エジプトの歴史

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エジプトの歴史(エジプトのれきし、History of Egypt、تاريخ مصر)では、エジプトの歴史を解説する。エジプトという歴史地理的空間を定義するのはほとんど降水がない砂漠地帯を貫流するナイル川である。元々は草原が広がっていたナイル川周辺の地域が気候変動によって乾燥するに従い、人々はナイル川流域に集まっていった。歴史時代のエジプトの人口はその大半がナイル川両岸の極狭い範囲に集中しており、周囲のオアシスに僅かな人口があった。ナイル川流域は川が分岐して扇状に広がるナイルデルタ地帯である北部の下エジプトと、川の両岸数キロ程度の範囲の可住地が線状に続く上エジプトに分けられる。上エジプト南端部のエレファンティネ島アスワーン)南にあるナイル川の第1急湍より上流ではナイル川流域の地質が急激に変わり、エジプトとは異なるヌビアと呼ばれる地方を形成していた。しかしヌビアもまたエジプトの住民の歴史的な活動の舞台でもある。

概要[編集]

ナイル川流域では紀元前5千年紀から前4千年紀には古代エジプト文明の萌芽となる様々な文化が誕生していた。前4千年紀末には上下エジプトを統一する王朝(エジプト第1王朝)が成立し、以降前30年のローマ帝国による征服まで、およそ30に分類される古代エジプト王朝がファラオと呼ばれる神格化された王を中心として国家を営んだ。古代エジプト王朝は大きく古王国(前27世紀―前22世紀)、中王国(前21世紀-前18世紀)、新王国(前16世紀-前11世紀)に分類される。エジプト文明の象徴的建造物であるギザの大ピラミッドクフ王によって建造されたのは古王国の時代であり、黄金のマスクで知られるツタンカーメン(トゥトゥアンクアメン)王墓は新王国時代の遺構である。

新王国の崩壊後、エジプトではリュビア人やヌビア人など周辺諸国からの流入者による王朝が複数建てられた。やがて前671年にはメソポタミアで勢力を拡張するアッシリアの支配下に入り、以降ハカーマニシュ朝アレクサンドロス3世の帝国が順次エジプトを支配した。前305年にはアレクサンドロス3世の帝国を分割した後継者(ディアドコイ)の一人、プトレマイオス1世プトレマイオス朝を建て、その首都アレクサンドリアは東地中海における学問の中心として栄えた。前30年にプトレマイオス朝最後の王クレオパトラ7世がローマの執政官(コンスル)オクタウィアヌス(アウグストゥス)に敗れ、エジプトはローマ帝国に組み込まれた。以降、1000年近くにわたり、エジプトはより大きな帝国の一部としてその歴史を歩んだ。ローマ領となったエジプトは皇帝属州アエギュプトゥスとして、穀物を中心とした富を供給し、ローマ人のパンとサーカスを支えた。その後、ローマ帝国は恒常的に複数の皇帝に分割されるようになり、395年に最後のローマ帝国の分割の後、エジプトは東ローマ帝国の管轄下に入った。現在では東ローマ帝国は一般にビザンツ帝国と呼ばれる。この間、エジプトでは新たな宗教キリスト教が普及し、社会の中核を占めるようになっていった。550年フィラエ島のイシス神殿が閉鎖され、古代エジプト文明時代の古い神々は忘れ去られた。

エジプトは618年にホスロー2世治世下のサーサーン朝によって征服された。ビザンツ帝国はその後エジプトの奪回に成功したが、間もなく新興宗教イスラームを奉じるアラブ人の共同体(ウンマ)によって646年までに完全に征服され、以後完全にビザンツ帝国から離れてイスラーム圏に入った。正統カリフ(ハリーファ)時代、ウマイヤ朝アッバース朝といった歴代のムスリム共同体によって重要な属州としてエジプトの支配は受け継がれたが、アッバース朝末期に入るとイスラーム世界は徐々に「地方化」が進み分裂していった。エジプトでも868年にトゥールーン朝が成立し、久方ぶりにエジプトに拠点を置く独立勢力が誕生するに至った。その後エジプトの支配権はチュニジアで興ったファーティマ朝の手に渡ったが、ファーティマ朝は現在のカイロ(アル=カーヒラ)に拠点を遷し事実上エジプトの王朝としての歴史を歩んだ。12世紀に入ってファーティマ朝の内部紛争が激しくなると、西欧諸国による十字軍の侵入や権力者の争いの中で頭角を現したサラディンによって12世紀後半にはアイユーブ朝が建てられた。エジプトはイスラーム世界における学問や経済の中心として栄えたが、それ故に外敵の攻撃にも晒され、特に13世紀には十字軍の主要な攻撃目標となった。

