している。

九四 三宮嘉吉二年棟札写 当郷旧跡名勝誌 尊光寺所蔵

一 奉修復御宝殿棟上 嘉吉二年大歳 三月二日壬戌
当願主中原宗兼 同願主津田住人三十余人

大工 藤原昌次 山城国山子 惣交野郡郷々 — 「枚方市史第6巻」、(枚方市史編纂委員会 1968, p. 188)

馬部は「ややこしくなった原因は、片山氏の説明の仕方にもあります。片山氏は『津田史』36頁や177頁などで上掲棟札写の翻刻を何度も掲載するのですが、融通無碍でその度に文面が異なります。しかも、そこでは上述した一行の欠落を含んだうえで分析がなされます。そのため、片山氏の研究を整理するには、『津田史』287頁の棟札写をそのまま引用してしまっては説明がつきません。幸い「当郷旧跡名勝誌」の写が『津田史』274頁に掲載されるので、これで欠落した一行を補足しておきました。決して穂谷村を恣意的に挿入したわけではありません。原文に穂谷村が入っていることは、先ほど引用した「当郷旧跡名勝誌」の棟札説明文をはじめ、諸史料からみても確実です。」と2020年5月30日にresearchmapの研究ブログで述べている[117]。ちなみに馬部は2004年7月『城館史料学』第2号に発表した論文に「尊光寺所蔵の原典に照らし校正」と注記して「当郷旧跡名勝誌」の当該部分を翻刻掲載している[118]。翻刻は以下の通りである。

  一奉仕修復御宝殿棟上 嘉吉二年 大歳壬戌

             三月二日

   当願主中原宗兼  同願主津田郷住人卅余人

   奉加尊延寺住人東西 奉加穂谷村 奉加芝村 奉加野村郷卅余人

   大工藤原昌次 山城国山子 惣交野郡郷々 

馬部が片山長三の翻刻ミスで一行ほど「当郷旧跡名勝誌」の棟札本文を見落としたと考えて欠落した一行を補足した元である『津田史』274頁[117]には、三ノ宮神社所蔵『古跡書』が掲載されており(片山 1957, p. 274)、下記の様に記載している。

五、古跡書(三ノ宮神社所蔵)……

奉修袚当社宝殿棟上、正嘉二年(*1258年)午二月十六日聖人賢人当願主津田郷刀袚人(とねびと-神を祭る人)津田郷住人三十余人、同願主□大目粟田行吉、結縁家野村ノ住人二十余人、津田願主中原宗包(むねかね)、大工散位藤原国友、宮 村香兼時如無有之、正嘉二歳ゟ天和二年(1682年)壬戌迄、四百二十五歳に相成申候 然ニ津田村一郷の氏神にて余村氏子にあらず、依て支配津田村ゟ仕ル者也 中原宗包は大身にて為父母菩提、大般若経寄進被致、三ノ宮の什物として尊延寺村不動堂ニ預け有るル物也。
正嘉二年ゟ百八十二歳の棟札ニ曰ク
奉修復御宝殿嘉吉二年(*1442年)戌三月二日当願主中原惣包、同願主津田村住人三十余人
奉加尊延寺村、穂谷村、野村三十余人、大工藤原昌次山城山子、惣交野郡郷々如此有之。然共此時代迄穂谷村芝村は氏子にあらず。但奉加等有之。山城国山子とは津田領内に屋形山を、城州内ニ松井、内里、戸津此三ケ郷宛作山ニ仕リ候。此レ山子ト申候古老の物語也。
一、当社九月九日座配と往古ゟ及……
一、扨テ此中原氏此以後棟札二無之。……
一、中原末孫是ゟ百三十三歳前、上萱の札棟天正六年(1578年)戊寅年奉加尊延寺四斗二升、芝村、石三斗三升……
一、然ば百五年以前迄は長尾津熊有之。長尾は福岡村の事也。正俊寺境内に付、此長尾は昔名高キ白鶉有ル故也。……此尊延寺とは川ゟ北を申ス也。芝村は川ゟ南也。往古は芝村と申候。其後坊舎退転し尊延寺と申ス也。
一、杉本ゟ一町斗東ニ大杉有リ……其号を杉村と名付たり。根本は杉本也。
一、周防守子息備後守殿一村を取立なされ、藤阪村と名付申候……此両村は百二十年前後の村也。是皆津田村領分出村也。
一、嘉吉二歳ゟ百九十三年目、寛永十一年(1634年)甲戌年皆造営有之、山下重次棟梁。……

