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ヴィシー政府は日本と同盟関係にあり、ヴィシー政権下にあったマダガスカル島のフランス軍基地を日本海軍も使用できるようになると予想される。日本海軍は航空機や潜水艦を配備するであろう。さらにその基地をドイツ海軍やイタリア海軍も使用し、そうなれば連合国軍にとってさまざまな脅威が生じる。まず、連合国の太平洋、オーストラリアから中東、南大西洋の範囲に広がる海上交通網に影響する。また、守りが手薄であった[[西インド洋]]や[[南大西洋]]はおろか、アフリカ大陸東岸や[[ペルシャ湾]]まで日本海軍の攻撃にさらされる。最悪、日本陸軍によるアフリカ大陸上陸と、その末には日本陸軍とドイツ陸軍による二面作戦すら予想される。
ヴィシー政府は日本と同盟関係にあり、ヴィシー政権下にあったマダガスカル島のフランス軍基地を日本海軍も使用できるようになると予想される。日本海軍は航空機や潜水艦を配備するであろう。さらにその基地をドイツ海軍やイタリア海軍も使用し、そうなれば連合国軍にとってさまざまな脅威が生じる。まず、連合国の太平洋、オーストラリアから中東、南大西洋の範囲に広がる海上交通網に影響する。また、守りが手薄であった[[西インド洋]]や[[南大西洋]]はおろか、アフリカ大陸東岸や[[ペルシャ湾]]まで日本海軍の攻撃にさらされる。最悪、日本陸軍によるアフリカ大陸上陸と、その末には日本陸軍とドイツ陸軍による二面作戦すら予想される。


しかし実際には、対英米開戦後に勝利を重ねてアメリカ本土やオーストラリア本土にもその前線を広げていた日本軍にとって、イギリス軍をはじめとする連合国が勢力を保っていたアフリカ大陸中部へその戦線を広げることは、戦略上からいっても殆ど重要視していなかった。
しかし実際には、対英米開戦後に勝利を重ねて{{要出典範囲|アメリカ本土やオーストラリア本土にもその前線を広げていた|date=2019年7月}}日本軍にとって、イギリス軍をはじめとする連合国が勢力を保っていたアフリカ大陸中部へその戦線を広げることは、{{要出典範囲|戦略上からいっても殆ど重要視していなかった|date=2019年7月}}


== アイアンクラッド作戦 ==
== アイアンクラッド作戦 ==

2019年7月12日 (金) 10:40時点における版

マダガスカルの戦い

ディエゴ・スアレス港沖に停泊するイギリス艦隊
戦争第二次世界大戦
年月日:1942年5月5日~11月6日
場所マダガスカル島
結果:連合国軍がマダガスカル全島を制圧
交戦勢力
フランスの旗 ヴィシー・フランス
大日本帝国の旗 大日本帝国
イギリスの旗 イギリス
南ローデシア
南アフリカの旗 南アフリカ連邦
指導者・指揮官
アーモン・レオン・アネ総督 ロバート・スタージェス少将
戦力
フランスの旗 ヴィシー・フランス
8,000
仮装巡洋艦1
通報艦2
潜水艦4
大日本帝国の旗 大日本帝国
潜水艦5
イギリスの旗 イギリス
10,000~15,000
空母2
戦艦1
損害
戦死152、負傷500
仮想巡洋艦1沈没
潜水艦3沈没
小型潜水艦(甲標的)1沈没
戦死107、負傷280
戦艦1大破
油槽船1沈没
コルベット艦1沈没

マダガスカルの戦い(マダガスカルのたたかい)は、アフリカ大陸の南東、インド洋西部に位置するフランス植民地マダガスカル島第二次世界大戦中の1942年5月5日より11月6日まで行われた、ヴィシー政権側についた駐マダガスカルのフランス軍(ヴィシー・フランス軍)と大日本帝国海軍枢軸国陣営と、イギリス軍南アフリカ軍を中心とした連合国軍陣営の間におけるマダガスカル島とインド洋シーレーン奪取を目的とした戦いのことである。

背景

仏領マダガスカル

マダガスカル島

1940年代のマダガスカル島はフランスの植民地で、第二次世界大戦が始まるとフランス本国との貿易量が激減しマダガスカル経済は深刻な状況となった。その後フランス本国がドイツの侵攻で占領されると、フランスはドイツに休戦を提案し、親ドイツのヴィシー政府が誕生した。当時のマダガスカル総督は連合国軍への降伏を選択せず、ヴィシー政府の支持を表明した。

