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サハラ砂漠

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
サハラ砂漠 (الصحراء الكبرى)
Desert
サハラ砂漠の衛星写真
モロッコ, 西サハラ, モーリタニア, アルジェリア, マリ共和国, ニジェール, チュニジア, リビア, チャド, エジプト, スーダン
座標 北緯23度 東経13度 / 北緯23度 東経13度 / 23; 13座標: 北緯23度 東経13度 / 北緯23度 東経13度 / 23; 13
最高地 エミクーシ山
 - 座標 北緯19度47分36秒 東経18度33分6秒 / 北緯19.79333度 東経18.55167度 / 19.79333; 18.55167
最低地 カッターラ低地
 - 座標 北緯30度0分0秒 東経27度5分0秒 / 北緯30.00000度 東経27.08333度 / 30.00000; 27.08333
長さ 4,800km (2,983mi), 東西
1,800km (1,118mi), 南北
面積 9,400,000 km² (3,629,360 sq mi)
バイオーム 砂漠
アフリカのバイオーム
リビア西部のタドラート・アカクス砂漠

サハラ砂漠(サハラさばく、アラビア語:الصحراء الكبرى,ラテン文字翻字:al-Ṣaḥrāʾ al-Kubrā, アッ=サフラー・アル=クブラー)または単にサハラは、アフリカ大陸北部にある砂漠で、氷雪気候南極を除くと世界最大級の砂漠である[1]

南北1,700kmロメートルにわたる。面積は約1,000万平方キロメートルであり、アフリカ大陸の3分の1近くを占め、アメリカ合衆国とほぼ同じ面積である。

名称

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サハラは「砂漠」を意味するアラビア語の女性名詞名詞 صَحْرَاءُ(文語アラビア語休止形発音:ṣaḥrāʾ, サフラーッ/サハラーッ・サフラーゥ/サハラーゥ・サフラーァ/サハラーァを混ぜたような発音、口語アラビア語発音:ṣaḥrā, サフラー/サハラー ないし ṣaḥra, サフラ/サハラ)[2]が由来である。

本来はアラビア語辞典で以下のように定義されてきた空間のことで、具体的には「砂漠」「土漠」を意味する[3][4]

  • 岩石の無い軟らかもしくは粗く平坦な場所(اَلْمُسْتَوِيَةُ فِي لِينٍ وغِلَظٍ دُونَ الْقُفِّ 転写:al-mustawiya(h) fī līn wa-ghilaẓ dūna al-quff アル=ムスタウィヤ・フィー・リーン・ワ・ギラズ・ドゥーナ・アル=クッフ)
  • 何も無い広大な場所、広大なる空虚(اَلْفَضَاء الْوَاسِع 転写:al-faḍāʾ al-wāsiʿ アル=ファダー・アル=ワースィウ)
  • 植物が全く生えていない何も無い広大な場所、広大なる空虚(اَلْفَضَاءُ الْوَاسِعُ لَا نَبَاتَ بِهِ 転写:al-faḍāʾ al-wāsiʿ lā nabāt bi-hi アル=ファダー・アル=ワースィウ・ラー・ナバート・ビ・ヒ)」

特に北アフリカなどでは日常的にサハラ砂漠を指すことから、そのまま固有名詞としてヨーロッパの言語に定着した。

アラビア語で明示的にサハラ砂漠を指す時には最上級の形容詞「最も大きな、最大の(كُبْرَى 転写:kubrā[5]」を後置修飾させ、اَلصَّحْرَاءُ الْكُبْرَى(転写:al-ṣaḥrāʾ al-kubrā アッ=サフラー[注 1]・アル=クブラー、実際の発音転写:ʾaṣ-ṣaḥrāʾu-l-kubrā アッ=サフラーウ・ル=クブラー、直訳は「最大なる砂漠」)として砂漠の名称に用いている。

このように名称自体に「砂漠」の意味を含むことから、英語フランス語では砂漠を意味する語(Desert/Désert)は添えず、単に The SaharaLe Sahara と呼ぶのが正式である。

慣用的に日本語では「サハラ砂漠[6]、英語では「Sahara desert」、フランス語では「Désert du Sahara」などと呼びならわしているが、これらはいずれも「砂漠砂漠」となる重言に当たる。


概要

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モロッコ、メルズーガ近郊(砂砂漠)
リビア、タドラルト・アカクス(岩石砂漠)

サハラ砂漠全体の人口は約2,500万人であり、そのほとんどはモーリタニアモロッコアルジェリアに住む。サハラ砂漠内で最大の都市は、モーリタニアの首都ヌアクショットである。そのほかに重要な都市としては、ヌアディブータマンラセトアガデズセブハインサラーが挙げられる。

サハラ砂漠は大西洋に接する。東側はエジプトに面し、スーダンニジェール川を南の境とする。標高300メートル程度の台地が広がり、中央部にはホガール山地アルジェリア南部)、アイル山地ニジェール北部)、ティベスティ山地チャド北部)がある。サハラ砂漠の最高点は、ティベスティ山地のエミクーシ山(3,415メートル)である。約70パーセントは礫砂漠で、残りが砂砂漠と山岳・岩石砂漠である。

