岩田聡
岩田 聡 | |
---|---|
生誕 |
1959年12月6日 北海道札幌市 |
死没 |
2015年7月11日(55歳没)[1][2] 京都府京都市 |
国籍 | 日本 |
教育 | 東京工業大学工学部卒業 |
配偶者 | 岩田佳代子 |
親 | 岩田弘志(父) |
業績 | |
専門分野 | 情報工学 |
勤務先 |
ハル研究所(1982年 - 2000年) 任天堂(2000年 - 2015年) |
成果 |
『ピンボール』の開発 『バルーンファイト』の開発 『MOTHER2 ギーグの逆襲』の開発 『星のカービィシリーズ』のプロデュース 『大乱闘スマッシュブラザーズシリーズ』のプロデュース ハル研究所の経営再建 |
岩田 聡(いわた さとる、1959年12月6日 - 2015年7月11日[1][2])は、日本のプログラマ、経営者[3]。
任天堂元代表取締役社長であり、HAL研究所代表取締役社長なども歴任した[3]。
経歴
生い立ち
北海道札幌市出身。北海道札幌南高等学校、東京工業大学工学部情報工学科卒業。
1976年、高校時代の岩田は、ヒューレット・パッカード社の電子計算機HP-65の存在を知り、アルバイトをして貯めた資金と親の援助で購入する。その魅力に取り憑かれ、独学でプログラムを学習し、完成させたゲームをヒューレット・パッカード社に送った。これに驚いた同社は、様々な品を岩田に送ってきた[4]。
岩田が大学1年時の1979年、大学の入学祝いに加えローンを組んでマイコン (PET[5]) を購入、制限された機能の中でもプログラムを打ち込んでいったことが、後のプログラマー人生の下地となる。なお、この頃からその才能は光っていたらしく、その世界では知られた存在であった。同時期に『スペースインベーダー』がブームとなったこともあり、岩田は、コンピュータゲームの分野に進む意向を固めていくこととなる[6]。
HAL研究所時代
大学在学中、西武百貨店池袋本店のマイコンコーナーの常連客だった岩田は、そのマイコンコーナー店員が立ち上げに関わった「株式会社HAL研究所」(通称ハル研)にアルバイトとして事業に参加[5]。そこでプログラミングに熱中し、大学卒業後はそのままHAL研究所の正社員となった。その後も、会社の経営再建までは、あくまでプログラマとしての立場であり、部署の管理は行っても経営に大きく関わることはなかった。なお、当時のHAL研究所は、立ち上がって間もないごく小さなベンチャーであったため、岩田の親は息子の進路に反対であり、特に父岩田弘志とは入社から半年は口を利かなかったという[6]。
ファミコン時代には、初期の頃から任天堂に積極的に顔を見せて、『ピンボール』『ゴルフ』や『バルーンファイト』などの任天堂ゲームソフトのプログラミングを担当した。当時の日本には(ファミコンに採用された)6502系CPUでのアセンブラに精通したプログラマが少なく、岩田が慣れ親しんだPETが同じ6502系CPUであったことも、大きなアドバンテージであった。特に『バルーンファイト』は、アーケード版よりも非常に滑らかな動きを実現し、アーケード版のプログラマだった中郷俊彦(現・SRD社長[1])が感心して岩田の元へレクチャーを求めて訪れ、それが『スーパーマリオブラザーズ』の水中ステージに活かされたエピソードがある[7]。『ドラゴンクエスト』の北米版(『Dragon Warrior』)を任天堂が発売する際にはローカライズを担当した[8]。
その後も任天堂との共同事業は続けられ、これらの親密な交流がHAL研究所経営再建時の任天堂子会社化、そして岩田の任天堂社長就任の遠因となった。なお、任天堂の重役でありゲーム開発の主要人物である宮本茂とは、『ファミコングランプリII 3Dホットラリー』の開発において初めて出会った[9]。
1990年代において岩田の部下であったゲームクリエイター・桜井政博によると、岩田はゲーム開発者として「プログラマはノーと言っちゃいけない」という考えがあるのだという。これは「(どんな困難なプログラミングが想定されたとしても)ノーと言った時点で企画そのものが駄目になるから、とにかく実現を目指し、無理だった際の代案も考える」という理念で、事実、岩田は相当に困難なプログラミングもこなし、多くのゲームを完成させていった[10]。
次第に部下も増え、全体の把握が難しくなったことから、この頃「言いたいことは言い合おう」として半年に一度程度、部下との面接を始める。管理職になってプログラムを打つ時間がなくなるので、休日出勤をして土日に嬉々として打っていた、というエピソードがある。
