ラグビーニュージーランド代表

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ラグビーニュージーランド代表
ユニオン ニュージーランドラグビー協会
愛称 オールブラックス
エンブレム シルバー・ファーン
コーチ ニュージーランドの旗 スティーブ・ハンセン
主将 キーラン・リード
最多キャップ リッチー・マコウ (116)
最多得点選手 ダニエル・カーター (1399)
最多トライ選手 ダグ・ハウレット (49)
チームカラー
チェンジカラー
初国際試合
オーストラリアの旗 オーストラリア 3 - 22 ニュージーランド ニュージーランドの旗
(1903年8月15日)
最大差勝利試合
ニュージーランドの旗 ニュージーランド 145 - 17 日本日本の旗
(1995年6月4日)
最大差敗戦試合
オーストラリアの旗 オーストラリア 28 - 7 ニュージーランド ニュージーランドの旗
(1999年8月28日)
ラグビーワールドカップ
出場回数 7 (1987年初出場)
最高成績 優勝(1987・2011)
公式サイト
www.allblacks.com
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ラグビーニュージーランド代表は、ニュージーランドラグビーユニオンナショナルチームオールブラックス (All Blacks) の愛称で知られる。

ラグビーの世界的な強豪チームの1つであり、2013年現在世界の全ての国別代表チームに勝ち越している。ラグビーはニュージーランドの国技であり、試合の前にニュージーランドの先住民族マオリ族の伝統的な出陣の踊り、ハカ(カマテ、カパオパンゴ)を行うことでも知られている。

歴史[編集]

ラグビー王国の誕生
1905年 - 1906年に北半球遠征を行ったオリジナル・オールブラックスメンバー
1905年に掲載された英国の風刺漫画雑誌パンチの1ページ。タイトルは“舐めてかかれない幼獣”。ニュージーランド人がやってきて、我々(英国)のラグビーチームを簡単に打ち負かしたと記述されている。当時の漫画絵では英国チームをライオン、ニュージーランドチームをピューマに見立てている。
オールブラックス対イングランド、 トゥイッケナム・スタジアム( 2006年)

ニュージーランドへのラグビー伝来は医学者で政治家のデビッド・モンロ(出身はスコットランドエジンバラ)の息子であるC.J.モンロにより伝えられた説が有力である。C.J.モンロは留学先のロンドンでラグビーと出会い1860年代後半にニュージーランドへ伝えたとされている。1870年5月にネルソン・カレッジとネルソン・クラブとの間でラグビーの試合が開催された。1882年にサザンラグビー協会(現オーストラリア・ニューサウスウェールズラグビー協会)がニュージーランド遠征を行い、1888年にイギリスチームがニュージーランド遠征を行った。1892年にニュージーランド・ラグビーフットボール協会(NZRFU、現在のニュージーランド・ラグビー協会(NZRU))が設立され、1894年にニューサウスウェールズ州へ遠征。翌年にはニューサウスウェールズを招き初のホーム試合を開催。公式なテストマッチは1904年にシドニーで開催されたオーストラリアとの試合になる。

1905年から1906年にかけ初の北半球遠征(ブリテン諸島フランスアメリカ合衆国)を行った際、ボールを持つと縦横無尽に走り回るニュージーランドチームに感銘を受けたイギリスの新聞紙が“オール・バックス(All Backs)”と表記したことや、単なる印字ミス、または全身黒尽くめのユニフォーム姿から“All Blacks”と呼ばれるようになったなど諸説あり、これらの説が今日ラグビーニュージーランド代表を“オール・ブラックス”と呼ぶ由縁とされている。この北半球遠征に帯同した正規メンバー25名と追加メンバー2名の計27名は“オリジナル・オールブラックス”と呼ばれ、伝説のチームとして今日でもその栄光は賞賛されている。この遠征成績は35戦34勝1負、うちテストマッチ5戦4勝1負。

