エジプトの歴史

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現代のエジプト・アラブ共和国の国境と領内の地形図。

本項では、エジプトの歴史(エジプトのれきし、History of Egypt、تاريخ مصر)を解説する。エジプトという歴史地理的空間を定義するのはほとんど降水がない砂漠地帯を貫流するナイル川である。元々は草原が広がっていたナイル川周辺の地域が気候変動によって乾燥するに従い、人々はナイル川流域に集まっていった。歴史時代のエジプトの人口はその大半がナイル川両岸の極狭い範囲に集中しており、周囲のオアシスに僅かな人口があった。ナイル川流域は川が分岐して扇状に広がるナイルデルタ地帯である北部の下エジプトと、川の両岸数キロ程度の範囲の可住地が線状に続く上エジプトに分けられる。上エジプト南端部のエレファンティネ島アスワーン)南にあるナイル川の第1急湍より上流ではナイル川流域の地質が急激に変わり、エジプトとは異なるヌビアと呼ばれる地方を形成していた。しかしヌビアもまたエジプトの住民の歴史的な活動の舞台でもある。

概要[編集]

ギザ三大ピラミッド。古代エジプトを象徴する建造物である。

ナイル川流域では前5千年紀から前4千年紀には古代エジプト文明の萌芽となる様々な文化が誕生していた。前4千年紀末には上下エジプトを統一する王朝(エジプト第1王朝)が成立し、以降前30年のローマ帝国による征服まで、およそ30に分類される古代エジプト王朝がファラオと呼ばれる神格化された王を中心として国家を営んだ。古代エジプト王朝は大きく古王国(前27世紀―前22世紀)、中王国(前21世紀-前18世紀)、新王国(前16世紀-前11世紀)に分類される。エジプト文明の象徴的建造物であるギザの大ピラミッドクフ王によって建造されたのは古王国の時代であり、黄金のマスクで知られるツタンカーメン(トゥトゥアンクアメン)王墓は新王国時代の遺構である。

ローマ時代の劇場(アンフィテアトルム)跡

新王国の崩壊後、エジプトではリビュア人やヌビア人など周辺諸国からの流入者による王朝が複数建てられた。やがて前671年にはメソポタミアで勢力を拡張するアッシリアの支配下に入り、以降ハカーマニシュ朝(アケメネス朝)、アレクサンドロス3世の帝国が順次エジプトを支配した。前305年にはアレクサンドロス3世の帝国を分割した後継者(ディアドコイ)の一人、プトレマイオス1世プトレマイオス朝を建て、その首都アレクサンドリアは東地中海における学問の中心として栄えた。前30年にプトレマイオス朝の実質的な最後の王クレオパトラ7世がローマの執政官(コンスル)オクタウィアヌス(アウグストゥス)に敗れ、エジプトはローマ帝国に組み込まれた。以降、1000年近くにわたり、エジプトはより大きな帝国の一部としてその歴史を歩んだ。ローマ領となったエジプトは皇帝属州アエギュプトゥスとして、穀物を中心とした富を供給し、ローマ人のパンとサーカスを支えた。その後、ローマ帝国は恒常的に複数の皇帝に分割されるようになり、395年に最後のローマ帝国の分割の後、エジプトは東ローマ帝国の管轄下に入った。現在では東ローマ帝国は一般にビザンツ帝国と呼ばれる。この間、エジプトでは新たな宗教キリスト教が普及し、社会の中核を占めるようになっていった。550年フィラエ島のイシス神殿が閉鎖され、古代エジプト文明時代の古い神々は忘れ去られた。

イブン・トゥールーン・モスク。エジプトに現存する最古のモスクイスラームの礼拝施設)である。

エジプトは618年にホスロー2世治世下のサーサーン朝によって征服された。ビザンツ帝国はその後エジプトの奪回に成功したが、間もなく新興宗教イスラームを奉じるアラブ人の共同体(ウンマ)によって646年までに完全に征服され、以後完全にビザンツ帝国から離れてイスラーム圏に入った。正統カリフ(ハリーファ)時代、ウマイヤ朝アッバース朝といった歴代のムスリム共同体によって重要な属州としてエジプトの支配は受け継がれたが、アッバース朝末期に入るとイスラーム世界は徐々に「地方化」が進み分裂していった。エジプトでも868年にトゥールーン朝が成立し、久方ぶりにエジプトに拠点を置く独立勢力が誕生するに至った。その後エジプトの支配権はチュニジアで興ったファーティマ朝の手に渡ったが、ファーティマ朝は現在のカイロ(アル=カーヒラ)に拠点を遷し事実上エジプトの王朝としての歴史を歩んだ。12世紀に入ってファーティマ朝の内部紛争が激しくなると、西欧諸国による十字軍の侵入や権力者の争いの中で頭角を現したサラディンによって12世紀後半にはアイユーブ朝が建てられた。エジプトはイスラーム世界における学問や経済の中心として栄えたが、それ故に外敵の攻撃にも晒され、特に13世紀には十字軍の主要な攻撃目標となった。

エジプトを攻撃する第5回十字軍

アイユーブ朝では13世紀半ばにマムルーク(奴隷軍人)が政権を握り、新たにマムルーク朝が成立した。テュルク人チェルケス人などの「白人」奴隷軍人によるこの政権はシリア地方も支配下に置き、モンゴル帝国の侵入も排して16世紀初頭までエジプトを支配した。マムルーク朝の支配は1517年にセリム1世率いるオスマン帝国の攻撃によって終焉を迎えた。以降、オスマン帝国の首都イスタンブルから派遣される総督がエジプトを支配したが、在地のマムルーク権力は強力であり、またエジプト自体も本国に対して高い政治的自立性を維持している期間が長かった。オスマン帝国が斜陽に入り、一方で西欧諸国が勢力を強めると、オスマン帝国のエジプト支配にも動揺が走った。1798年にフランスで権力を握ったナポレオンエジプトに侵入した。フランスによるエジプト支配は成らなかったが、フランス軍撤退後の政治的混乱の中でオスマン帝国の軍人であったムハンマド・アリーが1805年にエジプトの支配権を掌握し、事実上の独立勢力を作り上げた。

ムハンマド・アリーはオスマン帝国との数度の戦争によってその領土を蚕食し新たな帝国の形成を目指したが、これを国益上の障害と見たイギリスの軍事介入によって1840年にエジプト以外の全征服地を喪失し、代わりにエジプト総督位の世襲権を得た(ムハンマド・アリー朝)。多くの非西欧諸国で試みられたように、ムハンマド・アリー朝下でエジプトの近代化・西欧化が目指され、内政の改革やスエズ運河の建設などの開発政策が実施されたが、スエズ運河開発に伴う対外債務の負荷や、アフマド・オラービーによる「外来の王朝」に対する革命などの対応に追われる中で、名目的にはオスマン帝国の宗主権の下にありながら実質的にイギリスの植民地と化していった。1914年に第一次世界大戦が勃発するとエジプトは公式にイギリスの保護領とされ、オスマン帝国の宗主権から脱した。

イギリスはエジプトを完全に支配下に置いたものとみなしたが、第一次世界大戦後には激しい民族運動が沸き起こり、エジプト独立の父とも言われるサアド・ザグルールらが独立運動を主導した。結局イギリスはムハンマド・アリー朝の継続のもと、1922年にエジプト王国の独立を承認したが、エジプトへの駐兵を継続し、政治上の様々な留保をつけるなど、エジプトの独立は制限付きのものとなった。エジプトは辛抱強く主権の回復に向けて努力を続け、1936年にはスエズ運河地帯以外からのイギリス軍の撤兵にこぎつけ、1937年に国際連盟に加盟した。また、同年には猶予期間を置いての治外法権の撤廃も勝ち取った。

現代のエジプト、カイロ市街。

第二次世界大戦を契機にパレスチナユダヤ人国家イスラエルが成立すると、エジプトはこれを認めず周辺のアラブ諸国と共に第一次中東戦争でパレスチナに侵攻したが敗れた。敗戦によってムハンマド・アリー朝は権威を失い、1952年には軍のクーデター(エジプト革命)によって王が追放され、翌年に公式に王制の終了が宣言された。共和制への移行後、ナーセルが大統領として主導権を握り、1956年には武力危機の末にスエズ運河の国有化(スエズ動乱)を実現した。アラブ民族主義の台頭の下、ナーセルが中核となって1958年にシリアイエメンと合邦してアラブ連合共和国が成立した。しかしこの連合は上手く行かず、3年で解体した。1967年には第三次中東戦争でのイスラエルに対する敗北によってナーセルの権威は失墜し、1970年にはナーセルが死去した。

ナーセルの跡を継いだサーダートは1979年にイスラエルとの和平(キャンプ・デーヴィッド合意)を実現したが、アラブ諸国との関係悪化を招き、さらに対イスラエル強硬派によって暗殺された。次いで成立したムバーラク政権はエジプトの国際関係を再編し、アラブ諸国における主導権の回復を目指した。特に1990年のイラクによるクウェート侵攻を契機に始まった湾岸戦争ではアメリカ側に立って多国籍軍に参加し、国際的地位を大きく上昇させた。また、アメリカや湾岸諸国から莫大な経済援助を引き出し、これを梃子に経済開発に力を入れ、大きな成果を上げた。

しかし、2010年にチュニジアで始まった民衆運動は、ソーシャル・メディアなどを通じて瞬く間にアラブ諸国に波及し、エジプトでも大規模な反政府の抗議運動が発生した(アラブの春)。ムバーラク大統領は地位を追われ、その後ソーシャル・メディアなどを駆使して結成された複数の「青年勢力」、そしてムスリム同胞団や「イスラーム集団」、ジハード団などのイスラーム勢力が政治アクターとして存在感を増し、伝統的に大きな権力を持つ軍部なども交えて、新たな体制が模索されている。

有史以前[編集]

現在、エジプトと呼ばれる地域は第三紀末頃に地質運動の中で形成され、550万年前頃に原始ナイル川が形成された[1]。このナイル川流域での人類の足跡が初めて確認されるのは50万年前頃と言われる[1]。当時ナイル川流域を含む北アフリカのサハラ地方には広大なステップ地帯が広がっており、非常に温暖な気候であった[1]

旧石器時代[編集]

20世紀初頭にエジプトで発見された旧石器時代の石刃。トゥールーズ博物館英語版蔵。

前50000年から前30000年頃には、後期旧石器時代現生人類がナイル河畔や周辺の湖沼沿い、オアシスを移動しながら大型獣を追い、原始的な狩猟採集生活を送っていたと見られる[1][2]。後期旧石器時代は石刃技法による石器製作技術の導入によって特徴付けられる[3]。1万年単位のスパンにおいてはナイル川流域・北アフリカの気候は大きく変動しており、後期旧石器時代には現在と同じように乾燥していて広大な砂漠が広がっていた[3]。このため、後期旧石器時代の遺跡はナイル川沿いの土地に集中している[3]。2003年現在、最も古い後期旧石器時代の遺跡は、紀元前31000年頃のものと見られるエジプト中部のナイル川西岸のナズレット・カタル遺跡英語版である[2]

前19000年頃に入ると、上エジプト南部からスーダン北部にかけての地域に様々な石器文化が集中的に出現した[2]。これらの文化にはクッバニーヤ文化英語版(春ファン文化)、セビル文化英語版カダン文化英語版などと呼ばれるものがある[2]。人々はナマズに代表されるナイル川の豊富な漁業資源や水鳥、貝類や植物に支えられてかなり安定した生活を営んでいた[4]。この後期旧石器時代のエジプトではアフリカ独自の穀物栽培が行われていたという説もあったが、研究の結果現在ではこれは否定されている[4]

前12000年頃、アフリカ北東部は「第4湿潤期」と呼ばれる時期に入った。これは赤道アフリカのモンスーンを伴う降雨帯が南下し、スーダン北部からエジプト南部に至る地域に年間200mm程度の降雨がもたらされるようになった時期である[5]。第4湿潤期のエジプトも決して雨量豊富というわけではなかったが、砂漠地帯の景観は一変し、タマリスクアカシアナツメヤシが繁茂し、ウサギガゼルオリックスなどが生息するようになった[5][6]

この時代は考古学的には「終末期旧石器時代(Terminal Palaeolithic)」または「続旧石器時代(Epipalaeolithic)」に分類される時代にあたる[5]。緑化が進んだことで人々の生活圏はナイル川の両岸地帯から離れた地域にまで広がり、西方の元砂漠地帯に居住の痕跡が残されるようになった[5]。こうした居住の痕跡はエジプト南部のナブタ・プラヤ英語版遺跡やエジプト北部のシワ・オアシスファイユームなどに代表される[5]。人々の居住はとりわけ、夏季の降水が水たまりを作る低地や湧き水のあるオアシス近辺に集中していた[7]。ナブタ・プラヤ遺跡とその周辺からは小型の石刃尖角器を含む石器骨角器ダチョウの卵で作られたビーズなどが見つかっている[6]。ナイル川流域においては、ナイル川中流域(現:スーダン中部)に特に多数の居住痕跡が確認されており、「カルトゥーム中石器Khartoum Mesolithic)」と呼ばれる文化が広がっていた[8]。現:エジプト地域では南部のナイル川第2急湍付近にアルキン文化Arkinian)とシャマルク文化Shamarkian)が広がっていた。これらナイル川沿いの遺跡では魚類貝類など、ナイル川の水産資源に著しく依存した生活が営まれていたことが発見された遺物からわかっている[7]

