FCバルセロナ
FCバルセロナ | ||||
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原語表記 | Futbol Club Barcelona | |||
呼称 | FCB | |||
愛称 |
Barça or Blaugrana (team) Culés or Barcelonistas (supporters) Blaugranes or Azulgranas (supporters) | |||
クラブカラー | 青・ 臙脂 | |||
創設年 | 1899年 | |||
所属リーグ | ラ・リーガ | |||
所属ディビジョン | 1部(2020–21) | |||
ホームタウン | バルセロナ | |||
ホームスタジアム | カンプ・ノウ | |||
収容人数 | 99,354[1] | |||
監督 | ロナルド・クーマン | |||
公式サイト | 公式サイト | |||
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■テンプレート(■ノート)■サッカークラブPJ |
FCバルセロナ(スペイン語: Fútbol Club Barcelona、カタルーニャ語: Futbol Club Barcelona; カタルーニャ語発音: [fubˈbɔl ˈklub bəɾsəˈlonə])は、カタルーニャ州バルセロナをホームタウンとするスペインのスポーツクラブ。プリメーラ・ディビシオンに所属する。
概要
1899年に創立されたクラブであり、カンプ・ノウをホームスタジアムとしている。愛称は「バルサ(カタルーニャ語: Barça)」、またはクラブカラーから「ブラウ・グラナ(カタルーニャ語: Blau Grana、青と臙脂)」と呼ばれる。プリメーラ・ディビシオンに所属しており、レアル・マドリードと並びスペイン、そして世界を代表するクラブである。同リーグにおいて26回の優勝を記録しているほか、レアル・マドリードとアスレティック・ビルバオと並んでリーガ・エスパニョーラの創立以来、一度もプリメーラ・ディビシオンから降格したことがないクラブである。また、コパ・デル・レイにおいては30回の最多優勝記録を持ち、スペイン国内で最多記録となる8回の同一シーズンにおけるリーガ・エスパニョーラ優勝とコパ・デル・レイ優勝の国内タイトル2冠を達成している。 さらに、2021年の時点で6クラブのみであるビッグイヤーの永久保持が認められているクラブの1つであるほか、スペイン国内で主要タイトル3冠を達成した唯一のクラブであり、ヨーロッパのクラブとしては史上初めて2度の主要タイトル3冠を達成したクラブである。2009年には年間を通して参加することが可能である6つの主要な大会を全て優勝し、史上初めてかつ唯一となる主要タイトル年間6冠を達成している。
「クラブ以上の存在(カタルーニャ語: MÉS QUE UN CLUB)」がクラブのスローガンであり、ユニフォームの後襟にもこの言葉がプリントされているほかカンプ・ノウの客席にも椅子の色を変えて示されている。これは1919年のカタールニャ自治憲章制定運動で登場したのがはじめであり、「カタルーニャ民族主義の精神の現れ」「FCバルセロナはカタルーニャ民族主義の象徴である」「FCバルセロナはカタルーニャ人のアイデンティティーの象徴」などと言われる。[2]。またスペイン屈指の商業都市バルセロナの市民社会の拠り所という意味も含まれる。
「攻撃的でスペクタクルなフットボール」をクラブのアイデンティティとしており、試合に勝ったとしても内容が伴わなければサポーターから容赦ないブーイングが浴びせられる。このような習慣はスペイン国内の多くのクラブチームに存在するものではあるが、FCバルセロナは特にこの傾向が顕著であり、結果よりも内容で遥かに大きいものを求められる面が強い。これにはFCバルセロナのレジェンドであるヨハン・クライフが体現したトータルフットボールによる側面が強い上にクライフの影響を強く受けたルイ・ファン・ハールやフランク・ライカールトが今のFCバルセロナの礎ともなっているポゼッションサッカーを発展させ、これを元に作られたのがジョゼップ・グアルディオラが提言したティキ・タカとなっている。
運営
クラブ運営上の特徴として一般市民などからの会員を募り、その会費でチームを運営している点が挙げられる。会員は現在世界中で18万に達しており[3]、日本でも2004年6月より会員の募集が行われている。「カンテラ」と呼ばれる下部組織が非常に発達しており、現チームの選手も含め幾多の名選手を輩出してきた(詳細はカタルーニャ語版参照)。このカンテラ出身選手は生え抜きとしてサポーターから特に絶大な声援を受けることが多い。
2014年1月、世界最大の会計事務所である『デロイト』が公表したデロイト・フットボール・マネー・リーグでは、2012-2013シーズンのクラブ収入は4億8260万ユーロであり、レアル・マドリードに次ぐ世界第2位である[4]。また、イギリスメディアが2012年に公表した調査によると、FCバルセロナの平均年俸は約868万ドルと推定されており、世界で最も平均年俸が高いクラブであることが判明し、ニューヨーク・ヤンキースやロサンゼルス・レイカーズなどアメリカのスポーツチームを含めて世界一である[5]。
2021年1月25日、発表された年次報告書から、約1478億円もの巨額債務を抱えていることが判明。
英紙「デーリーメール」によると、バルセロナは19のクラブに〝借金〟があり、総額は約1億1200万ポンド(約159億円)に達するという。その最大の金額がリバプールに支払わなければならない約2500万ポンド(約35億5000万円)だ。 同紙は、バルセロナが2017年にリバプールからブラジル代表MFフィリペ・コウチーニョを獲得する際の移籍金1億4200万ポンド(約201億6000万円)のうち、1億500万ポンド(約149億円)を支払い、残る3700万ポンド(約52億5000万円)を分割にするとの契約だったとし、その残りが約2500万ポンドと伝えている。 ほかにもフランス1部ボルドーに約800万ポンド(約11億3000万円)、オランダ1部アヤックスに約1400万ポンド(約19億9000万円)などの債務があるとし、同紙は「現在、スペインのクラブは複数の方法でそれを支払っています」と報じた。[6]
他クラブとの関係
サッカーのみならず政治的、地域的に長年の対立関係にある首都マドリードのレアル・マドリードは、長年に渡って最大のライバルである。
このレアル・マドリードとの試合は『エル・クラシコ』(El Clásico)と呼ばれ、1902年の第1回コパ・デルレイ(スペイン国王杯)から因縁の対決を続けている。その背景には、1923年-1930年のプリモ・デ・リベーラ将軍による独裁政権時代、さらに1939年-1975年におけるフランコ独裁政権時代のカタルーニャに対する弾圧がある。当時、カタルーニャの人々は自分たちの言語であるカタルーニャ語を公の場で話すことが許されなかったが、スタジアムの中でのみそれが許された。
対戦成績は長きに渡ってレアル・マドリードが上回っていたが、2019年3月2日のエル・クラシコでFCバルセロナが勝利したことで、通算対戦成績がバルセロナ96勝、レアル・マドリード95勝、51分けとなり、およそ87年ぶりにバルセロナがクラシコを勝ち越した[7]。
バルセロナとレアル・マドリード間の移籍は「禁断の移籍」とされ、「裏切り」と呼ばれることも多い。第三者のクラブ選手の移籍においても競合することが多く、これまで幾多の選手をめぐって争奪戦を繰り広げている。
同じくバルセロナを本拠地とするRCDエスパニョールとの試合はバルセロナ・ダービーまたはカタルーニャダービーと呼ばれる。
政治性
2012年9月11日、会長のサンドロ・ロセイは個人としてカタルーニャ独立を支持するデモに参加した。9月11日は、スペイン継承戦争の最後の戦いであるバルセロナ包囲戦で、カタルーニャがスペイン・フランス連合軍に敗北した日であり、カタルーニャではカタルーニャの日として特別な記念日となっている。カタルーニャの独立運動が勢いを増す中[8]、FCバルセロナは独立派勢力から距離を置くなど中立性を維持してきた。しかし、ロセイは今後、FCバルセロナが政治的中立性を保つことは出来ないだろうと語った[9]。
歴史
カタルーニャ民族主義の中の草創期
1899年にスイス人実業家ジョアン・ガンペールら11名により創立された。この時、上記の「えんじと青」のチームカラーが決められたが、このチームカラーとなったのは、ガンペールの縁深かったFCバーゼルのチームカラーを真似た物と一般的には信じられている[10]。初代会長はイギリス人のウォルター・ワイルド。設立から11年後の1910シーズンにはコパ・デル・レイで優勝した。1919年の『カタルーニャ自治憲章』制定運動がバルセロナを中心をするカタルーニャで起きたが、マドリードの中央政府が難色を見せるこの地方自治運動にFCバルセロナも参加した時に「クラブ以上の存在」というスローガンが初めて使用された。