アイユーブ朝では13世紀半ばにマムルーク(奴隷軍人)が政権を握り、新たにマムルーク朝が成立した。テュルク人チェルケス人などの「白人」奴隷軍人によるこの政権はシリア地方も支配下に置き、モンゴル帝国の侵入も排して16世紀初頭までエジプトを支配した。マムルーク朝の支配は1517年にセリム1世率いるオスマン帝国の攻撃によって終焉を迎えた。以降、オスマン帝国の首都イスタンブルから派遣される総督がエジプトを支配したが、在地のマムルーク権力は強力であり、またエジプト自体も本国に対して高い政治的自立性を維持している期間が長かった。オスマン帝国が斜陽に入り、一方で西欧諸国が勢力を強めると、オスマン帝国のエジプト支配にも動揺が走った。1798年にフランスで権力を握ったナポレオンエジプトに侵入した。フランスによるエジプト支配は成らなかったが、フランス軍撤退後の政治的混乱の中でオスマン帝国の軍人であったムハンマド・アリーが1805年にエジプトの支配権を掌握し、事実上の独立勢力を作り上げた。

ムハンマド・アリーはオスマン帝国との数度の戦争によってその領土を蚕食し新たな帝国の形成を目指したが、これを国益上の障害と見たイギリスの軍事介入によって1840年にエジプト以外の全征服地を喪失し、代わりにエジプト総督位の世襲権を得た(ムハンマド・アリー朝)。多くの非西欧諸国で試みられたように、ムハンマド・アリー朝下でエジプトの近代化・西欧化が目指され、内政の改革やスエズ運河の建設などの開発政策が実施されたが、スエズ運河開発に伴う対外債務の負荷や、アフマド・オラービーによる「外来の王朝」に対する革命などの対応に追われる中で、名目的にはオスマン帝国の宗主権の下にありながら実質的にイギリスの植民地と化していった。1914年に第一次世界大戦が勃発するとエジプトは公式にイギリスの保護領とされ、オスマン帝国の宗主権から脱した。

イギリスはエジプトを完全に支配下に置いたものとみなしたが、第一次世界大戦後には激しい民族運動が沸き起こり、エジプト独立の父とも言われるサアド・ザグルールらが独立運動を主導した。結局イギリスはムハンマド・アリー朝の継続のもと、1922年にエジプト王国の独立を承認したが、エジプトへの駐兵を継続し、政治上の様々な留保をつけるなど、エジプトの独立は制限付きのものとなった。エジプトは辛抱強く主権の回復に向けて努力を続け、1936年にはスエズ運河地帯以外からのイギリス軍の撤兵にこぎつけ、1937年に国際連盟に加盟した。また、同年には猶予期間を置いての治外法権の撤廃も勝ち取った。

第二次世界大戦を契機にパレスチナユダヤ人国家イスラエルが成立すると、エジプトはこれを認めず周辺のアラブ諸国と共に第一次中東戦争でパレスチナに侵攻したが敗れた。敗戦によってムハンマド・アリー朝は権威を失い、1952年には軍のクーデター(エジプト革命)によって王が追放され、翌年には公式に王制の終了が宣言された。共和制への移行後、ナーセルが大統領として主導権を握り、1956年には武力危機の末にスエズ運河の国有化(スエズ動乱)を実現した。アラブ民族主義の台頭の下、ナーセルが中核となって1958年にはシリアイエメンと合邦してアラブ連合共和国が成立した。しかしこの連合は上手く行かず、3年で解体した。1967年には第三次中東戦争でイスラエルに敗北し、ナーセルの権威は失墜し、1970年にナーセルは死去した。

ナーセルの跡を継いだサーダートは1979年にイスラエルとの和平(キャンプ・デーヴィッド合意)を実現したが、アラブ諸国との関係悪化を招き、さらに対イスラエル強硬派によって暗殺された。次いで成立したムバーラク政権はエジプトの国際関係を再編し、アラブ諸国における主導権の回復を目指した。特に1990年のイラクによるクウェート侵攻を契機に始まった湾岸戦争ではアメリカ側に立って多国籍軍に参加し、国際的地位を大きく上昇させた。また、アメリカや湾岸諸国から莫大な経済援助を引き出し、これを梃子に経済開発に力を入れ、大きな成果を上げた。

しかし、2010年にチュニジアで始まった民衆運動は、ソーシャル・メディアなどを通じて瞬く間にアラブ諸国に波及し、エジプトでも大規模な反政府の抗議運動が発生した(アラブの春)。ムバーラク大統領は地位を追われ、その後ソーシャル・メディアなどを駆使して結成された複数の「青年勢力」、そしてムスリム同胞団や「イスラーム集団」、ジハード団などのイスラーム勢力が政治アクターとして存在感を増し、伝統的に大きな権力を持つ軍部なども交えて、新たな体制が模索されている。

有史以前[編集]

現在、エジプトと呼ばれる地域は第三紀末頃に地質運動の中で形成され、550万年前頃に原始ナイル川が形成された[1]。このナイル川流域での人類の足跡が初めて確認されるのは50万年前頃と言われる[1]。当時ナイル川流域を含む北アフリカのサハラ地方には広大なステップ地帯が広がっており、非常に温暖な気候であった[1]

旧石器時代[編集]

