カーメロ・アンソニー

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カーメロ・アンソニー
Carmelo Anthony
Carmelo Anthony Nov 2013.jpg
ニューヨーク・ニックス  No.7
ポジション スモールフォワード
背番号 7
身長 203cm  (6 ft 8 in)
体重 104kg (229 lb)
ウィングスパン 215cm  (7 ft 1 in)
シューズ JORDAN BRAND
基本情報
本名 Carmelo Kiyan Anthony
愛称 Mero
ラテン文字 Carmelo Anthony
誕生日 1984年5月29日(31歳)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 ニューヨーク州ニューヨーク
出身 シラキュース大学
ドラフト 2003年 3位
選手経歴
2003-2011
2011-
デンバー・ナゲッツ
ニューヨーク・ニックス
受賞歴
代表歴
キャップ アメリカ合衆国の旗 2004-
 
獲得メダル
アメリカ合衆国の旗 アメリカ
オリンピック
2004 アテネ バスケットボール
2008 北京 バスケットボール
2012 ロンドン バスケットボール
世界選手権
2006 日本 バスケットボール

カーメロ・キアン・アンソニーCarmelo Kiyan Anthony, 1984年5月29日 - )はアメリカ合衆国ニューヨーク州ブルックリン区出身のバスケットボール選手。NBAニューヨーク・ニックスに所属。ニックネームは「メロ」。背番号は「7」。身長203cm、体重104kg。2009年現在までに2003年のNCAAトーナメント制覇、2008年の北京オリンピックおよび2012年のロンドンオリンピック金メダリストという実績を残す。JORDAN BRAND契約プレイヤー。

生い立ち[編集]

カーメロはニューヨーク市ブルックリン区プエルトリコ人の父とアフリカ系アメリカ人の母の間に生まれた。父はカーメロが2歳の頃に癌で他界している。一家はカーメロが8歳の頃にボルティモアに転居。カーメロはこの地でバスケットボールのほかに、殺人や薬物中毒が蔓延するスラム街で「生き残る」ための術も学んだ。

高校はトーソン・カソリック高校に進学。2000年の夏には身長が5インチ(約13cm)伸びたことでバスケットボール選手として頭角を現し、2001年にはボルティモアの年間最優秀選手に選ばれている。カーメロはバスケット選手としてのキャリアをステップアップさせるため、全米随一のバスケット名門校として知られるヴァージニア州のオークヒル・アカデミー高校に転校。カーメロの名は全国区となり、マクドナルドオールアメリカンやUSAトゥデイオールアメリカン1stチーム、パレード誌オールアメリカン1stチームなどに選ばれ、スプライト・スラム・ジャム・ダンクコンテストでは優勝している。また同校在学中には彼より1学年下で後のライバルとなるレブロン・ジェームズ率いるセント・メアリー高校と対戦し勝利している(カーメロは36得点、レブロンは35得点をあげた)。この試合は全米でテレビ中継されるなどし、大きな注目を集めた。

シラキュース大学[編集]

オークヒル・アカデミー卒業後、シラキュース大学で1シーズン(2002-03シーズン)のみプレイした。カーメロは1年生から同校バスケットボールチームのエースとして活躍、22.1得点10.0リバウンドの成績を残し、チームを30勝5敗の成績とNCAAトーナメント進出に導く。シラキュース大はトーナメントも順調に勝ち進み、Final Fourのテキサス大学戦ではカーメロが33得点と爆発。これはトーナメントの新人最多得点記録となった。決勝ではニック・コリソンカンザス大学と対戦。カーメロはこの試合でも20得点10リバウンド7アシストの大活躍を見せ、見事にカンザス大を破り、シラキュース大初のトーナメント優勝に導いた。カーメロは大会MVPにあたるMost Outstanding Playerを受賞したほか、AP通信オールアメリカン2ndチーム、NCAA新人王、カンファレンス1stチーム、カンファレンス新人王などに選ばれている。

カーメロは当初シラキュース大で2~3年プレイするつもりだったが、その後大学でやるべきことは全て達成したとして、2003年のNBAドラフトにアーリーエントリーすることを決意した。在学時のチームメイトにはハキム・ウォリックジェリー・マクナマラらがいる。

デンバー・ナゲッツ[編集]

