ヴィッセル神戸
ヴィッセル神戸 | |
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原語表記 | ヴィッセル神戸 |
愛称 | ヴィッセル |
クラブカラー | クリムゾンレッド[1](深紅色) |
創設年 | 1966年 |
所属リーグ | 日本プロサッカーリーグ |
所属ディビジョン | Jリーグ ディビジョン1 |
ホームタウン | 兵庫県神戸市[1] |
ホームスタジアム |
ホームズスタジアム神戸[1] 神戸総合運動公園ユニバー記念競技場 |
収容人数 |
ホームズ=34,000人 ユニバー=42,000人 |
運営法人 | 株式会社クリムゾンフットボールクラブ[1] |
代表者 | 叶屋宏一[1] |
監督 | 西野朗 |
公式サイト | 公式サイト |
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ヴィッセル神戸(ヴィッセルこうべ、Vissel Kobe)は、日本の兵庫県神戸市にホームを置く、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。
概要
種類 | 株式会社 |
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市場情報 | 非上場 |
本社所在地 |
652-0855[1] 兵庫県神戸市兵庫区御崎町1-2-1[1] |
設立 | 2004年1月5日 |
業種 | サービス業 |
法人番号 | 2140001023240 |
事業内容 | サッカークラブの運営 |
代表者 | 叶屋宏一[1] |
資本金 | 9,800万円 |
売上高 | 20億3,500万円 (2010年12月期) |
営業利益 | ▲2億4,000万円 (2010年12月期) |
純利益 | ▲5,400万円 (2010年12月期) |
純資産 | ▲8億6,100万円 (2010年12月期) |
総資産 | 9億1,300万円 (2010年12月期) |
決算期 | 12月期 |
主要株主 | クリムゾングループ 100% |
関係する人物 | 三木谷浩史 |
外部リンク | http://www.vissel-kobe.co.jp |
特記事項:株式会社ヴィッセル神戸より2004年2月に営業権を譲受。 |
1966年創部の川崎製鉄水島サッカー部(1987年に川崎製鉄サッカー部に改称)が前身となり[1]、1997年にJリーグへ加盟した[1]。ホームタウンは兵庫県神戸市である[1]。
ホームスタジアムは2003年からホームズスタジアム神戸をメインとし[1]、神戸総合運動公園ユニバー記念競技場でも主催試合を開催している(特にホームズスタジアム神戸の芝生生育・保護の観点から夏場はユニバーを主に使う場合が多い)。2006年は三木総合防災公園陸上競技場でも開催された。
2007年3月1日、楽天が大株主でもあるネクスト(東証マザーズ上場)が2007年3月1日から3年間の神戸市御崎公園球技場(愛称:神戸ウイングスタジアム)の命名権を取得して、ホームズスタジアム神戸(略称:ホムスタ)へ改称された[2]。2010年1月、ネクストと2013年2月まで命名権の契約が更新され、「ホムスタ」から「ホームズ」へスタジアム略称が変更された[3]。
チーム名の「ヴィッセル」は、英語の「VICTORY(勝利)」と「VESSEL(船)」を合わせた造語[1]。「勝利の船出」を意味し、国際港湾都市・神戸をイメージ[1]。神戸市民の夢を乗せ、勝利に挑戦し続けるチームである事の誓いもこめている[1]。
クラブマスコットは神戸・兵庫に馴染みの深い、牛をモチーフとした「モーヴィ(MOVI)」[1]。牛の鳴き声「モー」と勝利「ヴィクトリー」を合わせた造語。
練習場は神戸市西区井吹台東町七丁目(西神南ニュータウン)にある「いぶきの森球技場」が使われていたが、ビオフェルミン製薬が練習場用地を新工場建設のために取得、2005年2月より神戸ハイテクパークに隣接する神戸市西区櫨谷町に約5億円かけて建設した「いぶきの森球技場」(名称はそのまま)に移転。