HAL研究所社長時代
1992年、HAL研究所が多額の負債を抱えて和議を申請した際、当時取締役開発部長であった岩田が、経営建て直しのため代表取締役に就任した。このとき、岩田を社長に指名したのは、当時任天堂の社長であった山内溥だったといわれている。
前述のように、それまで岩田は経営と疎遠な立場であったが、山内の人選どおり社長として高い経営手腕を発揮し、『星のカービィシリーズ』、『大乱闘スマッシュブラザーズシリーズ』などのヒット作品を生み出し、経営再建を成し遂げた。開発方針とした「万人に受け入れられるゲーム」(これは宮本茂を始めとして、元来の任天堂や桜井政博の製作姿勢でもある)の製作は、その後も続けていくこととなる。
なお、前述のように、社長就任後も機会を見つけてはプログラマとして開発現場で活動していた。『MOTHER2 ギーグの逆襲』が開発中止寸前だった時期には、プログラマ兼プロデューサーとして参加し、「これを、いまある形のままで直していくなら、2年かかります。でも、イチからつくっていいなら、1年以内にやります。どちらにしますか?」と発言し、目の前にある問題を個別に解決していくのではなく、自分以外の人にも使える"道具"(ツール)を先に作ることで制作の速度を向上させた。その結果、プログラムをほぼゼロから1年で完成させたため、その手腕が高く評価された[11]。
この作品の開発を経て、シリーズ生みの親である糸井重里からは大きな信頼を得て、彼のホームページ『ほぼ日刊イトイ新聞』の立ち上げに協力するなど、現在に至るまでの親交が生まれる。だが、同作続編の『MOTHER3 豚王の最期』(NINTENDO64版)では、逆に開発中止を決める立場となった。これ以外にもプログラマーとしての活動が確認でき、『大乱闘スマッシュブラザーズ』の試作品である『格闘ゲーム竜王』を社内コンペ用に作った際は、人手の関係から彼が全てのプログラミングを担当していた[12]。また、クリーチャーズの役員を兼任していた縁で、『ポケットモンスター 赤・緑』海外版のローカライズに必要な変更点の分析をソースコードを解析して行い、同時期にバトルロジックの『ポケモンスタジアム』への移植も行っていた[13]。任天堂経営企画室長時代には『大乱闘スマッシュブラザーズDX』が、このままでは発売日に間に合わないという事態に陥った際、コードレビューやデバッグなどを自ら手がけ、指揮をとり、発売日までに完成させる。これがプログラマーとして最後の仕事となった[14]。
企業の取締役社長としては、自らが陣頭に立っての積極的なプロモーションやPR活動を行っているのが、他者に見られない特徴である。『ほぼ日刊イトイ新聞』などの場を借りて糸井重里らとの対談記事を行い、日本だけでなく海外のイベントにおいてもスピーチなど、さまざまな媒体や機会で行い、これは後に岩田の大きな特色となるとともに、自身でも強化することとなる。
なお、岩田は1992年(当時32歳)でHAL研究所の社長になって以降、2000年と2001年の2年間以外は、常に社長職に就いており、プログラマ志望でありながらも、社会人となってから半分以上は社長業に就任していることになる。
任天堂時代
2000年、任天堂社長だった山内に経営手腕を買われ任天堂に入社し、取締役経営企画室長に就任した。2002年、42歳のときに山内から指名を受け、2002年6月1日付けで代表取締役社長に就任した。任天堂は、1889年に山内溥の曽祖父である山内房治郎が創業して以来、山内家の同族経営であった。そのため、当初次期社長は、山内溥の長男山内克仁か娘婿の荒川実だと思われていた。しかし、他の古参取締役を押し退けて、入社2年目の岩田の大抜擢は、異例中の異例であった。なお、会社の方針決定は、山内の代とは逆に社長一任ではなく、最重要は取締役会となっている。これは「今後の時代に対応するには、集団指導体制にするべき」と考えた山内自身からの提案である。
2001年9月14日には、次世代ゲーム機「ニンテンドーゲームキューブ」を投入した。
岩田は、HAL研究所時代から、「ゲームを豪華に、そして高度で複雑なものとするだけでは、ゲーム熟練者(ヘビーゲーマー・コアゲーマー)に飽きられ、今までゲームに触ったことのない初心者にもとっつきにくいものになり、市場がゆっくりと死んでしまうのではないか」という考えを持っていた。事実、1997年を頂点にゲーム人口が少しずつ減少してきている統計もある[要出典]。そこで、岩田率いる新生任天堂は、2004年12月、失われたゲーム人口を取り戻し、さらに拡大させる『ゲーム人口の拡大』をテーマとして掲げ、第一弾として携帯ゲーム機「ニンテンドーDS」を発売した。初心者には直感的でわかりやすい操作を、熟練者には新鮮で驚きにあふれた操作感覚を提供したこのゲーム機は、クリスマス商戦真っ只中に投入されたこともあって、年末年始のみで150万台を売り上げた。
