ムウタスィム

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ムウタスィム
المعتصم بالله
アッバース朝カリフ
Dirham of al-Mu'tasim, AH 221.jpg
ムウタスィムの銀貨
在位 833年 - 842年

出生 794年8月
死去 842年1月5日
子女 ムハンマド
ワースィク
ムタワッキル
家名 アッバース家
王朝 アッバース朝
父親 ハールーン・アッラシード
母親 マーリダ
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ムウタスィムアラビア語:أبو إسحاق المعتصم بن هارون 転写:Abū Isḥāq al-Mu'taṣim bn Harun、794年8月 - 842年1月5日)は、アッバース朝の第8代カリフ(在位:833年 - 842年)。第5代カリフで同王朝の最盛期を築き上げたハールーン・アッ=ラシードの8男。母は女奴隷のマーリダ。

生涯[編集]

カリフに即位する前は、アナトリアの軍総司令官やエジプト総督などを歴任した。

兄で第7代カリフであったマアムーンの死後、兄の子を押さえてカリフとして即位した。即位後は軍事面に力を注いだ。まず、この頃になるとアッバース朝の衰退が始まり、イラクなど各地で反乱が相次いでいたが、ムウタスィムはこれを徹底的に鎮圧した。837年アゼルバイジャンで起こったバーバクの反乱も配下の将軍・アル・アフシーン・ハイザールの尽力のもと、鎮圧している。そして翌838年には親征し、東ローマ皇帝・テオフィロス率いる東ローマ帝国軍を破ってアンカラ(アンキラ)とアンムーリヤを奪取した(アモリオンの戦い)。アラブ人はアモリオンの占領を祝し、その征服はアラブの詩人アブー・タンマームの『アンムーリヤ征服の頌歌』の主題となった[1][2]。さらに、ムウタスィムはこの軍事行動の成功を宣伝することで自身がマアムーンの正当な後継者であることを強調し、そのマアムーンの息子で甥にあたるアル=アッバースの殺害を正当化した[3]。この功績から、詩人のアブー・タンマームから偉大なるガーズィーと絶賛されている。しかし晩年の841年、『覆面の男』と呼ばれたアブー・ハルブらによる反乱がパレスチナダマスカスなど各地で発生するなど、カリフの統制力弱体化は明らかであり、アッバース朝の衰退はさらに促進していったのである。

内政面においては、ムウタスィムは836年に都をバグダードからサーマッラーに遷した。これは、子飼いのマムルークをバグダード市民との迫害から守ろうとしたためであると言われている。しかしこれを契機として、ムウタスィム以後の歴代カリフが次第にマムルークを頼るようになり、その経緯からカリフの威を借りてマムルークが横暴を振るうことが多くなってしまったことも、カリフの権威低下と王朝衰退を招く一因となってしまった。

842年に49歳で死去。ムウタスィムの死後、王朝はさらに衰退してゆくこととなった。

人物・エピソード[編集]

  • 歴代カリフの中ではかなりの巨漢であったと伝わる。
  • ムウタスィムは「8」の数字と縁の深い人物である。カリフになったのが満38、誕生日が8月、没年齢が満48、王子が8人、王女が8人、出陣した回数が8回、死去したときに国庫にあった金が800万ディルハムというものである。ちなみに彼の時代からアッバース朝は財政難にも苦しめられた。
  • 前述しているが、ムウタスィムが遷都したのはマムルークの横暴を抑えられなかったためであるが、これについても老人の1人が「暁の矢」でカリフと戦うと叫んで恐怖したために遷都したという逸話もある。ちなみに暁の矢とは悪人や暗君などに対して神罰の矢が降り注ぐというものである。

脚注[編集]

注釈[編集]

出典[編集]

  1. ^ Canard 1960, p. 449.
  2. ^ For an English translation of Abu Tammam's poem, cf. Arberry 1965, pp. 50–62
  3. ^ Kennedy 2003, pp. 23–26

参考文献[編集]


先代
マアムーン
アッバース朝
833年 - 842年
次代
ワースィク