紀元前50000年から30000年頃には、後期旧石器時代現生人類がナイル河畔や周辺の湖沼沿い、オアシスを移動しながら大型獣を追い、原始的な狩猟採集生活を送っていたと見られる[1][2]。後期旧石器時代は石刃技法による石器製作技術の導入によって特徴付けられる[3]。1万年単位のスパンにおいてはナイル川流域・北アフリカの気候は大きく変動しており、後期旧石器時代には現在と同じように乾燥していて広大な砂漠が広がっていた[3]。このため、後期旧石器時代の遺跡はナイル川沿いの土地に集中している[3]。2003年現在、最も古い後期旧石器時代の遺跡は、紀元前31000年頃のものと見られるエジプト中部のナイル川西岸のナズレット・カタル遺跡英語版である[2]

紀元前19000年頃に入ると、上エジプト南部からスーダン北部にかけての地域に様々な石器文化が集中的に出現した[2]。これらの文化にはクッバニーヤ文化英語版(春ファン文化)、セビル文化英語版カダン文化英語版などと呼ばれるものがある[2]。人々はナマズに代表されるナイル川の豊富な漁業資源や水鳥、貝類や植物に支えられてかなり安定した生活を営んでいた[4]。この後期旧石器時代のエジプトではアフリカ独自の穀物栽培が行われていたという説もあったが、研究の結果現在ではこれは否定されている[4]

前12000年頃、アフリカ北東部は「第4湿潤期」と呼ばれる時期に入った。これは赤道アフリカのモンスーンを伴う降雨帯が南下し、スーダン北部からエジプト南部に至る地域に年間200mm程度の降雨がもたらされるようになった時期である[5]。第4湿潤期のエジプトも決して雨量豊富というわけではなかったが、砂漠地帯の景観は一変し、タマリスクアカシアが繁茂し、ウサギガゼルオリックスなどが生息するようになった[5]

この時代は考古学的には「終末期旧石器時代(Terminal Palaeolithic)」または「続旧石器時代(Epipalaeolithic)」に分類される時代にあたる[5]。緑化が進んだことで人々の生活圏はナイル川の両岸地帯から離れた地域にまで広がり、西方の元砂漠地帯に居住の痕跡が残されるようになった[5]。こうした居住の痕跡はエジプト南部のナブタ・プラヤ英語版遺跡やエジプト北部のシワ・オアシスファイユームなどに代表される[5]。人々の居住はとりわけ、夏季の降水が水たまりを作る低地や湧き水のあるオアシス近辺に集中していた[6]。ナイル川流域においては、ナイル川中流域(現:スーダン中部)に特に多数の居住痕跡が確認されており、「カルトゥーム中石器(Khartoum Mesolithic)」と呼ばれる文化が広がっていた。現:エジプト地域では南部のナイル川第2急湍付近にアルキン文化(Arkinian)とシャマルク文化(Shamarkian)が広がっていた。これらナイル川沿いの遺跡では魚類貝類など、ナイル川の水産資源に著しく依存した生活が営まれていたことが発見された遺物からわかっている[6]

水量の増したナイル川の水産資源は、未だ農耕を知らない終末期旧石器時代の生活文化においてもある程度の定住的生活を可能とした[6]。この頃にエジプトでは磨製石器土器の使用が開始されたと見られる[7]。2003年時点において確認されている世界最古の土器は日本縄文土器などを含む東アジアのそれであるが、エジプトにおける土器の使用はそれに次ぐ世界で最も早期のものであり、終末期旧石器時代の早い段階から確認されている[8]。ただし土器の使用は局地的であり、また発見例は断片ばかりで用途ははっきりしない[8]。終末期旧石器時代の後半にはアフリカ北東部全域に土器の使用が広まったが、それでもなお土器が全く出土しないこの時期の遺跡が多数ある[9]。また、前8千年紀には西アジアムギ類の栽培が、さらに前7千年紀にはヤギの家畜化が始まったと見られているが[10]、エジプトでもこれと同時期かやや遅れて農耕と牧畜が始まった可能性がある[11]。エジプトの農耕と牧畜が西アジアから導入されたのか、独自に開始されたものなのかは多くの学者たちの関心の的であるが、はっきりとはしていない。ただし、特にウシの家畜化についてはエジプト(スーダン)地域で始まった可能性が高いと見られている[11]。確認可能なエジプト最古の穀物栽培の痕跡は前5000年頃に年代づけられるファイユーム出土のエンマーコムギである[10]。これは既に新石器時代の遺跡であるが、より古い時代にナブタ・プラヤ遺跡で栽培が行われた可能性も議論されている[12]。また、アフリカ原生の穀物であるソルガムミレットが栽培されていた可能性もある[13]

こうした磨製石器の使用、土器の導入、農耕・牧畜の開始は新石器時代を定義づける要素とされており、それらの導入が新石器時代の開始とみなされているが、全てが同時に、同じ場所で導入されていたわけではなく、新石器時代と旧石器時代の境界は明確ではない。考古学者高宮いずみは概説書において、説明上前6千年紀以降を新石器時代と位置付けている[7][注釈 1]