水量の増したナイル川の水産資源は、未だ農耕を知らない終末期旧石器時代の生活文化においてもある程度の定住的生活を可能とした[7]。この頃にエジプトでは磨製石器土器の使用が開始されたと見られる[9]。2003年時点において確認されている世界最古の土器は日本縄文土器などを含む東アジアのそれであるが、エジプトにおける土器の使用はそれに次ぐ世界で最も早期のものであり、終末期旧石器時代の早い段階から確認されている[10]。ただし土器の使用は局地的であり、また発見例は断片ばかりで用途ははっきりしない[10]。終末期旧石器時代の後半にはアフリカ北東部全域に土器の使用が広まったが、それでもなお土器が全く出土しないこの時期の遺跡が多数ある[11]。また、前8千年紀には西アジアムギ類の栽培が、さらに前7千年紀にはヤギの家畜化が始まったと見られているが[12]、エジプトでもこれと同時期かやや遅れて農耕と牧畜が始まった可能性がある[13]。エジプトの農耕と牧畜が西アジアから導入されたのか、独自に開始されたものなのかは多くの学者たちの関心の的であるが、はっきりとはしていない。ただし、特にウシの家畜化についてはエジプト(スーダン)地域で始まった可能性が高いと見られている[13]。確認可能なエジプト最古の穀物栽培の痕跡は前5000年頃に年代づけられるファイユーム出土のエンマーコムギである[12]。これは既に新石器時代の遺跡であるが、より古い時代にナブタ・プラヤ遺跡で栽培が行われた可能性も議論されている[14]。また、アフリカ原生の穀物であるソルガムミレットが栽培されていた可能性もある[15]

こうした磨製石器の使用、土器の導入、農耕・牧畜の開始は新石器時代を定義づける要素とされており、それらの導入が新石器時代の開始とみなされているが、全てが同時に、同じ場所で導入されていたわけではなく、新石器時代と旧石器時代の境界は明確ではない。考古学者高宮いづみは概説書において、説明上前6千年紀以降を新石器時代と位置付けている[9][注釈 1]

新石器時代[編集]

古代エジプト時代の都市と可住地の地図。

アフリカ大陸北東部の湿潤期は終了へと向かい、前6000年-前5000年頃から次第に乾燥化が進んだ[16]。次第に進む砂漠化によって、人々はナイル川流域へと集まっていった[16]古代エジプト文明に繋がっていく様々な文化がこの人口が集中したナイル川流域において育まれた[16]。既に述べたファイユーム地方におけるエンマーコムギの栽培痕跡の登場を始め、この頃にナイル川流域における初の農耕牧畜文化が登場する[16]。旧石器時代から新石器時代への文化の変遷を連続的に確認することができるのはナブタ・プラヤ遺跡のみであり、ナイル川に登場した農耕・牧畜文化とそれ以前のエジプトの文化の関係性については確実なことはわからない[17]

前5千年紀頃の主要なエジプト・スーダンの文化圏
現代の学者による名称 発見地域 推定年代 備考
ファイユーム文化Fayumian) ファイユーム地方 前5230年-前4230年頃[18] 発見当初はファイユームA文化(Faiyum A culture)と呼ばれた。
農耕・牧畜が導入されたナイル川下流域最古の文化。
メリムデ文化英語版 下エジプト 前5000年頃[19]、または前4750年-前4250年頃?[20] ワルダーン村のメリムデ・ベニ・サラーム遺跡を標準遺跡とする。
これはエジプト・ナイル川流域最古の定住農耕村落遺跡である。
オマリ文化Omari culture 下エジプト 前4600年-前4400年頃[21] メリムデ文化の最終期と同時期。相互の関係は不明瞭。
バダリ文化Badarian culture 上エジプト 前4500年-前4000年頃[22] 上エジプト最古の農耕・牧畜文化。
カルトゥーム新石器文化Khartoum Neolithic スーダン 前4500年、または前4000年頃?[23] 牧畜が大きく発展していた。農耕については不明瞭である[24]

前5千年紀に入ると、上下エジプト、更にスーダンで土器の使用や農耕・牧畜の確実な証拠を伴った文化(新石器時代の文化)が続々と登場する。最も早期と見られるのは上下エジプト結節点そばのファイユーム地方に登場したファイユーム文化Faiyumian)であり、前5230年-前4230年頃にかけて存続した[18][注釈 2]。この文化はナイル川流域における農耕・牧畜の導入の確実な痕跡を残す最古の文化である[26]下エジプトナイルデルタ)においては前5000年頃[19]、または前4750年頃[20]メリムデ文化が登場した。この地域ではナイル川流域最古の定住農耕村落遺跡が発見されている[27]。ファイユーム文化とメリムデ文化の終末期に平行する前5千年紀末にはオマリ文化Omari Culture)が登場している[21]

上エジプトでは終末期旧石器時代に上エジプトで初の土器を伴う文化であるターリフ文化Tafirian、前5200年頃)が登場しており[28]、新石器時代に入り前5千年紀終わり頃にはバダリ文化Badarian culture)で最古の農耕・牧畜の痕跡が確認される[22]。この文化の遺構では多数の副葬品を伴う集団墓地が営まれた。これはエジプトにおける副葬品を伴う墓地の最古の例であり、後の王朝時代の葬送習慣との関係においても重要である[29]

他に、終末期旧石器時代に栄えたナブタ・プラヤ遺跡を始め、ファラフラ・オアシスカルーガ・オアシスなど西部のオアシス地帯でも前6千年紀から前5千年紀にかけて新石器時代の遺跡が発見されており、またヌビア南部(現:スーダン中央部)ではかつてのカルトゥーム中石器文化から発達したカルトゥーム新石器Khartoum Neolithic)文化が普及した[24]。ヌビア北部では前6千年紀にカルトゥーム・ヴァリアントKhartoum Variant)文化、前5千年紀にポスト・シャマルク文化Post-Shamarkian)、前5千年紀から前4千年紀にかけてアブカン文化Abukan)が登場する[24]。これらの文化においては土器の使用とウシを中心とした牧畜が生活の中枢となっていたことが確認されているが、ムギ類の栽培は確認されておらず、その他の農耕の痕跡もはっきりしたものは見つかっていない[24]。総じて、ナイル川上流域では牧畜に比べて農耕の導入は遅かったことが知られ、生活様式が異なっていたと考えられる[30]

前4千年紀に入ると、下エジプトではマーディ・ブト文化(Maadi culture)、上エジプトではナカダ文化、そしてヌビアではヌビアAグループ文化が発達した[31][32]。これらの文化はメソポタミアなど周辺地域との密接な関係の中で発達し、またこの頃から製品が登場することから、初期青銅器時代に分類される[33][32]

古代エジプト文明[編集]

前4千年紀末から、ローマによる征服まで続いたエジプトの独立王朝、あるいはキリスト教の浸透まで続いた古代エジプト人の「宗教」体系、そして言語などを含む生活文化などは、古代エジプト文明と呼ばれている。古代エジプト史は概ね第1王朝から第31王朝、またはプトレマイオス朝まで至る30余りの王朝に分類されており、これらの王朝は大きく、初期王朝時代(前4千年紀末-前3千年紀前半)、古王国(前3千年紀半ば-前3千年紀末)、第1中間期(前3千年紀末)、中王国(前21世紀頃-前18世紀頃)、第2中間期(前18世紀頃-前16世紀頃)、新王国(前16世紀頃-前1070年頃)、第3中間期および末期王朝時代(前332年頃まで)という時代に区分されている。これらの区分のそれぞれに属する王朝、その期間などについては学者間の見解相違が大きいものの、枠組みとしては通常は上記の分類に沿った説明が行われる[注釈 3]。ただし、これはあくまで現代のエジプト学における区分であり、古代エジプトの人々自身がこのような時代区分法を用いていたわけではない。

統一王朝以前[編集]

ナカダ1期から第1王朝時代までの遺物。ボローニャ考古学市民博物館英語版イタリア)収蔵。

前4千年紀において最も重要な文化は上エジプトで登場したナカダ文化である。ナカダ文化は北はアビュドス、南はヒエラコンポリスまでの地域から登場し、その後エジプト全域に普及していく。ナカダ文化はかつてイギリス人の学者フリンダーズ・ピートリーによって、土器の形式によって古い順にアムラー期ゲルゼ期セマイナー期の3期に分類され、これがエジプト先王朝時代の編年の基準となった[41]。これは現在ではアムラー期はナカダ1期、ゲルゼ期は2期、とされ、セマイナー期は存在が否定されている[41]。ナカダ文化期には農耕・牧畜の重要性が増し、それを中心にした社会が形成され、多種多様な器形の土器が生産されていた[42]。特に現在発見されているナカダ文化の土器は、上流階級の墓地に収める副葬品として生産されたものが中心であるためか、単なる日用品であった後代の王朝時代の土器類よりも品質が良いことを特徴とする[43]パレットと呼ばれるアイシャドーを磨り潰すための石製品もこの時代に登場している[43]

下エジプトでは恐らくファイユーム文化やメリムデ文化など、より古い時代の文化から発展したマーディ・ブト文化と呼ばれる文化が成長していた[44][45]。この文化の痕跡はナイル川流域を離れたシナイ半島からも発見されている[45]。エジプトから銅製品が発見されるようになることから、この頃からシナイ半島や東方砂漠地帯からの銅の採集が行われていたと見られている[45]。このシナイ半島からの銅の調達は後の王朝時代において王家主導で行われる大規模事業へと発達する[45]

相互に関係を持ちつつもそれぞれ独自の発達を続けていた上エジプトと下エジプトの文化であったが、ナカダ2期の間までに、下エジプトのマーディ・ブト文化は急速に独自性を失い、エジプト全域にナカダ文化の系譜を引く共通の文化が分布するようになっていった[46][47]。このためにナカダ2期の終わりには、エジプトが「文化的に統一」(高宮いづみ)されたと言われるような状況が生じた[47]。この文化的な統一が政治上の統一を示すものと見ることができるかどうかはわからないが、これらの状況証拠から、上下エジプトでそれぞれに発達していた文化圏は前4千年紀の間に、上エジプトの人々の主導で統一されていったと考えられている[48]

ナカダ2期に続くナカダ3期英語版(前3300年-前3100年頃)に入ると、上エジプトの墓地でははっきりと階層分化の傾向を見ることができ[49][50]、西アジアとの接触や交易路の確立[51][52]、さらに文字の使用の開始が開始されるなど[49]、短期間のうちにエジプトの社会・政治・文化に大きな変化があった[49]。ナカダ3期の後半にはエジプト第1王朝に先行する数名の王(例えばサソリ王[53])の存在が知られているため、この時期をエジプト原王朝時代、またはエジプト第0王朝と呼ぶ場合もある[49][38]

ヌビアではヌビアAグループ文化と呼ばれる文化集団が栄えていた[54]。この文化はエジプトのナカダ文化と密接な関わりを持ち、それと匹敵する文化水準を保持していた[54]。この文化ではエジプトの王権概念と通底するモチーフ(例えばホルス神や上エジプトの王冠である白冠、ヘジェト)が用いられていたことから、エジプト文明以前の「ヌビアの失われたファラオ」の存在を巡って議論が行われた[55]。これは現在では学術的には否定的見解が強いが、人種問題やヨーロッパ文明のアイデンティティを巡る議論に影響を与えている[56]

初期王朝時代[編集]

ナルメル王のパレット。前4千年紀末

前4千年紀末頃からエジプトではおぼろげながら文字史料によって歴史を復元できるようになる。後世のエジプトの伝説では、初めて上下エジプトを統合し、エジプトに統一王朝を築いた王はメネス(メニ)である[57]。一方で考古学的見地から統一王朝の最古の王である可能性が高いと見られるのはナルメル王である[58][59]。ナルメルが興したとされる王朝をエジプト第1王朝とし、以降の時代は第31までの番号で分類される歴代の王朝の歴史として整理されている。ただし、実際にエジプトの「最初の王」が誰であったのかについては今なお定説があるわけではない[60]。伝説のメネス王を第1王朝の王のいずれかの王と同定しようとする試みが続けられており[61][60]、あるいはメネスは初期王朝時代の複数の王の記憶の習合によって誕生したものであるかもしれない[62]

初期王朝時代の間に(後世の伝説によれば第1王朝)の時代に、上エジプトと下エジプトの結節点にあたる土地にイネブ・ヘジ(白い壁)と呼ばれる都市が建設された。この都市は後にはメンフィスと呼ばれ、古代エジプト時代を通じてエジプトの中心的都市の1つとなった[63]。この都市に建設されたプタハ大神殿の名称、フゥト・カ・プタハ(プタハ神のの家)は、後にギリシア語でアイギュプトス(Aigyuptos)と訛り、今日のエジプトEgypt)の語源となったとする説もある[64][65]。また、エジプトの王たちは王権の確立に力を注ぎ、公式に用いる王名としてホルス名を用いる習慣が確立され(初期王朝時代の一時はセト名が用いられた)[66]、古代エジプト時代の地方行政区分であるノモス(セパト)の萌芽ともいえるシステムが整備されたと見られるなど[67][68][注釈 4]、後の古代エジプト世界の基本的要素が形成された。

エジプト古王国[編集]

ジェセル王のピラミッド。階段状の外観を持つ階段ピラミッドである。前27世紀頃

一般的に第3王朝以降が古王国とされている[34][35][36][37][69]。古王国の終わりは学者によって見解が異なるが第6王朝までとするのが一般的である[34][69][70]。ただし、王朝組織の連続性を考慮して第8王朝までを古王国とする分類を用いる学者もいる[37][35]。その年代は概ね前3千年紀半ばから後半にかけて、具体的には前27世紀から前22世紀頃までとされる[注釈 5]

古王国時代を特徴付けるのは、体系的な国家機構の整備と、それによって可能となった巨大建造物、即ちピラミッドの建設である。初期王朝時代の原始的な組織を整備・拡張し、大規模建築を行う労働力を管理することができるような官僚組織が姿を現し始める[74][75]

