シリア戦争 (プトレマイオス朝)

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シリア戦争は、紀元前3世紀から紀元前2世紀頃に、コイレ・シリアを巡ってセレウコス朝シリアプトレマイオス朝エジプトの間で争われた一連の戦争のことである。6回に渡って繰り広げられた。この戦争によって両国の資源と兵力は消耗し、ローマパルティアによって征服される一因となった。

第一次シリア戦争(前274~前271)[編集]

セレウコス朝のアンティオコス1世は領土拡張を目論み、当時プトレマイオス2世によって支配されていたシリア沿岸とアナトリア南部を攻めてこれを手に入れた。しかし、プトレマイオス2世はこれらの地域を271年に取り戻し、更にカリアとシリアの大部分を征服するに至った。プトレマイオスの視線が東に行っている間に、異母兄弟であるマガスはキレナイカの独立を宣言した。キレナイカは250年にプトレマイオス朝に再び組み込まれた。

第二次シリア戦争(前260~前253)[編集]

紀元前261年に王となったアンティオコス2世は、シリアを巡ってプトレマイオス朝と戦争を勃発させた。当時、アンティゴノス朝マケドニアの王であったアンティゴノス2世は、プトレマイオス朝の影響力を地中海から排除したいという思惑から、アンティオコス2世を支援した。

第二次シリア戦争の史料はほとんど失われてしまっており、詳しいことは依然不明のままだが、コス島での海戦でアンティオコスは勝利をおさめ、プトレマイオス朝の海軍力は壊滅状態に陥った。プトレマイオス朝はシリア、パンフィリアイオニアへの力を失い、アンティオコスはミレトスエフェソスを手に入れた。アンティゴノス朝によるアンティオコスへの援護は、コリントスカルキスで反乱が起こったことで中止となった。この反乱はプトレマイオス朝によって扇動され引き起こされた。

紀元前253年、アンティオコスはプトレマイオス朝と和約を結び、プトレマイオス2世の娘ベレニケ・フェルノフォラスと結婚した。しかし、紀元前246年にプトレマイオス2世が没すると、離婚した前妻ラオディケ1世と復縁したため、ベレニケとラオディケの対立は深まり、ラオディケはベレニケとその子を殺害した。ラオディケは息子セレウコス2世カリニコスを即位させた。ベレニケ殺害は、エジプトの新王プトレマイオス3世(ベレニケの兄弟)の激怒を招き、彼のシリア攻撃(第三次シリア戦争 (紀元前246年 - 紀元前241年)の原因となった。

第三次シリア戦争(前246~前241)[編集]

アンティオコス2世が死去した後、後継問題で前妻ラオディケ1世とベレニケとの間で争いが起こった。それぞれ、自らの子に王位を継がせたかったからである。ベレニケは自らの兄弟であるプトレマイオス3世に支援を要請した。しかし、前妻ラオディケ1世によりベレニケとその子供はすぐに殺されてしまった。プトレマイオス3世は報復として、王位を継いだラオディケの子セレウコス2世に対して宣戦布告し、第三次シリア戦争を引き起こした。

シリアやアナトリアにおける戦闘で、プトレマイオス3世は多くの勝利を収め、セレウコス朝の首都であるアンティオキアをも占領した。最近の研究によれば、プトレマイオス軍はバビロンにまで到達していたらしい。しかし、アンドロス島の戦いでアンティゴノスによってキュクラデス諸島を奪われたことで、プトレマイオス3世の名声は損なわれた。

紀元前241年に和約が結ばれ、プトレマイオス朝は新しい領土としてシリアの北岸(アンティオキアの港も含まれている)を手に入れた。この時、プトレマイオス朝は最盛期を迎えた。

第四次シリア戦争(前219~前217)[編集]

アンティオコス3世がセレウコス朝の王位を継いだ折、彼はセレウコス1世がかつて築き上げた帝国領土(東はグレコ・バクトリア王国、北はへレスポントス、そして南はシリア)を再び取り戻そうと画策した。当時反乱を起こしていたメディアペルシアの全領土を掌握しようと企んだのである。アンティオコスはエジプトとシリアに目を向けた。

エジプトは、司法の不正や市民の疑心暗鬼などから弱体化していた。当時の王であったプトレマイオス4世は、もはや官僚たちに抗えるほどの権力を持っていなかった。官僚たちは自らの絶対的な権力を私的に利用していた。

アンティオコスはエジプトの混沌とした状況を利用しようとし、紀元前219年に第四次シリア戦争を勃発させ、ピエリア地方、フェニキア諸都市を奪還した。しかし、エジプトへはなかなか侵略を開始しなかった。アンティオコスは奪い返した領土を統合しながらも、フェニキアに滞在し、プトレマイオス朝からの外交提案を待っていた。

その間、プトレマイオス朝官僚のソシビオスは軍隊の募集と訓練を開始していた。ソシビオスはギリシア人だけではなく、エジプト人からも兵士を募集し、結果として3万のエジプト人重装歩兵部隊が編成された。この新部隊を率いてエジプト軍はアンティオコス軍を迎え撃ち、ラフィアの戦いで勝利を飾った。この勝利でアンティオコスはエジプトへの進出を控えるようになった。

参考文献[編集]

  • Green, Peter. Alexander to Actium: The Historical Evolution of the Hellenistic Age. Berkeley: University of California Press, 1990. ISBN 0-500-01485-X
  • Edouard Will, L'histoire politique du monde hellénistique (Editions du Seuil, 2003 ed.) Tome II, pp.311-323