NBAドラフトではレブロン・ジェームズダーコ・ミリチッチに次いで、デンバー・ナゲッツに全体3位で指名された。カーメロはルーキーシーズンの開幕戦から先発に抜擢され、6試合目には早くも30得点をあげ、当時30得点以上をあげた史上2番目に若い選手となり(最年少はコービー・ブライアント)、2月9日のメンフィス・グリズリーズ戦では20得点をあげ、通算1,000得点を史上3番目の若さで達成した。カーメロは史上4人目となる、6ヶ月全てのルーキー・オブ・ザ・マンスを独占(イースタン・カンファレンスではレブロン・ジェームズがやはり全てのルーキー・オブ・ザ・マンスを独占している)し、週間MVPにも2度選ばれるなど、ルーキーらしからぬ活躍を見せ、このシーズンはルーキーの中では1位、全体でも12位となる平均21.0得点をあげ、平均6.0リバウンドを記録した。チームも前年の17勝65敗という酷い不振から43勝39敗という大躍進を遂げ、実に9年ぶりとなるプレーオフ進出も果たした。新人王争いではレブロンとの一騎打ちとなり、個人成績でもチーム成績でも上回るカーメロが有力視されていたが、投票では惜しくも2位に終わり、新人王獲得の栄誉はレブロンに譲ったが、カーメロこそ新人王に相応しいとの声も多く挙がった。プレーオフ1回戦ではミネソタ・ティンバーウルブズと対戦し、1勝4敗で完敗。華々しいNBAキャリアをスタートさせたカーメロだが、プレーオフではこの1回戦の壁に苦労することになる。

2004-05シーズンは調整不足が原因で体重オーバーのままシーズンに突入。シーズン前半は大苦戦し、プレーオフ進出も危ぶまれたが、ヘッド・コーチがジョージ・カールに変わってから一転。オールスター後、リーグ1位の勝率と怒濤の巻き返しの末に第7シードでプレーオフに進出した。オールスターのNBAルーキーチャレンジでは31得点をあげ、MVPを獲得している。プレーオフではこの年のチャンピオンのサンアントニオ・スパーズとのシリーズに先勝したものの、その後、カーメロがブルース・ボウエンによってうまく封じ込まれ、4連敗でシリーズを終えた。

前年成績が伸び悩んだカーメロは2005-06シーズンに入るとシュートセレクションの改善に大きく成功し、平均26.5得点を記録して初のオールNBA3rdチームに選出される。3月17日のメンフィス・グリズリーズ戦では30得点をあげてレブロンに次ぐ史上2番目の早さで通算5,000得点を達成した。3月第2週には週間MVPを獲得するが、この期間中カーメロは5本のウィニングショットを決めるという勝負強さを発揮している。チームは故障者続出の影響でカーメロが加入して以来初めて勝率を落として44勝38敗の成績に終わり、プレーオフもまたもや1回戦でロサンゼルス・クリッパーズの前に1勝4敗で敗退した。

オフには世界選手権アメリカ代表として出場。主に得点面で大きく活躍し、2006-07シーズンはその勢いを維持したまま突入。シーズン序盤にはアレックス・イングリッシュの持つ6試合連続30得点以上達成というチーム記録に並ぶなどし、得点王レースではコービー・ブライアントとトップ争いを演じた。しかし12月16日ニューヨーク・ニックス戦での乱闘騒ぎでマーディー・コリンズを殴ったカーメロは15試合の出場停止処分を受ける羽目になった。しかしその間ナゲッツはフィラデルフィア・セフンティシクサーズとトレードを行い、アンドレ・ミラーらとの交換で大物選手のアレン・アイバーソンの獲得に成功。当時得点王ランキング1位と2位につけていたカーメロとアイバーソンのデュオは、リーグ最強のスコアリングデュオとして大きな注目を集めるようになった。カーメロ個人はアイバーソンと得点機会を分け合うことになったため、得点王レースではブライアントに破れ2位に終わったが、28.9得点6.0リバウンドの好記録を残し、2年連続でオールNBA3rdチームに選ばれた。2月2日にはチームメイトのJ.R.スミスが運転する車が事故に遭い、その車にカーメロも同乗していたが(車はカーメロ所有のもの)、3日後の試合では31得点10リバウンド10アシストをあげてキャリア初のトリプル・ダブルを達成し、事故の影響を微塵も見せなかった。待たされたオールスターゲームにも、故障者の代理という形ではあるが、ようやく初出場を果たしており、20得点9リバウンドをあげている(ナゲッツにとっては2001年のアントニオ・マクダイス以来のオールスター選手)。カーメロの活躍やアイバーソンの移籍と大きな話題が続いたが、ナゲッツ自体はカーメロの出場停止処分や前年に引き続き故障者の続出で45勝37敗の平凡な成績に終わり、プレーオフではまたしても1回戦でスパーズの前に敗退した。