次いで、全年齢志向のソフト群「Touch! Generations」を立ち上げた。これは、ゲーム人口の拡大に成功し、ニンテンドーDSの売り上げを大きく牽引した。また、ニンテンドーDS用ウェブブラウザやワンセグ受信用端末、Touch! Generationsの新作などを発売し、ゲーム層の幅をさらに広げることにも成功している。
2006年4月20日に、一度開発者の立場で中止した『MOTHER3』の発売を任天堂社長という立場で実現する。製品としてようやく日の目を見た『MOTHER3』は、彼の思想を強く反映した2Dドットの素朴な面白さがあるゲームになっている。岩田は、「『MOTHER3』を一回中止にしたことは今のDSやWiiにつながっている」と強調する。
そして、2006年11月19日に、次世代ゲーム機「Wii」を投入した。このことについて、『夕刊フジ』(2006年1月16日発行)のインタビュー記事内で「自分の存在理由を賭けた戦い」と表現した。また、Wiiの発売に伴って任天堂ホームページ内で、岩田が開発者にインタビューする企画「社長が訊く」を始める[15]。
親会社の社長となってからも、ゲーム開発の現場に参加しており(2005年1月のインタビューで、宮本茂と開発ラインを半分ずつ見ているという発言をしている[16])、GDC 2005において「立場は社長でも、頭はゲーム開発者であり、心はゲーマー」と語り喝采を浴びた[17]。
2009年3月期決算で、任天堂は、業績がピークを迎え、Wiiは任天堂創業以来最大の普及台数(約1億台)を記録した。
2011年より任天堂のゲームに関する情報をゲームファンに直接届ける試みとして「Nintendo Direct」を開始。岩田がプレゼンテーターを務めた[18]。同年発売したニンテンドーDSの後継機となる「ニンテンドー3DS」は、値下げ効果もあり大きく普及したが[19]、2012年に発売したWiiの後継機である「Wii U」が販売台数で苦戦した。特に、世界市場での販売鈍化が目立ち、任天堂は、同年3月期決算より営業赤字に転落した。2013年には任天堂の米国法人CEOも岩田が兼任することとなった。
晩年
2014年6月に胆管腫瘍を患っていたことを公表した[20]。そして、手術及びその後の療養のため、同年6月の株主総会を欠席した[21]。その後、同年8月に復帰[21]。10月の経営方針説明会で公の場に再び登場した[22]。
2015年3月期の決算では、4期ぶりに営業黒字に回復した[23]。体調はいったん持ち直したように見え、同年6月には前年度は欠席した株主総会では議長を務めたが[21]、死去の数日前に体調を崩し入院し容態が急変し[21]。2015年7月11日、代表取締役社長に在職中のまま胆管腫瘍のため、京都市左京区の京都大学医学部附属病院で死去した[24]。享年57(満55歳没)。逝去の事実は、同月13日に任天堂より公表された[1][2]。また、岩田の死は、全世界でも大きく報道された[25][26][27]。
最晩年となった2015年3月には、ディー・エヌ・エーと業務・資本提携し、スマートデバイス向けのサービスを共同開発することを発表した。事業構造の変革に乗り出した途上での急逝となった。
なお、岩田は、病気の告知を受けており、入院中は医学書を読み漁り、「どのような治療プランが最適か」について、主治医と常々話し合うほどであったという[28]。
岩田がこの世を去ったあと、世界で哀悼の意が捧げられた。 ポケモンの社長石原恒和は、「ハル研究所の社長だった時代から20年を超えるお付き合いでした。岩田さんは私を戦友と言ってくれますが、私にとって岩田さんは人生最大の恩人であり、先生であり、相談相手であり、最高のビジネスパートナーでした」と悼んだ。
2015年3月に業務・資本提携を行った、「ディー・エヌ・エー」の社長守安功は、「突然のことで大変驚いております。これから岩田さんと共に新しいゲームの未来を築こうとしていた矢先のことで、大変残念でなりません。心よりご冥福をお祈りいたします」と哀悼の意を表した。
