岩田聡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
| 岩田聡 | |
|---|---|
2006年度E3の任天堂カンファレンスでの写真
|
|
| 生誕 | 1959年12月6日(49歳) 北海道 札幌市 |
| 職業 | 任天堂代表取締役社長 |
岩田 聡(いわた さとる、1959年12月6日 - )は、日本の男性プログラマ。元HAL研究所社長、現第4代任天堂代表取締役社長。父は室蘭市長を務めた岩田弘志。
目次 |
[編集] 経歴
北海道札幌市出身。『バルーンファイト』などのプログラミングを手がけ、天才プログラマと呼ばれたことがある。北海道札幌南高等学校、東京工業大学工学部情報工学科卒業。
高校時代、電子計算機の魅力にとりつかれ大枚をはたいて購入、制限された機能の中でもプログラムを打ち込んでいったことが後のプログラマ人生の下地となる。なお、この頃からその才能は光っていたらしく、その世界では知られた存在であった。
[編集] HAL研究所時代
大学在学中、コンピューターに触れたくてアルバイトをしていたデパートのコンピューター売り場の先輩に誘われ、HAL研究所の立ち上げに参加。ファミコン時代には、『ゴルフ』、『バルーンファイト』などの任天堂ゲームソフトのプログラミングを担当した。次第に部下も増え、全体の把握が難しくなったことからこの頃、「言いたいことは言い合おう」として半年に一度程度、部下との面接を始める(これは任天堂社長になった現在も続けている)。管理職になってプログラムを打つ時間がなくなるので、休日出勤をして土日に嬉々として打っていた、というエピソードがある。
1992年、HAL研究所が多額の負債を抱えて和議を申請した際、経営建て直しのため代表取締役に就任した。このとき岩田を社長に指名したのは当時任天堂の社長であった山内溥だったといわれている。そして社長として経営手腕を発揮し、『星のカービィ』、『大乱闘スマッシュブラザーズ』などのヒット作品を生み出し、経営再建を成し遂げた。
なお、『MOTHER2』が開発中止寸前だった時期にプログラマ、プロデューサーとして参加した。「今のプログラムを活かすと2年かかります。でも一から作り直すなら1年以内で出来ます」と発言、目の前にある問題を個別に解決していくのではなく、自分以外の人にも使える道具を先に作ることで制作スピードをアップさせ、結果プログラムをほぼゼロから1年で完成させた。 その手腕は高く評価されたが、のちの『MOTHER3 豚王の最期』(NINTENDO64版)は、逆に開発中止を決める立場になった。
[編集] 任天堂入社
2000年、任天堂の山内溥社長(現相談役)に経営手腕を買われて任天堂入社、取締役経営企画室長に就任。2002年、42歳のときに山内から指名を受け、2002年6月1日付けで代表取締役社長に就任した。3代続いていた山内家一族経営に加え、他の古参取締役をも押し退けて入社2年目の岩田の大抜擢は異例中の異例であった。
岩田はHAL研究所時代から、「ゲームを豪華に、そして高度で複雑なものとするだけでは、ゲーム熟練者(ヘビーゲーマー)に飽きられ、今までゲームに触ったことのない初心者にもとっつきにくいものになり、市場がゆっくりと死んでしまうのではないか」という考えを持っていた。事実、1997年を頂点にゲーム人口が少しずつ減少してきていた。そこで岩田率いる新生任天堂は2004年12月、失われたゲーム人口を取り戻し、さらに拡大させる『ゲーム人口の拡大』をテーマとして掲げ、第一弾として携帯ゲーム機「ニンテンドーDS」を発売した。初心者には直感的でわかりやすい操作を、熟練者には新鮮で驚きにあふれた操作感覚を提供したこのゲーム機は、クリスマス商戦真っ只中に投入されたこともあって、年末年始のみで150万台を売り上げた。
次いで、全年齢志向のソフト群「Touch! Generations」を立ち上げた。これはゲーム人口の拡大に成功し、DSの売り上げを大きく牽引した。また、ニンテンドーDS用ウェブブラウザやワンセグ受信用端末、Touch! Generationsの新作などを発売し、ゲーム層の幅をさらに広げることにも成功している。
2006年4月20日に、一度開発者の立場で中止した『MOTHER3』の発売を任天堂社長という立場で実現する。製品としてようやく日の目をみた『MOTHER3』は彼の思想を強く反映した2Dドットの素朴な面白さがあるゲームになっている。岩田は「MOTHER3を一回中止にしたことはいまのDSやWiiにつながっている」と強調する。
そして2006年11月19日に、次の一手として新機軸の新世代ゲーム機「Wii」を投入。このことについて、「夕刊フジ」(2006.1.16発行)のインタビュー記事内で「自分の存在理由を賭けた戦い」と表現した。その一環か、2005年からは経営方針説明会や決算説明会での全テキストをweb上で公開するだけでなくその映像まで配信し、社長自ら開発者にインタビューをしてWebサイトで公開する(「社長が訊く」)など、他の企業では見られない積極的なPR、IR展開を繰り広げている。元々、「ほぼ日刊イトイ新聞」で頻繁に糸井重里と対談を行ったり、社長就任前からE3で英語のスピーチを行ったりと前面に出てくることが多かったが、更にその動きを自ら加速させていると言える。
現在でも暇を見てゲーム開発の現場に参加しているらしく、GDC(Game Developers Conference)において「立場は社長でも、頭はゲーム開発者であり、心はゲーマー」と語り喝采を浴びた。
[編集] 人物
- Macintoshユーザーで、プレゼンテーションでは「Keynote」を使用している。糸井重里にMacintoshの使い方を教えたり、「ほぼ日刊イトイ新聞」のPC環境の整備に協力していることから、「ほぼ日」において「電脳部長」という名前で登場している。
- 古くはMSX2で、MacintoshのようなGUI環境を実現するHALNOTE(HAL研究所より1987年に発売)の開発にも関わっている。
- ゲーム機の高性能化について、2007年1月3日の産経新聞のインタビューに答え「もし今のゲーム機の10倍のパワーを持ったゲーム機が登場したとして、それを自分は認知できても、家族は使いこなせますか? 違いの分かる人だけを相手にするのは危険だ。」と述べた。
- かなりの読書家であり、多忙な中でも読書を欠かさない。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- ほぼ日刊イトイ新聞 - 社長に学べ! 第2回 2005-03-01-TUE - 岩田聡と糸井重里の対談。
- ほぼ日刊イトイ新聞 - 話を聞いた 2007-08-31 - 同上
|
|
|

