エジプト革命 (1952年)

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1952年エジプト革命(1952ねんエジプトかくめい)は1952年7月23日に起こった軍事衝突である。エジプト革命は何度か起こっており、2度目の軍事革命が1952年である。 ムハンマド・ナギーブガマール・アブドゥン=ナーセル自由将校団による革命である。 この革命は彼らによる打倒ファールーク1世の為行われた。

原因[編集]

クーデターの首謀者、ムハンマド・ナギーブ(左)とガマール・アブドゥン=ナーセル(右)

1882年、イギリス軍はアングロエジプト戦争中にエジプトに介入し、 1888年のスエズ運河の自由航行に関する条約で、英国はスエズ運河を軍事力で保護する権利を獲得し、英国がエジプトの政治を支配する拠点を獲得した。この結果、エジプトは名目上はオスマン帝国の臣下であったが、実質的に英国の保護領となった。第一次世界大戦後、英国は、ムハンマド・アリー朝の信頼できるメンバーを王座に置き、名実ともにエジプトの保護国化を宣言した。また、第二次世界大戦中、エジプトは北アフリカでの戦闘の主要な連合軍基地であった。戦後に至っても、英国の政策は、貿易にとって不可欠であるスエズ運河の管理確保に重きを置き続けた。

一方で、第二次世界大戦中には、枢軸軍の北アフリカ侵攻に呼応してイギリスを放逐すべしとの世論が生まれた。結果的には、ファールーク1世が英国の脅迫に屈し、実現に至らなかったものの、これらの過程はエジプトの民族主義者に影響を与え、国王の人気も急落させた。 1948年のアラブとイスラエルの戦争は、英国の支援を受けたファルク王を非難したこれらのナショナリストを恥辱した。イスラエルとの1948年の戦争の喪失は、自由討論官が王とその裁判所に腐敗し、エジプトの人々の間でその感情を促進することを告発する結果となった。 自由職員運動(または若手役員運動とも呼ばれる)は、ソ連と米国の支援を受けて、Gamal Abdel Nasserという若い役人の周りで合流した改革派の役人のグループによって構成された。彼らは軍の将軍、Muhammad Naguibを彼らの真剣さを示し、より多くの軍の支持者を引き付けるための頭脳として使用した。

エジプトの君主制は、貧困に暮らしていた自由士官運動に挑発的だった贅沢な生活様式を持つ腐敗と英国の両方として見られた。 その政策は、エジプト政府のイメージを英国政府の手の人形像として完成させた。 警察、宮殿、政党などのエジプトのいくつかの機関の自由討論者による腐敗感の促進があった。 1952年7月23日付けのCIA文書は、高司令部における腐敗に対する軍内部の不満が、1948年のパレスチナ紛争の間に始まったと述べている。 イスラエルとの1948年の戦争の喪失は、王の非難と、エジプトの人々の間でのその感情の促進をもたらした。 軍と君主制の間の緊張が、ハイドル・パシャ陸軍司令官、ハイド・パシャ・チーフ・オブ・ハイド・パシャとその他の高官の逮捕をもたらした。

脚注[編集]