一、右踊哥は宮本津田村にて……右心念寺ハ平野大念仏末寺にて、大谷の東辺に有之候得共、元禄年中(*1688-1703年)知恩院へ改宗仕候て、心念寺は退転仕候…… — 『古跡書』(「津田史」,1957)、(片山 1957, pp. 273–276)

嘉吉二年(1442年)の棟札の奉加は馬部の「当郷旧跡名勝誌」の翻刻では「奉加尊延寺住人東西……奉加芝村」[118]、古跡書では「奉加尊延寺村……(片山 1957, pp. 274)」である。馬部が嘉吉二年の棟札から偽作されたという(穂谷)三之宮大明神年表録嘉禄二(1226年)棟札では「尊延寺住侶粟而……芝村(馬部 2005a, p. 97)(枚方市史編纂委員会 1968, pp. 268–269)(片山 1957, pp. 265–267)」である。

馬部は「穂谷村に残る【記録4】「古跡書」の前半部分は、天和二年(一六八二)に津田村尊光寺住職が記したとされる【記録1】「当郷旧跡名勝誌」の前半部分を筆写したものである(馬部 2019, p. 82)……後略部分に元禄年中(一六八八~一七〇四)の記事があることから、それ以降の成立であることは間違いない。にも拘らず、【記録4】は天和二年を基軸とした記述であることから、前半部分は【記録1】の内容に従ったものといえる」という(馬部 2019, p. 84)。片山長三は「穂谷三之宮大明神年表録」を信用し(片山 1957, p. 268)、「河州交野郡五ヶ郷総侍中連名帳」を疑い(片山 1957, pp. 272–273)、三之宮神社古文書類の経緯については「去る昭和二九年九月十九日著者は三ノ宮神社へ行って、宮司三島宣次氏に乞い所蔵の古記録五巻の閲覧をゆるされた。この五巻を納めた箱には当社祠官三松俊季氏の箱書があって、それによると、この五巻はかつて当社の所属であつたが、山城木津の今井良政氏先代の手に渡つていたものであつて、明治二十八年十二月津田三宅源治郎、穂谷上武庄太郎両氏によつて買い戻され、再び当社に納められることゝなつた由を記していて(片山 1957, p. 272)」と説明している。また「「……三ノ宮神社所蔵古記録五巻の箱の蓋に社司三松俊季の記した古記録の由来によると、京都府相楽郡木津町今井良政方に当社に関する古記録類が所蔵せられてあると伝えられたので、明治二十八年(一八九五年六十年前)穂谷の上武……氏とゝもに同家を訪い、右の古記録を譲り受けて持ち帰り三ノ宮に納めたものである。その五巻とは
氷室郷穂谷氷室遺址権興記
氷室郷穂谷来因之記
三之宮大明神年表録
河州交野郡五ヶ郷総侍中連名帳
永禄二年五ヶ郷侍名前帳
この五巻について問題は種々あるが、三ノ宮の氏子としての当地方にとつては大切な記録であって、これらがこゝに伝えられることゝなつたことは三宅上武両氏の功とせなければならぬ。[119]」とも片山は述べている。

2005年3月の論文で馬部は、文書の題名がリストされている「椿井家古書目録」[注釈 3]を椿井政隆の収集文書目録と推定、リストされた文書の題名から対象の地域を近江、山城、河内、大和と推定[120]、それと明治二一年1888年二月、三之宮神社神職三松俊季は中川政勝から山城国相楽郡木津町「今井良久」宅所有の近江、山城・丹波、河内四ヶ国の大量古文書の中に三之宮神社の古文書類があることを聞いたこと(馬部 2005a, pp. 103–104)(馬部 2005a, pp. 108)とを元に「「郷社三之宮神社古文書伝来之記」は今井家所蔵の古文書が近江、山城、丹波、河内四ヶ国に亙ると記すことから、同家所持の古文書群は、ほぼ全て椿井氏が質入れしたものと考えてよかろう[121]」と、両者の地域の類似性から今井家所持の古文書群はほぼ全て椿井氏が質入れしたと判断した。椿井氏が質入れした先は今井良政である[122]。今井良政は、世話人田村源三郎と共に明治29年(1896年)6月25日、吉野神宮へ「楠正成 願状 元弘三年五月十九日 正成書印 弐通」「小楠公の御甲冑壱領」「自天親王記 壱巻」など合計105点を壱千円で」納めている[123]