2007-08シーズンのナゲッツは1987-88シーズン以来の50勝超えとなる50勝32敗を記録するが、プレーオフは5年連続1回戦敗退となり、カーメロ&アイバーソンのデュオは期待されたほどの効果を見せることはなかった。カーメロ自身は25.7得点7.4リバウンドと上々の数字を残すが、オールNBAチームの選考からは漏れ、またプレーオフ期間中には飲酒運転で捕まるなどチームキャプテンにあるまじき態度が批判された。

2008-09シーズンを迎えて、ナゲッツも変革の時を迎えた。カーメロというフランチャイズビルダーのもとでの5年間、毎年プレーオフには進出してきたが、5年連続で1回戦敗退を続けており、現体制に限界を感じたナゲッツはチームの改革に踏み切ったのである。シーズン前には殆ど無償でマーカス・キャンビーを放出。さらにエドアルド・ナヘラも放出したことで、新シーズンのナゲッツは苦戦が予想された。ところがシーズン開幕して間もない時期にデトロイト・ピストンズとの間でアイバーソンとチャンシー・ビラップスのトレードが成立。ビラップス加入の効果はナゲッツを大きく変化させた。カーメロ個人はビラップスという百戦錬磨のベテランを相棒に得たことでチームリーダーとしての負担が大きく軽減されプレイに集中することができ、特にディフェンス面ではオフに北京オリンピックコービー・ブライアントらとプレイしたことでディフェンスに対する意識が大きく向上した。また持ち前の得点力も大いに発揮し、12月10日のミネソタ・ティンバーウルブズ戦の第3クウォーターではNBAタイ記録である、1クォーター33点を記録した。1月4日のインディアナ・ペイサーズ戦では手を骨折するというアクシデントに見舞われ、手術する選択肢もあったが、カーメロは手術で試合を欠場するよりも添え木で固めて強行出場する道を選んだ。また3月1日のインディアナ・ペイサーズ戦ではジョージ・カールHCの交代命令に従わなかったとして1試合の出場停止処分を受けたが、処分明けの試合ではカールHCから交代を指示されると、全速力でベンチに戻るという一幕が見られた。カーメロの活躍やビラップスの獲得、これまで度重なる故障に悩まされてきたケニオン・マーティンネネイらビッグマンの復活もあり、ナゲッツは好調のシーズンを送り、1990年代以降では最高勝率となる54勝28敗を記録。カーメロ自身は22.8得点6.8リバウンドと近年では最も低い数字に終わったが、プレイの質が向上したことが評価され、オールNBA3rdチーム復帰を果たした。プレーオフではニューオーリンズ・ホーネッツを破ってついに宿願の1回戦突破を果たし、カンファレンス準決勝ではダラス・マーベリックスを降して、カンファレンス決勝まで進出した。

ニューヨーク・ニックス[編集]

2011年2月22日、チャウンシー・ビラップスシェルデン・ウィリアムスアンソニー・カーターレナルド・バークマンと共に、大型トレードにより、ニューヨーク・ニックスへ移籍。

