小林稔侍

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。2400:7800:48e3:a200:79c2:cba6:8be2:ae4c (会話) による 2016年4月5日 (火) 08:15個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (→‎映画)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

こばやし ねんじ
小林 稔侍
本名 小林 稔侍 (こばやし としじ)
生年月日 (1941-02-07) 1941年2月7日(83歳)
出生地 日本の旗 日本和歌山県伊都郡かつらぎ町
国籍 日本の旗 日本
民族 日本人
身長 180 cm
血液型 A型
職業 俳優
ジャンル 映画テレビドラマ
活動期間 1962年 -
活動内容 1962年:東映ニューフェイス
配偶者 あり
著名な家族 小林健(長男)
小林千晴(長女)
事務所 鈍牛倶楽部
公式サイト 所属事務所公式プロフィール
主な作品
映画
新仁義なき戦い 組長の首
冬の華
あぶない刑事』シリーズ
鉄道員

テレビドラマ
キャプテンウルトラ
バーディー大作戦
はね駒
なんでも屋探偵帳』シリーズ
ちょっと危ない園長さん
味いちもんめ
税務調査官・窓際太郎の事件簿
 
受賞
日本アカデミー賞
最優秀助演男優賞
2000年鉄道員
その他の賞
テンプレートを表示

小林 稔侍(こばやし ねんじ、1941年2月7日[1] - )は、日本俳優。身長180cm、血液型A型和歌山県伊都郡かつらぎ町出身。本名:小林 稔侍(こばやし としじ)。和歌山県立笠田高等学校卒業。鈍牛倶楽部所属。長男に小林健、長女に小林千晴

来歴

父親は洋服の仕立て職人。母親と10歳年上の兄が居た。猛勉強をし、国立の和歌山大学教育学部附属中学校に入り、1時間かけて通学していた[2]。中学生の頃から高倉健のファンで映画界に憧れを持っていた[3]。「おふくろに家を建ててやりたい」という一念で映画界を志す[4]。第10期東映ニューフェイスの試験日と大学の入試日が重なり迷った挙句、親には大学入試へ行くと嘘をつき、学生服姿で試験を受け合格した。同期に池田駿介吉田豊明がいた。当初は本名で活動していた[5]

デビュー後の1960年代初めから1970年代中頃まで、主に東映東京製作による高倉健・千葉真一梅宮辰夫主演アクション映画仁侠映画やアクションドラマ・刑事ドラマ特撮番組などに出演。初めてポスターに名前が刷り込まれた映画は、1970年5月23日公開の『やくざ刑事』である[6]。後に深作欣二の推薦でピラニア軍団のメンバーになり[7]、映画『新仁義なき戦い 組長の首』では当初、バーテンダー役でワンシーンのみの端役出演だったが、監督の深作から主人公の弟分役へ抜擢された[注釈 1]1978年の映画『冬の華』は忘れられない一本と述べており、「台詞が一言もない小林稔侍が抜群だ」と掲載された1978年5月24日スポーツニッポンの映画評を宝物にしているという[10]

1980年代前半までは脇役悪役を演じてきたが、1986年にテレビドラマ『はね駒』で主人公の父・橘弘次郎にキャスティングされ、1990年にはテレビドラマ『なんでも屋探偵帳』で初主演。同作はシリーズ化され、このほかには『ちょっと危ない園長さん』や『税務調査官・窓際太郎の事件簿』など、2時間ドラマでメインに複数の主演ドラマがある。男性タレント好感度ランキングで上位にランキングされた[11]

