北の湖敏満
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基礎情報 | ||||
四股名 | 北の湖 敏満 | |||
本名 | 小畑 敏満 | |||
愛称 | 北の怪童 | |||
生年月日 | 1953年5月16日(71歳) | |||
出身 | 北海道有珠郡壮瞥町字滝之町 | |||
身長 | 179cm | |||
体重 | 169kg | |||
所属部屋 | 三保ヶ関部屋 | |||
得意技 | 左四つ、吊り、寄り、上手投げ | |||
成績 | ||||
現在の番付 | 引退 | |||
最高位 | 第55代横綱 | |||
生涯戦歴 | 951勝350敗107休(109場所) | |||
幕内戦歴 | 804勝247敗107休(78場所) | |||
優勝 | 幕内最高優勝24回 | |||
賞 | 殊勲賞2回、敢闘賞1回 | |||
データ | ||||
初土俵 | 1967年1月場所 | |||
入幕 | 1972年1月場所 | |||
引退 | 1985年1月場所 | |||
引退後 |
北の湖部屋師匠 日本相撲協会第9,12代理事長 | |||
備考 | ||||
金星1個(北の富士1個) | ||||
2008年9月9日現在 |
北の湖 敏満(きたのうみ としみつ、1953年5月16日 - )は、北海道有珠郡壮瞥町出身で三保ヶ関部屋所属の元大相撲力士、第55代横綱。引退後は、一代年寄北の湖となる。第9代日本相撲協会理事長(2002年2月 - 2008年9月8日)[1]を務めた後、現在は第12代日本相撲協会理事長(2012年1月 - )。本名は小畑敏満(おばた としみつ)、横綱時代の体格は、身長179cm、体重169kg、得意手は左四つ、吊り、寄り、上手投げ、血液型はAB型。幕内最高優勝回数24回、先輩の大鵬幸喜、後輩の千代の富士貢に並ぶ戦後の大横綱の一人である。重量感と馬力を存分に感じさせる相撲で1970年代後半に一時代を築いた。息子は、俳優の北斗潤。
現役時代
入門から横綱昇進まで
農協職員の家に生まれた(この日はNHKによって初めて大相撲テレビ中継が行われた日でもある)[2]。少年時代から体格に恵まれており、ただの巨漢ではなくスポーツ万能、特に柔道は強く中学1年で初段となり、高校生を破って町の大会で優勝。
多くの相撲部屋から勧誘された中から中学1年で三保ヶ関部屋に入門し、墨田区立両国中学校へ転校。入門時のエピソードとして、小学6年の時すでに三保ヶ関親方が目をつけ「もう少し身長が伸びれば連れに来る。よく寝れば身長は伸びるよ」とアドバイス。このことを忠実に守って暇さえあれば寝ていたため両親が悲鳴を上げ、予定を早めて入門したという(三保ヶ関夫人が手編みの靴下を贈ってくれたことが入門の決め手になったともいう)。1967年1月場所に師匠の長男である後の大関増位山とともに初土俵を踏む。
四股名は故郷壮瞥にある洞爺湖にちなんで師匠の三保ヶ関がつけた。湖を「うみ」と読ませたきっかけは水上勉の小説『湖の琴』(うみのこと)からの着想という。改名の多い角界において珍しく、初土俵から引退まで一度も四股名を変えたことのない力士であった[3]。現役引退後も一代年寄「北の湖」で通している。
柔道を始めとし、野球、水泳そしてスキーで鍛えたスポーツ万能の体を生かしてスピード出世。当時の最年少昇進記録を次々に樹立。中学生(15歳9ヶ月)で幕下に昇進するなど「北の怪童」の異名をとった[4]。ただし途中、三段目で全敗したこともある。横綱で幕下以下の全敗経験者は現在まで北の湖一人である。また、十両以下での優勝(下位優勝)経験が皆無のままで横綱に昇進した。なお、下位優勝経験なしの横綱は北の湖の他に、玉錦(第32代横綱)、双葉山(第35代横綱)、栃錦(第44代横綱)、曙(第64代横綱)がいるが、いずれも一時代を築いた大横綱である。
当時、中学校在学中に相撲部屋に入門し、学校に通いながら大相撲の土俵に上がる力士は北の湖のほかにも多くいたが、社会通念上問題があるとされた。北の湖が大活躍したため、特に話題になったとも言われる。1971年11月場所中に監督省庁の文部省(当時)から日本相撲協会に正式に通達が出されたため、協会はすぐに既に入門している中学生力士たちを帰郷させ、さらに入門条件に「中学卒業(義務教育終了)後でなければ大相撲に入門できない」と言う条項を加えた。そして場所後に中学生の力士採用禁止を正式決定している。北の湖以降も、後の大関琴風や人気力士・大徹らが中学在学中から土俵に上がっている。[5]
1971年5月場所、17歳11ヶ月で十両昇進。1972年1月場所、18歳7ヶ月で新入幕。1度陥落したがすぐ再入幕。1973年、19歳7ヶ月で小結に昇進。同年11月場所関脇。9勝2敗で迎えた12日目に足首を骨折したが以降も出場し続けたこと、そして千秋楽に10勝目をあげたことが自信となり、後々まで心の支えになったという。そして1974年1月場所、14勝1敗で初優勝して大関に昇進すると、5月場所で2度目の優勝。翌7月場所も優勝決定戦に進み、史上最年少の21歳2ヶ月で横綱まで一挙に駆け上がった。関脇・大関昇進・初優勝は大鵬に譲ったものの十両・幕内・三役の昇進記録はいずれも当時の史上最年少記録で、しかもそのいずれもが後に貴乃花に更新されたが、横綱昇進時の最年少記録は現在も保持している。
横綱時代
横綱昇進が決まると、師匠はかつて自分のために後援会が用意しながら横綱昇進を果たせなかったために眠っていた三ツ揃いのまわしを提供、北の湖は引退までこれを使い続けた。土俵入りの稽古は当時の春日野理事長(栃錦)の指導で行なわれた。自身の弟子ではないにも関わらず理事長直々の指導という珍しいことになったのには春日野部屋と三保ヶ関部屋は同じ出羽海一門という理由もあるが、春日野親方は以前から北の湖をかわいがっており、実子がいないため養子に迎えたいと思っていた程であることも影響している。
5場所連続優勝した1978年前後が全盛期と見られる。「憎らしいほど強い」と言われ、敗れると観衆が湧いた。悪役的な扱いをされることも多く、1960年代に子供の好きなものが「巨人、大鵬、卵焼き」と言われたのをもじり、嫌いなものの代名詞として「江川、ピーマン、北の湖」という言葉が生まれた(ただし「巨人、大鵬、卵焼き」ほど定着することはなかった)。他にも「不沈艦」や「モンスター」というあだ名も生まれた。
北の湖が嫌われた大きな理由の1つに挙げられている理由が、「倒した相手が起きあがる際に手を貸さず、背を向けてさっさと勝ち名乗りを受けてしまう」ことだった。この理由については、北の湖自身が「自分が負けた時に相手に手を貸されたら屈辱と思うからだ」と語っている。
1977年3月場所は全勝の北の湖を1敗の輪島が追いかける展開だったが、14日目の結び前に輪島が敗れ、結びで北の湖が若三杉(のちの2代若乃花)を破って優勝を決めた瞬間、館内には不満や抗議の意味で座布団が舞うという異常な事態となった。強い横綱が敗れ金星を提供してしまった際に、勝った下位力士を讃える意味で座布団が舞うことは多いが、横綱が勝って座布団が舞うというケースは極めて異例。しかしこれに動じず北の湖は千秋楽も勝って自身初の全勝優勝を果たしている。