ニックスでの船出は決して順風なものではなかった。元々ハーフコートでの1on1を好むカーメロと、ラン&ガンで活きるアマレ・スタウダマイアーとの相性や、スタイルが正反対であるにも関わらずプレイエリアが被る二人のスター選手が共存できるのか疑問を持たれた。また、ニックスへの移籍劇は "メロドラマ "と揶揄されたが、チームに対する批判を繰り返してニックスへのトレード要求をした上での移籍であったが、この移籍の過程でニックスはカーメロと引き換えにダニーロ・ガリナリを初めとした当時の主力の多くを放出してしまったためにカーメロは自身のイメージを払拭すると共にこのトレードが間違いではないことを証明する必要もあった。カーメロは個人としては活躍をしてプレイオフ進出に導いたものの、デンバー・ナゲッツ時代から懸念されていた守備面での意識の低さをニックスでも見せ、ボストン・セルティックスとのシリーズは一回戦最大の注目カードと見なされたものの、カーメロのそばを悠々と相手選手が通り過ぎていくという状況を作り出した(とはいえ本来メロの性格を考えたら自分でシュートを乱発しそうな状況でパスをさばこうとするという一面も見られた)。結局はスイープ負けを喫した。

続く2011-2012シーズン、ビラップスの放出と共になんとカーメロをポイント・フォワードに起用するという決断をマイク・ダントーニは下した。結局カーメロとアマレの相性の問題は改善されずアマレはスポットシューターになったがこれが全く機能せずにニックスは勝ち星を挙げられずにホームでもブーイングを食らうことになった。しかもロックアウトの影響で短縮シーズンになったわけだが、体重過多でシーズンを迎えたため本人の動きも鈍く自身のシュートタッチも非常に悪かった。カーメロ自身も厳しい立場に追いやられ、カーメロが離脱している間にジェレミー・リンによるリンサニティ現象が巻き起こったものの、それもカーメロの復帰と共に終焉を迎えるというタイミングの悪さも重なった。またこの間にHCであるダントーニが解任されたわけだが、ダントーニはダントーニでデロン・ウィリアムスとのトレードを画策していたようである。プレイオフ一回戦はマイアミ・ヒートと対戦、スター選手を揃えたチーム同士、相手エースのレブロン・ジェームスはプロ入り前からのライバル対決ということで注目を集めたが、チームとしても個人としてもレブロンとの差が見られた。ヒートが有利に試合を進め、01年4月29日以来となるプレーオフ勝利をもたらしたもののヒートの前に屈した。しかもこのシリーズでは試合中にJ・R・スミスと口論するというチームリーダーにあるまじき行為を見せた。

しかし2012-2013シーズンはアマレの離脱もあってPFとして出場した。ここでカーメロ自身意識が大きく変わったからか元々PFで出ていた時には守備も頑張っていたからか、新シーズンでは守備面でも貢献するようになった。また、ジェイソン・キッドの影響からか今まで自分勝手に乱発することが多かったのがボールを回すことに意識を向け、チームメイトからもカーメロのリーダーシップを示唆されるようになった。相変わらず自身の得点は1on1が中心とはいえロンドンオリンピックで大当りした3Pも入っており、前半戦はMVP級の活躍をして昨シーズンはブーイングを受けていたホームゲームでMVPコールを受けるほどの活躍ぶりだった。しかし相性が悪いと思われていたレイモンド・フェルトンの離脱と共にチームは停滞、本人の怪我もありニックスはだんだんと敗戦が増えていった。しかし出場した試合では相変わらずの活躍でケビン・デュラントの四年連続得点王を阻むと共に、自信初の得点王も狙える位置につけた。特に四月における活躍はずば抜けており、わずかの差とはいえデュラントとの得点王レースを制すと共にオールNBA2ndチームにも選出されることとなった。しかしチームとしては前半の好調ぶりとは一点、カーメロやスミスの1on1や3Pシュートに頼る不安定なチームになっていた。PO一回戦は二年前にスイープされたボストン・セルティックスとのリベンジマッチとなった。セルティックスもけが人が多くて厳しい台所事情であったが、ニックスもたとえ不調であってもカーメロやスミスの1on1に頼った試合展開であった。それでも4勝2敗で99-00シーズン以来、自身二度目となる一回戦突破を果たした。しかし続くイースタン・カンファレンス・セミファイナルでインディアナ・ペイサーズと対戦。守備の固いペイサーズに苦戦を強いられ2勝4敗でシーズンを終えた。

