本田圭佑
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名前 | ||||||
愛称 | ケイスケ ホンディー | |||||
カタカナ | ホンダ ケイスケ | |||||
ラテン文字 | HONDA Keisuke | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | 日本 | |||||
生年月日 | 1986年6月13日(37歳) | |||||
出身地 | 大阪府摂津市 | |||||
身長 | 182cm[1] | |||||
体重 | 74kg[1] | |||||
選手情報 | ||||||
在籍チーム | CSKAモスクワ | |||||
ポジション | MF / FW | |||||
背番号 | 7 | |||||
利き足 | 左足 | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 (得点) | ||||
2004-2007 2008-2009 2010- |
名古屋グランパス VVVフェンロー CSKAモスクワ |
90 (11) 68 (24) 53 (12) | ||||
代表歴2 | ||||||
2008- | 日本 | 33 (9) | ||||
1. 国内リーグ戦に限る。2012年5月14日現在。 2. 2012年6月3日現在。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
本田 圭佑(ほんだ けいすけ、1986年6月13日 - )は、大阪府摂津市出身のプロサッカー選手。ロシア・プレミアリーグ・CSKAモスクワ所属。ポジションはミッドフィールダー(OH、CH、SH)、フォワード。日本代表。
来歴
プロ入り前
大阪府摂津市出身。両親は、本田が小学2年の春に離婚。幼少時は鳥飼さつき園に通っていた。摂津市立鳥飼北小学校2年時から地元の摂津FCに入団しサッカーを始める。摂津市立第四中学校に入学。中学時代のあだ名はゴリ(赤いタンクトップにジーパンで腕相撲が強く体がでかかったため)[2]。その後、ガンバ大阪ジュニアユースに所属し家長昭博、安田理大、東口順昭らと共にプレーしたが[2]、ユースチームへの昇格の内定が出なかったため、石川県の星稜高校へと進学した[3]。1年時に高円宮杯全日本ユース選手権で準優勝し、3年時には第83回全国高等学校サッカー選手権大会に出場して、石川県勢として初のベスト4に貢献した[3]。高校では、豊田陽平や橋本晃司と共にプレーした。2004年には特別指定選手として名古屋グランパスの練習に参加し、ヤマザキナビスコカップなどの公式戦にも起用されるなど、数試合出場を果たした。同時期に横浜F・マリノスの練習にも参加したが、獲得は見送られた[4]。
名古屋グランパス
高校卒業に際して複数のJリーグクラブから勧誘を受け[3]、2005年シーズンから名古屋とプロ契約を結んだ。名古屋加入時の契約では、本人の希望により「オファーがあれば海外クラブへの移籍を認める」という条項が盛り込まれていた[5]。開幕戦から先発出場してアシストを決め、翌年にはレギュラーに定着した。2005年のFIFAワールドユース選手権・オランダ大会にU-20日本代表として招集され、初戦のオランダ戦に守備的な中盤として先発したが[6]、試合は前半にオランダが圧倒、後半は日本もペースをつかむ時間帯を得たが本田は途中交代となった(後半19分、水野晃樹。結果は1-2で敗戦)。この後チームは16強に進出するものの、守備的な中盤、梶山陽平の復調もあって出場機会はなかった。2006年にはA代表にも飛び級で初招集されたが出場はなかった。2007年北京オリンピックアジア予選では、主力として五輪出場権獲得に貢献した。
VVVフェンロー
2008年1月、さらに高いレベルでのプレーを求めてエールディビジ(オランダ1部リーグ)のVVVフェンローへ移籍した。加入会見ではオランダ語で挨拶を行い、その日のうちに、昨シーズンまで名古屋の監督を務めていたセフ・フェルホーセンが率いるPSV戦に出場した。残りのシーズンはレギュラーとしてプレーしたものの、5月にクラブがエールステ・ディヴィジ(オランダ2部リーグ)への降格が決定した。8月にU-23日本代表として出場した北京オリンピック本大会では、中盤の主力として1次リーグ3試合すべてに出場して谷口博之や梶山陽平らと共に攻撃を牽引し、ナイジェリア、オランダといった強豪国と戦ったが、3連敗で決勝トーナメント進出を逃し、自身もオランダ戦で決勝点となるPKを与えてしまうなど不本意な大会となった。同年7月、元保育園勤務の女性との婚姻の届出をしていたことを発表した。