また、1978年1月場所は3回目の全勝優勝を果たすと共に、当時の通算(幕内)連続勝ち越し記録保持者だった玉の海の27場所を塗り替え、単独1位となる28場所目の新記録を達成。さらに1978年9月場所は14回目の優勝と同時に、幕内連続12勝以上勝利が12場所となったが、これも当時歴代1位の記録だった。そして1979年11月場所では10勝5敗に終わったものの、当時幕内連続2桁勝利記録保持者だった大鵬の25場所を上回る、26場所目の新記録を達成した。
なお年間最多勝も1974年に初受賞となり、以降1981年まで通算7回も受賞(ただし1976年は77勝13敗の輪島が受賞)したが、これは2012年現在においても史上最多記録である。
北の湖と同時代には絶大な人気を誇った美男力士が多く(貴ノ花、2代若乃花、千代の富士、蔵間など)、そういった人気者をなぎ倒す北の湖は必然的に敵役となる運命にあった。それでも真摯に土俵を務める姿や圧倒的勝負強さから、北の湖に魅了されるファンも多かった。
先輩横綱の輪島は最高の好敵手であり、2人で「輪湖(わうみ、りんこ)時代」を築いた。[6]
特に1975年9月~1978年1月までの15場所間は、千秋楽結びの一番は、全て輪島-北の湖という対戦であり、千秋楽結び対戦連続回数15回は史上1位である。2位は、朝青龍-白鵬の7回。ちなみに、輪島-北の湖による千秋楽結び対戦回数は22回あり、曙-貴乃花の27回に次いで、史上2位である。
また、1976・77年は12場所のうち輪湖両横綱による千秋楽相星決戦が4度(1976年1月、1976年11月、1977年1月、1977年11月)、両者優勝圏内による対決が3度(1976年5月、1976年7月、1977年7月、その結果優勝決定戦が1度(1976年5月))実現した。優勝も輪島5回、北の湖5回と実力は全く伯仲して、真の「輪湖時代」を迎えたといってよい。
1976年~1977年の2年間の輪島、北の湖の成績は、下記の通りである。
場所 | 輪島成績 | 北の湖成績 | 優勝力士 | 備考 |
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1976年1月場所 | 12勝3敗 | 13勝2敗 | 北の湖 | 千秋楽2敗同士相星決戦で、北の湖勝利。 |
1976年3月場所 | 13勝2敗 | 10勝5敗 | 輪島 | 千秋楽対戦は、輪島勝利。 |
1976年5月場所 | 13勝2敗 | 13勝2敗 | 北の湖 | 千秋楽輪島2敗、北の湖1敗で対戦。輪島勝利。優勝決定戦は、北の湖勝利。 |
1976年7月場所 | 14勝1敗 | 12勝3敗 | 輪島 | 千秋楽輪島1敗、北の湖2敗で対戦。 輪島勝利。 |
1976年9月場所 | 12勝3敗 | 10勝5敗 | 魁傑 | 千秋楽対戦は、輪島勝利。 |
1976年11月場所 | 13勝2敗 | 14勝1敗 | 北の湖 | 千秋楽1敗同士相星決戦で、北の湖勝利。 |
1977年1月場所 | 13勝2敗 | 12勝3敗 | 輪島 | 千秋楽2敗同士相星決戦で、輪島勝利。 |
1977年3月場所 | 12勝3敗 | 15勝0敗 | 北の湖 | 千秋楽対戦は、北の湖勝利。 |
1977年5月場所 | 11勝4敗 | 12勝3敗 | 若三杉(後の若乃花(2代)) | 千秋楽対戦は、北の湖勝利。 |
1977年7月場所 | 15勝0敗 | 13勝2敗 | 輪島 | 千秋楽は輪島全勝、北の湖1敗で対戦。輪島勝利。 |
1977年9月場所 | 10勝5敗 | 15勝0敗 | 北の湖 | 千秋楽対戦は、北の湖勝利。 |
1977年11月場所 | 14勝1敗 | 13勝2敗 | 輪島 | 千秋楽1敗同士相星決戦で、輪島勝利。 |
1976年=輪島:77勝13敗(優勝2回)、北の湖72勝18敗(優勝3回)
1977年=輪島:75勝15敗(優勝3回)、北の湖80勝10敗(優勝2回)
※このように、1976年~1977年の2年12場所間で、輪湖両横綱が千秋楽結びの対戦で、両者とも優勝圏内での対戦が7度実現した(そのうち、相星決戦は4度である)
。
※また、1974年(昭和49年)7月場所も、千秋楽輪島2敗、北の湖1敗(当時大関)で対戦が実現(この時は、輪島勝利。優勝決定戦も輪島が制し、逆転優勝を果たした。北の湖は、場所後横綱昇進を果たしている)。
優勝回数24回、連勝記録32勝、幕内での50場所連続勝ち越し、37場所連続2桁勝利の堂々たる記録を持つ。1978年に記録した年間通算82勝は、2005年の1月~11月の年6場所で第68代横綱・朝青龍(年間通算84勝)に超えられるまで、27年間も保持された最高記録である。また、1977年9月~1978年7月場所までと数え方を変えた場合ではあるが、かつて1年6場所で85勝5敗という最高記録も保有していた。これも第69代横綱・白鵬が、2008年7月~2009年5月場所にかけて北の湖の記録に並んだ後、さらに2009年1月~11月場所の年6場所で86勝4敗の年間最多勝ち星でこの記録を更新した。[7]
現在も大相撲史上最長記録である、37場所連続2桁勝利を続けていた1975年9月場所から1981年9月場所までの6年間は、ほぼすべての場所で終盤まで優勝争いの中心に存在し続けた。また初土俵から1度も休場しない抜群の安定感を誇ったが、1981年の夏巡業中に右膝を痛めたことが響き、同年11月場所9日目でついに不戦敗・途中休場した。連続勝ち越し及び連続2桁勝利はここでストップとなった。それでも昇進後7年間も休場しない横綱は他に例がなかった。
翌1982年1月場所は優勝したものの、次の3月場所は11勝止まり。以後は足腰の故障との戦いが続き、5月場所は途中休場、7月場所は初の全休。休場明けの9月場所は初日に平幕大寿山(のちの太寿山)に吊り出される、という全盛期には考えられない負け方。その後、勝ち進み、立ち直ったかに見えたが、終盤に崩れ10勝止まり。11月場所と翌年1月場所は途中休場、さらに3月から7月場所にかけては3場所連続の全休。このように休場の連続で、並の横綱なら完全に引退に追い込まれているような状況にも関わらず、北の湖にそれが許された理由は、長年に渡って相撲界を立派に支えてきた功績を評されてのものであった。しかし、さすがに9月場所は進退を賭し、臨むこととなる。この場所、初日から4連勝したが、その相撲で小結大ノ国(のちの大乃国)を破った際、脚を故障、再び途中休場してしまう。今度こそ事情はどうあれ休場は即引退、という状況の11月場所は11勝し、終盤まで優勝争いに加わり引退危機を脱した。しかし、明くる1984年1月場所では8勝7敗に終わり、場所後の横綱審議委員会でも「気の毒で見ていられない」「きれいに引退したほうが良い」などの声が相次いだ。3月場所は10勝と、かつてなら批判にさらされたこの成績もこの頃になると「良くやった」と見る向きが多かったことからも、この頃の北の湖の力に対する評価の程が分る。ついに第一人者の座を千代の富士や、隆の里に明け渡し、完全に世代交代してしまったかと思われていた5月場所、久々の優勝を15戦全勝で果たした。この場所13日目に弟弟子の大関北天佑が、優勝を争った隆の里を下した瞬間に北の湖の優勝が決定したのだが、控えに座る北の湖に北天佑が土俵上でニッコリ微笑むと、北の湖も思わず笑みを返したシーンは、好角家の間では特に有名である。結果的にこれが北の湖自身の最後の優勝となった。
