アシュラフ・カーンスーフ・ガウリー

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アシュラフ・カーンスーフ・ガウリー
الأشرف قانصوه الغوري
ブルジー・マムルーク朝第24代スルターン
Portrait of Al-Ashraf Qansuh al-Ghawri by Paolo Giovio Paolo 1483 1552.jpg
アシュラフ・カーンスーフ・ガウリーの肖像画( パオロ・ジョヴィオ筆)
在位 1501年 - 1516年

死去 1516年8月24日
王朝 ブルジー・マムルーク朝
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アシュラフ・カーンスーフ・ガウリー(? - 1516年8月24日)は、ブルジー・マムルーク朝の第24代君主(在位:1501年 - 1516年8月24日)。

生涯[編集]

1501年に即位したガウリーは斜陽の途にあったマムルーク朝を再建するため、弱体化して役立たずになっていたマムルークに代わってアビード(黒人奴隷)やズール(ヤクザ)などを徴兵してマムルーク軍団からの脱却を図った[1]。また銃砲など新たな装備も行なったりして諸改革に着手した。

しかしマムルーク朝はすでに外圧に苦しめられていた。インド洋にはポルトガルサファーヴィー朝の進出が行なわれ、オスマン朝キリキアを支配下に置いてマムルーク領のシリア北部を脅かし出した。しかし財政的にも苦しかったマムルーク朝では有効な手立てを取れずにいた。

オスマン朝のセリム1世はマムルーク朝の衰退を見てシリア遠征を決意。ガウリーもこれを迎え撃つためシリアに進出した(マルジュ・ダービクの戦い)。兵力ではガウリーの方が優勢だったが[2]、交戦中に味方の寝返りが起こって大敗[3]。ガウリーは敗走中に戦死した[4]

この戦いでマムルーク軍は7万の兵力を失うという致命的な大敗を喫し[5]、マムルーク朝は翌年にセリム1世によって滅ぼされた。

脚注[編集]

  1. ^ マムルークは15世紀頃になると弱体化して君主(スルタン)から支給される給与で生活する都市生活者に成り下がっていた
  2. ^ マムルーク軍が8万、オスマン軍は7万
  3. ^ ガウリーと不仲だった部下の裏切りと、新兵として雇った黒人奴隷らの報酬が安すぎて士気が低かった
  4. ^ ガウリーは不甲斐ない味方の敗走と裏切りで怒りのあまりに脳溢血を起こし、死亡したとも伝わる[要出典]
  5. ^ 数に関しては誇張の可能性もあるが、大砲を主軸にしたオスマン軍に旧式軍備で戦ったマムルーク軍が大敗したのは事実である[独自研究?]

参考文献[編集]