2008年-2009年シーズンは2部に降格したVVVに残留し、このオランダ2部という日の当たりにくい場が飛躍的な成長の舞台となる。本田は攻撃の軸として開幕から首位を独走するチームの原動力となり、シーズン途中からはフリーキッカーとキャプテンを任されるなど、リーグ戦計36試合に出場し、16ゴール13アシストを挙げる活躍で、チームの2部リーグ優勝と1部復帰に貢献し、2部リーグにおける年間最優秀選手賞(MVP)を受賞した[7]。
2009年-2010年シーズンもVVVで開幕を迎えることとなったが、1部でもそのプレーは大きな賞賛を集めた。そして冬の移籍市場において、移籍金900万ユーロ(約12億円)[8][9][10]、4年契約でロシア・プレミアリーグの強豪CSKAモスクワへの移籍が決まった。
CSKAモスクワ
2010年2月24日、UEFAチャンピオンズリーグ決勝トーナメント1回戦1stレグのセビージャ戦がCSKAでの初出場となり、同時にチャンピオンズリーグにも初出場となった。3月12日のリーグ開幕戦であるアムカル戦では、試合終了間際の後半ロスタイムに決勝点となるゴールを決め、チームのシーズン初勝利に貢献[11]。セビージャとのアウェーでの2ndレグでは、前半39分にCL初のアシストを、後半10分にはゴール約30mの位置から決勝点となる直接FKを決め、CL初得点をマーク。2戦合計3-2でCSKAが勝利し、日本人初、クラブ史上初、ロシアリーグ所属チーム史上初となるCLベスト8への原動力となった。この試合ではマンオブザマッチに選ばれ、さらに1stレグ2ndレグ共に欧州の複数のスポーツ紙にてCL週間ベストイレブンに選ばれた[12][13]。リーグ前半終了時点でのロシアスポーツ紙の採点[14]では平均5.96で全選手中10位(1位は6.25)と、VVV時代とは違う不慣れなボランチでの出場が多いながらも高く評価され、最終的に4ゴールと結果を残し、CSKAモスクワのCL本戦出場権獲得に貢献した。
2011年5月22日に行われたロシア・カップ決勝のアラニア戦では、途中出場で決勝ゴールをアシストし、CSKAモスクワの2季ぶり6度目の優勝に貢献した。2011-12シーズンは、主にボランチではなく得意とする右サイドハーフで起用されたことで得点に絡む機会が増え、18試合で前シーズンを上回る7得点を挙げるなど好調を維持していたが、8月28日のスパルタク・モスクワ戦で右膝半月板を損傷し、後日手術を受け、全治には最大3ヶ月と発表された[15]。11月18日、ルビン・カザン戦で2カ月半ぶりに復帰を果たすも[16]、右膝の故障が再発しまたも戦線離脱となり、CLグループステージは全試合欠場した。2012年2月21日、CL決勝トーナメント1回戦1stレグレアル・マドリード戦で、約3カ月ぶりに公式戦復帰を果たした。しかし、2ndレグは左太ももの負傷で出場できずチームも敗退した。その後4月21日のディナモ・モスクワ戦で復帰、以降出場を続け、最終節のFCルビン・カザン戦で9カ月ぶりの得点を決めるもチームは敗れCL出場権を逃した。
日本代表
2008年6月に開催されたFIFAワールドカップ・アジア3次予選の対バーレーン戦で、A代表初出場を果たし、2009年5月27日のキリンカップの対チリ戦で、A代表初ゴールを記録した。
2010年6月に開催されたFIFAワールドカップ・南アフリカ大会では、攻撃の中心として全4試合にフル出場。この大会では、大会直前にそれまで経験のないセンターフォワードのポジション(0トップ)に急遽配され、グループリーグ初戦のカメルーン戦では松井大輔のクロスを合わせて決勝ゴールをあげ、FIFA選定の「マン・オブ・ザ・マッチ(その試合での最優秀選手)」に選出された[17]。第3戦のデンマーク戦でもゴールまで約37mの距離から直接フリーキック(独特の無回転で左右に揺れ急激に落下するシュート)で先制点を挙げ、岡崎慎司の得点もアシストするなど1ゴール1アシストの活躍で、日本代表の決勝トーナメント進出に貢献し、この試合でも「マン・オブ・ザ・マッチ」に選出された[18]。 決勝トーナメント1回戦のパラグアイ戦では強烈なミドルシュートを放つなど強い印象を残し、PK戦では4人目のキッカーを任され、失敗すればその時点で日本の敗退が決まるという場面でも落ち着いて決めた。結果的に日本代表は敗れ(記録上は引き分け)たものの、敗戦チームからは異例の今大会3度目となる、「マン・オブ・ザ・マッチ」に選出された[19]。後に公表されたFIFAの技術研究グループが作成したW杯南アフリカ大会の報告書では、松井大輔と共にドリブル技術が高いと評価された[20]。