現在のオーナー企業はクリムゾングループで、オーナーは三木谷浩史。楽天グループとして混同されがちだが、ヴィッセルに関しては三木谷が個人的に「神戸に貢献したい」という意向を示していたことから、三木谷家の個人資産管理会社であるクリムゾン社が再建にかかわり、楽天はあくまでもユニフォームスポンサーなどにとどまる。この点で楽天の100%子会社であるプロ野球の東北楽天ゴールデンイーグルスとは異なる。
歴史
神戸のJクラブ誘致
神戸市では、ヴィッセル神戸の発足以前よりプロサッカーを目指そうとする動きが活発にあった。Jリーグスタート当初は関西のJクラブはガンバ大阪の1チームのみ(1996年まで神戸ユニバー競技場を準本拠として公式戦開催)であったが、日本サッカーの発祥地である神戸にプロサッカーの文化を根付かせるため、また将来、神戸にワールドカップ開催地を招聘するために、1992年にJクラブ誘致を目指すことを発表した。三菱自動車工業サッカー部(創設当初は神戸市が本拠だった)、全日空フットボールクラブ、ヤンマーサッカー部(練習場が尼崎市にある)と交渉を重ねたが、何れも条件面などで折り合いが付かず神戸への誘致を断念した。
1993年に「行政は行政で任せるとして、自分たちの手で何か出来ないか」ということで、「オーレ!神戸(神戸にプロサッカーチームを作る市民の会)」が市民団体として発足し、積極的な誘致活動を実施。同時期に岡山県倉敷市を本拠地とする川崎製鉄サッカー部の誘致活動を実施した。一方で従来の本拠として地域に根ざしていた岡山県および倉敷市側[4]においてもチームの慰留活動が行われ、苛烈なチームの引き抜き合戦が繰り広げられたものの、神戸市に本社をもつ川崎製鉄の意向もあって1994年3月に1995年からの神戸市へのホームタウン移転が決まった。神戸市に本社を置くスーパーマーケットのダイエーがメインスポンサーとなり「株式会社神戸オレンジサッカークラブ」が設立され[1]、下部組織は神戸フットボールクラブのユース・ジュニアユースチームが移籍する形で、「ヴィッセル神戸」が発足した。
ヴィッセル神戸設立以後
1995年1月1日にヴィッセル神戸としてスタートするも[1]、練習初日であった1月17日に阪神・淡路大震災が発生し、選手らは母体となった川崎製鉄サッカー部の本拠地であった岡山県倉敷市のグラウンドで2月6日に初練習を行うが、神戸では練習場の確保もままならない状態に。練習場「いぶきの森球技場(旧)」が完成したのは7月だった。
神戸オレンジサッカークラブの筆頭株主だったダイエー(資本金10億円のうち、50%を出資)も震災の影響から3月に撤退、生まれたてのクラブはこの時点で清算も検討された。当時強化部長だった安達貞至がこれをなんとか食い止め、スポンサー獲得に奔走し、市民チームになる。それに伴い、運営会社名も5月31日にチーム名と同じ「ヴィッセル神戸」に改称。ユニフォームにも白と黒のストライプにオレンジ色のラインが襟と袖に入っていたがダイエー撤退に伴い、オレンジ色からエメラルドグリーン(ヴィッセルブルー)に変更した。
ダイエー撤退後、メインとなるスポンサーは現れずに苦しい経営が続き、毎年赤字を計上。Jリーグ昇格1年目の1997年末時点での累積赤字は約25億円。1998年シーズン終了後には伊藤ハムがユニフォーム胸部スポンサーから撤退。この補填のため神戸市から9億円の無利子融資を受けたが、条件としてチームのリストラを要求される他、運営会社も減資を行い年間予算も13億円まで大幅に切り詰めることを余儀無くされた。