スペイン内戦と独裁政権期
設立から30年目を迎えようとする1929シーズンにはリーガ・エスパニョーラで初めて優勝したが、その後勃発するスペイン内戦がチームの運命を暗転させた。スペイン内戦時にはカタルーニャはフランシスコ・フランコの独裁政権に強く抵抗した。1935年には会長J・スニョルは暗殺され、ソシオの会員数は250人までに減少した。内戦後にはカタルーニャはフランコ政権の目の敵にされ、カタルーニャ語の使用の禁止など政治経済のみならず文化面でも抑圧された。しかしバルセロナのブルジョワの独裁政権への運動もありFCバルセロナは「クラブ以上の存在」すなわちカタルーニャ民族主義の象徴として維持された。とはいえ1940年代にはフランコ政権の支援を受けたレアル・マドリードが力を伸ばしてきた時期であり、1943年の総統杯ではレアル・マドリードに11対0で敗北している。これはレアル・マドリードが中央政府の支援を受けており、戦力の差が広がった結果である。FCバルセロナとレアル・マドリードの「因縁」はこのころに形成された。またFCバルセロナのエンブレムにあるカタルーニャ国旗の部分はスペイン国旗に変更された。
しかしながら1960年代の本格化するバルセロナの経済発展と人口増は住宅需要をもたらし、FCバルセロナは「レス・コルツ」スタジアムを売却して、郊外に新しいスタジアムを建設した。1957年に落成した新スタジアムが現在の本拠地「カンプ・ノウ」である。カンプ・ノウの建設には当初予算を3倍も上回るものとなったが、周辺の土地にスポーツ関連施設を建設するなどの不動産経営で得た利益はクラブ経営の経済的基盤となった。1955-56シーズンはインターシティーズ・フェアーズカップにてそれぞれ初優勝を果たした。
ホセ・ルイス・ヌニェス会長時代
1978年にホセ・ルイス・ヌニェスが会長職に就任。1980年にはキニ、ベルント・シュスターを獲得し、1980-81シーズンはコパ・デル・レイ優勝を達成。1982年にはディエゴ・マラドーナを獲得し、1982-83シーズンはコパ・デル・レイ優勝、1983-84シーズンにはスーペルコパ・デ・エスパーニャ優勝、1984-85シーズンにはリーガ・エスパニョーラ優勝を果たした。1986年夏の移籍市場ではアンドニ・スビサレッタらを獲得。1987-88シーズンはコパ・デル・レイ優勝を達成したほか、シーズン終盤にヨハン・クライフが監督に就任。1988年夏の移籍市場ではフリオ・サリナス、ホセ・マリア・バケーロ、アイトール・ベギリスタイン、エウセビオ・サクリスタン・メナ、アンドニ・ゴイコエチェアを獲得し、1988-89シーズンはFCバルセロナBからギジェルモ・アモールを昇格させた。1989年夏の移籍市場ではロナルド・クーマン、ミカエル・ラウドルップを獲得し、1989-90シーズンはコパ・デル・レイ優勝を達成する。
1992年5月20日に行われたUEFAチャンピオンズカップ 1991-92決勝、UCサンプドリア戦のスターティングメンバー。 |
1990年夏の移籍市場ではフリスト・ストイチコフを獲得し、1990-91シーズンはFCバルセロナBからアルベルト・フェレール、ジョゼップ・グアルディオラらを昇格させ、リーガ・エスパニョーラ優勝を達成。1991年夏の移籍市場ではミゲル・アンヘル・ナダルを獲得し、1991-92シーズンはスーペルコパ・デ・エスパーニャ、リーガ・エスパニョーラ、UEFAチャンピオンズカップにて優勝を達成した。1992-93シーズンはスーペルコパ・デ・エスパーニャとリーガ・エスパニョーラにて優勝を果たす。1993年夏の移籍市場ではロマーリオを獲得し、1993-94シーズンはFCバルセロナBからセルジ・バルフアンを昇格させ、リーガ・エスパニョーラ4連覇を達成した。これらの実績を残した当時のチームはエル・ドリーム・チームと称された。
1994年夏の移籍市場ではアベラルドらを獲得し、スーペルコパ・デ・エスパーニャ優勝を達成。1995年夏の移籍市場ではルイス・フィーゴ、イバン・デ・ラ・ペーニャらを獲得するも、1995-96シーズンは無冠に終わり、シーズン終了後にクライフは解任された。
1996-97シーズンはボビー・ロブソンが監督に就任し、1996年夏の移籍市場ではロナウド、ルイス・エンリケらを獲得。同シーズンはスーペルコパ・デ・エスパーニャ、コパ・デル・レイにて優勝を果たす。
1997-98シーズンはルイ・ファン・ハールが監督に就任し、1997年夏の移籍市場ではリバウド、ミハエル・ライツィハーらを獲得。同シーズンはリーガ・エスパニョーラ優勝とコパ・デル・レイ2連覇の2冠を達成。
1998年夏の移籍市場ではパトリック・クライファート、フィリップ・コクーらを獲得し、1999年冬の移籍市場ではフランク・デ・ブール、ロナルド・デ・ブールを獲得。1998-99シーズンはFCバルセロナBからシャビを昇格させ、UEFAチャンピオンズリーグでは2年連続でグループリーグ敗退するものの、リーガ・エスパニョーラ2連覇を達成する。
1999-2000シーズンはFCバルセロナBからカルレス・プジョルを昇格させる。UEFAチャンピオンズリーグでは準決勝で敗退、リーグ戦でも下位チームとの敗戦や引き分けによる取りこぼしが目立ち、デポルティボがリーグ優勝したことで同シーズンは無冠に終わる。
一方、オランダ人選手の加入に伴うカンテラ出身選手の冷遇、1999-2000シーズンのチームの体たらくなどでソシオの不満が爆発し、その責任を取るかたちでヌニェスが会長職を辞任。シーズン終了後にファン・ハールも監督を退任した。
ジョアン・ガスパール会長時代
1999-2000シーズン終了後に会長選を実施し、ジョアン・ガスパールが会長に就任する。
2000年夏の移籍市場では、ルイス・フィーゴがレアル・マドリードへ禁断の移籍を果たすことになったが、ジェラール・ロペス、マルク・オーフェルマルスらを獲得するも、2000-01シーズンは無冠に終わる。2001年夏の移籍市場ではハビエル・サビオラらを獲得するも、2001-02シーズンも無冠に終わる。2002-03シーズンはFCバルセロナBからアンドレス・イニエスタ、ビクトル・バルデス、オレゲール・プレサスを昇格させるも、4季連続の無冠に終わった。
ジョアン・ラポルタ会長時代
2006年5月17日に行われたUEFAチャンピオンズリーグ 2005-06 決勝、アーセナルFC戦のスターティングメンバー。 |
2003年にジョアン・ラポルタが会長に就任。ラポルタはクラブOBで元監督だったヨハン・クライフとの関係を深め、監督人選もクライフの意見が反映された。
2003-04シーズンはフランク・ライカールトが監督に就任。2003年夏の移籍市場ではロナウジーニョ、ルイス・ガルシア、ラファエル・マルケス、ジョバンニ・ファン・ブロンクホルストらを獲得し、2004年冬の移籍市場ではエドガー・ダービッツを獲得。同シーズンは無冠に終わるも、後半戦での巻き返しにより最終節終了にて2位で終わる。
2004年夏の移籍市場ではサミュエル・エトオ、ヘンリク・ラーション、リュドヴィク・ジュリ、デコ、エジミウソンらを獲得し、ファン・ブロンクホルスト以外のオランダ人選手を一斉に放出。2004-05シーズンはFCバルセロナBからリオネル・メッシを昇格させ、リーガ・エスパニョーラ優勝を果たした。
2005-06シーズンはスーペルコパ・デ・エスパーニャ、リーガ・エスパニョーラ、UEFAチャンピオンズリーグにて優勝を達成する。
2006年夏の移籍市場ではジャンルカ・ザンブロッタ、リリアン・テュラム、エイドゥル・グジョンセンらを獲得。2006-07シーズンはスーペルコパ・デ・エスパーニャ2連覇を達成するが獲得したのはこれだけ。リーガ・エスパニョーラでは前年の得点王だったエトーが、UEFAチャンピオンズリーグのブレーメン戦で半月板を断裂し、5節から20節まで欠場し、メッシも10月12日のレアル・サラゴサ戦で足を踏まれ、左第5中足骨基部骨折し11節から21節まで離脱。この2人を欠いて臨んだ試合で5勝4分け1敗と失速し[11]、優勝した前年と同じ勝ち数ながらレアル・マドリードに勝ち点で並ばれ、クラシコで1分け1敗と負け越した関係で2位に終わった。コパ・デル・レイでは準決勝のヘタフェ戦においてホームでの第1戦を5-2で終えながらアウェーでの第2戦を0-4で落としてしまい逆転負けでベスト4敗退、UEFAチャンピオンズリーグではリバプールと対戦し、第1戦でデコのゴールで先制しながら逆転負けし、2戦合計2-2ながらアウェーゴール数で劣りベスト16に終わる。UEFAスーパーカップではセビージャFCに敗れて準優勝に終わり、エトーとメッシが2人共欠場した状態で臨まなければならなかったFIFAクラブワールドカップ2006でも決勝でブラジルのインテルナシオナルに敗れ準優勝に終わる。
2007年夏の移籍市場ではティエリ・アンリ、ガブリエル・ミリート、トゥーレ・ヤヤ、エリック・アビダルを獲得するも、ロナウジーニョの夜遊びでコンディションを崩したり、デコを筆頭にエゴをまき散らして移籍願望ともとれる発言をしたり[12]、新たなる象徴になりつつあったメッシ、ピッチに立てば高い決定力を誇るエトーが怪我で離脱したりと自滅してしまい、24シーズンぶりにレアルとのクラシコに連敗を喫し、2007-08シーズンはスーペルコパ・デ・エスパーニャには出場していないので、4季ぶりの無冠に終わり、シーズン終了後にライカールトは監督を退任した。