2011年1月にカタールで開催されたAFCアジアカップ2011ではトップ下として起用され、左足首捻挫で欠場したグループリーグ第3戦のサウジアラビア戦を除く5試合にフル出場。グループリーグ第2戦のシリア戦では、ドリブルで相手GK・DFを引きつけて先取点に繋がるきっかけを作り、PKで日本代表の通算1000点目となる勝ち越しゴールを決め、準決勝の韓国戦でも全2得点に繋がる縦パスを決める活躍で、この2試合で「マン・オブ・ザ・マッチ」に選ばれた。準々決勝のカタール戦での2得点に繋がる縦パスを含め、出場した試合で日本代表が挙げた全9得点中6得点に絡んでアジア制覇に貢献し、同大会の最優秀選手(MVP)に選出された[21]。
同年2月7日、全国のサッカー担当記者の投票による2010年度のフットボーラー・オブ・ザ・イヤー(年間最優秀選手)では、有効投票202票のうち75票を集め、33票で2位の楢崎正剛や22票で3位の香川真司・田中マルクス闘莉王らを抑えて、初選出された[22](50年の歴史がある賞だが、海外のクラブでプレーする選手がこの賞を受賞するのは初)。3月29日に開催されたチャリティーマッチ「東北地方太平洋沖地震復興支援チャリティーマッチ がんばろうニッポン!」では、1点目のきっかけとなったフリーキックを獲得し、岡崎の2点目をアシストする活躍を見せた。
2012年5月23日、キリンチャレンジカップ・アゼルバイジャン戦で、背番号をそれまでの「18番」から「4番」に変更した。背番号変更に関し「4番が守備的というイメージを払拭し、初めて4番で点が取れる選手になれれば面白いかな」と明かした[23]。
評価・プレースタイル
「基本的に小さい頃からサッカーは倒れたら負けというつもりでやってきた[24]」と本人も語っているが、日本人としては珍しく屈強なフィジカルを持ち、外国人選手との一対一でも当たり負けすることは少ない。キック力に優れ、スルーパス、ロングパス、シュートの能力、なによりフリーキックの精度が高く、無回転とカーブする球を蹴り分けることができる。また全ての中盤のポジションと、サイドバック[25]も務めユーティリティ性に優れている。
以前は日本代表では守備時の運動量の少なさを指摘されていたが、攻撃時にはゴール前へ飛び出すことが多い。これはプレーの効率性を上げるためメリハリを重要視しているためだという[26]。しかし、CSKAモスクワではボランチ起用が多く、走行距離もチーム内で1位2位を争うほどであり、FIFAワールドカップ・南アフリカ大会第1戦のカメルーン戦では、FWでありながらチーム内で2位となり[27]、4試合390分で45.48kmとトップの遠藤保仁に次ぐ数値を記録するなど[28]、献身的なプレースタイルに変化している。なお、VVVフェンローでは、本田を攻撃の中心としたフォーメーションが採用されていた。
VVVフェンローに移籍後はセンターハーフも務め、同僚のサンドロ・カラブロから「お前がゴールを決めているのはユーチューブ(YouTube)の中だけ」とシュート意識の低さに関して批判をうけた[24]後は「おれはゴール前だったら絶対パスは出さない。悪いけど、カラブロがフリーであろうがなんだろうが、前が空いていたらシュートを打つ。そういうところは少しずつ意識改革ができている。おれもあいつらに“欲”という意味では負けているつもりはないし、もっとわがままにやってもいいのかなと思っている[29]」と自らゴールを狙っていく姿勢を強めたことを語っている。このような経緯もあり、近年はMFとしては非常にゴールが多い選手として知られているが、アシストも多く記録し、更に本田のシュートのこぼれ球を味方が押し込みゴールを奪うというケースも多々あり、VVV時代はチームの得点の大半が本田を起点とするものであった。
また、サポーターからの信頼も厚く、2009-10シーズン第2節のデン・ハーグ戦では、序盤0対2と劣勢に立たされながら本田の2ゴールで同点とした試合で、退場処分を受けながらなかなかピッチから出ようとしない相手選手に対し、本田が駆け寄り退場するように促した際、相手選手が激昂し本田の胸を突き、これをきっかけとし両軍入り乱れの乱闘となった。この時、サポーターから「HONDA! HONDA!」と大合唱が起きた。