サハラ砂漠は、アフリカ大陸を北アフリカサブサハラ(サハラ以南)に分割している。2つの地域は気候の上でも文化の上でも大幅に異なっている。サハラ砂漠より北は地中海性気候であるのに対し、砂漠の中は砂漠気候(BWh)である。一方、砂漠の南端はステップ気候帯に隣接している。南部限界は、年150ミリの降水量線に相当している。

サハラ砂漠の成因はハドレー循環による北緯20度から30度にかけての亜熱帯高圧帯の直下に位置し、年中アゾレス高気圧に覆われることによって降雨が起こらないことである。インド中国南部のようにこの緯度にあっても地形の関係で大量の降雨がある地域もあるが、サハラ砂漠はアジアヒマラヤ山脈のような広域気象に影響を与えるような大山脈が存在せず、北のアトラス山脈を除いてはほぼ平坦な地形であることから緯度がそのまま乾燥度に関係し、広大な砂漠を形成している。しかし、亜熱帯高圧帯は地球全体の気象の変化によって数千年単位で北上・南下を繰り返すため、過去には何度も湿潤地帯となったことがあった。

資源

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サハラ砂漠はさほど鉱物資源の多い地域ではないが、それでもいくつかの大規模鉱山が存在する。もっとも豊富で価値のある資源は石油である。特に砂漠北部のアルジェリアリビアには豊富な石油と天然ガスが埋蔵されており、アルジェリアのハシメサウド油田やハシルメルガス田、リビアのゼルテン油田、サリール油田、アマル油田などの巨大油田が開発され、両国の経済を支えている。

また、モロッコと西サハラには燐酸塩が埋蔵されている。西サハラのブーカラーで採掘されるリン鉱石は、全長約90キロメートル以上のベルトコンベアーで首都アイウンまで運ばれ、船に積み込まれる[7]。この採掘は、全域が砂漠の西サハラにおいて最大の産業となっている。

このほか、砂漠西部のモーリタニア北部、ズエラットには巨大な鉄鉱床が存在し、ここで採掘される鉄鉱石は近年大西洋沖合いにて石油が発見されるまでモーリタニア経済の柱となってきた。

また、砂漠中央部、ニジェール領アーリットにはウランの鉱床があり、アクータ鉱山とアーリット鉱山の2つの鉱山が開発されて、ほかに見るべき産物のないニジェール経済の牽引車となってきた。

北東部のリビア砂漠においては、リビアングラスという天然ガラスが埋蔵され、古代エジプト時代より宝石として珍重されてきた。また、サハラ北部には砂漠のバラが多数存在し、土産物となっている。

歴史上においては、サハラ砂漠でもっとも貴重な鉱物はであった。1030年ごろ、現在のマリの最北端にタガザ塩鉱が開かれ、サハラ交易の最重要拠点のひとつとなり、ここをめぐってモロッコのサアド朝がタガザの支配権を握っていたソンガイ帝国を滅ぼしている。タガザ塩鉱はそのころには枯渇し、代わってその160km南のタウデニに塩鉱が開かれた。同値は現在も重要な塩の産地として、塩の板は採掘場から南のトンブクトゥまで、ラクダのキャラバンによって運ばれていく[8]

サハラ砂漠においてもっとも希少な資源はであるが、サハラは数千年前までは湿潤な土地であり、そのころに蓄積された化石水が地底深く眠っている。それに目をつけたのがリビアのカダフィ大佐であり、1984年リビア大人工河川計画を発表した[9]。計画ではフェザーンやキレナイカ南部の化石水をくみ上げてトリポリベンガジといった海岸部の大都市に供給しようと送水管を敷設、一部完成してベンガジ1993年)とトリポリ1996年)に送水が開始された。しかし、この化石水は現在の気候条件下では再生不可能な資源であり、使用しきってしまうと設備は一瞬にして無用の長物と化すため、浪費であるとの批判もある[要出典]地下帯水層の枯渇はまた、リビア南部のオアシスに重大な影響が出る恐れがあるなど、環境破壊の観点も指摘がある[要出典]

地理

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主要地形区。リビア砂漠テネレ砂漠西サハラホガール山地など

サハラ砂漠はエジプト、チュニジア、リビア、アルジェリア、モロッコ、西サハラ、モーリタニア、マリ、ニジェール、チャド、スーダンにおよぶ。砂漠地形は風と季節雨が形成し、砂丘、砂平原、砂海(エルグ)岩石砂漠(ハマダ)、礫平原(レグ)、涸れ谷(ワディ)、塩類平原(シャット)などがある。サハラ砂漠といえばまず連想される光景は「エルグ」でありながら、砂丘が連なるこの地形的特徴は砂漠全体の14パーセントにすぎず、大部分は台地状の岩石砂漠が占める[10]

