山内溥

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やまうち ひろし
山内 溥
生誕 1927年11月7日(85歳)
京都府 京都市
出身校 早稲田大学(中退)
職業 実業家
任天堂 相談役
子供 山内克仁
山内鹿之丞(旧姓:稲葉)
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山内 溥(山内博、やまうち ひろし、1927年11月7日 - )は、日本実業家

任天堂株式会社代表取締役社長(第3代)(1949年-2002年)、同社取締役相談役(2002年-2005年)を経て、現在同社相談役。任天堂の「中興の祖」。京都府京都市出身。

目次

経歴 [編集]

任天堂創業家の生まれであり、創業者・初代社長の山内房治郎の曾孫に当たる。幼少時に父・山内鹿之丞(婿養子。旧姓:稲葉)が駆け落ちして失踪した以外は恵まれた環境で育つ。

1949年、任天堂が労働争議で大変な時期、祖父で二代目社長の山内積良が病気で倒れる。本来は社長職を継ぐはずの父が既にいなかったため、祖父の後を継がざるを得なくなり、早稲田大学第二法学部を4年で中退し、22歳の若さで任天堂代表取締役社長に就いた。社長就任後は積極的に社内改革を図るが、当初は「こんな若造に従うことは出来ない」とストライキを起こされたり、退社するものも多くいた。1955年に任天堂の労働争議は一応の決着がついたものの、この経験から父を激しく嫌い、後に父が面会しに来た際には、門前払いしたという。

山内は屈指のアイディアマンでもあり、1953年には日本初のプラスチック製トランプを開発、1959年にはディズニートランプを発売。「ディズニーキャラクターを絵柄に使う」「遊び方の簡単な説明書を同梱する」という全く新しい手法により、それ以前は博打の道具としてしか認識されていなかったトランプを子供向け・家庭の団欒のための玩具として再定義したことにより、任天堂のトランプは爆発的に売れ、1960年代前半には一躍業界トップに躍り出る。

その一方、1958年にアメリカ最大手のトランプ会社であるU.Sプレイング・カード社の工場とオフィスを視察に行った際、その規模の小ささに失望、「トランプだけではちっぽけな会社で終わってしまう」と悟る。

親戚にタクシー会社の経営者がいたことから、1960年にダイヤタクシー[1]を設立したのを皮切りに経営規模拡大のため多角化経営を始めるが、手当たりしだいに他業種に進出してノウハウ不足によりことごとく失敗。更にトランプブームが一段落付いた1964年に任天堂は一転倒産危機に直面することになる。

そんな中、新入社員の横井軍平が暇つぶしで作っていた遊び道具をウルトラハンドとして商品化させたところ大ヒットを記録。横井軍平を玩具商品開発の主任に据える。横井は工学部出身であったため電気・電子関係の技術を使った目新しい玩具でヒットを出す。ただし最終的な商品化の決定権はすべて山内にあったため多くの企画が没にしている。

すでにトランプや玩具の販売でデパートのおもちゃ売り場と得意の関係にあったことなどから、光線銃SPのヒットを機に、山内は多角経営路線を諦めた。

この光線銃SPは山内が非常に気に入り、光線銃SPの発展版ともいえる「レーザークレー射撃場」という施設を全国各地に展開させようともくろんだが、第一次オイルショックの影響で建設計画撤回が相次ぎ、任天堂は多額の負債を背負い、再び倒産危機に直面することになる。しかし山内はアーケードゲームに可能性を見出し、その路線を突き進むことになる。

タイトースペースインベーダーの大ヒットにより、亜流のインベーダーゲームが氾濫していた際に、任天堂(任天堂アーケードシステム)は『スペースフィーバー』でこれに参戦。この際、山内はテレビのインタビュー[2]で「遊び方にパテントは無いわけです」「これからの娯楽業界の発展のためには、むしろこういった新たな技術(ソフトウェア)を互いに公開・交流することが大切」といった旨の発言をしていた。

その一方、家庭用テレビゲーム機も数多く手掛け、1980年には携帯型ゲーム機「ゲーム&ウオッチ」が多角経営時代とレーザークレーの負債を完全返済してもありあまるほどのヒット・売り上げを記録。この直後、「アーケードゲームを家庭で」という目的に据え置き型ゲーム機「ファミリーコンピュータ」の開発が始まる。この際、山内の「アーケードはもうやめや」の一言で、アーケードゲームの事業規模を急激に縮小させ、家庭用テレビゲームに専念する体制が取られた。宮本茂は「こんなことしていいのかと思った」という。

ゲームボーイ開発時には、横井軍平に対し厳しく注文をつけた。主に液晶面の問題であり、横井はプレッシャーで自殺を考えるまでに追い込まれたという。なお、「最終デモ機が完成し受け取った際にわざと床に落として強度のテストを行った」という逸話が流布しているが、これについて任天堂広報室は「いつの間にか、そのような話ができあがった」とコメントしている[3]