クフ王のピラミッド。ピラミッドの中で最大の規模である。前26世紀頃。

国家機能の整備とともに、ピラミッドの建設が大々的に行われた。ピラミッドはマスタバ墓と呼ばれる大型の方形墳墓から発展したもので、初めてピラミッドを建造したのは第3王朝ジェセル王であった(ジェセル王のピラミッドサッカラ[76]。この建造を指揮したのは古代エジプトにおける伝説的な宰相であるイムヘテプ(イムホテプ)であると伝えられており、ジェセル王のピラミッドは階段状の外観を持つ階段ピラミッドとして完成した[76]第4王朝時代にはいると、ピラミッドの外観は階段状のものから方錐形の真正ピラミッドへと移行した[77][78]。これはスネフェル王(第4王朝初代)の屈折ピラミッドをその端緒とする[79]。真正ピラミッドはその後技術革新と大型化が続けられて行き[79]、その建造の最盛期に建設された第4王朝のクフカフラーメンカウラーの3王のピラミッドは現在もなおその威容を留めており、古代エジプトを象徴する建造物となっている。

ピラミッド建設はこの3王、特にクフ王のそれを頂点として建造物としての構造が粗雑化し、規模が縮小されるとともに定型化されていった[80]。それと同時に第5王朝時代には太陽神殿英語版の建設が始まる。太陽神殿はピラミッドとよく似た付属建造物群(ピラミッド・コンプレックス)を持ち、基壇の上に巨大なオベリスクを据えたものであった[81][82]

第5、第6王朝時代に入ると、官僚組織がますます拡張整備されたが、組織拡張によって増大した官吏への報酬の確保が困難になり始め、元来葬祭儀礼等に関わるピラミッド複合体の管理職や領地が給与・恩賞として与えられるようになっていった[83]。これは当初は有効に機能した政策であったが、長期的には有力な官吏が王権に対抗可能なほど強大化していく効果ももたらし、また最終的にはやはり財源の不足の問題にも直面せざるを得なかった[83][84][85]。そして地方のノモス(州)に土着化していた長官(州侯)たちの勢力と独自性も増大して行き、有力官吏や州侯たちの墓の中には王墓に匹敵する規模のものが登場するようになった[85][86][87]。これに、古王国末期の気候の寒冷化(4.2kイベント[注釈 6])およびナイル川の水位低下と、それに伴う農業生産の低下が加わり、古王国の安定と統一は失われた。前22世紀初頭には地方の州侯たちが独自に王を称してエジプトは分裂した[87][85]

エジプト中王国[編集]

デイル・エル=バハリ英語版に建設されたメンチュヘテプ2世王墓。前21世紀末。

メンフィスの王朝(第7第8王朝)が実権を喪失する一方、前22世紀の後半にはヘラクレオポリス英語版(ヘウト・ネンネス)で成立した王朝(第9第10王朝)が下エジプトを、テーベ(ワセト)で成立した王朝(第11王朝)が上エジプトを支配し、南北にわかれて1世紀余りの間エジプトの支配を争った[90][注釈 7]。この分裂は第11王朝の王、メンチュヘテプ2世が治世21年(前2040頃)にヘラクレオポリスを陥落させたことで終わった。以降のエジプトの統一王朝は一般に中王国と呼ばれる[90][92][93]

第11王朝に続く第12王朝の王たちはエジプトの統一後間もなく、ファイユームに近いイチ・タウィへと宮殿を遷したが[94][95]テーベ(ワセト)の政権である第11王朝によってエジプトが再統一されたことによって、この都市の重要性が飛躍的に高まった。このことは神々の序列にも表れ、元来上エジプトで地方的な信仰を得ていた神であるアメン(アムン、アモン、アンモンとも)の地位が飛躍的に高まった[96]。中王国時代のうちにアメンは「神々の王」として描かれるようになり、後の時代にはギリシア人マケドニア人たちはこの神をゼウスと同一視している[96]。太陽神ラーとも習合したアメン・ラー神としても崇拝され、テーベに本拠地を置くその神殿は、長期にわたりエジプトで重要な政治的勢力として存在感を示した[96]

中王国の時代には文語(標準語)としてのエジプト語が完成し(中エジプト語)、言葉の微妙な機微、ニュアンスの表現が可能となったことや、第1中間期の社会的な混乱に伴って大きく変容・発達したオシリス崇拝をはじめとする宗教的観念の変化、そして思想上の「革命」を通じて古代エジプトにおける「古典文学」と言うべき作品が数多く作られた[97][98]。思想上の「革命」とは、第1中間期の分裂と混乱によってそれまで存在していた秩序と王権が崩壊していったことに付随して発生した社会的・道徳的混乱が伝統的支配階層に衝撃を与え、それに対する反応としての現れた厭世観や享楽主義、神と正義に対する観念の変化、新たな価値観の模索が行われたことを言う[99][100][101]。また、そのような状況を通じて人々の間で死生観に関わる新たな信仰が隆盛した。エジプトでは古王国時代より既に死後の復活の観念が存在したが、それを保証していたのは王であり、そのための様々な儀式や葬礼も王と王族、およびその周囲の高官や神官たちのものであった[102][103]。しかし、統一的な王権の消失とともに、民衆の間にも「人は誰でも死んでオシリス神となり、来世で再生・復活することができる」とする冥界の神オシリス神への信仰が急速に普及した[102][104][103]。この過程は葬祭の「民主化」とも呼ばれ、中王国時代以降にはオシリス神への信仰はエジプトの「宗教」において最も重要な部分の1つを構成していく[102][105]

ベニ・ハサンの壁画に描かれたアジア人とエジプト人。アジア人が薄い肌色、エジプト人が褐色の肌色で描き分けられている。

中王国ではまた、行政組織・官僚機構が整備されて中央集権的体制を構築し、ファイユームでの干拓事業や活発な軍事遠征が行われた[106]。この中王国の官僚制は強力であり、第13王朝時代に入り明らかに同一の家系に属していない王たちによる短命な王が続くようになっても、実質的な統括者である宰相の下で安定的な政治が行われた[107]。エジプト中王国の勢力は南パレスチナレヴァント地方にまで及び、交易活動や人的交流も活発化した[108]。このためエジプト(特に下エジプト)にも外部の人々、特にアジア人[注釈 8]が流入し、定着した[109][110]。エジプトに移住したアジア人たちは自分達の風習や宗教的習慣をエジプトに持ち込む一方で中王国で地歩を築き[111][112]、やがて中王国の衰退に伴って下エジプトで彼らによる王朝が樹立されるに至る[113]。この下エジプトに勢力を持ったアジア系の政権はヒクソスと呼ばれている[注釈 9][113]。ヒクソスが下エジプトで権力を確立したことで再びエジプトは南北に分裂し、エジプト第2中間期と呼ばれる時代に入る。エジプト中王国の衰退とヒクソスの王朝(第15王朝)の成立の具体的な経過は詳らかでない。

エジプト新王国[編集]

イアフメス1世ミイラ大英博物館蔵。前16世紀初頭、エジプトを再統一した。

古代エジプトの伝統的な「歴史」認識においてヒクソスは外部からの侵略者として語られ、エジプトを征服して支配したと描写されるが[114]、実際には彼らは上に述べた通り、長期に渡りエジプトに定着し順応したアジア系の人々から出たと見られる[113][111]。ヒクソスが下エジプトからパレスチナにいたる地域で勢力を確立(第15王朝)する一方、中王国の伝統を引く王朝はテーベを中心として存続した(第16[注釈 10]第17王朝)

テーベ政権はヒクソスを外部からの侵略者として糾弾し、その支配からエジプトを「解放」することを追求した[117][118]。前16世紀半ば、イアフメス1世(アハメス1世)の時、テーベ政権(第17王朝)はヒクソスを打倒することに成功し、エジプトは再び統一された[119][注釈 11]。これ以降を新王国と呼び、またイアフメス1世以降は第17王朝と同一の家系であるが第18王朝とされる[120]

新王国時代のエジプトは南はヌビア全域から北はレヴァント地方のほとんどの地域にいたるまで勢力を拡張し、帝国的な発展を示した[121]。古代エジプトの代表的な王として名高い人物の多くが新王国時代の王である。それらの中には女王としては古代エジプトで初めて実質的な権力を持ったハトシェプスト[122]、数多くのアジア遠征を行い「古代エジプトのナポレオン」とも評されたトトメス3世[123]、古代エジプト国家の最盛期を統治したアメンヘテプ3世[124]、アメン神を退けアテン神崇拝の導入という「宗教改革」を追求したアクエンアテン(アメンヘテプ4世)[125]、黄金のマスクで名高いツタンカーメン(トゥトゥアンクアメン)[126]、60年以上にわたって在位し最も多くの建造物に名前を残しているラムセス2世(ラメセス・ラーモセとも)[127]などが含まれる。

新王国時代のエジプトの勢力範囲。

アジア(シリア)への勢力拡張に伴って他のアジアの大国、特にミッタニ(ミタンニ)と争い[128][129]、後にはヒッタイトがシリアを巡るエジプトのライバルとなった[130][131]。一方でバビロニアアッシリアまでも含む西アジアの各国との間で婚姻や貿易など様々な関係が結ばれ、それを通じて西アジアに流入したエジプトのは西アジアの社会・経済に大きな影響を与えた[132]。南方ではヌビア全域がエジプトの支配下に置かれ、アメン信仰やエジプト風の称号の使用などの習慣がヌビアの地に根付いた[133]

また数多くの大規模建造物が構築された。やはり古代エジプトを代表するものの多くが新王国時代に属する。特に有名な物には、ハトシェプストがデイル・エル=バハリ英語版に建設したハトシェプスト女王葬祭殿[134][135]メムノンの巨像として知られるアメンヘテプ3世の座像[136]、アクエンアテンがアテン神のための新たな都として建設したアケトアテンアマルナ、この地から当時の外交文書が大量に発見され、これによって前15世紀の国際関係が復元されている。)[137]、ほとんど未盗掘のまま現代に残されたツタンカーメン王墓、ラムセス2世がヌビアに建設したアブシンベル神殿[138]などがある。また歴代王の王墓が造営された王家の谷もまた新王国時代から整備されたものである[139]。現在、これらの多くがまとめてUNESCO世界遺産に登録されている。

西アジア・ギリシアを含む東地中海の各地では、前1200年頃に数多くの国や都市が相次いで滅亡し、大きな社会的変動が発生した(前1200年のカタストロフ[140][141]。この余波はエジプトにもおよび、同じ頃に「海の民」と呼ばれる人々がエジプトに侵入したことが記録に残されている[142]。しかし、ギリシアのミケーネ文明やアナトリアのヒッタイトが滅亡したのに対し、エジプトの新王国はこの変動を生き延びた[143]。エジプトは撃退した「海の民」の一部を傭兵として自国領内に定住させた。この中でシリアのベドウィンに対する備えとして南部シリアに植民したのがエーゲ海域・ミケーネ文明の人々に起源を持つと目される[144][145]ペリシテ人(ペルシェト)であった[143]。やがてこの地域はペリシテ人の名にちなんでパレスチナと呼ばれるようになる[注釈 12]。このペリシテ人は『旧約聖書』にて古代イスラエル人とパレスチナの支配をめぐって争った人々として言及されていることで良く知られている。

しかし、第20王朝の王ラムセス3世(在位:前1182年頃-前1151年頃[146])の時代を最後に、エジプトの王権は急速に衰え、新王国の統一権力は急速に弱体化していった[147]。前11世紀初頭には新王国時代の間に各種の寄進行為などを通じて勢力を拡大したテーベのアメン大神殿の大司祭が上エジプトで事実上の独立勢力と化し(アメン大司祭国家[34]、アメンの神権国家[91][35]とも)、また下エジプトでもリビュア人をはじめとした外国からの流入者が実権を握りはじめて行く[148][149][150][151]

末期王朝時代[編集]

新王国の統一的な支配が崩れた後、エジプトでは南部(上エジプト)でアメン神殿が支配的な地位を維持する一方、北部(下エジプト)ではタニス第21王朝)、ブバスティス第22王朝)などの王朝が、アメン神殿と協調し、あるいは対立しつつ支配を維持した[152][149]。この中で存在感を増していたのが新王国時代末以来西方(リビュア、リビア)から移入していたリビュア人である[152]。エジプトに移入したリビュア人の首長家系に生まれ、第21王朝の王家とも縁戚関係を持っていたシェションク1世は前946/945年に王位につき第22王朝を建設した[153][154]。以降のエジプトは外国からの移入者たちや、外部から侵入した帝国による王朝に支配された。第22王朝はアメン神殿を抑え、パレスチナ地方へもイスラエル王国ユダ王国の内紛に乗じて積極的な遠征が行われている[154]第23王朝を始めとした複数の王家が割拠し、権力の分散が進んだ[155]。前9世紀にはエジプトが分裂する一方で東方ではアッシリアがオリエント世界最大の勢力として台頭するようになり、南方ではエジプトの文化を受け入れたヌビアがエジプトに手を伸ばした[156]

アッシリア王エサルハドンが建てた勝利の碑文英語版に描かれた捕らわれたエジプト(ヌビア)の王子。ペルガモン博物館蔵。

ヌビアでは新王国が撤収した後、ナパタを中心に強力な王国が編成されていた。これはクシュ王国、あるいはヌビア王国と呼ばれ、その歴史を前期と後期に分けて前期をナパタ王国(前900年頃-前300年頃)、後期をメロエ王国(前300年頃-後350年頃)ともいう[157][158]。ヌビア人たちは分裂したエジプトの諸王国を短期間のうちに平定し、前732年頃にはその支配者ピアンキ(ピイ)が上下エジプトの王として即位した(第25王朝[159]。ヌビア人たちはエジプトの伝統的な規範を踏襲し、古い王家も「知事」としてその実権を奪うことはなかったが、この残存した現地勢力は後の離反の種となった[160]。前671年、ヌビアに続いてアッシリアがエジプトに侵入した[161]。アッシリア王エサルハドンメンフィスまで進軍してヌビア軍を追い払い引き上げた。前667年には次の王アッシュールバニパルが再びエジプトを席捲し、前663年までにテーベを陥落させてヌビア人の勢力を完全にエジプトから駆逐した[162]。アッシリアはサイスの王家にエジプトを支配させたが、間もなくアッシリア自体が王位継承争いによって弱体化した[163]。アッシリアの傀儡であったサイスの王家はアッシリアの弱体化を敏感に察知し、前7世紀半ば頃にアッシリア軍をエジプトから追い払い独立した王朝を成立させた(第26王朝[164][165]

