岩田聡

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岩田 聡
(いわた さとる)
国籍 日本の旗 日本
生誕 1959年12月6日(54歳)
日本の旗 北海道札幌市
最終学歴 東京工業大学工学部卒業
両親 岩田弘志
業績
専門分野 情報工学
勤務先 ハル研究所
任天堂
成果 ピンボール』の開発
バルーンファイト』の開発
ハル研究所の経営再建
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岩田 聡(いわた さとる、1959年12月6日 - )は、日本男性プログラマ実業家任天堂株式会社代表取締役社長(第4代)、任天堂オブアメリカ取締役会長。

株式会社ハル研究所社長、任天堂株式会社経営企画室室長などを歴任した。また『バルーンファイト』などのプログラミングを手がけ、天才プログラマと呼ばれたこともある。

経歴[編集]

生い立ち[編集]

北海道札幌市出身。北海道札幌南高等学校東京工業大学工学部情報工学科卒業。

1976年、高校時代の岩田はヒューレット・パッカード社の電子計算機HP-65の存在を知り、アルバイトをして貯めた資金と親の援助で購入する。その魅力にとりつかれ独学でプログラムを学習し、完成させたゲームをヒューレット・パッカード社に送った。これに驚いた同社は、様々な品を岩田に送ってきた[1]

岩田が大学1年時の1979年、大学の入学祝いに加えローンを組んでマイコン(PET[2])を購入、制限された機能の中でもプログラムを打ち込んでいったことが後のプログラマ人生の下地となる。なお、この頃からその才能は光っていたらしく、その世界では知られた存在であった。同時期に『スペースインベーダー』がブームとなったこともあり、岩田はコンピュータゲームの分野に進む意向を固めていくこととなる[3]

HAL研究所時代[編集]

大学在学中、西武百貨店池袋本店のマイコンコーナーの常連客だった岩田は、そのマイコンコーナー店員が立ち上げに関わった「株式会社ハル研究所」(通称HAL研究所)にアルバイトとして事業に参加[2]。そこでのプログラミングに熱中し、大学卒業後はそのままHAL研究所の正社員となった。その後も、会社の経営再建まではあくまでプログラマとしての立場であり、部署の管理は行っても経営に大きく関わることは無かった。なお、当時のHAL研究所は立ち上がって間もないごく小さなベンチャーであったため岩田の親は聡の進路に反対であり、父岩田弘志とは入社から半年は口を利かなかったという[3]

ファミコン時代には、初期の頃から任天堂に積極的に顔を見せて、『ピンボール』『ゴルフ』や『バルーンファイト』などの任天堂ゲームソフトのプログラミングを担当した。当時の日本には(ファミコンに採用された)6502系CPUでのアセンブラに精通したプログラマが少なく、岩田が慣れ親しんだPETが同じ6502系CPUであったことも大きなアドバンテージであった。特に『バルーンファイト』はアーケード版よりも非常に滑らかな動きを実現し、アーケード版のプログラマだった中郷俊彦(現・SRD社長[1])が感心して岩田の元へレクチャーを求めて訪れ、それが『スーパーマリオブラザーズ』の水中ステージに活かされたエピソードがある[4]。『ドラゴンクエスト』の北米版(『Dragon Warrior』)を任天堂が発売する際にはローカライズを担当した[5]

その後も任天堂との共同事業は続けられ、これらの親密な交流がHAL研究所経営再建時の任天堂子会社化、そして岩田の任天堂社長就任の遠因となった。なお、任天堂の重役でありゲーム開発の主要人物である宮本茂とは『ファミコングランプリII 3Dホットラリー』の開発において初めて出会った[6]

1990年代において岩田の部下であったゲームクリエイター・桜井政博によると、岩田はゲーム開発者として「プログラマはノーと言っちゃいけない」という考えがあるのだという。これは「(どんな困難なプログラミングが想定されたとしても)ノーと言った時点で企画そのものが駄目になるから、とにかく実現を目指し、無理だった際の代案も考える」という理念で、事実岩田は相当に困難なプログラミングもこなし多くのゲームを完成させていった[7]

次第に部下も増え、全体の把握が難しくなったことから、この頃「言いたいことは言い合おう」として半年に一度程度、部下との面接を始める(これは任天堂社長になった現在も続けている)。管理職になってプログラムを打つ時間がなくなるので、休日出勤をして土日に嬉々として打っていた、というエピソードがある。

HAL研究所の社長就任[編集]

1992年、HAL研究所が多額の負債を抱えて和議を申請した際、当時取締役開発部長であった岩田が、経営建て直しのため代表取締役に就任した。このとき岩田を社長に指名したのは当時任天堂の社長であった山内溥だったといわれている。