全盛期を過ぎ力が衰えたことへの同情から、この時期になるとかつての悪役イメージは薄れ、勝って拍手が贈られることもあった。後年、北の湖は「(観客から)負けろと言われていた頃はこっちも燃えて来る性格だから良かったのだが、引退間際になって頑張れと言われた時は自分でも情けなかった。そのために勝ちたいという意欲も薄れてきてしまっていた」と述懐している。
5月場所の全勝優勝を期に、さらなる復活を期待された北の湖だったが、それも長くは続かなかった。翌7月場所は序盤こそ前場所の勢いを継続するかのように、快勝の連続であったが11勝にとどまり、これが最後の皆勤場所となった。場所前の評で好調が伝えられた9月場所は初日から、よもやの連敗(横綱昇進後は初)で途中休場、11月場所は若手になすすべもなく敗れ、連続の途中休場。大横綱の引き際を疑問視する声が相次いだ。
翌年の1985年1月場所、こけら落としの新両国国技館の土俵に現役で臨んだが、実は怪我が完治せず土俵に上がれる体ではなかった。それでも、春日野理事長(当時)から「晴れの舞台に横綱が休場することはできない。潔く散る覚悟で出よ」との言葉を受けて強行出場となる。新国技館での北の湖は初日旭富士、2日目多賀竜に全く良い所なく敗れて2連敗、結局勝ち星を一つも挙げることなく、持っていた年寄株を人に貸していたため、横綱特権での5年時限の年寄襲名前提で引退届を提出した(当時は優勝32回の大鵬しか一代年寄の例がなかった)。引退表明後、協会より現役時代の功績に対し一代年寄が授与され、一代年寄北の湖となった。奇遇にも、土俵上での最後の黒星を喫した多賀竜からは、前の場所に現役最後の白星を挙げてもいる。
輪湖 全対戦一覧
輪湖両雄の対戦は、1972年7月場所~1981年1月場所の52場所間に44回実現し、千秋楽結びの一番の対戦は史上2位の22回、千秋楽両者優勝圏内の対戦が8回(うち、相星決戦が4回)、水入りの大勝負が3回と、数多くの名勝負が展開された。 千秋楽(太字)は、千秋楽結びの一番を示す。
場所 | 対戦日 | 輪島勝敗 (通算成績) |
北の湖勝敗 (通算成績) |
優勝力士 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|
1972年7月場所 | 13日目 | ○(1) | ●(0) | 高見山 | 初対戦 |
1972年9月場所 | 12日目 | ○(2) | ●(0) | 北の富士 | |
1972年11月場所 | - | - | - | 琴桜 | 対戦なし。輪島新大関 |
1973年1月場所 | 初日 | ●(2) | ○(1) | 琴桜 | |
1973年3月場所 | 10日目 | ○(3) | ●(1) | 北の富士 | |
1973年5月場所 | 4日目 | ○(4) | ●(1) | 輪島(2) | |
1973年7月場所 | 7日目 | ○(5) | ●(1) | 琴桜 | 輪島新横綱 |
1973年9月場所 | 8日目 | ○(6) | ●(1) | 輪島(3) | |
1973年11月場所 | 5日目 | ○(7) | ●(1) | 輪島(4) | |
1974年1月場所 | 初日 | ●(7) | ○(2) | 北の湖(1) | |
1974年3月場所 | 12日目 | ●(7) | ○(3) | 輪島(5) | 北の湖新大関 |
1974年5月場所 | 千秋楽 | ○(8) | ●(3) | 北の湖(2) | |
1974年7月場所 | 千秋楽 | ○(9) | ●(3) | 輪島(6) | 千秋楽輪島2敗、北の湖1敗で対戦。 輪島勝利。優勝決定戦も輪島が勝利。 |
1974年9月場所 | 千秋楽 | ○(10) | ●(3) | 輪島(7) | 北の湖新横綱 |
1974年11月場所 | 千秋楽 | ○(11) | ●(3) | 魁傑 | |
1975年1月場所 | 千秋楽 | ○(12) | ●(3) | 北の湖(3) | |
1975年3月場所 | - | - | - | 貴ノ花 | 輪島休場により対戦なし。 |
1975年5月場所 | - | - | - | 北の湖(4) | 輪島休場により対戦なし。 |
1975年7月場所 | - | - | - | 金剛 | 輪島休場により対戦なし。 |
1975年9月場所 | 千秋楽 | ●(12) | ○(4) | 貴ノ花 | |
1975年11月場所 | 千秋楽 | ●(12) | ○(5) | 三重ノ海 | |
1976年1月場所 | 千秋楽 | ●(12) | ○(6) | 北の湖(5) | 千秋楽2敗同士の相星決戦 |
1976年3月場所 | 千秋楽 | ○(13) | ●(6) | 輪島(8) | |
1976年5月場所 | 千秋楽 | ○(14) | ●(6) | 北の湖(6) | 千秋楽輪島2敗、北の湖1敗で対戦 優勝決定戦は北の湖勝利。 |
1976年7月場所 | 千秋楽 | ○(15) | ●(6) | 輪島(9) | 千秋楽輪島1敗、北の湖2敗で対戦 |
1976年9月場所 | 千秋楽 | ○(16) | ●(6) | 魁傑 | |
1976年11月場所 | 千秋楽 | ●(16) | ○(7) | 北の湖(7) | 千秋楽1敗同士の相星決戦 |
1977年1月場所 | 千秋楽 | ○(17) | ●(7) | 輪島(10) | 千秋楽2敗同士の相星決戦 |
1977年3月場所 | 千秋楽 | ●(17) | ○(8) | 北の湖(8) | 水入りの大勝負で北の湖勝利。 |
1977年5月場所 | 千秋楽 | ●(17) | ○(9) | 若三杉(のちの若乃花(2代) | |
1977年7月場所 | 千秋楽 | ○(18) | ●(9) | 輪島(11) | 千秋楽は輪島全勝、北の湖1敗で対戦 |
1977年9月場所 | 千秋楽 | ●(18) | ○(10) | 北の湖(9) | |
1977年11月場所 | 千秋楽 | ○(19) | ●(10) | 輪島(12) | 千秋楽1敗同士の相星決戦 |
1978年1月場所 | 千秋楽 | ●(19) | ○(11) | 北の湖(10) | |
1978年3月場所 | - | - | - | 北の湖(11) | 輪島休場により対戦なし。 |
1978年5月場所 | 千秋楽 | ●(19) | ○(12) | 北の湖(12) | |
1978年7月場所 | 14日目 | ●(19) | ○(13) | 北の湖(13) | 13戦全勝同士で対戦 水入りの大勝負で北の湖勝利。 |
1978年9月場所 | - | - | - | 北の湖(14) | 輪島休場により対戦なし。 |
1978年11月場所 | 14日目 | ○(20) | ●(13) | 若乃花(2代) | |
1979年1月場所 | 13日目 | ●(20) | ○(14) | 北の湖(15) | |