翌2013-2014シーズンはアンドレア・バルニャーニの加入など話題の大型補強をしたものの、キッドらベテランが引退してしまいリーダー不在の状況で開幕を迎えた。シーズン中、リーダー不在の影響かチームはまとまりを欠いた。カーメロ自身も怪我の影響か満足な活躍ができず、シャーロット・ボブキャッツ戦ではキャリアハイとなる62得点を上げるもチームは常に低調で、プレイオフ進出を逃してしまった。これはチームとしてはアイザイア・トーマスが球団社長を務めていた時以来の悪夢となるが、本人としてもキャリア初のプレイオフ不出場という厳しい事態となった。

2013-2014シーズン終了前、フィル・ジャクソンが球団社長に就任。ジャクソンはまずシーズン終了後にマイク・ウッドソンを解任し、ロサンゼルス・レイカーズ時代の教え子だったデレック・フィッシャーをヘッドコーチに招聘した。それでもチームの方向性に懐疑的だったカーメロは、FAとなりシカゴ・ブルズヒューストン・ロケッツなどと交渉し、移籍の可能性を模索した。だが最終的には、新生ニックスの新たな方向性を信じ、ニックスとマックス契約で再契約した。そして迎えた2014-2015シーズンだったが、チームはジャクソンらが新たに導入したトライアングルオフェンスの習得に戸惑い、開幕ダッシュに大失敗してしまい、チームワーストの16連敗も喫してしまった。そして2015年1月に入りJ・R・スミスクリーブランド・キャバリアーズに放出するなど、チーム再編成を余儀無くされ、カーメロ自身もチームの低迷と左膝の負傷に苦しむ日々が続いた。そして地元ニューヨークで開催されたNBAオールスターゲームに出場したのを最後に、左膝の手術のためにシーズン残り全試合を欠場し、2015-16シーズンに復活を期すことになった[1]

アメリカ代表[編集]

2004年、バスケットボール男子のアメリカ代表としてアテネオリンピックに出場した。アメリカ代表はオリンピックではNBA選手が出場するようになった1992年から3大会連続で金メダルを獲得していたが、3位の銅メダルに終わった。彼自身はヘッド・コーチのラリー・ブラウンとの不仲が報道されて、ほとんどプレータイムをもらえなかった。

2006年、日本で行われた世界選手権の代表にもなった。彼はドウェイン・ウェイドレブロン・ジェームズらとともに、チームを引っぱったがギリシャに敗れ3位の銅メダルに終わった。なお8月23日に行われたイタリア戦ではアメリカ代表記録となる35得点をあげた。これまでの記録は1990年のケニー・アンダーソンの34得点だった。また、大会ベスト5にも選ばれた。

2008年北京オリンピックでもチームの主要得点源として活躍。準決勝のアルゼンチン戦ではチームハイとなる21得点をあげ、フリースローは13本中13本を成功させ、アメリカ代表の1試合のフリースロー成功率と成功数の新記録を作った。決勝のスペイン代表戦では13得点をあげ、アメリカの金メダル獲得に大きく貢献した。大会期間中カーメロは11.5得点4.3リバウンドの成績だった。

2012年、ロンドンオリンピックでは層の厚いチームでメロですらスタメンに名を連ねることはできなかった。しかしシックスマンとしてチームに貢献してベンチメンバーとしては最多得点を叩き出し、金メダルに貢献した。

プレイスタイル[編集]

ジャンプショットを中心としたスタイルで得点を稼ぐリーグ屈指のスコアラー。1オン1スキルに非常に長けており、特に左右へジャブステップフェイクをかけ、相手を揺さぶり、ボールが低い位置にあるところからのジャンプショット(プルアップ・ジャンパー)は圧巻と言える。身体能力に恵まれており、素早いペネトレイション(特に一歩目の加速力はリーグでも屈指とされる)からの両手ダンクなども得意で、チャンスとあらばアリウープダンクを狙う。フィジカルも強くポストプレーも得意とし、ゴール下でも強さを発揮する。2012-2013シーズンからは3Pシュートも大きく向上した。

一方、ディフェンスに関しては必ずしも評価が高いわけでない。ナゲッツ時代のジョージ・カール監督はインタビューで「彼は私が指導した中で最高のオフェンススキルを持つ選手であったが、ディフェンスでは期待に応えてくれずイライラすることもあった」とコメントしている。

私生活[編集]

脚註[編集]

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  1. ^ Anthony has season-ending knee op”. sports.yahoo.com (2015年2月19日). 2015年2月23日閲覧。

外部リンク[編集]