深く切り裂かれた山地や山脈、火山などの高まりも見られる。サハラ砂漠の最高峰は北部チャドのティベスティ山地に位置するエミクーシ山という火山である(標高3415m)。サハラの西部、モーリタニアの中央部にはリシャット構造と呼ばれる巨大な環状構造地形が存在する。これは長年の風化と侵食によって軟らかい岩石の部分が削られ、同心円状の山地が50 kmにわたって続き、その特異な形状から「サハラの目」とも呼ばれる。

サハラ中央部、チャド北部にはボデレ低地と呼ばれる広大な低地がある。この低地はガザール・ワディによって南のチャド湖とつながっており、過去の湿潤期にはチャド湖方面から流れ込んできた水によって大きな湖となっていた。8000年前の最湿潤期にはチャド湖と一体化した大チャド湖の一部となったこともある。そのころにたまったシルトや砂によって現在は一面の砂丘地帯となっており、サハラから近隣地域にまで拡散する膨大な砂塵はその多くがボデレ低地から運ばれたものとされる。また、サハラで最も低い土地はサハラ北東部、エジプト西部にあるカッターラ低地海抜マイナス133 m)である。

リビア上空を覆う砂嵐。地中海にまで大量の砂塵が巻き上げられている様子が衛星軌道からも確認できる。2005年1月1日。

サハラからは季節によって周辺地域に風が吹きだす。冬にギニア湾や大西洋岸に向けて吹きつける風はハルマッタンと呼ばれ、熱風ではなくむしろ涼しい風であるがきわめて乾燥しており、この地方に乾季をもたらす。夏に北のリビア方面に吹きだす風はギブリと呼ばれ、熱く乾いている。

地中海を越えてイタリアに到達するとシロッコと呼ばれ、洋上で水分を吸収し湿った熱風となる。ハムシンとは春の熱く乾いた風のことで、リビアやエジプトに向けて吹く[11]

いずれの風もエルグから巻き上げた砂塵を大量に含むため、周辺地域に大量の砂塵を降らせ、市民生活に多大な支障をもたらす[12]。この砂塵はさらに海を越え、ヨーロッパ北アメリカ南アメリカといったほかの大陸にまで届く。巻き上げられる砂塵の量は年間20億から30億トンにもなり、2月から4月にはカリブ海や南アメリカ大陸に、6月から10月にかけてフロリダ州などに降り注ぐ[13]。この砂塵は黄砂のようにさまざまな害をもたらし、他方、アマゾン熱帯雨林に必要な栄養素を補給するなどの役目も果たしている。

アハガル山地のオアシス

ナイル川を例外として、ほとんどの河川は一定の季節ないしは間欠的に見られ、地下水は地表に現れオアシスを形成する。サハラ砂漠中央部は極度に乾燥し、植生はほとんどない。砂漠の端で山地から水の供給のあるところでは草、潅木、高木が生えている。かつて湿潤だったころの名残として、ニジェール中部のテネレ砂漠にテネレの木と呼ばれるアカシアが生えており、世界でもっとも隔絶したところにある木として知られていたが、1973年に倒されてしまった。気象学的に年間降水量150mmの線が南部のサヘルとの境界である。

住民と生活

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サハラの先住民は、西部全体に居住する白人系のベルベル人と、ティベスティ山脈周辺に居住する黒人系のテダ人別称トゥブ人英語版[14]である。これに、6世紀以降東からやってきたアラブ人と、アラブ人とベルベル人の両方の祖先を持ちイスラム化されたムーア人がいる。ムーア人は西方のモーリタニア周辺を中心に居住する。

サハラの伝統的産業は、オアシスでの農業遊牧である。フォガラと呼ばれる地下水路によって水をオアシスまで引き込むことも多く行われる[15]。オアシスで栽培されるものはナツメヤシが中心である。

砂漠化の進行

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サハラ一帯は、完新世(1万年前 - 現在)以降は湿潤と乾燥を繰り返してきた。2万年前から1万2000年前はサハラ砂漠がもっとも拡大した時期で、現在のサヘル地帯のほとんどがサハラ砂漠に飲み込まれていた。その後最終氷期の終焉とともにサハラは湿潤化を開始し、およそ8000年前にもっとも湿潤な時期を迎えた。この時期の砂漠はアトラス山脈直下の一部にまで縮小し、サハラのほとんどはサバンナやステップとなり、森林も誕生した。7500年前に一時乾燥化したがすぐに回復し、5000年前までの期間は湿潤な気候が続いた。

その後、徐々に乾燥化が始まり、以来現在にいたるまでは乾燥した気候が続いている。5000年前と比べると砂漠の南限は1,000キロ kmも南下している[16]。乾燥化は歴史時代を通じて進行しており、砂漠の南下も進行中である。

20世紀以降では、1915年ごろ以降降水量は増加したが、1920年代以降現在までは降水量は減少傾向にある。

1960年代以降、サハラ地域を含めアフリカでは人口爆発が続いている。食料増産・生活のため、焼畑農業過放牧・灌木の過度の伐採が行われ、生態系が破壊される悪循環が繰り返されている。