古代エジプト[編集]

「エジプトはナイルの賜物」という古代ギリシア歴史家ヘロドトスの言葉で有名なように、エジプトは豊かなナイル川デルタナイル川デルタ)に支えられて古代エジプト文明を発展させてきた。以下の古代エジプトの時代区分はマネトの『アイギュプティカ(エジプト史)』に従ったものである。エジプト人は紀元前3000年頃には早くも中央集権国家を形成し(エジプト初期王朝時代)、ピラミッド王家の谷ヒエログリフなどを通じて世界的によく知られている高度な文明を発達させた。

エジプト原始王朝時代(紀元前3500年 - 紀元前3100年)[編集]

上エジプトのネケン英語版エジプト語Nekhen[14])を中心とする王朝と、下エジプトのペル・ウアジェト英語版エジプト語Per-Wadjet)を中心とする王朝にまとまっていた。この時代から上エジプトに住む農民はフェラヒンと呼ばれ、後に移住したアシュラフ英語版アラブ人と区別している。

エジプト初期王朝時代(紀元前3100年 - 紀元前2686年)[編集]

上エジプトのナルメル王が、下エジプトを征服して、上下エジプトを統一。エジプト第1王朝を開き、下エジプト南部の新首都は『Ineb Hedj(白い壁)』(後にメンフィス)と呼ばれた。エジプト王は、初期にはホルス名を用いていたが、第二の名前として上エジプトの守護女神ネクベトエジプト語Nekhbet)と下エジプトの守護女神ウアジェトエジプト語Wadjet)双方の化身であることを示すネブティ名英語版(二女神名)を加えた。

エジプト第2王朝セト・ペルイブセンの治世に、王名がホルス名からセト名に切り替わり王権守護神が変更されたことを記録している。しかし、2代後のカセケムイ王からホルス名に戻っている。

エジプト古王国(紀元前2686年 - 紀元前2185年)[編集]

サナクトカセケムイ王の娘を娶ってエジプト第3王朝を開いた。次のジョセル王の治世に、イムホテプが設計したジェゼル王のピラミッド階段ピラミッド)が建設された。首都メンフィスには、メンフィスとその墓地遺跡ギーザダハシュールにこの時代の遺跡が多数残っている。

エジプト第4王朝スネフェル王が屈折ピラミッド赤いピラミッド崩れピラミッド英語版を建設し、クフ王らがギザの大ピラミッドを建設した。この時代にはクフ王の船のような大型船の建造が始まっていた。クフ王の治世にプント国から黄金がもたらされた記録が残っており、Quseirから紅海貿易が行なわれていた。

エジプト第5王朝ウナス王のピラミッドにピラミッド・テキスト英語版[15]と呼ばれるヒエログリフによる古エジプト語英語版の碑文が残された。この時代には、太陽神ラー信仰が盛んで、その本拠地『イウヌエジプト語ỉwnw[16])』の太陽神殿英語版が有名である。

エジプト第6王朝の初期には王位の簒奪が相次いだが、ペピ1世(メリラー・ペピ)の治世には宰相ウェニ英語版の下でアジア(パレスチナ地方)遠征やヌビア遠征を成功させ、上エジプトに運河を掘削して水上交通網を整備するなど比較的順調に統治した。ペピ2世の治世後半に「上エジプト長官」(ヘリー・テプ・アー)が上エジプトを手中に収め、中央集権体制が解体して州侯が自立勢力として割拠するエジプト第1中間期を迎えた。

エジプト第1中間期(紀元前2185年 - 紀元前2040年)[編集]

メンフィスを中心とする王朝(エジプト第7王朝エジプト第8王朝)が弱体化すると、ヘウト・ネンネス英語版エジプト語Hwt-nen-nesu[17])を中心とする勢力(エジプト第9王朝エジプト第10王朝)と、ワセトエジプト語Waset、現ルクソール)を中心とする勢力(エジプト第11王朝)が南北で対立した。この時代には、オシリス信仰が盛んで、アビュドスへの巡礼が知られている。

エジプト中王国(紀元前2040年 - 紀元前1782年)[編集]

エジプト第11王朝メンチュヘテプ2世は治世21年(紀元前2040)頃、ヘウト・ネンネス英語版を陥落させてエジプトを再統一し、ワセトが首都となった。この時、エジプト神話における太陽神ラーとワセトの守護神・アメンを習合(一体化)した「アメン・ラー」を神とする宗教が誕生した。エジプト第12王朝の時代にはファイユーム干拓工事や、エジプト古王国時代に第6王朝の重臣ウェニ英語版によって作られた運河の改修工事を行い、食糧生産の増加や物流が改善された。

エジプト第2中間期(紀元前1782年 - 紀元前1570年)[編集]

エジプト第15王朝エジプト第16王朝ヒクソス[18]と呼ばれる異民族による下エジプトを中心とした王朝である。ヒクソス時代には対外貿易が活発化し、クレタ島ミノア文明の遺物などが見つかっている。ヒクソスはシリアのウガリット神話の英雄神・バアル神とセト神を習合(一体化)したセト神を信仰していた。