前述のようにそれまで岩田は経営と疎遠な立場であったが、山内の人選どおり社長として高い経営手腕を発揮し、『星のカービィシリーズ』、『大乱闘スマッシュブラザーズシリーズ』などのヒット作品を生み出し、経営再建を成し遂げた。開発方針とした「万人に受け入れられるゲーム」(これは宮本茂を始めとして、元来の任天堂や桜井政博の製作姿勢でもある)の製作はその後も続けていくこととなる。

なお、前述のように社長就任後も機会を見つけてはプログラマとして開発現場で活動していた。『MOTHER2 ギーグの逆襲』が開発中止寸前だった時期にはプログラマ兼プロデューサーとして参加し、「これを、いまある形のままで直していくなら、2年かかります。でも、イチからつくっていいなら、1年以内にやります。どちらにしますか?」と発言し、目の前にある問題を個別に解決していくのではなく、自分以外の人にも使える"道具"(ツール)を先に作ることで制作スピードをアップさせた。その結果、プログラムをほぼゼロから1年で完成させ、手腕が高く評価された[8]
この作品の開発を経てシリーズ生みの親である糸井重里からは大きな信頼を得て、彼のホームページ『ほぼ日刊イトイ新聞』の立ち上げに協力するなど、現在に至るまでの親交が生まれる。だが同作続編の『MOTHER3 豚王の最期』(NINTENDO64版)では、逆に開発中止を決める立場となった。これ以外にもプログラマーとしての活動が確認でき、『大乱闘スマッシュブラザーズ』の試作品である『格闘ゲーム竜王』を社内コンペ用に作った際は、人手の関係から彼が全てのプログラミングを担当していた[9]。また、クリーチャーズの役員を兼任していた縁で、『ポケットモンスター 赤・緑』海外版のローカライズに必要な変更点の分析をソースコードを解析して行い、同時期にバトルロジックの『ポケモンスタジアム』への移植も行っていた[10]

企業の取締役社長としては、自らが陣頭に立っての積極的なプロモーションやPR活動を行っているのが他者に見られない特徴である。『ほぼ日刊イトイ新聞』などの場を借りて糸井重里らとの対談記事を行い、日本だけでなく海外のイベントにおいてもスピーチなど、さまざまな媒体や機会で行い、これは後に岩田の大きな特色となるとともに自身でも強化することとなる。

なお、岩田は1992年(当時32歳)でHAL研究所の社長になって以降、2000年と2001年の2年間以外は常に社長職に就いており、プログラマ志望でありながらも社会人となってから半分以上は社長業に就任している事になる。

任天堂入社[編集]

Electronic Entertainment Expo 2005任天堂カンファレンスでWiiの本体プロトタイプを披露

2000年、任天堂の山内溥社長(現相談役)に経営手腕を買われて任天堂に入社、取締役経営企画室長に就任。2002年、42歳のときに山内から指名を受け、2002年6月1日付けで代表取締役社長に就任した。任天堂は1889年に山内溥の曽祖父である山内房治郎が創業して以来山内家の同族経営であり、当初次期社長は山内溥の長男山内克仁か娘婿の荒川実だと思われていたが、他の古参取締役をも押し退けて入社2年目の岩田の大抜擢は異例中の異例であった。なお、会社の方針決定は山内の代とは逆に社長一任ではなく、最重要は取締役会となっている。これは「今後の時代に対応するには、集団指導体制にするべき」と考えた山内自身からの提案である。一方で、岩田自身も後述するように「社長になった意味」を示すとして自身を広告塔にする活動を推し進めることとなる。

岩田はHAL研究所時代から、「ゲームを豪華に、そして高度で複雑なものとするだけでは、ゲーム熟練者(ヘビーゲーマー・コアゲーマー)に飽きられ、今までゲームに触ったことのない初心者にもとっつきにくいものになり、市場がゆっくりと死んでしまうのではないか」という考えを持っていた。事実、1997年を頂点にゲーム人口が少しずつ減少してきている統計もある。そこで岩田率いる新生任天堂2004年12月、失われたゲーム人口を取り戻し、さらに拡大させる『ゲーム人口の拡大』をテーマとして掲げ、第一弾として携帯ゲーム機ニンテンドーDS」を発売した。初心者には直感的でわかりやすい操作を、熟練者には新鮮で驚きにあふれた操作感覚を提供したこのゲーム機は、クリスマス商戦真っ只中に投入されたこともあって、年末年始のみで150万台を売り上げた。

次いで、全年齢志向のソフト群「Touch! Generations」を立ち上げた。これはゲーム人口の拡大に成功し、ニンテンドーDSの売り上げを大きく牽引した。また、ニンテンドーDS用ウェブブラウザやワンセグ受信用端末、Touch! Generationsの新作などを発売し、ゲーム層の幅をさらに広げることにも成功している。