1968年 - 1973年にかけて、サハラ一帯に2,500万人が被災した大規模な旱魃が発生した。なお、これを契機として、1977年国連砂漠化防止会議(UNCOD)が開催された。しかし1983年 - 1984年にかけ再び大旱魃が発生した。モザンビークアンゴラスーダンチャドエチオピアでは、旱魃に加え政情不安定もあり、飢餓で多数の死者を出した。

人口爆発・旱魃により、砂漠化は急速に進行し始めた。貧困・気候変動も密接に関連しているため、決定的な解決策は存在しないに等しい。現在でもサハラ南縁部は世界でもっとも砂漠化が進行している地域で、砂漠の面積は毎年約6万km2のスピードで拡大を続けている。国連環境計画(UNEP)の調査では、南側で毎年150万ha(1万5000 km2)ずつ広がっていると報告された[17]

2007年からアフリカ連合の主導のもと、グレート・グリーン・ウォール・プロジェクトが始まり、砂漠の拡大を防ぐため大陸西岸のセネガルから東岸のジブチの沿岸部まで約700 kmを樹林帯でつなごうとしている[18]

ところが、地球温暖化が気候変動を再び助長して植生の変化が進展し、南縁部には緑化の兆候もあるという。このような近年の調査研究による予想モデルでは、雨量が増加し湿潤化されるとの説もある。サハラ砂漠南縁部の衛星画像から東西3860 kmに広がる半乾燥地域サヘルで緑化の兆しが分析されること[19]、撮影時期が1982年–2002年の画像を比較してサヘル全域の緑化が進むと示した研究論文(『Biogeosciences』誌掲載)[19]、さらにチャド中央部やスーダン西部などでも植生が非常に豊かになったという観察が集まり[19]、これらについて「気温上昇と大気の保水性ののびから雨量が多くなるから、植物生息域が増えたという事象の主な要因は大気の保水力」ではないかとマルティン・クラウセン(マックス・プランク気象研究所、ドイツ)はコメントした[19]

最近の植生変化は、単に雨が降って一時的に雑草が生えただけか、あるいは樹木が根付いたのか、衛星画像では確認できなくても地上の実地調査では後者であると確認されている。また北アフリカの広い範囲でアカシアなどの樹種が新たに広範囲に繁茂すると気象学者シュテファン・クレペリン(Stefan Kraepelin ドイツ、ケルン大学アフリカ学研究所)は示唆している[19]

国際関係と政治情勢

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サハラ周辺各国が一堂に会しサハラについて話し合う国際機関や協定は存在しない。周辺国の一部はアフリカ連合にも前身のアフリカ統一機構にも加盟しておらず、たとえば機構時代の加盟国モロッコは1985年、西サハラの亡命政府サハラ・アラブ民主共和国[注 2]の加入と入れ替わりに脱退した[20]

独立以後、サハラに引かれた国境線をめぐっては何度か国境紛争が起こっている。また、特にサハラに住むトゥアレグ人やトゥブ人などが中央政府に対して反乱を起こすことも多く、政情は安定していない。

1960年、「アフリカの年」にほとんどの国家が独立したあと、最初にサハラで混乱が起きたのはチャドであった。フランソワ・トンバルバイ大統領率いる南部の黒人中心の政権に対して1965年に北部のイスラム系住民が反乱を起こし[21]、断続的に1990年まで内戦が続いた。この内戦には北のリビアが介入し、1973年にはリビアが領有権を主張したチャド北部のアオゾウ地帯を占領下に置いた。さらにリビアは内戦への介入を強め、イッセン・ハブレグクーニ・ウェディを交互に支援して何度か首都ンジャメナまで侵攻した。 しかし1986年にはハブレ政権側が対立を深め、リビアはチャドに侵攻。これに対しチャドは反撃すると1987年トヨタ戦争においてテクニカルを駆使し、相手国の戦車部隊を壊滅させるとアオゾウを奪回。1994年国際司法裁判所の判決によってこの地域はチャド領と裁定され、リビアも撤退した。

ついで紛争が起こったのは、サハラ西端のスペイン領サハラにおいてである。この地域にはモロッコとモーリタニアとが領有権を主張していたが、1975年11月にモロッコが緑の行進と呼ばれる大デモンストレーションを行ってスペインに割譲を同意させ、同地域は北の3分の2をモロッコが、南の3分の1をモーリタニアが支配することになった。