2009年5月27日に行われたUEFAチャンピオンズリーグ 2008-09決勝、マンチェスター・ユナイテッドFC戦のスターティングメンバー。 |
2008-09シーズンはFCバルセロナBの監督を務めていたジョゼップ・グアルディオラがトップチームの監督に就任。2008年夏の移籍市場ではダニエウ・アウヴェス、セイドゥ・ケイタ、ジェラール・ピケらを獲得し、FCバルセロナBからペドロ・ロドリゲス・レデスマ、セルヒオ・ブスケツ・ブルゴスらを昇格させた。同シーズンはリーガ・エスパニョーラ、コパ・デル・レイ、UEFAチャンピオンズリーグにて優勝を達成し、スペイン史上初めての主要タイトル3冠を達成した。
2009年夏の移籍市場ではエトオとのトレードでズラタン・イブラヒモビッチを獲得したほか、マクスウェル、ドミトロ・チグリンスキーを獲得。2009-10シーズンはUEFAスーパーカップ優勝、スーペルコパ・デ・エスパーニャ優勝、FIFAクラブワールドカップ2009優勝を果たして史上初の年間6冠を達成したほか、リーガ・エスパニョーラ2連覇を達成した[13]。2010年夏の移籍市場ではダビド・ビジャを獲得するも、同年6月30日をもってラポルタは任期満了に伴い会長職を退任した。
サンドロ・ロセイ会長時代
2011年5月28日に行われたUEFAチャンピオンズリーグ 2010-11 決勝、マンチェスター・ユナイテッドFC戦のスターティングメンバー。 |
2010年にサンドロ・ロセイが会長に就任。ロセイが会長に就任以降もチームはタイトルを獲得する。一方で、カタール財団との胸スポンサーに端を発する商業主義の導入等で、クライフや前任者との対立姿勢を示すこととなり、監督人選もそれが色濃く反映された。
2010年夏の移籍市場ではアドリアーノ、ハビエル・マスチェラーノを獲得。2010-11シーズンはスーペルコパ・デ・エスパーニャ2連覇、リーガ・エスパニョーラ3連覇、UEFAチャンピオンズリーグ優勝を達成した[14][15][16][17][18]。2011年夏の移籍市場ではアレクシス・サンチェス、フランセスク・ファブレガスを獲得。2011-12シーズンは2008-09年以来3年ぶりのコパ・デル・レイ優勝、スーペルコパ・デ・エスパーニャ[19]、UEFAスーパーカップ、FIFAクラブワールドカップ2011においてはここ3年で2度目の優勝を達成するが、リーガ・エスパニョーラでは2位に終わり、UEFAチャンピオンズリーグでは準決勝にて連覇の望みが潰え、シーズン終了後にジョゼップ・グアルディオラは監督を退任した。
2012-13シーズンはアシスタントコーチをつとめていたフランセスク・ビラノバが監督に就任。2012年夏の移籍市場ではジョルディ・アルバ、アレクサンドル・ソングを獲得。2012年12月にビラノバが病気を理由にチームを暫く離れることになり[20][21]、3月の下旬まで助監督のジョルディ・ロウラがチームを率いることとなった。監督復帰後のUEFAチャンピオンズリーグ 2012-13の準決勝では、バイエルン・ミュンヘンに2戦合計0-7で惨敗。リーガ・エスパニョーラはリーグ史上最多記録に並ぶ勝ち点100を達成して優勝するも、シーズン終了後にビラノバは健康上の理由から監督を退任した。
2013-14シーズンはヘラルド・マルティーノが就任し、2013年夏の移籍市場ではネイマール、デニス・スアレス・フェルナンデスを獲得。2013-14シーズンはスーペルコパ・デ・エスパーニャ優勝を果たすも、ネイマールの移籍オペレーション問題の責任を取るかたちで、シーズン途中の2014年1月24日にロセイは会長職を辞任した。
ジョゼップ・マリア・バルトメウ会長時代
ロセイの退任に伴い、副会長のジョゼップ・マリア・バルトメウが暫定的な会長に就任。
2013-14シーズンはリーガ・エスパニョーラでリーグ史上最多記録となる59週連続首位を達成するも、守護神のバルデスが11月19日の国際Aマッチデーに組まれたスペイン対南アフリカの試合で右足脹脛の肉離れと3月26日のセルタ戦で相手のフリーキックをキャッチしようとして着地に失敗した事で右膝の前十字靭帯を損傷しシーズンを棒に振る全治半年以上の重傷で離脱。戦術面でも前線と最終ラインが間延びし、ゲームコントロールと守備力の低下を招く戦術面の課題をマルティーノが最後まで解決出来なかった[22]事で、リーグではアトレティコ・マドリードの後塵を拝する2位、UEFAチャンピオンズリーグでも準々決勝のスペイン対決でそのアトレティコに敗れてベスト8、コパ・デル・レイでは決勝戦でリーグ戦では2連勝した筈のレアルに敗れて準優勝、6シーズンぶりに主要タイトル無冠となり、シーズン終了後にマルティーノは解任された。またこのシーズンを持ってキャプテンであったカルラス・プジョルが引退した。
2013-14シーズン終了後、バルトメウが正式に会長に就任。
2015年6月6日に行われたUEFAチャンピオンズリーグ 2014-15決勝、ユヴェントス戦のスターティングメンバー。 |
2014-15シーズンはルイス・エンリケが監督に就任。2014年夏の移籍市場では、セスク・ファブレガスや、アレクシス・サンチェスを放出した一方、リバプールからクラブ史上最高額の移籍金でルイス・スアレスを獲得したほか、クラウディオ・ブラーボ、マルク=アンドレ・テア・シュテーゲン、ジェレミー・マテュー、イヴァン・ラキティッチ、トーマス・フェルメーレンらを獲得し、下部組織からジョルディ・マシップを昇格させた。メッシ、スアレス、ネイマールという南米3か国のエースで構成された3トップを生かした縦に早いサッカーを展開し110ゴールの内3人だけで81ゴールを挙げ同シーズンは2季ぶりのリーガ・エスパニョーラ優勝、3季ぶりとなるコパ・デル・レイ優勝[23]を果たし、スペイン史上最多となる6度目のリーガ・エスパニョーラとコパ・デル・レイの国内タイトル2冠を達成した。さらにUEFAチャンピオンズリーグではグループリーグでオランダ王者アヤックス、フランス王者パリ・サンジェルマン、キプロス王者APOELと対戦し、決勝トーナメントではイングランド王者マンチェスター・シティ、フランス王者パリ・サンジェルマン、ドイツ王者バイエルン・ミュンヘン、イタリア王者ユヴェントスと、全ての対戦で各国前年度リーグ王者を撃破して優勝を達成した史上初のクラブに。ヨーロッパのクラブとしては史上初となる2度目の主要タイトル3冠を達成した。メッシ、スアレス、ネイマールの前線は3人の頭文字を取ってMSNと呼ばれ、3人で公式戦122ゴールを決め、スペインサッカー史上最も多くのゴールを奪った3トップとなった。
5月21日、シャビが今季限りで退団することを発表し、カタールのアル・サッドへの移籍も発表された。また、シーズン終了後会長選挙が行われ、バルトメウが再選を果たした。
FIFAから2015年夏の移籍市場での補強禁止処分を下されているため、他チームからの補強が出来なくなっていたが、来冬まで出場出来ないという条件付きでアレイクス・ビダル、アルダ・トゥランを獲得した。2015-16シーズンはUEFAスーパーカップ優勝を果たし、これによってACミランを抜いて欧州最多の19回の国際タイトル獲得記録[24]を樹立した。さらにFIFAクラブワールドカップ2015で大会最多の3度目の優勝を果たして2015年を5冠で締めくくった。ちなみにこれが過去10年間で24タイトル目となり、1クラブの10年間でのタイトル獲得数としては史上最多のペースである[25]。12月30日のベティス戦では年間180ゴールを達成して1クラブとしての年間最多得点記録を樹立した。 2016年の3月3日のラーヨ・バジェカーノ戦の勝利でスペインのクラブとしては史上最多となる公式戦35戦連続無敗記録を達成し、最終的には39戦まで無敗記録を伸ばした。4月30日のベティス戦ではMSNによる公式戦123ゴールを達成して昨シーズンの記録を更新し、最終的に公式戦131ゴールを記録した。リーグ戦では一時2位に勝ち点9差を付け、首位を独走するも、後半に3連敗するなど失速し優勝争いは最終節にまでもつれ込んだ。その後は全試合を無失点で勝利して逃げ切りに成功し、リーガ・エスパニョーラ24回目の優勝を果たし、連覇を達成した。UEFAチャンピオンズリーグではグループステージを無敗で通過、決勝トーナメントでは1回戦のアーセナルには2戦合計5-1で快勝。コパ・デル・レイでも決勝でセビージャを延長戦の末2-0で破って連覇を果たし、7回目の2冠を達成した。だがリーガ・エスパニョーラで挙げた112ゴールの内MSNで挙げたゴール数が90と前線3人への依存度が高くなったツケが3月25日からのワールドカップ南米予選でブラジル代表にアウベス、ネイマール、アルゼンチン代表にメッシ、ウルグアイ代表にスアレス、チリ代表にブラーボを取り上げられて南米と欧州を往復しなければならなかった為にMSNのパフォーマンスを落とした事で回ったのに加え[26]、日本で開催されたFIFAクラブワールドカップも含めた超過密日程にも苛まれて、準々決勝アトレティコ戦では第1戦は勝利するも第2戦で敗れて合計スコア2-3で敗退。またしてもUEFAチャンピオンズリーグ連覇の夢が潰えた。