このころ地中海および北アフリカの戦況はドイツ軍イタリア軍を中心とした枢軸国側に有利であり、その為に中東及びインド方面、さらにインドを経由してオーストラリアなどへ軍事物資の補給などのために向かう連合国側船団は、地中海-スエズ運河ルートではなく喜望峰インド洋のルートへ迂回していた。

マダガスカル島はこの迂回ルートの途上に位置しており、マダガスカル島の港や飛行場が日本軍に占拠されると、連合国軍のヨーロッパと中東及びインド、オーストラリア方面との補給路が絶たれる恐れがあった。

日本海軍のインド洋制圧

日本軍は1941年12月の開戦以降、1942年3月の末までに東南アジア全域(イギリス領マレー半島蘭印アメリカフィリピンなど)を制圧し、続いてアメリカ本土への空襲オーストラリアへの空襲を行ったほか、イギリス植民地ビルマ南部まで攻略を行い、さらに西進を行うことが可能であった。

この頃、日本海軍潜水艦はインド洋で完全に制約を受けずに活動でき、3月には日本海軍の機動部隊がイギリス領セイロン島攻撃を行った。そのため、イギリス海軍の東洋艦隊はモルディブ諸島のアッドゥ環礁に退避したが、日本海軍の更なる攻撃によって手持ちの空母他多くの艦船を失い、イギリスの植民地であるケニアキリンディニまで撤退した。

この全面的な撤退により、イギリス海軍および連合国軍は、日本海軍がマダガスカルをインド洋およびアフリカ大陸攻略への前進基地として使用する可能性に対処しなければならなくなった。つまり、イギリス海軍は次のような情勢展開を危惧した。

ヴィシー政府は日本と同盟関係にあり、ヴィシー政権下にあったマダガスカル島のフランス軍基地を日本海軍も使用できるようになると予想される。日本海軍は航空機や潜水艦を配備するであろう。さらにその基地をドイツ海軍やイタリア海軍も使用し、そうなれば連合国軍にとってさまざまな脅威が生じる。まず、連合国の太平洋、オーストラリアから中東、南大西洋の範囲に広がる海上交通網に影響する。また、守りが手薄であった西インド洋南大西洋はおろか、アフリカ大陸東岸やペルシャ湾まで日本海軍の攻撃にさらされる。最悪、日本陸軍によるアフリカ大陸上陸と、その末には日本陸軍とドイツ陸軍による二面作戦すら予想される。

しかし実際には、対英米開戦後に勝利を重ねてアメリカ本土やオーストラリア本土にもその前線を広げていた[要出典]日本軍にとって、イギリス軍をはじめとする連合国が勢力を保っていたアフリカ大陸中部へその戦線を広げることは、戦略上からいっても殆ど重要視していなかった[要出典]

アイアンクラッド作戦

航空母艦イラストリアス

しかしイギリス軍を中心とする連合国は、この様な事態が起きることを想定して仏領マダガスカル島ディエゴ・スアレス攻略作戦「アイアンクラッド作戦」(en:Operation Ironclad)の実行を決めた。イギリス陸軍、イギリス海軍を中心とする連合軍部隊の指揮はロバート・スタージェス少将が取り、空母イラストリアスインドミタブル、戦艦ラミリーズを基幹とする艦隊が上陸作戦の援護を行うこととなった。

上陸作戦

南アフリカ空軍機により何度も偵察が行われた後、英第5歩兵師団第17歩兵旅団、第13歩兵旅団、英第29歩兵旅団、5つの奇襲部隊、イギリス海兵隊は1942年5月5日、ディエゴ・スアレス西のクーリエ(Courrier)湾およびアンバララタ湾へ上陸した。マダガスカル島の東海岸で陽動攻撃も行なわれた。上陸に空母艦載機や少数の南アフリカ空軍の航空機が援護した。この作戦の際、イギリス軍はコルベット艦オーリキュラを触雷で失った[1]

モラーヌ・ソルニエMS406

アルマン・レオン・アネen:Armand Leon Annet)総督率いるヴィシー・フランス軍は約8000名で、うち約6000名はマダガスカル人で残りは大部分がセネガル人であった。1500から3000名がディエゴ・スアレス周辺に集中していた。

海軍の戦力は仮装巡洋艦1隻、通報艦2隻、潜水艦4隻などであったが、このうち通報艦1隻と潜水艦3隻はイギリス軍による攻撃時には在泊していなかった[2]。フランス軍のほかの戦力は沿岸砲8門、モラーヌ・ソルニエMS406戦闘機17機、ポテ 63.11偵察機6機、少数のポテ 25TOEとポテ 29であった。フランスの戦力は本国からの供給が久しく途絶えていたこともあり少なかった。