椿井政隆の嫡子万次郎が質入れした椿井文書は、明治20年(1887年)を過ぎた頃に質流れとなり、今井家は由縁ある者に椿井文書を販売し始め、このときに爆発的に各地へ流出することになるが[124]、明治30年代以降に販売を停止、売れ残った千点ほどが飯田家へ譲渡された[125]。その中に天保15年3月1日という作成日の記された[O26]「薩摩芋植付ノ記由之事」がある[126]。これには「相楽郡惣代木津郷上津村 今井嘉兵衛」という作成者の記された同日付の類書[127]があり、馬部は[O26]は「今井家で作成されたことがわかる」としている[126]。今井良久は天保3年に生まれているが、父親の名前は嘉兵衛である[128]

江戸時代から続く津田山の山論[129][130]は「……穂谷・尊延寺から明治一一年(*1878年)二月には津田村を相手に山地支配分界之訴をおこした……。しかし幸いにも審理中に両者間で和解が成立し、同年七月二〇日には……六ヵ村の間に交換条約が結ばれた結果、長期にわたった山論にも終止符がうたれることとなり、明治以降における津田共有山の所属と所有および入会権が確立されることになった……[131]」とあるように終息する。[独自研究?]

1895年11月、三之宮神社の三松俊季、津田村の三宅源治郎、穂谷氏子惣代上武庄太郎の三人で木津の今井家へ出向いて三之宮神社文書を購入した。馬部は、三宅氏購入文書のひとつである「穂谷三之宮大明神年表録」や「穂谷惣社記録」に記された棟札を分析して、これらの文書は穂谷村が往古より三之宮神社と深い関係にあったと主張している[132]としたうえで、これらの文書が穂谷村の論理で操作されていることから、三宅氏購入文書を含む大量の文書群が興福寺の蔵から持ち出されたという今井の説明は疑わしいとする[105]。「穂谷三之宮大明神年表録」「穂谷惣社記録」が穂谷村の論理で記されていることや、三宅氏購入文書のひとつである「河州交野郡五ヶ郷惣侍中連盟帳」に近世段階の津田地域の有力農民の苗字が網羅的に掲載されていることなどから、穂谷村の全面的協力があったことは疑いがなく、これらの文書はおそらく穂谷村が椿井氏に作成を依頼したのだと思われる、とする[106]。そして三之宮神社文書と共に購入した西村系図に「道俊 当国禁野和田寺住侶」と記されていることを指摘した[133]

さらに馬部は、大学院仲間達と2004年創刊した学術ジャーナル「史敏」[134]2005年4月の論文[135]では、木津の今井家から入手した津田村西村家の系図では、王仁が始祖とされ、「王仁墳廟来朝紀」の時期に該当する近世初期の部分には「西村大学助俊秋」およびその次子として「禁野和田寺住侶道俊」の名が確認できること、「王仁墳廟来朝紀」は和田寺に伝来したものではなく、明治初年に藤坂村山中氏が入手したことを根拠として「王仁墳廟来朝紀」は西村家の系図と関連づけて作成された椿井文書であるとした[136]。今井家から古文書類を購入したのは三松氏、三宅氏、上武氏である。自著へ掲載する王仁像を物色していた西村天囚が、三松氏は百済王嫡流と聴いたので尋ねると、三松家伝統の宝物と珍重していたチンヂ様の木像を出し、王仁木像として掲載した[137]。『日本宋学史』には「「王仁木像 木下順菴旧蔵」」と掲載されている[138]』。ある学者がその木像は王仁ではなく王辰爾と説いたため百済王神社では辰爾王木像の絵端書が販売されたという。中山は「辰爾王の木像が王仁の換え玉」と、王仁と辰爾王が入れ替わったのを記している[137]。三松家系図では三松家は百済王氏末裔と書かれ、辰爾王も登場、「三松家由来記」では辰爾の館跡が百済王神社という家伝が記されている[139]。百済王神社は中宮にある。1682年『当郷旧跡名勝誌』では、王仁が「中宮村ニ殿作リシ居住アリ」という伝承が記録されている[140][独自研究?]