2016-17シーズンはデニス・スアレスの復帰、サミュエル・ユムティティ、リュカ・ディニュ、アンドレ・ゴメス、パコ・アルカセル、ヤスパー・シレッセンの獲得を発表。若手選手の大幅補強によりチームの若返り化を進めた。シーズン開幕前にはスーペルコパ・デ・エスパーニャのタイトルを獲得した。2017年2月19日、リーグ戦のCDレガネス戦では史上初となる先発した11人のうち、スペイン人がセルジ・ロベルトの1人のみの珍記録があった。チャンピオンズリーグの決勝トーナメントではベスト16でPSGと対戦し、1stレグで0-4と大敗するも、2ndで6-1と大勝し準々決勝に進出した。4点差からの逆転劇は大会史上初である[27]。準々決勝ではユヴェントスと対戦。1stレグで0-3と大敗すると、ベスト16のような2ndレグでの大逆転を期待されたが、2ndレグは枠内シュート1本に終わりスコアレスドロー。2戦合計0-3で敗退した。リーガではアラベスにホームで敗れたり、マラガやベティスに敵地で引き分けたりと116ゴールの内79ゴールとMSNへの依存度はこのリーガ・エスパニョーラ2連覇中よりは改善されたものの、そのMSN中心のチーム作りの過程で中盤の構成力が低下した事が前述の格下相手の取りこぼしに繋がって[28]リーガ・エスパニョーラ3連覇を逃しガレス・ベイルが故障がちやコンディション不良でBBC(ベイル、カリム・ベンゼマ、クリスティアーノ・ロナウド)が揃わなかったレアルに覇権を奪回された。コパ・デル・レイでは決勝戦でアラベスを3-1で破り、64年ぶりの3連覇を達成した。シーズン終了後にルイス・エンリケは契約満了により退任した。
2017-18シーズンは昨年までアスレティック・ビルバオを率いていたエルネスト・バルベルデが監督に就任。デウロフェウの復帰、ネルソン・セメド、パウリーニョの獲得を発表。その一方でネイマールを史上最高額となる2億2000万ユーロでパリ・サンジェルマンFCに売却。後釜としてクラブ史上最高額の1億500万ユーロに加え、その金額の最大で約40%のボーナスが加算される契約でボルシア・ドルトムントのウスマン・デンベレの獲得を発表した[29]。しかし、9月16日の第4節ヘタフェCF戦でデンベレが負傷すると、バルベルデ監督は伝統の4-3-3のフォーメーションを諦め、スアレスとメッシが2トップを組む4-4-2のフォーメーションを採用。これが功を奏したのか、前半戦では五大リーグ屈指の堅守を見せて無敗で首位通過、チャンピオンズリーグでもGSを出場チーム最小の1失点で首位通過を決めた。冬の移籍市場では夏に更新したばかりのクラブ史上最高額をさらに上回る1億6000万ユーロを払ってリバプールFCから念願のフィリペ・コウチーニョを獲得し、勢いを保ったまま後半戦へ。決勝トーナメントに進出したチャンピオンズリーグでは準々決勝でASローマと対戦。ホームでの1stレグは、相手の2つのオウンゴールなどで4得点を挙げ、4-1で大勝した。しかし、アウェーでの2ndレグでは、0-3で完敗し、2戦合計4-4のアウェーゴール差で敗退した。国内リーグでは無敗を維持して第35節のデポルティーボ・ラ・コルーニャ戦で勝利して2年ぶりの優勝を飾ったまでは良かったが、無敗優勝目前の第37節レバンテUD戦でエマニュエル・ボアテングにハットトリックを許す等して4-5で敗戦し、記録も途絶えた。コパ・デル・レイ決勝ではセビージャFCを5-0で破り、30回目の優勝、4連覇を達成した[30]。シーズン終了後、アンドレス・イニエスタが今季限りでの退団を発表した。その後ヴィッセル神戸へと移籍した。
2018-19シーズンはマウコム、アルトゥール、アルトゥーロ・ビダル、クレマン・ラングレ、ムサ・ワゲを獲得。一方でパウリーニョはわずか1シーズンで広州恒大に復帰し、アンドレ・ゴメス、ジェリー・ミナ、リュカ・ディニュの3名は揃ってエヴァートンFCへ、アレイクス・ビダルはセビージャFCへ移籍した。クリスティアーノ・ロナウドが退団し低迷するレアル・マドリードを尻目にリーグでは順調に勝ち点を積み重ね、第10節のエル・クラシコは5-1と圧勝。チャンピオンズリーグもインテル、トッテナム・ホットスパーと同居したグループリーグを首位通過した。冬の移籍市場ではジェイソン・ムリージョ、ケヴィン=プリンス・ボアテングをレンタルで獲得した。その後もコパ・デル・レイ準決勝とリーグ戦によるエル・クラシコ3連戦を2勝1分で終えるなど前半戦の勢いを保ち続け、リーグは第35節レバンテUD戦に勝利し2連覇を達成した。チャンピオンズリーグもラウンド16でオリンピック・リヨン、準々決勝でマンチェスター・ユナイテッドを破り4季ぶりにベスト4に進出した。準決勝ではリバプールと対戦。第1戦はホームで3-0と快勝したが、第2戦は直近のリーグ戦でメッシらの主力を温存し、万全の体制で臨んだにも関わらず、ロベルト・フィルミーノとモハメド・サラーを負傷で欠いていた相手に0-4で惨敗、2戦合計3-4で2年連続3点差からの逆転敗退となった[31]。
2019-20シーズンは、アントワーヌ・グリーズマン、フレンキー・デ・ヨング、ネト、ジュニオル・フィルポらを獲得した。一方で、フィリペ・コウチーニョ、マウコム、ヤスパー・シレッセンらを放出した。リーグ戦では、安定性の欠けるプレーが続きながらも前半戦を折り返した時点では、レアル・マドリードと勝ち点で並び首位に立っており、UEFAチャンピオンズリーグでもドルトムント、インテル、スラヴィア・プラハと同組となったグループFを首位で突破した。しかし、2020年1月のスーペルコパ・デ・エスパーニャでアトレティコ・マドリードに逆転負けを喫した後、バルベルデ監督を解任し[32]、後任にキケ・セティエンを招聘した[33]。しかし、その後もチームの状態が安定せず、レアル・マドリードに引き離されリーグ戦を2位で終えた。特にエル・クラシコではホームで0-0、アウェイで0-2と45年ぶりに2試合とも無得点に終わる失態を犯した。コパ・デル・レイは準々決勝でアスレティック・ビルバオに敗れた。決勝トーナメントに進出したチャンピオンズリーグでは、ラウンド16のSSCナポリ戦は2戦合計4-2で勝利したものの、新型コロナウイルスの影響で一発勝負となった準々決勝のバイエルン・ミュンヘン戦で2-8で惨敗[34]し、ベスト8で敗退。12年ぶりに無冠でシーズンを終えることとなった[35]。試合の数日後、キケ・セティエンは解任された[36]。
2020-21シーズンは、オランダ代表を率いていたロナルド・クーマンが監督に就任した[37]。
育成組織
概要
FCバルセロナも他のスペイン国内クラブ同様、カンテラと呼ばれるユースチームを所有している。FCバルセロナの育成組織はヨーロッパのクラブチームの中でも予算面などで充実している。ラ・マシアと呼ばれる選手寮には、カタルーニャ出身の子弟か、家族とともにカタルーニャに移住した外国人しか入れない。そのため生え抜きの選手は自然とカタルーニャ人が多数派となる。このようなカタルーニャ人選手が優勢な状況もまた、このチームをバルセロナ市民、カタルーニャ人をして「クラブ以上の存在」言わしめるものである。
スペインでは法律により18歳になるまではプロ契約ができないため、近年では育成した選手がトップチームに昇格する直前にプレミアリーグのクラブに引き抜かれる事件がしばしば起きている。アーセナルにはセスクとフラン・メリダ、リヴァプールにはパチェコ、マンチェスター・ユナイテッドにはジェラール・ピケが引き抜かれ批判を起こしている。しかしFCバルセロナ自身、当時12歳だったアルゼンチン・CAリーベル・プレートのエリク・ラメラを家族ごとスペインに連れてこようとし、アルゼンチン国内で批判の声が上がるなど、特に安価で選手を揃えられる南米などの貧困地域で類似の問題を引き起こしている。
組織形態
ユースチームは能力や年齢によって、以下の16チームに分けられている。
名称 | 対象年齢 | 監督 | 責任者 |
---|---|---|---|
FCバルセロナB[40] | 全年齢 | ガルシア・ピミエンタ[41] | ホセ・マリア・バケーロ |
フベニールA | 17歳〜20歳 | デニス・シルバ[42] | |
フベニールB | 17歳〜18歳 | フランセスク・アルティガ[43] | |
カデーテA | 15歳〜16歳 | ジョルディ・ロウラ
アウレリ・アルティミラ | |
カデーテB | セルジ・ミラ | ||
インファンティールA | 13歳〜14歳 | カルラス・マルティネス | |
インファンティールB | ダビッド・サンチェス | ||
アレビンA | 11歳~12歳 | マルク・セラ | |
アレビンB | ジョルディ・ペレス | ||
アレビンC | ダニエル・オルカス | ||
アレビンD | パウ・モラル | ||
ベンハミンA | 9歳〜10歳 | オスカル・ジョルケラ | |