学校III』以降、山田洋次作品の常連出演者の1人でもある。

人物

中学生の頃からファンの高倉健は、東映に入って以後大部屋時代からの恩人であり、何度も小遣いをもらったり[6]、小林が家を建てた時や結婚する際に保証人になってもらったという[12]。高倉に対する恩や思い入れは強く、長男に「恩を一生忘れないこととありがとうの思いを込めて」、高倉と同じ「健」と名付けたり[13]、「健さんのためなら腎臓を一つ提供しても構わない」と思っているほどである[14]。そういうこともあって「端役でなく、ちゃんとした役で健さんと共演し、恩返しがしたい」との思いがあり、1999年の映画『鉄道員』でその願いが叶うこととなった。その『鉄道員』で、第23回日本アカデミー賞の最優秀助演男優賞を受賞した。『鉄道員』の中で高倉と小林が抱きしめ合うシーンがあり、これについてある映画評論家が講演会で「あれはホモじゃなきゃできない」と発言したのが元で、ある女性週刊誌に「高倉健と小林稔侍はホモ」と大見出しにされて掲載されたこともあった[15]

が大の苦手で、子供の頃に遊びで牛の腹を潜ろうとした時に蹴られ、5m位飛ばされたという思い出からそうなったとのことで、撮影で馬に乗ることになった時にためらったことも何度かあったという[16]

受賞

出演作品

映画

テレビドラマ

旅番組

バラエティ

CM

脚注

注釈
  1. ^ 千葉真一は自分の空き時間に本作の撮影を見学していると、深作欣二は「ちょっと出ようか?」と千葉に声をかけ、バーテンダーの衣装を着せてカメオ出演させた[8][9]。小林は役がなくなったと落胆していたが、深作は主人公の弟分・志村勝男に小林を抜擢した[8][9]
出典
  1. ^ 公式プロフィールでは長らく1943年生となっていたが、2010年9月1日付のスポーツニッポン「我が道」のコーナーにて、実際は1941年生まれであるが若く間違えられたので特に訂正を求めなかったと発言。現在は公式プロフィールも1941年生に訂正されている。
  2. ^ 世界遺産登録10周年熊野転生より
  3. ^ スポーツニッポン 芸能面『我が道・小林稔侍』(2010年9月1日)より。
  4. ^ スポーツニッポン 芸能面『我が道・小林稔侍』(2010年9月2日)より。
  5. ^ 東映の友 1962年4月号 45頁。
  6. ^ a b スポーツニッポン 芸能面『我が道・小林稔侍』(2010年9月10日)より。
  7. ^ スポーツニッポン 芸能面『我が道・小林稔侍』(2010年9月9日)より。
  8. ^ a b 千葉真一『千葉流 サムライへの道』ぶんか社、2010年、142頁。ISBN 4821142694 
  9. ^ a b 千葉真一、深作欣二の初時代劇の教えに感謝」『アサ芸+』、徳間書店、2012年11月28日、2012年11月29日閲覧 
  10. ^ スポーツニッポン 芸能面『我が道・小林稔侍』(2010年9月12日)より。
  11. ^ チェン・ボーリンの初主演ドラマ「たった一度の雪 SAPPORO・1972年」放送決定!”. ライブ台湾 (2006年12月22日). 2014年4月4日閲覧。
  12. ^ スポーツニッポン 芸能面『我が道・小林稔侍』(2010年9月15日)より。
  13. ^ スポーツニッポン 芸能面『我が道・小林稔侍』(2010年9月28日)より。
  14. ^ スポーツニッポン 芸能面『我が道・小林稔侍』(2010年9月16日)より。
  15. ^ スポーツニッポン 芸能面『我が道・小林稔侍』(2010年9月17日)より。
  16. ^ スポーツニッポン 芸能面『我が道・小林稔侍』(2010年9月11日)より。
  17. ^ 「家族はつらいよ」ポスタービジュアル完成!山田洋次監督×横尾忠則2大巨匠が奇跡のコラボ”. 映画.com (2014年12月14日). 2015年3月6日閲覧。
  18. ^ TBS、月曜も“改名”「月曜ゴールデン」から「月曜名作劇場」に”. ORICON STYLE (2016年2月26日). 2016年3月18日閲覧。

外部リンク