馬部は、椿井政隆は1行あたり12~15文字程度の比較的大ぶりな明朝体の文字をしばしば用いるとして、百済王神社の「百済王霊祠廟由緒」の写真を紹介している[141]。中村直勝も椿井文書は明朝体で記されていると指摘している[142][25]。百済王神社は百済王族の宗廟で[143]、三松家は百済王の嫡流だという[144]。民俗学者の中山太郎は、百済王神社を訪れて神官に頼んで見せてもらった縁起について、先代の神官がこの地方で有名な系図書きの木津の阿部さんに頼んで、30両という金を出したものだそうだが、更に信用のできないものであった、と記している[145]。木津は旧山城国相楽郡木津村、椿井は旧相楽郡椿井村である。椿井政隆は山城国相楽郡椿井村の人である(馬部 2020, p. ⅱ)。「両」は江戸時代の金貨の貨幣単位とされるが[146]、明治元年(1886年)5月発行の政府紙幣太政官札」は同2年7月までに4800万両が全国に散布され、明治4年(1871年)の新貨条例で通貨単位が両から円へ変更された後も、明治12年(1879年)11月まで新紙幣や公債証券と交換、回収されるまで全国で流通した[147]。ただし中村直勝は、明治30年(1897年)前後に木津の椿井家[20]、あるいは明治35年(1902年)前後に木津の今井家[21]で、偽文書が製造販売されたと記している。藤本孝一は「幕末に椿井家が田辺町に移り住んだ」と記している[148]。東浅井郡志は「椿井政隆……木津の今井氏と姻親の関係あり」と記している[149]

椿井権之助政隆と平群政隆[編集]

椿井政隆が書いたと思われるという「平群姓正嫡椿井家系図」[150]には文政2年(1819年)6月11日30mほどの大蛇を江州蒲生郡麻生山で斬殺したという平群政隆 椿井権之助(明和七庚寅年五月廿五日〈1770年6月18日〉- 天保八酉年十二月廿六日〈1838年(丁酉)1月21日〉)の名前がみられる[151]

「寛政重脩諸家譜」には藤原頼通の末裔、征夷大将軍藤原頼経の三男・中納言氏房が「大和国平群郡椿井の地に住んだことによってこの地名を称号とし[152]」たという由縁が書かれている[153]。中納言氏房は「諸系譜」では椿井権之助政隆の先祖である[154]

寛政6年(1794年)「興福寺元衆徒中御門系圖(写)」の行年25歳「椿井右馬助平群懐暎胤政」[155]は椿井政隆の署名で「平群姓正嫡椿井家系図」の生年と一致しているという[156]

「粟津拾遺集」[157]の著者・椿政隆は椿井政隆であるという[5][156]。椿井政隆(つばいまさたか)と同じ名前の寛政5年12月21日(1794年1月22日)26歳で家督を継いだ椿井政堯(まさたか)(通名「泰五郎」)が「寛政重脩諸家譜」椿井氏系図内に記されている[158][159]。なお、この旗本椿井家の当主は文化元年(1804年)の「懐中道しるべ」では泰五郎であるが、文政10年(1827)年の「国字分名集」では勇次郎に変わっている[160]

諸系譜[編集]

著者不明の椿井家の系図が、中田憲信が筆写した「諸系譜[161][162]」に収録されており、椿井権之助政隆( - 天保十一年十二月廿六日〈1841年1月18日〉)の名前がみえる[151]。椿井権之助政隆の父の名前は椿井権之丞政矩( - 文化五年十一月十一日〈1808年12月27日〉)と掲載されている。

「諸系譜」には天保11年家督を継いだ椿井権之助政隆の息子の椿井萬次郎政福[163]が掲載されている[164]。椿井政隆の墓を求めて山城町椿井へ行った馬部は「……宝 椿井万次郎平群政辰明治二十有五年(*1892年)九月廿ニ日逝去……大正二年(*1913年)六月遠族今井良政建之」と彫られた墓を発見した[98]