ベンハミンB | フアン・アントニオ・ヒル | ||
ベンハミンC | アルベルト・プイッチ | ||
ベンハミンD | ダビッド・サンチェス | ||
プレベンハミン | 7歳~8歳 | ダニエル・セゴビア |
ユニフォーム
この節の加筆が望まれています。 |
- 1999-2000シーズン後半は、クラブ創立100周年ユニフォームが使用された。
- 2015-16シーズンの1stユニフォームにはクラブ初となるボーダー柄のユニフォームが採用された。
- 2005-06、2010-11、2015-16シーズンの1stユニフォームのパンツはえんじ色だった。
- 2ndユニフォームの配色は毎年異なる。2007-08シーズンはシャツ、パンツ共に水色、2006-07シーズンはシャツ、パンツ共にオレンジ色だった。2013-14、2015-16にはカタルーニャ旗の「セニェーラ」をイメージした2ndユニフォームを使用している。
- 例年、前年の2ndユニフォームはサードユニフォームとして使用されていたが、ここ数年は使用されていない(しかし、2013-14シーズンの2ndユニフォームを2014-15シーズンのアスレティック戦で1度きりだが使用した)。
- バスケットボールなど、サッカー以外のチームでも青色とえんじ色の縦ストライプのユニフォームを用いている。こちらはフットボール部門とは違い、商業的な胸スポンサーロゴ契約が結ばれている。
歴代ユニフォーム
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一般に多くのサッカークラブではユニフォームにスポンサーのロゴを入れているが、FCバルセロナはソシオにより運営していることから、スポンサーのロゴを入れないことがクラブの伝統となっていた。歴史的な背景もあり、ソシオの会員はクラブに非常に誇りを持っている。上記のような伝統があるが、2006年に児童福祉活動への支援という観点から、ユニセフに対して5年契約で毎年190万ドルの寄付、総額950万ドルの寄付をすることで合意した[44]。これにより、2006年9月12日から史上初めて胸にロゴを入れたユニフォームを着用している。ロゴ本来の色は白であるが、白は宿敵であるレアル・マドリードのチームカラーでもあるため、ホームは黄色、アウェイは水色のロゴになった。2011-12シーズンから5年間の契約でカタール財団とスポンサー契約を結び、1899年のクラブ創設以来初の商用ロゴ入りユニホームを着用している。「カタール財団」が胸スポンサーになったことにより、2011-12シーズンからユニセフのロゴは背番号下に入る。カタール財団のロゴの導入に当たっては、ソシオやクラブOBなどの反対も強く、元選手であり名監督であったヨハン・クライフは「シャツにしみをつけるなんてまっぴらだ。クラブ収益の一割にも満たない金のためにクラブの独立性を捨てるのか!」と反対した。また、スタジアムには「カタールにNO!」と抗議のポスターを掲げるサポーターも現れた。しかし、前会長の就任後にはクラブは4億ユーロの負債を抱えており、その前の4年間はタイトルから離れていた上にライバルのレアル・マドリードの後塵を拝していた。最終的には、現会長の尽力もあって2011年、秋のソシオの総会で承認を得た。現会長のサンドロ・ロセイは「皆さんが反対なら契約は結ばない。しかし、クラブには前会長の残した多大な負債がある」と語った[3]。2013-14シーズンからはカタール財団とともにスポンサーとなっていたカタール航空のロゴが胸に掲示されている。また2013年12月には半導体メーカーのインテルともスポンサー契約を結んだが、スポンサーロゴはユニホームの内側にプリントされており、選手がシャツをたくし上げると見えるようになっている。2017-18シーズンから4年間(オプションで1年の延長あり)、日本の楽天とメイングローバルパートナー契約を結び胸スポンサーとなる[45]。
年度 | メーカー | 胸スポンサー |
---|---|---|
1982–1992 | Meyba | なし |
1992–1998 | Kappa | |
1998–2006 | Nike | |
2006–2011 | UNICEF | |
2011–2013 | Qatar Foundation | |
2013–2017 | Qatar Airways | |
2017-2021 | Rakuten |
タイトル
国内タイトル
- プリメーラ・ディビシオン:26回
- 1929, 1944-45, 1947-48, 1948-49, 1951-52, 1952-53, 1958-59, 1959-60, 1973-74, 1984-85, 1990-91, 1991-92, 1992-93, 1993-94, 1997-98, 1998-99, 2004-05, 2005-06, 2008-09, 2009-10, 2010-11, 2012-13, 2014-15, 2015-16, 2017-18, 2018-19
- コパ・デル・レイ:30回
- 1910, 1912, 1913, 1920, 1922, 1924-25, 1925-26, 1927-28, 1941-42, 1950-51, 1951-52, 1952-53, 1956-57, 1958-59, 1962-63, 1967-68, 1970-71, 1977-78, 1980-81, 1982-83, 1987-88, 1989-90, 1996-97, 1997-98, 2008-09, 2011-12, 2014-15, 2015-16, 2016-17, 2017-18
- スーペルコパ・デ・エスパーニャ:13回
- 1983, 1991, 1992, 1994, 1996, 2005, 2006, 2009, 2010, 2011, 2013, 2016, 2018
- コパ・デ・ラ・リーガ:2回
- 1982–83, 1985–86
国内タイトル(カタルーニャ)
国内タイトル(非公式大会)
- コパ・エバ・ドゥアルテ:4回
- 1945, 1948, 1952, 1953
国際タイトル
- スモールワールドカップ:1回
- 1957
- FIFAクラブワールドカップ:3回
- 2009, 2011, 2015
- ラテン・カップ:2回
- 1949, 1952
- UEFAチャンピオンズリーグ:5回
- 1991-92, 2005-06, 2008-09, 2010-11, 2014-15
- UEFAカップウィナーズカップ:4回
- 1978-79, 1981-82, 1988-89, 1996-97
- UEFAスーパーカップ:5回
- 1992, 1997, 2009, 2011, 2015
国際タイトル(非公式大会)
- インターシティーズ・フェアーズカップ:3回
- 1955-58, 1958-60, 1965-66
- インターナショナル・チャンピオンズ・カップ:1回
- 2017 (米国)
クラブ成績
シーズン | 国内 | UEFA | 監督 | 会長 | ||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
順位 | 試 | 勝 | 分 | 負 | 得 | 失 | 点 | カップ | スーパーカップ | CL | EL[46] | |||
1899 | リーグ存在せず | 存在せず | 存在せず | 存在せず | 不明 | ウォルター・ワイルド | ||||||||
1900 | ||||||||||||||
1901 | ||||||||||||||
1902 | 準優勝 | バルトミュー・テラデス | ||||||||||||
1903 | ポール・ハース | |||||||||||||
1904 | アルサー・ウィティー | |||||||||||||
1905 | ||||||||||||||
1906 | ジョセップ・ソラー | |||||||||||||
1907 | ジュリ・マリアル | |||||||||||||
1908 | ||||||||||||||
1909 | ヴィセン・レイグ ⇒ハンス・カンパー | |||||||||||||
1910 | 優勝[47] | ハンス・カンパー | ||||||||||||
1911 | オット・グメリン | |||||||||||||
1912 | 優勝 | ハンス・カンパー | ||||||||||||
1913 | 優勝[47] | |||||||||||||
1914 | フランシス・デ・モホ | |||||||||||||
1915 | フランシス・デ・モホ ⇒アルバー・プレスタ ⇒ホアキン・ペリス・デ・バーガス | |||||||||||||
1916 | ラファエル・ロパート | |||||||||||||
1917 | ジョン・バロー | ガスパー・ロセス | ||||||||||||
1918 | ジャック・グリーンウェル | ハンス・カンパー | ||||||||||||
1919 | 準優勝 | |||||||||||||