アッシリアは前609年には新バビロニアメディアの離反によって滅亡した[163]。エジプトはアッシリア亡き後のオリエント世界において新バビロニア、メディア、リュディアと並ぶ強国として君臨した。この時代に、主に傭兵として、また商人として、多数のギリシア人がエジプトに定着した[166]。こうして定住したギリシア人を通じて当時の様子を見聞したヘロドトスによる記録が今日に残されている[166]。ギリシア人との関係をはじめとして、第26王朝時代は従来以上にエジプトが地中海世界との結びつきを強めていった時代であり、この時代からを末期王朝時代とする場合が多い[167]

新バビロニアやメディアなどのオリエントの諸大国は、前6世紀後半の間にイラン高原に新たに興ったハカーマニシュ朝(アケメネス朝)によって全て征服された。この王朝はペルシア帝国ともいわれ、エジプトもまた前525年にはその王カンブージャ2世(カンビュセス2世)によって征服された[168][169][170][171]。この最初のペルシアによる支配を第27王朝(第1次ペルシア支配時代)と呼び、ハカーマニシュ朝が定めた度量衡や公用語としてのアラム語の導入が行われたが、原則的はその王たちは伝統的なエジプトの支配体系を尊重した[172]。その後ハカーマニシュ朝で内紛が発生するとエジプトではサイスで反乱を起こした王たちが前404年に独立王朝を立て60年程度エジプトの自立を維持した(第28第29第30王朝)が[173]、前343年にはハカーマニシュ朝によって再征服された(第31王朝[173]

グレコ・ローマン期[編集]

プトレマイオス朝[編集]

ロゼッタ・ストーン。プトレマイオス朝時代にギリシア語ヒエログリフおよびデモティックを用いたエジプト語による複数言語併記で作られた碑文。近代におけるエジプト語解読の切っ掛けとなった。大英博物館収蔵

前4世紀半ば、ギリシア世界で急速に力をつけたマケドニア王国の王アレクサンドロス3世(大王、在位:前336年-前323年)がハカーマニシュ朝に対する遠征を開始した[174]。彼は前332年にエジプトを無血占領し[175][176]ナイルデルタ西端の地点に新都市アレクサンドリアの建設を命じた[177]。アレクサンドロス3世はその後、ハカーマニシュ朝を完全に征服した後、バビロンで歿した(前323年)[178]。以降、ギリシア人・マケドニア人たちは東地中海世界で大きな存在感を発揮し、各地にマケドニア系の王朝が建設された。この時代をヘレニズム時代と呼ぶ

アレクサンドロス3世旗下の将軍たちは王の死後、その後継者(ディアドコイ)たるを主張して相互に争い、旧アレクサンドロス帝国領内に割拠した[179][180]。この一連の戦いはディアドコイ戦争と呼ばれ、その中心的人物の一人であったラゴスの子プトレマイオス(1世)がエジプトの支配権を確立し、前305年には王を称して独立王朝を築き上げた。この王朝は一般にプトレマイオス朝と呼ばれる[181][182]

プトレマイオス朝はギリシア本土から多数のギリシア人を集めて領内に入植させるとともに、現地のエジプト人の伝統的勢力とも密接な関係を結んで、古代エジプトの歴代王朝の中でも最も長く存続した王朝となった。この王朝の時代には入植ギリシア人らを集中的に移住させたファイユーム地方の干拓事業[183]や貨幣制度[184][185]・税制の整備[186]等を通じて国力の増進が図られた。首都アレクサンドリアにはムセイオンと呼ばれる研究機関とその付属図書館(アレクサンドリア図書館)が設置され、王室の支援の下、多数の学者が集まり、この都市をギリシア文化・学問の中心とした[187]。当時のアレクサンドリアにおける学術的発展と研究成果は後のイスラーム圏を含む西洋世界の学問・哲学に大きな影響を遺しており[188]、そこで活動した学者たちの中には数学者エウクレイデス(ユークリッド)[189]や天文学者ヒッパルコス[190]などのように、今日でも良く名前を知られている人々もいる。

クレオパトラの死、19世紀の絵画。レジナルド・アーサー英語版作。

プトレマイオス朝はシリアメソポタミアイラン高原を支配するセレウコス朝や、ギリシアマケドニアを支配するアンティゴノス朝と東地中海地域や南部シリア(コイレ・シリア)の支配権を巡って戦いを繰り返し、一進一退を続けたが、最終的にはエジプトの王朝という大枠に変化はなかった。セレウコス朝との戦いは6次にわたり、シリア戦争の名で知られている。このような戦いを繰り返しつつ、プトレマイオス朝は初代プトレマイオス1世(在位:前305年-前282年)の治世からプトレマイオス3世(在位:前247/246年-前222/221年)または4世(在位:前222/221年-前204年)の頃まで、東地中海・オリエント世界における有力な勢力として権勢をふるったが、前2世紀末までには地中海で大きな勢力を持ち始めていたローマの強い影響を受けるようになった[191][注釈 13]。プトレマイオス朝の王たちはローマの政争に関与するとともに、その地位をローマからの支持に依存するようになり、実質的にその従属国となっていった[194][195][191]。プトレマイオス朝の実質的な最後の王となったクレオパトラ7世は、ローマの有力者ユリウス・カエサルに接近し、彼との間に息子(カエサリオン、プトレマイオス15世)を儲けるなど密接な関係を築いたが[196]、カエサルは前44年にマルクス・ユニウス・ブルトゥス(ブルータス)らによって暗殺された[197][198]。その後のローマの内戦ではクレオパトラ7世はマルクス・アントニウスと結びオクタウィアヌスと戦ったものの、前31年のアクティウムの海戦で敗れ[199][200][201]、翌前30年には自殺に追い込まれた[202][203][201]。これによってプトレマイオス朝は滅亡し、その後初代ローマ皇帝(アウグストゥス)となったオクタウィアヌスはエジプトを皇帝属州アエギュプトゥスとした[204]

ローマ支配下のエジプト[編集]

アウグストゥスは、独裁政の秘薀の一つとして、元老院議員や上級ローマ騎士が無許可で立ち入ることを禁止するという手段を使って、事実上、エジプトを自分のものにしておいた。「誰にせよ、この属州を占領し、陸と海との鍵を握ってしまうと、たといわずかな守備でも、莫大な軍勢に対抗できて、イタリアを飢でおびやかすことができよう」と心配したからである。
-コルネリウス・タキトゥス『年代記』第2巻§59[205]

ローマ帝国の東方諸属州はヘレニズム時代を通じてギリシア語による行政や知識活動が活発に行われていた地域であり、ローマ領に組み込まれてもギリシア文化がその基調となっていた[206]。この状況はアエギュプトゥス(以下、エジプト)でも同様であり、ローマは先行するプトレマイオス朝の行政的伝統を踏襲した[206]。無論なんの変化も無かったわけではなく、ローマ人たちは現地の富裕層を育成して徴税や治安維持を担わせ、財政的負担を軽減するために、社会的なコミュニティの再編などを行ったと見られる[206][207]

アウグストゥス(オクタウィアヌス)はエジプト征服直後、初代エジプト総督(praefectus Aegypti)を元老院議員ではなく、遠征軍に同行していた騎士身分(エクィテス)であったガイウス・コルネリウス・ガッルス英語版とした[208]。以降、エジプト総督位は属州総督の中でも特殊な位置を占めた。ローマの属州総督位の多くは元老院身分に委ねられており、一時的に騎士身分の総督が任命されるのは小規模属州に限られていたのに対し[208]、エジプト総督位はその属州の規模にもかかわらず長期にわたり騎士身分の総督が任命され続けた[209][210][注釈 14]。さらにエジプトには3個軍団、および歩兵9個大隊、騎兵3個大隊からなる補助軍とアレクサンドリア駐留艦隊が配置され、伝統的に独立志向の強かったテーベを中心とする上エジプトの反乱も属州設置後、速やかに鎮圧された[213]

ローマ帝国におけるエジプト属州(アエギュプトス)の位置。

古代ローマの歴史家コルネリウス・タキトゥス(120年頃没)によれば、アウグストゥスは特に重要な属州であったエジプトの支配権を独占するために元老院議員と上級の騎士身分(senatoribius aut equitibus Romanis inlustribus)の者が許可なくエジプトに立ち入ることを禁じていたという[210][214][205]。アウグストゥス治世下ではさらに、プトレマイオス朝末期に比べエジプトの交易活動も多いに活発化し、アレクサンドリアはローマ帝国の南方貿易の中心となった[215]。当時のエジプトでは紅海沿岸のミュオス・ホルモス港からだけでも120の船がインドへ向けて航海し、また東アフリカ地方まで進出して多くの交易品を持ち帰った[215]。エジプトはローマの属州の中でも屈指の利益をもたらし、ユダヤ人の歴史家フラウィウス・ヨセフスによればエジプト属州から得られる1か月分の歳入はユダエア属州の1年分の歳入を凌駕したと伝えられる[216]

同じヨセフスの記録によれば、ローマ市の穀物消費量の3分の1に相当する穀物がエジプトから供給されていたという[216]。ローマへの主たる穀物供給元はエジプトの他に最も重要な北アフリカ、そしてシチリアがあったが[211][217]、帝政初期に頻発した飢饉や内乱を通じてエジプトの穀物は重要な位置を占め、ローマにおけるいかなる権力闘争においてもエジプトと北アフリカを掌中に収めることができるかどうかが重要であった[218]。エジプトの穀物はまたローマ市以外の東方諸属州にとっても無くてはならないものであった[219]エフェソスやユダエアなど、多くの属州・都市が領内での食料不足に対してエジプトを頼った[220]

キリスト教化とエジプト文明の「終焉」[編集]

カルーガ・オアシスのエル=バグワト英語版に残るキリスト教徒の墓地跡。

1世紀にパレスチナで誕生したキリスト教はエジプトにも伝播し、2世紀末までには根を下ろした[221][222][223]。エジプトのキリスト教は現在ではコプト正教会と呼ばれ、伝説では使徒ペトロの伝道に同行した福音書記者マルコに起源を持ち、マルコが初代アレクサンドリア主教となったという[221]コプトという呼称はギリシア語「アイギュプトス(Aigyptos、エジプト人)」のアラビア語読みである「キィプト(qibt)」に由来し、コプト教会とは広義には「エジプト人教会」のことである[224]

エジプトでは、南部を含め広い範囲で早くから民衆の間にもキリスト教が広まった[225]。このことはローマ帝国において頻繁に行われたキリスト教に対する弾圧と迫害において、3世紀頃にはエジプトの全域から殉教者が出るようになっていることで証明される[225]ディオクレティアヌス帝(在位:在位:284年-305年)時代のいわゆる大迫害の時代にも[226]アレクサンドリア主教ペトロス1世英語版をはじめ数多くの殉教者を出した[227][228]。最終的にエジプトの住民が大半がキリスト教徒となった[229]

プトレマイオス朝時代から東地中海における文化・学問の中心であったエジプトのアレクサンドリアの教会は、初期キリスト教の知的活動において中心的役割を果たし、アンティオキアローマなどと並ぶ有力教会としてキリスト教思想と布教に重要な役割を果たす教父たちを輩出した[225][230]。それらの中には膨大な著作を残し、広い範囲で活動したオリゲネス[225]、キリスト教世界を二分する大論争を巻き起こしたアリウス派の発起人となったアリウス(アレイオス)[227]、そして反アリウス派の議論を主導するアタナシウス(アタナシオス)など、個性溢れる人物たちが並ぶ[227]コンスタンティヌス1世帝(在位:306年-337年)の時代にローマ帝国でキリスト教が公認されて以降、アリウス派と反アリウス派の論争をはじめ、キリスト教内の権力闘争では、多くの場面でエジプトの教会とアレクサンドリア主教が中核的プレイヤーとして活動した[231]

このグレコ・ローマン期は概ね古代エジプト文明の終焉の時期に位置付けられている。古代エジプト文明の「終焉」をどのように定義づけるのかは明確ではないが、多くの通史的叙述において古代エジプト時代とそれ以降の時代の区切りとして使用されている(叙述の終了となる)出来事は、アレクサンドロス3世によるエジプトの征服(王朝時代の終了)[71]、プトレマイオス朝の滅亡とローマの支配の開始[50][34]、そしてキリスト教の布教とそれに伴うエジプトの「宗教」の衰滅の3つである[91]。そして、どのような説明においても、エジプトの古代以来の信仰の消滅を超えてエジプト文明を継続しているという描写がされることはない。当然、古代エジプト時代のあらゆる要素が文明とともに終焉を迎えたわけではない。例えばコプト教会の典礼で使用されるコプト語は古代エジプト語から発展した言語であり、16世紀から17世紀頃までは日常語として用いられていたし[232]、その教会暦はエジプト暦をほぼ引き継いでおり現在でも使用されている[233]

フィラエ島のイシス神殿跡。古代のフィラエ島は水没しており、UNESCOによって移築されたものである。

しかし、エジプト文明を特徴づけるいくつもの要素がこの時代を通じて消滅していった。古代以来の独立した勢力としてのエジプトはプトレマイオス朝の滅亡とともに終了し、以降はローマ帝国の一属州となった[234]。それでも、ローマの皇帝たちの多くはなおエジプトにおいては伝統的な「ファラオ(王)」として表現され、エジプトに足を踏み入れることは滅多になかったものの、エジプトの神々に供物を捧げ、神殿の整備も行っていた[235][236]