1979年3月場所 | 14日目 | ●(20) | ○(15) | 北の湖(16) | 水入りの大勝負で北の湖勝利。 |
1979年5月場所 | 14日目 | ○(21) | ●(15) | 若乃花(2代) | |
1979年7月場所 | 13日目 | ○(22) | ●(15) | 輪島(13) | |
1979年9月場所 | 千秋楽 | ●(22) | ○(16) | 北の湖(17) | |
1979年11月場所 | 14日目 | ●(22) | ○(17) | 三重ノ海 | |
1980年1月場所 | - | - | - | 三重ノ海 | 輪島休場により対戦なし。 |
1980年3月場所 | 14日目 | ●(22) | ○(18) | 北の湖(18) | |
1980年5月場所 | 14日目 | ●(22) | ○(19) | 北の湖(19) | |
1980年7月場所 | - | - | - | 北の湖(20) | 輪島休場により対戦なし。 |
1980年9月場所 | 14日目 | ●(22) | ○(20) | 若乃花(2代) | |
1980年11月場所 | 13日目 | ○(23) | ●(20) | 輪島(14) | |
1981年1月場所 | 14日目 | ●(23) | ○(21) | 千代の富士 |
- 北の湖横綱昇進以前の対戦成績(1974年7月場所まで)は、輪島の9勝3敗。
- 両者横綱同士の対戦成績(1974年9月場所以降)は、北の湖の18勝14敗。
- 1974年9月場所~1977年11月場所までは、輪島の10勝7敗で、輪島やや優勢であった(優勝回数は、1977年11月場所まで、輪島12回、北の湖9回)。
- 1978年1月場所以降は、北の湖の11勝4敗で、北の湖圧倒的優勢であった(優勝回数は、1981年1月場所まで、輪島2回、北の湖11回)。1978年1月場所以降は、力関係が完全に逆転し、北の湖の独走時代であった。
強さ
全く手をつけず(手をつける仕草を見せるだけ。しかしながら当時はほとんどの幕内力士が手を下ろす立合いを行っていなかった)、中腰で低い重心から立合いかちあげるか、右上手を引いて、相手を吹き飛ばすかのように土俵外へ出すのが代表的な取り口。左四つに組み止めての右上手投げには威力があった。
両廻しを充分に引きつけ、腰をよく落としての怒涛の寄り、巨腹に乗せた吊りも得意とし、地力の強さは際立った。一方で巻き替えが上手く、取り組みで常に多用したため、評論家からは「横綱の相撲としてはいかがなものか」と批判もされた。しかし、元横綱安藝ノ海には、「あの巻き替えがあるから勝てるのだ」と絶賛されていた。右四つになっても右腕(かいな)を返して腰を下ろせば盤石で、こうなったときの識者からの評価は高かった。
突っ張りもあり、関脇までは押し相撲が主体だったが、足首を怪我してからは四つ相撲に改めた。巨体ながら非常にスピードがあり、器用さも兼ね備え、その相撲には独特の躍動感があった。
引退直前に数回対戦したものを除くと、現役時代に北の湖に勝ち越した力士は少ない。ほとんどの力士には大きく勝ち越し、完封もいる。典型的なのは栃光で、29戦全勝というもの。栃光は取り口にムラがあったと評されるが関脇まで登って横綱と29回も当る番付を保持しており、決して弱い力士ではない。もう一人、蔵間に対しても17戦全勝と圧倒している。後の横綱三重ノ海が、全盛期の北の湖に何とか勝とうと、奇策猫騙しをしたのも話題になった(ただし奇策は通じず三重ノ海は敗れている)。
北の湖は負けると騒がれた。殊勲者として昇進後前半では金剛、黒姫山、麒麟児。後半になると栃赤城、若島津、大寿山などがいる。若島津とは左がっぷり四つから投げの打ち合い、あるいは巻き替え合い。大寿山には引き技をよく食らい、一度は吊り出しに敗れた。また、現役後半の好敵手千代の富士とは、横綱に昇進してからは分が悪かった。
強烈に強い反面、一度負けた相手に翌場所も連敗するという脆さを見せることがあった。また初顔合わせの相手に取りこぼすことも多かった。4代朝潮とは相性が悪く、7勝13敗(不戦敗1含む)という不本意な成績に終わっている。朝潮との取り組みでは自分の相撲を忘れてしまっていたとコメントしているとともに、遠まわしに「朝潮の顔がおかしくて、力が抜けた」とも言っている。いずれも全盛期を含めてのことである。北の湖はせっかちな点があり、立ち合いまでの所作が速く、相手の所作が遅いといらだちの表情を見せ、制裁の意味からか勝負を急ぐところがあった。朝潮を苦手としたのもこのためとの見方がある。朝潮は立会いまでの動作が遅く、相手が横綱でも合わせようとしないので、北の湖がますます苛立ったのではないかと思われるからだ。
優勝決定戦に弱く、負けて優勝を逃すことが続いた。大関だった1974年7月場所では、横綱昇進を決定的とし2場所連続優勝という花を添えるべく臨んだ千秋楽で、横綱の輪島に本割り、決定戦と連敗。まず負けないだろうと思われた相手とのときも勝てず、優勝決定戦では初回から実に4連敗している。1976年5月場所、輪島に勝ってやっと決定戦初勝利。1978年3月場所、5月場所と2場所続けて大関若三杉に勝つまで「決定戦に弱い横綱」と評された。通算成績は3勝5敗である(対輪島1勝1敗、対魁傑1敗、対貴ノ花2敗、対若三杉2勝、対千代の富士1敗)。千代の富士と決定戦を戦った1981年1月場所のように「自力逆転優勝(直接対決で並び、決定戦で勝つケース)なるか」というところまで、逆転優勝を達成することはなかった。
通算24回の優勝のうち東京場所で16回優勝した(大鵬と並ぶ最多タイ記録)が、地方場所ではなかなか優勝できず、このため特に横綱昇進直後には「地方場所に弱い」と評されることもあった。結局地方場所の初優勝は横綱昇進から2年以上経った1976年11月場所(7回目)であった(11月場所での生涯唯一の優勝)。その後は「荒れる春場所」と言われる3月場所で5連覇(1977年~1981年)を果たすなどして評価を覆したが、1981年3月場所の優勝(21回目)を最後に引退までの約4年間地方場所での優勝はなかった。地方場所での優勝は結局8回で大鵬(東京場所、地方場所共に16回ずつ優勝)、千代の富士(東京場所で13回、地方場所で18回優勝)に比べると東京場所での強さが目立っていた。
負ける際は、土俵際でしぶとく粘ったりせず、案外あっさりと土俵を割ることも多かった。比較的怪我が少なく、10年以上横綱を務められたのは、無理な体勢で頑張ることが少なかったからという意見がある。
親方として
現役時代に所属していた三保ヶ関部屋には、既に師匠の長男であった増位山が部屋の後継者となることが暗黙の了解となっており、また、北の湖も自身の抜群の実績と人柄が評価され、現役引退後の三保ヶ関部屋からの独立と新部屋創設は規定路線とされていた。
当人やその周囲は、大坂相撲ゆかりで三保ヶ関とも縁のある年寄名跡小野川の襲名と小野川部屋再興の意向を持っていたが、現役時の実績から一代年寄「北の湖」を贈られ、これを受け入れ北の湖部屋を創設する。北の湖部屋は同じく一代年寄である大鵬幸喜の「大鵬部屋」(現在の大鵬相撲道場・大嶽部屋)と同じ江東区清澄二丁目に、50mほどの距離をおいて開かれ、地元住民によってこの両部屋が面する通りは「横綱通り」と呼び習わされた。