1920 | 優勝 | リカルド・グラエルス | ||||||||||||
1921 | ガスパー・ロセス | |||||||||||||
1922 | 優勝 | ハンス・カンパー | ||||||||||||
1923 | ||||||||||||||
1924 | エリック・カルドナ | |||||||||||||
1925 | 優勝 | ポソニ・イェサ | ハンス・カンパー | |||||||||||
1926 | 優勝 | ラルフ・カービー | アラディー・バラガー | |||||||||||
1927 | ジャック・デムビー | |||||||||||||
1928 | 1位 | ローマ・フォルンス | ||||||||||||
1929 | 1位 | 18 | 11 | 3 | 4 | 37 | 23 | 25 | 準決勝敗退 | |||||
1929-30 | 2位 | 18 | 11 | 1 | 6 | 46 | 36 | 23 | 準決勝敗退 | ジェームス・ベラミー | トーマス・ロセス | |||
1930-31 | 4位 | 18 | 7 | 7 | 4 | 40 | 43 | 21 | ベスト16 | ガスパー・ロセス | ||||
1931-32 | 3位 | 18 | 10 | 4 | 4 | 40 | 26 | 24 | 準優勝 | ジャック・グリーンウェル | アントニ・オリバー ⇒ジョアン・コマ | |||
1932-33 | 4位 | 18 | 7 | 5 | 6 | 42 | 34 | 19 | ベスト32 | ジョアン・コマ | ||||
1933-34 | 9位 | 18 | 8 | 0 | 10 | 42 | 40 | 16 | 準々決勝敗退 | ジャック・デムビー | ||||
1934-35 | 6位 | 22 | 9 | 6 | 7 | 55 | 44 | 24 | 準々決勝敗退 | フェレンツォ・プラトコ | エステベ・サーラ | |||
1935-36 | 5位 | 22 | 11 | 2 | 9 | 39 | 32 | 24 | 準優勝 | パトリック・オコーネル | ジェセップ・スニョール・ガリーガ | |||
1936-37 | スペイン内戦により 開催されず |
開催されず | 不明 | 不明 | ||||||||||
1937-38 | ||||||||||||||
1938-39 | 不参加 | ジョセップ・プラナス | ||||||||||||
1939-40 | 9位 | 22 | 8 | 3 | 11 | 32 | 38 | 19 | 準々決勝敗退 | |||||
1940-41 | 4位 | 22 | 13 | 1 | 8 | 55 | 45 | 27 | ベスト16 | エンリケ・ピネイロ | ||||
1941-42 | 12位 | 26 | 8 | 3 | 15 | 57 | 66 | 19 | 優勝 | 開催されず | ラモン・グスマン | |||
1942-43 | 3位 | 26 | 14 | 4 | 8 | 77 | 50 | 32 | 準決勝敗退 | ジョアン・ジョセップ・ノゲス | ジョセフ・ヴィダル・リバス ⇒エンリケ・ピネイロ | |||
1943-44 | 6位 | 26 | 10 | 8 | 8 | 59 | 46 | 28 | ベスト16 | ジョセフ・アントニ・デ・アルベルト ⇒ジョセフ・ヴェンドレル | ||||
1944-45 | 1位 | 26 | 17 | 5 | 4 | 50 | 30 | 39 | ベスト16 | ホセ・サミティエール | ジョセフ・ヴェンドレル | |||
1945-46 | 2位 | 26 | 14 | 7 | 5 | 48 | 31 | 35 | ベスト16 | 優勝 | ||||
1946-47 | 4位 | 26 | 14 | 3 | 9 | 59 | 42 | 31 | 準々決勝敗退 | 不明 | ||||
1947-48 | 1位 | 26 | 15 | 7 | 4 | 65 | 31 | 37 | ベスト16 | エンリケ・フェルナンデス | ||||
1948-49 | 1位 | 26 | 16 | 5 | 5 | 66 | 36 | 37 | 準決勝敗退 | 優勝 | ||||
1949-50 | 5位 | 26 | 13 | 3 | 10 | 67 | 47 | 29 | 準優勝 | エンリケ・フェルナンデス ⇒ラモン・ローレンス | ||||
1950-51 | 4位 | 30 | 16 | 3 | 11 | 83 | 61 | 35 | 優勝 | フェルディナント・ダウチーク | ||||
1951-52 | 1位 | 30 | 19 | 5 | 6 | 92 | 43 | 43 | 優勝 | 準優勝 | ||||
1952-53 | 1位 | 30 | 19 | 4 | 7 | 82 | 43 | 42 | 優勝 | 優勝 | アグスティ・モンテリ・ガロバルト | |||
1953-54 | 2位 | 30 | 16 | 4 | 10 | 74 | 39 | 36 | 準優勝 | 優勝 | エンリック・マルティ | |||
1954-55 | 2位 | 30 | 17 | 7 | 6 | 75 | 39 | 41 | 準決勝敗退 | 開催されず | サンドロ・プッポ | |||
1955-56 | 2位 | 30 | 22 | 3 | 5 | 67 | 26 | 47 | 準々決勝敗退 | 存在せず | プラットコー・フェレンツ | |||
1956-57 | 3位 | 30 | 16 | 7 | 7 | 70 | 37 | 39 | 優勝 | ドメネク・バルマナヤ | ||||
1957-58 | 3位 | 30 | 17 | 4 | 9 | 69 | 38 | 38 | 準決勝敗退 | ドメネク・バルマナヤ ⇒ エレニオ・エレーラ | ||||
1958-59 | 1位 | 30 | 24 | 3 | 3 | 96 | 26 | 51 | 優勝 | エレニオ・エレーラ | ||||
1959-60 | 1位 | 30 | 22 | 2 | 6 | 86 | 28 | 46 | 準々決勝敗退 | ベスト4 | ||||
1960-61 | 4位 | 30 | 13 | 6 | 11 | 62 | 47 | 32 | ベスト16 | 準優勝 | リュビシャ・ブロチッチ ⇒エンリケ・オリサオラ | |||
1961-62 | 2位 | 30 | 18 | 4 | 8 | 81 | 46 | 40 | 準々決勝敗退 | ルイス・ミロ | エンリック・ラウデ | |||
1962-63 | 6位 | 30 | 11 | 9 | 10 | 45 | 36 | 31 | 優勝 | ラディスラオ・クバラ ⇒ジョセップ・ゴンサルボ | ||||
1963-64 | 2位 | 30 | 19 | 4 | 7 | 74 | 38 | 42 | 準決勝敗退 | セサル・ロドリゲス | ||||
1964-65 | 6位 | 30 | 14 | 4 | 12 | 59 | 41 | 32 | 準々決勝敗退 | セサル・ロドリゲス ⇒ヴィセンツォ・サソ | ||||
1965-66 | 3位 | 30 | 16 | 6 | 8 | 51 | 27 | 38 | 準決勝敗退 | ロケ・オルセン | ||||
1966-67 | 2位 | 30 | 20 | 2 | 8 | 58 | 29 | 42 | ベスト16 | |||||
1967-68 | 2位 | 30 | 15 | 9 | 6 | 48 | 29 | 39 | 優勝 | サルバドール・アルティガス | ||||
1968-69 | 3位 | 30 | 13 | 10 | 7 | 40 | 18 | 36 | ベスト16 | ナルシス・デ・カレーラス | ||||
1969-70 | 4位 | 30 | 13 | 9 | 8 | 40 | 31 | 35 | 準々決勝敗退 | ジョセップ・セゲール | アグスティ・モンタル | |||
1970-71 | 2位 | 30 | 19 | 5 | 6 | 50 | 22 | 43 | 優勝 | ビク・バッキンガム | ||||
1971-72 | 3位 | 34 | 17 | 9 | 8 | 40 | 26 | 43 | 準々決勝敗退 | リヌス・ミケルス | ||||
1972-73 | 2位 | 34 | 18 | 10 | 6 | 41 | 21 | 46 | ベスト16 | 1回戦敗退 | ||||
1973-74 | 1位 | 34 | 21 | 8 | 5 | 75 | 24 | 50 | 準優勝 | 1回戦敗退 | ||||
1974-75 | 3位 | 34 | 15 | 7 | 12 | 57 | 36 | 37 | 準々決勝敗退 | ベスト4 | ||||
1975-76 | 2位 | 34 | 18 | 7 | 9 | 61 | 41 | 43 | 準々決勝敗退 | ベスト4 | ヘネス・バイスバイラー ⇒ラウレアノ・ルイス | |||