だが、後期ローマ帝国における宗教的思想の発展やキリスト教の普及とともにラーアメンプタハオシリスといった神々は忘れ去られて行き、伝統的な神殿の勢力も消滅していった[235]。史上最後となるキリスト教徒迫害を行ったディオクレティアヌス帝は303年に退位し、313年にはキリスト教がローマ帝国で公認され、コンスタンティヌス1世がローマ帝国の唯一の支配者となって以降はただ1人の例外を除き全てのローマ皇帝がキリスト教徒であった。彼らは「異教」の神殿を封鎖し、その神々への儀式を禁じていった[237]。皇帝がもはや「ファラオ」として振る舞うことがなくなった後、エジプトの神官たちはディオクレティアヌス帝の治世が永久に続いているものと見なした[237]。ディオクレティアヌスは「ファラオ」としてその王名が記録されている最後の人物であり、現存する最後のカルトゥーシュ[注釈 15]は340年の「ディオクレティアヌスの治世57年」のものである[237]。そしてフィラエ島で発見された、2014年現在知られている限り最後のヒエログリフ(エジプト聖刻文字)の碑文には「ディオクレティアヌスの治世110年(394年8月24日)」のオシリス神誕生祭が記録されており、同じく最後のデモティック(民衆文字)の碑文は「ディオクレティアヌスの治世169年(452年)」に作成されたものである[238]。これらが作成されたフィラエ島のイシス神殿はエジプト最後の「多神教」の拠点であったが、これも遂にユスティニアヌス1世(在位:527年-565年)治世下の西暦550年に公式に閉鎖された[239]

ビザンツ帝国と教義論争[編集]

ローマ帝国は3世紀には政治的・軍事的混乱と内乱の時代(3世紀の危機)を経験し、軍人皇帝と呼ばれる皇帝たちの時代を経て[240]、4世紀には複数の皇帝によって分割統治される体制が常態化した。幾たびかの分割の後、395年に史上最後となる帝国の分割が行われた[241]。エジプトは東帝国の管轄となり、東帝国の中枢はボスポラス海峡沿岸のコンスタンティノープル市に置かれた。この東帝国(東ローマ帝国)は一般にビザンツ帝国と呼ばれる。「ローマ帝国」と「ビザンツ帝国」の境界は明確ではないが、本記事では以降、ビザンツ帝国と呼称する(ビザンツ帝国の「開始」にまつわる問題は東ローマ帝国)を参照)。

西帝国(西ローマ帝国)がフン族ゲルマン人(ゲルマニア人)諸部族の侵入と戦乱で実態を喪失していく中、ビザンツ帝国は強大な政治勢力として存続した。しかし、首都の教会であるコンスタンティノープル総主教庁の権威が増大する一方で、エジプト教会とコンスタンティノープル教会の対立は深刻化した[242][231]。アレクサンドリア主教テオフィロス英語版(在任:384年-412年)によって異端とされたエジプト人修道士たちが自分たちの正しさをコンスタンティノープルに訴え出たのを切っ掛けに、最初の本格的な対立が始まった[242]。この最初の論争はアルカディウス帝(在位383年-408年)と皇后アエリア・エウドクシア英語版を巻き込み、最終的にコンスタンティノープル主教ヨハネスの罷免と追放に至った[243]。以降、5世紀前半には権力闘争と一体化した教義論争が繰り広げられた[231]

アレクサンドリア主教キュリロスのイコン。

2度めの激しい対立は428年にコンスタンティノープル主教に就任したネストリウス(ネストリオス、在任:428年-431年)とアレクサンドリア主教キュリロス(在任:412年-444年)の間で発生し、神とキリストの「神性」と「人性」を巡って論争が行われた[243][244][注釈 16]。これは単なる神学解釈の問題にとどまらず、「ローマ帝国の首都の教会」であるコンスタンティノープル教会と、福音書記者マルコに起源をもつ伝統的教会であるアレクサンドリア教会のどちらが格上であるか、という問題と結びついていた。ネストリウスはコンスタンティノープル主教である自分に対してアレクサンドリア主教「ごとき」が教義について指図していたことに気分を害していた[246]。一方のキュリロスは、何ら使徒たちの伝説と関わらない「成り上がり」の教会であるコンスタンティノープル教会に対し、使徒たちによって設立された伝統あるアレクサンドリア教会が持つ特権を掲げて見せていた[246]。キュリロスはローマ教皇ケレスティヌス1世とも連携してネストリウスを罷免に追い込んだが、もう一つの有力教会であるアンティオキア教会がネストリウス派であったため、自らコンスタンティノープルに乗り込んで政治工作を続け、435年にはネストリウスの見解を支持する人々を異端(ネストリウス派)と宣言させることに成功した[247][248]。しかしこの結果としてアレクサンドリア教会とアンティオキア教会の間に大きな亀裂が残った[249]

そして単性説の登場によって3度目の対立が燃え上がった。これはキュリロスの影響を強く受けた修道院長エウテュケス英語版が、キリストの神性と人性は受肉によって完全に合一され、ただ一つの本性たる神性のみになったとする教義を説いたもので、それを巡って再び激しい議論と闘争が行われた[250][251]。この争いは451年のカルケドン公会議において教義の複雑な合成と妥協によって収められたが[252]、一連の議論を通じてコンスタンティノープル教会の特権が確認され、アレクサンドリア教会はローマ・コンスタンティノープルに次ぐ第3の教会に落ちる結果となったため、アレクサンドリア教会にとっては実質的な敗北となった[253][254]。以降のエジプト教会はエジプト外における影響力を大きく減じていった[254]。しかしエジプト内においてはアレクサンドリア主教がなお大きな力を維持しており、アレクサンドリア主教位を巡って親ビザンツ派(カルケドン派)と反ビザンツ派(反カルケドン派)が激しい対立を続けた[254]。結局、両派の争いは535年頃にそれぞれが別のアレクサンドリア総主教座を設置するという結末を迎え、このうち反ビザンツ派の建てた総主教座が今日も存続しているコプト正教会へと繋がっていく[254]

エジプト行政の再編[編集]

ユスティニアヌス1世(在位:527年-565年)は古代末期の混乱の中で失われた西方領土の奪回を目指し、地中海世界各地に建てられていたゲルマン人の諸王国を相次いで征服した。将軍ベリサリウス(ベリサリオス)やナルサスらの活躍によって、533年から始まった遠征でヴァンダル王国(北アフリカ)、東ゴート王国(イタリア)が征服され西ゴート王国(イベリア)の一部も征服された[255]。一方で帝国の東部国境ではメソポタミアイラン高原を支配するサーサーン朝との間で、数世紀来戦いが続いていた[256]。ユスティニアヌス帝は帝国の行政改革を進めており、エジプトでもそれが行われた。ビザンツ(ローマ)帝国の地方組織は長年にわたり細分化・複雑化、軍事と行政の分離が進んでいたが、ユスティニアヌスの改革はこれを整理し単純化と経費節減、重複する権限の解消による騒乱の解決、地方統治の強化などを志向したものであった[257]

エジプトはこのころまでに、エジプト管区dioecesis、ディオエケシス)を形成しており、下エジプトのアエギュプトス(アレクサンドリア)、第一アウグスタムニカおよび第二アウグスタムニカ英語版、上エジプトのアルカディア英語版第1テーバイスおよび第2テーバイス英語版、そして西部の第1リビュアおよび第2リビュアという8州に分かれていた[258]。そしてアレクサンドリアに駐在する管区長官(プラエフェクトゥス・アウグスタリス、Praefectus Augustalis)とエジプト軍事伯イタリア語版Comes limitis Aegypti)がそれぞれ国境軍と野戦軍を指揮する体制となっていた[258]。この体制はユスティニアヌスの改革によって改められ、従来の管区長官による統治を廃止し各州がオリエント道長官英語版と直結された[258]。さらに5人(アエギュプトス、アウグスタムニカ、アルカディア、テーバイス、リビュア)の軍事公(dux)が置かれ、8つの行政区の行政官が公に従属する形で軍権と行政権が統合された[258]。アエギュプトスを管轄する公はかつてのプラエフェクトゥス・アウグスタリスの任務を合わせ持ち、公兼アウグスタリスとしてオリエント道長官の代理人となった(ただしリビュアは分離され、アレクサンドリア駐在の公兼アウグスタリスから独立した)[258]

サーサーン朝による占領[編集]

ホスロー2世時代のサーサーン朝の領域。東地中海沿岸部の大半が一時的にサーサーン朝の支配下に入った。

大規模な征服活動によって地中海における「ローマ帝国」を復活させて見せたユスティニアヌス1世であったが、その没後には帝国政治は混乱し、またバルカン半島におけるスラヴ人の侵入やイベリア半島での西ゴート王国の巻き返し、東方におけるサーサーン朝からの圧迫、イタリアへのランゴバルド人の侵入など各方面での外敵の脅威に晒された[259]。エジプトにおける脅威となったのはサーサーン朝であった。ビザンツ帝国とサーサーン朝は恒常的に戦争を繰り返していたが、ビザンツ皇帝マウリキオス(在位:582年-602年)がフォカス(在位:602年-610年)によって暗殺されると、オリエント軍司令官magister militum per Orientumナルセス英語版が反乱を起こしてサーサーン朝を呼び込み、サーサーン朝の王、ホスロー2世(パルヴィーズ、在位:590年-628年)は機会を捉えてビザンツ帝国領に対する遠征を開始した[260][261]。一連の戦いは当初サーサーン朝の圧倒的優勢の下で進展し、呼応してバルカン半島方面に侵入したアヴァール人の脅威も手伝って、サーサーン朝の軍団は610年までにアナトリアメソポタミアコーカサスの大部分を占領した[260][262]

ビザンツ帝国では一連の危機とフォカスの失政に対して、608年にカルタゴ(北アフリカ)のエクサルコスである大ヘラクレイオス英語版の息子ヘラクレイオスが従兄弟のニケタスとともに反乱を起こし、ニケタスが陸路エジプトへ進軍した[263][264]。ニケタスの軍勢が現れるとエジプト人たちは彼を支持し、軍の司令官やアレクサンドリアの高級官僚も同調してフォカス派のアレクサンドリア主教が殺害された[263]。フォカスはエジプト奪回を試みて複数回の攻撃を行ったが失敗し、これによってエジプトからコンスタンティノープルへの食糧供給が遮断され窮地に立たされた[263]。610年にはヘラクレイオスが艦隊を率いてコンスタンティノープルを制圧し、フォカスを処刑して帝位についた[265][266]

東方国境ではサーサーン朝の進軍が続いており、611年から614年にかけて、ダマスカスアンティオキアエルサレムなどのシリア地方の大部分の都市が陥落した[267]。617年から619年[268]、あるいは619年から621年[269]の間にサーサーン朝の軍勢はエジプトにも進軍し、これを占領した[268][269]。シリアではユダヤ人ネストリウス派キリスト教徒たちがサーサーン朝の到来を歓迎したが、エジプトにおいても長期にわたるコンスタンティノープル教会との対立と帝国政府による宗教的圧迫のために単性派のキリスト教徒たちが同じ反応を示した[268]

ヘラクレイオスは一時カルタゴへの遷都を考慮するほど追い詰められたものの[268]、620年代には本格的な反撃に移った[270]。サーサーン朝は626年にコンスタンティノープルを包囲英語版したが、ヘラクレイオスはサーサーン朝の本国を直撃することで事態の挽回を試みて、628年にサーサーン朝の首都クテシフォン(テーシフォーン)に迫り、ホスロー2世を失脚に追い込んだ[271][272]。その後のサーサーン朝との講和で、占領された全領土がビザンツ帝国に返還され、エジプトもまたコンスタンティノープルの下に戻った[271]。しかし、エジプトがビザンツ帝国に復帰するとただちに単性説を巡る教義論争が再燃し、様々な妥協が図られたがたちまち幻滅が広がった[273]

イスラームの征服[編集]

私は、描写を控え目にしたいが、つぎのような一都市を獲得した。私がそこで、四千の邸宅、四千の浴場、四万人の人頭税を払うユダヤ教徒、使用料を得られる四百ヶ所の遊興所を得たと述べるだけで、十分でしょう。
-アムル・ブン・アル=アースのアレクサンドリア征服報告[274]

ビザンツ帝国とサーサーン朝が共に戦争で疲弊する一方、アラビア半島ではメッカ(マッカ)のクライシュ族に生まれたムハンマドが610年頃、神(アッラー)の啓示を受け、次第に神の使徒としての自覚を深めたとされる[275]。彼に同調する人々はアラブ人の中に次第に増えていき、後にイスラームと呼ばれる宗教が形成されていった[275]。メッカで迫害を受けたムハンマドは622年7月16日にメディナ(マディーナ)へと遷った。これはヒジュラ(聖遷)と呼ばれ、この日はイスラーム暦の起点となっている[276]。ムハンマドが作ったアラブ人たちのイスラーム共同体(ウンマ)はメディナの支配権を握るとともに630年にはメッカを征服し[277]、632年にムハンマドが死んだ後はアブー・バクル(在位:632年-634年)、次いでウマル・ブン・ハッターブ(在位:634年-644年)がカリフ(ハリーファ、代行者の意)としてウンマの指導を引き継いでアラビア半島全域に支配を確立した[278]。イスラーム共同体は633年夏にはサーサーン朝の中枢部(イラク、アル=イラーク)に侵入を開始し、637年のカーディシーヤの戦い、642年のニハーヴァンドの戦いでサーサーン朝の軍勢を打ち破りこれを崩壊させた[279]。彼らは同時にビザンツ帝国領であったシリアにも襲い掛かり、641年のヤルムークの戦いの勝利によってビザンツ帝国からシリアを完全に奪い取った[280][281][282]