1995年シーズンはジャパンフットボールリーグ(JFL)6位に終わる。サテライトリーグに出場しているが、兵庫県ではホームゲームをせず、旧ホームの岡山県で試合を行った(前述のいぶきの森球技場の完成が遅れたことも影響したため。なおトップチームについても同年と1996年は準本拠地と位置づけて岡山県総合グラウンド陸上競技場=現・KANKOスタジアムと、津山競技場、福山競技場で試合を行っている)。1996年シーズンは、元デンマーク代表のミカエル・ラウドルップを獲得しJFLで準優勝、1997年シーズンからJリーグ加盟が認められ[1]、この年はJリーグ史上初のフェアプレー賞高円宮杯を受賞した。2004年にチーム発足10年及びチームカラーを深紅に変更。2005年シーズンにJ2へ降格(2006年にJ1昇格)。
母体企業を持たない神戸の年間予算は他クラブと比較しても少なく、年間入場者数も伸び悩んだ為、不足分を地元自治体である神戸市からの単年度貸付に拠らざるを得ない経営が続き、年度ごとに額を増やしながら借入を繰り返した。運営会社幹部を市からの出向社員が勤めたことで、お役所的な経営体質から抜け出せず、1999年から2003年シーズン初めまで胸スポンサー不在という状況に加え、当時の強化部長である西真田光司の兄弟が代理人を務める選手が多く獲得されるなど、長期的な展望を欠いた運営が続き、2003年12月、神戸市が中心となっていた運営会社「株式会社ヴィッセル神戸」が累計赤字約42億円で経営破綻し、民事再生法の手続き申請を行った。神戸市からの無担保融資は約15億円にのぼる。
- 本拠地は神戸
- 選手、職員の継承
- チーム名は変更しない
の3点を参加要件とする入札で、兵庫県出身の楽天の代表取締役である三木谷浩史の個人資産管理会社の株式会社クリムゾングループが営業権を約480万円で取得し、2004年1月5日に設立された株式会社クリムゾンフットボールクラブが、2月1日付でヴィッセルの営業権を譲り受けた[1]。神戸市はチーム運営から完全に撤退し、スタジアム使用などの側面支援を行う事になった。神戸市の株式会社ヴィッセル神戸に対する最終的な債権額は11億6500万円。ほとんどが神戸市からの貸付金であり回収不能となった。
2004年 - 2005年
2004年シーズンは、新会社による積極的な投資が行われ、2002年日韓W杯で活躍したトルコ代表FWのイルハン・マンスズの獲得、芸能人を招いた試合のイベント化などが進められた。しかし、イルハンは年俸約4億円にも関わらず出場は3試合にとどまり、シーズン途中に自らの希望で退団。
スポンサー獲得やグッズの売り上げ増、「チームの方向性が変わったことを示すメッセージになる」などとして、2005年からチームカラーを白×黒から深紅(クリムゾンレッド)に変更するとシーズン直前に発表、一部のサポーターが反発しチームカラー変更反対運動が起こり2カ月で延べ17,525人分の署名を集めたが決定を覆すことは出来なかった。 クラブ側とサポーター側との数回に渡る話し合いの末、新エンブレムには従来の白黒の縦縞を残すことが確約された。12月22日、新ユニフォームと中央にV字の新ロゴマークが入ったエンブレムが発表された。チームマスコットのモーヴィはそのまま残った。
2004年中盤以降、三木谷を含む新経営陣のサッカークラブ経営への理解不足、チーム統括部長三浦泰年の経験不足、フロントの長期的展望の欠如等が露呈し、1年半でイワン・ハシェック、加藤寛、松永英機、エメルソン・レオン、パベル・ジェハークと5人が監督を務める異常事態に陥った。ハシェック解任直後には山本昌邦、フィリップ・トルシエ、ピエール・リトバルスキーなどに監督就任のオファーを出したが、いずれも断られた。
2005年シーズンは、上記理由等により開幕当初から成績が低迷し、第7節以後、1度も最下位から浮上することはなかった。8月にFWイヴォ、DFマルティンを獲得。2004年加入のMFホルヴィを加えて、チェコ人3人体制にするも(2004年から所属のDFホージェル、2005年6月加入のMFディエゴ・ソウザは退団)、致命的な決定力不足が解消されることもなく、攻守の要である三浦淳宏と播戸竜二が怪我をしたこともあって低迷から抜け出せず、11月20日の大宮戦に0-1で敗れたことで3試合を残してJ2降格が決定した。
2006年(J2)
- チームスローガン:Kobe Forever Forward