これに対し、西サハラの独立勢力であるポリサリオ戦線が激しく反発し、サハラ・アラブ民主共和国の建国を宣するとともにこの地域でゲリラ戦を展開、特にモーリタニア軍に対して圧力をかけた。ポリサリオ戦線は1976年6月には首都ヌアクショットに侵攻、さらに西サハラとの国境線上にあるフデリックの鉄鉱山に打撃を与えることができた。これによりモーリタニアはポリサリオ戦線と和平を結び、1979年にはこの地域の領有権を放棄する。しかし同時にモロッコ軍が放棄された南部にも侵攻して支配下に治め、南部諸州として実効支配下に置いた。この状態を解決するため国際連合が仲裁に入り、1991年には解決計画が両者間にて合意が成立し、住民投票によって帰属の意思を問うことが決定され、停戦が成立した。同時にこの停戦を監視する国際連合西サハラ住民投票ミッション(MINURSO)の平和維持軍も設立された。しかし投票資格をめぐって両者間は対立し、停戦は継続しているものの投票は無期延期となったままである。現在ではモロッコ軍は内陸部の無人地域との間に砂の壁と呼ばれる壁を築いて海岸沿いの有人地域を制圧しており、西サハラ側は壁の外側を支配している。

1990年代に入ると、気候の乾燥化による経済の悪化や中央政府の腐敗などに反対して、マリやニジェール北部に居住するトゥアレグ人が反乱を起こすようになった。この反乱はすぐに中央政府と和平が結ばれたが、2012年にはマリ北部で反乱が再燃。北部を完全に掌握し、アザワドとして独立を宣言した。

21世紀にはいるとイスラーム・マグリブのアル=カーイダ機構(AQIM)の勢力拡大に対抗するため、対テロ戦争の一環として2007年よりトランス・サハラにおける不朽の自由作戦が開始された。

歴史

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サハラ砂漠周辺への人類の定住は古く、50万年前にさかのぼる。石碑などの出土品からは、当初この地帯は湿潤な気候で、野牛などの狩猟が行われたことが窺われる。アフリカ沿岸の航路が開拓されるまでは、サハラ砂漠内にはいくつかの重要な通商路が存在した。考古学的にも、サハラ周辺とほかの地域との交易が有史以前から行われたことが明らかにされている。アルジェリア南東部のタッシリ・ナジェールやニジェール北部のアイル山地、リビア西部のタドラルト・アカクスなどでは洞窟壁画が発見され、その移り変わりによってサハラの気候変化と、それにともなう人々の生活の変化がわかる重要な資料となっている。

発見された中で最も古いとみられる、線が太く頭部が丸い「円頭人様式」の絵は、土壌の調査から9千年前に描かれたのではないかともみられている。「円頭人様式」はリビア、チャド、アルジェリア南部にも広がり、その傑作がタッシリ・ナジェールの白い巨人の絵とされている。[22]

近年では、人工衛星からの赤外線調査で、河口付近の川幅5km全長1200kmに及ぶ巨大な川(仮称:タマンラセット川)がかつてサハラに流れていたこと、その跡がモーリタニアのアルギン湾で蛇行した川跡と思われる海中峡谷がみつかった。また、モーリタニア沖に堆積した砂の研究から約1万2千年前は砂塵が少なく、サハラが緑の植物に覆われていた、いわゆる「緑のサハラ」の時代だったと考えられている。サハラの北、モロッコのティスリット湖のその頃の土からは杉や樫の花粉が見つかることで年間500~600mmの雨量があり森林があったこと、一方で熱帯植物の花粉が見つからなかったことで熱帯から熱帯モンスーンが届いていなかったことが、推測されている。当時、サハラ南方のチャド湖やニジェール湖にはモンスーンが届いていたとみられている。サハラは、地球の自転・公転の関係で緑化と乾燥化を約2万1千年の周期で繰り返していて、9千年前から1万年前は「緑のサハラ」の時代だったが、現在は乾燥化の時代にあるとされる。[22]

リビアで発見された壁画

先史時代

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ブバルス時代 (Bubalus period):紀元前35000年ごろから紀元前8000年ごろ
野牛、ゾウカバなど、今日ではこの地域で絶滅した動物が生息したことが窺われる。
人間はおもに棍棒で武装したものと推定される。ほかにも使用されたが、は使用されなかった。また一部ではも用いられた。
家畜時代 (Cattle period):紀元前7500年ごろから紀元前4000年ごろ
家畜の飼育が普及した。ヒツジヤギが飼育され、窯業が始まった。紀元前6千年頃には牛が家畜化されたと考えられる。サハラで雨が少なくなりだした時期と考えられている。岩絵は以前より写実的な「イヘーレン様式」に移り変わっている。
研磨による石斧や石の鏃などが生産されるようになった。弓矢はおもに狩猟のために使用された。家畜類はアジアから輸入された。
この時代の後期には村落が形成され、それまでより多数の人口が維持可能になった。また家畜の群れを飼育することも行われるようになった。
イマジゲン時代 (Imazighen period):紀元前3000年ごろから紀元前700年ごろ
この時代の初期にはウマラクダ乳牛の飼育が行われるようになった。イマジゲン(アラビア語: إيمازيغن ; Īmāzīghan)とはいわゆるベルベル人のことである。
紀元前1220年ごろから、フェニキア人との交易により鉄器がもたらされた。
サハラ砂漠からエジプトに渡っていくつかの王国による連合体が作られた。これらの王国は海岸付近に位置したが、中には砂漠の中におよぶものもあった。