アムル・ブン・アル=アース・モスク。フスタートに建設された、エジプトおよびアフリカ大陸における最初のモスク。ただし現在の建物は創建時のものではない。

シリア各地を転戦していたイスラームの司令官アムル・ブン・アル=アースは慎重意見を圧して639年に独断でエジプトへの侵攻を開始した[283][284]。シリアからエジプトへの入り口にあたるペルシウム(アル=ファラマー)の城塞はサーサーン朝との戦争の後修繕されておらず、1か月で陥落し[285]、641年4月には現在のカイロ南郊にあったバビロンがムスリムの攻撃を受けた[285][283]。アレクサンドリア主教キュロス英語版とビザンツ軍司令官テオドロスが救援に向かったが敗れ、キュロスはバビロン市内に封じ込まれテオドロスはアレクサンドリアへ後退した[285]。ビザンツ帝国における宗教対立はサーサーン朝との戦いの時と同じようにムスリムとの戦いにも影を落としていた。エジプトの反ビザンツ派(反カルケドン派、コプト)の主教ベニヤミン1世英語版はムスリムの軍隊を受け入れ、キリスト教徒たちは抵抗しないように事前に指示されていたと言われる[286][287][注釈 17]

キュロスはアラブ人たちへの貢納の支払いに同意し、ムスリム側と会談を持ち、提示された和平条件を皇帝ヘラクレイオスに伝えるべくアレクサンドリアに赴いたが、反逆罪に問われ追放された[289]。まもなくバビロンは陥落し、周辺都市も制圧されて凄惨な殺戮と略奪が繰り広げられた[289]。同年にヘラクレイオスが死去し新たにコンスタンス2世(在位:641年-668年)が即位するとキュロスが復帰したが、彼はエジプトの維持を諦めており定額の貢納、ビザンツ軍の安全なエジプトからの撤退、エジプトの奪回を試みないことなどを約してムスリムと講和を結んだ[290]。同年中にアレクサンドリア(アル=イスカンダリーヤ)は引き渡され、ビザンツ帝国はエジプトを喪失した[290][283][291]

アムル・ブン・アル=アースがバビロン近郊に構築した野営陣地がエジプトの新たな行政的中心として整備された。これはフスタート(古カイロ、ミスル・アル=アティーカ)と呼ばれ、その後300年余りにわたってエジプトの首都となった[286]。フスタートという名称は恐らく「野営地」を意味するギリシア語がアラビア語に転訛したものと考えられ、アラブ人たちの初期の入植地の性質を良く示している[292]。ムスリムはビザンツ帝国の行政機構を踏襲してエジプトから利益を得ようとしたが、アムルが十分な成果を上げていないと見たカリフ・ウマルはアムルを解任し、さらに644年に新たなカリフとなったウスマーン・イブン・アッファーン(在位644年-656年)はアムルをエジプトから召喚して乳兄弟のアブドゥッラーをエジプトの統括者に任命した[293]

645年、ビザンツ皇帝コンスタンス2世はムスリムに反抗するアレクサンドリア市民の請願を受ける形で海路アレクサンドリアへ派兵し、エジプトの奪還を試みた。アルメニア人マヌエルが指揮する300隻の艦隊はアレクサンドリアを奪還したが、ムスリム側はこの事態にアムル・ブン・アル=アースを直ちに復帰させて対応した[294]。両軍は646年にニキウ(現在のミヌーフィーヤ県にあった都市)近郊で遭遇戦を戦い、ムスリム側が圧勝した(ニキウの戦い英語版[294]。これによってビザンツ帝国のエジプト支配は完全に終了し、エジプトは現在に至るまでムスリムを中核とする政権の統治下に置かれている[注釈 18]

イスラーム帝国[編集]

ムスリムの征服
  ムハンマド下における征服、622年-632年
  正統カリフ時代における征服、632年-661年
  ウマイヤ朝時代における領土拡大、661年-750年

アラブ人たちのイスラーム共同体はエジプトから中央アジアに至る広大な地域を征服したが、ウスマーン治世中には征服活動が一段落した。そのためウスマーンは戦争に伴う戦利品の分配という伝統的な兵士たちへの報酬形態を改め、メディナから各地に徴税官を派遣し、その歳入からアラブ人兵士たちに一定の俸禄(アター`Aṭā')を支払うという改革を行った[295]。そしてこれを担当する官庁(ディーワーンDiwan )がメディナに設置された[295]。しかし、急激な制度変更に不満が爆発し、兵士たちは貢献度に見合った報酬の分配を強く要求し反抗の機運が高まった[295]。さらにウスマーンが自らの一族(ウマイヤ家)に要職を優先的に委ねていたことが不満をさらに増幅した。各地の急進派がメディナに向けて進発し、エジプトのフスタートにいた不平派も同じくメディナへと向かった[295][296]。彼らはウスマーンを殺害し、混乱の中で変わってアリー(在位:在位656年-661年)がカリフ位についた[297]。しかし、ウマイヤ家のシリア総督ムアーウィヤはウスマーンの報復を誓い、アリーと衝突した。両者は衝突の後、講和を話し合ったが、これに不満を抱いたアリー軍の一部兵士たちが離脱し(ハワーリジュ派)、彼らによって661年にアリーが殺害された[298]。この一連の過程は第一次内乱と呼ばれ、アリーの殺害をもって正統カリフ時代の終わりとされる[298]。ウマイヤ家のムアーウィヤは既に660年に自らをカリフと宣言していたが、アリーの死亡によってムスリムの大半にカリフとして認められた(在位:661年-680年)[299]。彼は自らの拠点であるシリアのダマスカスに都を定め、以降自らの子孫にカリフ位を世襲させた。これをウマイヤ朝と呼ぶ[299][注釈 19]。さらに746年にはウマイヤ家に反対するアッバース家が反乱に踏み切り、750年にはアブー・アル=アッバースがカリフとしてアッバース朝を建設した[302]

カリフ政権下のエジプト[編集]

イスラーム時代初期のエジプトはムスリムによる西方へさらなる拡大のための拠点となった[303]。既に第一次、第二次内乱以前から、ムスリムたちはエジプトを拠点にビザンツ帝国領北アフリカ(イフリーキーヤ)への遠征を行っていたが[304][305]、内乱終結後には本格化した[305]。また、アレクサンドリアの港はシリア(レヴァント)のそれとならんでムスリム艦隊の造船所及び拠点となり、ビザンツ帝国領への攻撃を支えた[306]

第二次内乱を経てエジプト総督となったアブドゥルアズィーズは彼自身の功績と出自(カリフ・マルワーン1世の息子であり、その次のカリフ・アブド・アルマリクの兄弟)から、各地の総督の中でも特に強力でありカリフの意のままにならない存在であった[307]。しかし、彼の死後にはカリフ権力はエジプトを統治する総督権力を分割することを試み、エジプトには軍指揮権を握る総督(wālī、またはamīr)と税務長官(ṣaḥib al-ẖarāg、またはṣaḥib al-ẖarāgi-hā)が別々に任命されていた[308]。このような処置は正統カリフ時代から各地で見られるものではあったが[306]、多くの場合それは一時的な処置であり、総督位と税務長官位の並立が長期にわたって継続したことはエジプトにおける大きな特徴である[308]。これは中央政府がエジプト財政への介入を行えるようにするための処置であったが、このようなことが可能だったのはイフリーキーヤの征服が進展するとともにエジプトの軍事的意義が薄れて行き安全保障上の脅威が小さくなっていったため、強力な指導力を有する指揮官がエジプトに必要なかったからであると考えられる[309]

ムスリム支配地の拡大に伴って外敵の脅威が和らぐ一方で、エジプト内部ではコプト人の蜂起や、アル=シャーム(シリア)やアル=イラーク(イラク)の中央政権の政治紛争と結びついた闘争が常態化した。コプト人の蜂起の理由は主として徴税に対する不満であった。エジプトの征服の際、初代総督アムルは比較的寛大な条件の税(上納金)の支払いと、それが将来に渡って増額されないことなどを約束してエジプトの民心を掴み迅速な支配の拡大に成功したと伝えられている[310]。エジプトの住民はほとんど全てキリスト教徒(コプト教徒、コプト人)であり、彼らはいわゆる契約の民(ahl al-dhimma)としてムスリムの「庇護下」に置かれ、人頭税(ジズヤ)と引き換えに自らの信仰を維持することを認められていた。こうした人々はズィンミー(庇護民)と呼ばれる。しかし、カリフの関心が主にエジプトの歳入にあったため時代とともに徴税強化・増税が押し進められていった[310][303]。ウマイヤ朝末期には人頭税の回避やアラブ遊牧民の植民増加、婚姻などを通じてイスラームへの改宗が増加し始めた[311]。しかし、アラブ人の統治者は人頭税の減少による税収減を嫌い、むしろイスラームへの改宗を抑制するとともに、改宗者に対しても人頭税の納付を要求することも行った[303]。とはいえ、705年に行政言語がアラビア語に改められ、718年には徴税官吏がムスリムのみに認められるようになるなど、ムスリムの社会的優位は明らかであり[287]、またウマイヤ朝末期にはコプト社会に対するムスリム側の統制は本格化していった[312]。そして、相当数のアラブ人がエジプトに移住し定着したが、原住地との部族的紐帯を維持していたこれらのアラブ人たちの存在は中央政府の政争とエジプトを結び付けた[303]。このような状況を背景に、ウマイヤ朝末期からアッバース朝期にかけて、主に徴税に不満を持つ現地のエジプト人(コプト人)やアラブ人部族が反体制派として頻繁に蜂起した[303][313]

カリフ、ハールーン・アッ=ラシード(在位:786年-809年)が息子であるアミーン(在位:809年-813年)とマアムーン(在位:813年-833年)にアッバース朝の領土を分割相続させようとしたことを端緒として、この両者がカリフ位を争った内戦の際、エジプトのアラブ人たちも二派に分かれて争い、彼らはその過程で軍事的・政治的地位を上昇させていった[314]。カリフ位争いがマアムーンの勝利に終わった後もエジプトの現地アラブ人たちは内戦中に得た政治的地位を維持し続けた。9世紀初頭に総督位を得たアル=サリ・ブン・アル=ハカム英語版アブドゥルアズィーズ・ブン・アル=ワズィール・アル=ジャラウィーなどがこのような人物の代表例である[314]。エジプトのアラブ人たちは徴税を拒否し、さらにアンダルス(イベリア半島)から到来したアラブ人(アンダルス人)たちがアレクサンドリアを襲うなどして、エジプトの統治機構は混乱した[314]。この一連の政治不安は、特に下エジプトにおいてコプト人社会に大きな打撃を与えた[314]。カリフ・マアムーンはエジプトの統制を回復すべく長期にわたる努力を続け、825/826年にマアムーンによって派遣されたイブン・ターヒル英語版が、アレクサンドリアのアンダルス人を放逐するとともに、数年がかりでエジプトの秩序回復に成功した[315]。コプト人たちはなお徴税に対する抵抗を続け、830年頃にはこうした抵抗運動の中で最大かつ最後となるバシュムール反乱英語版が発生したが、カリフ・マアムーン自らが率いた軍による苛烈な破壊によって鎮圧された[316]

イスラーム世界の多極化とエジプト[編集]

しかし、王朝がすべての栄誉を独占し、アラブ人を行政上の地位から締め出したとき、宰相職はバルマク家やサフル・ブン・ナウバフト家やターヒル家、のちではブワイフ家のようなペルシャ系家臣、またブガーやワセーフ、ウターミシュ、バーキヤーク(バーヤクベク)、イブン・トゥールーンおよび彼らの子孫のようなトルコ系家臣、その他の非アラブ人の家臣に委ねられた。こうしてアッバース朝は、創設に尽した者以外の人々の手で左右されるようになり、その権力も最初に獲得した者以外の人々に移った。これは神がその召使を取り扱われる方法である。
イブン・ハルドゥーン『歴史序説』第3章§17[317]

9世紀に入るとアッバース朝のカリフを中心としたイスラーム世界の秩序は大きな転機を迎えていた。その要因の1つはマムルーク(白人奴隷兵士[注釈 20])またはグラームなどと呼ばれる奴隷兵士の台頭である。アラブ人の間ではイスラーム以前から、主人との擬制的な血縁関係に近い緊密な関係を構築した自由人・解放奴隷(マワーリー、単数形はマウラー)が有力者たちの勢力を支える重要な基盤となっていた[318][319]。イスラームの征服活動に伴って数多くの戦争捕虜が解放奴隷としてこの「マワーリー」という身分形態を通してアラブ部族に組み込まれ、その中から主人に従って戦争に参加するものたちも登場し始めた[320]。さらにアッバース朝期の非アラブ人の役割の増大や内戦、中央アジアの「トゥルク人[注釈 21]」奴隷兵士(マムルーク/グラーム)の大規模購入などを通じて、奴隷兵士たち(以下、全てマムルークと表記する。ただしマムルークを始めとした奴隷軍人の定義の問題は煩瑣であり、この用法は便宜上のものであることに注意されたい[注釈 22])たちがアッバース朝の軍事・社会において大きな役割を果たすようになっていった。

もう1つの要因はアッバース朝の中央政権の求心力が低下し、各地で自律的な政権が誕生していったことである。すでにイベリア半島では後ウマイヤ朝(756年-1031年)、モロッコイドリース朝(789年-985年)、イフリーキーヤアグラブ朝(800年-904年)が成立してアッバース朝の統制を離れていたが、アミーンとマアムーンのカリフ位争いによる内乱がこの分裂傾向に拍車をかけた[322]。以降、アッバース朝のカリフの権威低下に伴い、各地で次々と自立勢力が構築されていった。この頃にイラン高原ではサッファール朝サーマーン朝ターヒル朝が成立している[322]

エジプトの政権[編集]