初代監督も務めたスチュワート・バクスターが9年ぶりに監督へ復帰し、中長期的には育成・発掘型クラブへの転換を、短期的には1年でのJ1復帰を目指すことを目標に掲げた。
育成型への布石として伊丹市にジュニアユースを設立し育成部門の拡大を図ると共に、ジュニア(小学生)世代へのアプローチとしてサッカースクールを県下で拡大するなど、安達貞至GMのアイデアが着々と実行に移された。 隠れた逸材を見出す為にスカウトを2人(これまでは1人)にし、育成組織の監督、コーチにも他チームの優れた選手をスカウトするように命じるなど、これまで弱かったスカウティング部門の充実を図るようになった。
トップチームにおいてもサテライトチームを「ヴィッセル神戸U-21」として若手選手の育成強化のためのチームに特化させると共に、神戸での出場経験が少ない選手に対する実践機会提供を図る観点からガイナーレ鳥取と提携。U-21監督にマリノスユース、ナショトレ関西地区担当の安達亮を監督に迎えた。
4月10日、クリムゾンFCは定例取締役会を行い、役員の選任が行われ、社長の三木谷は新設の代表取締役会長に。安達がGM兼任で代表取締役社長に就任した。
神戸新聞によると三木谷は以前から「チームと行動を共にできる人に社長を任せたい」との意向があったといい、「実態に即した経営体制に移行することが大切と考えた。私は今まで同様、クラブ経営を通じて、地元・神戸の活性化に貢献したい」とコメントしている。社長に就任した安達は「神戸に根ざしたクラブ作りに向けて、より一層尽力したい」と抱負を述べた。
5月、代表取締役社長に就任した安達の補佐として、読売SCや浦和、日本サッカー協会などで重要職を担ってきた佐藤英男がGMアシスタントとして就任。
9月、2007年より育成部長に滝川第二高校サッカー部監督・黒田和生が就任することが発表された。
かつてはベテラン選手(永島昭浩、三浦知良など)を補強していたが、J2降格を機に若手育成クラブとして再スタートを切った。下部組織も人工芝グラウンドがいぶきの森に完成し、育成組織支援のヴィタミンクラブの発足などハード・ソフトの両面のからの充実を図っている。
キャプテンの三浦淳宏を中心とし横浜FC・柏と自動昇格争いを演じる。最終節で柏に逆転され自動昇格を逃したが、12月9日、福岡との入れ替え戦を制しJ1昇格を決めた。
2007年 -(J1)
2007年
- チームスローガン:トモニイコウ We walk together forever
1年でJ1に復帰できた事、キャプテンの三浦淳宏が契約交渉の場で戦力の充実化を熱心に訴えた事もあり、オフには積極的な補強を敢行。横浜FMから榎本達也を、C大阪から大久保嘉人を完全移籍で獲得、前年のJ2で二桁得点を記録したレアンドロを山形から、また07年に全北現代としてFIFAクラブワールドカップに出場したボッティをレンタルで獲得し大幅な戦力アップを図った。また目標はリーグ戦9位以上、ナビスコカップ決勝トーナメント進出とした。
シーズン途中に三浦が監督批判を行なったこともあり、退団する事態に陥った。しかし、三浦に替わって主将となった大久保嘉人らを中心にチームは結束。後半戦は浦和からMF酒井友之、新潟からMFディビッドソン純マーカスらを補強。8月から5連敗したものの、その後は8月末に福岡からレンタルで獲得した古賀誠史の活躍もあり連敗を脱出した。第29節では前年度にJ1昇格争いのライバルだった横浜FCに3-0と勝利して今度は逆にJ2に降格させ、第31節には甲府に4-1と勝利してJ1残留を確定させた。3試合を残しての残留確定はチーム史上最速である。また、この試合で横浜FC、柏、甲府と3連勝したことになるが、これは1999年以来である。目標であった9位には及ばなかったが、過去最高の10位となった。
2008年
- チームスローガン:トモニイコウ We walk together forever
目標である5位以内を達成する為に積極的な補強を行う。 当時現役韓国代表キャプテンであったMF金南一をはじめとして、大分から元日本代表FW松橋章太、横浜FMからMF吉田孝行(兵庫県出身)、FC東京からMF鈴木規郎、甲府からFW須藤大輔などを獲得。近藤祐介退団の穴を埋め、更に高みを目指せるメンバーを揃えた。