引退直後に師匠(先代三保ヶ関、元先代増位山)と父が1日違いで亡くなり、葬儀が同じ日に行われることになった。この時は部屋関係者が帰郷を勧める中、「(師匠は)自分にとっては親以上の恩人」と、親戚中に手紙を出して父の葬儀を欠席し師匠の葬儀への出席した。
師匠として6人の関取を輩出している(内弟子・他部屋からの移籍を含むと、部屋自体からの関取は14人)。2012年3月場所で、臥牙丸が小結となり、部屋念願の三役力士が誕生した。
日本相撲協会では引退の2年後に審判委員に抜擢されたことを皮切りに審判部副部長など監事(現・副理事)、理事として要職を歴任し、2002年から2008年9月8日まで理事長を務めた(2005年の二子山事業部長死去後は翌年初場所まで事業部長兼務)。
日本相撲協会理事長として
理事長として、出羽海→境川理事長が実施した「年寄株貸借の禁止」という改革を取りやめ、旧に復した。また「協会自主興行巡業」も旧の勧進元制に復した。さらに、総合企画部の設置や広報部の強化によるファンサービスの充実を実施している。土俵の充実を目指し、幕内・十両の定員をそれぞれ東西1枚(2人)増員させた代わりに公傷制度を廃止したり、韓国・中国巡業など海外公演を実行に移した。
2006年2月より理事長3期目を迎えた。協会No.2の事業部長に二所ノ関一門の先輩理事を2期据えてきたが、3期目は同じ出羽海一門の武蔵川を事業部長にすることで、「攻め」の姿勢も見せている。また、勧進元制に復しながらも実績不振に陥っている巡業を強化するため、2期目まで監事2名だった巡業部副部長を契約推進担当(高田川親方)を含めた3名にして巡業部スタッフの強化をした。
2006年5月25日放送のフジテレビ『クイズ$ミリオネア』に息子の北斗潤と一緒に出演した(輪島も応援として出演していた)。
2006年12月末に小野川の年寄名跡を再取得した(現役時に一度取得したが、巌雄に譲っていた)が、現在は潮丸元康、燁司大を経て直弟子の北桜英敏に名跡を貸している。
2007年7月30日、一連の朝青龍バッシング騒動について、朝青龍と師匠の高砂親方から説明と謝罪を受ける。同年8月1日、朝青龍に対して二場所出場停止、4ヶ月自宅・部屋・病院以外で特別な事情がない限り外出を認めない謹慎、4ヶ月30%減俸の処分を下す。
2007年9月10日、東京相撲記者クラブ会友杉山邦博の相撲取材証を、北の湖敏満名義で没収した。2007年7月から続いていた横綱朝青龍の問題に関し、テレビ番組を通じて横綱朝青龍の謝罪を求め、間接的に日本相撲協会批判を展開したことが理由とされる。この件に関しては、東京相撲記者クラブが抗議し、他の報道機関からも「言論統制」と非難された。「会友」ではなく「相撲評論家」の肩書きだったのが問題だったとして、12日になって措置は撤回し取材証は返還した。しかし、これからは「記者クラブに一任した上で」としたが、これからも同じような没収をする可能性にも触れたため、記者クラブとは溝が深まった。
2008年2月、定例の役員選挙で出羽海一門代表として理事に再選、役員の互選により理事長に4選された。広報部長に九重(元・千代の富士)、審判部副部長に貴乃花を抜擢した。
在任中に相次ぐ逮捕・不祥事
2007年7月、時津風部屋で序ノ口力士が時津風親方や兄弟子や親方から集団リンチを受けて死亡した時津風部屋力士暴行死事件が起きたことを受けて、文部科学省は日本相撲協会と北の湖理事長に対し、事件の経緯や隠蔽工作の有無などについての説明を求めた。
北の湖は9月29日に文科省を訪れ事件の経緯を説明するとともに、協会の管理に不備があったことを認め、協会を代表して渡海文科相に謝罪した。10月5日には時津風親方を解雇した。協会各部に対しては事件の真相究明と再発防止、そして過去に類似した事件がなかったかどうかについての調査を指示、さらに「再発防止検討委員会」を設置した。
2008年2月7日、元・双津竜(前・時津風親方)が愛知県警に傷害致死容疑で逮捕されたことを受け、就任したばかりの九重広報部長と伊勢ノ海総合企画部長を報告のために文部科学省に赴かせた事は、「なぜ理事長自らが文部科学省に行って報告しないのか」と批判を呼んだ。
2008年9月8日、ロシア人力士の大麻問題が世間の耳目を集める中で開催された日本相撲協会の臨時理事会において、理事長を辞任し、理事(大阪場所担当部長)に降格。後任理事長には武蔵川晃偉理事(第57代横綱三重ノ海)が選出された。。2010年8月に後任の武蔵川理事長が辞任した際の理事長選挙に再び立候補したものの、4票しか獲得できず、8票獲得した放駒輝門理事に敗れた。
2011年4月6日、大相撲八百長問題で弟子が関与したことを受けて、理事から役員待遇委員(大阪場所担当部長代理)に降格。
理事長復帰
2012年1月30日に行われた日本相撲協会理事選挙に再び立候補し、理事長に当選。過去に辞任した理事長が復帰を果たしたのは、日本相撲協会史上初めてである。
主な成績
通算成績
- 通算成績:951勝350敗107休 勝率.731(通算勝星951は歴代4位)
- 幕内成績:804勝247敗107休 勝率.765(幕内勝星804は歴代3位)
- 横綱成績:670勝156敗107休 勝率.811(横綱勝星670、横綱出場818(不戦敗除く)とも歴代1位)
- 幕内在位:78場所
- 横綱在位:63場所(歴代1位)
- 大関在位:3場所
- 三役在位:4場所(関脇2場所、小結2場所)
- 年間最多勝:7回(歴代最多受賞回数、1977年~1981年の5年連続最多勝も歴代最多タイ記録)
- 1974年(73勝17敗)、1975年(71勝19敗)、1977年(80勝10敗)、1978年(82勝8敗・当時新記録)、1979年、1980年(共に77勝13敗)、1981年(69勝15敗6休)
- 連続6場所勝利:85勝(1977年9月場所~1978年7月場所)
- 幕内連続勝ち越し記録:50場所(歴代1位・通算では武蔵丸の55場所に次いで歴代2位、1973年7月場所~1981年9月場所)
- 幕内連続2桁勝利記録:37場所(歴代1位・1975年9月場所~1981年9月場所)
- 幕内連続12勝以上勝利:12場所(当時1位・現在は白鵬の21場所・貴乃花の13場所に次いで歴代3位、1976年11月場所~1978年9月場所)
- 金星配給:53個(歴代1位)
連勝記録
北の湖の最多連勝記録は、32連勝である。(1979年1月場所8日目~1979年5月場所9日目)
下記に、北の湖のその他の連勝記録を記す。(20連勝以上対象)
回数 | 連勝数 | 期間 | 止めた力士 | 備考 |
---|---|---|---|---|
1 | 21 | 1976年11月場所6日目~1977年1月場所11日目 | 若三杉 | |
2 | 22 | 1977年3月場所初日~1977年5月場所7日目 | 黒姫山 | 1977年3月場所全勝優勝 |
3 | 24 | 1978年5月場所千秋楽~1978年9月場所8日目 | 高見山 | 1978年7月場所全勝優勝 |