この大きな潮流の中、カリフとなったムウタスィム(在位:833年-842年)は、伝統が長く自分への忠誠心が疑わしいアッバース朝の旧来の主力軍団(ホラーサーン軍団)に代わる子飼いの戦力として大量のマムルークを購入したが、首都バグダードの市民やホラーサーン軍団の強い反発を受けたことから、手勢のマムルーク軍団を守るためにサーマッラーへの遷都を行った[323]。この時サーマッラーにムウタスィムとともに移動したフェルガナ出身のマムルーク軍人の子供にアフマド・ブン・トゥールーン英語版(イブン・トゥールーン)がいた[324][325]。成長した彼は868年に総督の副官としてエジプトに派遣され、程なくして独立政権を打ち立てた[325]。これがトゥールーン朝である。

イスラーム世界の多極化を示す地図。赤左:後ウマイヤ朝、青:イドリース朝、紫:アグラブ朝、黄:トゥールーン朝、赤右:ブワイフ朝、水:ハムダーン朝、橙:サージュ朝英語版、薄青:アラヴィー朝、薄黄:サーマーン朝、薄紫:サッファール朝(905年頃)

トゥールーン朝は短命な政権であったが、その成立によってエジプトは再び独立した政治勢力となった。これはローマ帝国にエジプトが併合されて以来のことでった[326]。これはエジプトに大きな経済的繁栄をもたらすことになる。長期にわたり、徴税のみを主たる興味の対象とする短任期の総督たち(カリフ時代のエジプト総督の平均在職期間は2年強に過ぎない[327])によって厳しい徴税に晒され、生産物を「中央」に奪われていたエジプトは、イブン・トゥールーンによる自立と、彼のシリア・パレスチナへの勢力拡大によって逆に小帝国の中央となった[326]。国外に搬出されることがなくなった富は内政の充実へとむけられ、新たなナイル川の水位計の設置をはじめとした灌漑の改善[327]、フスタートの新たな街区(アル=カターイ英語版)の開発等が行われた[328]。この時、アル=カターイに建設されたイブン・トゥールーン・モスクは現存するエジプト最古のモスクである[328]。この財力を背景とした大規模な軍隊がトゥールーン朝の支配を支えた[329][324]。イブン・トゥールーンの下には7,000人のアラブ人自由民兵士、24,000人のマムルーク騎士、そして45,000人の黒人奴隷兵士がいたと伝えられる[324]

884年にフマーワライフ英語版(在位:884年-895年)がイブン・トゥールーンの跡を継いだ[330]。フマーワライフは豪華な宮殿の建設、娘カトラ・アル=ナダーのアッバース朝カリフへの輿入りの際の法外な持参金など、その放蕩ぶりを伝える多彩な逸話が残されている[330]イスラーム美術としては非常に珍しい生前の人物の彫像、即ちフマーワライフ自身と妃たちの等身大の木像も造られたという[330][326]。彼の存命中はなおトゥールーン朝は繁栄を謳歌していたが、その死後には軍への給与支払いが可能なだけの資金は残されていなかった[326]。軍団からの支持を失ったトゥールーン朝は無政府状態へと陥り、905年にアッバース朝によって取り潰された[326][331]

ファーティマ朝[編集]

9世紀末、イスラーム教シーア派の一分派であるイスマーイール派イフリーキーヤで宣教活動を行い、現地ベルベル人クターマ族の支持を獲得することに成功した[332]。第4代正統カリフであるアリーの妻ファーティマ(預言者ムハンマドの娘)の血を引くと称するイスマーイール派の指導者ウバイドゥッラー英語版(アブドゥッラー)はシリアからチュニジア(イフリーキーヤ)に渡り、910年に自らがマフディー(救世主)でありカリフであると宣言した[332][333]。こうして誕生した政権をファーティマ朝と呼ぶ。スンナ派を中核とするアッバース朝カリフに対し、シーア派の指導者がカリフを宣言して対抗姿勢を明らかにしたことはイスラーム世界における新たな出来事であった[333]。当初、カリフ・ウバイドゥッラーはイフリーキーヤに打ち立てた政権をあくまでもアッバース朝に対抗するための当座の拠点であると位置づけており、最終目標としてアッバース朝の打倒を目指した[334]。そのため、ファーティマ朝は成立直後から東進を企て、はやくも913/914年冬にはエジプトに遠征軍を派遣した[332]。この遠征軍は当初アレクサンドリアを占領しフスタートに迫ったが撃退され、919/920年に再度攻撃をかけたもののこれも失敗に終わった[334]。エジプトでの敗北によってファーティマ朝は短期間でのアッバース朝打倒をあきらめ、イフリーキーヤでの基盤づくりに方針を切り替えた[334]

935年にアッバース朝のエジプト総督として派遣されたテュルク系軍人ムハンマド・ブン・トゥグジェ英語版は、翌年に行われた3度目のファーティマ朝の遠征を退けてカリフからイフシードの称号を得た[335][336][注釈 23]。その後、彼はイブン・トゥールーンと同じようにマムルークと黒人兵士を集めて独立勢力化しアッバース朝の統制を離れた(イフシード朝[336][338]。しかし、ファーティマ朝の第4代カリフ・ムイッズ(在位:953年-975年)がシチリア島出身のファーティマ朝の司令官ジャウハルを派遣して再びエジプト遠征を開始すると、イフシード朝はは何ら有効な対応を取ることができなかった[339]。969年7月にジャウハルがフスタートに入城し、イフシード朝は短命の歴史を終えた[339]。ファーティマ朝は征服直後からフスタートの北に新たな都の建設を開始した。この都市はアル=カーヒラ・アル=ムイッズィーヤ(ムイッズの勝利)と命名され、カリフ・ムイッズは973年にここに拠点を遷した[335][333]。以降アラブ人たちはこの都市を単にアル=カーヒラカイロ)と呼んでいる[335][333]

ファーティマ朝はエジプト征服の後にはさらに東西へと勢力を広げ、第5代カリフのアブー=マンスール・ニザール・アル=アズィーズ英語版の時代には金曜礼拝のフトゥバ(説教)において彼の名前を唱える地域は大西洋岸からモロッコとシリア、ヒジャーズアラビア半島西南部)、さらに一度だけとはいえ北部イラクのモースルにまで広がり、名目上はこの全域にファーティマ朝の支配が及んだ[340][341]

イスマーイール派政権であったファーティマ朝は成立当初、イフリーキーヤにおいてスンナ派への激しい攻撃を行い、数多くの亡命者や死者を出すなどしていたが[334]、エジプトの征服に際してはシーア派の礼拝形式の導入を行うなどはしたものの、寛容な方針であたり、スンナ派住民の強制的な改宗などは行われなかった[342]。カリフ・ハーキム(在位:996年-1021年)の時代に行われた過酷な弾圧こそ有名であるものの[343][344]、キリスト教徒やユダヤ教徒は(特にアズィーズの時代には)イスラーム期に入って以来かつてなかった程の寛容さを享受し、ファーティマ朝時代は非ムスリムの黄金時代であったともされる[343][345][346][注釈 24]ワズィール(宰相)を始めとした政府高官職にキリスト教徒が任命されることも珍しくなく、キリスト教やユダヤ教の施設に支援が行われ、カリフがそれを訪れることもあった[343]。商工業や美術に対する統制も緩く、ファーティマ朝期のエジプトは経済的に繁栄し、美術工芸が栄えた[347][343][348]。学術研究も盛んになり、アズィーズの時代に建設されたアズハル・モスク付属のマドラサ(学院)はその後エジプトを代表する教育機関へと発展した。これは今日でもアズハル大学として存続している[349][350]。そして、ハーキムの時代には、シーア派の教義を普及させるという目的を帯びて、「学芸/英知の館」(ダール・アル=イルム)と呼ばれる学術施設と基金が設立され、天文学光学が発達した[351]

ハーキムの死後、王朝の実権は次第にワズィールたちの手に移るようになり、またベルベル人、テュルク人(トルコ人)、ユダヤ教徒、キリスト教徒、黒人(スーダン人)など様々な勢力が複雑な権力闘争を繰り広げ、政治は不安定化した[352][353]。1055年、中央アジアから到来したセルジューク族(サルジューク)の首長トゥグリル・ベクがバグダードに入場し、現地を支配下に置いていたブワイフ朝の勢力を放逐してアッバース朝のカリフを保護下に置いた[354]。その後、ブワイフ朝のバグダード駐留軍司令官であったバサーシーリが1058年にバグダードを奪還し、アッバース朝カリフのカーイムに強要してファーティマ朝のカリフに全ての権利とカリフの聖器を譲渡するという文書に調印させるという一コマがあったが、間もなくトゥグリル・ベクによってバグダードが再占領され[355]、11世紀後半にはセルジューク族によってシリアとヒジャーズ地方がファーティマ朝から奪取された[356]

マムルーク朝[編集]

第7回十字軍1248年-1254年)では、カペー朝フランス王国ルイ9世の軍が1249年にエジプトに侵攻した。この時、アイユーブ朝のスルタン・サーリフが急死すると、シャジャル・アッ=ドゥッル夫人率いるマムルーク軍団が十字軍を撃退し、その後のクーデターでバフリー・マムルーク朝1250年-1382年)の女性スルタンに即位した。

モンゴル帝国オゴデイ後継者問題で混乱した後、フレグフレグの西征を開始した。1258年アッバース朝を滅ぼしたが、1260年に再び大ハーン・モンケの朴報が届き、フレグはモンゴルへ帰還した。キト・ブカは1万の留守部隊を預けられてシリアに駐屯していたが、アイン・ジャールートの戦いムザッファル・クトゥズが大軍を率いてシリア奪還した。

マムルーク朝のもとで中央アジアカフカスなどアラブ世界の外からやってきたマムルーク(奴隷軍人)による支配体制が確立し、250年間続いた。

1324年頃、マリ帝国マンサ・ムーサ王がメッカ巡礼の途上でナースィル・ムハンマドの元に立ち寄り、大量の金の贈り物をしたことでカイロの金の相場が下落したと伝えられている。そのためか、晩年のムハンマドは奢侈に走って財政を傾かせ、マムルークの力が強大になった。

バルクークがクーデターによってサーリフ・ハーッジーを廃し、ブルジー・マムルーク朝1382年-1517年)を開いた。

オスマン帝国期(1517 - 1805)[編集]

1517年マルジュ・ダービクの戦いで、オスマン帝国セリム1世はマムルーク朝を滅ぼしてエジプトを属州としたが、マムルーク支配は温存された。

1798年フランスナポレオン・ボナパルトエジプト遠征を行なった。この時、紀元前196年に書かれたロゼッタ・ストーンが港湾都市ロゼッタで発見され、1801年にイギリス軍の手に渡った。石碑に神聖文字民衆文字で書かれた古代エジプト語は、1822年、ジャン=フランソワ・シャンポリオンによって対応する古代ギリシア語から解読され、古代エジプトの文学や文化を理解する道が開けた。

近代エジプト[編集]

ムハンマド・アリーの近代化(1805年 - 1882年)[編集]

ムハンマド・アリー

ナポレオンエジプト遠征を契機として、エジプトは近代国家形成の時代へと突入していった。エジプト遠征にともなう混乱を収拾して権力を掌握した軍人ムハンマド・アリー(オスマン帝国が派遣したアルバニア人部隊の隊長)は、1805年にエジプト総督の地位をオスマン帝国に認めさせると、豪族化していた各地のマムルークを打倒して集権化を進めた。その上で、富国強兵殖産興業を通じたエジプトの近代化を目指した。また、1822年に導入された徴兵制では、宗教の別なく均質な国民として徴兵を行った。こうした政策は、エジプトにおける国民創出、国民国家形成の試みとも解釈できる。また、近代化の財源には、列強からの借款でなくナイル川での商品作物栽培で得られた利益をあてることとして、列強の経済的従属に陥らないよう気を配った。

1831年からのエジプト・トルコ戦争で、エジプトをオスマン帝国から半ば独立させることに成功し、アルバニア系ムハンマド・アリー家による世襲政権を打ち立てた(ムハンマド・アリー朝)。

スエズ運河とエジプトの従属[編集]

しかし、当時の世界に勢力を広げたヨーロッパ列強はエジプトの独立を認めず、またムハンマド・アリー朝の急速な近代化政策による社会矛盾は結局、エジプトを列強に経済的に従属させることになった。1869年にエジプトはフランスとともにスエズ運河を開通させるが、その財政負担はエジプトの経済的自立に決定的な打撃を与え、イギリスの進出を招いた。1881年アフメド・ウラービーが中心となって起きた反英運動・ウラービー革命もイギリスによって鎮圧され、エジプトは事実上の保護国となる(正式には1914年)。

現代(1882年 - 現在)[編集]

エジプトの民族運動と独立[編集]

1914年には、第一次世界大戦によってイギリスがエジプトの名目上の宗主国であるオスマン帝国と開戦したため、エジプトはオスマン帝国の宗主権から切り離された。その結果、大戦後の1922年2月28日エジプト王国が成立し、翌年イギリスはその独立を認めたが、その後もイギリスの間接的な支配体制は続いた。1940年イタリアのエジプト侵攻

第二次世界大戦後のエジプト[編集]

エジプト王国は立憲君主制をひいて議会を設置し、緩やかな近代化を目指すが、第二次世界大戦前後からパレスチナ問題の深刻化や、1948年から1949年パレスチナ戦争(第一次中東戦争)でイスラエルに敗北、経済状況の悪化、ムスリム同胞団など政治のイスラム化(イスラム主義)を唱える社会勢力の台頭によって次第に動揺していった。この状況を受けて1952年自由将校団クーデターを起こしてムハンマド・アリー朝を打倒(エジプト革命)、1953年に共和制へと移行し、エジプト共和国が成立した。