艦艇は最初の空襲で仮装巡洋艦ブーゲンビルルドゥタブル級潜水艦ベヴェジエが撃破され、それを逃れたブーゲンヴィル級通報艦ダントルカストーも攻撃を受けて座礁した[3]。さらに洋上にあったルドゥタブル級潜水艦ル・エローモンジュも撃沈され、ブーゲンヴィル級通報艦ディベルヴィルと潜水艦ル・グロリューのみがマダガスカル南部に逃れた[4]

上陸したイギリス軍と南アフリカ軍を中心とした連合軍の大規模な攻撃後、最大都市のディエゴ・スアレスは5月7日に降伏したが、ヴィシー・フランス軍の主力は南へ後退し体制を整えようとした。

作戦参加艦船[5]

日本海軍による攻撃

目標設定

伊10

枢軸国側は、フランス軍からの依頼を受けたドイツ軍による増援要請を受けて[要検証]、インド洋一帯からイギリス軍をはじめとする連合国軍を放逐した日本海軍の潜水艦伊10伊16および伊20がマダガスカル沖に現れた。

日本軍の潜水艦は伊30が1942年4月22日に、伊10と甲標的を搭載した伊16、伊18、伊20が1942年4月30日にペナンを出撃した[6]。南アフリカのダーバン港のほか、北方のモンバサ港、ダルエスサラーム港、そしてディエゴ・スアレス港への攻撃を検討した結果、伊30と伊10がアデンダーバンなどを偵察したが有力艦艇は確認できず、1942年5月21日に攻撃目標が最大の都市でありまた連合国軍が占領したディエゴ・スアレスに決定された[7]

ディエゴ・スアレス攻略後イギリス軍の艦船の多くはすぐに去ったが、戦艦ラミリーズリヴェンジ級戦艦)はディエゴ・スアレスに留まっていた[8]

撃沈

ディエゴ・スアレス湾でのラミリ―ズ(1942年5月)

1942年5月30日(イギリス側記録では29日)には伊10の搭載機がディエゴ・スアレス港を偵察し、クィーン・エリザベス級戦艦1隻、巡洋艦1隻などの在泊を報告[9]。5月31日に伊16と伊20から甲標的が発進した[10]。なお、伊18はうねりによる浸水が原因で攻撃には参加できなくなっていた[11]

甲標的の攻撃によりラミリーズに魚雷1本、油槽船ブリティッシュ・ロイヤルティ(British Loyalty、6,993トン)に魚雷1本が命中し、ブリティッシュ・ロイヤルティは撃沈された[注釈 1][12]

ラミリーズは左舷のA砲塔前部に被雷し、前部15インチ砲の弾薬庫などが浸水、[13]大破したが、ディエゴ・スアレス港にて応急修理を施した後ダーバンへ向かい、そこでの修理後イギリスに戻ってさらに修理を受けた[14]。ラミリーズが再就役したのは約1年後の1943年5月のことであった[14]

地上戦移行

特殊潜航艇の乗務員

日本海軍の特殊潜航艇による攻撃が行なわれると湾内は大混乱に陥り、翌日の昼頃までイギリス軍による爆雷攻撃が繰り返され、防潜網が展張された。

伊20から発進した甲標的は上記のように雷撃に成功し大きな戦果を挙げたが、後に艇がノシ・アレス島で座礁したため、艇長の秋枝三郎大尉(海兵66期)と艇付の竹本正巳一等兵曹の2名は艇を放棄し、マダカスカル島のアンタラブイ近くに上陸して、付近を通りかかった漁師の助けを受けて母潜との会合地点に徒歩で向かった。

6月2日に2人は、会合地点付近のアンドラナボンドラニナという小集落に到着したものの、地元の店で食料を調達した際に怪しんだ地元住民からの通報を受けて探索を行っていたイギリス軍部隊に発見された。

両名はイギリス軍による降伏勧告を拒否し、15人のイギリス軍部隊を相手に軍刀拳銃で戦いを挑み2人とも戦死した。なおこの戦いでイギリス軍側も1人が死亡し5人が重軽傷を負った[15]。戦死日は英側資料では6月2日、現地の目撃証言では6月4日である[16]。その後2人の亡骸はイギリス軍により現地に埋葬された。

戦果

ディエゴ・スアレスでの戦いを報じる新聞(1942年5月)

日本海軍によるマダガスカル方面への攻撃は、戦艦1隻大破、大型輸送船1隻撃沈。地上戦でのイギリス軍兵士の損害と一定の戦果を挙げたが、先に実施されたセイロン沖海戦における勝利によりイギリス海軍をインド洋東部から放逐し、この時点における最大の目的を達成していた日本海軍にとって、マダガスカル方面は主戦場から遠く離れており、これ以上の目立った作戦行動は行われなかった。