2006年4月20日に、一度開発者の立場で中止した『MOTHER3』の発売を任天堂社長という立場で実現する。製品としてようやく日の目を見た『MOTHER3』は、彼の思想を強く反映した2Dドットの素朴な面白さがあるゲームになっている。岩田は「『MOTHER3』を一回中止にしたことは今のDSやWiiにつながっている」と強調する。

そして2006年11月19日に、次の一手として新機軸の新世代ゲーム機「Wii」を投入。このことについて、『夕刊フジ』(2006年1月16日発行)のインタビュー記事内で「自分の存在理由を賭けた戦い」と表現した。

その一環か、前述のように元から『ほぼ日刊イトイ新聞』で頻繁に糸井重里と対談を行ったり、社長就任前からE3で英語のスピーチを行ったりと前面に出てくることが多かったが、更にその動きを自ら加速させている。2005年からは経営方針説明会や決算説明会での全テキストをWeb上で公開するだけでなくその映像までの配信、後述する社長自らインタビューする企画「社長が訊く」を開始するなど、他の企業では見られない積極的なPR、IR展開を繰り広げている。

2014年1月29日に大阪市内で開かれた決算発表記者会見の中で、自分を含め取締役全員の報酬を減額することが発表された。減額の理由については業績不振のためである。

親会社の社長となって以降もゲーム開発の現場に参加しており(2005年1月のインタビューで、宮本茂と開発ラインを半分ずつ見ているという発言をしている[11])、GDC 2005において「立場は社長でも、頭はゲーム開発者であり、心はゲーマー」と語り喝采を浴びた[12]

インタビュー企画「社長が訊く」[編集]

社長が訊く」(英:Iwata asks)とは、社長である岩田自らがゲームハードやソフトの開発者にインタビューをし、自社のWebサイトで公開する企画である。他の国においても各国の任天堂支社のホームページに翻訳されて掲載されている。

元々は、先述のように岩田の「自分の存在理由を賭けた戦い」という社長の任を受けた意味、Wiiの開発理念および「ゲーム人口の拡大戦略」ら自社の戦略を開発者の声とともに伝えるとして、Wiiの本格的な発表が迫った2006年9月8日からWii発売までに際してのPR活動として開始したものである。当初は「社長自身が、自社の開発者にインタビューをする」という企画であると共にWii発売までの活動だったが、2007年の『スーパーマリオギャラクシー』からは自社の新製品のPRとして掲載・連載を開始、2008年の『大乱闘スマッシュブラザーズX』からは任天堂社外の人物も対象となり(ただし、この回のインタビューを受けたのは元部下の桜井政博だった)、後にはニンテンドーDSの新作やサードパーティー発売の作品、更には自社の新サービスや就職活動への広告を対象とした回も現れるなどインタビュー対象の幅が広がり、任天堂ホームページの名物企画となっている。

初期の回の日本語版はWiiやニンテンドーDSのウェブサイト「Wii.com JP」や「Touch-DS.jp」などに掲載されていたが、日本におけるこれらのウェブサイトが任天堂ホームページに統合され始めてからは掲載先もそちらに移行し、2010年11月末に日本版のWii.comらが閉鎖されてからは以前の記事も任天堂ホームページに転載されている。

なお、「『社長が訊く』の認知度が(ゲームユーザー全体からして)低いので、宣伝したほうが良いのでないか」、という質問に対しては「『自分で宣伝するのはいかがなものか』という気がするので認知している人の口コミに任せる」という返答をしている[13]

Nintendo Direct[編集]

Nintendo Direct」(ニンテンドー ダイレクト)とは、2011年10月21日から任天堂が自社のWebサイトにてインターネット配信している製品プロモーション動画である。各国の任天堂社長(COO)が司会進行・解説を担当しており、日本においては岩田自身が司会を行っている。

詳細は「Nintendo Direct」を参照。

人物[編集]