ワセトエジプト第17王朝イアフメス1世がエジプトを再統一し、以後をエジプト第18王朝と呼ぶ。

エジプト新王国(紀元前1570年 - 紀元前1070年)[編集]

エジプト第18王朝ではハトシェプスト女王との共同統治の後、トトメス3世メギドの戦いカナンカデシュ王と戦い、勝利した。アメンホテプ4世はトトメス3世の時代に強大となったアメン神官団と対立して、アマルナ革命と呼ばれるアテン神の宗教によるアメン信仰の排除を推進し、アケトアテンへ遷都した。この時期にヒッタイト帝国シュッピルリウマ1世シリア南部に進出し、アムル王国英語版アジル英語版に宗主権を認めさせた。エジプトは外交(アマルナ文書)によってミタンニと同盟し、ヒッタイトの南下に対抗した。ツタンカーメンの時代には宰相アイと将軍ホルエムヘブが政治的実権を握り、下エジプトメンフィスに遷都した。ホルエムヘブ王の主導でシリア南部は回復された。

旧約聖書』「出エジプト記」の時代はエジプト第18王朝と考えられている。モーゼを育てたのがハトシェプストであるとする説があるが、モーゼ出エジプトエジプト第19王朝のラムセス2世の時代であれば、時代が離れ過ぎているため諸説ある。いずれにせよ、この集団が後にイスラエル王国を建国したと考えられている。

エジプト第19王朝の時代には、紀元前1274年カデシュの戦いラムセス2世ヒッタイト帝国ムワタリと戦ったが、ヒッタイト帝国のパレスチナへの南下を許すことになり、戦略的には勝利を収めるに至らなかったと見られている。

メルエンプタハの時代になると前1200年のカタストロフによる動乱期[19]に入り、紀元前1180年ヒッタイト帝国が滅亡した。

エジプト第20王朝の末頃、ワセトを中心とするアメン神官団がアメン大司祭国家を作り、上エジプトを支配した。

エジプト第3中間期(紀元前1069年 - 紀元前664年)[編集]

下エジプトに首都タニスを中心とするエジプト第21王朝が成立すると、上エジプトアメン大司祭国家と協力関係が築かれた。

紀元前1021年にはイスラエル王国紀元前930年にはユダ王国が建国された。紀元前925年シェションク1世en:Sack of Jerusalem (10th century BC)でユダ王国を属国にし、次いでイスラエル王国に侵攻し、メギドに至とヤロブアム1世ギレアド(現ヨルダン)へ逃亡した。 紀元前853年カルカルの戦いでは、エジプト第22王朝はシリア連合軍(ダマスカス、イスラエル王国、ハマテ)に援軍を派遣し、アッシリア軍の撃退に成功した。シェションク3世の治世に、アメン司祭ハルシエセ英語版[20]のもとテーベ周辺が事実上独立し、紀元前818年には下エジプトタレム英語版: Taremu)ではエジプト第23王朝が独立した。紀元前727年下エジプトサイスエジプト第24王朝が独立した。

エジプトの混乱期の紀元前747年ヌビアヌビア人英語版ピアンキ王によるエジプト第25王朝が開かれた。紀元前722年に強勢となったアッシリアにイスラエル王国が攻滅ぼされた(イスラエルの失われた10支族)。紀元前702年バビロニア(バビロン第10王朝)のメロダク・バルアダン2世が、キシュの戦いでアッシリアセンナケリブ王に破れ、エラム王国に逃亡。紀元前694年に、エラム王国がバビロニアの反乱を支援し、アッシリアのアッシュール・ナディン・シュミ王子を捕縛し、再びバビロニアを独立させた。しかし、センナケリブ王のアッシリア軍によるハルールの戦い英語版でバビロニアが敗北し、エラム王国の干渉は失敗した。紀元前681年にセンナケリブが暗殺され、アッシリアで王位継承をめぐる内戦が勃発。紀元前671年タハルカ英語版王がユダ王国のヒゼキヤ王と同盟すると、アッシリアのエサルハドン王がエジプトに侵攻した。敗れたタハルカはヌビアへ追われた。

エジプト末期王朝時代(紀元前664年 - 紀元前525年)[編集]

紀元前664年アッシュールバニパルの遠征によって第25王朝が滅亡し、アッシリアの庇護の下でエジプト第26王朝の時代になった。この後、アッシリアは急速に弱体化した。メディア王国が強勢となり、紀元前625年新バビロニアが建国されると、メディアと新バビロニアは同盟を結んでアッシリアを攻撃し、紀元前612年にアッシリアが滅亡した。紀元前609年メギドの戦いでユダ王国(ヨシヤ)をエジプトの属国にした。紀元前605年カルケミシュの戦い新バビロニアに破れ、旧宗主国アッシリアを支援するネコ2世のシリア政策は完全に挫折した。