プレイステーションシリーズを手掛けるソニー・コンピュータエンタテインメントの社長アンドリュー・ハウスは、「岩田聡社長はこれまで絶え間なく挑戦を続け、ゲーム業界に新しい風を吹き込み続けてこられました。そのあふれる才能で、日本にとどまらず世界のゲーム業界の発展を強力に推し進められた岩田社長のご逝去の報に接し、謹んでお悔やみ申し上げますとともに、心からご冥福をお祈り致します」とコメントした。
また、Wii U 専用ソフト、スプラトゥーンでは、任天堂が運営する、Miiverseのスプラトゥーンコミュニティで、岩田の突然の死を追悼する投稿が多く見られた。
岩田の突然の死は世界中を駆け巡り大きく報道された。
人物
- かなりの読書家であり、多忙な中でもビジネス書をはじめとした読書を欠かさなかった。HAL研究所時代はそれほど本を読んでいたわけではなく、糸井重里に薦められて読んでいたが、段々逆に糸井へ薦める程になったとのこと。また漫画も好んでおり、ドラゴンボールやNARUTOなどの少年ジャンプ作品やめぞん一刻を愛読していた[28]。
- 古参のMacintoshユーザーで、プレゼンテーションでは「Keynote」を使用していた。携帯電話はiPhoneを愛用していた。また、1980年代当時は珍しかった携帯型パソコンのMacintosh Portableも所持しており、常にプログラムを記述できる環境下にあったという。
- 古くはMSX2で、MacintoshのようなGUI環境を実現するHALNOTE(HAL研究所より1987年に発売)の開発にも関わっていた。
- 自身の好きな作品には、自らが開発に携わっていたという点で『星のカービィ』『MOTHER』『大乱闘スマッシュブラザーズ』を愛着のある作品としてあげていた[29]。
- 糸井重里にMacintoshの使い方を教えたり、『ほぼ日刊イトイ新聞』の立ち上げ及びPC環境の整備に協力していることから(回想によれば、「コンピュータの手配」をし「プロバイダーと契約」し、「床を這いずりまわってLAN(ケーブル)の配線」をしたという[30])、『ほぼ日』において「電脳部長」という名前で登場している。また、Wii用ゲームソフト『街へいこうよ どうぶつの森』の記事では糸井のWiiのインターネット接続を担当したとあり、糸井に対しては個人としても協力していることが伺える。
- プログラマー時代から宮本茂に対しては尊敬の念を抱いていた。宮本の考え方や言葉を常に観察しており、「宮本ウォッチャー」を自認していた。
- 先述のように、海外でのイベントでは自身が英語でスピーチを行うことも多いが、学生時代は英語が苦手であり、HAL研究所入社後に仕事で必要となり覚えていった[31]。
- ゲーム機の高性能化について、2007年1月3日の産経新聞のインタビューに答え「もし今のゲーム機の10倍のパワーを持ったゲーム機が登場したとして、それを自分は認知できても、家族は使いこなせますか? 違いの分かる人だけを相手にするのは危険だ」と述べた。その一方で、岩田自身は技術者出身のため、高性能技術や最新技術に対しての理解や造詣が深く、自分個人としては強い興味関心がある旨を、決算説明会での質疑応答などでたびたび語っていた。
- Wii『メトロイドプライム3 コラプション』で収録されている開発者からのメッセージで、「悩みがあると痩せるのではなく太る体質で、多忙であっても疲れているように見られない」と語っていた。
- 菓子が好きで「クリーチャーズの役員だった時もとにかく冷蔵庫を開け閉めしていた」「麦チョコを出された際にはとても嬉しそうだった」と田中宏和らは語っている[28]。
- Nintendo Directなどで度々見せる、手のひらを向かい合わせにして何かを覗くような形にした後、それを突き出す「直接!」のポーズはファンの間でもよく話題となり、他の社員や他社のクリエイター、ゲストなども「Direct」出演時には同じポーズを取ることも多い。時には岩田とその日の出演者が同時に合わせてやったこともある。なお文脈としては「情報を直接お届けします」のような場面で使われる。
家族・親族
家族に関してはHAL研究所の再建および社長就任時点で既に妻子がいたことを語っている[4]。
アニメ『ポケットモンスター アドバンスジェネレーション』の登場人物であるマサトは岩田の息子がモデルとなっている[28]。
略歴
- 1959年(昭和34年)12月6日 - 北海道札幌市にて誕生。
- 1982年(昭和57年) - 東京工業大学工学部卒業。
- 1982年(昭和57年) - HAL研究所入社。