1992年のHAL研究所の経営危機の際には、岩田聡を社長に据える事を条件に資金援助をするという変わり手を使い、結果的に岩田の経営者としての才能を開花させている。

2002年に社長業から引く。引退が報道された際に、任天堂の株価は一気に下落した。日本経済新聞が行う優良企業ランキングで何度も一位を獲得し、日本を代表する無借金超優良企業へと築き上げた「中興の祖」としての山内の手腕を最大限に評価した結果とも言える。大株主であると同時に三代続いた一族経営会社の社長でありながら、同社に勤める自分の息子を次期社長には指名せず、HAL研究所から同社取締役へと呼び寄せていた岩田聡に社長職を譲った。岩田を社長に任命する直前、一対一で3時間経営哲学を語り、この際に「異業種には絶対手を出すな」と言い残した。また会社の意思決定は社長への一任ではなく、取締役会での集団指導体制へと移行を促した。さらには「二画面」のゲーム機開発を促し、これが後のニンテンドーDSになった[4]

2005年、山内が取締役を退任する際、任天堂側からは長年の功績に対する慰労金として12億3600万円を提示されていたが、山内は「それよりも社業に使ってほしい」と、この申し出を断っている。

2008年5月8日、アメリカの経済誌フォーブス(電子版)で発表された「日本の富豪40人」のトップに選出される。資産総額は78億ドル(当時の換算で約8,100億円)[5]

投資家としての山内溥 [編集]

1992年、米国大リーグ球団シアトル・マリナーズが経営危機に瀕し、シアトルから移転されることも考えられたが、「長い間米国任天堂を置かせてくれたシアトルへの恩返し」として大リーグ球団をシアトルに留めるために、山内がポケットマネーでマリナーズ運営会社の株式を購入。大リーグ史上初の非白人オーナーとなった。任天堂社長を退いた後も共同オーナーに名を連ねていた。2004年8月までに任天堂がそれらを買い取り(持株比率が50%を超え)、マリナーズ運営会社The Baseball Club of Seattleは任天堂の持分法適用会社となっている。

社長をしていた当時、マリナーズの日本人大リーガーの佐々木主浩イチローが、任天堂のコマーシャルに登場したこともある。イチローが大リーグへ挑戦を表明した時には、「何が何でも獲れ」と厳命を下している。山内がマリナーズに対して口出しをしたのはこれっきりであり、基本的には金だけ出し、口を出すことはない。それどころか「飛行機が嫌いだから」という理由で、マリナーズの本拠地セーフコ・フィールドに一度も行ったことがない。2005年には、個人保有していた任天堂の株式5000株をイチローの年間最多安打達成のお祝いとして贈呈した[6]小倉百人一首をテーマとして、京都文化や京都観光の発展に貢献するために設立された「財団法人小倉百人一首文化財団」の理事長を務めている。同文化財団の建築する百人一首のテーマパーク「時雨殿」の建設の際には、建築費用21億円すべてを個人で負担した。

2002年1月に「ファンドキュー」というベンチャーのゲーム会社を支援する投資ファンドを設立している。「ゲームキューブとゲームボーイアドバンスの連携」、「開発期間は一年」、「任天堂による審査」など条件はあったが、無担保で融資を行うという零細ベンチャーには魅力あるものであり、全額山内のポケットマネーで行われた。

2006年2月、京都市左京区京都大学医学部附属病院に「大学病院の使命にふさわしい病棟を建設してほしい」と約70億円の個人資産を寄附。これにより京大では地上8階・地下1階で延べ床面積約2万平方メートル・病床約300の新病棟を建設する(2007年2月着工)[7]

人物 [編集]

山内時代の任天堂は情報公開が少なく、ファミコンカセットのロイヤリティ問題、ゲームボーイの投げ付け、リコーの話等マスコミが報じた憶測が事実として定着したものが数多く存在する。

「独特の経営哲学」で知られ、ワンマン経営者の典型として語られる事が多いが、宮本茂は「皆、社長の喜ぶ顔が見たくてやっている」と語り、出石武宏は「(開発第一部部長になって)いまは立場上社長と話せる場面が増えたわけです。好きですね。ますます好きですね。だってすこいですもん。(後略)」「社長が笑うた顔を見たいがためにみんなつくっている」[8]と熱く語っているようにカリスマ性にも優れ、幹部社員の殆どから厚い信頼を得ていた。

独断的手法については評価が分かれる部分があるものの、「ファミリーコンピュータ(ファミコン)」に代表される一連のテレビゲームや、任天堂では初の開発部長である横井軍平の発案による「ウルトラハンド」「ゲーム&ウオッチ」等の新規市場開拓型のヒット商品については、山内の決断により成功したことはよく知られている(横井とは犬猿の仲のように報じられがちだが、実質この2名と宮本茂の3名で現在の任天堂を創り上げたとも評される)。