2010年のFIFAワールドカップ・南アフリカ大会敗退直後、アーセナルのアーセン・ヴェンゲル監督より「天才」「ここまでのベストプレーヤー」「間違いなくトップレベル」「日本のさらなる成長の為には本田のように能力が揃っているクローン選手を育成するべき、それが無理なら本田をさらに活かす為にビジャのような相棒を探すべき」との絶賛を受けた[30]。 10月には世界的なサッカー情報サイト「goal.com」が「アジア人最高のサッカー選手」と称える記事を掲載した[31]。
2011年8月に、オランダ2部のVVVフェンローで2009-10シーズンMVPを獲得した活躍を称え、高校時代を過ごした第2の故郷・石川県金沢市内に子供向けの42メートル×28メートルの人工芝コート「本田圭佑クライフコート」が設置された[32]。 オランダのNPO法人ヨハン・クライフ財団からフェンローのベルデン会長を通じ、同コートを寄付したい旨の要望が日本サッカー協会に届いた。その後、日本協会が石川県協会、金沢市などの協力を経て実現する運びとなった。
人物
- 実兄で現在は俳優の本田弘幸も元サッカー選手で、2005年には大分トリニータ入団が決まっていたが怪我の為に現役生活を終えた。1964年の東京オリンピックでカヌー競技のカナディアンペアに出場した本田大三郎は大叔父であり、その息子でレスリングのフリースタイルで3大会連続のオリンピック出場経験を持つプロレスラーの本田多聞は従兄弟違いになる[3]。母親は広島の出身[33]。
- 2008年7月に元保育園勤務の保育士の女性と結婚後[34]、オランダ時代には日本から連れてきた柴犬のテツと共に生活していた。
- 名古屋時代は黒髪だったが、オランダに移籍してからは金髪にしており、現在では本田のトレードマークになっている[35]。
- 勝気な性格であり、その発言は時にビッグマウスともとられてしまう。北京五輪のグループリーグで敗退が決まった後の消化試合では数名の選手と共に反町監督の指示に造反していた事を明かし、メディアで物議をかもした[36]。しかし、そのような背景にはサッカーに対する非常に高い向上心があり、これまでのインタビューでも、ガンバ大阪ユースに昇格出来なかった時の悔しさや、学生時代から常に世界で活躍するプロサッカー選手を見据えていたことなどを度々語っている。
- 我を押し通すことを信条とする一方、自己分析を行い批判を素直に受け入れるなど柔軟な一面も見せることがある。VVVフェンローではキャプテンとして存在感を発揮し、チームメイトからも一目おかれる存在であった。また海外でステップアップを重ねるためにはもっと自己主張をしなくては上り詰めることはできないと自分では自覚している、まだまだ自己主張は足りていないと語る[要出典]。
- プライベートでは、いつも両腕に腕時計をつけている。理由は「Classicを追い求めているため」というもの[37]。なお別の番組では理由を「ボディバランスを保つため」と語っていたが[38]、これは本人によれば「ボケたつもりがツッコミを入れられず流されてしまった」ものだという[37]。
- サッカーだけでなく語学を学び、チームメイトと直接会話することを重視しており、オランダ時代は英語、ロシア時代はロシア語を学んでいた[39]。また海外のメディアに対しては通訳をつけず英語でインタビューに答えている。
- スパイクはミズノの「IGNITUS MD」を使用している[40]。W杯後に本田の活躍によりこのスパイクが急激に売れたとのこと。ちなみに右足は26.5cm、左足は27cmとサイズが異なるだけでなく、2010年W杯の時は右足のポイントを付け替え式、左足を固定式とするなど、左右非対称の構成を採用している。またメンテナンスは欧州移籍後も古巣・名古屋グランパスの用具担当である松浦紀典に依頼しており、松浦によれば「年間で約10 - 15足ほどを消費する」という[41]。
- ファッションが独特で、空港での帰国や出国の際、メディアに取り上げられることが多い。2010年の南アフリカワールドカップから帰国した際は、チーム内で唯一のサングラス姿で到着ロビーに現われた[42]。
エピソード
- 利き足と生年月日が一緒である家長昭博とはガンバ大阪ジュニアユースの同期生であり、親友として互いに尊重しあう間柄である[43]。