歴史時代

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13世紀~15世紀初頭のマリ帝国とサハラ交易路

このころから、地中海沿岸には都市国家が栄えるようになった。中でも有力なものは地中海に面するフェニキア人の植民地を元とする都市国家カルタゴであり、紀元前8世紀ごろから紀元前3世紀ごろにかけて繁栄した。共和政ローマによってカルタゴが滅ぼされると、これらの地域はローマの勢力下に治められ、アフリカなどいくつかの属州に分割された。しかしこれら諸国の支配は海岸部に限られ、サハラ砂漠内におよぶことはなかった。紀元前20年にはローマ帝国軍がフェザーンに攻め込んでガラマンテスの首都ガラマを占領している[23]が、恒久的な領土にはならなかった。

サハラ砂漠内の諸民族でもっとも早く文献に登場するのは、トゥアレグ人の先祖にあたるガラマンテス人である。これは現在のフェザーンに本拠を置いた民族で、紀元前5世紀ごろから5世紀ごろまで栄えた。馬車を使用し、穴居する黒人を狩ったとされる[24]。この時代の馬車の絵がトリポリからガオまで、またアルジェリア南部からセネガル方面まで、砂漠を縦断する2ルートで発見されており、砂漠の縦断ルートはすでに形成されていたとうかがえる。しかし、馬車の絵は常に戦闘状態を示し、またサハラの南北双方においてサハラを越えた先の物品の出土がないことから、この時代にはサハラを越えた通商はまだ行われていなかったと推測されている。

サハラの歴史に重大な転機が訪れるのは3世紀ごろである。このころサハラにラクダが普及し始め[25]に比べてはるかに砂漠に強いラクダの使用によって砂漠越えの通商が採算に合うようになったのである。このころから、サハラに居住する民族によってサハラ交易が徐々に拡大していった。やがてローマ帝国が衰えると、429年ごろにヴァンダル人イベリア半島経由で北アフリカに進入し、ヴァンダル王国を築いた。ヴァンダル王国532年ごろに東ローマ帝国によって再び征服された。

647年ごろにイスラム帝国が北アフリカを征服すると、サハラ交易はさらに盛んになっていった。北アフリカにおけるイスラム教の隆盛とアラブ人の進出とともに、砂漠に住むベルベル人たちもハワーリジュ派のイスラム教を受け入れ、サハラ砂漠は徐々にイスラム教化されていった。このころ、砂漠の南のサヘル地帯にも西アフリカ最初の黒人帝国であるガーナ王国が成立し、サハラ交易、特にの交易に基盤を置いて繁栄した。

サハラ交易の基盤は、北の塩と南の金の交換にあった。北の塩床から塩を切り出して砂漠を越えて南へ運び、サヘルの黒人王国まで運んでいく。黒人王国はこの塩をさらに南、セネガル川やニジェール川最上流の産金地帯まで運んでいき、ここで金と交換して自国へ戻り、この金を北の商人に渡す。この流れは16世紀ポルトガル人が海岸地方に来航するまでサハラ交易の基本システムとなった。

1040年、ベルベル系の砂漠の遊牧民サンハージャ族の間でイスラム教の改革運動が起き、1056年、この教団がムラービト朝を建国した。ムラービト朝はサハラを北進してサハラ交易の一中心であったシジルマサを押さえ、モロッコ、さらにはスペイン南部を占領する一方、南のガーナ王国に対して1061年ごろジハードを宣し、1076年にこれを滅ぼして、サハラ砂漠の南北にまたがって領土を持つ最初の国家となった。1087年にはガーナが再独立したものの、往年の力はなく、やがて13世紀に入るとその南のマリ帝国が力を持つようになり、西アフリカの覇者となった。マリはニジェール川流域を支配下に置き、やはりサハラ交易によって栄え、マンサ・ムーサ王がサハラ砂漠を越えてメッカへと巡礼に向かうなどしたが、15世紀には衰えた。

マリのあとに西アフリカを支配したのはソンガイ帝国である。14世紀に強大となったこの王朝は、サハラ中央部のテガザ塩鉱を支配下に置き、塩と金の双方を支配下に置くことで繁栄した。しかし、16世紀末にテガザ塩鉱の支配権をめぐって北のモロッコのサアド朝と紛争を起こし、1592年にサアド朝の遠征軍によって滅ぼされた。これによってサアド朝もサハラの南北にまたがって領土を持つこととなったが、サアド朝本国の内乱によってこの支配はわずか22年で終了する。この後もニジェール川流域に土着したモロッコ系豪族によってモロッコの名目上の支配は続くものの、西アフリカの統一も、サハラの南北統一も二度となされることはなく、サハラの西側を通る交易ルートは徐々に衰退していく。

