シナイ半島

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Nile River and delta from orbit.jpg
ナイル川河口(写真左半分)とシナイ半島(右半分)
Sinai.jpg
シナイ半島の位置
Sinai Peninsula from Southeastern Mediterranean panorama STS040-152-180.jpg
左がスエズ湾、右がアカバ湾
アカバ湾の最奥部(シナイ半島の東側の付け根)に位置する都市エイラートの北、エジプトとイスラエルの国境線。画像奥が北。

シナイ半島(シナイはんとう、ヘブライ語: חצי האי סיני Chetzi HaYi Sinai アラビア語: شبه جزيرة سيناء‎ Shibh Jazīrat Sīnā')は、西アジアアラビア半島アフリカ大陸北東部の間にある半島。北は地中海、南は紅海、東はアカバ湾、西はスエズ湾にそれぞれ面している。南へ向けた三角形の形状をしており、先端はムハンマド岬。南部にはシナイ山がある。

行政上はエジプト・アラブ共和国北シナイ県南シナイ県にあたる。2013年の人口は59万2222人[1]。住民の多くはベドウィンである。南シナイ県は紅海とアカバ湾にはさまれた三角形で、沿岸地方で観光開発が行われ、外国人観光客が訪れる高級リゾート地がある。また、紅海は美しいダイビングスポットとして知られる。北シナイ県は西にスエズ運河、東にはイスラエルに面し、北東端でパレスチナ国パレスチナ自治区ガザ地区と接する。

歴史[編集]

出エジプトヘブライ人らはシナイ半島へ渡り、モーセシナイ山十戒を授かったとされる。シナイ山(ガバル・ムーサ)の麓には、337年にコンスタンティヌス帝の母ヘレナによって創建された聖カトリーナ修道院がある。

古代におけるローマ帝国東ローマ帝国の領土を経て、中世から近世にかけてウマイヤ朝アッバース朝ファーティマ朝アイユーブ朝マムルーク朝オスマン帝国と興亡するイスラム王朝の領域へと次々と移り変わっていった。

17世紀に入りオスマン帝国に陰りが見え始めると、オスマン帝国から独立したムハンマド・アリーによるムハンマド・アリー朝の支配下に置かれ、1952年エジプト革命後はエジプト・アラブ共和国下に置かれた。1967年第三次中東戦争時にイスラエルの侵攻によって同国に占領され、1973年の第四次中東戦争でも戦場となったが、1978年のキャンプ・デービッド合意によりエジプトへ返還されることとなり、その後順次返還された。

軍事的な要地ではあるが、経済開発は進まず、住民のための水道・医療・教育などの公共サービスは不十分なままである。1990年代にイスラーム過激派組織が結成され、2004年にタバ、2005年にシャルム・エル・シェイク、2006年にダハブで外国人観光客を狙った爆破事件が起きた。2011年の革命の後はさらに治安が悪化し、様々な過激派組織が、天然ガスのパイプラインの破壊、イスラエルに対する越境攻撃、エジプト軍と警察に対する襲撃といった武装闘争を展開している[1]

主な都市[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b 金谷美紗「揺れるシナイ半島 イスラーム過激派の台頭と民主化への影響」、『中東研究』519号(2014年2月)。