4 | 32 | 1979年1月場所8日目~1979年5月場所9日目 | 三重ノ海 | 1979年3月場所全勝優勝 |
5 | 24 | 1980年5月場所10日目~1980年9月場所3日目 | 千代の富士 | 1980年7月場所全勝優勝 |
6 | 20 | 1981年5月場所9日目~1981年7月場所13日目 | 朝汐 | |
7 | 20 | 1984年5月場所初日~1984年7月場所5日目 | 旭富士 | 1984年5月場所全勝優勝 |
- 上記の通り、20連勝以上7回、30連勝以上1回記録している
各段優勝
- 幕内最高優勝:24回
- 全勝7回(歴代3位タイ)
- 連覇:5連覇(1978年1月場所~1978年9月場所)
- 同点5回、次点12回
三賞・金星
場所別成績
一月場所 初場所(東京) |
三月場所 春場所(大阪) |
五月場所 夏場所(東京) |
七月場所 名古屋場所(愛知) |
九月場所 秋場所(東京) |
十一月場所 九州場所(福岡) |
|
---|---|---|---|---|---|---|
1967年 (昭和42年) |
(前相撲) | 東序ノ口13枚目 5–2 |
東序二段95枚目 4–3 |
西序二段49枚目 2–5 |
西序二段82枚目 4–3 |
西序二段55枚目 4–3 |
1968年 (昭和43年) |
東序二段36枚目 7–0 |
西三段目20枚目 0–7 |
西三段目64枚目 6–1 |
西三段目31枚目 2–5 |
東三段目55枚目 4–3 |
東三段目39枚目 6–1 |
1969年 (昭和44年) |
東三段目5枚目 6–1 |
東幕下38枚目 2–5 |
西幕下56枚目 4–3 |
東幕下51枚目 5–2 |
西幕下30枚目 3–4 |
東幕下37枚目 4–3 |
1970年 (昭和45年) |
東幕下29枚目 5–2 |
東幕下16枚目 4–3 |
西幕下13枚目 4–3 |
西幕下10枚目 5–2 |
東幕下3枚目 2–5 |
西幕下10枚目 5–2 |
1971年 (昭和46年) |
西幕下5枚目 6–1 |
東幕下筆頭 5–2 |
東十両10枚目 9–6 |
西十両4枚目 6–9 |
西十両8枚目 9–6 |
西十両2枚目 9–6 |
1972年 (昭和47年) |
東前頭12枚目 5–10 |
西十両3枚目 10–5 |
西前頭11枚目 9–6 |
東前頭7枚目 9–6 |
東前頭3枚目 6–9 |
西前頭6枚目 10–5 |
1973年 (昭和48年) |
東小結 4–11 |
西前頭5枚目 9–6 敢 |
西前頭筆頭 6–9 ★ |
東前頭4枚目 8–7 |
東小結 8–7 |
東関脇 10–5 殊 |
1974年 (昭和49年) |
東関脇 14–1 殊 |
東大関 10–5 |
東大関 13–2 |
東大関 13–2[8] |
西横綱 11–4 |
西横綱 12–3[9] |
1975年 (昭和50年) |
東横綱 12–3 |
東横綱 13–2[10] |
東横綱 13–2 |
東横綱 9–6 |
東横綱 12–3[10] |
東横綱 12–3 |
1976年 (昭和51年) |
東横綱 13–2 |
東横綱 10–5 |
西横綱 13–2[8] |
西横綱 12–3 |
西横綱 10–5 |
西横綱 14–1 |
1977年 (昭和52年) |
東横綱 12–3 |
西横綱 15–0 |
東横綱 12–3 |
東横綱 13–2 |
西横綱 15–0 |
東横綱 13–2 |
1978年 (昭和53年) |
西横綱 15–0 |
東横綱 13–2[11] |
東横綱 14–1[11] |
東横綱 15–0 |
東横綱 14–1 |
東横綱 11–4 |
1979年 (昭和54年) |
東張出横綱 14–1 |
東横綱 15–0 |
東横綱 13–2 |
西横綱 12–3 |
西横綱 13–2 |
東横綱 10–5 |
1980年 (昭和55年) |
東張出横綱 12–3 |
西横綱 13–2 |
東横綱 14–1 |
東横綱 15–0 |
東横綱 11–4 |
西横綱 12–3 |
1981年 (昭和56年) |
東張出横綱 14–1[12] |
東横綱 13–2 |
東横綱 14–1 |
東横綱 13–2 |
東横綱大関 10–5 |
西横綱大関 5–4–6[13] |
1982年 (昭和57年) |
西横綱大関 13–2 |
東横綱 11–4 |
西横綱 9–4–2[14] |
東張出横綱 休場 0–0–15 |
東張出横綱 10–5 |
東張出横綱 9–3–3[15] |
1983年 (昭和58年) |
西横綱 5–4–6[16] |
西横綱 休場[17] 0–0–15 |
西横綱 休場[18] 0–0–15 |
西横綱 休場[19] 0–0–15 |
東張出横綱 4–1–10[20] |
東張出横綱 11–4 |
1984年 (昭和59年) |
東張出横綱 8–7 |
東張出横綱 10–5 |
西横綱 15–0 |
東横綱 11–4 |
東横綱 0–3–12[21] |
東張出横綱 3–4–8[22] |
1985年 (昭和60年) |
西横綱 引退 0–3–0 |
x | x | x | x | x |
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。 優勝 引退 休場 十両 幕下 三賞:敢=敢闘賞、殊=殊勲賞、技=技能賞 その他:★=金星 番付階級:幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口 幕内序列:横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列) |
- 幕内通算勝利・敗戦・勝率はその場所時点での数字
場所 | 地位 | 勝数 | 敗数 | 休場 | 優勝 | 備考 | 幕内勝 | 幕内負 | 幕内休 | 勝率 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
昭和47年 1 月 | 西前頭12枚目 | 5 | 10 | 0 | 新入幕 | 5 | 10 | 0 | .333 | |
昭和47年 3 月 | ||||||||||
昭和47年 5 月 | 西前頭11枚目 | 9 | 6 | 0 | 再入幕 | 14 | 16 | 0 | .467 | |
昭和47年 7 月 | 東前頭7枚目 | 9 | 6 | 0 | 23 | 22 | 0 | .511 | ||
昭和47年 9 月 | 東前頭3枚目 | 6 | 9 | 0 | 29 | 31 | 0 | .483 | ||
昭和47年11月 | 西前頭6枚目 | 10 | 5 | 0 | 39 | 36 | 0 | .520 | ||
昭和48年 1 月 | 東小結 | 4 | 11 | 0 | 新小結 | 43 | 47 | 0 | .478 | |
昭和48年 3 月 | 西前頭5枚目 | 9 | 6 | 0 | 敢闘賞 | 52 | 53 | 0 | .495 | |
昭和48年 5 月 | 西前頭筆頭 | 6 | 9 | 0 | 金星 | 58 | 62 | 0 | .483 | |