これに代わって、すでに15世紀エジプトマムルーク朝の勃興とともに復活していたサハラの中央部を通る交易ルートが隆盛に向かった。このルートは南に金鉱を持たなかったため発達が遅れていたが、北のと南の奴隷を柱とする交易で栄えるようになった。この交易ルートを押さえていたのが、チャド湖を中心に栄えたカネム・ボルヌ帝国と、その西にあるハウサ諸王国である。カネム・ボルヌは16世紀、イドリス・アローマ王のもとでチャド北部、さらにはフェザーンまでを支配下に置き、サハラ中央部まで進出して交易ルートを握った。このころオスマン帝国がサハラ砂漠に隣接する北地中海沿岸を版図に収めており、サハラ砂漠交易ルートはいまだに隆盛していた。

しかし、大航海時代とともに、西ヨーロッパ各国がアフリカ大陸の海岸部に進出してきた。ヨーロッパ諸国はギニア湾岸に交易地を多く建設していき、これにともなって海岸へと向かう交易ルートが新たに開発されるようになった。中央部や東部のサハラ交易はまだ影響を受けなかったが、西部の交易は次第に海岸部向けのものが主流になっていく。アシャンティ王国ダホメ王国などの海岸に近い国家が新たに交易によって繁栄するようになり、内陸は徐々に寂れていった。それでも東部の交易は続いており、18世紀にはトリポリのカラマンリー朝がフェザーンを征服してサハラ中央部にまで支配を伸ばすなどしている。しかし19世紀後半、交易が完全に海路中心となり、さらにヨーロッパの列強諸国がサハラに進出して、サハラが国境線によって完全に分断されるとともに交易ルートも切断され、サハラ交易はここに終焉した。

サハラ砂漠に積極的に進出したのはフランスで、北のアルジェリアからサハラを南下するルートと、西のダカールからサヘルを西進し、そこから北上するルートで攻略を進め、20世紀初頭にはサハラ砂漠の大部分がフランス領となった。そのほか、海岸部の西サハラをスペインが、エジプトとスーダンをイギリスがそれぞれ支配し、1912年には伊土戦争の結果オスマン帝国からリビアをイタリアが奪取し、残るモロッコ王国も同年フェス条約によってフランスの保護領とされて、サハラ砂漠はすべて欧米列強によって分割されることとなった。

第二次世界大戦後は独立が進み、1960年の「アフリカの年」に旧フランス領諸国が一気に独立を果たして、さらに1962年にアルジェリアが独立することでこの地域は西サハラを除いてすべて独立を達成することとなった。

交通

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モーリタニア鉄道の沿線風景

サハラ砂漠を南北に縦断するルートは何本か存在するが、一般的な自動車が走破可能な道路を選び、かつ、給油の便を考えるとわずか3本ほどに絞られる[26]。モロッコのマラケシュから大西洋沿岸を西サハラのアイウンダクラ、モーリタニアのヌアディブーを通ってヌアクショットへいたるもの、アルジェリアのベシャールアバドラから南下してマリのガオにいたるもの、アルジェからタマンラセット、ニジェールのアーリットを通ってアガデスへと抜けるものなどである。しかしどのルートも国境付近には道路らしい道路はなく、前の車の轍を目印に走ることとなる。車両の故障が命取りとなり、多くの犠牲者を出す例もある[27]。しかし21世紀に入り、ヌアディブーからヌアクショットの道路が舗装されて大西洋沿岸のルートはほぼ整備を完了すると、サハラ初の縦貫舗装道路となった。なお、この地帯を横断する道路は1本も存在しない。

同縦貫道路はまた、サハラ以南の経済難民が砂漠を北上して欧州を目指す経路にも使ってきた。ただし悪質な密航業者により砂漠内で難民が遺棄される事案もあり、死者も発生している[28]

パリ・ダカール・ラリーは世界有数のラリーレイド競技として1979年から2007年の間、催された。メインコースは出発地パリからサハラを経て終着点ダカールセネガル)まで約1万200 kmを走破し、テロ強盗に遭うことが少なくなかった。2008年には治安の悪化によってレース自体が中止に追い込まれた。これを受け2009年度から南アメリカ大陸に場所を移し、競技はサハラで行われなくなった。後継のイベントの名称は「ダカールラリー・アルゼンティーナチリペルー」である。

鉄道はほとんど存在しないが、モーリタニア北端を走るモーリタニア鉄道は例外である。この鉄道はサハラ砂漠の中にあるズエラットと大西洋岸のヌアディブーの間を結ぶ全長717–kmの鉄道で、全線が砂漠の中を走る。この貨物鉄道の敷設はズエラット近郊フデリック鉄鉱石をヌアディブー港まで運ぶ目的があり、鉄鉱石を積んだ貨車の列は全長 3kmにおよび、世界一長い列車として知られる。旅客専用列車はないが混合列車編成を組むときは旅客の利用もでき、貨物列車の最後尾に連結した客車に乗り込む。

脚注

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  1. ^ 実際にはサハラーに近い発音だが、標準的な学術表記だとサフラーとなる。
  2. ^ サハラ・アラブ民主共和国は1985年、独立派武装組織ポリサリオ戦線が樹立。