1956年、第2代大統領に就任したガマール・アブドゥン=ナーセル(ナセル)のもとでエジプトは冷戦下での中立外交と汎アラブ主義アラブ民族主義)を柱とする独自の政策を進め、第三世界アラブ諸国の雄として台頭する。同年にエジプトはスエズ運河国有化: Nationalisation of the Suez Canal)を断行し、これによって勃発した第二次中東戦争(スエズ戦争)で政治的に勝利を収めた。1958年にはシリアと連合してアラブ連合共和国を成立させた(1961年に解消)。1962年から始まった北イエメン内戦では、ソビエト連邦と共に共和派を支援し、王党派を支援するサウジアラビアヨルダンと対立した。 しかし、1967年第三次中東戦争(6日戦争)は惨敗に終わり、これによってナーセルの権威は求心力を失った。エジプトは1971年まで「アラブ連合共和国」と称し続けたが、その後エジプト・アラブ共和国と改称した。

1970年に急死したナーセルの後任となったアンワル・アッ=サーダート(サダト)は、社会主義的経済政策の転換、イスラエルとの融和など、ナーセル体制の切り替えを進めた。しかし政治的自由化によってイスラム主義がかえって勢力を伸張させて体制に対する抵抗が激化し、サーダート自身も1981年イスラム過激派ジハード団によって暗殺された。

かわって副大統領から大統領に昇格したホスニー・ムバーラクは、対米協調外交を進める一方、イスラム主義運動を厳しく弾圧して国内外の安定化をはかるなど、開発独裁的な政権を長きにわたり維持したが、しかし同じく長期政権を維持してきたチュニジアベン=アリー大統領はジャスミン革命で政権を失い、それに呼応したエジプト革命は30年続いたムバーラク政権を崩壊させた(アラブの春)。軍による暫定的な統治の後にムスリム同胞団ムハンマド・ムルシーが自由選挙を経て2012年7月に大統領に就任した。同国初の文民大統領であったが、次第に強権的な姿勢が目立つようになったほか、イスラム化を推し進めたことが反発を呼び、各地で反政府デモが起こった[357]。2013年7月3日、軍はムルシーの大統領権限を剥奪し、暫定政権を樹立させた(2013年エジプトクーデター)。


脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 高宮のまとめによれば、旧石器時代と新石器時代は初めてこの概念をヨーロッパ考古学の中で用いたジョン・ラボック19世紀後半)による定義では打製石器磨製石器の使用によって分類されていた。その後、石器の製造という技術的側面よりも、生産経済のあり様の方が人類史上重要な区分であるという認識から、現在では農耕・牧畜の開始をもって新石器時代の開始とみなす考え方が主流となってきている[9]
  2. ^ ファイユーム地方ではかつてファイユームA文化とファイユームB文化と呼ばれた2つの文化が見つかっていた。20世紀前半には、ファイユーム地方の中心であるカルーン湖の水位が時代とともに低下し続けていたという仮定の下、高地で検出されたファイユームA文化の方が古いと考えられていた。しかしその後、ファイユームB文化の方が終末期旧石器時代に位置付けられるより古い文化であることが判明し、さらにファイユームA文化よりも新しい新たな新石器時代の文化も発見された。このため、かつてのファイユームB文化をカルーン文化Qrunian)、ファイユームA文化をファイユーム文化Faiyumian)、もう1つの新しい新石器時代の文化をモエリス文化Moerian)とする新しい区分が提案された[25]。ただし、ファイユームA文化という名称も今なお使用されている[17]
  3. ^ これらの時代区分の確実な定義、および年代を提示することはほとんど不可能である。現代においてこの問題について各学者個々人の分類が互いに完全に一致することはない。例示した分類はクレイトン[34]やスペンサー[35]、山花[36]、ドドソンおよびヒルトン[37]など、多数の学者が用いているもっとも一般的なものである。だが、それぞれの時代にどの王朝を位置付けるかについてはこれらの学者の間で一致しない。また編年についても時代が遡るほど年代設定の差は大きくなり、例えば初期王朝時代の開始は前3150年に置くクレイトン[38]やドドソン、ヒルトン[39]から、前3000年におく山花[40]まで多岐にわたる。そしてこれらの学者たち自身が編年について確実性がないことを付記するのが普通である。
  4. ^ ノモスがいつ頃、どのような存在として整備されたのか、という問題は論争があり現在でも定説は無い。1つは先王朝時代の小規模な「国家」に原型を持つとするものであり、もう1つは初期王朝時代に王朝の行政組織として整備されたというものである[68]。詳細はノモスを参照。
  5. ^ 古王国の期間について主だった見解は以下の通りである。前2686年-前2181年[34][71][72]、前2680年-前2190年頃[70]、前2686年-前2160年頃(第8王朝まで)[35]、ドドソンおよびヒルトンはこの時代について遥かに遅い年代を採用しており、第3王朝の開始を前2520年に置き[39]、第6王朝の終焉を前2117年とし、第8王朝の滅亡年は率直に不明とする[73]
  6. ^ いわゆる4.2kイベントによる4200年前の寒冷化は、エジプト固有のものではなく全地球規模のものであった。その程度をどのように評価するかについて差異はあるにせよ、日本の縄文時代[88]メソポタミアなど[89]、各地における生活様式や集落形態の変化、政治的な変動などをこの出慣例化と結び付けるような研究が複数存在する。
  7. ^ 第1中間期の期間と、その時期に属する王朝についても各学者間の想定年代は基本的に一致しない。王朝については大きく第7王朝から第11王朝が第10王朝を征服するまでとする分類と[34][70][91]、第9王朝から第11王朝が第10王朝を征服するまでとする分類[35][37]に大別される。他、第7、第8王朝の分類について特に言及しないような場合もある[69]。フィネガンは第7王朝から第10王朝までを第1中間期として章立てをしているが、大枠としては前者のそれと変わらない[71]。編年については仮に第7王朝からとした場合、概ね前22世紀半ばから前21世紀半ばまでのおおよそ100年強が一般的となる。具体的な編年としては、前2181-前2040年[34]、前2145年頃-前2040年頃[91]、前2190年頃-前2020年頃[70]、前2181年-前2040年[71]、などがある。第9王朝からとする分類としては、第1中間期の編年は前2160年頃-前2040年頃[35]、開始年代不明-前2040年頃などがある[37]。これらの分類・編年の中から「正しいもの」を提示することはできない。
  8. ^ エジプト学における「アジア人」と言う用語は通常、パレスチナやレヴァント、シリアの住民を指す。
  9. ^ アジア系の首長はエジプト人たちから「ヘカウ・カスウト(異国の支配者たち)」と呼ばれ、彼らがエジプトで作り上げた勢力を指すヒクソスという名称はこれに由来する
  10. ^ プトレマイオス朝時代の神官で、今日でも使われる30あまりの古代エジプト王朝区分を確立したマネトは、『エジプト史』において第16王朝の王を「羊飼いたちの王32人」としており、このために第15王朝を大ヒクソス、第16王朝を小ヒクソスと表現して第16王朝もヒクソスの政権として扱われる場合もある[110]。ただし、マネトの『エジプト史』現存しておらず、引用によってのみ伝わり、セクストゥス・ユリウス・アフリカヌス英語版による引用では前述の通り「羊飼いたちの王32人」であるが、カエサレアのエウセビオスによる引用では「テーベの王5人」となっている。近年では第16王朝についてはテーベエジプト第13王朝の後継政権であるとする説が唱えられており[115]、概説書においても第16王朝をテーベの政権とするようになっている[116]。詳細はエジプト第16王朝を参照。
  11. ^ 新王国時代に入るとエジプトの編年情報はかなり増加し、学者間の時間的差異も数十年程度まで縮小する。新王国時代を気付いたイアフメス1世の即位年としては、前1570年[34]、前1552年[91][71]、前1549年[37]などがある。
  12. ^ ただし、近年では北レヴァントのルウィ語の象形文字碑文において「パリシュティン」などの地名が確認されており、語形の類似からペリシテ人の名を冠した地名であるとも考えられる[145]
  13. ^ 伝統的にプトレマイオス1世から3世までの時代をこの王朝の最盛期とし、プトレマイオス4世以降徐々に衰退と縮小を続けたとするのが一般的なプトレマイオス朝に対する認識である[192][193]。しかしこのような認識には疑問も呈されている[192]。詳細はプトレマイオス朝を参照。
  14. ^ エジプト総督位が元老院議員ではなく騎士に委ねられた理由は不明瞭である。コルネリウス・タキトゥスやカッシウス・ディオらはローマ市の穀物供給におけるエジプトの重要性をその理由として説明しているが、エジプトがローマの主要穀物供給元になるのはウェスパシアヌス帝(在位:9年-79年)時代のことであり、アウグストゥス時代に当てはまらない[211]。従ってこの説明はタキトゥスとディオが自分の生きた時代の状況を、およそ100年前のアウグストゥス時代に投影したものであると考えられる[211]新保良明はこれについて、元老院議員の多くが属州勤務のためにローマ市外での勤務を余儀なくされる中、規模の大きなエジプト属州に元老院議員の総督や行政官を置くには人的資源に対する圧迫が大きかったためであると想像している[209]。ローマ帝国の官僚機構は帝政初期において極めて小規模で、2世紀半ばにおいても総人員数は300名に満たなかった[212]。この小規模な官僚組織による統治を可能としていたのが、周辺村落を従える現地の都市を行政単位として内政全般を担当させるという属州統治のあり方であったが、自律的な都市が未発達であったエジプトではこのような運営の在り方は不可能であったという[209]
  15. ^ ファラオの名を囲む枠
  16. ^ 当時のキリスト教においては神がいかなる存在であるか、ということが重要な論争点であり、第1回ニカイア公会議以来の議論によって4世紀末までには父(神)と子(キリスト)は同質であり、父・子・聖霊は一つの神格の三つの位格が現れたものであり、その本質において同一であるとする三位一体説が正統教義として確立されつつあった[245]。しかし、神とキリストの同一性が確立された後も、『聖書』に現れるキリストの「神性」と「人性」をどのように理解するかを巡っての論争が継続していた。
  17. ^ ビザンツ側はサーサーン朝との戦争の最中、キリスト教徒間の宗派的対立を解消すべく、新たにカルケドン信条と単性説を折衷させた単意論(キリストは神性と人性を有するが一つの行動様式を有する)を提唱してエジプトへの普及を図り、アレクサンドリア主教キュロスがその任務を委ねられていた。しかしエジプトの反カルケドン派の修道士たちは単意説をカルケドン信条と同一視してこれを拒否し、キュロスは厳しい弾圧によってこれに応じた[288]。キュロスの弾圧の過酷さのために、後世のコプト派キリスト教徒たちの伝承ではキュロスはキリスト教徒ではないとされた[286]
  18. ^ 杉村によれば、642年にはビザンツ帝国のエジプト支配は放棄されていたが、『テオファネス年代記』には653/654年の項までアレクサンドリア主教位の在任期間が記載されており、ビザンツ帝国がエジプトを断念して完全に放棄したのは655年であるという[291]
  19. ^ 683年にウマイヤ朝によるイスラーム共同体統治に反旗を翻したイブン・アッズバイルがカリフ位を宣言し、ムスリム支配地のほとんどの支配権を得たことで始まった第二次内乱(683年-692年)を経て、ウマイヤ家のマルワーン1世(在位:684年-685年)とアブド・アルマリク(在位:685年-705年)が支配権を確固たるものとし、以降のウマイヤ朝はマルワーンの子孫(マルワーン家)出身のカリフによって統治されていくことになる[300]。その後エジプトの支配はマルワーン1世の息子アブドゥルアズィーズ英語版に委ねられた[301]
  20. ^ ここでいう「白人」という用語は現代的な意味でのいわゆるヨーロッパ人の人種集団を指す白人という用語とは異なる。この「白人奴隷兵士」の出自は中央アジアのテュルク人(トルコ人)、モンゴル人や東欧のスラヴ人ギリシア人らが含まれた。
  21. ^ ここで言う「トゥルク(Turk)」は言語系統の分類による現代の学術用語であるテュルク人、あるいは「トルコ人」と完全に一致する概念ではない。当時のアラビア語文書において「トゥルク」という言葉は使用言語に関わらず中央アジア的な諸部族民を指して使用されていたと見られる[321]
  22. ^ マムルーク、グラーム、アトラーク、それらと関わるマワーリーなど、イスラーム世界の奴隷軍人に関わる用語の厳密な定義、分類、用語法の問題は極めて複雑であるため、本項では白人奴隷軍人を便宜上全てマムルークと呼称する。この問題に関する詳細な整理・解説は関連する記事及び、佐藤 1991, 清水 2005を参照されたい。
  23. ^ 同一の書籍内であるが、三浦 2002, p. 272ではムハンマド・ブン・トゥグジェ「イラン系」、私市 2002, p. 208ではイフシード朝は「トルコ系」と書かれている[335][336]。Britanicaによれば、ムハンマド・ブン・トゥグジェは中央アジアのソグディアナ出身の将軍であるが、イフシード朝は「Turkish dynasty from Fergana in Central Asia」と描写されているため、ここでは「テュルク」とした[337]
  24. ^ 当時のキリスト教徒(コプト教徒)はなお人口の40パーセントを占めていたとも言われる[343]

出典[編集]

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  357. ^ “ムスリム同胞団、80年経て手にした政権の座ははかなく エジプト”. AFPBB News (フランス通信社). (2013年7月4日). http://www.afpbb.com/article/politics/2954481/11005922 2013年7月13日閲覧。 

参考文献[編集]

史料[編集]

  • コルネリウス・タキトゥス『年代記 (上)』国原吉之助訳、岩波書店岩波文庫〉、1981年3月。ISBN 978-4-00-334082-0
  • イブン・ハルドゥーン『歴史序説 1』森本公誠訳、岩波書店岩波文庫〉、2001年6月。ISBN 978-4-00-334811-6

書籍・論文[編集]

その他の資料[編集]

Web[編集]