- 中田英寿とは、日本の新旧エースとして比較されることが多い。学生時代から海外を目指して語学を勉強し[44]、21歳で欧州リーグへ移籍し活躍していることをはじめ、日本人離れした強いフィジカルとメンタリティ、ファッションへの独自の拘りといった共通点が挙げられる。二人は南アフリカW杯の直前に放映された対談で初対面し、お互いのサッカー観について「思っていたとおり。自分と似ている」と口を揃えて語った。対談は本田側から中田へオファーして実現したといわれており、その後も本田は中田の専属スタイリストを南アフリカに呼び寄せ髪をカットしてもらうなど、中田からの影響が見て取れる。本田は中田について「最も欧州で成功した日本人選手で、僕を含めた日本の子供たちに色々な面で影響を与えた人」と語り、中田は本田について「彼は貪欲に上を目指せるタイプで、今後の日本を背負う選手」と期待を寄せている[45]。
- 長谷部誠とは普段から電話連絡を取り合う仲で、長谷部は本田のチャレンジし続ける姿に刺激を受けているとコメントしている[46]。
- 高2の頃、名古屋グランパスエイトにおける練習中に当時のエースウェズレイのパワフルなフリーキックに衝撃を受ける。助走の歩数や角度などを研究、本人に筋肉の使い方を聞いたりもした。この頃はカーブさせるフリーキックを蹴っていたが、入団2年目からは無回転シュートを蹴るようになった[47]。
- VVVフェンローは「本田を放出した際の移籍金の一部を、新スタジアム建設に充てる」と発表した。NHKの取材に対してサポーターたちは「新スタジアムの名前は『ケイスケ・ホンダスタジアム』にすべきだ」「名前がダメならせめて銅像だけでも建てるべき」など、本田の功績と求心力が伺えるコメントを残し、VVVフェンローのハイ・ベルデン会長も「ケイスケのクラブに対する功績は何らかの形で残すつもりだ」と明言した[48]。
- 2010年6月からロシア国内でCSKAモスクワのスポンサーの現代自動車のテレビCMにヴァシリ・ベレズツキ、イゴール・アキンフェエフとともに出演していた[49]。
- 2ちゃんねるをはじめとしたインターネット掲示板、ツイッター、mixi、YouTubeのコメント欄などにおいて本田△(意味:本田三角形→本田さんかっけー→本田さんカッコイイ)というのがネットスラングとして広がっており[50]、2010年度の「新語・流行語大賞」にもノミネートされた[51]。
- FIFAワールドカップ・南アフリカ大会後、テレビや雑誌などの取材が100本近く殺到したが、全てに断りを入れた。その中には600万円のギャラを提示したビストロSMAPも含まれる[52]。代わりに自身が通っていた保育園や高校などを次々にアポなし訪問、園児や生徒を激励した[53][54]。
- FIFAワールドカップ・南アフリカ大会後、ビッグクラブへの移籍が噂されていたが、自身をレアルタイプと考えており、将来の夢はスペイン・リーガ・エスパニョーラの名門レアル・マドリードで10番をつけてプレイすること。この夢を目標としたのは、高校時代である[55]。
- 2011年3月、東日本大震災の義援金として日本赤十字社を通じて5000万円を寄付した[56]。また、サッカーボール200個を被災地の子どもたちに寄贈した[56]。
所属クラブ
- ユース経歴
- 1994年 - 1998年 摂津フットボールクラブ
- 1999年 - 2001年 ガンバ大阪ジュニアユース
- 2002年 - 2004年 星稜高校
- 2004年 名古屋グランパスエイト (特別指定選手として登録)
- プロ経歴
- 2005年 - 2007年 名古屋グランパスエイト
- 2008年 - 2009年 VVVフェンロー
- 2010年 - PFC CSKAモスクワ
個人成績
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国内大会個人成績 | |||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
日本 | リーグ戦 | ナビスコ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
2004 | 名古屋 | 39 | J1 | 0 | 0 | 1 | 0 | - | 1 | 0 | |
2005 | 24 | 31 | 2 | 2 | 0 | 2 | 0 | 35 | 2 | ||
2006 | 29 | 6 | 4 | 2 | 1 | 0 | 34 | 8 | |||
2007 | 30 | 3 | 3 | 0 | 2 | 0 | 35 | 3 | |||
オランダ | リーグ戦 | リーグ杯 | KNVBカップ | 期間通算 | |||||||