キャプテンは引き続き大久保嘉人に、副キャプテンは北本久仁衛、榎本達也に決定した。開幕から好調を維持し、一時は2位につけていたが磐田戦でレアンドロが右鎖骨骨折をすると失速。その後古賀誠史、北本久仁衛ら主力が次々と怪我をし、降格圏内まで成績が落ちた。昇格組との3連戦では勝ち星なしに終わる。松岡亮輔、馬場賢治らの若手の台頭でこの非常事態を何とか乗り切り、11月23日のFC東京戦で残留を決めた。しかし目標であった5位以内を達成する事は出来ず実質2年間指揮を執っていた松田浩が監督を解任された。
松田の解任に関しては一悶着があった。安達社長が11月上旬に一度は監督続投要請を出しておきながら12月に入り撤回したのである。当然、監督・選手達には納得のいく話ではなく、一部報道では松田は金銭を要求するのではないかとも憶測されたが、そのような事態には至らなかったようだ。
安達の弁解は以下のものである。
- シーズン中から勝ちきれない試合が続いており、トニーニョ・セレーゾら数人の監督に打診していた
- クラブの歴史を塗り替えた5連勝(第27節~第31節)した時に続投要請をしたがこれで本当に良いのかと悩んでいた
- FC東京戦・川崎戦での惨敗を見る限り新しいチーム作りをすべきだと判断した
なお、この件に三木谷会長は無関係であり、むしろ松田続投を支持していた。この年、栗原圭介、酒井友之らベテランに加え、ユース出身の4人も戦力外通告を受けることとなった。
天皇杯にて松本山雅FCを8-0で下し、Jリーグ加盟後の公式戦最多得点を記録。
2009年
- チームスローガン:トモニイコウ We walk together forever
監督にブラジル・フラメンゴからカイオ・ジュニオールを招聘したが、前シーズン途中から、ドイツクラブからオファーを受けていた主将であり、チームの顔でもあったFW大久保嘉人が移籍。更にFWレアンドロも同じ関西圏のG大阪へ移籍した為、FWの補強に走った。外国籍選手として、韓国でのプレー経験もあるFWマルセウを、攻撃的中盤のアラン・バイーアを獲得し、川崎を退団した我那覇和樹を獲得。更に、オーストリアのザルツブルクから元日本代表DF宮本恒靖の加入が内定。他にも日本代表クラスの補強を積極的に狙い、「神戸が○○にオファーor獲得に動く」という報道が連日のように相次ぎ、神戸はストーブリーグの主役となった。しかし、結局日本人で補強できたのは前所属クラブで構想外となった前述の我那覇・宮本の2名にとどまった。
育成面ではヴィッセル専用の寮「育成センター」(通称:三木谷ハウス)が完成し、前札幌GMの村野晋を寮長に、また夫人である村野明子を寮母に迎えることとなった。また、黒田和生育成部長のユース監督昇格も発表された。
開幕からしばらくはカイオのサッカーに戸惑い、4月の横浜FM戦では2006年以来の5失点で大敗した。しかし茂木弘人がFWとして得点を重ね、開幕戦以降離脱したマルセウらが噛みあい始め、徐々に成績は上向いていった。6月には1月に退団したFW大久保嘉人が復帰。ところが、6月30日にカイオが一身上の都合(後にカタールクラブ監督就任が報じられる)により辞任。後任には和田昌裕チーム統括本部長が兼任で就任した。就任後は堅守速攻をベースにチームを再建。カイオのときには起用されなかった古賀誠史をスタメンに抜擢し、宮本をボランチで起用する一方で、カイオが固執していたマルセウをメンバーから外すなどの手を打った。柏戦で就任後初勝利をあげたが、安達GMが「残留するには経験が必要」という理由で三浦俊也が監督に就任し、和田はヘッドコーチに就任。三浦の就任後は首位鹿島を下すなど8月は無敗で乗り切ったが、9月以降は対戦相手に研究されリーグではなかなか勝てなくなった。J1残留決定も柏の引き分けによる決定だった。
2010年
- チームスローガン:トモニイコウ We walk together forever