出典

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  1. ^ フジテレビトリビア普及委員会『トリビアの泉〜へぇの本〜 2』講談社、2003年。 
  2. ^ The Living Arabic Project - صحراء” (英語). 2023年12月29日閲覧。
  3. ^ معنى شرح تفسير كلمة (صحراء)” (アラビア語). www.almougem.com. 2023年12月29日閲覧。
  4. ^ المعاني - صحراء” (アラビア語). 2023年12月29日閲覧。
  5. ^ The Living Arabic Project - كُبْرَىكبرى ” (英語). livingarabic.com. 2023年12月29日閲覧。
  6. ^ 「サハラ‐さばく【─砂漠】」『日本国語大辞典』。国立国会図書館書誌ID:200201c2c471f3512OXu。「サハラ砂漠・サハラさばく・さはらさばく・ サハラサバク」  ネットアドバンス : Japan Knowledge
  7. ^ 第98巻、朝日新聞社、1985年9月8日。 (昭和60年9月8日)
  8. ^ 第99巻、朝日新聞社。 (昭和60年9月15日)
  9. ^ 塩尻和子『リビアを知るための60章』明石書店、2006年8月15日、222頁。 
  10. ^ 『アフリカを知る事典』(初版第1刷)平凡社、1989年2月6日、174頁。ISBN 4-582-12623-5 
  11. ^ 「図説 世界の気候事典」p146-147 山川修治・江口卓・高橋日出男・常盤勝美・平井史生・松本淳・山口隆子・山下脩二・渡来清編 朝倉書店 2022年7月1日初版第1刷
  12. ^ 「沙漠学事典」p396-397 日本沙漠学会編 丸善出版 令和2年7月30日発行
  13. ^ 「キリマンジャロの雪が消えていく―アフリカ環境報告」p158 石弘之(岩波新書、2009)
  14. ^ ベルテルスマン社、ミッチェル・ビーズリー社 編『世界再発見 : 人々の暮らしが見える歴史、風土、国情が読める』 2巻《北アフリカ・アラビア半島》、同朋舎出版〈ビジュアルシリーズ〉、1992年5月、(39コマ)頁。 
  15. ^ 「ビジュアルシリーズ世界再発見2 北アフリカ・アラビア半島」p26 ベルテルスマン社、ミッチェル・ビーズリー社編 同朋舎出版 1992年5月20日第1版第1刷
  16. ^ ⭕️|title= アフリカを知る事典』、平凡社、ISBN 4-582-12623-5 1989年2月6日 初版第1刷 p.173
  17. ^ 石弘之『地球環境報告』岩波書店〈岩波新書(新赤版33〉、1988年、130頁。 
  18. ^ アフリカに築かれる「緑の万里の長城」 (Great Green Wall)”. 一般社団法人環境金融研究機構 (2016年9月7日). 2021年3月29日閲覧。
  19. ^ a b c d e サハラ砂漠、気候変動で緑化が進行か” (2009年7月31日). 2025年5月30日時点のオリジナルより[hive.org/web/20250530142952/https://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/news/14/1526/ アーカイブ]。2009年8月4日閲覧。
  20. ^ 西サハラ(主な活動 > 国際の平和と安全 > 植民地の独立 > 植民地と人民に独立を付与する宣言)”. 国連広報センター. 2025年12月29日閲覧。
  21. ^ 田辺裕、島田周平、柴田匡平『アフリカ』 2巻、朝倉書店〈世界地理大百科事典〉、1998年、371頁。ISBN 4254166621 
  22. ^ a b ”GREEN SAHARA” 制作:J2F Production(フランス、2024年)
  23. ^ 宮本正興、松田素二 編『新書アフリカ史』(第8版)〈講談社現代新書〉、2003年2月20日、184頁。 
  24. ^ 木村重信 [文]、門田修 [写真]『サハラの岩面画 : タッシリ・ナジェールの彩画と刻画 写真集』日本テレビ放送網、1983年3月。NDLJP:12417976全国書誌番号:83028205 
  25. ^ 私市正年『サハラが結ぶ南北交流』 60巻(1版1刷)、山川出版社〈世界史リブレット〉、2004年6月25日、9頁。 
  26. ^ 岩崎有一 (2015年7月8日). “砂漠の真ん中でカローラとすれ違う : アフリカ道路事情 (1)〈アフリカン・メドレー〉”. アサヒカメラ.net. 2015年7月17日閲覧。2015年7月8日 11:00 (JST)
  27. ^ サハラ砂漠に92人の遺体、行き倒れたニジェール難民」『AFP』フランス通信社、2013年11月2日。2013年11月10日閲覧。
  28. ^ 「[ttps://www.afpbb.com/articles/-/3135199?cx_part=txt_topics サハラ砂漠に水・食糧なしで放置、移民67人を救助 ニジェール]」『』2017年7月10日。2017年7月10日閲覧。

関連項目

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文化

外部リンク

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