1976-77 | 2位 | 34 | 18 | 9 | 7 | 69 | 34 | 45 | ベスト16 | ベスト8 | リヌス・ミケルス | |||
1977-78 | 2位 | 34 | 16 | 9 | 9 | 49 | 29 | 41 | 優勝 | ベスト4 | レイモン・カラスコ | |||
1978-79 | 5位 | 34 | 16 | 6 | 12 | 69 | 37 | 38 | ベスト16 | ルシアン・ミュラー | ホセ・ルイス・ヌニェス | |||
1979-80 | 4位 | 34 | 13 | 12 | 9 | 42 | 33 | 38 | ベスト16 | ホアキム・リフェ | ||||
1980-81 | 5位 | 34 | 18 | 5 | 11 | 66 | 41 | 41 | 優勝 | 2回戦敗退 | エレニオ・エレーラ | |||
1981-82 | 2位 | 34 | 19 | 7 | 8 | 75 | 40 | 45 | ベスト16 | ウド・ラテック | ||||
1982-83 | 4位 | 34 | 17 | 10 | 7 | 60 | 29 | 44 | 優勝 | ウド・ラテック ⇒ジョセップ・ルイス・ロメロ | ||||
1983-84 | 3位 | 34 | 20 | 8 | 6 | 62 | 28 | 48 | 準優勝 | 優勝 | セサル・ルイス・メノッティ | |||
1984-85 | 1位 | 34 | 21 | 11 | 2 | 69 | 25 | 53 | 準々決勝敗退 | テリー・ヴェナブルズ | ||||
1985-86 | 2位 | 34 | 18 | 9 | 7 | 61 | 36 | 45 | 準優勝 | 準優勝 | 準優勝 | |||
1986-87 | 2位 | 44 | 24 | 15 | 5 | 51 | 22 | 49 | ベスト16 | 開催されず | ベスト8 | |||
1987-88 | 6位 | 38 | 15 | 9 | 14 | 49 | 44 | 39 | 優勝 | ベスト8 | ルイス・アラゴネス | |||
1988-89 | 2位 | 38 | 23 | 1 | 4 | 80 | 26 | 57 | 準々決勝敗退 | 準優勝 | ヨハン・クライフ | |||
1989-90 | 3位 | 38 | 23 | 5 | 10 | 83 | 39 | 51 | 優勝 | |||||
1990-91 | 1位 | 38 | 25 | 7 | 6 | 74 | 33 | 57 | 準決勝敗退 | 準優勝 | ||||
1991-92 | 1位 | 38 | 23 | 9 | 6 | 87 | 37 | 55 | ベスト16 | 優勝 | 優勝 | |||
1992-93 | 1位 | 38 | 25 | 8 | 5 | 87 | 34 | 58 | 準決勝敗退 | 優勝 | 2回戦敗退 | |||
1993-94 | 1位 | 38 | 25 | 6 | 7 | 91 | 42 | 56 | 準々決勝敗退 | 準優勝 | 準優勝 | |||
1994-95 | 4位 | 38 | 18 | 10 | 10 | 60 | 45 | 46 | ベスト16 | 優勝 | ベスト8 | |||
1995-96 | 3位 | 42 | 22 | 14 | 6 | 72 | 39 | 80 | 準優勝 | ベスト4 | ||||
1996-97 | 2位 | 42 | 28 | 6 | 8 | 102 | 48 | 90 | 優勝 | 優勝 | ボビー・ロブソン | |||
1997-98 | 1位 | 38 | 23 | 5 | 10 | 78 | 56 | 74 | 優勝 | 準優勝 | グループステージ敗退 | ルイ・ファン・ハール | ||
1998-99 | 1位 | 38 | 24 | 7 | 7 | 87 | 43 | 79 | 準々決勝敗退 | 準優勝 | グループステージ敗退 | |||
1999-00 | 2位 | 38 | 19 | 7 | 12 | 70 | 46 | 64 | 準決勝敗退 | 準優勝 | ベスト4 | ジョアン・ガスパール | ||
2000-01 | 4位 | 38 | 17 | 12 | 9 | 80 | 57 | 63 | 準決勝敗退 | 1次リーグ敗退 | ロレンソ・セラ・フェレール ⇒ カルロス・レシャック | |||
2001-02 | 4位 | 38 | 18 | 10 | 10 | 65 | 37 | 64 | 1回戦敗退 | ベスト4 | カルロス・レシャック | |||
2002-03 | 6位 | 38 | 15 | 11 | 12 | 63 | 47 | 56 | 1回戦敗退 | ベスト8 | ルイ・ファン・ハール ⇒ ラドミル・アンティッチ |
ジョアン・ガスパール ⇒エンリック・レイナ | ||
2003-04 | 2位 | 38 | 21 | 9 | 8 | 63 | 39 | 72 | 準々決勝敗退 | ベスト16 | / フランク・ライカールト | ジョアン・ラポルタ | ||
2004-05 | 1位 | 38 | 25 | 9 | 4 | 73 | 29 | 84 | 1回戦敗退 | ベスト16 | ||||
2005-06 | 1位 | 38 | 25 | 7 | 6 | 80 | 35 | 82 | 準々決勝敗退 | 優勝 | 優勝 | |||
2006-07 | 2位 | 38 | 22 | 10 | 6 | 78 | 33 | 76 | 準決勝敗退 | 優勝 | ベスト16 | |||
2007-08 | 3位 | 38 | 19 | 10 | 9 | 76 | 43 | 67 | 準決勝敗退 | ベスト4 | ||||
2008-09 | 1位 | 38 | 27 | 6 | 5 | 105 | 35 | 87 | 優勝 | 優勝 | ジョゼップ・グアルディオラ | |||
2009-10 | 1位 | 38 | 31 | 6 | 1 | 98 | 24 | 99 | ベスト16 | 優勝 | ベスト4 | |||
2010-11 | 1位 | 38 | 30 | 6 | 2 | 95 | 21 | 96 | 準優勝 | 優勝 | 優勝 | サンドロ・ロセイ | ||
2011-12 | 2位 | 38 | 28 | 7 | 3 | 114 | 29 | 91 | 優勝 | 優勝 | ベスト4 | |||
2012-13 | 1位 | 38 | 32 | 4 | 2 | 115 | 40 | 100 | 準決勝敗退 | 準優勝 | ベスト4 | ティト・ビラノバ | ||
2013-14 | 2位 | 38 | 27 | 6 | 5 | 100 | 33 | 87 | 準優勝 | 優勝 | ベスト8 | ヘラルド・マルティーノ | サンドロ・ロセイ ⇒ジョゼップ・マリア・バルトメウ | |
2014-15 | 1位 | 38 | 30 | 4 | 4 | 110 | 21 | 94 | 優勝 | 優勝 | ルイス・エンリケ | ジョゼップ・マリア・バルトメウ | ||
2015-16 | 1位 | 38 | 29 | 4 | 5 | 112 | 29 | 91 | 優勝 | 準優勝 | ベスト8 | |||
2016-17 | 2位 | 38 | 28 | 6 | 4 | 116 | 37 | 90 | 優勝 | 優勝 | ベスト8 | |||
2017-18 | 1位 | 38 | 28 | 9 | 1 | 99 | 29 | 93 | 優勝 | 準優勝 | ベスト8 | エルネスト・バルベルデ | ||
2018-19 | 1位 | 38 | 26 | 9 | 3 | 90 | 36 | 87 | 準優勝 | 優勝 | ベスト4 | |||
2019-20 | 2位 | 38 | 25 | 7 | 6 | 86 | 38 | 82 | 準々決勝敗退 | 準決勝敗退 | ベスト8 | エルネスト・バルベルデ ⇒ キケ・セティエン | ||
2020-21 | 位 | 38 | ベスト16 | ロナルド・クーマン | ||||||||||
合計 | 優勝26回 | 優勝30回[48] | 優勝13回 | 優勝5回 |
現所属メンバー
- ラ・リーガ 2020-21シーズン 主要フォーメーション(4-2-3-1)
注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルールに基づく。
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※括弧内の国旗はその他保有国籍、もしくは市民権、星印はEU圏外選手を示す。
ローン移籍
- out
注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルールに基づく。
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歴代所属選手