社長職が安達から叶屋宏一へ交代。前年にチームを残留に導いた三浦が監督を続投。「10点取れるストライカー」の獲得を要求し他クラブからも獲得が打診されていたJ2で23得点あげた都倉賢を草津から獲得。しかしオフに減俸提示を受けた金南一がロシアリーグに移籍した為穴埋めに大分からMFエジミウソンを獲得。更に古賀誠史と内山俊彦が抜けた左サイドに大宮からDF冨田大介、柏からMFポポを獲得した。開幕戦こそ勝利したが、代表戦で負傷した大久保嘉人のコンディションが上がらなかった事や、都倉や冨田といった新加入選手が出遅れた事もあり連勝できない状態が続いた。
W杯での中断明けに練習に参加していたイ・ジェミンと契約したが、フィットするどころか、逆にチームの戦い方も守備的な構成となった事で、荒れた試合が多くなり、17節から23節までの7試合で6人の退場者を出し、そのうちの2度がGK榎本達也の退場で、フィールドプレーヤーがGKを務める事態を2度招くなど、守備が非常に不安定な状況に陥った。9月11日のリーグ戦で最下位だった京都に惨敗した直後の9月12日、三浦が解任され和田昌裕ヘッドコーチが監督へ昇格。和田の就任後も勝利から遠ざかるが、ベテランの吉田孝行とユース2種登録の小川慶治朗をスタメンに抜擢し、終盤は4勝3分。16位で迎えた最終節の浦和戦に勝利したことで15位だったFC東京を上回り、最終順位15位となり2年連続でJ1残留を果たした。なお、夏場の退場者続出が影響した事もあり2010年シーズンの反則ポイントが149となり150万円の反則金を支払う事となった(反則ポイント17位の大宮は100ポイントであり、ダントツのJ1ワーストである)。
2011年
- チームスローガン:トモニイコウ We walk together forever
和田が監督を続投。小林久晃、冨田大介が甲府へ、エジミウソンが熊本へ、榎本達也が徳島へ、高橋祐太郎がC大阪へ、我那覇和樹がJFL・琉球へ完全移籍、坪内秀介(大宮)、荻晃太(甲府)がレンタル移籍先へ完全移籍した。
補強として、C大阪からDF羽田憲司、UAEリーグアル・ワスルからMFホジェリーニョが完全移籍で加入、DF柳川雅樹、MF馬場賢治がレンタル移籍から復帰した。
序盤は好調だったものの、ホーム広島戦でのMF三原雅俊の負傷離脱以降は9戦で3分6敗と低迷する。その後は補強選手が機能せず怪我人が多い中で苦しい戦いを強いられるものの、ハイプレスとショートカウンターを主体にした戦術でチームを建て直し、新主将吉田、大久保、朴康造、ドイツ2部のコットブスを退団しシーズン途中に加入した相馬崇人ら経験豊富なベテラン勢の活躍もあり最終的には過去最高順位となる9位でリーグ戦を終え、今季目標に掲げていた「一桁順位達成」をクリアした。観客動員も比較的好調で、昨年から引き続きJ1に在籍したクラブの中では唯一ホームゲームの平均観客動員を昨年より増加させた。
2012年
- チームスローガン:トモニイコウ We walk together forever
5年間在籍していたボッティがフィゲイレンセFCへ、ホジェリーニョがセアラーSCへ、ポポが浦和へ移籍。ブラジル人全員が退団した。さらに石櫃洋祐が名古屋に、松岡亮輔が磐田に移籍するなど主力級選手を放出した。また、今シーズン草津にレンタル移籍した柳川雅樹が松田が監督を務める栃木に、三島康平が水戸に、馬場賢治が湘南に、楠瀬章仁が松本山雅に完全移籍。有田光希が愛媛に、紀氏隆秀が鳥取に、昨シーズン2種登録だった廣田隆治がプロ契約後、岐阜にレンタル移籍。一時タイ・プレミアリーグへの移籍も報道された宮本恒靖は引退した。
一方で、人件費を抑制しつつ未知数のブラジル人よりも実績ある日本人選手を優先的に獲得し上位を目指す方針を立て、G大阪から橋本英郎、高木和道、鹿島から田代有三、野沢拓也の計4人の元日本代表選手を獲得した。さらに紀氏の抜けたGKに山形から植草裕樹を獲得、またイ・グァンソン、奥井諒の2人の大卒選手が入団した。さらにチームが新体制として始動したのちに日本代表DF伊野波雅彦の加入も正式に発表された。選手以外では3月に元FCバルセロナ副会長のマルク・イングラが取締役に就任し、5月にはタイ・プレミアリーグのチョンブリーFCと業務提携を結んだ。