紀元前597年、ユダ王国が新バビロニアのネブカドネザル2世に敗れた。ユダ王国のゼデキヤは、エジプト第26王朝アプリエス英語版と結んでバビロニアに対抗しようと試みたが、紀元前586年にユダ王国が新バビロニアに敗れ滅亡した(バビロン捕囚)。新バビロニアで神官が台頭し、政治が不安定になると、紀元前539年アケメネス朝ペルシアキュロス2世によって新バビロニアも滅亡した。

アケメネス朝(紀元前525年 - 紀元前332年)[編集]

紀元前525年にエジプトのプサメティコス3世英語版も、アケメネス朝ペルシア帝国カンビュセス2世ペルシウムの戦い英語版で征服され、古代オリエント世界は統一された(en:Twenty-seventh Dynasty of Egypt)。

404年ペロポネソス戦争が終結すると、402年に混乱を突いて独立し、ペルシアによる支配が終わった。独立期間(en:Twenty-eighth Dynasty of Egypten:Twenty-ninth Dynasty of Egyptエジプト第30王朝)が続いたが、342年にペルシアのアルタクセルクセス3世が最後のファラオ・ネクタネボ2世英語版を破り、エジプトに再びサトラップを置いた(en:Thirty-first Dynasty of Egypt)。

グレコ・ローマン期[編集]

アルゲアス・プトレマイオス朝(紀元前332年 - 紀元前30年)[編集]

イッソスの戦いの後、紀元前332年にはマケドニア王国アレクサンドロス大王によってエジプトは征服された(アルゲアス朝)。紀元前323年のアレクサンドロス大王の死後、ディアドコイ戦争を経て、紀元前305年ギリシア系プトレマイオス朝が成立し、ヘレニズム文化の中心のひとつとして栄えた。この時期には、6度にわたるシリア戦争が行なわれたが、多数のギリシャ人が入植した。ロゼッタ・ストーンには古代ギリシャ語でもプトレマイオス5世の事跡が記録されていることが知られている。

ローマ帝国期(紀元前30年 - 395年)[編集]

プトレマイオス朝は紀元前30年に滅ぼされ、エジプトはローマ帝国属州となる。ローマ帝国の統治下ではキリスト教が広まり、コプト教会が生まれた。当初、エジプト属州は皇帝直轄領として、豊かな穀物生産でその繁栄を支えた。

皇帝ネロ54年-68年)の治世にen:Tax resistanceユダヤ戦争エルサレム攻囲戦の結果、ユダヤ人アレクサンドリアに移住した。

皇帝ハドリアヌス117年-138年)の治世にエジプト属州でキトス戦争英語版ユダヤ属州で再びバル・コクバの乱が起こった結果、ユダヤ的なものの根絶を目指し、ペリシテ人の名前からとって属州「シリア・パレスティナ」と名付けた。

皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌス(161年-180年)の治世でも、増税へのen:Tax resistanceを目的にしたブコリック戦争英語版[要リンク修正]と呼ばれる反乱が起こり、エジプト属州の地域経済に大打撃を与えた。これ以後も増税と反乱を繰り返し、帝国は財政破綻へ向かっていった。

4世紀には、ギリシア文字を基にしたコプト文字が使われ出し、神聖文字民衆文字は使われなくなった。

ビザンチン帝国期(380年 - 642年)[編集]

ローマ帝国の分割後は東ローマ帝国に属した。

Sassanid conquest of Egypt618年621年)でササン朝ペルシャが勝利し、629年までその支配下にあった。同629年エルサレムなどでキリスト教に改宗しないユダヤ人に対する虐殺事件、Massacres of the Jewsが起こり、ユダヤ人がエジプトに脱出した[21][22][23]

エジプトのイスラム化[編集]

イスラム帝国期(639年 - 1250年)[編集]

639年から始まったイスラム軍正統カリフ)の将軍アムル・イブン・アル=アースによる侵攻(Muslim conquest of Egypt)は、646年ニキウの戦い英語版で征服され終結した。

その後、ウマイヤ朝およびアッバース朝の一部となった。アッバース朝の支配が衰えると、そのエジプト総督から自立したトゥールーン朝イフシード朝の短い支配を経て、969年に現在のチュニジアで興ったファーティマ朝によって征服された。

1154年en:Crusader invasions of Egypt1154年-1169年)で、十字軍国家エルサレム王国ファーティマ朝エジプトへ侵攻した。

これ以来、アイユーブ朝マムルーク朝とエジプトを本拠地としてシリア地方まで版図に組み入れたイスラム王朝が500年以上に渡って続く。

マムルーク朝(1250年 - 1517年)[編集]

第7回十字軍1248年-1254年)では、カペー朝フランス王国ルイ9世の軍が1249年にエジプトに侵攻した。この時、アイユーブ朝のスルタン・サーリフが急死すると、シャジャル・アッ=ドゥッル夫人率いるマムルーク軍団が十字軍を撃退し、その後のクーデターでバフリー・マムルーク朝1250年-1382年)の女性スルタンに即位した。