1921年にラグビー南アフリカ代表がニュージーランド遠征を行い、1928年にはオールブラックスが南アフリカへ遠征。この遠征試合はともに引き分けとなった。1976年に当時人種隔離政策(アパルトヘイト)により国際社会から強い批判を受けていた南アフリカへニュージーランドチームを派遣したことからアフリカ諸国の国々がモントリオールオリンピックをボイコットするなど国際問題へ発展。1978年の北半球遠征ではイングランド、ウェールズ、スコットランド、アイルランドと対戦し全勝、グランドスラムを達成。

1987年ワールドカップ優勝。ジョン・カーワンとクレイグ・グリーンが6トライを上げトライ王に輝く。1991年ワールドカップでは準決勝でオーストラリアに敗れ3位に終わる。

低迷期

1992年以降チーム成績は低迷し、1995年ワールドカップでは優勝候補から外れる。ラウリー・メインズヘッドコーチ(当時)はベテランのグラハム・バショップ、ジンザン・ブルックを復帰させる一方、新戦力のジョナ・ロムーアンドリュー・マーティンズジョシュ・クロンフェルドらを起用するなどチームの立て直しを図り、下馬評を覆し決勝戦まで進める。決勝戦は地元南アフリカと大会史上初となる延長戦に突入するも3点差で2位(準優勝)に終わる。メインズは辞任しヘッドコーチにジョン・ハートが就任。

1996年からはオーストラリアと南アフリカと共に南半球3か国対抗戦のトライネイションズを開始し、2012年からはこれにアルゼンチンも加え、南半球4か国対抗戦のザ・ラグビーチャンピオンシップとして開催している。

ハート就任以降もブレディスローカップをオーストラリアに明け渡すなどチーム状況は変わらず、1998年から1999年の対オーストラリア戦は5戦1勝4敗と負け越す。1999年ワールドカップは優勝候補に名を連ねるも準決勝でフランスに敗れ敗退。3位決定戦でも南アフリカに敗れ4位に終わる。ハートは辞任しヘッドコーチにウェイン・スミスが就任。

スミス就任後の2000年、2001年のトライネイションズは2位に終わりブレディスローカップの奪回に失敗。スミスは更迭され当時37歳のジョン・ミッチェルがヘッドコーチに就任。ミッチェルは若手選手を中心にチーム編成を行い2002年、2003年のトライネイションズを1位(優勝)に導き、2003年には5季ぶりにブレディスローカップを奪回するなどチームは成長を見せ始めるも2003年ワールドカップ準決勝(対オーストラリア)で敗退、3位に終わる。ミッチェルは辞任しグラハム・ヘンリーがヘッドコーチに就任。

王国の復活

2004年にヘンリーがヘッドコーチに就任してから2006年までのテストマッチ成績は33勝4敗、2004年11月以降は27勝2敗と圧倒的な強さを取り戻す。2005年11月の北半球遠征ではチーム史上27年ぶり2度目のグランドスラム(全勝)を達成。その初戦ウェールズ戦と続くアイルランド戦では先発メンバーを全員入れ替えながらともに38点差で圧勝するなど、選手層の厚さも抜きん出ており、2007年ワールドカップの優勝の大本命と衆目が一致した。しかし同年10月6日に行われた準々決勝、対フランス戦(開催国)で敗退。ニュージーランド国内は深い悲しみに包まれた。

王国の君臨

2007年のワールドカップ後、ヘンリーのヘッドコーチ続投には議論が巻き起こったが、結局続投が決定し、安定した強さを発揮し続けた。2007年と同じく優勝候補の大本命とされた2011年ワールドカップでは、圧倒的な強さで決勝まで進み、決勝の対フランス戦では、接戦ではあるものの終始試合を優位に進めて、見事悲願の優勝を果たした。この大会中、オールブラックスは、同じ司令塔のポジションに実に3人もの怪我人が出たにもかかわらず優勝を果たし、その層の厚さ、圧倒的な強さを証明して見せた。