- 1984年(昭和59年) - HAL研究所取締役就任。
- 1993年(平成5年) - HAL研究所代表取締役社長就任。
- 2000年(平成12年) - HAL研究所取締役相談役就任。
- 2000年(平成12年) - 任天堂取締役経営企画室室長就任。
- 2002年(平成14年) - 任天堂代表取締役社長就任。
- 2013年(平成25年) - 任天堂米国法人 (Nintendo of America) 取締役会長 (CEO) 兼務[32]。
- 2015年(平成27年)7月11日 - 胆管腫瘍のため死去[1][2]。
脚注
- ^ a b c d “代表取締役社長の逝去および異動に関するお知らせ(訃報)” (PDF). 任天堂 (2015年7月13日). 2015年7月13日閲覧。
- ^ a b c d “任天堂の岩田聡社長が死去 55歳、胆管腫瘍で”. 日本経済新聞 (2015年7月13日). 2015年7月13日閲覧。
- ^ a b “「天才プログラマー」独創性にこだわる 岩田聡社長死去”. 朝日新聞 (2015年7月13日). 2015年7月14日閲覧。
“岩田社長失った任天堂 直面する3つの課題”. 日本経済新聞 (2015年7月13日). 2015年7月14日閲覧。
“岩田聡社長は「ゲーム人生」を駆け抜けた - 娯楽の王国を守った経営者の功績とは?”. 東洋経済 (2015年7月21日). 2015年8月10日閲覧。 - ^ a b “ほぼ日刊イトイ新聞 社長に学べ ! 任天堂岩田聡さん”. 株式会社東京糸井重里事務所 (2008年3月5日). 2011年9月25日閲覧。
- ^ a b “社長が訊く『ファイナルファンタジー・クリスタルクロニクル クリスタルベアラー』”. 任天堂 (2009年11月6日). 2011年9月25日閲覧。
- ^ a b “Nintendo Direct 2012.10.25 ゲームセンターCX 特別編 社長が課長に訊く”. 任天堂 (2012年10月25日). 2012年12月10日閲覧。
- ^ “社長が訊く『New スーパーマリオブラザーズ Wii』 その2”. 任天堂 (2009年11月30日). 2010年6月17日閲覧。
- ^ “社長が訊く『ドラゴンクエストIX 星空の守り人』”. 任天堂 (2009年7月3日). 2014年1月31日閲覧。
- ^ “任天堂ホームページ E3 2010情報 社長が訊く E3特別篇『ニンテンドー3DS』その1”. 任天堂 (2010年6月16日). 2010年6月17日閲覧。
- ^ 桜井がゲーム雑誌『週刊ファミ通』に掲載しているコラムの単行本3巻「桜井政博のゲームについて思うことDX」の55ページにおける119回コラムへの補足コメントより。
- ^ “ほぼ日刊イトイ新聞 任天堂の岩田社長が遊びに来たので、みんなでご飯を食べながら話を聞いたのだ その7”. ほぼ日刊イトイ新聞 (2007年9月10日). 2010年6月17日閲覧。
- ^ “社長が訊く『大乱闘スマッシュブラザーズX』 VOL.7 一期一会なゲーム”. 任天堂 (2008年1月30日). 2011年9月25日閲覧。
- ^ “社長が訊く『ポケットモンスター ハートゴールド・ソウルシルバー』”. 任天堂 (2009年9月4日). 2014年1月31日閲覧。
- ^ “任天堂・岩田氏をゲストに送る「ゲーマーはもっと経営者を目指すべき!」最終回――経営とは「コトとヒト」の両方について考える「最適化ゲーム」”. 4Gamer.net (2014年12月27日). 2014年12月27日閲覧。
- ^ “社長が訊く Wii プロジェクト - Vol.1 Wii ハード編”. 任天堂. 2015年7月18日閲覧。
- ^ “任天堂・岩田聡社長、新春インタビュー”. 夕刊フジBLOG. 産業経済新聞社 (2005年1月13日). 2005年4月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年5月21日閲覧。
- ^ 奥谷海人 (2005年3月14日). “[GDC#18]日本人開発者も大幅に増えた GDC 2005総括”. 4Gamer.net. 2010年6月17日閲覧。
- ^ “2011年10月28日(金)第2四半期(中間)決算説明会 任天堂株式会社 社長 岩田聡 講演内容全文”. 任天堂. 2015年7月18日閲覧。