その後日本軍の援護攻撃が行われなかったこともあり、イギリス陸軍第5師団は日本軍による新たな攻撃が予想されたイギリス領インド帝国へ移された。また、1942年6月に第22東アフリカ旅団が到着し、その翌週、第7南アフリカ連邦自動車化歩兵旅団と第27ローデシア歩兵旅団が上陸した。

その後も日本軍によるヴィシー・フランス軍への支援及び援助行動は行われなかったこともあり、戦力が枯渇したヴィシー・フランス軍と、イギリスを中心とした連合国軍との間の交戦は数ヶ月間低レベルの状態で続いた。

その後の作戦

トアマシナ港に上陸する連合国軍

第29旅団および第22旅団は1942年9月10日、雨季に先立つ連合国軍の再攻撃のためマジュンガに上陸した(ストリーム作戦)。直接攻撃はほとんどなかったが、連合国軍はヴィシー・フランス軍によって主要道路に設置された多くの障害物に遭遇した。また、牽制作戦としてモロンダバへの上陸(タンパー作戦)も行われた。続いて9月18日にはタマタブ攻略作戦(ジェーン作戦)が実施された。

その後は、ヴィシー・フランス軍の戦力が枯渇し連合国軍へ攻撃が全く行われなかった上、連合軍が恐れていた日本軍の援護攻撃も行われなかったこともあり、連合国軍は、最終的にほとんど抵抗を受けずに首都のタナナリブおよびアンバラバウ(Ambalavao)の町を占領した。

ヴィシー・フランス軍とイギリス軍の最後の大きな戦闘は1942年10月18日にアンドリアマニャリーナで行われた。アネット総督は11月5日にフィアナランツォア(Fianarantsoa)の南、Ilhosy近くで降伏し、これにより連合国軍の全島占領が完了した。なお、ディエゴ・スアレスの上陸で連合軍は約500人の死傷者を出し、1942年9月10日以降の作戦では30人が戦死、90人が負傷した。

戦後の慰霊

1976年に在マダガスカル日本大使館が現地に秋枝三郎中佐と竹本正己特務少尉の慰霊碑を建立し、1997年には有志が前述2名と岩瀬勝輔大尉、高田高三兵曹長の4名の日本軍人の慰霊碑をアンツィラナナ(旧名ディエゴ・スアレス)に建立している[17][18]

関連項目

脚注

注釈

  1. ^ その後ブリティッシュ・ロイヤルティーは浮揚修理され、アッドゥ環礁に移動。同地でドイツ軍のUボートU-183の雷撃を受けて大破。応急修理後燃料油貯蔵船となり、戦後の1946年1月5日に浸水により沈没した

出典

  1. ^ S.W. Roskill, War at Sea 1939-1945, Volume 2: The Period of Balance, p.189
  2. ^ The French Navy in World War II, p.204
  3. ^ The French Navy in World War II, pp.204-205
  4. ^ The French Navy in World War II, p.205
  5. ^ British Invasion Fleets, pp.46-49
  6. ^ 本当の特殊潜航艇の戦い、127ページ
  7. ^ 本当の特殊潜航艇の戦い、127-128ページ
  8. ^ Battleships at War, p.138
  9. ^ 本当の特殊潜航艇の戦い、129-130ページ
  10. ^ 本当の特殊潜航艇の戦い、130ページ
  11. ^ 本当の特殊潜航艇の戦い、128ページ
  12. ^ 本当の特殊潜航艇の戦い、131ページ
  13. ^ Battleships at War, p.139
  14. ^ a b Battleships at War, p.140
  15. ^ 本当の特殊潜航艇の戦い、131-132ページ
  16. ^ 本当の特殊潜航艇の戦い、134ページ
  17. ^ 「マダガスカル・・・アフリカに一番近いアジアの国」(1991年、サイマル出版会)山口洋一著
  18. ^ ディエゴスアレスの慰霊碑

参考文献

  • Paul Auphau, Jacques Mordal, The French Navy in World War II, United States Naval Institute, 1959
  • 中村秀樹、『本当の特殊潜航艇の戦い』、光人社、2007年、ISBN 978-4-7698-2533-3
  • Peter C. Smith, Battleships at War: HMS Royal Sovereign and Her Sister Ships, Pen & Sword Maritime, 2009, ISBN 978-1-84415-982-6
  • John de S. Winser, British Invasion Fleets The Mediterranean and beyond 1942-1945, World Ship Society, 2002, ISBN 0-9543310-0-1
  • 豊田穣、「マダガスカルの月明」『海軍特別攻撃隊』、集英社、1980年、ISBN 4-08-750339-9