2007-08 | VVVフェンロー | 29 | エールディヴィジ | 14 | 2 | - | - | 14 | 2 | ||
2008-09 | 10 | エールステ・ディヴィジ | 36 | 16 | - | 1 | 0 | 37 | 16 | ||
2009-10 | エールディヴィジ | 18 | 6 | - | 2 | 2 | 20 | 8 | |||
ロシア | リーグ戦 | ロシア杯 | オープン杯 | 期間通算 | |||||||
2010 | CSKAモスクワ | 7 | ロシア・プレミア | 28 | 4 | 5 | 0 | - | 33 | 4 | |
2011-12 | 25 | 8 | 1 | 0 | - | 26 | 8 | ||||
通算 | 日本 | J1 | 90 | 11 | 10 | 2 | 5 | 0 | 105 | 13 | |
オランダ | エールディヴィジ | 32 | 8 | - | 2 | 2 | 34 | 10 | |||
オランダ | エールステディヴィジ | 36 | 16 | - | 1 | 0 | 37 | 16 | |||
ロシア | ロシア・プレミア | 53 | 12 | 6 | 0 | - | 59 | 12 | |||
総通算 | 211 | 47 | 16 | 2 | 8 | 2 | 235 | 51 |
- 2004年は特別指定選手として出場。
その他の公式戦
- 2008年
- エールディヴィジ 残留・昇格プレーオフ 3試合0得点
- 2010年
- ロシア・スーパーカップ 1試合0得点
- 2011年
- ロシア・スーパーカップ 1試合0得点
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国際大会個人成績 | ||||||
---|---|---|---|---|---|---|
年度 | クラブ | 背番号 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 |
UEFA | UEFA EL | UEFA CL | ||||
2009-10 | CSKAモスクワ | 18 | - | 4 | 1 | |
2010-11 | 7 | 7 | 1 | - | ||
2011-12 | - | 1 | 0 | |||
通算 | UEFA | 7 | 1 | 5 | 1 |
その他の国際公式戦
- 2010年
- UEFAヨーロッパリーグ 2010-11 プレーオフ 1試合0得点
経歴
- 公式戦初出場 - 2004年7月24日 ナビスコカップ vsジュビロ磐田 (名古屋市瑞穂公園陸上競技場)
- Jリーグ初出場 - 2005年3月5日 J1第1節 vsジェフユナイテッド市原・千葉 (フクダ電子アリーナ)
- Jリーグ初得点 - 2005年4月28日 J1第6節 vs東京ヴェルディ1969 (名古屋市瑞穂公園陸上競技場)
- エールディヴィジ初出場 - 2008年1月22日 第20節 vsPSVアイントホーフェン (デ・クール)
- エールディヴィジ初得点 - 2008年3月22日 第28節 vsフェイエノールト (デ・カイプ)
- A代表初出場 - 2008年6月22日 ワールドカップ・アジア3次予選 vsバーレーン (埼玉スタジアム2002)
- A代表初得点 - 2009年5月27日 キリンカップ2009 vsチリ (長居スタジアム)
- ロシア・プレミアリーグ初出場・初得点 - 2010年3月12日 第1節 vsアムカル・ペルミ (ルジニキ・スタジアム)
タイトル
クラブ
- VVVフェンロー
- エールステディヴィジ:2008-2009
- PFC CSKAモスクワ
- ロシア・カップ:2011
代表
個人
- エールステディヴィジ MVP:2008-2009
- Russian Premier League Top Players Award:2010 (セントラルMF部門3位)
- AFCアジアカップ MVP :2011
- 日本年間最優秀選手賞 (フットボーラー・オブ・ザ・イヤー):2010
代表歴
出場大会
- U-18日本代表
- U-20日本代表
- 2005年 - FIFAワールドユース選手権・オランダ大会 (ベスト16)
- U-21日本代表
- U-22日本代表
- U-23日本代表
- 2008年 - 北京オリンピック (グループリーグ敗退)
- 日本代表
- 2010年 - FIFAワールドカップ・南アフリカ大会 (ベスト16/4試合2得点)