昭和48年 7 月 | 東前頭4枚目 | 8 | 7 | 0 | 66 | 69 | 0 | .489 | ||
昭和48年 9 月 | 東小結 | 8 | 7 | 0 | 再小結 | 74 | 76 | 0 | .493 | |
昭和48年11月 | 東関脇 | 10 | 5 | 0 | 新関脇、殊勲賞 | 84 | 81 | 0 | .509 | |
昭和49年 1 月 | 東関脇 | 14 | 1 | 0 | 優勝 (初) | 殊勲賞 | 98 | 82 | 0 | .544 |
昭和49年 3 月 | 東大関 | 10 | 5 | 0 | 新大関 | 108 | 87 | 0 | .554 | |
昭和49年 5 月 | 東大関 | 13 | 2 | 0 | 優勝 (2回目) | 121 | 89 | 0 | .576 | |
昭和49年 7 月 | 東大関 | 13 | 2 | 0 | 優勝同点 | 134 | 91 | 0 | .596 | |
昭和49年 9 月 | 西横綱 | 11 | 4 | 0 | 新横綱 | 145 | 95 | 0 | .604 | |
昭和49年11月 | 西横綱 | 12 | 3 | 0 | 優勝同点 | 157 | 98 | 0 | .616 | |
昭和50年 1 月 | 東横綱 | 12 | 3 | 0 | 優勝 (3回目) | 169 | 101 | 0 | .626 | |
昭和50年 3 月 | 東横綱 | 13 | 2 | 0 | 優勝同点 | 182 | 103 | 0 | .639 | |
昭和50年 5 月 | 東横綱 | 13 | 2 | 0 | 優勝 (4回目) | 195 | 105 | 0 | .650 | |
昭和50年 7 月 | 東横綱 | 9 | 6 | 0 | 204 | 111 | 0 | .648 | ||
昭和50年 9 月 | 東横綱 | 12 | 3 | 0 | 優勝同点 | 216 | 114 | 0 | .655 | |
昭和50年11月 | 東横綱 | 12 | 3 | 0 | 228 | 117 | 0 | .661 | ||
昭和51年 1 月 | 東横綱 | 13 | 2 | 0 | 優勝 (5回目) | 241 | 119 | 0 | .669 | |
昭和51年 3 月 | 東横綱 | 10 | 5 | 0 | 251 | 124 | 0 | .669 | ||
昭和51年 5 月 | 西横綱 | 13 | 2 | 0 | 優勝 (6回目) | 264 | 126 | 0 | .677 | |
昭和51年 7 月 | 西横綱 | 12 | 3 | 0 | 276 | 129 | 0 | .681 | ||
昭和51年 9 月 | 西横綱 | 10 | 5 | 0 | 286 | 134 | 0 | .681 | ||
昭和51年11月 | 西横綱 | 14 | 1 | 0 | 優勝 (7回目) | 300 | 135 | 0 | .690 | |
昭和52年 1 月 | 東横綱 | 12 | 3 | 0 | 312 | 138 | 0 | .693 | ||
昭和52年 3 月 | 西横綱 | 15 | 0 | 0 | 優勝 (8回目) | 全勝 | 327 | 138 | 0 | .703 |
昭和52年 5 月 | 東横綱 | 12 | 3 | 0 | 339 | 141 | 0 | .706 | ||
昭和52年 7 月 | 東横綱 | 13 | 2 | 0 | 352 | 143 | 0 | .711 | ||
昭和52年 9 月 | 西横綱 | 15 | 0 | 0 | 優勝 (9回目) | 全勝 | 367 | 143 | 0 | .720 |
昭和52年11月 | 東横綱 | 13 | 2 | 0 | 380 | 145 | 0 | .724 | ||
昭和53年 1 月 | 西横綱 | 15 | 0 | 0 | 優勝 (10回目) | 全勝 | 395 | 145 | 0 | .731 |
昭和53年 3 月 | 東横綱 | 13 | 2 | 0 | 優勝 (11回目) | 408 | 147 | 0 | .735 | |
昭和53年 5 月 | 東横綱 | 14 | 1 | 0 | 優勝 (12回目) | 422 | 148 | 0 | .740 | |
昭和53年 7 月 | 東横綱 | 15 | 0 | 0 | 優勝 (13回目) | 全勝 | 437 | 148 | 0 | .747 |
昭和53年 9 月 | 東横綱 | 14 | 1 | 0 | 優勝 (14回目) | 451 | 149 | 0 | .752 | |
昭和53年11月 | 東横綱 | 11 | 4 | 0 | 年間最多勝記録 (82) | 462 | 153 | 0 | .751 | |
昭和54年 1 月 | 東張出横綱 | 14 | 1 | 0 | 優勝 (15回目) | 476 | 154 | 0 | .756 | |
昭和54年 3 月 | 東横綱 | 15 | 0 | 0 | 優勝 (16回目) | 全勝 | 491 | 154 | 0 | .761 |
昭和54年 5 月 | 東横綱 | 13 | 2 | 0 | 504 | 156 | 0 | .764 | ||
昭和54年 7 月 | 西横綱 | 12 | 3 | 0 | 516 | 159 | 0 | .764 | ||
昭和54年 9 月 | 西横綱 | 13 | 2 | 0 | 優勝 (17回目) | 529 | 161 | 0 | .767 | |
昭和54年11月 | 東横綱 | 10 | 5 | 0 | 539 | 166 | 0 | .765 | ||
昭和55年 1 月 | 東張出横綱 | 12 | 3 | 0 | 551 | 169 | 0 | .765 | ||
昭和55年 3 月 | 西横綱 | 13 | 2 | 0 | 優勝 (18回目) | 564 | 171 | 0 | .767 | |
昭和55年 5 月 | 東横綱 | 14 | 1 | 0 | 優勝 (19回目) | 578 | 172 | 0 | .771 | |
昭和55年 7 月 | 東横綱 | 15 | 0 | 0 | 優勝 (20回目) | 全勝 | 593 | 172 | 0 | .775 |
昭和55年 9 月 | 東横綱 | 11 | 4 | 0 | 604 | 176 | 0 | .774 | ||
昭和55年11月 | 西横綱 | 12 | 3 | 0 | 616 | 179 | 0 | .775 | ||
昭和56年 1 月 | 東張出横綱 | 14 | 1 | 0 | 優勝同点 | 630 | 180 | 0 | .778 | |
昭和56年 3 月 | 東横綱 | 13 | 2 | 0 | 優勝 (21回目) | 643 | 182 | 0 | .779 | |
昭和56年 5 月 | 東横綱 | 14 | 1 | 0 | 優勝 (22回目) | 657 | 183 | 0 | .782 | |
