アラヴィー朝
アラヴィー朝は、9世紀から14世紀にかけて、カスピ海南岸地域に勃興した王朝群の総称である。サファヴィー朝の初期の頃まで続いた[1]。
王朝群成立の地理的歴史的背景[編集]
現代ペルシア語でこの王朝群を指す「アラヴィヤーン」(ペルシア語: علویان, ラテン文字転写: alavyān)は、英語で ʿAlids[1]、日本語で「アリーの子孫(の王朝)」(ただし、複数形)のような意味である[2]。
カスピ海とアルボルズ山脈に挟まれた地域は、東からタバリスターン、ダイラム、ギーラーンと呼ばれ、アルボルズ山脈以南のイラン高原中央部と比較すると湿潤な気候に恵まれ、そこに住む人々の生活文化や精神文化も中央とは少し異質で独立性が高い。この地域にシーア派信仰が浸透するきっかけとなったのは、アッバース朝のカリフ、ハールーン・アッラシードの治世(786-809)に、ハサン家のヤフヤー・ブン・アブドゥッラーが短期間、ダイラム地方に亡命したこととされるが、これを裏付ける史料を欠く[1]。
最初の王朝は、ハサン家のハサン・ブン・ザイドの四世孫(玄孫)の一人、ハサン・ブン・ザイド(ダーイー・キャビール)が、タバリスターンでターヒル朝に対して起きた反乱に同盟して成立した[1]。
一次史料[編集]
アラヴィー朝に関する情報が得られる主な一次史料としては、『バイハキー史』がある[2]。
アラヴィー朝またはアリー朝(ペルシア語:سلسله علویان طبرستان )は、864年から928年にかけて、イラン北部のカスピ海南岸地域、タバリスターン・ダイラム(現ギーラーン)などに勢力を張った王朝。シーア派の一派ザイド派を奉じ、別名ザイド朝と呼ばれる。
歴史[編集]
この王朝の王家はハサン・イブン・アリーの子孫であるとされており、カスピ海南岸にイスラーム政権を樹立した。928年にサーマーン朝に敗北し、アラヴィー朝は滅亡した。滅亡後、将兵の一部はサーマーン朝に仕えた。ズィアールの息子マールダヴィジもサーマーン朝に仕えた将軍の一人で、後にズィヤール朝を打ち立てた。ブーイェの息子であるイマード・ウッダウラ、ハサンそしてアフマドもサーマーン朝に仕え、932年にブーイェ朝(ブワイフ朝)を樹立する。
アラヴィー朝のアミール[編集]
- ハサン・イブン・ザイド(864年 - 883年)
- ムハンマド・イブン・ザイド(883年 - 900年)
- サーマーン朝のタバリスターン攻略により、ダイラムに亡命(900年 - 913年)
- ハサン・イブン・アリー(913年 - 916年)
反サーマーン朝と親サーマーン朝派の対立[編集]
- 反サーマーン朝派
- ハサン・イブン・カシム(916年 - 928年)
- 親サーマーン朝派
- アフマド・イブン・ハサン(916年 - 923年)
- ジャファル・イブン・ハサン(916年 - 924年)
- ムハンマド・イブン・アフマド(924年 - 927年)
- ハサン・イブン・アフマド(927年)
出典[編集]
- ^ a b c d Madelung, W. (1985). “ʿALIDS OF ṬABARESTĀN, DAYLAMĀN, AND GĪLĀN”. Encyclopaedia Iranica, Vol. I, Fasc. 8. London u.a.: Routledge & Kegan Paul. pp. 881–886. ISBN 0710090994 .
- ^ a b “علویان - لغتنامه دهخدا”. 2017年12月12日閲覧。