- 2011年 - AFCアジアカップ2011 (優勝/6試合1得点)
試合数
- 国際Aマッチ 33試合 9得点 (2008年 - )
日本代表 | 国際Aマッチ | |
---|---|---|
年 | 出場 | 得点 |
2008 | 1 | 0 |
2009 | 10 | 3 |
2010 | 12 | 3 |
2011 | 8 | 2 |
2012 | 2 | 1 |
通算 | 33 | 9 |
ゴール
# | 開催年月日 | 開催地 | 対戦国 | 勝敗 | 試合概要 |
---|---|---|---|---|---|
1. | 2009年5月27日 | 日本、大阪 | チリ | ○4-0 | キリンカップサッカー2009 |
2. | 2009年10月10日 | 日本、横浜 | スコットランド | ○2-0 | キリンチャレンジカップ2009 |
3. | 2009年10月14日 | 日本、宮城 | トーゴ | ○5-0 | |
4. | 2010年3月3日 | 日本、豊田 | バーレーン | ○2-0 | AFCアジアカップ2011 予選 |
5. | 2010年6月14日 | 南アフリカ、ブルームフォンテーン | カメルーン | ○1-0 | 2010 FIFAワールドカップ |
6. | 2010年6月24日 | 南アフリカ、ルステンブルク | デンマーク | ○3-1 | |
7. | 2011年1月13日 | カタール、ドーハ | シリア | ○2-1 | AFCアジアカップ2011 |
8. | 2011年8月10日 | 日本、札幌 | 韓国 | ○3-0 | キリンチャレンジカップ2011 |
9. | 2012年6月3日 | 日本、埼玉 | オマーン | ○3-0 | 2014 FIFAワールドカップ・アジア4次予選 |
CM出演
- TBC 「メンズエステティック MEN'S TBC」
- 日本コカ・コーラ株式会社 「アクエリアス「僕にはできる。」キャンペーン」
- 『ボディスキャン』篇 (2010年)
- 『アクエリアス スパークリング「REFRESH」』篇 (2010年)
- 『ストリートフリーキック』篇 (2010年)
- 『アンセム』篇 (2010年)
- 『チェーンリアクション』篇 (2011年)
- 『Three Kings』篇 (2011年)
- 『スパークリングレモン 本田圭佑』篇 (2012年)
- ユニクロ 「フリース」
- 『本田圭佑』篇 (2010年)
- 現代自動車 (2010年)
- アサヒフードアンドヘルスケア 「ミンティア」
- 『俺の登場』編 (2012年)
- 『俺のキャンペーン』編 (2012年)
脚注
- ^ a b 本田圭佑オフィシャルWEBサイト - Profile
- ^ a b 本田圭佑という男。、安田理大公式ブログ、06/19/2008
- ^ a b c d 一人立つ、夢への舞台 サッカー・本田圭佑さん、朝日新聞、2008年7月14日
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- ^ 「本田△」が“読め”れば、ワールドカップもきっと面白い 日経ビジネス
- ^ 「新語・流行語大賞2010 ノミネート語」(新語・流行語大賞公式サイト)
- ^ 「ギャラ600万円も…スマスマよりリーグ戦 スポニチAnnex
- ^ 本田選手 応援の子どもに感謝 NHKニュース
- ^ 「まだ夢追いかけている」母校訪問の本田選手 NHKニュース
- ^ 高校時代の夢へ着々「オレはバルサよりレアルタイプ」 スポニチアネックス2010年7月6日
- ^ a b 本田3月中に5000万円寄付していた 日刊スポーツ2011年6月7日
関連項目
- 大阪府出身の人物一覧
- ガンバ大阪の選手一覧#下部組織出身者
- 特別指定選手としてJリーグクラブに登録された選手一覧
- 名古屋グランパスエイトの選手一覧
- 日本国外のリーグに所属する日本人サッカー選手一覧
- U-20サッカー日本代表
- オリンピックサッカー日本代表選手
- 2010 FIFAワールドカップ日本代表
外部リンク
- 本田圭佑オフィシャルWEBサイト
- 本田圭佑オフィシャルMOBILEサイト
- 本田圭佑マネージャーブログ
- BALANCE (本田圭佑所属マネジメント会社)
- Keisuke Honda - cskainfo.com
- Keisuke Honda - sport-topics.ru