モンゴル帝国オゴデイ後継者問題で混乱した後、フレグフレグの西征を開始した。1258年アッバース朝を滅ぼしたが、1260年に再び大ハーン・モンケの朴報が届き、フレグはモンゴルへ帰還した。キト・ブカは1万の留守部隊を預けられてシリアに駐屯していたが、アイン・ジャールートの戦いムザッファル・クトゥズが大軍を率いてシリア奪還した。

マムルーク朝のもとで中央アジアカフカスなどアラブ世界の外からやってきたマムルーク(奴隷軍人)による支配体制が確立し、250年間続いた。

1324年頃、マリ帝国マンサ・ムーサ王がメッカ巡礼の途上でナースィル・ムハンマドの元に立ち寄り、大量の金の贈り物をしたことでカイロの金の相場が下落したと伝えられている。そのためか、晩年のムハンマドは奢侈に走って財政を傾かせ、マムルークの力が強大になった。

バルクークがクーデターによってサーリフ・ハーッジーを廃し、ブルジー・マムルーク朝1382年-1517年)を開いた。

オスマン帝国期(1517 - 1805)[編集]

1517年マルジュ・ダービクの戦いで、オスマン帝国セリム1世はマムルーク朝を滅ぼしてエジプトを属州としたが、マムルーク支配は温存された。

1798年フランスナポレオン・ボナパルトエジプト遠征を行なった。この時、紀元前196年に書かれたロゼッタ・ストーンが港湾都市ロゼッタで発見され、1801年にイギリス軍の手に渡った。石碑に神聖文字民衆文字で書かれた古代エジプト語は、1822年、ジャン=フランソワ・シャンポリオンによって対応する古代ギリシア語から解読され、古代エジプトの文学や文化を理解する道が開けた。

近代エジプト[編集]

ムハンマド・アリーの近代化(1805年 - 1882年)[編集]

ムハンマド・アリー

ナポレオンエジプト遠征を契機として、エジプトは近代国家形成の時代へと突入していった。エジプト遠征にともなう混乱を収拾して権力を掌握した軍人ムハンマド・アリー(オスマン帝国が派遣したアルバニア人部隊の隊長)は、1805年にエジプト総督の地位をオスマン帝国に認めさせると、豪族化していた各地のマムルークを打倒して集権化を進めた。その上で、富国強兵殖産興業を通じたエジプトの近代化を目指した。また、1822年に導入された徴兵制では、宗教の別なく均質な国民として徴兵を行った。こうした政策は、エジプトにおける国民創出、国民国家形成の試みとも解釈できる。また、近代化の財源には、列強からの借款でなくナイル川での商品作物栽培で得られた利益をあてることとして、列強の経済的従属に陥らないよう気を配った。

1831年からのエジプト・トルコ戦争で、エジプトをオスマン帝国から半ば独立させることに成功し、アルバニア系ムハンマド・アリー家による世襲政権を打ち立てた(ムハンマド・アリー朝)。

スエズ運河とエジプトの従属[編集]

しかし、当時の世界に勢力を広げたヨーロッパ列強はエジプトの独立を認めず、またムハンマド・アリー朝の急速な近代化政策による社会矛盾は結局、エジプトを列強に経済的に従属させることになった。1869年にエジプトはフランスとともにスエズ運河を開通させるが、その財政負担はエジプトの経済的自立に決定的な打撃を与え、イギリスの進出を招いた。1881年アフメド・ウラービーが中心となって起きた反英運動・ウラービー革命もイギリスによって鎮圧され、エジプトは事実上の保護国となる(正式には1914年)。

現代(1882年 - 現在)[編集]

エジプトの民族運動と独立[編集]

1914年には、第一次世界大戦によってイギリスがエジプトの名目上の宗主国であるオスマン帝国と開戦したため、エジプトはオスマン帝国の宗主権から切り離された。その結果、大戦後の1922年2月28日エジプト王国が成立し、翌年イギリスはその独立を認めたが、その後もイギリスの間接的な支配体制は続いた。1940年イタリアのエジプト侵攻

第二次世界大戦後のエジプト[編集]

エジプト王国は立憲君主制をひいて議会を設置し、緩やかな近代化を目指すが、第二次世界大戦前後からパレスチナ問題の深刻化や、1948年から1949年パレスチナ戦争(第一次中東戦争)でイスラエルに敗北、経済状況の悪化、ムスリム同胞団など政治のイスラム化(イスラム主義)を唱える社会勢力の台頭によって次第に動揺していった。この状況を受けて1952年自由将校団クーデターを起こしてムハンマド・アリー朝を打倒(エジプト革命)、1953年に共和制へと移行し、エジプト共和国が成立した。