歴代キャプテン
- ラモン・アレサンコ 1986-1993
- ホセ・マリア・バケーロ 1993-1996
- ゲオルゲ・ポペスク 1996-1997
- ジョゼップ・グアルディオラ 1997-2001
- セルジ・バルフアン 2001-2002
- ルイス・エンリケ 2002-2004
- カルレス・プジョル 2004-2014
- シャビ・エルナンデス 2014-2015
- アンドレス・イニエスタ 2015-2018
- リオネル・メッシ 2018-
脚注
- ^ Camp Nou – FC バルセロナ オフィシャル ページ
- ^ クラブはユース選手たちにも、FCバルセロナの歴史がカタルーニャの歴史と密接に関連していることを体感できるような環境を用意しており、選手たちはそれを日々感じつつプレーする。ただし、クラブ側は選手に対しては、カタルーニャ独立運動に参加すること(政治的活動)に関しては自制を促すなど抑制的でもある。
- ^ a b 「転機のサッカービジネス」『朝日新聞グローブ』2012年4月1日発行通巻84号
- ^ Deloitte Football Money League 2014(2014年1月に国際監査法人『デロイト』が公表した2012-2013シーズンの欧州サッカーのクラブ収入ランキング)
- ^ 2012年にイギリスメディア『sportingintelligence.com』が調査した、世界のスポーツチームの平均年俸ランキング
- ^ “バルサ「1478億円」借金地獄の全容判明 リバプール35億、アヤックス19億…”. 1/27/2021閲覧。
- ^ “バルセロナが1点守り切りレアルに勝利! 87年ぶりの“クラシコ”勝ち越し”. SOCCERKING (2019年3月3日). 2019年6月23日閲覧。
- ^ “カタルーニャ独立運動 募る政府への不満”. NHK. (2012年11月1日) 2013年9月14日閲覧。
- ^ ジミー・バーンズ (2012年11月27日). “名門バルサにカタルーニャ独立運動の影”. ニューズウィーク 2013年9月14日閲覧。
- ^ “FCBarcelona.cat”. FCBarcelona.cat. 2009年1月21日閲覧。
- ^ 日本スポーツ企画出版社 2006-2007 EUROPE SOCCER TODAY 完結編10、11頁
- ^ 日本スポーツ企画出版社 2007-2008 EUROPE SOCCER TODAY 完結編31頁、123頁
- ^ 圧倒的な強さで連覇を達成しても、バルサの攻撃サッカーは発展途上。 -NumberWeb: 2010年5月19日
- ^ モウリーニョとレアルを完全凌駕した、グアルディオラとバルサの戦術と能力。 -NumberWeb: 2011年4月28日
- ^ レアルの敵はバルサ+疑惑の判定!?激闘のクラシコ最終戦を読み解く。 -NumberWeb: 2011年5月5日
- ^ 「熟成」のマンUと「進化」のバルサ。2年前とは似て非なるCL決勝の風景。 -NumberWeb: 2011年5月28日
- ^ バルサ4度目のCL制覇を陰で支えた、プジョルとアビダルの見えない功績。 -NumberWeb: 2011年5月30日
- ^ 最新トレンドは「ポジションレス」!? CL決勝にみる、バルサ究極の進化形。 -NumberWeb: 2011年6月12日
- ^ 同大会の3連覇はレアル・マドリードが1988-89シーズンから1990-91シーズンにかけて達成したが、1989年は当時の規定により1988-89シーズンのリーガ・エスパニョーラとコパ・デル・レイの双方を優勝したことで自動的に優勝を認定されたため、3年とも試合を行っての3連覇は史上初である。
- ^ ティト・ビラノバ、木曜日に手術(FCバルセロナ公式サイト 2012年12月19日)
- ^ バルサのビラノバ監督、がん再発で手術へ(UEFA.com 2012年12月19日)
- ^ 2013-14 EUROPE SOCCER TODAY 完結編16頁
- ^ トーナメント全勝を達成しての優勝は1953-54シーズン以来。
- ^ 現存するタイトルに限る
- ^ バルサが10年間で最もタイトルを稼いだ欧州クラブに
- ^ 2015-16 EUROPE SOCCER TODAY 完結編120頁
- ^ バルサ、CL史上初の4点差跳ね返す大逆転突破! ホームでパリSGに6発大勝 SOCCER KING(2017年3月9日) 2017年3月9日閲覧
- ^ 2016-17 EUROPE SOCCER TODAY 完結編121頁
- ^ Ousmane Dembélé vor Wechsel zum FC Barcelona Borussia Dortmund Official Website(2017年8月25日)
- ^ Sevilla FC - FC Barcelona FCバルセロナ公式サイト(2018年4月22日)
- ^ “信じ続けた三度目の“奇跡”!リヴァプールが2年連続決勝へ!バルサは2季連続3点差から敗退…/CL準決勝第2戦 | Goal.com”. Goal.com. 2019年5月13日閲覧。
- ^ “エルネスト・バルベルデ、契約終了で合意”. FCBarcelona. 2020年8月15日閲覧。
- ^ “新監督、 キケ・サティエン”. FCBarcelona. 2020年8月15日閲覧。
- ^ CL決勝トーナメントでの1試合最多失点(8点、それまでは2018-19シーズンラウンド16第2戦のシャルケなど7点)、4失点の史上最速記録(31分、それまではポルトが2014-15シーズン準々決勝第2戦で喫した36分)を更新。クラブ単位でも欧州大会での1試合最大得点差敗戦(6点、それまでは前年準決勝2ndレグなど4点)、最多失点(8点、それまでは1975-76シーズン準々決勝2ndレグの5点)を大幅に更新。国内を含めても8失点は74年ぶりという大失態であった。
- ^ “バルセロナ、12シーズンぶりの無冠に。CLバイエルン戦で歴史的大敗”. フットボールチャンネル. 2020年8月15日閲覧。
- ^ “キケ・セティエン、トップチームの監督から離れる”. FCバルセロナ (2020年8月18日). 2020年8月18日閲覧。
- ^ “ロナウド・クーマン、バルサの新監督に”. FCバルセロナ (2020年819日). 2020年8月19日閲覧。
- ^ “Organigrama | FC Barcelona” (スペイン語). FC Barcelona. 2018年6月9日閲覧。
- ^ “組織図 | FC Barcelona”. FC Barcelona. 2018年6月9日閲覧。
- ^ 2007年までバルサCが存在していたが、バルサB(当時)のテルセーラ・ディビシオン降格にともない、消滅した。
- ^ “バルサB:ガルシア・ピミエンタが挑戦するデータ”. Mundo Deportivo JP. 2018年6月9日閲覧。
- ^ “FC Barcelona - Juvenil A 2017/2018 | FC Barcelona” (スペイン語). FC Barcelona. 2018年6月9日閲覧。
- ^ “FC Barcelona - Juvenil B 2017/2018 | FC Barcelona” (スペイン語). FC Barcelona. 2018年6月9日閲覧。
- ^ "FCバルセロナ ユニセフとの歴史的パートナーシップを発表" (Press release). UNICEF. 7 September 2006. 2012年7月1日閲覧。
- ^ バルサの胸スポンサーに楽天!4年257億円で契約 - スポーツニッポン、2016年11月16日
- ^ 1971-72シーズンから2008-09シーズンまではUEFAカップ、2009-10シーズン以降はUEFAヨーロッパリーグ
- ^ a b 1910シーズン、1913シーズンはスペインサッカー連盟主催の大会とスペインサッカークラブ連合主催の大会が並存しており、FCバルセロナが優勝したのはスペインサッカークラブ連合の大会
- ^ うち2回はスペインサッカークラブ連合主催
参考文献
- 岡崎明子『バルセロナ地中海都市の歴史と文化』(中央公論新社、2010年)
- 田澤耕『カタルーニャを知る辞典』(平凡社、2013年)
- 日本スポーツ企画出版社 2006-2007 EUROPE SOCCER TODAY 完結編
関連項目
- FCバルセロナの選手一覧
- バルサTV
- サッカー スーパーレッスン〜バルサのテクニックをキミたちに!〜
- サッカーカタルーニャ代表
- ジミー・ジャンプ
- バルセロナSC
- キャプテン翼 - 作中で主人公の大空翼がバルセロナに所属している。クラブ公認であり、入団セレモニーも行われた。
外部リンク
- 公式ウェブサイト
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- FCバルセロナ - YouTubeチャンネル
- 日本語公式サイト