しかし、開幕から3勝5敗と低迷したことで、4月30日に監督の和田昌裕が解任された。正式な新監督が就任するまではヘッドコーチの安達亮が暫定監督としてチームの采配を揮った[5]。5月19日、新監督に西野朗が就任。
成績
タイトル
クラブ
- ユースチームでは1999年にJユースカップ優勝、2005年に準優勝。
個人(Jリーグ加盟後)
- フェアプレイ個人賞
ユニフォーム
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チームカラー
※臙脂と深紅はよく似ている色なので混同されているが、臙脂は鹿島アントラーズの色である。
過去のチームカラー
- 白、黒、オレンジ (神戸オレンジサッカークラブ時代)
- 母体の川崎製鉄サッカー部のチームカラーは赤であったが、当時はチームカラー重複を規制するルールがあり(1999年J2発足時に撤廃)鹿島、浦和、名古屋の赤も清水のオレンジも使用できずやむなく白黒を採用した。
- 白、黒、ヴィッセルブルー (1995年~2004年)
- 白…フェアプレー、黒…力強さと闘争心、ヴィッセルブルー…神戸の海と希望
- 白と黒の縦縞(ヴィッセルストライプ)は協調を表し、黒が全ての光(市民の声、支援)を吸収し、白がそれを発していくことを意味している。
- 2002年から2004年までアウェー用ユニフォームに採用されたシルバーは「パールのごときチームの珠玉の輝き」を表している。
ユニフォームのあれこれ
- 1997年から1998年の2シーズン、袖スポンサーの下部にJリーグから特例として認められたメッセージワッペン、「明日へ!!神戸」を付けていた。同じ神戸を本拠地とするプロ野球チーム・オリックス・ブルーウェーブは「がんばろうKOBE」と付けていた。
- 1995年第4回JFLリーグ戦前期(5月-7月末)は袖スポンサーがなかった。さらに、1999年から2003年3月まで胸スポンサーがなく、チームロゴを付けていた。
- 2005年シーズンは阪神・淡路大震災から10年の節目を迎えるにあたり、神戸市主催の「震災10年 神戸からの発信」事業に協賛し、オリジナルロゴを右袖のJリーグマークの下部に付けていた。
- 2005年シーズンから、背番号の下部に選手名が入るようになった。
- 2008年シーズンから、右袖のJリーグマークの下部に地域名「KOBE」が入るようになった。これは、前々からサポーターより要請があったものである。
- 上述のように、母体の川崎製鉄水島サッカー部のチームカラーが赤であったことから、白黒から赤系統のクリムゾンレッドへのカラー変更問題は、オーナー企業主導であったとは言えクラブ自体にとっては「先祖がえり」だったと捉える事もできる。ちなみに、同じく川崎製鉄水島サッカー部にルーツを持つファジアーノ岡山もワインレッド色のユニフォームを使用している。
- 2010年シーズンから、GKユニフォームのみ3rdユニフォーム(シャツ:緑/パンツ:緑/ストッキング:緑)が追加使用されることになった。
- 2007年シーズンから2009年シーズンまで番号の縁取り、2008年シーズンからユニフォームのパイピングにクラブカラーでない「ゴールド」が使われている事(2010年シーズンからはベージュ)について、クラブ側は「まずお伝えしたいのは、ユニフォーム=チームカラーですが、細かな部分はチームカラー以外も使用して良いことになっています。が、しかし基本的には極力チームカラーがメインにくるユニフォーム作りを各クラブがおこなっています。ここでのゴールドは、ワンポイント的な使い方以外に大きな理由があります。ホワイトだと深紅は特殊な染めになるためチームが大量の洗濯をした際にピンクに染まってしまうからです。2007年がそうでした。ブラックだと深紅+ブラックは全体的に暗くなり、特にホムスタでのナイトゲームの際は照明の関係から暗いイメージになってしまいます。いろいろ比較検討した結果、他のカラーでヴィッセルの深紅とマッチするのはゴールドやベージュになりました。」とオフィシャルショップでのユニフォーム販売時に表明している。