1956年、第2代大統領に就任したガマール・アブドゥン=ナーセル(ナセル)のもとでエジプトは冷戦下での中立外交と汎アラブ主義アラブ民族主義)を柱とする独自の政策を進め、第三世界アラブ諸国の雄として台頭する。同年にエジプトはスエズ運河国有化: Nationalisation of the Suez Canal)を断行し、これによって勃発した第二次中東戦争(スエズ戦争)で政治的に勝利を収めた。1958年にはシリアと連合してアラブ連合共和国を成立させた(1961年に解消)。1962年から始まった北イエメン内戦では、ソビエト連邦と共に共和派を支援し、王党派を支援するサウジアラビアヨルダンと対立した。 しかし、1967年第三次中東戦争(6日戦争)は惨敗に終わり、これによってナーセルの権威は求心力を失った。エジプトは1971年まで「アラブ連合共和国」と称し続けたが、その後エジプト・アラブ共和国と改称した。

1970年に急死したナーセルの後任となったアンワル・アッ=サーダート(サダト)は、社会主義的経済政策の転換、イスラエルとの融和など、ナーセル体制の切り替えを進めた。しかし政治的自由化によってイスラム主義がかえって勢力を伸張させて体制に対する抵抗が激化し、サーダート自身も1981年イスラム過激派ジハード団によって暗殺された。

かわって副大統領から大統領に昇格したホスニー・ムバーラクは、対米協調外交を進める一方、イスラム主義運動を厳しく弾圧して国内外の安定化をはかるなど、開発独裁的な政権を長きにわたり維持したが、しかし同じく長期政権を維持してきたチュニジアベン=アリー大統領はジャスミン革命で政権を失い、それに呼応したエジプト革命は30年続いたムバーラク政権を崩壊させた(アラブの春)。軍による暫定的な統治の後にムスリム同胞団ムハンマド・ムルシーが自由選挙を経て2012年7月に大統領に就任した。同国初の文民大統領であったが、次第に強権的な姿勢が目立つようになったほか、イスラム化を推し進めたことが反発を呼び、各地で反政府デモが起こった[24]。2013年7月3日、軍はムルシーの大統領権限を剥奪し、暫定政権を樹立させた(2013年エジプトクーデター)。


脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 高宮のまとめによれば、旧石器時代と新石器時代は初めてこの概念をヨーロッパ考古学の中で用いたジョン・ラボック19世紀後半)による定義では打製石器磨製石器の使用によって分類されていた。その後、石器の製造という技術的側面よりも、生産経済のあり様の方が人類史上重要な区分であるという認識から、現在では農耕・牧畜の開始をもって新石器時代の開始とみなす考え方が主流となってきている[7]

出典[編集]

  1. ^ a b c d 古谷野 1998, p.2
  2. ^ a b c d 高宮 2003, p.23
  3. ^ a b c 高宮 2003, p.22
  4. ^ a b 高宮 2003, p.24
  5. ^ a b c d e 高宮 2003, p.25
  6. ^ a b c 高宮 2003, p.26
  7. ^ a b c 高宮 2003, p.29
  8. ^ a b 高宮 2003, p.30
  9. ^ 高宮 2003, p.31
  10. ^ a b 高宮 2003, p.32
  11. ^ a b 高宮 2003, p.32-38
  12. ^ 高宮 2003, p.33
  13. ^ 高宮 2003, p.34
  14. ^ 後にヒエラコンポリスと呼ばれた。
  15. ^ エジプト第5王朝エジプト第6王朝にみられる。後にen:Coffin Texts死者の書 (古代エジプト)に発展したが、この段階ではファラオにだけ作られ、イラストが描かれなかった。
  16. ^ 後に「太陽の町」を意味するヘリオポリスと呼ばれた。
  17. ^ 後のヘラクレオポリスという名は、この都市で祭られていた地方神ヘリシェフギリシア人ハルサフェスと呼び、名前の類似等からヘラクレスと同一視したことによって付けられたギリシア語名である。
  18. ^ アムル人とも云われるが、詳細は良く判っていない。紀元前15世紀末にレバノンに建国されたアムル王国英語版もアムル人の国家である。
  19. ^ 2度の戦争があり、イスラエルの反乱イスラエル石碑英語版に、海の民によるペルイレルの戦いBattle of Perire)はカルナック神殿en:Great Karnak Inscriptionに記されている。
  20. ^ 同時代に同名のアメン大司祭ハルシエセ英語版がいるが別人である。
  21. ^ Eutychius, ii. 241
  22. ^ Elijah of Nisibis. Beweis der Wahrheit des Glaubens, translation by Horst, p.108, Colmar, 1886
  23. ^ The Coptic Encyclopedia, Volume 3, (CE:1093a-1097a). Published in print by Macmillan, reproduced with permission at http://ccdl.libraries.claremont.edu/col/cce.
  24. ^ “ムスリム同胞団、80年経て手にした政権の座ははかなく エジプト”. AFPBB News (フランス通信社). (2013年7月4日). http://www.afpbb.com/article/politics/2954481/11005922 2013年7月13日閲覧。 

参考文献[編集]

  • 古谷野晃『古代エジプト 都市文明の誕生』古今書院、1998年11月。ISBN 978-4-7722-1682-1
  • 高宮いづみ『エジプト文明の誕生』同成社〈世界の考古学 14〉、2003年2月。ISBN 978-4-88621-259-7