  • かなりの読書家であり、多忙な中でもビジネス書をはじめとした読書を欠かさない。HAL研究所時代はそれほど本を読んでいたわけではなく、糸井重里に薦められて読んでいたが、徐々に逆に糸井に薦める程になったとのこと。
  • 古参のMacintoshユーザーで、プレゼンテーションでは「Keynote」を使用している。携帯電話iPhoneを愛用。
  • 古くはMSX2で、MacintoshのようなGUI環境を実現するHALNOTE(HAL研究所より1987年に発売)の開発にも関わっている。
  • 糸井重里にMacintoshの使い方を教えたり、『ほぼ日刊イトイ新聞』の立ち上げ及びPC環境の整備に協力していることから、『ほぼ日』において「電脳部長」という名前で登場している。また、Wii用ゲームソフト『街へいこうよ どうぶつの森』の記事では糸井のWiiのインターネット接続を担当したとあり、糸井に対しては個人としても協力していることが伺える。
  • プログラマー時代から宮本茂に対しては尊敬の念を抱いており、宮本の考え方や言葉を常に観察しており、「宮本ウォッチャー」を自認している。
  • 先述のように、海外でのイベントでは自身が英語でスピーチを行うことも多いが、学生時代は英語が苦手であり、HAL研究所入社後に仕事で必要となり覚えていった[14]
  • ゲーム機の高性能化について、2007年1月3日産経新聞のインタビューに答え「もし今のゲーム機の10倍のパワーを持ったゲーム機が登場したとして、それを自分は認知できても、家族は使いこなせますか? 違いの分かる人だけを相手にするのは危険だ。」と述べた。
  • その一方で、岩田自身は技術者出身のため、高性能技術や最新技術に対しての理解や造詣が深く、自分個人としては強い興味関心がある旨を、決算説明会での質疑応答などでたびたび語っている。
  • Wii『メトロイドプライム3 コラプション』で収録されている開発者からのメッセージで、「悩みがあると痩せるのではなく太る体質で、多忙であっても疲れているように見られない」と語っている。

家族・親族[編集]

父は室蘭市の市長を務めた岩田弘志

家族に関してはHAL研究所の再建および社長就任時点で既に妻子がいたことを語っている[1]

略歴[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ a b ほぼ日刊イトイ新聞 社長に学べ ! 任天堂岩田聡さん” (日本語). 株式会社東京糸井重里事務所 (2008年3月5日). 2011年9月25日閲覧。
  2. ^ a b 社長が訊く『ファイナルファンタジー・クリスタルクロニクル クリスタルベアラー』” (日本語). 任天堂 (2009年11月6日). 2011年9月25日閲覧。
  3. ^ a b Nintendo Direct 2012.10.25 ゲームセンターCX 特別編 社長が課長に訊く” (日本語). 任天堂 (2012年10月25日). 2012年12月10日閲覧。
  4. ^ 社長が訊く『New スーパーマリオブラザーズ Wii』 その2” (日本語). 任天堂 (2009年11月30日). 2010年6月17日閲覧。
  5. ^ 社長が訊く『ドラゴンクエストIX 星空の守り人』” (日本語). 任天堂 (2009年7月3日). 2014年1月31日閲覧。
  6. ^ 任天堂ホームページ E3 2010情報 社長が訊く E3特別篇『ニンテンドー3DS』その1” (日本語). 任天堂 (2010年6月16日). 2010年6月17日閲覧。
  7. ^ 桜井がゲーム雑誌『週刊ファミ通』に掲載しているコラムの単行本3巻「桜井政博のゲームについて思うことDX」の55ページにおける119回コラムへの補足コメントより。
  8. ^ ほぼ日刊イトイ新聞 任天堂の岩田社長が遊びに来たので、みんなでご飯を食べながら話を聞いたのだ その7” (日本語). ほぼ日刊イトイ新聞 (2007年9月10日). 2010年6月17日閲覧。
  9. ^ 社長が訊く『大乱闘スマッシュブラザーズX』 VOL.7 一期一会なゲーム” (日本語). 任天堂 (2008年1月30日). 2011年9月25日閲覧。
  10. ^ 社長が訊く『ポケットモンスター ハートゴールド・ソウルシルバー』” (日本語). 任天堂 (2009年9月4日). 2014年1月31日閲覧。
  11. ^ 任天堂・岩田聡社長、新春インタビュー”. 夕刊フジBLOG. 産業経済新聞社 (2005年1月13日). 2005年4月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年5月21日閲覧。
  12. ^ 奥谷海人 (2005年3月14日). “[GDC#18]日本人開発者も大幅に増えた,GDC 2005総括”. 4Gamer.net. 2010年6月17日閲覧。
  13. ^ 任天堂株式会社 2010年3月期 第3四半期決算説明会 質疑応答” (日本語). 任天堂. pp. 2 (2010年1月29日). 2010年6月17日閲覧。
  14. ^ 任天堂 社長が訊く『ニンテンドー3DS』ソフトメーカークリエーター 第5回:『スーパーストリートファイターIV 3D EDITION』” (日本語). 任天堂. pp. 3 (2011年2月24日). 2011年2月26日閲覧。
  15. ^ 「任天堂、複数の役員交代を発表・・・6.7歳若返り、米国法人CEOも岩田氏が兼任へ」INSIDE2013年4月25日

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

ビジネス
先代:
山内溥
任天堂社長
第4代:2002年 -
次代:
(現職)