テストマッチでオールブラックスに通算成績で勝ち越している代表チームはなく、また百年以上の対戦記録が残っているにも関わらず、一度としてオールブラックスに勝ったことがない代表チームも数多く存在し、国代表としてオールブラックスに対し勝利したことがあるのはオーストラリア南アフリカフランスイングランドウェールズのみである。

ワールドカップでの記録は優勝が2回、準優勝1回、3位2回、4位1回である。

現在はアディダス社およびAIG社とスポンサー契約を結んでいる。

ラグビーワールドカップの成績[編集]

ラグビーニュージーランド代表のラグビーワールドカップでの成績は以下の通り

対戦成績[編集]

2013年11月24日現在の主な国代表との対戦成績は以下の通り[1]

チーム 試合数 勝率(%)
アルゼンチン  18 17 0 1 94.44%
オーストラリア  149 102 41 6 68.46%
ブリティッシュ・アンド・アイリッシュ・ライオンズ 38 29 6 3 76.32%
カナダ  5 5 0 0 100.00%
イングランド  36 28 7 1 77.78%
フィジー  5 5 0 0 100.00%
フランス  55 42 12 1 76.36%
アイルランド  28 27 0 1 96.43%
イタリア  12 12 0 0 100.00%
日本  3 3 0 0 100.00%
パシフィック・アイランダーズ 1 1 0 0 100.00%
ポルトガル  1 1 0 0 100.00%
ルーマニア  2 2 0 0 100.00%
サモア  5 5 0 0 100.00%
スコットランド  29 27 0 2 93.10%
南アフリカ共和国  87 50 34 3 57.47%
トンガ  4 4 0 0 100.00%
アメリカ合衆国  2 2 0 0 100.00%
ウェールズ  29 26 3 0 89.66%
世界選抜(World XV) 3 2 1 0 66.67%
Total 512 390 104 18 76.17%

ニックネーム[編集]

「オールブラックス」という愛称の起源は、1905年から1906年にかけてイギリス遠征を行ったニュージーランド代表チームを新聞などがそう呼んだことであり、当時のメンバーはオリジナルズ(The Originals)と呼ばれる。その一人、ビリー・ウォーラスは、愛称はロンドンの新聞が代表チームの戦いぶりを評して、全員バックスのように戦うと書きたてたことからオールバックスと呼ばれるようになり、それが変わってオールブラックスになったと主張している。別の説によると、チームのユニフォームの色は当時から黒が多く使われており、ブラックスは新聞の記事になる以前から使われていた愛称の一つだとしている。

1925年の遠征以後、代表のユニフォームは黒一色になり、唯一のアクセントとしてニュージーランド固有種のシルバー・ファーン(銀羊歯)の枝があしらわれることとなった。

ニュージーランドのスポーツ界では、ギンシダをあしらったユニフォームを着ることやオールブラックスの一員に選ばれることが名誉とされているため、様々なスポーツの代表チームがそれにあやかった愛称で呼ばれている。以下は一例。

純然たる代表チームではないが、

(使用するヨットの船体は黒塗りであり、帆には銀色のシダが描かれている。)

20世紀初めに設立されたニュージーランド初のラグビーリーグの代表チームは、ニュージーランドのメディアで代表に選ばれる名誉ではなく金目当ての選手たちで構成されていると批判されたため、オールゴールドと呼ばれていたことがある。現在では、キウイズ(Kiwis)と呼ばれて親しまれている。

その他の代表チーム[編集]

エピソード[編集]

常に高い勝率を誇ってきたオールブラックスだが、その一方、1日のうちに2敗を喫するという珍記録も残している。1949年にオールブラックスが南アフリカへ遠征している最中に、オーストラリア代表がニュージーランドを訪れた。そこでニュージーランド側は、国内に残っていた選手から対戦相手となるチームを編成したが、主力を軒並み欠いていたにもかかわらず、このチームも正式な代表として認定された。そして、9月3日に両方の「オールブラックス」がテストマッチを戦い、ともに敗れたのである。

脚注[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]