近江国伊香郡柳ケ瀬村・柳ケ瀬家系譜[編集]

馬部は小林凱之所蔵椿井権之助政隆著「椿井系図」を元に、近江国伊香郡柳ケ瀬村の柳ケ瀬家系譜の、神亀元年(724年)大和国椿井懐房が伊香郡で大蛇退治をして地名を椿井と名付け、子孫の椿井秀行が山賊扱いをされ伊香郡柳ケ瀬村へ移住し柳ケ瀬氏を名乗り、後継ぎが絶え山城国の椿井家から行政が後継ぎに来たという伝承は椿井政隆の椿井文書であるとしたが[165][166]、「諸系譜」にも神亀元年(724年)椿井右中将懐房が淡海伊香の大蛇を退治し、藤原房前の養子となり藤原の平群となったと記載されている[167]。「諸系譜」では椿井政隆は「寛政重脩諸家譜」の藤原家支流内藤定房(初 政定)[153]に該当する椿井三河政定[168]の末裔として書かれている。内藤定房は「寛政重修諸家譜」では永禄11年(1568年)9月 近江国伊香郡の数十邑をあたえられ[153]、山城国相楽郡椿井村にはその子孫が連綿として住んでいると書かれている[169][153]

南山郷士と南山雲錦拾要[編集]

大西家文書によると相楽郡椿井村の椿井万次郎は南山郷士の盟主のひとりである[170]

1867年、水取の大西家文書によると普賢寺郷の田宮喜平、今井佳平(今井良久;椿井権之丞が興福寺から持ち出した古文書を質入れしたと「郷社三之宮神社古文書伝来之記」にて書かれた人物,後に府会議員となる[110])の禁裏への出仕呼びかけに瓶原郷士が名乗りを上げ、

1868年正月、藤林(大西)春碩、田宮喜平次、椿井権之輔応龍(南龍堂)の息子とみられる椿井万次郎達が呼応、炭竃大隅守孝任末裔の瓶原郷士以外は系図を作成、新政府参与役所へ願書を提出、正月28日太政官代二条城での取調で聞き届けられ洛内屯所に詰め1869年8月まで勤務、それ以降は椿井家の名前は史料から姿を消すという[110][170]

1881年8月、南山義塾開校。南山城地域の自由民権運動の核であった。南山郷士も関係していると思われるという[170]

1881年9月、士族編入を願い出るが山科郷士のみ編入を許可された[171]

1884年「南山雲錦拾要」を根拠に南山郷士として士族へ編入された[172]

馬部は「南山雲錦拾要」の「応竜」の署名は椿井政隆の号であり、椿井文書であると鑑定する[173]

「南山雲錦拾要」は元弘の乱笠置山の戦いの際に後醍醐天皇の笠置寺行宮へはせ参じた義士について書かれたもので焼失後の写しが残るというが、歴史家が笠置寺縁起を元にした物語で史実としては正確ではないと評価したり[174]、収録された吐師川原着到状や仏河原着到状は江戸時代頃[175]または「明治時代はじめに古い記録を参考にしながらつくったと思われる文書[176]」と評価されていた。

南山郷士盟主の一人と書かれた椿井万次郎は椿井権之助政隆の息子・椿井萬次郎政福と思われると書かれている[170]。中田憲信筆写「諸系譜」[161]」には椿井萬次郎政福の祖父・曾祖父・高祖父は養子と書かれておりその先祖は左少将政賢と記載されている[161]。「寛政重脩諸家譜」では左少将政賢は後醍醐天皇と対峙した足利尊氏に仕えたと書かれている[153][152]。「諸系譜」を筆写した中田憲信は「南方遺胤[177]」にて、その南朝・後醍醐天皇の息子である後村上天皇第18代末裔と書かれている[177][要校閲]