“会社情報:Nintendo Direct リンク集”. 任天堂. 2015年7月18日閲覧。 - ^ “2012年1月27日(金)経営方針説明会 / 第3四半期決算説明会”. 任天堂 (2012年1月27日). 2016年1月13日閲覧。
- ^ “株主の皆様へ” (2014年6月24日). 2015年2月17日閲覧。
- ^ a b c d 任天堂の岩田聡社長が死去 55歳、胆管腫瘍で WiiやDS開発を先導 - 産経ニュース 2015年7月13日
- ^ 岩田社長が復活、任天堂の成長シナリオは? - 東洋経済ONLINE 2014年11月2日
- ^ “2015年5月8日(金) 決算説明会 (1/4)”. 任天堂 (2015年5月8日). 2015年7月18日閲覧。
- ^ “任天堂の岩田社長が死去 DS、Wiiヒット 55歳”. 京都新聞社 (2015年7月13日). 2015年7月14日閲覧。
- ^ “Nintendo's Satoru Iwata dies at 55” (英語). 英国放送協会 (2015年7月13日). 2015年7月14日閲覧。
- ^ “Nintendo CEO Satoru Iwata dies of cancer aged 55” (英語). ザ・ガーディアン (2015年7月13日). 2015年7月14日閲覧。
- ^ “Nintendo President Satoru Iwata Dies of Cancer” (英語). ウォール・ストリート・ジャーナル (2015年7月13日). 2015年7月14日閲覧。
- ^ a b c d “【岩田 聡氏 追悼企画】岩田さんは最後の最後まで“問題解決”に取り組んだエンジニアだった。「ゲーマーはもっと経営者を目指すべき!」特別編” (2015年12月29日). 2015年12月29日閲覧。
- ^ “任天堂・岩田氏をゲストに送る「ゲーマーはもっと経営者を目指すべき!」最終回――経営とは「コトとヒト」の両方について考える「最適化ゲーム」” (2014年12月27日). 2015年3月29日閲覧。
- ^ “HOBO NIKKAN ITOI SHINBUN” (2007年9月14日). 2015年7月13日閲覧。
- ^ “任天堂 社長が訊く『ニンテンドー3DS』ソフトメーカークリエーター 第5回:『スーパーストリートファイターIV 3D EDITION』”. 任天堂. pp. 3 (2011年2月24日). 2011年2月26日閲覧。
- ^ 土本学 (2013年4月25日). “任天堂、複数の役員交代を発表・・・6.7歳若返り、米国法人CEOも岩田氏が兼任へ” (日本語). iNSIDE 2015年7月13日閲覧。
参考文献
- 井上理『任天堂 “驚き”を生む方程式』日本経済新聞出版社、2009年5月。ISBN 978-4-532-31463-7。
関連項目
- 任天堂
- HAL研究所
- 宮本茂
- 桜井政博 - HAL研究所でのかつての部下。カービィの生みの親。現在も親交があるようで、岩田のインタビューや桜井の連載コラムでしばしば登場する。
- 東京工業大学の人物一覧
- 北海道札幌南高等学校の人物一覧
- 久夛良木健 - 互いの企業がライバル関係にあった。岩田と同じ技術者出身。
外部リンク
- 任天堂ホームページ
- Iwata - 本人のMiiverse。
- 社長が訊く リンク集
- 岩田聡 GDC講演内容 - 2011年3月2日に北米で開催された「Game Developers Conference 2011」における公演の日本語訳
- ほぼ日刊イトイ新聞
- 社長に学べ! - 岩田聡と糸井重里の対談。
- 任天堂の岩田社長が遊びに来たので、 みんなでご飯を食べながら話を聞いたのだ。
- 星空の下の仕事観。岩田社長と、はたらくことについて話す。 - 岩田聡と糸井重里の対談。
- 適切な大きさの問題さえ生まれれば。 - 梅田望夫と岩田聡と糸井重里の対談。
- 社長が訊く in 樹の上の秘密基地 『Wii U』 特別篇 | ゲーム機の電源を入れてもらうために。 - 岩田聡と宮本茂と糸井重里の対談。
- 『MOTHER2』ふっかつさい 開催記念対談 - 岩田聡と糸井重里の対談。MOTHER2 ギーグの逆襲の開発に参加した時の秘話。
- 岩田聡さんのコンテンツ
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先代 山内溥 |
任天堂社長 第4代:2002年 - 2015年 |
次代 君島達己 |