ユニフォームスポンサー
掲出箇所 | スポンサー名 | 表記 | 掲出年 | 備考 |
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胸 | 楽天 | 楽天 | 2004年〜 | |
背中 | 川崎重工業 | Kawasaki | 2004年〜 | 2003年は胸 |
袖 | アンファー | スカルプD | 2012年〜 | 2009年〜2011年まではパンツ |
パンツ | メイション | スマ婚 | 2011年〜 |
ユニフォームサプライの遍歴
歴代ユニフォームスポンサー年表
年度 | 胸 | 袖 | 背中 | パンツ | サプライヤー |
1995 | 伊藤ハム | –/ARKA | asics/ノーリツ | - | asics |
1996 | ARKA | ノーリツ | |||
1997 | KIRIN | adidas | |||
1998 | |||||
1999 | - | asics | |||
2000 | KOBE | ||||
2001 | KOBE/ HAA KOBE | ||||
2002 | HAA KOBE | ||||
2003 | KAWASAKI | ||||
2004 | 楽天 | FULLCAST | KAWASAKI | 大和証券SMBC | |
2005 | SPORTS DEPO |
伊藤ハム | |||
2006 | |||||
2007 | KitaC | ||||
2008 | |||||
2009 | スカルプD | ||||
2010 | |||||
2011 | |||||
2012 | スカルプD | スマ婚 |
スポンサー
チーム名変遷
- 1966年~1986年 川崎製鉄水島サッカー部
- 1987年~1994年 川崎製鉄サッカー部
- 1995年~現在 ヴィッセル神戸
下部組織
近年強化に力を入れ、ユース監督に滝川第二高等学校元監督の黒田和生を迎えるなど力を入れだしている。
出身選手
主な獲得タイトル
ユース
- 1回 : 1999年
- 2回 : 2006年、2009年
ジュニアユース
- 1回 : 2009年
- 1回 : 2009年
地域貢献活動
Jリーグ百年構想に基づき神戸アスリートタウン構想を打ち出している。
- 一環として2006年7月には三洋電機バドミントンチームの協力を得て親子バドミントン教室を開催、2007年2月にはダーツ大会「VISSEL CUP D-1 DARTS TOURNAMENT in KOBE」を開催するなど異種競技交流活動も活発に行っている。また、神戸学院大学でのスポーツマネジメントについての提携講座や神戸親和女子大学との提携による少年サッカー教室開催など、地域貢献活動にも力を入れている。
- 神戸総合運動公園ユニバー記念競技場を本拠地としていた時代、近接する神戸総合運動公園野球場(グリーンスタジアム神戸)を本拠としていたオリックスブルーウェーブとホームゲーム開催が重なる日に共通チケットの販売を行った。
脚注
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x クラブガイド:ヴィッセル神戸 Jリーグ公式サイト
- ^ 『神戸ウイングスタジアム』のネーミングライツ(命名権)を取得、『ホームズスタジアム神戸』に決定 株式会社ネクストプレスリリース 2007年2月9日
- ^ 「ホームズスタジアム神戸」ネーミングライツ契約更新のお知らせ ヴィッセル神戸HP 2010年1月16日
- ^ 後に岡山県側に残った川崎製鉄水島サッカー部OBチーム「リバー・フリー・キッカーズ」を母体として、ファジアーノ岡山が発足されJリーグ昇格を果たす。
- ^ J1神戸、和田監督を解任 安達コーチが暫定指揮 朝日新聞 2012年4月30日閲覧