親族 [編集]

妹が一人。妻の兄は元任天堂社外監査役の稲葉 実(稲葉 實、いなば みのる、1921年11月12日 - )。長女の夫は元Nintendo of America社長の荒川實。長男は任天堂作品の映画版スタッフとして名前が露出している。

山内 克仁(やまうち かつひと、1959年9月27日 - )
任天堂・広報室企画部部長として在籍中。大学を卒業後、1985年に電通に入社。その後、10年を経て任天堂に入社し任天堂のアメリカ支社に勤務。のち、本社に戻り、同社広報企画室企画部課長。2000年6月に部長代理。2001年より現職。映画「ポケットモンスター」のアソシエイトプロデューサーを担当し、最近はスーパーバイザーとして参加。山内一族の後継者ではあるが、現在も取締役の地位には無い。

その他 [編集]

  • 趣味の囲碁はアマ六段の腕前を持つ。名目上は六段であるが、実際はもっと強いのではないかといわれている。2005年9月30日には、囲碁界への貢献が認められ、5年間空席だった日本棋院関西総本部長に就任した。
  • 前述のとおりオーナーなのにマリナーズの試合を見ていないという伝説を持っているが、これはゲームに関しても同じであり、山内はゲーム会社の社長だったのにゲームをほとんどやっていなかった。唯一やっていたゲームが囲碁ゲームである。「任天堂が囲碁ゲームを出す際は、ゲームのCPU(思考ルーチン)が山内と勝負し、それに勝たなければならない」という暗黙のルールがあり、任天堂は2008年8月5日配信開始のWiiウェア通信対局 囲碁道場2700問』まで一度も囲碁ゲームを発売できなかった。任天堂に技術がないわけではなく、2006年現在で最も強いとされるコンピュータ囲碁プログラムですら、甘めに見積もって人間のアマ初段程度の強さしか持っていない。先述のゲームについても、コンピュータとの対局は初心者用の練習対局に限られている。
  • 社長だった頃の、強烈なカリスマ性やワンマン経営、そして何よりもその風貌と歯に衣着せぬ物言いから、インターネットコミュニティ上では「社長」ならぬ「組長」とも呼ばれ、当時広報室長だった同じく強面の今西絋史(現・同社顧問)と共に、恐れられる存在であった。ただし彼を嫌ってのものというよりも、むしろ『愛称』としての側面が強いものであった。
  • NINTENDO64発売当時、スクウェアが「ファイナルファンタジーシリーズ」最新作のプラットホームを土壇場でNINTENDO64からSCEプレイステーションに変更したことに激怒したとされているが、実際は当時のスクウェア側の任天堂に対する侮辱的発言による説が有力。その影響で、スクウェア関係者は山内が社長から退任するまで任天堂本社に出入り禁止となっていた(詳しくはスクウェア・エニックスを参照)。
  • 64DDソフト「タレントスタジオ」では本人役で出演し、社長挨拶をしている。
  • ゴニンカントランプ協会」の名誉名人を務めている。
  • どうぶつの森+』では、プレイヤーへの最初の手紙を執筆している。
  • まわるメイドインワリオ』の一部レコードに非常に小さいが彼が描かれたものがある。

脚注 [編集]

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  1. ^ 後に任天堂資本をはずれ、京都名鉄タクシーを経て現在は南ヤサカ交通として現存する。
  2. ^ NHK1979年放送の「ルポルタージュにっぽん」。1996年放送のNHKスペシャル新・電子立国」でもこのときのインタビュー映像が使われている。
  3. ^ “DS故障は無償交換!?任天堂の“神対応”は本当か”. ZAKZAK. (2009-05/21). http://www.zakzak.co.jp/top/200905/t2009052110_all.html 2011年4月21日閲覧。 
  4. ^ 井上理「任天堂 驚きを生む方程式」日経BP社、2009年
  5. ^ #1 Hiroshi Yamauchi - Forbes.com
  6. ^ “イチロー選手に任天堂5千株プレゼント 最多安打たたえ”. 朝日新聞. (2005年1月27日). オリジナル2005年1月29日時点によるアーカイブ。. http://classic-web.archive.org/web/20050129051420/http://www.asahi.com/business/update/0127/094.html 
  7. ^ “山内溥氏から京都大学に対する寄附について” (プレスリリース), 京都大学, (2006年2月21日), http://www.kyoto-u.ac.jp/notice/05_news/nb0602.htm#n060221_1 2011年4月21日閲覧。 
  8. ^ 武田亨「It’s The NINTENDO」(2000年、ティーツー出版)p.67

関連項目 [編集]

外部リンク [編集]

先代:
山内積良
任天堂社長
第3代: 1949 - 2002
次代:
岩田聡