昭和56年 7 月 | 東横綱 | 13 | 2 | 0 | 670 | 185 | 0 | .784 | ||
昭和56年 9 月 | 東横綱大関 | 10 | 5 | 0 | 幕内連続勝越(50)、幕内連続2桁勝利(37) | 680 | 190 | 0 | .782 | |
昭和56年11月 | 西横綱大関 | 5 | 4 | 6 | 途中休場 | 685 | 194 | 6 | .779 | |
昭和57年 1 月 | 西横綱大関 | 13 | 2 | 0 | 優勝 (23回目) | 698 | 196 | 6 | .781 | |
昭和57年 3 月 | 東横綱 | 11 | 4 | 0 | 709 | 200 | 6 | .780 | ||
昭和57年 5 月 | 西横綱 | 9 | 4 | 2 | 途中休場 | 718 | 204 | 8 | .779 | |
昭和57年 7 月 | 東張出横綱 | 0 | 0 | 15 | 全休 | 718 | 204 | 23 | .779 | |
昭和57年 9 月 | 東張出横綱 | 10 | 5 | 0 | 728 | 209 | 23 | .777 | ||
昭和57年11月 | 東張出横綱 | 9 | 3 | 3 | 途中休場 | 737 | 212 | 26 | .777 | |
昭和58年 1 月 | 西横綱 | 5 | 4 | 6 | 途中休場 | 742 | 216 | 32 | .775 | |
昭和58年 3 月 | 西横綱 | 0 | 0 | 15 | 全休 | 742 | 216 | 47 | .775 | |
昭和58年 5 月 | 西横綱 | 0 | 0 | 15 | 全休 | 742 | 216 | 62 | .775 | |
昭和58年 7 月 | 西横綱 | 0 | 0 | 15 | 全休 | 742 | 216 | 77 | .775 | |
昭和58年 9 月 | 東張出横綱 | 4 | 1 | 10 | 途中休場 | 746 | 217 | 87 | .775 | |
昭和58年11月 | 東張出横綱 | 11 | 4 | 0 | 757 | 221 | 87 | .774 | ||
昭和59年 1 月 | 東張出横綱 | 8 | 7 | 0 | 765 | 228 | 87 | .770 | ||
昭和59年 3 月 | 東張出横綱 | 10 | 5 | 0 | 775 | 233 | 87 | .769 | ||
昭和59年 5 月 | 西横綱 | 15 | 0 | 0 | 優勝 (24回目) | 全勝 | 790 | 233 | 87 | .772 |
昭和59年 7 月 | 東横綱 | 11 | 4 | 0 | 801 | 237 | 87 | .772 | ||
昭和59年 9 月 | 東横綱 | 0 | 3 | 12 | 途中休場 | 801 | 240 | 99 | .769 | |
昭和59年11月 | 東張出横綱 | 3 | 4 | 8 | 途中休場 | 804 | 244 | 107 | .767 | |
昭和60年 1 月 | 西横綱 | 0 | 3 | 引退 | 804 | 247 | 107 | .765 | ||
通算 | 804 | 247 | 107 | 優勝24回 (全勝優勝7回) |
主な力士との幕内対戦成績
力士名 | 勝数 | 負数 | 力士名 | 勝数 | 負数 | 力士名 | 勝数 | 負数 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
青葉城 | 15 | 1 | 青葉山 | 12 | 0 | 朝潮 | 7 | 13 |
旭國 | 27 | 7 | 旭富士 | 3 | 3 | 天ノ山 | 9 | 0 |
荒勢 | 31 | 2 | 板井 | 1 | 1 | 大潮 | 8 | 4 |
巨砲 | 20 | 2 | 大錦 | 6 | 0 | 大乃国 | 3 | 3 |
魁輝 | 12 | 2 | 魁傑 | 26 | 9 | 北尾 | 0 | 1 |
北瀬海 | 10 | 0 | 北の富士 | 2 | 4 | 清國 | 2 | 4 |
麒麟児 | 28 | 4 | 蔵間 | 17 | 0 | 黒瀬川 | 9 | 0 |
黒姫山 | 26 | 8 | 高望山 | 3 | 0 | 琴風 | 20 | 3 |
琴櫻 | 2 | 6 | 小錦 | 0 | 1 | 金剛 | 9 | 5 |
蔵玉錦 | 5 | 1 | 逆鉾 | 3 | 1 | 佐田の海 | 10 | 0 |
陣岳 | 0 | 1 | 大麒麟 | 4 | 6 | 大受 | 20 | 3 |
太寿山 | 6 | 5 | 隆の里 | 15 | 7 | 貴ノ花 | 36 | 10 |
高見山 | 35 | 8 | 多賀竜 | 2 | 1 | 玉輝山 | 6 | 0 |
玉ノ富士 | 23 | 2 | 千代の富士 | 12 | 6 | 出羽の花 | 14 | 3 |
栃赤城 | 13 | 2 | 栃東 | 3 | 2 | 栃光 | 29 | 0 |
長谷川 | 13 | 4 | 富士櫻 | 27 | 7 | 二子岳 | 4 | 0 |
双津竜 | 7 | 0 | 鳳凰 | 10 | 0 | 保志 | 2 | 3 |
舛田山 | 11 | 0 | 前の山 | 2 | 2 | 三重ノ海 | 25 | 13 |
三杉磯 | 4 | 1 | 陸奥嵐 | 3 | 2 | 豊山 | 21 | 0 |
龍虎 | 7 | 1 | 若獅子 | 5 | 0 | 若嶋津 | 6 | 8 |
輪島 | 21 | 23 | 若乃花 | 25 | 18 | 鷲羽山 | 17 | 2 |
脚注
- ^ 北の湖理事長辞任 相撲協会トップで初 東京新聞|TOKYO Web 中日新聞社 2008年09月08日
- ^ 「朝日新聞」2008年9月7日付「天声人語」. 朝日新聞社. 2008年09月08日
- ^ 1967年9月場所の番付で北乃湖と誤記されたことがあった
- ^ この頃のエピソードとして、ちゃんこで丼飯8杯・うどん大盛り2杯・お茶漬け2杯を食べて寝た翌朝、「空腹で眠れなかった」と語ったという。
- ^ 「大相撲 記録の玉手箱」内「今日は何の日?-12月4日」を参照。
- ^ 輪島との通算成績は21勝23敗でほぼ互角。優勝は両者合わせて38回で、これは柏鵬の37回を上回る。
- ^ 白鵬はその後、2010年3月~2011年1月場所の6場所にかけて88勝まで更新した。
- ^ a b 輪島と優勝決定戦
- ^ 魁傑と優勝決定戦
- ^ a b 貴ノ花と優勝決定戦
- ^ a b 若三杉(のち2代・若乃花)と優勝決定戦
- ^ 千代の富士と優勝決定戦
- ^ 右膝変形性関節症により、途中休場。
- ^ 左足首関節捻挫により、途中休場。
- ^ 左膝外側側副靱帯損傷により、途中休場。
- ^ 腰部及び左膝関節捻挫
- ^ 慢性腰痛・左膝外側側副靱帯損傷により休場。
- ^ 腰部捻挫により休場。
- ^ 椎間板ヘルニア・左膝関節負傷により休場。
- ^ 右下腿筋損傷により、途中休場。
- ^ 頸椎捻挫により、途中休場。
- ^ 腰椎分離症により、途中休場。