「南山雲錦拾要」は藤田精一(山城国綴喜郡田辺村出身)が楠木正成について書いた「楠氏研究[178]」で利用されていたが関東大震災で焼失、田辺町史編纂資料調査時に水取の大西家で発見され「笠置日記」「般若寺良忍記」「興福寺官務帳」「大和国山辺氏記録」など三十六の資料の抜き書きであることが判明、南山城地域で南朝ゆかりの物語が生じた原因は興福寺や石清水八幡宮との縁ではないかとし、明治時代、公家方の北朝正統論と維新の志士側の南朝正統論の間で激しく論争された南北朝正閏論問題は明治天皇のお言葉で解決したと田辺町史は締めくくっている。[179]

南山郷士は弾正台京都出張台の門番を務めていたという[170]。「諸系譜」で椿井萬次郎政福は「彈正臺門兵」と書かれている[163] 。弾正台は明治4年司法省に合併したが、「諸系譜」を筆写した中田憲信は裁判官で、「諸系譜」には一部名古屋控訴裁判所様式の用紙が使用されている[180]。南山郷士となる南山城の郷士達へ禁裏への出仕を当初呼び掛けた今井佳平(今井良久[110])は木津の代官で[181]、幕末に鉄砲隊隊長として禁裏の警衛に任じ、郷土頭に任じられ維新後に木津へ戻り、明治12年(1879年)3月府会議員となり明治16年(1883年)1月良久と改名、明治28年(1895年)8月8日64才で死去した[110][182]。その今井氏こそが椿井文書を販売していた人物であり、椿井文書が木津に伝来した背景はここにあったと馬部はいう[110][要校閲]


また馬部は、普賢寺谷では明治時代の流出以前から椿井文書が広く定着していたと認めざるを得ないとしたうえで、普賢寺谷の一連の椿井文書がどのような要望にもとづいて作成されたについて、普賢寺谷10ヶ村の氏神である牛頭天王社の祭祀において、近世中期以降「侍中」と「宮座方」の対立が強まり、「宮座方」からの突き上げに対して、結束を固めて対抗する必要に迫られた侍衆は、富豪を由緒ある土豪に仕立て上げ、中世以来幾度となく結束して困難に立ち向かってきた普賢寺谷の侍衆を、ことさらに主張する積極的な理由が認められるとし、そしてそれが草莽隊の由緒へと活用されたのであろう、と指摘している[183]。さらに彼らが南山郷士として認められる際に「南山雲錦拾要」という椿井文書が用いられたことから、「富農の身分上昇に応じて創作された椿井文書は、最終的にその機能を全うしたと言えよう」と指摘している[184]

椿井政隆の花押[編集]

花押(押印)は自著の代りに書く記号で、個人の表微として文書に証拠力を与える目的で記される。他人の模倣・偽作を防ぐため様々な工夫が凝らされた[185]。椿井政隆のものと考え得る花押やその筆写であるが、 山地悠一郎「南朝諸録要諦」にて影印された「南山雲錦拾要」の巻末には、應龍の署名と花押、明治29年謄写したとの記載と吉野宮社務所の角印が押印されている[186]。京都府綴喜郡井手町西福寺の「摩尼遍照山西福教寺来縁巻」にも椿井南龍堂廣雄の花押がみえる[187]。後述の山城町上狛の小林家住宅の「小林氏居宅図」では「椿井政隆」の署名と花押がみえる[188]

椿井政隆親族・上狛の小林家[編集]

椿井権之助政隆 著「椿井系図」を所蔵していた小林凱之は、2005年3月,4月刊行された馬部の論文を枚方市元市史編纂室勤務の田宮久史が椿井在住の渡辺美秀子へ送付した後、渡辺と共に馬部の勤務先の枚方市市史編纂室を訪れ、同年11月には京都府立山城郷土資料館で勉強会を開催しており[189]、小林凱之は文政6年(1823年)5月、椿井政隆が親戚の山城町上狛の住宅を描いた「小林氏居宅図[188]」の小林家住宅[190]の主人である[191]

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 以下、時代背景の欄については明治時代の法令が記載されるため旧字体は新字体、カタカナはひらがなへ変換。
  2. ^ 該当部分は、馬部著2005a 7-8行目
  3. ^ 京都国立博物館学芸委員田中教忠が蒐集。著者不明, 江戸時代後期, 国立歴史民俗博物館所蔵田中穣氏旧蔵典籍古文書・資料番号H-743-389

出典[編集]

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